死に至る病 |
第1章「契約」
ガソリン特有の、鼻を突く刺激臭。
しわぶき一つ見出せない、静まり返った精神の水面へと滴り落ちたその一滴が、水底深くに横たわっていた彼女の意識を揺さぶり、現実へと引き戻した。
ゆっくり目を開く。
最初に映し出されたのは、薄暗がりの中に浮かぶ暗灰色の何かだった。
何だろう。
そんな至極当然ともいえる疑問を抱いた彼女は、その正体を確かめようと手を――
「あぐっ!」
突然肩に、ハンマーで力任せに殴りつけたような猛烈な痛みが襲った。
ビクリと身体が、麻痺したように跳ねる。
それがきっかけで今まで落ちていた痛覚のスイッチが入ったのか、頭頂部から爪先まで、神経の張り巡らされた全身のありとあらゆる部分が、悲鳴を上げる口がない代わりとばかりに痛みを発し始めた。
特に酷かったのは、右足だった。
足首から先が、万力に挟まれて潰されたような激痛を発しながら止めどなく意識を苛み、削り落としてゆく。
歯を食いしばり、必死に彼女はその拷問に耐えた。
そして、自分の足がどうなっているのか確かめようと視線を巡らせかけ……だが途中でその行為を中断した。
何故なら、見れば後悔すると思ったから。
間違いなく絶望する。
理性でなく本能が、そう訴えかけてきていた。
この世に生を受けてまだ十数年に過ぎない彼女が、本能から発せられるその警告に抗う術を持ち合わせているはずもなかった。
代わりに痛む右肩に左手を当てると、ぬるりと指先に生暖かい感触を覚えた。
内心で嫌な予感を抱きつつ、ゆっくり手を眼前にさらしてみる。
すると、手のひら一面が赤一色に染まっていた。
水気を帯びたそれは、糸を引くように手首から腕へと幾筋もの紅の軌跡を生み出し、肌を虫が這うようなその感触に彼女は言葉にし難い嫌悪感を抱いた。
「ひっ!」
その正体が何かは、考えるまでもなかった。
もうやだ……どうして私……こんな……年端も行かぬ少女が受け止めるにはあまりに重すぎる現実を前に、瞳から自然と涙が溢れるのを止めることができなかった。
頬を伝い落ちる涙滴によって、急速に滲んでゆく視界。
涙を拭うことすらできないまま視線を泳がせた彼女は、やがて視界の一角から光が射し込んできていることに気付いた。
目を凝らすと共に輪郭をハッキリさせていくその光景が何か、彼女は知っていた。
車の中だった。
後部座席から、運転席と助手席の間を通して見るドライバーズビュー――眼前に広がっていたのはまさにそれだった。
だが、すぐその光景に違和感を抱く。
何かが欠けている気がした。
痛みと失血のせいで思考能力が落ちているのか、その違和感の原因になかなかたどり着けなかった彼女だったが、肌を撫でる風の存在でようやく気付く。
ガラスがなかった。
本来大きな一枚ガラスに覆われていたはずの場所から肝心の物が姿を消し、ポッカリ空いたそこから風が吹き込んできていた。
彼女の意識を強引に呼び覚ましたガソリンの臭いは、どうやらそこから風に乗って入り込んできたらしかった。
真っ白だった台紙の上にパズルのピースが一つまた一つと埋まってゆくにつれ、少しずつ記憶がハッキリしてくる。
そう――確か今日は、外出をしたのだ。
普段仕事が忙しくなかなか休みの取れない彼女の父親が、珍しくまとまった休暇が取れたのをきっかけに、家族揃ってドライブに出かけたのだった。
楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。
行き先こそどうということのない郊外の森林公園だったが、普段滅多に揃うことのない家族全員で外出した事実こそが、何より重要だった。
皆で昼食を食べ、芝生で大の字になって午睡を満喫し、小鳥のさえずりに耳を澄ませながら森を散策して……両親と共に過ごし、脳裏に刻んだ記憶こそが何より大切な宝物だった。
そして帰路、夕食に何を食べようかと話していた最中に、それは起こった。
前触れなしにいきなり「パン!」と何かの弾ける音が鼓膜を震わせた次の瞬間、前方の車列が乱れた。
ことの推移を何ひとつ理解できないうちに、目の前を走っていた車が見えない壁にぶつかったように軽々と宙を舞い、見る間にその姿を大きくしてゆく。
そして、視界が塞がれた後に全身をもみくちゃにされ――覚えているのはそこまでだった。
事故に遭ったんだ……過去に遊離していた彼女の意識は喪失環を手に入れ、やがて現在へと舞い戻る。
鼻を突く刺激臭と今なお全身を苛み続ける痛み、それらはすべて交通事故によって生じた結果だったのだ。
彼女は、そこでようやく思い至る。
後部座席にいた自分ですらこの有り様だとしたら、前席にいた両親が果たしてどんな事態に陥っているのかを。
「パパ……マ――」
かすれ気味な声で紡ぎかけたその言葉は、だが最後まで発せられることはなかった。
運転席に、人影はあった。
そこにいるのはドライバーを務めていた父親のはずだったが、そのシルエットは彼女が見慣れている物と少しだけ様相を異にしていた。
槍のように細長い何か。
それが父親の胸部に深々と突き刺さり、その身体は昆虫標本のごとくシートに縫い付けられていた。
勢い余ってシートを突き破った槍のような何かは後部座席にまで達し、その柄は赤黒い何かでべったりと汚れていた。
身じろぎ一つ見せないその姿に、生の鼓動は感じられない。
そこにあったのは彼女にとってかつて父親だった物であり、今では精神の抜け殻と化した肉の塊に過ぎなかった。
助手席にいたはずの母親の姿は、影も形もなかった。
理由は考えるまでもない。
車外に出れば近くにその姿を見出せるに違いなかったが、そこにあるのは目の前の父親同様かつて母親だった物の残滓に過ぎなかった。
彼女は独りだった。
まだ両親に庇護されるべき年齢だったはずの彼女は、今や誰一人頼る術のない孤独の淵に追いやられてしまったのだ。
心の奥底から、どす黒い雲が湧き立つ。
同時に意識がすっと薄れ、途切れそうになる。
それは怪我による大量の失血のせいなのか、あるいは許容量を遙かにオーバーした精神への衝撃のせいなのか――恐らくその両方なのだろう。
自分も死ぬのだろうか。
ともすれば風に吹かれたロウソクのように、一瞬でかき消えそうになる意識を必死に保ち続ける中で浮かんだのは、そんな思いだった。
胸を穿たれ、こと切れた父親。
車外に投げ出され、骸と化しているだろう母親。
そんな二人の後を追って、自分もこのまま息絶えてしまうのか。
まだたった一二年しか生きていないのに、まだ何にもなれていないのに……自分という存在は、このまま終わりを迎えてしまうのか。
「……やだ」
しばしの沈黙の後、絞り出すように紡がれた言葉。
それは、彼女の本心だった。
死にたくなかった。
生きていたかった。
終わりたくなかった。
続けていきたかった。
だが、その為にどうすればいいのかが分からなかった。
ここから逃げ出そうにも、今なお全身を襲い続ける痛みで身体を起こすどころか、身じろぎすら困難だった。
視界が滲む。
止まっていた涙が再び溢れ始め、頬を伝い落ちてゆく。
それは痛みに耐えかねた身体が発した悲鳴であると同時に、死を眼前にした精神が発した慟哭だった。
少しでも油断すれば、すぐにも途切れそうなくらい意識は細まっていた。
だが……それでも、彼女は生きたかった。
死への誘惑より、生への渇望が大きかった。
「助けて……」
痛みをこらえ、歯を食いしばりながら魂を削るがごとく呟く。
かろうじて彼女の意志に従って動く左手を、ガラスの砕け散ったドアの窓越しに広がる青空に向かってゆっくりと伸ばしながら。
「誰か……助けて」
死の臭いが満ちた世界のただ中にありながら、なお何かに――誰かに縋るように。
祈るように。
願うように。
「その言葉は本当かい?」
唐突に声がしたのは、その時だった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
幻聴かと思った。
死を恐れ生に縋るあまり精神が、ありもしない妄想を自らの心の内に生み出した……そう思ってしまったのだ。
「巴マミ」
そんな疑念を嘲笑うように、再びの声が耳を打つ。
間違いなかった。
誰かが、すぐ近くにいた。
何故自分の名前を知っているのかという、当然ともいえる疑問すらその時の彼女――マミには思い浮かばなかった。
その刹那、彼女の脳裏に閃いたのは「助けが来た!」という、そんな希望に満ち溢れた思いだけだった。
自分の願いが、祈りが届いたのだ。
顔を上げる。
失血のせいで機能が落ちているのか、ほんの一メートル先にあるはずのその姿を彼女の双眸は、最初ぼんやりとしたシルエットでしか捉えることができなかった。
何かがいた。
だが、それが何なのかまでは分からない。
細切れになりかけた心の欠片を必死にかき集め、視覚に意識を集中する。
やがてようやく結像させることができた声の主の姿を目の当たりにしたマミの思考は、どうしようもない混乱に見舞われた。
そこにいたのは、彼女が期待した救いの手ではなかった。
あろうことか、人ですらなかった。
割れ落ちたドアの窓枠にちょこんと座り、紅のつぶらな瞳を真っ直ぐ彼女に向けてきているのは……猫とおぼしき何かだった。
猫と断言できないのは、その姿形が彼女が知る猫とは微妙に異なっていたからだ。
そもそも猫は人の言葉を解さないし、喋ることもない。
だが、そこにいた猫もどきは人語を操った。
誰かが物陰に隠れて、腹話術よろしく彼女を騙そうとしているのでなければ今、マミの名を口にしたのは眼前の猫もどき以外にあり得なかった。
異常としか言いようのない現実。
もし彼女がまともな精神状態でこの状況に遭遇していたら年相応の恐れを抱き、悲鳴の一つも上げたに違いなかった。
手足が自由だったなら、その場から逃げ出していただろう。
だが……今の彼女は普通ではなかった。
酷たらしいまでの家族の死に直面し、遠からずその輪の中に自分も加わるかもしれないという、極限の恐怖の最中にあった。
その精神は、既に許容量の限界に達していた。
ありていに言うなら、パンク状態だった。
だからだろう、目の前にいたのが人でないことに驚きこそしたものの、それ以上の感情を抱くことはなかった。
猫のような生物が。
自分の名を呼び。
何か問いかけている。
そんな脈絡のない文節の組み合わせを何の違和感もなく脳裏で反芻し、当然のように受け止めていた。
「あなた……誰?」
かすれる声で、マミは誰何する。
「僕はキュゥべえ」
キュゥべえ……頭の中でその名を口ずさんでみる。
その不思議な存在は、容姿のみならず名前も不思議だった。
そんな、マミの安否を気にした風もないキュゥべえが次に口にした言葉は、より一層理解に苦しむ物だった。
「君は、その自身の祈りのために魂を賭けられるかい?」
祈り?
魂?
賭ける?
あまりに唐突すぎて、マミには彼の――その語り口から、彼女はキュゥべえを雄だと決めつけていた――言ってることが理解できなかった。
だが当のキュゥべえは、返答に窮するマミのことなどお構いなしといった様子で、淡々と言葉を続ける。
「巴マミ、君が当惑するのは当然だ。本当なら僕も、もっと順を追って説明した上で結論を出してもらいたいところなんだけれど……生憎、君に残された時間は少ない」
時間がないことは、マミにも分かった。
恐らく今、かろうじて保たれているこの意識が途切れてしまったら、もう二度と再び繋がることはない。
ロウソクが消える前の、最後の輝き。
まがなりにもこうして言葉を紡げているのは、キュゥべえという不可知な存在を目の当たりにしたことで、一瞬だけ精神が高揚しているからだ。
そしてそうであるが故に、長くは続かないはずだった。
「戦いの運命を受け入れてまで、叶えたい望みがあるなら――」
間を取るようにそこで一旦言葉を切ったキュゥべえは、パチパチと目を何度か瞬かせた後、
「僕が力になってあげられるよ」
フサフサした大きな尻尾を振りながら、思いもよらぬ一言を口にした。
驚きに大きく目を見開いたマミは、
「助けて……くれるの?」
「僕が助けるんじゃない。君が、君自身の祈りで助かるんだ」
「私の……」
「君の祈りが魂を賭けるに値する物なら、戦いの運命を受け入れる代償に釣り合う物なら、君には奇跡という名の対価が与えられる」
奇跡。
もし、それが叶うなら。
彼の言う奇跡が、この身に舞い降りるなら。
このただ痛みを発し血を流すばかりのボロボロの身体も、遠からず訪れる死を待つばかりの絶望の淵に立たされた精神も、救われるというのか。
もしそうなら――
「私、まだ……生きられるの? 死なないで……済むの?」
「諦めたらそれまでだ。でも希望を抱き続けられるのなら、君は自らの運命を変えられる。だから――」
相変わらず冷静そのものの口調で、キュゥべえは言葉を続けた。
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
契約。
魔法少女。
それは、この場にひどく似つかわしくない言葉だった。
少なくとも客観的に見て今わの際にある少女を前に口にするには、あまりに非現実的な代物だった。
だが今のマミにとって、そんなことはどうでもよかった。
重要なのはキュゥべえが救いの手を差し伸べようとしていること、そして理由はよく分からないが自分にはその手を握る資格があるらしいこと。
迷いはなかった。
そもそも、彼女には選択肢それ自体が存在しなかった。
キュゥべえが姿を現す直前まで、マミには「緩慢な死を迎える」というただ一つの選択肢しか与えられていなかった。
そこに突然、新たな分岐が発生したのだ。
死からの逃避。
生への帰還。
それは、彼女が希ったものに他ならなかった。
だとしたら、何を迷う必要があるのか。
「さあ、教えてごらん。どんな祈りで、君は奇跡を起こすんだい?」
「私は……」
一瞬言い淀み、視線を落とすマミ。
だがすぐに顔を上げると、全身を襲い続ける痛みに表情を歪めながらキュゥべえに向かってもたげた手を精一杯伸ばすと、
「私、生きたい! まだ……死にたくない!」
そう、懇願するように言い放った。
「…………」
キュゥべえは、マミのその言葉を無言で受け止めた。
静寂が流れる。
ともすれば永劫とも思えるほどの沈黙が続いた後、先に声を発したのはマミの方だった。
「くぅっ!」
突然、胸が苦しくなった。
心臓を見えない手で鷲掴みされたような、そんな違和感が彼女を襲う。
総毛立つような気色の悪さ。
それは今まで感じていた痛みとは、まったく次元の異なる代物だった。
全身の血があり得ないくらいの猛スピードで循環し始め、渦を巻きながら徐々に身体の中心へと集まっていくような感覚。
自分の身体が自分の物でなくなったような、そんな感覚。
身体の痛みも忘れて、マミはその場をのたうち回る。
できることなら胸の肉を引き裂き、そこに手を突っ込んで掻きむしりたくなるほどの苦しみであると同時に、気味の悪い感触だった。
「契約は成立だ」
もだえ苦しむ彼女を悠然と見下ろしていたキュゥべえの言葉が、耳を打つ。
同時に、胸の違和感が一層強まる。
「あぐ……んんっ!」
苦しみが頂点に達したその瞬間、彼女の胸元から淡く光り輝く球体が現れたかと思うと、音もなくゆっくりと浮かび上がっていった。
「さあ、受け取るといい」
ようやく体内の違和感が治まり、額に脂汗を浮かべながら息も絶え絶えといった様子で呼吸を繰り返すマミをよそに、キュゥべえは呟く。
薄目を開けたマミは、鈍い明滅を繰り返す光球が浮かんでいるのを目の当たりにした。
それはまるで空に輝く太陽のように、自身の内から黄金色の輝きを発していた。
何故か彼女は、その穏やかな輝きを以前にも見たことがあるような、そんな既視感のような物を抱いてしまう。
近しい者に感じる親しみ――そんな印象。
つい先刻まで止めどなく襲い続けていた肩と足の痛みは、いつの間にか消えていた。
嘘みたいに身体が軽かった。
ゆっくり両手を持ち上げるマミ。
彼女の抱擁を今や遅しと待ち受けるように、淡い黄金の光芒を発する卵ほどの大きさの球体に向かって。
「それが、君の運命だ」
キュゥべえの声が耳を打つ。
運命。
これが……私の。
それが何を意味しているのか、マミには分からない。
分かるはずもなかった。
だが今、自分が何をすべきなのかだけは分かった。
だからマミはキュゥべえの言葉に従い、伸ばした両の手のひらで、眼前で輝き続けるその球体をゆっくりと包み込んでゆく。
そして彼女は、己が運命を手ずからの物とした。
鍵を開ける。
開いたドアの先にあったのは暗がりに覆われた廊下と、人の気配をまるで感じさせないひんやりとした空気だった。
俯き気味に視線を落としたまま中に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉じる。
そのまま、その場にじっと佇む。
こうして待ち続けていればもしかしたら家の中から誰かが姿を現し、彼女の帰宅を迎え入れてくれるかもしれない――そんな淡い期待を抱きながら。
キッチンで、晩ご飯の支度をしていた母親が。
リビングで、珍しく定時上がりでくつろいでいた父親が。
玄関に愛娘が帰ってきた気配を察した二人が、ひょいと顔を覗かせ「おかえり、マミ」そう言ってくれることを期待して。
だがどれだけ待っても、中から誰かが姿を見せることはなかった。
帰ってくるのは、無慈悲な静寂だけだった。
当然だった。
ここは、彼女の家なのだから。
巴家ではなく、巴マミ独りの家だったから。
靴を脱ぐ。
「ただいま」
その一言は口にしなかった。
何故ならそれを口にしたところで、帰ってくるのは無言と沈黙と静寂だけだということが分かっていたから。
それが悲しかった。
寂しかった。
廊下を一歩進んだところで不意に足を止めた彼女は、再び顔を俯かせる。
瞳にじんわりと涙が滲んで来るのが、自分でも分かった。
泣いても誰も慰めてはくれない。
誰も気遣ってはくれない。
抱き締めてはくれない。
そんなこと誰に言われずとも分かりきっていたはずなのに、それでも涙がこぼれ落ちてくるのを、マミは抑えることができなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
どうして独りぼっちになってしまったのか。
たった一つの出来事。
楽しかった家族の団らんを粉微塵に打ち砕いてくれた……交通事故。
それが、今までそこにあるのが当たり前だった「平穏な日常」と言う名の幸福を過去の領域に押しやり、見知らぬ世界へ彼女を押し流してしまったのだった。
彼女には何もなかった。
何もない自分。
何もない巴マミ。
これからどうすればいいのか。
何を縁に生きていけばいいのか。
何を目指して歩いていけばいいのか。
行く先のまったく見えない暗闇の中に独り取り残された彼女は、その答えをどこからも見出すことができなかった。
頬を伝い落ちた涙の雫が、床を打つ。
物音一つ立たないしんと静まり返った世界の中、聞こえるはずのない水の跳ねる音が聞こえたような――そんな気がした。
「うっ……くぅ……」
歯を食いしばる。
だがそんな彼女の努力を嘲笑うように、口からは嗚咽が漏れた。
泣いちゃダメだと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、瞳から止めどなく涙が溢れては床の上に次々と、その痕跡を残していった。
虚しさが心を浸食する。
惨めさが心を蝕む。
ついに我慢の限界に達した彼女は、手にしていた鞄を取り落とすとその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って今度こそ声を上げて泣き始めた。
そうすることでしか、世界に抗う術を知らない赤子のように。
失った物の大きさを噛みしめながら。
否応なしに孤独と絶望の淵に立たされた、我が身を呪いながら。
どれくらいの間そうしていただろう……ふと我に返ると、いつの間にか周囲には夜の帳が下りていた。
ずいぶん長い間、そうしていたらしい。
胸の奥にたまっていた澱みを吐き出し、流すべき涙も涸れ果ててしまったマミは小さくため息を吐くと、ノロノロとその場から立ち上がった。
重い足取りで、廊下を抜ける。
そうしてたどり着いたリビングには、思いもよらぬ相手が彼女の帰りを待っていた。
「おかえり」
暗がりに覆われた室内。
その中央に据えられた、瀟洒なデザインのガラス製テーブルの中央にちょこんと座す、小動物とおぼしき影。
夜の帳の中でくっきりと浮かび上がる、紅い双眸がひと際強い存在感を放っていた。
身体が動かない。
床から根が生えたように、足が動かなかった。
息をすることすら忘れてマミは、眼前の存在にどう反応すべきか分からないまま、ただジッとその姿を凝視し続けた。
そんな彼女のリアクションをどう受け止めたのか、微かに頭を傾げた影は、
「僕のこと、忘れてしまったのかい?」
その場の雰囲気に似つかわしくない、穏やかな声で問いかけてきた。
ふるふると、首を振るマミ。
忘れるはずがなかった。
忘れられるはずがなかった。
緊張のあまり、ゴクリと音を立てながら唾を飲み込んだマミは、
「……キュゥべえ」
震える声で、ようやくそれだけを口にした。
「久しぶりだね」
無言で頷くマミ。
その言葉通り、あの事故から既に二ヶ月の時が経過していた。
「あんな事があった後だから、君にも色々と片付けておくべき雑事があると思ってね。落ち着いて話ができるようになるまで、姿を見せるのは遠慮していたんだ」
「そう……」
確かに色々あった。
あれから間もなく駆け付けてきた救急車に乗せられ――彼女自身は、キュゥべえとの契約のお陰で無傷だったが――運び込まれた病院で精密検査を受け。
初めて会う「遠縁の親戚」と名乗る者に、改めて両親の死を告げられ。
その親戚の手を借りて、両親の葬儀を執り行い。
遺品の整理を済ませ。
小学校を卒業し。
見滝原中学に入学し。
そうした一連のゴタゴタが一段落して、ようやく日常と呼べる物が戻ってきた矢先に再び姿を現した、非日常の象徴とも言うべきキュゥべえ。
「それで……話って何?」
声が固くなるのが、自分でも分かった。
とはいえ別にキュゥべえに含むところがある訳ではなく、むしろ彼は命の恩人と言うべき存在だった。
ただ、その姿を見ると思い出してしまうのだ。
彼のその姿をスイッチに、マミの中に眠っている記憶が否応なしに呼び覚まされるのだ。
車内で目の当たりにした、凄惨な光景を。
全身を襲った、耐え難い苦痛を。
手のひらを紅に染め上げた、血の色を。
絶望の淵に追い詰められた、精神の闇を。
そんな心の動揺に歩調を合わせて心臓が鼓動のペースを早め始め、もう涸れ果てたと思っていた涙腺が再び緩み、彼女の視界を歪ませ始める。
「落ち着いて、巴マミ。僕は別に、君のことを取って食べたりしないから。ただ、話をしに来ただけなんだ」
「マミで……いいわ」
目を閉じ、胸元に手を当てて何度か深呼吸して徐々に心を落ち着かせていったマミは、さっきより余程落ち着いた声音でそう返す。
そして無理矢理足を動かしてテーブル前に置かれたクッションに腰を下ろすと、口元を固く引き締めながらキュゥべえと相対した。
「分かった。それじゃあマミ、早速だけれど本題に入ろう。あの時、君は僕と契約をした。そのことは覚えているかい?」
視線はキュゥべえを捉えたまま、小さく頷くマミ。
「戦いの運命を受け入れるその代償として、君は君自身の祈りを――叶えたい望みを一つ成就させた」
「戦いの……運命」
「そう。君は僕と契約することで、魔法少女になったんだ」
「魔法少女……私が?」
確かにあの時も、そんなことを言われた記憶はあった。
だがこうして改めて面と向かって言われると、その言葉にマミは強い違和感を感じずにはいられなかった。
自分は、ごく平凡な中学生に過ぎない。
運動神経にはそこそこ自信はあったが成績は中の上程度の、それこそ探せばどこにでもいる程度の存在でしかなかった。
そんな自分が魔法少女になったと、彼は言う。
何故、自分が選ばれたのか。
何故、他の誰かでないのか。
何故、何故……脳裏を次々と疑問が去来するが、今の彼女はその答えをどこからも見出すことができなかった。
「マミ。ソウルジェムのことは覚えているかい?」
「ソウルジェム?」
「あの日君の中から生まれ出て、手にした物だよ」
「それなら――」
視線を落としたマミは、左手を見つめる。
中指の根本、そこには銀色の躯体の中心に黄色い小さな宝石が埋め込まれた、凝った意匠の指輪がはめられていた。
彼女がその存在に気付いたのは、運び込まれた病院のベッドの上でだった。
それは、あの事故を無傷で乗り切った彼女の身体に生じた、唯一の変化。
自分で買った覚えも、誰かに贈られた覚えもないその指輪は、まるで最初から身体の一部であったようにフィットしていて、どうやっても指から抜けなかった。
「そこに意識を集中してごらん」
言われた通り、視線を固定しつつ左手に意識を振り向ける。
すると指輪がその姿を不定型に変え始め、見る間に膨らんだかと思うと、やがて卵形のアクセサリーへと変貌した。
「それがソウルジェム。その名の通り、君の持つ魔力を具現化した宝石だ。その力を使ってマミ、君は戦いを遂行する責務を負っている」
「戦う?」
「その通り」
「私が?」
「他ならぬ君が」
「誰と?」
「もちろん、魔女とだよ」
「そんな物が……存在するの?」
魔女――マミにとってそれは、おとぎ話の中でしか耳にしたことのない存在だった。
だがキュゥべえは、冗談を口にしている風でもなくごく自然な様子で「魔女と戦え」と、そう言った。
彼女の願いを叶えた代償として。
契約の責務として。
「魔女はどこにだっているよ。もちろんこの町にも。こうしている今も、どこかで誰かが魔女の呪いの犠牲になっているかもしれない」
「それって……」
「魔法少女が願いから生まれる存在だとすれば、魔女はその対極となる存在だ。呪いから生まれた魔女は、世界に絶望を撒き散らす。そしてその呪いは人々の精神を蝕み、怒りや妬み、誹りといった感情を生み出すんだ。最悪の場合、巻き込んだ人を殺めてしまう」
「そんな!」
「だから、それを止める者が必要になる。魔を狩る者がね。それがマミ、君なんだ」
死の苦しみ。
それがどれほどの物か、同じ苦しみを味わったマミには嫌というほどよく分かった。
今思い出しても背筋が震え、呼吸が苦しくなり、心が悲鳴を上げそうになる。
身体の傷こそ癒されはしたものの、反面あの時の出来事は彼女の心に癒し難い深い傷跡を今なお残していた。
幸運にもキュゥべえと巡り会った彼女は、ギリギリのところでその災厄から逃れることができた。
だが彼女の両親は、事故に巻き込まれた多くの人々は、そんな僥倖に恵まれることのないまま黄泉路へと旅立っていった。
それと同じことが繰り返されているという。
この町のどこかで。
この町の誰かを相手に。
マミの場合、純粋な事故に巻き込まれたに過ぎなかった。
しかし魔女は違う。
キュゥべえの言葉が正しいなら、魔女は自らの悪意ある意志によって世界に害悪を撒き散らし、何の関係もない人々の命を奪っているのだ。
許せない。
最初に思ったのはそれだった。
そして同時に思う――止めなければ、と。
何もないはずだった自分。
生き長らえこそしたものの、その先に何の意味も目的も見出せないまま、暗闇の中に立ちすくむしかなかった自分。
だが、そこに灯火が一つ灯る。
誰かを守ること。
そのために、この身を捧げること。
彼女には後悔があった。
それは、あの事故現場でキュゥべえから救いの手を差し伸べられた際、我が身を救うことだけを祈ったことだった。
人は利己的な生き物だ。
他者を労る――利他的な思いや行動とは、大抵の場合その当事者の心に余裕があって初めて成り立つ物に他ならない。
情けは人のためならず。
だから病院のベッドの上で、彼女は後悔した。
何故あの時、自分一人だけ助かることを願ったのかと。
大好きな、大好きだったはずの両親を捨て置いて、どうして自分だけが助かるような真似をしでかしたのかと。
マミ自身は無自覚だったが、その後悔の念が彼女の決意を後押していた。
利己的な願いと引き替えに手に入れた、魔法少女の能力。
もしそれが魔女と戦い、人々を守るために使えるのだとしたら、その能力を自分のためにだけは使いたくなかった。
見知らぬ誰かを――魔女の呪いで不幸の淵に追い詰められている、そんな罪なき人々を救うために使いたかった。
視界の中で、仄かに明滅を繰り返すソウルジェム。
それを真っ直ぐに見つめやりながら、唇をギュッと噛みしめたマミは小さく頷く。
迷いはなかった。
もとより彼女に他の選択肢などなかったのだが、たとえそうでなかったとしても今の彼女は何の躊躇も後悔もなく、その道を選んでいたに違いなかった。
顔を上げる。
そして、口にする。
決意を。
その一言を期待しているに違いない、キュゥべえに向かって。
「私、やるわ――魔法少女」
第2章に続く
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