Michelle |
あのひとに出会ったのは、月の欠けた夜でした。
この酒場には、たくさんの思い出が残ってる。
生まれた時に母を亡くし、父は男手一つで私を育ててくれた。
とても優しい人で、馬鹿が付くほどお人好しで。
子供の頃からずっと、この人は私が守らなくちゃいけないんだって思ってました。
ここは、父が私に残してくれた大切な場所なんです。
……。私が、聖下と同じ年の頃です。
まだ年若かった私は、父の仕事を手伝うのは昼間だけで、夜は禁止されていたんです。
けれど、その日はとっても忙しくて。必要ないって言われたのに、手伝いに出てしまった。
そうしたら、まんまと酔っぱらった魔狩人に絡まれちゃって。
いまでもはっきり覚えてます。五人の魔狩人が、薄ら笑いを浮かべて、私を囲んだこと。
父はすぐに気付いて、助けに来てくれた。でも、大きな男に突き飛ばされてしまって。
……信じられます?
たったそれだけのことで、父はもう二度と立ち上がることはなかったんです。
頭を強く打って、それでおしまい。私は泣き叫んだけど、魔狩人はみんな笑ってました。
とても怖かった。その時は魔狩人よりも、父が動かなかったことが怖かった。
いつもは笑って振り返ってくれる父が、喉が裂けるほど叫び呼んでも、反応してくれなくて。
あの時、ラ・ファエル様が来て下さらなかったら、私もどうなっていたかわかりません。
……まぁ、聖下。そのように仰っては、ラ・ファエル様が可哀想。
私を心配して、それからしばらく、毎日のように通って来て下さったんですよ。
お仕事を黙って抜け出していたらしくて、探しに来たセ・ラティス様に、怒られていましたけど。
店は……しばらく開けることが出来ませんでした。
情けないことに、その事件が切っ掛けで、男性が怖くなってしまって。
外に出るのも辛くて、ラ・ファエル様が会いに来て下さっても、ほとんど部屋に閉じこもってました。
父が死んで、一週間ほど経った頃でしょうか。夜、誰かが窓に小石を投げるんです。
ラ・ファエル様かと思って、そっと外を確認すると、大きな袋が置かれていて。
そこには、たくさんの果物や飲み物が入ってました。
ノートの端を千切ったような紙が添えられていて、そこにミシェル嬢へって書いてあるんです。
真っ赤なリンゴが、とても美味しそうでした。……甘い香りに誘われて、一口、齧ってみたんです。
そうしたら、止まらなくなっちゃって。涙が出て来て、泣きながら頬張って。
ふふ。おなか空いてたんですね。そんなこと、全然、気が付かなかった。
翌日も、その翌日も、小石の音がするたびに、玄関の前には食べ物が置いてありました。
一度だけ、いつも袋が置いてある場所に、こっそり手紙を置いてみたんです。
……ありがとう。とてもおいしいです。その一言だけ。
そうしたら、次の日『よく噛んで食べて下さい』って書かれた紙が入ってて、ちょっと笑ったのを覚えてます。
ほんの少しだけ、元気を貰えました。それなのに私は、やっぱり外に出ることが怖くて。
このままじゃいけないってわかってたから、朝早くまだ誰もいない時間に外に出てみようと思いました。
閉じこもって二週間目に、ようやく外に出たんです。
空気は少しだけ冷たくて、呼吸すると体内が浄化されていくような不思議な感覚を味わいました。
……人の気配を感じて、すぐに家の中に逃げてしまったんですけどね。
次に、ラ・ファエル様と会ったんです。私の声も手も、すごく震えてました。
怒られるんじゃないかって、思ってたから。
何度も来て下さっているのに、私は扉を開けることも返事をすることもしなかったから。
でも、ラ・ファエル様は何事もなかったかのように笑って下さって。
そうそう、あの花の髪飾り。
故郷で女の子に貰ったものらしいんですけど、私が怖がらないように付けて来て下さったんですよ。
次はドレスで来ようかな……なんて、そんなことも仰ってましたね。
頷いたら本当に着て来るんじゃないかと思って、断りましたけど。
セ・ラティス様は、ラ・ファエル様と交代で来て下さいました。
二人で会ったら、私が怖がると思ったみたいで……え? まぁ、聖下ったら。
セ・ラティス様がリボンなんて付けて来たら、別の意味で怖くなってしまうでしょう?
それから、また日が経って……店を開けようと、決心しました。
折角、父が残してくれた場所を、失いたくはなかったんです。
魔狩人はまだ怖かったし、ひとりでどこまで出来るかわからなかったけど、やらないわけにはいかなかったから。
だけど、決心だけで物事が都合良く進むわけないんですよね。
店が開けば、昼間だって魔狩人は来る。
みっともない。たったひとりの魔狩人が入って来ただけで、私、逃げてしまって。
決心が足りなかったのかなって、鏡に向かってもう一度、心を決めて。
でも、駄目だった。店に出ては逃げての繰り返し。
徐々にお客さんは別の酒場に流れてしまって、いざ開いても子供がお使いでお酒を買いに来るくらい。
当然です。仕方ないことなんです。……それでも、悔しかった。
また部屋に閉じこもって、ひとりで子供みたいに泣いてました。
……実際、子供だったんですけどね。自分の不甲斐なさを棚に上げて、まるでこの世の不幸をすべて背負ったかのように泣いて。
ああ、思い出すと恥ずかしい。聖下、他のひとに言わないで下さいね。
……はぁ。過去に戻れるなら、あの時の私を蹴飛ばしてあげたい。
それでも、そんな情けない私だったからこそ、黒猫は来てくれたのかも知れないけれど。
ふふ。ええ、黒猫です。
しなやかで美しい黒猫が、窓の向こうから私を見ていたんです。
「お前、どこから来たの?」
声をかけると、猫は何度かゆっくりと瞬きをしました。
「入っていいのよ。どうせ、私ひとりしかいないから」
猫は部屋に入ると、一歩、こちらに向かって足を進めました。
そうして、じっと私を見ていたんです。
あまりに見つめて来るから、猫相手なのに泣き顔が恥ずかしくなってきて。
「何よ。馬鹿にしてるの? 笑いたきゃ笑いなさいよ」
鼻をずるずるさせながら、猫に吐き捨てたら……どうなったと思います?
「……こんなにも美しい涙を、どうして笑えます」
猫が、喋ったんです。しかもまるで、絵本の中の王子様のような台詞を。
驚いて、涙が止まりました。……一緒に、息まで止まりましたけど。
口をぱくぱくさせていたら、猫はまた窓辺に戻って、
「怖いですか?」
そう聞くんです。
私は答えず、ただ聞き返しました。
――――ヴァンパイア?
猫は月の光を浴びながら答えました。
「貴女が望むなら、僕はどんな姿にでも」
いまでも、はっきり覚えています。
あのひとに出会ったのは、月の欠けた夜でした。
淡い光に浮かぶ、異質なまでに美しいひと。
ヴァンパイアの皇子。愛しい、風哭様。
「こんばんは、お嬢さん。……どうして、泣いているんだい?」
優しい声だった。穏やかで、痛みを拭ってくれるような声。
不思議ですよね。父とは似ても似つかないのに、まるで父の声を聴いているようでした。
あれがヴァンパイアの力だと言うのなら、私に逆らえる術はありません。
「……君の声を、聞かせて」
催眠術にでも掛かっているかのように、私は言葉を吐き出しました。
恥ずかしいとか、その時は何も考えられなくて、気が付いたらまた涙が溢れていて。
苦しくて、どうしたらいいかわからない。
泣いても泣いても、痛みが取れない。
私には、何もできない。
私のせいで、父は死んだのに。
言うことを聞かずに、ごめんなさい。
私のせいで、ごめんなさい。
お父さん、ごめんなさい。
お父さん、お父さん。
大好きだったの。寂しかったの。
いつも守ってくれていたのに、当たり前のことのように過ごしてたの。
守っているつもりで、守られていることに、気が付かなかったの。
お父さん、ごめんなさい。
許して、お父さん。
謝罪の言葉を繰り返しながら、私はずっと泣いていました。
頭を撫でてくれる手が優しくて、会ったばかりの風哭様に抱き着いて、赤ん坊のように。
風哭様は、それからもたびたび私のもとを訪れて下さいました。
血を口にして下さったのは、数年経ってからでした。それも私から望んだんです。
少しでも力になりたかった。私にできるのは、それくらいだったから。
……そうですね。風哭様と過ごすのは、時間を忘れてしまうくらい楽しい。
色々なお話を聞かせて下さったし、大切なお姉さまのお話もして下さった。
魔狩人が怖くなくなったのも、風哭様のお陰なんです。
ふふ。だって風哭様ったら、こう言うんですよ?
君が怖れるのも、当然だ。理解が出来ない物ほど、怖ろしいものはないからね。
だけどこれだけは言える。男など、百害あって一利なしだ。
ほんと、ひどいですよね。思わず私がフォローしてしまったくらいです。
私を育ててくれた父も、気遣ってくれたラ・ファエル様やセ・ラティス様も、こうして会いに来てくれる風哭様も、男性です。害なんて、どこにもありません……って。
風哭様は笑って、私の言葉に一言、付け加えました。
窓に小石を投げている連中も?
最初は何を仰っているのか、わかりませんでした。
私、ずっと小石のひとは、ラ・ファエル様だと思っていたんです。だけど本当は違った。
ある夜、玄関で待ち伏せをしてみたんです。
物音がして、すぐにドアを開けたら、目を丸くして驚いているひとたちがいて。
……魔狩人でした。昔から、うちを贔屓にしてくれていた人たちで、私も顔は知っていました。
関係なんてないのに、その場にいられなかったこと、助けられなかったことを……謝ってくれました。
おかしいですよね。
怖がっていたものに、私はたくさん支えられていたんですから。
ええ。違うんです。なんだって、そうなんです。
私たちは、つい一括りで考えてしまうけど、それは間違いなんです。
心はみんなそれぞれに持っていて、決して同じではないのだから。
……けれど、理屈だけで生きていけるほど、ひとが強くないのも事実です。
風哭様と会わなかったら、私は部屋の中で一生を終えていたことでしょう。
あの方は、私を導いてくれた。自分から、答えを見つけ出せるように。
…………。
もちろんです、聖下。私は、あの方を愛しています。
ですが、それが永遠ではないことも、わかっているんです。
私だけではありません。終わりがあることを『恋人』は、みんな理解しています。
泣きそうな顔をなさらないで。私たちは、幸せなんです。
別れが訪れても、あのひとから貰った強さは消えない。
聖下は、知っていますか? 彼らと私たち『恋人』の契約の言葉。
私たちは、投げかけられた言葉に『はい』か『いいえ』と答えるだけ。
ええ、それだけです。ただ一言、何の力もない。
けれどそれは、破られることのない絶対の契約。
――――私は『はい』と答えたんです。
『生まれ運命られた時を、生きると誓いますか?』
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『あのひとに出会ったのは、月の欠けた夜でした』.....ミシェルのお話。 | ||
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