【カヲシン】君の知らない物語 前
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君の知らない物語 一

 

 

 

 

 夏。

 

 また目まぐるしく過ぎていくであろう大学生活の再開を明日に控えた僕は麗らかな気候に気分を良くし、夏休みも終わりだという今日、普段は立ち寄らないような場所に腰を落ち着かせていた。

 家から十分程の距離にある喫茶店。

 前を通る度に気になってはいたがクラシカルな外観や新参者を寄せ付けないようなひっそりとした佇まいに歩を踏み入れることは躊躇していた。

 だが、今日はなにを思ったかその雰囲気すらも背中を押すきっかけとなった。

 目が覚めるといつもの起床よりも一時間程早く、気分も頗る良好。そうしてなにか落ち着くような、そう、例えば自分の好きな本を自分の好きな場所で読むような、そんなことをしたくなったのだ。

 真っ先に思い付いたのがその喫茶店だった。何度も前を通るおかげで覚えた開店時間は正午。だいぶ時間があるがそれもまた気分を浮上させるのに一役買った。

 

 大学に入るにあたり一人、暮らし始めたこの町は良く言えば閑静、悪く言えば発展せずに見捨てられたような町だった。

 寂れた商店街に舗装もままならない畦道、極め付けは交通の便が物凄く悪い。一時間に一本のバス、もといバスのように車輛連結のない電車にはもちろん快速や準急などというものはなく、ショッピングモールやチェーンを展開するカラオケ店などがある街へはゆったり揺られながら行くしかない。

 三十分程あれば着くが、なんせ電車が一時間に一本しかないとくれば行く頻度など否が応でも決まってくるというものだ。

 その上、駅近くにある十年程前に出来た最新のスーパーは八時になるとその明かりを落とした。なので大学に残り、帰ってくるころには既に頑固なシャッターが僕という侵入者を拒んでいる形だ。

 おかげで大学近くにあるスーパーで食材を買い、疲れた体になんとか鞭打ち保ちながら帰路に着くことになる。最近は自炊をする時間が惜しく、寝る時間を割り出そうと必死だった。

 大学に入ってからというもの体重が四キロばかし落ちた。単純に食が細くなったから、というのならまだ良いが、実際はストレス性の胃炎だろう。気づきたくない事実は見ないふりを決め込む。病院に割くお金など端からないのだ。

 

 こうしてあげるときりがないような欠点ばかりだが、それらを考慮に入れてもあり余るような自分の中での利点があったし、四ヶ月も住めばまぁなんとかなるな、という楽観的思考も産まれた。それはもう諦めでしょ、と言われてしまったがそこはそれ、まぁなんとかなるだろう。

 唯一の救いは家賃が安いところだった。

 安いというか経営する気があるのかと聞きたくなるような破格の安さだったのだ。六畳一間の洋室と十畳あるが家具のない所為でただ広いだけのリビングダイニングに古いが使い勝手の良いL字型のキッチンが着き、バストイレ別、収納はニ畳程のスペースが三つあり、エアコン付きで月に四万円。破格過ぎる。

 だがここらの家賃だけを見ればなかなかに上だというのには更に驚いた。五畳一間のワンルームの部屋が月に三千円、という貼り紙を見たときはなにか出るのかと疑ったものだ。

 親からの仕送りが月に十万円、そこから家賃や光熱費食費諸々を差し引いても月に四万円は確実に手元に残る。往来物欲の少ない為かそれらは殆ど使われることなく部屋で唯一鍵のかかる引き出しの中、封筒に入り毎月暈を増していたが、返そう、とは思わなかった。

 その連絡を取るのさえ億劫で仕方なかった。一人暮らしを始めた理由の大部分はそこにあったからだ。

 

 

 時計を見ると長い針があと半周したら正午を迎えるころだった。

 早く起きたお陰で溜まった洗濯物を全て干し終え、物がない所為で散らかる余地はないが汚れている部屋の掃除も済み、さぁ何時だと時計を見たら丁度良い具合の時間。そうして一通りやることを思い返し、やり残しがないとわかるとより一層気分が良くなった。

 さぁいざ行かんと財布と携帯と鍵を無造作に掴むと照り付ける陽射しの降り注ぐ外へと踏み出す。いつも持つウォークマンはいらないだろうと置いてきた。

 鍵を回しドアノブを捻り戸締まりを確認するとエレベーターのついていない三階から階段を下りた。ここで他の住人に会ったことは二度しかない。決まって同じ人に同じ時間、二度出会ったときはまた会うだろうと思ったが二週間前のそんな期待を裏切るように三度目はこなかった。それからは本当にすれ違うこともせず、たまに聞こえる物音だけが存在しているという事実に過ぎなかった。

(珍しい、雰囲気のひとだったな)

 二度だけ出会ったその人は早朝に階段を上り、一つ上の階、真上の部屋に消えて行った。人に会うこと自体初めてで、思わず凝視してしまってから気分を悪くしなかっただろうかと申し訳なく思った。

 

 建ったのは五年ほど前のこのマンションは学生向けにと目論まれていたが思っていたよりも人が入らず値下げを繰り返しこの値段になったのだと、案内をしてくれた還暦を迎えた不動産屋の方が少し考えればわかるだろうに、などと独り言然で呟いていた。確かにこの不便さではいくら学生だろうときつい、とも思ったがそのおかげでこうして安価に暮らせている僕とすればその考えの甘さはありがたかった。

 錆の目立つシャッターが連なる中に建つにはどこか垢抜け過ぎている気もしないでもないが、そんなところも気に入ってはいた。スタイリッシュな外装に似合わず「コーポひまわり」などという名前になった経緯を知りたいくらいだ。

 音を立てず左右に開く自動扉を(何故エレベーターを付けなかったのかは本当に疑問だが、それも売値を下げる要因だろう)くぐると肌を焼くような強い陽射しが瞬きを誘い思わず手のひらで廂を作った。部屋にテレビはないが、携帯で見た天気予報では三十五度を超える猛暑日だと明記され、洗濯物は良く乾くらしい。

 これだけ暑ければ確かに洗濯物はすぐ乾くだろうけれど、どちらかといえば洗濯物の乾きよりも涼しさが欲しい。冷房を付けるのを極力抑えているのに、こうまで暑いと付けざるを得ない。 それを思うと大学の常にエアコンが入っている状況はありがたい。

 そんなことを取り留めもなく考えると陰りを渡り歩くようにして二軒先にある不定休の古本屋の店先に立ち、十円からと書かれた雑多な箱の中を覗く。背表紙に書かれたタイトルを視線で撫で、気になるタイトルの文庫を二冊手に取った。

 ひとつはカバーすらなかったが、中は日焼けをしただけで染みや目立った汚れなどはない。裏を返すと鉛筆での殴り書きで三十円と書かれていた。

 もう一方は比較的新しく百円の値がついていたので元に戻し、店の奥に位置するカウンターに座る店主に三十円を渡した。その間に交わされる言葉はなかった。

 

 

 その喫茶店は、閉塞的な雰囲気を惜しみなく醸し出していた。

 なんせ看板は薄汚れ、本来なら赤い文字だったろう部分の塗装が禿げ喫茶という文字が契茶となっているくらいだ。かろうじて看板に立て掛けられたかまぼこ板大の板切れに書かれたopenという文字が足を運ぶことを許しているように見えた。

 一歩奥まった場所にある階段を下り、突き当たりにある扉を開ける。半分ほど開けてから、言い知れぬ緊張が体を硬くしたがそれもすぐに消え去る。

 いらっしゃい、とカウンターの中から店主であろう老眼鏡をかけたお爺さんの声がかかりノイズが混じりにぷつぷつと流れるクラシックを背にメニューと書かれた一枚の古い紙を示される。暗い店内をぼんやりと照らすランプの近くに置かれたそれには珈琲と紅茶、それからジュースとだけ書かれ全て均一四百円だった。

 なんのジュースかも書かれていない、それが少し気になりはしたが一番上に書かれた珈琲を頼むと四百円を支払い小さな紙切れを渡された。コーヒーと書かれたそれを買ってきたばかりの本にそっと挟んだ。

 そうして本当に暗い店内の、ランプに近い出来るだけ明るい席に座ると少し周りを見回してぽつりぽつりと席に着く人がわりと多いことに気づく。どうやら人気の店らしい。中には持ち込んだ食べ物やお菓子などを食べてる人もいて、それに対しての注意もなにもないところを見ると持ち込みが可能な珍しい喫茶店らしい。

(それならなにか持ってくればよかった)

 丁度、昼時だったがそこまで空腹というわけでもないのがよかった。朝食にと食べたサラダとトーストがなかったら今頃来て早々店を出ていたところだろう。

 ゆったりと椅子に座り直し(この椅子自体もかなりの年期ものなのか小さくキィと音を立てた)本の表紙を捲ったところでことり、とカップとソーサーがテーブルに置かれ、一言も発することなくもといたカウンターに戻っていった。無愛想に感じないのはレコードから聞こえる曲の妨げにならぬようにという気遣いが感じられるからか。

 口を付けたコーヒーは可もなく不可もなく、この空間の付加価値にはなりえないがそれがまたぴったりと合っていた。

 

 牧神の午後への前奏曲が流れはじめ、本当にぎりぎり読める字を追うと、没頭するまでにそう時間はかからなかった。

 薄めの文庫だったのも手伝ってか、一時間ほどであとがき、解説を読み終え本を閉じた。カップのコーヒーは少し残ったまま冷たくなっており、それを飲み干すと強張った目を癒すように目頭を抑える。暗いところでの読書は良くないと言うが、この空間はとても集中でき、気兼ねがない。人が入ってるのも頷けた。

 ぐぐっと延びをして凝った首を回すとぽきり、と小さく音が鳴る。

 ポケットに突っ込んでいた携帯で時間を確認するとまだ一時を少し過ぎたばかりだった。予定もないことだし、ともう少し居座ることを決め込みカップを手にカウンターにいる店主におかわりを頼んだ。二杯目からは半額の二百円になるらしい。

 温かいコーヒーを胃に入れるとなんだかホッとして、日頃の疲れが癒されるようだった。

 

 クラシックに明るいわけではないが流れてくる音楽はとても心地が良く、なにをしなくても飽きない。もっと早くに入っていればよかったと後悔するくらいには居心地がいい。

 少し眠くなって頬杖をついたまま瞼を閉じていると右肩をやんわりと叩かれる感覚と「もし」と高くもなく低くもなく、曲を邪魔するでもないとても落ち着いた声が続いて聞こえた。

「はい?」

 そこで瞼を持ち上げ声の主を振り返ると少し不安そうだった顔が笑顔に代わっていった。

「あぁ、やっぱり」

 そう言って微笑んだ赤い瞳を僕は確かに知っていた。

 二度だけ会ったことがある、僕が唯一知りえるあの「コーポひまわり」に住む住人だった。

 

 

 夏休みが終わる、最後の日のことだ。

 

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 滞りなく進行する講義とは裏腹に、シャーペンを握る手はあまり本調子ではなかった。それもそれ、意識の大半を睡魔に持っていかれ、指先に力を入れることすらままならないからだ。

 なんとか持ちこたえようと努力はしてみたものの、どうにもこうにも言うことを聞かないシャーペンはとうとうノート上に蚯蚓を這わせ始めたので諦めにも近い気持ちで手を離す。そうして広げたノートもそのままで、頬杖をついた体勢で瞼を落とした。気が緩んでいたのも事実だ。先程貰った前期の成績表で、この授業の前身であるTが最高ランクのSの成績だった。もうこの教授のやり方はわかったからと、こういうときには本当にいい子守唄になる講義を耳に意識を潜らせていく。

 次に聞こえるのは、終了のチャイムだろう。

 

 

 期待を裏切らずに響いたチャイムの音に目を覚まし、ゆっくりと伸びをする。辺りはがやがやと移動を始めていて、広い教室の前の方から見知った顔が些か表情険しく近づいてくる。きっと言われるであろう小言は想像に難くなく、けれど逃げることなど出来もせずに机上のノートを鞄につめた。

「おはよう」

 今気づいたとばかりに声をかければこめかみがピクリと動いた、気がする。

「本当今のあんたにぴったりの挨拶ね、その今起きましたって顔、少しは見れるものにしなさいよ。大体ね、いくら前期がSだったからって後期も同じような試験だとは限らないじゃない。まぁ大半が同じようなものだっていうのはもちろんわかってるわ。けどね、もしかしたらっていう可能性も無きにしもあらずよ。あんたはそういうとこあまっちょろいの、だから――」

 以下略。

 まぁ大体にして三分ほど、それもほとんど切れることなく言葉を続けられて、漸く終わったところで席を立つことが許される。もちろん自分の中で、だ。

 けれど言われっぱなしな上に学食が混んでしまったであろう五分を尊んで口を開いた。

「前期の評価Aだったの?」

「Sに決まってるでしょ!」

 物凄い剣幕で迫られ、言わなきゃよかったと少し後悔した。遅いのだけれど。

 それから二人して学食に向かうと、やっぱり混み合っていて、座る席を探そうと辺りを見回す。あった、と思うと既に鞄が置かれていたりでそのたびにアスカが恨めしげにもっとわかるように置きなさいよ、と文句を垂れた。自分だって似たようなことをするだろうにそんなことお構いなしだ。

「あら、珍しい」

 不機嫌さを隠そうともせずに辺りを見ていたアスカが、本当に純粋に驚いた声を出した。その声につられるようにアスカの視線の先に目を向ける。

 二つの空席が向かい合うように空いていて、よかったと胸を撫で下ろして急いで椅子に鞄を乗せる。それにしてもなにが珍しいのか。もちろんこの時間に空席があるのは珍しいが、それでも口に出すほどのことではない。

 そんな僕の疑問を打ち砕くようにアスカが口を開く。

「カヲル」

 どこか尊大な態度で、固有名詞を口にしたアスカは空席の隣、一人黙々と昼食を取る人の肩を叩いた。その固有名詞と後ろ姿は僕の疑問を打ち砕くと同時に新たな疑問を浮かべさせる。

(何故、彼がここにいるのか)

(何故、アスカは彼を知っているのか)

(何故、彼は今日もサンドウィッチを食べてるのか)

 いや、まぁ、最後のはいいか。

 一人疑問を浮かべる僕と、アスカを振り返った彼は自分に声をかけた人物を見ると「おはよう」と口にし、また僕を見て「おはよう」と口にした。前者はにっこりと、後者は驚いたような表情を一瞬だけ顕わにしてから、それでもすぐにアスカに向けたのと同じような種の笑顔を浮かべ。

「なに、あんたたち知り合いなの?」

 今度はアスカが疑問に思ったようだが僕からすれば同じことを聞き返したいくらいだった。というよりも彼がここの学生だということにまず思考を追い付かせなければいけない。

「まぁいいわ、とりあえずお昼よお昼」

 曖昧に頷くだけで返した僕に納得したのかしてないのか鞄から財布を取り出したアスカは「お昼ー」と嬉しそうにランチメニューが並ぶ入口まで行ってしまった。どうやら本当にお腹が空いていたらしい。

 どうしようかとちらりと彼を見たがいってらっしゃいとでも言うようにひらひらと手を振るので、軽く会釈してアスカのもとに駆け寄った。それにしたって何度会っても目を見張るほどの美形だな。

 アスカも造形こそとても綺麗で、美人と言って過言ではないが、性格が少しばかしきつい。少しばかしというのは過小評価だが。

 彼はそれとはまた違った種類の綺麗さだった。造形も恐ろしく調っているのとは別に、アスカの発する人間味などが皆無と言っていいほどなく、どこか作りものめいた綺麗さを持っていた。彼の外見で最も目を引く赤い瞳と白に近い銀髪がそれを際立たせているのだろう。

 

「にしてもカヲルが学食なんて珍しい、いつもは工房に篭りっきりなのに。ま、私以外にあいつが挨拶するのも珍しいけどね」

 彼の性格の片鱗を覗かせる言葉を口にしながらカレーを頼んだアスカはショーケースに並ぶいくつかのサラダを吟味しつつ言葉を重ねる。

「元々知り合い、ってことはないわよね」

 さっきの反応じゃ、なんて言って出されたカレーを受け取りながら視線を寄越すアスカに首を縦に振る。それから自分のぶんのカレーを貰うと、どこが最後尾なのか非常にわかりにくいレジの列にならんだ。いつも思うけれどこれだけの人間が集まるにはうちの学食は些か狭い気がする。

 まぁ拡張するお金がないのは知っているし、それが他のことに使うからという理由で学食に裂けないとしても、きっと僕らの預かり知るところではない。仕方なしにこうして狭い学食の席を埋め、限りなく飽和状態に近くするしかないのだ。

「アスカはなんで?」

「あいつ立体なんだけど、私も元々立体か芸学かで迷ってたじゃない? それでオープンキャンパスのときに立体の工房行ったらあいつが許可もなく切り出し材料の石触ってたの。先輩だと思ったのよね。だから立体学科の方ですか? って聞いたらあいつ『そうなれたらいいね』なんて言ったのよ。それで、あぁ芸学にしようって決めたわ」

 アスカの唐突な結論の出し方に驚くと、つい昨日のことを口にするような鮮明さで彼と出会ったという日のことを話し始める。

「先輩だって思ったのはね、あいつの目が石を見るときだけ本当に優しかったからよ。あの見た目でしょ? だから女の先輩とか浮足立っちゃって何人かで声かけてたんだけど、曖昧に返すだけで先輩たちが黙るとすぐまた石の傍に行くの。まぁ内容まで聞こえてなかったから先輩同士が話してると思ってたんだけどね。

それなのに、私と同い年だって言うでしょ、嫌になったわよ。私はあんな目はできない。あんなに愛せない。別にそれでもいいって言う人は沢山、沢山いると思うわ。けど、私が嫌なのよ。気づいたの、あぁ、こうなりたかったなって。

でも、そう思った時点で終わり。だって過去形じゃない。私はそこで自分の限界を決め付けたの。

――そんな私に石を触る資格なんてないわ」

 それこそ決め付けじゃないか、とは言えなかった。とても言えるような内容ではなかったし、アスカもそんな言葉が欲しくて話したわけではないだろう。わかっているからこそ僕は黙るしかなく、あと小銭が十円足りないアスカにそっと十円を差し出すくらいの気休めしかできない。

 彼ならなんて言うだろうか。

 自身が預かり知らぬところでアスカを立体から遠ざけ芸学へと進ませた彼は。

 言葉を交わして一日しか経っていないが、彼がアスカのフォローをするようには見えなかった。どちらかというと善かれ悪しかれ自分の思ったことを態度や言葉に出しそうだ。それだというのに彼に作りもの然とした印象を抱くのは変な感じだ。

 自分のなかで相反する考えに疑問を持つが、その答えを出すには彼のことを知らな過ぎるなと頭の隅に追いやった。

 

 

「あの話はなかなかに僕が悪役だよね」

 最後のサンドウィッチを食べながら言った彼は、言葉の内容とは裏腹に別段気にかけていないようだった。

 さっきよりも暗い顔をしているね。

 アスカと共に席についた僕を見た彼はそう切り出すと大方あの日の話でもしたんだろ、と楽しそうにアスカを見た。楽しそうだと思ったのは彼が微笑みを絶やさないからで、良く良く考えてみれば喫茶店で会って言葉を交わしたときも口元は弧を描いていた。それがいつ何時も崩れることがないから、どこか作りものめいているのかもしれない。

「あんたあの後こうも言ったわ。『へぇ、君も立体?』全っ然気にしてもいなかったでしょ。普通自分と同じ学科に入ろうとしてる人間は少なからず気になるものじゃない。なのにあんたは本当に興味なさそうだった。石のが何倍も気にしてた」

「なさそう、じゃなくてなかったんだよ」

 悪びれもせずに訂正する彼を、アスカは形のいい眉を吊り上げてキッと睨んだ。

「歯牙にもかけられないなんて、初めてよ。そこでカヲルの印象がた落ち。まぁ最初から無いようなもんだったけど、一緒の学科には入りたくなかったし、今は後悔してないわ。元々どっちかで迷ってたわけだから」

 スプーンを進めるアスカをちらりと見て、少しだけ混ざった嘘についての弁明を聞きたかったけれど僕の視線に気づいただろうに、結局は無視されてしまった。

「で、あんたたちはなんで知り合ったの?」

 そんなアスカの問いにどの程度答えるかを迷っていると、既に食べ終わっていた彼が自分と同じようになにか考えているのが目についた。

 何と言うのだろうかと見ているとこちらの視線に気づいた彼が形のいい唇をゆっくりと開いた。

「まぁ、有り体に言えば僕が彼に声をかけた。でも初対面ではなかったよ、だからこそ声をかけたんだけど。彼との関係は知り合いであり友人の友人でありそうしてこうやって食を共にしていることから友人に位置付けされてまた、お隣りさん、もとい真下さんだね」

 うん、と納得したのは彼だけで聞いた張本人であるアスカは頭に疑問符を浮かべていた。当人である僕でさえ説明が足りないと思うのだから、第三者のアスカからしてみれば当然の反応だろう。

「なに、結局あんたから声かけて? 話したのは初めてだけど顔見知りで、真下さん? んー、お隣りさんってことは要するにあんたの家の真下にシンジが住んでるってこと?」

 眉間にシワを寄せながら確認するアスカに「大正解」と手を広げた彼はにっこりと笑うと僕の方に向き直った。横ではアスカが「大正解って、あんたわざとでしょ」と文句を言っているが聞こえないふりを貫くのかうんともすんとも言わなかった。

「ということでシンジくん、僕のことはカヲルでいいよ」

 そんな彼の言葉に、そういえば初めて名前を呼ばれたな、と演技がかった様子で差し出された右手と握手をしながら思った。

「なに、あんたたちそこからの知り合いなの?」

 訝しげなアスカには後で僕から詳しく話しておこうと、とりあえずは昼休みが終わらないうちにカレーを食べる為にスプーンに手を伸ばす。

(本当に作りものみたいだ)

 冷たい掌にそう思ったが、それがどれほど冷たかったかは既にわからなくなっていた。

 

 昼休みが終わる、三十分前のことだ。

 

 

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 なにか違和を感じる、と気づいた時にはむしろ僕自身が違和となっていた。

 ちらりちらりと向けられる視線はどれも表面を掠めるようでいてその実とても温度の低いものだった。羨望、ともどこか違うただ純粋に興味や「なに」という疑問のような類いの視線を受けるのは生まれてこのかた初めてで、戸惑いこそすれど隣を歩く二人のように堂々となど決してできはしなかった。

(まぁこの二人がいるからこの視線なんだろうけれど)

 理由はよくわかってもいたし、実際僕を見る目などすぐに逸れていく類いのものだったのでさして気にするほどではなかったが、けれどやはりすれ違う人すれ違う人がちらりと視線をやってくるのは耐え難い。人とすれ番う際にちらりと相手を見ることは多々あるが、それはほとんど無意識と言っても過言ではないもの。向けられる視線は意識的だった。

 意識せずとも下がっていく視線の先に自分のつま先が見え、なんだか情けなくなった。

「シンジ?」

 ふと聞こえた名前を呼ぶ声に慌てて顔を上げれば「どうしたの?」と首を傾げたアスカがいて、その隣でカヲルくん(さすがに呼び捨ては気が引けるのでこう呼ぶことにした。)が不思議そうな顔をする。

「あ、ごめんボーっとしてた」

 なんでもないと笑えば「ならいいけど」と形のいい唇が二人揃って動く。アスカはどこか心配そうな素振りを見せたが結局何も言うことなく口を閉じた。

「そのうち慣れるよ」

 アスカの隣から顔を覗かせたカヲルくんがにっこりと笑ってそういうと同意を求めるようにアスカに視線をやる。そこでようやく気づいたように「そんなこと気にしてたの?」と不快そうに眉を顰めたアスカに苦笑を返すしかなかった。

「自分から話しかける勇気も話題もない人の視線なんてね、気にするものじゃないわ」

「それには同意するけどね、そういう人間の視線ほど鋭いものはないよ」

「気にしたことなんてないくせによく言うわよ」

 軽口なのか本気なのかわからない言い合いに隣でひやひやとしているとそれが顔に出ていたのかアスカがなんて顔してんのよと笑った。

「実は仲悪いの?」

 素直に口にした言葉に目を丸くした二人はまたも口を揃えて「なにをいまさら」と肩をすくめる。その所作がすべて同じで思わずどこが、と突っ込みそうになったが笑ってしまったので言葉にならなかった。

 それにしてもお互い仲が悪いと認識しているのにこうして一緒に行動しているのだから首を傾げてしまう。

「仲が良いも悪いも、結局個人の感情じゃない。こいつは本当いけすかないけど気だけは合うんだから嫌になるわ」

「それって仲が良いて言うんじゃないの?」

「私が心底こいつを嫌な奴だって思って、仲が悪いって言ってるんだから仲は悪いのよ」

 つまんないこと聞かないでと憤ったアスカに眉尻を下げるとカヲルくんと目が合って、二人してアスカに気づかれないように笑みを零した。

 

 そうしてこれから工房に戻るというカヲルくんと別れると芸学の教室がある一号館に向かうさなか、さっきの説明じゃ知り合った経緯がさっぱりなんだけど、と漏らすアスカに出来るだけわかりやすく経緯を話していく――。

 

 かけられた声に振り向き、すぐにあの「コーポひまわり」の住人だとわかったけれど、頭の中は疑問符だらけでとっさに言葉が出ず「隣、いいですか?」との問いにも頷くことしかできなかった。それは突然のことに驚いたのももちろんだが、声をかけてきた相手があまりにも美形だったからだ。

 暗く調節された店内で、まるで陶磁器のような白い肌を持つ彼はわずかな光を集め、まるで輝いているようにも見えた。もちろん目の錯覚でしかないが、それほどまでに強烈な印象だったのだ。

 階段ですれ違う時は、赤い瞳や地毛なのかムラのないきれいな銀髪ばかりに目を取られ、もちろん知り合いでもない相手の顔をマジマジと見ることなどできるはずもなくちらりと視界に入れるだけに留めていたが、それでも目を引き付けられた目立つ色に気を取られていた。

「下の階の方ですよね?」

 呆けたように顔を凝視していた僕に怪訝な顔一つせずに首を傾げると「コーポひまわり」のと呟く。

 その問いかけにようやっと会話に意識を向けた僕は先ほどよりも強く頷くと補足するように「あ、はい」となんとも間抜けな声を発した。

「よかった、違ったらどうしようかと。階段ですれ違った人に似ているなと思って、そうしたら話をしてみたくなったので」

 いきなりすみませんと謝る彼に迷惑です、などと言える人間がいたら見てみたいくらいだと「いえ、そんなことないです」と首を振りながら考える。男の僕でさえそう思うのだから女の人だったらさらに断ることなどないだろうと思ったが、そこでふと幼馴染の顔が浮かんで彼女なら「迷惑よ」くらい言ってのけそうだなとも思った。一緒に出かけた先で入ったカフェで実際に言っていたのを目撃しているだけあって、あながち間違いではないだろう。

「あの、多分僕の方が年下だと思うので敬語でなくていいです」

 そうは言ってみたものの実際目の前にいる彼がいくつかは見当がつかない。若くも見えるがあまりにも物腰が落ち着いていて、表情も崩すことなく笑みを湛えている所為か僕より五つ六つ上のようにも見える。実際きれいな人は年齢不詳だというのは幼馴染で知っているので耐性は付いているが彼の場合はきれいというだけでなくどこか謎めいた雰囲気をもっているためさらにわかりにくい。

 今まで生きてきた十九年の人生の中で瞳が赤い人や地毛(予測でしかないが間違いないように思う)が銀髪の人など見たことがなかったため年齢などほとんど当てずっぽうでしかない。これで僕より一回り違うと言われても驚かないだろう。

「そうなの? てことは高校生?」

「え、と大学です。大学一年」

「なんだ、じゃあ同い年だね。僕も大学一年だよ」

 いきなり高校生呼ばわりされたことに驚いたが、彼の言葉に納得する。大学一年ならば下と言われたら確かに高校生だ。色々と憶測を立ててはみたものの、結局どれも外れたことになる。

「本当は敬語は苦手なんだ、だからお互い敬語はやめよう」

 せっかく同い年なんだし気兼ねなくいこうと言われ、いつもならある程度うちとけないと敬語が抜けないというのにその時は何故かなんの躊躇いもなく「うん」と頷くといつの間にか緊張してた肩の力を抜いて少し温くなったコーヒーに口をつけた。

 年下や年上、という考えしかもっていなかったがいざ同い年だと言われるとかえってその落ち着いた彼に対して自分の幼い部分が露呈していないか気になった。大学生と言ってもつい四か月ほど前までは高校生で、決められた制服に身を包み集団行動の中に身を置いていたのだ。だからと一概には言えないがまだ高校生気分の友人もいて、その友人と彼が同い年と考えるとなんだか変な気分だった。

(あ、でも一年生っていっても同い年とは限らないのか)

 同じ学科の一年生に三つ年上の友人がいるのを思い出して妙に納得する。

「それと、お昼がまだなんだ食べてもいいかな」

 彼はどうやらここのシステムをよく知っているようで、僕が肯定するのと同時に手に持っていたクラフト紙で作られた紙袋からこれまたクラフト紙に包まれた長方形のなにかを取り出した。なんだろうと見ている僕の横でそのクラフト紙を止めていたお店のものと思われるロゴが入ったシールを外すとクラフト紙の包みを開く。

 中から出てきたのは正方形のサンドイッチだった。ライ麦パンと食パンが交互に奇麗に並べられすっぽりと納まっている。

「わぁ、この包み面白いね。ただの両更クラフト紙で巻いてるだけかと思ったら途中で箱に成形されてるんだ。これだとサンドイッチ自体も崩れないしいいね」

 思わずはしゃいだ声を出してしまってから、しまったこの話題はわかる人じゃないとつまらないとメディアデザイン学科にいる友人の顔が頭を過ったが時すでに遅し。今のタイミングだったら美味しそうなサンドイッチだね、でよかったはずがオリジナリティ溢れる包みにらしくもなくテンションがあがってしまった。

「――君もそう思うかい?」

 しばしの無言のあと、さらりと言ってのけた彼はよかったら食べて、とずいっと箱を僕の前に出すとちょうど真ん中に入ったサンドイッチを取り出した。

「この箱の形が気に入ってね、もちろんサンドイッチも美味しいんだけれどそんなにこだわりがあるわけでもないし。とりあえずはこの箱より面白いものがあるまではこの店かな」

 そんなことを言いながらひとつめのサンドイッチを食べ終えた彼は遠慮して手を出さない僕に「おすすめはツナかな」と完全に箱の向きをこちらに向けて言うと空いた真ん中のふたつ隣のサンドイッチに手を伸ばす。どうやら切り口から覗く中身を見る限り両隣が空いてしまったものがおすすめのツナサンドらしい。取りやすい状態にまでされ、ついでにお腹も減っている状況で断る理由もないだろうと手を伸ばすと手に馴染みの良いしっとりとした食パンを掴み小さくありがとうと呟く。

 どういたしましてと言った彼はみっつめのサンドイッチに手を伸ばした。さっきから見ているとほとんど二口程で食べているのか食べるスピードが物凄く速い。圧倒されながらも一口齧ったサンドイッチは食パン自体がとても美味しく、中のツナも独自の味付けをしているのかしっとりとパンに馴染んでいてとても美味しかった。

「あ、美味しい」

「このツナサンドはなかなかだよね」

 その言葉に大きく頷いて小ぶりのサンドイッチを食べ終えるとカップの底に溜まったコーヒーを飲み干した。

「さっき読んでいた本ってもしかしてあの古書店で買ったものかい?」

 間の取り方が巧妙だな、とゆったりとしていてけれど決して間延びしない彼の喋り方に感心するとさっき読んでいたと言われた本を鞄から出して意味もなくぺらぺらと捲った。自分で自覚があるぶんマシだと言われたこともあるが、他者とのコミュニケーションが得意ではなく、無意味な沈黙を苦痛に感じるという自分を追い込んでしまう性格のため少しでも緩和しようと手慰みに本を開いたり閉じたりすると流れる文字に意図もなしに視線をやった。直せないのならばその自覚はほとんど無意味だと思うが、それでも自分を知らないよりはいいと言われたので少しは自分から話題を広げてみようかとさきほどの問いに頷いたあと口を開く。

「うん、あそこの古書店ってどういうわけか毎月本の並びが違うんだよね。最初はものが探しにくいと思ったけど慣れてくるとそれも面白くて自分じゃ決して選ばないような本とか見つけるとそれがまたおもしろかったりして。だから気に入っているんだ。でも毎月毎月変えるのって大変だろうに、凄いよね。まぁこれは外の特売かごのなんだけど」

 あそこのかごも毎月変わるし近くにああいうお店があってよかったと笑いながら本から視線をあげれば真剣な顔をして僕の話を聞いている彼と目があって、少し目を見張る。世間話から足の出ないような話をここまで真剣に聞かれてるとは思わなかった。

「僕もあそこの古書店は好きでよく行っているんだ」

 掘り出しものなんか見つけると楽しくなるよね、と自分のカップに口をつけた彼は僕の持っている本にそっと手をのばすと、僕がやったようにぱらぱらと本のページを捲り、最後にカバーの外れた表紙に視線をやり「あぁ」と呟いた。

「この本、面白かったかい?」

「えっと、そんなには面白くなかったかなぁ。好みの問題かもしれないけど」

 ストレートな物言いに戸惑いながらも思ったままの感想を言えば、頷いた彼が「だよね」と同意するように呟いてもう一度ぱらぱらと中身を捲るとはい、と手渡された。

「この作者だったらこれじゃなくてひとつ前に出された作品の方が面白いよ、似たような恋愛ものだけど、展開の仕方に無理がないかな」

 手元にあれば貸せるだけど生憎友人に借りたものだからないんだなんて申し訳なさそうに眉尻を下げる彼に機会があれば読んでみると告げると嬉しそうに笑った。

「邪魔してごめんね、そろそろ失礼するよ」

 そう言ってサンドイッチを包んでいたクラフト包装紙を、ついた折り目のままきれいに畳むとカップに残ったコーヒーを嚥下する。未だに何を話そうかと迷っていた僕としては少なからずホッとしてから、失礼だなと自分に眉を寄せた。

「また機会があれば。とても楽しかったよ」

「いえ、こちらこそ。おすすめの本、読んでみます」

 最後の最後で緊張が解けたのかまた敬語に戻ってしまい、口元を手で覆ってから「読んでみるね」と言い直すと本当に楽しそうに笑った。その笑顔になにか違和感を覚えたが、結局理由はわからなかった。

 軋む椅子を、丁寧に音を立てずに引いて、無駄のない所作で立ち上がると最後にまたにこっりと笑って薄暗い店内をなんの迷いもなく扉まで歩いて行きそれだけで絵になるような緩慢な仕草で扉を開いてその向こうに消えていった。後々店を出る時に気づいたが、外から入った時はそうでもないが出ていく時は扉がかなり高音の軋んだ音を出すらしい。それを考慮しての動きだったのかと感心すると同時に、常連と呼ばれる人たちの中に彼も入っていて、ここに来ればまた彼に会えるだろうと一つの確信を抱く。

 彼が帰ってから、結局名前すら知らない自分に気付いたがそれは些細な問題な気がした。

 夏が終わると同時に、何かがが始まろうとしていたがその時の僕は気づくはずもなく彼の言っていた本の名称を調べようと著者既刊のページを捲ったのだった。

 

-4ページ-

 

「てことはあんたたちお互いのフルネームも知らないじゃない」

 あらかた話し終えた僕に、呆れてものも言えないわと肩を竦めると最近変えたばかりだという携帯を取り出してなにか打ち始めたので言い返すこともできずに黙りこくった。しかしどうやらメールとかではないらしくすぐさま携帯画面をこちらに向ける。そこには「渚カヲル」の文字がメモ帳に打ち込まれていた。

「渚カヲル、あいつのフルネーム」

「カヲルのオってこっちのヲなんだね、珍しい」

 感心したような声を出す僕に肩を落としたアスカは「そっちに反応するのね、まぁわかるけど」とため息とともに吐き出すとぱたんっと携帯を閉じ、それにしてもあいつがあのコーポひまわりに住んでるとはねーと僕の机に頬杖をつくと眉間に皺を寄せた。

「まぁ立地はそこまで良くないけど実家よりは大学が近いんじゃないかな。それに家賃安いし」

 そこが最大の魅力だと言えば「もう耳タコよ」とさらに眉間に皺を寄せた。前に一度コーポひまわりに訪れたことのあるアスカに何度も言った所為かもう家賃の話はいいわとおざなりだ。

「家賃たってあいつん家、馬鹿がつくほど金持ちよ? バイトしてるようには見えないから仕送りはあるんだろうけど」

 馬鹿がつくほどの金持ちがどんなものかは想像がつかなかった(想像してみたところで人の頬を札束で叩くという金持ちというよりも馬鹿な光景が浮かんだ)が、とりあえずあの落ち着きようはそういうところからもきているのだろうと納得する。

「でも、カヲルくんが住んでる部屋、僕のところより広いよ」

「あんたのところも十分広いじゃない」

 そういうアスカはだいぶ広い一軒家の叔母さんの家に厄介になっているが、仕事半分趣味半分で海外に夫婦で滞在している叔母さん夫婦にとっては実家であるはずの日本の家が別荘のようになっている。一人気兼ねなく暮らせそうなものだけれど、決してそんなわけではないのだと幼いころから一緒にいる所為か口にされずともわかっていた。できることなら家を出たいことも、迷惑がかかると思いできないことも、生活する上で最低限必要なスペースを細々と使っていることも。言われなくとも、わかっていた。

「僕の上二階ってファミリータイプとして作られたみたいでリビングだけでも二十畳あるって。進められたけど一人暮らしには必要ないし断ったけど、たしか家賃は九万とか十万とかだったかなぁ」

 学生が学業のためだけに一人暮らしをする場合、そんな広さは不必要だった。けれど実際彼は僕の真上の部屋に住んでいる。

「どうせあいつのことだから制作スペースが欲しかったんでしょ。大学残ってられるのも八時までだし。アトリエ借りるのとどっちが安いかって聞かれると微妙だけど、きっと寝起きする場所が近ければ近いほどあいつにとって都合がいいのよ」

 本当は工房に住みたいってあの調子で言われたことあるもの。そう呆れ顔で続けたアスカは壁にかかった時計に視線をやると自分の席へと戻って行った。まだ十分ほどあるが、アスカにとってはこの十分が重要だそうでテストの前も勉強はしないがノートだけは完璧に、とこの時間に前の抗議のサブノートを埋めるらしい。僕からすればそこまでやらなくてもいいと思うが、苦痛に感じることもなく、むしろきれいなノートができるのは楽しいとまで感じてるようだった。どうやら成績表にAが並ぶのすら許せないらしい。

(相変わらず真面目だなぁ)

 ノートに向かうぴんっと伸びた背に視線をやって、ポケットに入ったS-DATを取り出した。イヤホンをつければ聞きなれた曲が流れ始める。

 また退屈な時間が始まると、与えられた環境だからこその怠慢が顔をのぞかせたがそれを悪いとは思わなかった。自分の時間を削ってまで大学に残るという話に驚いたくらいだ。そうしてすごい人もいるもんだと感心するとノートに向かうアスカを確認してから。徹夜で完成させたレポートと引き換えに得た耐えがたい睡魔に屈した。

 この時間がなかったら、と何度思ったかわからない。

 ステンレス製の弁当箱に作り置きしている常備菜を詰めるとどうも彩りがない、と白いご飯にゆかりと隙間に朝食に作った卵焼きを入れる。熱を冷ます為に蓋を開けたままにすると、シンクにものがたまらないうちに片付ける。ようやっと朝食が並んだ机の前に腰を下ろし温くなってしまったお茶を飲み干した。

「いただきます」

 手を合わせて箸を取るが、朝食にかけられる時間は精々十分かそこらだった。それでも女の人と違い化粧やなんだとさらに時間がかかることはないからいい。アスカはその理由で弁当は諦めているらしい。よく続くわねと言われたが一度作ってしまうと手が込んでいたり特殊食材が使われているような料理でない限り高いなと感じてしまい。ないわけではないのにお金を使うことを躊躇してしまう。

 ケチなのかもしれない。いや、浪費家と対の意味で節約家の方が聞こえがいい。などとりとめもないことを考えながら箸は忙しなく動き、小皿や小鉢をきれいにしていく。

 引っ越し当初から買おう買おうと思いつつ未だに買えていない時計の代わりに携帯を開くとアスカからメールが来ていて、珍しいこともあるなとメールを開いた。なにか用事があれば十中八九電話か直接言いにくるだろうに、ましてやこの時間にまだ家にいることも知っているはずだ。

『カヲルにあんたのアドレス教えるけどいいわよね』

 一応聞いておく感がありありの内容に、疑問形のくせに断定的だなぁとアスカらしい文章に口元を緩ませながらいいよ、とだけ送ると空になった湯呑にお茶をついだ。そうして許される限りゆっくりと飲み干すと食べ終わった食器を片づけようと立ち上がった。

 一通り部屋がすっきりすると完全に忘れていた携帯のランプが光っていることに気づく。鞄を肩にひっかけて靴を履きながらメールを開くと見覚えのないもので、アスカからだと思ってうっかり開いてしまったことを後悔した。どこからか漏れるのかありがたくない広告がたくさん載ったメールが時々来るので、その類かと思ったのだが件名を見て納得する。

「カヲルくんか」

 見覚えのある名前を呟き玄関の扉を開ける。

「おはよう」

「えっ?」

 急に聞こえた声に携帯の画面にばかり気を取られていた所為か扉を開けた低い体勢のまま声の主にぶつかり、慌てて顔を上げる。

「おはよう」

 先ほどと変わらぬ声のトーンで繰り返したカヲルくんは僕の手にした携帯を見て「届いたかい?」と首を傾げた。突然のことに混乱したまま「え?」と繰り返し、ようやくメールのことを言っているのだと気がつくとまだ読んでいなかった本文に目を通す。

『今日会えるかな』

「ごめんね、急に。メールってあんまり信じられなくて、できれば電話にしたかったんだけれどいきなり知らない番号からかかってきたら取らないだろうし。一限からだったらアウトだったけど、どうやら僕の運もなかなかみたいだね」

 インターホン押そうとしたら出てきたし、と感心するカヲルくんにとりあえずは歩こうか、と言われ玄関の鍵を閉めると駅までの道を並んで歩く。

「アドレス、よかったら登録しといて。本当滅多にメールはしないんだけど」

「あ、うん。電話番号も教えてもらえると嬉しいな」

 新規でアドレスを登録してそう尋ねると返ってきた番号を打ち込む。そこで送られてきたアドレスを目で撫でるとなんの意味もないように見える数字英字混合の羅列だった。

「これもしかして初期設定アドレス?」

 久しぶりに見た、と驚くとあっさりと頷いたカヲルくんが機種を変えるごとに新規にしていると言われ驚きに目を瞠った。新規にするってことは電話番号もメールアドレスもデータも継続できない。それだと交流がとれない人もいるんじゃないかと言えばそれでいいんだと返ってくる。

「あんまり交流の輪を広げたくないって言うのが本音。変えたときに付き合いがあるならまた教えればいいし、どこから漏れるのか同じ学科の先輩って名乗る人からメールきたりもするから。困りものだよね」

 あまりにも潔い返答にそういうものかと頷いて、後半のメールのくだりはそんな勝手に教える人なんていないだろうと思ったが、カヲルくんならありえるなと納得してしまう。オープンキャンパスに行ったときから先輩に声をかけられていたらしいし、アスカも知らない相手からメールがきたことあるって言ってたくらいだからそういう非常識な人もいるのかもしれあい。

「そうだ、本題を忘れてたよ」

 だめだね、と苦笑を零したカヲルくんの続く言葉を待っていると腕時計に目をやる。

「今日が二十八だから――三十日は空いてるかい?」

「三十って日曜日だよね、うん空いてるけど」

「行きたいところがあるんだけどシンジくんさえよければ、一緒にどうかな?」

 場所はまだ言えないんだけど行って損はないと思うよ。僕は、だけどね。そう続けたカヲルくんに二つ返事で答えようとしたがいつもより体感時間が早く感じられるペースで駅についてしまいまだ定期の継続をしていない所為で改札に引っ掛かってしまった。

「あ、ごめん! ちょっとチャージしてくる」

 改札に引っ掛かるだけでも充分恥ずかしいというのにそれを誰かに見られてしまうなんて顔から火が出るほど恥ずかしい。この間に電車が来たらどうしようと焦りながら(なんせ電車が一時間に一本の割合だ、逃していまったら間に合わないのは確実だった)千円分のチャージをすると今度は改札に拒まれることなくホームに抜けた。

「ごめんね」

「いや、僕もたまにやるよ。この前なんて徹夜をしすぎて切符も定期も持たずに改札を通ろうとしたんだよ。もちろん物凄い驚いた形相の駅員さんに止められたけど。それまで睡眠ってあまり意味のないもののような気もしてたけど必要なんだね」

 失敗した、とあっけらかんと言いのけたカヲルくんは肩を竦めると幸い知り合いには見られていないからよかったよ。まぁ一方的に僕を知ってる人が見ていたのかその時一緒にいなかった友人に知られていたけど。人の口には戸が立てられずとはよく言ったものだよねと続けて申し訳ないのと照れで何度か縦に首を振った。

 相も変わらず作り物めいた表情の変化だけれど、実際思っていたよりも取っつきやすくさっぱりとした性格にある種の心地よさを感じていた。

 

 

-5ページ-

 

 

「あ、三十日だけどカヲルくんさえよければ連れていって欲しいな」

 どこかわからないけど楽しそうだと頷いた。

「よかった。モントブレチアで会った時に名前もメールアドレスも聞かなかったからあとで後悔したんだよ。普段は誰に対しても話しかけるわけじゃないんだけどね、あのときは製作が進まなくて焦ってじっとしていられなくなったんだ。シンジくんからしたら迷惑な話だろうけど本当に助かったから、ありがとう」

 お礼を言われるようなことをした覚えもないし、どちらかといえばサンドイッチを貰ったりおすすめの本を教えてもらったりと僕の方がお世話になった気がするがそれを伝えたら「内面ではとても助かったのは事実だから」と返されて受け止めることしかできなかった。なにかをした自覚はないが、なにか役にたったと言われ意識せずとも気持ちが高揚した。

「制作って、立体学科の課題かなにか?」

「いや、個人で作っているものなんだけれどね。行き詰まると課題と違って提出や評価がないから途中で気力が尽きてしまうこともあるんだ。だからできるだけ持続してひとつのものを一定のスパンで仕上げたくって」

 今は課題が出たからそっちにも時間咲いているけど、どっちもなんとか納得いくようにしているよ。工房で課題、家ではってわけているんだ。学科の課題、今は彫塑なんだと話すカヲルくんはとても楽しそうだった。

(本当、アスカも言ってた通り作品製作が楽しくて仕方ないんだなぁ)

「あぁ、ごめんね。悪い癖だ。アスカにも注意されるんだけどこればかりは直らないんだ。退屈にさせたらごめんよ」

「ううん、うちの学科は選択しない限り立体はできないし、話聞いてるだけでも楽しいから。本当は選択実技、立体にしたんだけど抽選で落ちたから授けられなかったんだ」

 だから退屈なんてしてないと首を振って否定すると時刻表通りに停車した電車に乗り込んだ。ひとつしかない車両だが始発から二駅ということもあってか乗り込んでいる人はそう多くない。普通ならとっくに(それこそ電子切符が導入されたときにでも)廃車になるか車両を増やすかの対策が取られそうだが未だに車両数は変わることがない。

 空いている座席に並んで腰を下ろすと電車が発車するまでの短い時間、しばし無言で窓の外を眺めていた。工場地帯と住宅が並ぶ挟間に駅が建っているため車窓から見える景色は古びた鉄筋コンクリートでできた工場や倉庫ばかりだ。規則的に一定の間隔で建っているものもあれば、辺りの配置など関係ないとでも言うようにどかっと腰を据えているものもある。

 空気の汚染を進めると工場が増える現状に待ったをかける住人も少なくないと聞くが、シンジはこの光景が嫌いではなかった。建築的な美を考慮に入れず便利さだけを追求したような無機質でそっけないはずの建物も、間隔を保ち並んでいるとそれこそひとつの作品のようだった。錆び廃れたような看板なんかが掲げてある工場もあって、灰色コンクリートの外装から人間味が表れている気がするから不思議だ。

「あぁそうだ、モントブレチアでおすすめの本があるって言ったのを覚えてるかい? あれを借りた友人っていうのが洋画にいるんだ、今度借りられるか聞いてみるよ」

 車内だからか少しトーンの下がった言葉を聞いてそれでは悪いよと慌てて待ったをかける。知り合いならまだしも名前すら知らない人からものを借りるのはさすがに気が引ける。

「本人はまったく意に介さないだろうけれどね。まぁ確かにシンジくんからしたら気にするなと言うのが無理な話だったね。けれど名前くらいは知ってるんじゃないかな?」

 彼女の名前は大学でも周知だと思うし、と意味深な言葉を続けるカヲルくんに首を傾げる。

「綾波レイって知ってる?」

「綾波って、あの綾波?」

 僕の知ってる洋画専攻の綾波といえば一人しかいない。

 弱冠十九歳でいろいろな展覧会に意欲的に作品を出品し、数々の賞を受賞しているという人だった。彼女の描く油彩は何度か見たことがあるが、これで同い年かと思うと一度でいいからなにを考えてものを作っているのか聞きたいと思うような、そんなものだった。

「そう、やっぱりあの綾波って言いたくなるイメージなんだね」

実際に会ってもきっと「あの」って言いたくなるよと可笑しそうに笑った。

「友達が洋画にいるんだけど全然相手にされなかったって嘆いてたよ」

 そのときに聞いたイメージがあまりにも絵の印象とぴったり過ぎて、とても素直な人なんだなという感想を抱いた。もちろん憤っていた友人に言えるはずもないが。

「相変わらずだね。僕も人のことをとやかく言えるほど人付き合いがうまいわけではないけれど、彼女の場合は人と関わることに意味を見いだせないと言って積極的に自ら行くこともないし、積極的にこられても自分に必要がなかったら心を開くこともないからね。特に自分の絵をただひたすら褒めるような相手は信用できないと言っていたよ」

 褒めたくなるのは仕方ないと思わないかい?

 思わず頷いて、気難しいひとなんだねと呟くと、肩を揺らして笑ったカヲルくんが「違う違う」と手を振って否定した。

「気難しいんじゃなくて、照れるからと言っていたよ。確かに色々受賞してはいるが数を打っているから、なんて言っていたけどいくら数打ちゃ当たるって言ったってそう簡単なものじゃないのだからもっと上手いこと言わないと嫌味に聞こえてしまうだろうにね。そこを直せないから彼女なんだろうけれど」

「仲、良いんだね」

「幼馴染だからね」

 示し合わせたわけでもないのに大学まで一緒なのはなんだか気恥しいんだけどねと髪を梳くと視線を下げて苦笑した。

「僕もアスカとずっと一緒だからね」

 その気恥しさはなんとなくわかるよと返せば「幼少期からずっと一緒にいるけどまったく関わらないような時期もあったから、まさか二人して同じ大学に行くとは思わなかったよ」なんて言って笑った。

 

 アスカが同じ大学に行くと知ったのは高三の夏だった。

 勉強に打ち込みながらも変わらない毎日と長い休みに飽き飽きしていた頃、いくら勉強は苦痛ではないと言いきるアスカでも精神的に参ったのか猛暑日の、しかも太陽が一番高いお昼時に突然家に乗り込んでくると勉強道具をすべて鞄に詰め「ほら、ぼさっとしてないで早く行くわよ」と手を引かれたときは何事かと思ったが言われるがままについて行った先でアスカの

お気に入りの喫茶店についたときは納得せざるを得なかった。

 そう何時間も入り浸ったら悪いだろうと自制していたそうだが、それを仲の良いオーナーに零したら快く了承してくれたらしい。いつもは窓際の席を気に入って使うところを一番奥まったところに腰を落ち着かせたのも他のお客さんに不快な思いをさせるわけにはいかないという配慮だろう。

「やっぱりここに来ないと落ち着かないのよね。どうしてかわからないけど家にいるより落ち着くわ」

 ぐぐっと伸びをしてから嬉々としてメニューを開くアスカは本当に嬉しそうだった。

「あ、新メニュー出てるじゃない。やっぱり定期的に来ないとだめね」

「本当、好きだね。僕はやっぱりセイロンティーかなぁ、あと窯焼きチーズケーキ」

 いつも頼むお決まりの二つを口にしてから、そういえば今日はなにも食べていなかったとウェイターを呼ぼうとするアスカに待ったをかける。そこまでお腹が空いたわけではないが、今食べておかないとあとでお腹が空くだろう。空腹の方が勉強が捗るとは言うが、流石に朝から食べてないのは後々辛い。

「チーズケーキは後で食べるとして、野菜のマリネとハーブグリルチキンのパニーノにしよう」

「それでいい?」

「飲み物はやっぱりコーヒーで、紅茶は食後にするよ」

 じゃあ決まりね、と口元に弧を描いたアスカはぱたんっとメニューを閉じると他のテーブルの注文取り終わったウェイターを呼ぶとメニューを見ずに注文し、最後にお気に入りのサブレを頼んだ。

「それにしたっていきなりどうしたのさ、いつもは勉強は一人の方が捗るって言ってるのに」

 以前に図書室で勉強しているアスカを見つけて何の気なしに前の席で勉強をしていたら気が散ると怒られたことがあった。そのときは邪魔しないようにと口を開くこともしなかったし座るときも声をかけることはなかった。受験期でここ最近はばらばらに帰路についていたからとたまには一緒に帰ろうと思ってのことだったが、そんなに邪魔だったのかと驚いたほどだった。アスカの目を瞠るほどの集中力を知っていたので怒られたことには首を傾げたものだ。

「今日は休息日よ、休・息・日! たまには頭を休ませてあげないとせっかくの勉強も意味がないわ。記憶の定着をしないと詰め込むだけ詰め込んだってだめなの」

 そんなことを言いながらも持ってきたノートをぱらぱらと捲るのは癖のようなものだろうか。ちゃっかり僕のノートと見比べているあたり余念がない。

「あんた文学部に行くんじゃないの?」

「え、そんなこと言ったっけ?」

 突然眉を寄せ怪訝そうな表情になったアスカはさらに僕のノートを捲りながら言葉を続ける。

「言ってないけど現代文と古文の成績順位合わせても五位以上じゃない。てっきりそっちの方に行くんだと思ってたのに」

「まぁ得意だけど、第一は――大学の芸術学科だから論文の勉強とか一次の試験に通るだけの勉強はしてるけど」

 そういえば三年になってからクラスが変わったから大学についても話したことはなかったなと思い出して、アスカが誤解するのも無理はないかと納得した。

「あんたも――大学なの?! 嘘でしょ? 美術に興味があるのは知ってるけど絶対進路には入れないと思ったのに!」

 椅子から立ち上がる勢いでずいっと距離をつめてきたアスカは本当に信じられないという顔をすると「あんたも、ってことはアスカも?」と驚きは大きいが迫力に押され自然と小さくなった声を聞き、額に手を当てて信じられないと小さく呟きながら詰め寄った反動からか力なく椅子に腰掛けた。

「僕としてはアスカが美術系に進む方が意外だったけどなぁ」

 確かに実技の授業では具象ならばいつも上位だったように思うが、美術系は敬遠していると思っていた。

 血縁者である叔母さん夫婦が空間デザイナーとして海外に移り住んでいるので美術系は鬼門だと勝手に考えていたが、そうではないらしい。アスカにとって叔母さん夫婦は感謝こそすれ憎む理由もなく、あの広い家を自由に(といってもアスカは必要最低限しかあの家にいようとしないが)使えるのは叔母さん夫婦が海外でもある程度の知名度を得られているからだとそういう意味でも美術は嫌いではないのだという。

「まぁ実際立体か芸学か迷ってはいるんだけどね。でも立体は本当賭けみたいなものだから。作品作るたびに誰かの影響を受けてる気がするしそこばかり気になって自分の持ち味がなんなのかも見当がつかない、立体だけじゃなくて平面でもそう。自分のじゃなければ客観的に見れるのに」

 だから向いてるのは芸学かもしれないけど、どっちにも惹かれてるんだと言ったアスカはなんの迷いもなさそうだった。事実、芸術畑に足を突っ込むことさえためらっていた僕としてはこれ以上ないほど力強く思え、そして羨ましかった。眩しく見えると言えば課題表現のような気もするが、実際僕にはそう見えた。

 それから二人してお気に入りのメニューと、お気に入りに加わりそうな新しいメニューを食べ比べて、やっぱり定番は強いだの新しいものは客のニーズに合わせて改良されてるだの言いたい放題話して大げさに笑いあった。心を許せる相手が近くにいるということはどれだけ自分にとって有難いことかを改めて思い、結局持ってきたテキストを開くことはなかった。

 

-6ページ-

 

 

「三十日は何時頃なら都合がいいかな?」

 ゆっくりと揺れる車内に意識が飛びそうになりながら慌てて顔をあげると「何時でもいいよ」と笑う。こう言うとアスカは決まって「主体性のないやつね」と眉を吊り上げて僕を叱った。主体性がないのは昔からなのだから今さら怒らなくともいいじゃないかと少し唇を尖らせるがそれを言ったらさらに怒られるのはわかっているからいつも眉を下げるだけだった。

「じゃあシンジくんさえよければだけど、一緒にお昼を取りたいからそうだね、十一時に『コーポひまわり』の前でどうかな」

「うん、じゃあ十一時に」

 そう言えば大学に入ってから、友人と遊びに行く機会が減ったと思う。アスカとはたまに会うが、それも高校の時と比べると減っていた。講義が午前のみの日ならばお昼をともにしたりもするが取っている講義がすべて重なっているわけではないためそれも一か月に数回だ。大学が離れたケンスケとはたまにメールで連絡を取るが就職についたトウジとは進学した当初、数回メールをしただけで碌に連絡もとっていなかった。二人に最後に会ってから何ヶ月経っただろうか

「シンジくん、二限からだよね? なんの講義を取ってるんだい?」

「フランス語だよ、アスカも一緒。意図せず厳しい教授に当たったから大変だけど、授業の進みは早いんだ」

 毎回課題が出るのは辛いけどねなんて笑ったら一緒に困ったように笑ってくれた。

「君とアスカは――……いや、なんでもない」

 それから神妙な顔つきになるとなにか言いたそうに口を開閉させたあと、小さく首を振ってまた先ほどと同じように笑顔をつくった。

「?」

 どうしたのかと視線をやったが結局聞くことは出来ずに電車は駅に到着する。スーツを着たサラリーマンのあとに続き電車を降りると太陽の強い日差しに二度三度瞬きをした。

 流石に主要の駅だけあって多くの人が規則正しく行き来し、その中には同じ大学の学生らしき人がちらほら見える。皆改札を抜け一様に大学に向かい歩き、僕もなにも考えずとも自然に足はそちらに向かう。

「じゃあ、僕はここで」

「え?」

 急に言われた言葉に意味がわからないまま疑問の声を出すと口元に笑みを湛え、平然と言ってのける。

「今日は休みなんだ」

 止まったカヲルくんに横にならえで止まり、行きかう波に逆らうように二人して立ち止まってしまった。そうして立ち止まってみたところで未だに彼が発した言葉の意味をうまく掴めていない。

「シンジくん?」

 どうしたんだい? と不思議そうに首を傾げられるが、不思議に思っているのはむしろ僕の方だった。休みだというのはわかる。僕自身講義の数が少ない日に休校があれば休みになるし、そもそも人によってはわざと講義を入れないで週の真ん中あたりに休みを作る人もいる。それは別に構わないのだが彼もそうだとするのならばどうしてわざわざ電車に三十分も揺られこの駅まで来たのか。

 答えの半分ほどは予想はつくが、まさかなと思ってる自分もいる。

「えっと、この駅になにか用事があったから来たんだよね?」

「いや、さっきも言ったけどメールは信用ならないからね、シンジくんの都合のいい時間がわからないから。あの電車なら他の友人と通学しているってこともないかなと思って。まぁここの駅から一緒に大学に行っている友人と待ち合わせしていたとしたら邪魔するのは本意じゃないから休みの日を使っただけだよ。それなら待ち合わせしている友人がいたとしても僕はここで別れればいい、大学がある日だとどうしたって僕も一緒の方向だからね」

 単純なことだよ。とズボンの両ポケットに手を入れた彼は平然と言ってのけて、僕はそこまで気を回す彼に本当に驚いた。それもこれもメールを信用できないから、というのが可笑しかった。

「……待ち合わせしてる友人もいないし、最近はレポートの数も少ないからいつでもわりと都合がつくし――だからなんか申し訳ないな」

 眉が下がったのを自覚しながらカヲルくんに視線をやると「それは違うよ」と苦笑されてしまった。

「違う?」

「なにもシンジくんが気に病むことはないよ、僕が勝手にやったことだ。――って言っても気に病むよね、困った、予定では上手くいくはずだったんだけど」

 僕と違って君は繊細だね、そこまで気が回らなかった僕がいけない、なんて言いながら顎に添えるように手を置くと形の良い眉を少しだけ寄せてなにかを考えるような真剣な顔つきになった。暫しの沈黙のあと、そうだ、と些か古い動作で手のひらにぽんっと拳を打ち付けると良いことを思いついたと言われなくともわかるような嬉しそうな顔で笑った。

「丁度新しい粘土が欲しかったんだ、あそこに売られている」

 あそこ、と指さしたのは駅に隣接された大きなショッピングモールで、九階建ての三分の一ほどが鉛筆やノートから美術の専門的な道具や書籍も置いてある建物だった。美術系の大学が近いこともあってか、品揃えも充実している。

 彼が言った言葉を頭の中で反芻して、これなら問題ないだろうとでも言いたげな自信満々の顔に思わず声を出して笑ってしまった。こんなに人を気遣うような人なのに、ツメが甘いというかなんというか。

「どうしたんだい、シンジくん」

 いきなり笑い出した僕に驚いた声を出すとさっきまで自信満々だった顔はまた困った顔になってしまい、彼の普段の飄々とした雰囲気からかけはなれたそのギャップがまた笑いを誘った。

「ううん、ごめん笑ったりして。立ち寄るところがあるのならよかった」

 そう言えばバツの悪そうな表情で頭を掻いた彼が参ったな、と呟いて「嘘をつくのはどうも苦手なんだ」と観念したように両手を上げた。演技がかった動作だが彼がやると自然に見えて、鼻に付くようなこともなかった。

 初めて言葉を交わした日から彼の印象はどんどんと様変わりしている気がする。冷たいイメージがゆっくりと溶かされていくようだった。

「画材を見て回るのが好きなのは事実だから、今日は色々見てみることにするよ。だから、そうだね、嘘にはならないからシンジくんが気に病むようなことはなにもないよね?」

「もちろん」

 僕の返事ににっこり笑ったカヲルくんに遅れるといけないからと時計を指さされて、確かに遅刻にはならないがいつもより遅くなってしまったと慌てて手を振って別れた。

「また、明後日」

 その言葉に大きく頷いて。

 

 

 気をつけなさい、と言われたのはその日の午後。

 頭にクエスチョンマークを浮かべる僕に厳しい顔をしたアスカがいつもより声を潜め言葉を続ける。

「カヲルには一人、熱狂的な信者がいるの。意味がわからないと思うけど嘘じゃないのよ。ただ憧れているだけの連中ならまだいいけどね、その子の場合はカヲルに近づく人間を本当に嫌味嫌ってるのよ。相手はただの一般人よ? 馬鹿みたいでしょ」

 けど害があるのは事実だから、気をつけなさいね。

 厳しい表情を崩すことなく言うと最近お気に入りだというジンジャー入りの飴を僕の手のひらにころん、と転がした。

「じゃあアスカも危ないじゃないか」

 男の僕よりも女のアスカのが風当たりが強いのはもちろん暴力的な訴えに出られたら危険なのもアスカのほうだ。

「なーんでかわからないけど暴力は振るわないのよ。ただ中学生みたいな陰険ないじめを仕掛けてくるのよね。すれ違うときに暴言吐かれるのなんてざらだし、今はいいけどロッカーに鍵かけ忘れたときは悲惨だったわ」

 もう少し大々的にやってくれたら停学でも休学でも退学でも追い込んでやれるのに、と物騒なことを言ってのけたがそれだけフラストレーションが溜まっているのかもしれない。

 僕だってすれ違い様にそんなことをされたら流石に気が滅入ると思う。

「見た目は可愛い子なんだけど、ちょっとロリータ入ってるけどセンスはいいと思うのよねー。カヲルを王子様かなんかと勘違いしてるのかしら」

 想像しただけで鳥肌ものなのに、と自分の両腕を擦ってみせると同意を求めるような視線を寄こすので「そうかな」と思わず呟いてしまった。

「アスカからすればそんなことないのかもしれないけど、ちょっと見ないくらい格好いいと思うよ? 多分、雰囲気とか物腰もあるんだろうけどさ、外見も。そういう子ならいきすぎちゃうのもわかる気はするなぁ……。だからって人にどうこうっていうのはもちろん良くないとは思うけど」

 僕だって初めて会った時はびっくりした。それが異性ならばなおさらじゃないかと思う。

 思ったことをそのまま口にすれば話を聞いていたアスカが黙り込んで、不機嫌さを隠そうともせずに唇を尖らせた。久しぶりに見た子供っぽい表情に口元が弛んでしまうのを自覚して、そっと手のひらで隠す。

「……隠してもわかるわよ、なに笑ってんのよ!」

 もう、と拳を作ると軽い力で頭を小突かれて「ごめんごめん」と手を合わせた。怒った表情を崩さないまま腕を組むと「まぁ、気をつけなさいよ」ともう一度念を押すように忠告してから席を立った。

「夕飯、一緒に行く?」

 最近買ったという家具デザイナーがデザインしたという大きめの鞄を肩にかけると扉で待つ友人に手を振ってから律儀にも誘いをかけてくれる。

「今月厳しいから」

 見え透いた嘘だ。

 鍵のついた引き出しを開ければそれなりの厚みがある封筒が顔を出す。アスカの交友関係の広さには目を瞠るものがあるがその実、本音で話をできる相手の少ないことを嘆いていた。今日待っていた友人はそのうちの一人だ。

 折角なんでも話合える時間を僕が行くことで潰すのは気が引ける。

(なんて、本当は人づきあいが苦手なだけなんだけど)

 その割にはカヲルくんとはすんなり喋れるのだから不思議だと、人の少なくなった教室を後にした。

 

 

 

説明
カヲシン大学生パロ。大学生になり、一人暮らしを始めたシンジは、不思議な雰囲気を持つ一人の青年と出会う。彼はどうやら同じマンションに住む住人のようだが。
続き→http://www.tinami.com/view/265798

この話が入っている再録本の在庫が少しだけあるので夏コミにも持っていきます。

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