【コテバニ】The heart's letter is read in the eyes. (目は口ほどにものを言う)【腐】 |
しまった。
虎徹はカードキーを手に、愕然とした。
凶悪事件のない平和な一日を終え、トレーニングで熱した筋肉を丁寧にクールダウンして、さあ寝ようかと布団に向かう矢先のことだった。
帰宅したまま放ったらかしにしていた携帯電話を枕元に置いて寝るのが常である虎徹は、いつも着用しているパンツのポケットに手を入れて、――愕然とした。
「返すの忘れた……」
ことの発端は昨日の夜ということになる。
野暮用でバーナビーの家を訪れた虎徹は、ついうっかり愛用のハンチングを忘れてきてしまった。そのことに、今朝気付いて、出勤途中で再度バーナビーを訪ねた。
するとバーナビーは既に家を出ていて、しかし幸いなことに家の前でばったり出会すことができた。
「……待ち伏せですか?」
バーナビーは露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
「いやいやいやいや! いくら俺でもそんなに暇じゃねーよ」
大体、待ち伏せをするくらいならわざわざ一度家に帰ったりしない。バーナビーの他愛のない戯言だ。虎徹も気軽に否定したが、今度はバーナビーがリアルに眉を顰めた。
「僕を待ち伏せするのは暇人ですか」
「そんな事言ってねぇだろ。朝からご機嫌斜めだね、バニーちゃんは」
乾いた笑いを漏らして、見た目ほど華奢でもないバーナビーの肩を叩く。
眼鏡の奥でバーナビーが目を眇めた。
「じゃあ一体、朝から何の用ですか」
初対面だと無愛想なように聞こえるバーナビーの口調にも最近はすっかり慣れてきた。
本人に悪気はないのだ。要点を的確に話すだけで、特別乱暴というわけでもない。
故意的に他人との距離をはかろうとしているところがあるようにも思えるが、おそらくそれは癖のようなものだろう。
結果的に、虎徹は気にしないことにした。その方がバーナビーのためにもなるからだ。
「これ、これ」
虎徹は頭を下げて、頭上を指さしてみせた。
バーナビーから返事はない。顔を上げると、怪訝な表情を浮かべている。
「帽子だよ! ハンチング。お前の家に忘れてったろ?」
言いながら虎徹が帽子をかぶる仕草をしてみせると、一瞬の間を置いた後、バーナビーがかっと顔を紅潮させた。
照れるなよ、と言いたくなるのをぐっと堪えて虎徹は咳払いを一つして、なんとなく物足りない気のする頭を掻いた。
「どーもアレがないと落ち着かなくてなー。悪いけど、取りに行ってくれねぇか? 多分リクライニングのあたりに……」
バーナビーの背後にそびえ立っている高層マンションを指して頼み込むと、途中で虎徹の言葉を遮るようにカードキーが差し出された。
「?」
「勝手に取りに行ってください。僕は先に出勤しますので」
顔を背けたバーナビーが、カードキーを押し付けてくる。
「いや、でもほら、お前、勝手に……」
勝手知ったる他人の家、とはいえ主の不在に入り込むのは気が引ける。
これがいつも部屋を散らかしているロックバイソンの部屋ならば虎鉄だって気にはしないが、他ならぬバーナビーの部屋だ。本当なら他人を招き入れること自体、好まないだろう。
「何を今更。盗られて困るようなものもありません」
「何も盗りゃしねーよ! しかしな、お前……そんなに急いでるのか? それなら別に、帰りでも……」
ぐい、とカードキーをひときわ強く押し付けたバーナビーが、虎徹の手にカードキーを預けてぱっと身を翻してしまう。
思わずカードキーを取り零しそうになって慌てて取り直した虎徹が顔を上げるより早く、バーナビーは立ち去ってしまった。
その後ろ姿の、耳元が赤い。
まるで彼自身のヒーロースーツと同じように。
かくして、帽子を回収するためにバーナビーの部屋に入ったはいいが、そのまま――カードキーを返すのを忘れてきてしまった。
もう夜も深いが、これを明朝までに届けなければバーナビーは家を出るに出られないんじゃないか。バーナビーが家を出る前、早朝の内に届けに行くことが出来ればいいが、もし虎徹が寝坊でもしたら、バーナビーまで遅刻させてしまうことになる。
何より、他人の家の鍵を持っているなんてどうにも落ち着かない。
虎徹はあれこれと考えるよりも前に家を飛び出していた。
もうバーナビーは眠ってしまっているかもわからない。それなら、連絡せずに行くべきだろう。
ちょっとしたトレーニングだと思えば苦でもない距離のジョギングだ。
◆ ◆ ◆
インターホンを鳴らすと、間もなくバーナビーが応答した。
『……どうしたんですか、こんな時間に』
バーナビーはまだ寝る前だったようだ。相変わらず調べ物でもしていたのか、顔が疲れている。
虎徹はばつの悪い思いで首を竦めると、持参したカードキーを掲げて見せた。
「悪ぃ、鍵を借りたまんまだった。これがないとお前明日の朝困るだろーと思って」
さすがに他人の家の鍵を借りたことを忘れてしまうなんて、だらしがないと言われても仕方がない。悪用しようと思えばできてしまうし、まさか虎徹が鍵を無くしてしまうなんてことがあれば、鍵を取り替えるのにかかる費用の賠償問題だ。
本っ当にすまん、とインターホンに向かって頭を下げたが、バーナビーの返事はない。
「……、?」
恐る恐る顔を上げると、モニターにバーナビーの姿はない。
あれ、と声を上げる寸前で、目の前の扉が開いた。
「――そんなもの、明日で良かったのに」
夜分に訪ねた虎徹を見下ろしたバーナビーの瞳が和らいで見えた。
「いや、これがないと思え明日困ると思っ……」
バーナビーの胸にカードキーを差し向けて、言葉の途中で――はたと気付いた。
どうして、バーナビーが家の中から出てきたのか、という謎に。
「あ」
「……ようやく気が付きましたか」
目を丸くした虎徹に、バーナビーが盛大に溜息を吐く。
バーナビーが無事帰宅できたということは、鍵がもう一つあるということだ。カードキーがこれきりなら、今日帰宅した時点で虎徹に連絡があったはずだ。
「なぁんだー……そうだよな、そうだ……」
急にジョギングの疲れが出てきた気がして、虎徹はその場でがっくりと項垂れた。
せめて家を出る前に連絡の一本でも入れておけば、無駄足を踏まずに済んだということか。いやしかし、どうせ返しに行くものだからと思って出てきてしまった。
「わざわざ走ってきたんですか?」
両膝に手をついた体勢からバーナビーの顔を仰ぐと、バーナビーが呆れて笑っているように見えた。
扉を開けて迎えられた時から何の確証もなく感じていたことだが、どうもバーナビーは疲れているようだ。それも、精神的に。
本来なら急を要するでもないものを夜分に届けられたら険しい表情をするだろうバーナビーが、見ようによっては柔らかい面持ちで迎えたことからして、どうにも様子がおかしい。
「――いや、まあ……良いか、明日返すものが今日になっただけで」
「どうぞ」
気を取り直して背を起こした虎徹がカードキーを改めて渡そうとすると、扉の前でバーナビーが踵を返した。
「……え?」
虎徹を玄関先に置いて、だだっ広い部屋の中へ足早に戻っていってしまう。
「おっ、おい、バニー……」
「水くらいご用意しますよ、どうぞ」
バーナビーは振り返らずに言って、キッチンに消えてしまった。
昨夜ぶりにバーナビーの部屋に通された虎徹は、座りの悪い思いで窓際に立ち尽くしていた。
「どうかしましたか」
グラスを二客と、ペリエを一本運んできたバーナビーがそれを怪訝そうに窺う。
どうかしたかも何も、バーナビーにだってわかりそうなものだ。しかしバーナビーがそれで素知らぬ顔をするというなら、それでいい。
虎徹は首を竦めて、気分を変えた。
「いいや? 何も」
窓際を離れ、リクライニングに向かう。
軽いジョギングと言っても、さすがに足が重い。休んで行けと部屋の主人に言われたんだから、心置きなく休ませてもらうか。
炭酸水を注ぐバーナビーの傍らで腰を下ろすと、革がギッと軋む音を立てた。
「っ、」
バーナビーが手元を狂わせて、息を飲む。
そのせいで、虎徹の脈も乱れた。
――気にしないふりを徹底できないなら、気にしないふりなんてやめちまえばいいのに。
虎徹はそう言いそうになるのをぐっと堪えて、ずっと手に持ったままだったカードキーを机に伏せた。
「これ。うっかり持って帰っちまわないようにしねーとな」
それじゃ本末転倒だ、と声を上げて笑うと、バーナビーがグラスを差し出した。
「――別に、」
バーナビーの声は静かで、落ち着いている。必要以上に。
本当は胸の内に激しいものを抱えているのに、それを押し隠すから他人よりもクールに演じている。
虎徹はそれを暴いてやろうと思うわけじゃない。誰だって、知られたくない本性の一つや二つはある。若い内ならなおさらだ。
だけど、バーナビーはそれを隠しきれていないから気にかかる。
どんなトラブルにも冷静に対処すると見せかけておきながら、ウロボロスのこととなるとまるで周囲が見えなくなる。
他人を突き放して、周囲と壁を作って独りになろうとするくせに、寂しそうな顔をする。
「別に、カードキーならスペアがあるから構いませんよ」
バーナビーは鼻の上の眼鏡を直しながら、涼しい表情を作って言った。
「……そりゃ、どういう意味だ?」
尋ね返しても、バーナビーは視線を逸らしたまま黙り込んでいる。
言葉を探しているようには見えない。もしバーナビーが本当に言葉を返そうと思うなら、時間は必要としないはずだ。
バーナビーは嘘を吐くのが上手いくせに、時折それを放棄する。
「こんなもん持たせたら、おじさん入り浸っちゃうぞ?」
ひとつ溜息を吐いた後で虎徹が体を前に倒して腕を伸ばすと、バーナビーの手を容易に捕まえることができた。
「!」
驚いたようにバーナビーが手を引こうとするが、遅い。
冷えたバーナビーの手を両手で掴んだ虎徹は、嫌悪感を表すように眉を顰めたバーナビーの顔を仰いだ。
屋外の喧騒も届かない、物音一つない部屋の中で、バーナビーがいつもただ一人、何を考えて暮らしているのか、虎徹は知らない。
バーナビーがこの二十年間、どんな気持ちで生きてきたのか、虎徹にはわからない。
しかし、バーナビーがずっと抑えてきた衝動を吐き出す場所を欲しがるなら、自分が受け止めてやれるという自信はある。
自分以外にはいない、とは思わない。選ぶのはバーナビーだと思っている。
虎徹は眼鏡の奥に秘められたバーナビーの眼を見つめた。
最初はわずかに揺れたバーナビーの視線が、伏せられて、虎徹を見返す。
――バーナビーがそっと虎徹の手を握り返した。
説明 | ||
初夜の翌日、といった感じです。この前後を書きたいなー。 | ||
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