【カヲシン】君の知らない物語 中 |
夢だと気づくのは決まってその夢を見たときだけだ。
空中に浮くようにして自分の意識があるのだ。まるで映画を見ているようなそんな感覚で夢は進んでいく。
けれどこれは夢じゃない。
そんなことは自分が一番よく知っていた。
(これは、昔の悪夢だ)
仲良く歩く親子。買い物帰りなのか母親は大きな袋を手に下げ、手伝っているつもりなのかその袋を抱えるようにして持とうとしている子供に笑いかける母親。仲が良いと一目でわかる光景だった。
二人でゆっくりと信号を渡り、その両足が歩道に着いた時だった。けたたましいタイヤの擦れる音と、物凄い力で地面に倒れる衝撃。空中から見ているというのに、その時の痛みが体を這うように蠢く。背筋に嫌な汗が流れる。拳がいつの間にか固くなった。
衝撃ほどの痛みがないと気づき、擦れた両手で痛みを耐えながら体を起こすと、意識は――幼い自分になる。
「っ……おかあ、さ…ひっく、おかあさん、どこ、おかあさん――」
溢れる涙を拭いながら辺りを見回すとフロントが無残な形に大破している車と自分を気遣う大人たちと、それ以上の人に囲まれているお(・)か(・)あ(・)さ(・)ん(・)の手が見えた。
「おかあさん!」
喜んでいたと思う。知らない人たちに囲まれ、あちこち擦り切れて痛くて、なにが起こったのかもわからいまま混乱して、そんな中で見つけた母親に喜んで近寄った。
大人たちの力ない制止を振り切って駆け寄った先にいたのは、母親ではなかった。いや、まぎれもなく母親ではあったけれど、それを母親だと認めるにはその時の自分は現実がわかっていなかった。
「おかあ、さん――?」
アスファルトに滴る血に怪我をしていることはわかった。怪我は手当しないといけない、黴菌が入るから。だから冷たい地面に横たわる母親のどこから流れているのかわからないくらい大量の血を拭うようにしていつも持たされたハンカチでそっと押えた。強く押さえると痛いから。
けれど血はとまることなく名前の刺しゅうされたハンカチが真っ赤に染まっていく。懸命に押さえると両手が赤くなった。
母親の顔を見る。目を覚ましてくれない。なんでだろう。
「おかあさん」
呼びかけてみる。赤く染まっていく両手とは対照的に母親の顔は真っ白だった。元々色白だったが、今じゃ紙のようだ。
今? 今じゃない、これは夢だ。
夢? 夢じゃない、これは現実だ。
現実だ。
救急車の音が聞こえてくると、ゆっくりと意識が薄れていった。次に目覚めるとよく見知った天井が見えて、体に嫌というほど力が入っているのがわかる。
「はっ、はっ――っう」
速くなる呼吸に慌てて枕元にある袋をつかむと震え冷たくなっていく両手で広げ鼻と口を覆った。落ち着こうと考えずに大きく息を吸うことを意識する。そうすれば段々と呼吸の速さも戻っていく。
「っ、ふぅ」
(久しぶりだな。収まったと思ったけど、置いておいてよかった)
額に浮かんだ汗を拭うと固くなった体から力を抜くようにもう一度大きく息を吐いた。
幼いころから繰り返し見る夢はいつしか引きがねの役割りを果たすように過呼吸を引き起こすようになった。最近は夢自体見なくなっていたが、お守り代わりに枕元には必ず袋が置いてある。
「――――……」
生理的な涙とは別の、温い涙が頬を撫でるのに気づいて少し強いくらいの力で拭うと震える唇を噛みしめた。
カーテンの高さに驚きつつも越してきて初めに買ったそのカーテンを少し開けると外は未だに暗く、いつもならすぐに眠くなるところだが、幾度か瞬きを繰り返してみても一向に眠気は襲ってこなかった。
(四時――お風呂入ろう)
体温で温まった布団を抜けるのはいくら夏場とは言え辛いものがあるが一度覚めてしまった意識に仕方なく湯船に湯をはりに行く。お風呂は命の洗濯とは言うが、普段はシャワーで済ませてばかりで湯船に漬かることがほとんどない。
(じゃあきっと心は汚いままなんだ)
馬鹿げた考えだと思ったがあの夢を見た後はいつだっていつもの自分ではなくなる。薄靄のように暗い感情がゆっくりと心の中で広がっていく。あの事故以来、父さんは変わってしまった。それまではむしろ子煩悩と呼ばれる類いの親だったと思う。それが事故を――母親の死を境に常軌から逸脱するほどに仕事にのめりこんでいった。
きっと他に術がなかったのだ、父さんには。笑わなくなった。話をしなくなった。家に帰ってこなくなった。最後に会ってから、どれくらい経つのだろうか。
アスカと出会ったときにはすでに父さんは家にはほとんど居つかなくなっていた。母親を失ったばかりのころはそれでも今よりは一緒にいたと思う。けれどそれもすぐになくなっていった。
そんな状況を知っているからかアスカは僕以上に父さんが嫌いだった。叔母さん夫婦は見ず知らずの僕に対しても優しかった。それだけは救いだったと思う。
いつしか一人で暮らすには広い家を窮屈に感じるようになり大学からはと一人暮らしを決めると父さんは突然僕名義の口座があることを告げ、そこにはすでに一介の大学生が持つには十分なほどの金額が入っていた。
最初は突っぱねたが、結局世に出る術もない僕にはその口座は生命線になった。
父さんなりの優しさだろうかとも思ったこともあるが、それは本人に否定された。残してくれたのは母さんだという。それが嘘であれ本当で僕にとっては母さんの大切に貯めてくれたお金だ。
傷ついたのは自分だけじゃないと割り切っても、有り余るほどの負の感情を父さんには抱いていた。きっと僕は父さんと慰め合いたかったんだ。お互いの傷をゆっくりと癒していきたかった。
(それなのに父さんは――!)
お風呂を沸かすためにセットしたタイマーの音で我に返り、無意識のうちに力強く握りしめていた拳を解いた。
(もう何年も前のことだ)
割り切ろうと思うのは簡単なことだ。けれど実際に実行に移せなければ意味はなかった。
「馬鹿みたいだ」
結局僕は父さんに振り向いてもらいたいだけで、どうしたって無理だってもう充分わかっているのに未だにまた笑いかけてくれる日が来るんだと心のどこかでは信じている。
「本当、馬鹿だ」
「苦手なものは?」
待ち合わせ時間きっかりに現れたカヲルくんはとりあえず先にお昼を取ろうと歩き出すとそんなことを聞いてきた。
「特にはないかな」
言ってから、もしゼロの数が多いイタリアンとかフランス料理の店についたらどうしようかと大学生からしたら現実味を帯びないが、カヲルくんならと納得してしまう考えが浮かんだ。
「あっ、と……そんな高いところじゃなければ、嬉しいな」
突然大きな声を出して、段々と尻すぼみになる僕の声に目を丸くしてから一瞬の間を開けてから肩を震わせくつくつと笑いだした。本当におかしくて堪らないのか、羨ましくなるほどにきれいな手のひらで口元を覆う。
馬鹿にされたわけではないが、僕の発言に笑っているのは明確で急速に顔に血が上った。まさかそんなに笑われるとは思わなかった。いや、むしろ笑われるとさえ思っていなかった。
「ごめん、やっぱりイタリアンにでも行きそうなイメージなのかなと思ったら。そう顔に書いてあるんだもの」
ようやく収まったと大きく息を吐き出すと僕が思ったことをそのまま口にされ、顔を赤くしたまま何度か首を縦に振った。
「うーん、イタリアンは行かないんだけどね。イメージは怖いね。前もアスカに『イタリアンとフランス料理は嫌、スペイン料理ならいいわ』なんていきなり言われてびっくりしたものだよ」
普段から偏食だからそんなに凝ったものは食べないんだと先ほどとは違い落ち着いた笑みで返されて、そういうものかと納得した。なまじアスカに馬鹿がつくほどの金持ちだなんて嘘か本当かわからない(とは言ってもアスカが嘘をつく理由もないし大方本当なのだろうけれど)話を聞かされていたものだからなんの疑問の持たずにそこにいきついたのだ。
それにしてもアスカの口調がそっくりだと変なところで感心すると「カヲルくんの好きなところがいいよ」と返してみた。相手の好きな料理を口にできればよかったのだけれど知っている情報が少なすぎてそんな切り返しになってしまう。
アスカが相手なら確実にパルティーノと答えていただろう。自分に不得手なものがなければ相手に合わせたほうが楽だった。どうしても食べたくないと言うものも少ないがどうしても食べたいというものも同じくらい少ない。ほとんどないと言ってもいいだろう。
「肉料理はあまり得意ではないけれど、それ以外に得手不得手もないし、実は食べることはそれほど好きではないんだ」
面倒に思わないかい? と聞かれ返答につまる。たしかに疲れている時なんかは面倒に感じることもあるが食べること自体はそうでもない。どちらかというと作る方が面倒くさいのだ。
「なんだろうね、確かにおいしいものを食べると嬉しいというのはわかるけれど例えばモントブレチアで食べていたサンドウィッチはおいしいと断言できるものがもし中身が学食のぱさぱさに乾いたサンドウィッチであっても僕としては構わないんだ。逆に学食のサンドウィッチがあのサンドウィッチだったとしても僕からすればあまり魅力的ではないんだよ。結局はあの包み紙の構造が気に入っているのであって、それはもちろん中のサンドウィッチ自体がおいしいのは事実だけれど僕がお金を出しているのはあの包み紙に、ということになる」
「けど、それも食事の醍醐味に組み込まれているんじゃないかな?」
確かに食事の内容物に興味がないのは珍しいが、包み紙で選んでいるのならばそれも一種の楽しみだと思う。見目の良いケーキを買いたくなる感覚と一緒だろう。
「確かにそう言われてみればそうかもしれないね、自覚のないうちに楽しんでいたみたいだ」
そうとわかれば僕が無自覚のうちに楽しんで気に入っているところでもいいかな、なんていたずらめいた笑顔を浮かべる。
「もちろん」
てっきり電車に乗るのかと思っていた僕は駅への道を外れるカヲルくんに首を傾げがらも半歩後ろをついて行く。この街に越してきてからもう半年近く経つが、こっちの道は来たことがなかったと辺りきょろきょろとを見回す。どうやら工場が立ち並ぶ土地に近付いているのか沢山あった住宅も、段々とまばらになってきていた。
「こっちの方は初めて来たよ」
「用がなければこっちまで来る人は少ないよ。住宅もほとんどないし、あるとすれば工場ばかりで」
そう言いながらも工場の並ぶせまい道をどんどんと進んでいく。まさか、工場内にあるんじゃないだろうかと築地市場のようなものを想像してから、まさかなと否定する。ここらの工場は食品関係を扱ってはなさそうだ。
「新規の人を連れて行ったら怒られるんだけどね、もう二人も連れて行っているから」
けどきっと気に入るよと秘密をばらすように人差し指を唇にあてると更に狭い路地裏へと入っていく。
「怒る?」
お店なのに? どうしてかと口を開きかけたところで小さな白いビルが見え、事務所に使われるような簡素な扉をなんの躊躇もなく開けるカヲルくんに驚いて、結局聞くことはできなかった。
なんの看板もない建物に入れば、真っ白い空間に木でできたカウンターと、机が三つ並んでいた。
「何度言ったらわかるのかしら」
頭が悪いわけではないのに。急に聞こえた皮肉とも本気とも取れる言葉に驚いて声の主を探すとカウンターの奥に立ち並ぶ観葉植物に隠れるようにロッキングチェアーに座った女性が一人、読んでいた本を閉じると理知的な目許を縁取る眼鏡を畳みながらこちらに視線を寄こした。
「そう固いことを言わないでくれよ」
肩を竦め冗談をかわすような身軽さでもって受け止めたが、傍から見ている方としては相手が冗談ではなくわりと本気で発言しているように見て取れた。少なくとも歓迎されていないのはわかる。
「まぁいいわ、言っても聞かないのがあなただもの」
座ってて、といわれるがままに空いた席に(と言っても埋まっている席はひとつもないが)座ると不安な気持ちが顔に出ていたのか「味は確かだよ」と安心させるように言った。
「あ、うん。――ここって、お店なのかな?」
自然と小さくなる声に答えたのはカヲルくんではなく、先ほどの女性が消えていった部屋から出てきた若い女性だった。
「お店ですよ、センパイは否定しますけど。だから渚くんがお客さん連れてきてくれるのは嬉しいんです」
糊のきいた白いシャツに黒いギャルソンエプロンを腰に巻いた格好で顔を出したその女性は「ゆっくりしていって下さいね」と子供のように無邪気な顔で笑うとまた奥に引っ込んでいった。どうやら隣接されているのはキッチンらしい。
「料理は彼女が作っているんだよ。新鮮な素材で素朴な料理がウリなんけど、あの通りオーナーがやる気がないからね」
この建物も安いからという理由で購入して、空いた一階を趣味で作った料理を出すスペースにしたらしい。趣味と言ってもプロ顔負けのものらしく、カヲルくんは初めてここを訪れてから週に一度は訪れているという。
「やる気がないですって?」
煙草の煙を燻らせ空いた椅子に腰かけたオーナーと呼ばれた女性は左目の下に泣きぼくろのある赤い唇が印象的な人だった。
「立地からもにじみ出るほどやる気はないと思うんだけどね」
「そんなやる気のない店に人を連れてくるのが間違ってるのよ。初めまして、赤木リツコよ。一応ここのオーナーをやってるわ」
カヲルくんに向き合った時の理知的な表情を崩さないままこちらに向き直ったので慌てて名前を告げると「あなたが噂のシンジくんね」と意味深な言葉をかけられ首を傾げた。
「人をからかうのはどうかと思うね。アスカに怒られるのは自由だけど、とばっちりを受けるのはごめんだよ」
アスカもここに来たことがあるのかと感心するとともに、なぜそれでアスカが怒るのかがわからない。
「あら、アスカが名前を言わなかったのにあなたが最近知り合ったからと軽はずみに口にしたのがいけないんじゃないのかしら?」
携帯灰皿に長くなった灰を落とすと口元だけで笑みを浮かべカヲルくん以上の余裕を持って笑った。
「本当はあまり人がいるのは好きじゃないの。けど、あなたなら仕方ないわね、カヲルが名前を出した時点で来るのはわかっていたもの」
「わかってたのはいいですけど、煙草、あんまり吸いすぎないで下さいよ? しかもお客さんの前で」
もう、ところころ表情を変えながら怒ったり笑ったりと忙しそうな女性を「彼女はマヤよ、ここのシェフね」と簡単に紹介するともっとちゃんと紹介してくださいよ、と膨れるのを尻目にマヤさんの持ってきたトレンチに乗ったコーヒーマグを持つと当然のように自分で口をつけた。
もともと乗っているものが三つある時点でいつものことなのだろうけれど、初対面ながらこんなにもお店の人との距離が近いことに戸惑いを感じる。
「センパイのことは気にしないで下さいね、人がいるのが苦手なんて言いながら寂しがり屋なんですよ」
ことり、とグラスに入った赤みを帯びたオレンジジュースを僕の前に、キメの細かい炭酸の上るペリエをカヲルくんの前に置く。
「こらマヤ」
「はーい、お料理持ってきますねー」
眉を吊り上げ睨むリツコさんに臆した様子もなくキッチンに引っ込むマヤさんは楽しそうだ。本当に料理をするのが好きなのか、鼻歌まで聞こえてくる。
「まったく……まぁいいわ、さて――邪魔者は退散するわね」
座っていた椅子から立ち上がるのと同時にキッチンから出てきたマヤさんになにか耳打ちすると僕たちの入ってきた扉に手をかける。
「あとでなにか持っていきますね」
そんな声に片手を上げるとコーヒーマグも持ったまま扉から出て行ってしまった。
「また猫のところかい?」
「ええ、この時間はいつも」
人間より猫の方がいいって言うんですよ、それを人間の私に言うんですから全く困りものですよね。なんて怒りながらも「あとで餌持っていかなきゃですね」と続けるのだから本当に怒ってるのか怪しいものだ。
「猫、好きなんですか?」
「そうなんですよー、昔は自分で飼ってたんですけど亡くなっちゃって。それからは怪我してる野良猫を見つけたら保護して里親探したり、自分じゃもう飼わない気なんです。きっともう寂しい思いをするのが怖いんですよ
ね」
本当に泣いてるのかと思った。
声の中に涙が交じった気がして、驚いて顔をあげると不思議そうな顔をして「どうしたんですか?」と首を傾げられる。
「あ、いや、なんでもないです」
気のせいかと視線をオレンジジュースに落とす。いきなり顔をあげたりして、変に思われなかっただろうか。
「渚くんはコースで順番に出されるの、嫌なんですよね」
「食べるスピードは人それぞれだからね、一人がどんどん食べて皿が変わるのは気を使うだろう。それに凝った料理が好きなわけじゃないから」
その言葉通り大皿に盛り付けられたサラダやカルパッチョ、パスタが並べられる。
「じゃあ、私は先輩のところに行ってきますね」
エプロンを外してなんの躊躇もなく手を振って出て行ってしまったマヤさんに驚いて、閉じた扉を見つめているとカヲルくんがいつものことだから気にすることはないのだと言う。
「ここの料金は食券というか回数券みたいなものでね、月の初めに買う回数券のようなチケットがないと入れないんだよ」
これ、とカヲルくんが見せてくれたチケットは店名と年号と月日が印刷されたものだった。デザインはとても凝っていてきれいだが他にはなにも載っていない。
「だから来れる回数も決まっているんだ。一人一回につき一枚、チケットは六枚綴り。もちろんその月が終わったらもう使えないんだよ」
変な店だよ、と悪態をついたけれどそうやって話してくれるカヲルくんは楽しそうだった。彼がここを気に入ってる理由が少しわかった気がする。
そうして、その奇妙な店でのランチは変わったお店の話題でほとんど埋め尽くされていった。
実はもう一人いるんだと思い出したように言ったのは駅の前をまた素通りしたときだった。
遠ざかる駅に、どこに行くのだろうと先ほどとまた似た疑問を抱いたがとりあえずついて行こうと納得したときにそんな言葉をかけられて、少し戸惑う。人づきあいが得意ではなく、初対面の人なんかは特に沈黙が長いこと続くタイプの人間としては「もう一人」という言葉はなかなかの重荷だ。
「あぁ、そんなに緊張しなくてもいいよ。本当にもう一人いるなってくらいで、話してもらわなくても構わないんだ。むしろ会話というものを成立させるには言葉数が少ない相手だから」
僕の反応に先に伝えてなくてごめんと本当に申し訳なさそうに言われ、曖昧に頷いた。僕自身のことはまだいいが、カヲルくんの友人に悪印象を抱かれたら僕を連れて行ったカヲルくんの印象も悪くならないだろうかと少し心配になった。
「こっちって――家の方向だよね?」
見慣れた景色は疑問を段々と確信へと近づけていく。それは通いなれた「コーポひまわり」への道だった。
「まぁ、用があるのはここなんだけどね」
ここ、と彼が示したのはどこか陰りを含み、毎月のように本の並びが変わるという、あの古書店だった。
「ここ?」
古びて文字のほとんどが消え、錆びついている看板を見上げ聞くとカヲルくんのものよりも高い声が耳を擽った。「遅刻」
え、と視線を下げた先にいたのはカヲルくんを同じ、赤い瞳の女の人だった。
じっとこちらを見る視線は矢ほどの力強さもなく、けれど有無を言わさぬような不思議な強さを湛えていた。僕にはそう感じられたが、その実なにもない深い闇のようにも見えた。
感情が――感じられない。
カヲルくんにも似たような印象を抱いたことはあるが、それ以上だった。赤い瞳はガラス玉のようで、こちらを見ているのかすら怪しい。庇の下だと言うのに白い肌は透き通って見え、白昼夢を見ているようだった。
蝉が短い命を燃やし鳴く。
背筋を汗が伝う。
誰かに、似てるんだ。
そう気づいたところで横を通りすぎたカヲルくんが発した「ごめん」という言葉によって意識がふと鮮明になり、背筋を伝った汗が冷や汗だったということに気づく。
「もう始めてるのかい?」
「いえ、まだ」
彼女の言葉に満足そうに頷いたカヲルくんは、僕を手招いて呼ぶと凄く丁寧に紹介をしてくれたので、よろしくお願いしますと頭を下げるだけで済んだ。
「彼女があの、綾波レイだよ」
にっこりときれいな笑みを作ったカヲルくんは躊躇いもなくそんなことを言い出して、僕はとても焦ったが言われた当人はなにも思わなかったのか無言のまま表情を変えることもない。
「えっと、綾波、さん」
「呼び捨てでいいわ、碇くん」
意図せず上擦った声を隠そうと口を覆ったがそんなことをしてももう遅く、けれど僕の行動など微塵も気にしていない様子でそう言った彼女は「右半分をやるわ」とカヲルくんに告げるとさっさとお店の中に入っていってしまった。
「まったく、相変わらずだねレイは」
じゃあ僕たちは左半分をやろうかと笑うカヲルくんに慌てて待ったをかける。
「なにするの?」
当然の疑問を口にした僕に、これまた当然のように本の並べ替えだよと返すカヲルくんに言葉を失う。理解するまでにいくらかの時間を要した。
「並べ替えてるのってカヲルくんだったの?!」
「まぁ、元々はレイがやっていたのを手伝っていたんだけど。そうだね、僕も案を出したりするから」
そういうことになるね、とあっさりとネタばらしをすると「驚いたかい?」なんてとても子供のように無邪気に笑うので驚きもしたが楽しそうという感情が先立って、なにをすればいいのかと先ほどまで感じていた少しの不安もどこかに行ってしまったのか高揚した気分のまま聞いたら笑われてしまった。
「とりあえず、レイも言っていたけど僕たちは左半分の本棚を担当するんだ。まずは前回干していない本を風通しのいい二階に出して、少しずつ棚の埃を取る。毎月やっていることだからそんなに汚れてはいないから前回やったところを避けるようにして、少しずつね」
とりあえず中に入って説明するよ。
その言葉に頷いて古書店の中に入ろうとすると、いきなり振り返ったカヲルくんが「忘れていた」と軒先にかかっていた営業中という札看板をくるりとひっくり返した
「準備中」
本というものが思った以上に重いものだと知ったのはハードカバーの本を纏めて抱えたときだ。
最初はなんなく持ち上げられたが階段を一段二段と上っていくうちに段々と重く感じるようになる。まるで舌切りすずめのお婆さんと同じ、重いつづらを持っているようだった。
「大丈夫かい?」
先に二階についていたカヲルくんが僕以上の冊数を持っていたというのにそんなことは微塵も感じさせない涼しい顔で聞いてきてなんとか頷くことで答える。
「もっと少ない数を持ってきてくれて構わないよ。何度も上り下りすることになってしまうけど、そっちの方が危険がない」
それにもう少しで陰干し用の本は運び終えるから、とひょいっと僕の手から本を受け取ると丁寧に二階の床に広げていく。そんな細い体のどこにそんなに力があるのかと驚いたが本当に軽々と抱えてしまう。
「じゃあ僕、残りの本持ってくるね」
そう言って一段一段が高い階段を下りようとすると、本を広げ終わったカヲルくんに名前を呼ばれ振り返る。
「っ……」
いきなりアップになったカヲルくんに驚いてバランスを崩しそうになる。
「汗が――」
そういって僕の前髪をさらりと横に撫でると濃紺のハンカチをそっと額にあてがった。そのさらりとした感触とこの年になって誰かにそんなことをされるとは露ほど思っていなかったので急激に顔が熱くなるのがわかる。
「ぁ、ありがとう……」
恥ずかしさに震える唇でなんとかお礼を言うと言葉もなくほほ笑んだカヲルくんにさらに顔が赤くなった。
(やっぱり美形って凄い)
周りからのあの特異な視線がないだけでだいぶ気が楽になって、カヲルくんが美形だということも認識はしていても自覚が薄れていたところにこのアップは心臓に悪いと頬の熱を冷ますように手をあててみたが、熱くなった手のひらではその役目を十分に果たさなかった。
「シンジくん?」
いつまで経っても階段を下りようとしない僕にどうしたのかと不思議そうな顔をしたカヲルくんに慌てて階段を下りようとすればさっと手が伸びてきて腰を支えられた。こういうことをさらっと出来てしまうのが凄いところだとは思うが、やる相手は選んだほうがいいと思う。
「勾配が急だから、ゆっくりでいいよ」
「あ、うん」
お礼も言えずに頷くと何事もなかったかのように手が離され、どぎまぎしているのが自分だけだということに更に顔が熱くなるので、隠すようにして階段を下りた。人ひとりで横幅いっぱいになる階段は顔を隠すのに大いに役立ってくれる。
(同性相手にこんなにどきどきするなんて初めてだ――変なの)
急な階段をなんとか下りると、右半分の本棚を担当していた綾波に少し草臥れた布巾を手渡される。その時一瞬こちらを凝視したような気がしたが気のせいだったのかすぐに後ろにいるカヲルくんに向き直ると凛と澄んだ声で「カヲル」と名前を呼んだ。
(怒ってる?)
今まで感情を読み取れなかったガラス玉のような瞳が少し眇められたように見える。
「咎められるようなことはなにもしていない、それより早く作業を進めないと日が暮れてしまうよ」
綾波の手から布巾を受け取ると担当だと言われた本棚の陰に隠れてしまった。
「頑張って」
「え?」
驚き振り返ったときにはすでに背中を向けられていて、聞き間違いだったのだろうかと無意識に耳に触れてから、ぼうっとしている自分に気づき、握りしめた布巾を綺麗に折りたたみながら本棚の陰にいるカヲルくんに近づいた。
「乾拭きするの?」
「一度固く絞ったもので拭いてから、乾拭きするんだ。僕が水吹きをするからシンジくんは乾拭きをしてくれるかい? まずは空いたところから拭いて、終わったら少しずつ動かしていこうか」
木目に沿って拭くと木が痛まなくていいから、とわかりやすいように木目に沿うように指を滑らせてみてくれて大きく頷いた。
水拭きされたところを丁寧に拭いていくと木が艶を増した。高い位置も脚立を使いながら進めていく。
「そうだ、レイに聞いてみたよ。本、貸してくれると言っていたけど――迷惑だったらごめん」
拭き終った棚にずらすようにして他の棚から持ってきた本を入れる作業をするカヲルくんと唐突に視線が合う。先ほどのこともあってか刹那言葉を返すことも忘れて赤い瞳を見つめた。
「――シンジくん?」
瞳を覗かれるように近づく顔に驚いてまるで金縛りをとかれた時の瞬発力に近い速さで視線を外した。今日はなんだか自分が自分じゃないみたいだ。
「迷惑なんて、僕のほうこそ手間取らせてごめん。借りさせてもらうね」
止まっていた手を動かしながら、視線を本棚へと固定する。やっぱり不思議なのはカヲルくんも綾波も同じくらい なのかもしれない。まだカヲルくんのが話しやすいだけで、実際戸惑うことだって少なくなかった。
それはほとんどが僕一人焦っていたり慌てていたりでカヲルくん自身になにがあると断定できるものではないが、けれど実際こうして一緒にいるとどきまぎしてしまうほど整った顔とそれに比例するかのように人当たりのいい性格は不思議とまでは言わないがアスカの話すカヲルくんを知っているだけあって僕にとっては少しの差異を感じる。
(それにたまに僕の知らないなにかが行き来している気がする)
例えばリツコさんのお店では「最近知り合ったからと軽はずみに口にした」と言っていた。これはきっと僕のことだ。知り合って一週間も経っていない僕なんかのことを話していることにも驚きだが、アスカがそれを怒るという理由もわからない。
怒ると言えば先ほどの綾波の態度は、なにかを咎めるようでもあった。それには「咎められるようなことはなにもしていない」と答えていたが、確かに咎められるようなことをしていた覚えはないが綾波がなにを咎めたのかすらわからない。いきなり僕を見て顔を険しくした。
「なんだったんだろう」
小さな呟きは誰にも聞きとられることなく、色褪せた本棚に吸い込まれるようにして消えていった。
「なんでアンタがカヲルと出かけるの!」
ヒステリックじみた声に驚いて、一瞬辺りに視線をやったが喧騒に包まれた食堂内でアスカの声を気にするものはいなかった。
「な、なんでって、誘われたから……」
アスカが憤慨するようなことなんて言った覚えもない。ただ、そういえばカヲルくんと古書店で本棚の整理をしたんだと話し、リツコさんとマヤさんの口ぶりからアスカがあのお店に行ったことあるのはわかったからそれを話しただけなのに。
「気をつけなさいって忠告したばっかりじゃない、どうしてそんな軽率な行動ができるのよ。おかしいわよ、誰かと出かけるなんて全然しなかったじゃない、しかも知り合って日も浅い相手となんて」
呆れたような物言いに、さすがにむっとして「忠告されるよりも前に約束したものだし、軽率だなんて言われる覚えはないよ。それにアスカとは出かけてたじゃないか。カヲルくんとは確かに知り合ってまだ短いけどそれだけ気があったってことだし、そんなふうに言われる筋合いはないよ」とまくし立てるように言えば、アスカの顔がさらに険しくなった。
「っ、じゃあ私なんかと一緒にいないで早くカヲルのとこにでも行きなさいよ!」
勢いよく机を叩くと水の入ったグラスが揺れて倒れる。
そんなことも気にせずに鞄を掴んだアスカは早足で食堂を出て行ってしまった。その後ろ姿はわかりやすいほど不機嫌で、流石に今の声は響いたのかあちこちから視線を感じたが、僕にはどうしようもなかった。追いかけたところでなにを謝ればいいのかすらわからない。
倒れたグラスからこぼれた水が、机のふちでぽたりと垂れた。
(なんで、怒ったんだろう)
釈然としない気持ちを抱えながら、この水をどうにかしなければと立ち上がると同時に後ろから手が伸びてきて机の上の水をさらりと拭いた。
「カヲルく――あ、ご、ごめん綾波」
作り物のように白い肌に咄嗟に頭に浮かんだ人物の名前を口にしてしまい、振り返った先の赤い瞳に申し訳なくなった。確かにアスカの言うとおりおかしいのかもしれない、前までの僕はこんなに人と打ち解けるのは早くなかったはずだ。現にこうして手伝ってくれている綾波とはどう接すればいいのかすらわからない。ただひたすらありがとうとごめんを繰り返して、なんとか机の上を片づけて、結局また謝ってしまった。
「いいの。これ、いつでもいいわ」
スッと鞄から出して手渡されたのはモントブレチアでカヲルくんがおすすめだと言っていた本だった。
「ありがとう。できるだけ早めに返すよ」
「カヲルに渡して」
返す時、と続けられ直接じゃない方がいいのかと思ったがそう言われてしまえば断る理由もなく、頷いて返した。
しばし無言で手元の本に目線を落としていたが、綾波の声に顔をあげると相変わらずなにを考えているのかわからない瞳に見つめられ、どきりとした。
「怒ってるんじゃないわ、悲しいのよ」
唐突にかけられた言葉に、意味がわからずになんのことかと聞こうとしたが既に背中を向けられていて、聞くことはかなわなかった。
怒ってるんじゃなくて、悲しんでる?
もしかしてアスカが? と思ったがその答えは出ないまま午後の講義を受けるために食堂を後にした。
悲しんでる? ――どうして?
思えばアスカと喧嘩らしい喧嘩をしたの初めてだと気がついて。何度か言い合ったりもしたが、結局僕が毎回折れていた。それはアスカが一方的に怒っていた所為もあるが、その実僕が喧嘩をするのを嫌い、ただ謝っていたからかもしれない。
もちろん悪いと思って謝っていたはずだが、今思い返そうとしてもアスカがなにに怒ったのかは思い出せなかった。
(臆病なだけだったのかもしれない)
人に嫌われることが極端に怖い。
嫌われるくらいだったら自分を折ったほうが僕にとっては楽だった。誰かが離れていくことが怖いのだ。
けれど、今回はどうしてか言い返して、あまつさえ謝りもしなかった。それくらいではアスカが離れていかないと思ったわけではないのだ。ただ、勝手にさせてくれと思ってしまった。自分の意思で縮こまっていただけなのに、アスカを理由にしてしまったことになる。
最低だな、と思った。
けれど自覚しただけじゃだめなんだと思うと気が重かった。アスカと話をしなくてはいけない。喧嘩をするとこうも憂鬱になれるのかと嬉しくない新しい発見にまたベッドにもぐりこむ。
目を閉じて頭の中では今日ある講義を思い返している。何度休んだか、重要な日だったか、今日休んでも大丈夫だろうか。一度休むと癖になることなど嫌というほどわかっていた。だからこそアスカは今日も休まないことを。
(――今日は、休もう)
意識して眠ろうとせずとも、疲れた体は簡単に睡魔に誘われ意識を手放した。きっと後悔することだってわかっているのに。
アスカと口を聞かないまま、一週間が過ぎた。
別に約束をして取っていたわけではない昼食も、一人で取るかたまに工房から出てきたカヲルくんと共に取った。
交わされる言葉はそう多くなく、ほとんどが授業のことだったり作品のことについてだった。もちろん沈黙も多く、それでも嫌な顔をせずに一緒にいてくれるのはとてもありがたかった。
そんな日が数日続き、今日は工房に籠るからとまたもサンドウィッチを手にしたカヲルくんに言われ、一人でお昼と取っているときのことだった。
ふと視線を感じ顔をあげれば見知らぬ女の子がこちらを見ていて、辺りを見回してみる。どうやら知り合いがいるようでもなく、僕の方を見ているようだった。
(なんだろう?)
なにかおかしなことでもしただろうかと思いながらも、あまり視線を合わせないようにしてたぬき蕎麦を啜っていると、おでこ靴と呼ばれるロリータ服を着る子に好まれる特有の靴が視界に入り、アスカの言葉が蘇った。
『カヲルには一人、熱狂的な信者がいるの』
『見た目は可愛い子なんだけど、ちょっとロリータ入ってるけどセンスはいいと思うのよねー。カヲルを王子様かなんかと勘違いしてるのかしら』
相手が誰だか思い至って、思わず勢いよく顔をあげてしまってから、しまったと自分の軽率な行動に小さく舌打ちした。あまり相手を刺激するのはよくない。そんなこと考えなくともわかるようなことなのに。
ばっちり目が合ってしまったが、彼女はこちらに近づいてくることはせず、近くにあった椅子に腰掛けた。そうして鞄から出したパンを食べると、こちらに視線をやることもなかった。
(勘違いか――)
美術系の学校ならば、ロリータを好む子は少なくない。気が立っていたこともあって、少し目があったくらいで決めつけてしまっては相手に申し訳ない。
最後の一口を食べ終わると、それでも気になってもう一度視線をやってしまう。変わらずパンを食べている姿にホッとして、席を立つと食器を片づけ次の実技のためにロッカーに向かう。
普段はエレベーターを使っているがロッカーが外付けの階段に隣立つようにしてついているため、階段を上っていく。ほとんど芸術学科の生徒しか利用しない所為か休み時間だと言うのに他の人は見当たらなかった。
ロッカーの設置された階に着くと、倉庫と書かれた扉を開ける。配管などむき出しのさまは本当にただの倉庫にロッカーを置いたようなものだった。重い扉を支えながら暗い中を手を這わせ電気をつけると奥に位置する一年生ようのロッカーへと近づく。
ギィ――
自分のロッカーに手をかけたとき、突然聞こえた扉を開く音にびくりと肩を震わせた。
「っ……!」
慌てて振り返ると、そこにはさっき食堂で見かけた女の子が立っていて、どっと嫌な汗が背を伝った。
「なんで貴方なの?」
前置きもなくかけられた声には、表情を確認せずともわかるほどありありと瞋恚が込められていて、声を出すことができなかった。なにを言っても耳に入らないだろうと、とりあえずは逆らうことなく相手の様子を伺う。
アスカの言葉通りなら、暴力を振るってくることはないはずだ。
「ねぇ、なんで?」
彼女が一歩踏み出すごとに体を固くする。いくら暴力に訴えかけないからといってこの状況は心臓に悪い。
「なんでかしらね」
見知った声が倉庫中に響き渡り、遅れてバンっと扉が勢いよく壁にぶつかる音がした。
「アスカ……」
「なにぼけっとしてんのよ、これは貸しなんだからね。今度なんか奢りなさいよ?」
いつもの調子で不敵な笑みを浮かべたアスカに体中に入っていた力が抜け、情けないことにその場でへたりと座りこんでしまった。大丈夫だと思っていても、実際に自分がこういう立場に置かれるまではそんな心構えなど役に立たないことを知る。
「なんで、なんで貴方達なのよっ!」
アスカの登場に僕と同じくらい驚いてた彼女がさきほどまでの瞋恚が含まれた声とは違い、悲痛な声で叫ぶとアスカが思いきり眉を寄せ、眉間に深い皺を刻んだ。
「自分がしてること思い返したらどう? こんなことしかできないで、私たちを恨むならお門違いも甚だしいわよ」
泣きそうな彼女に一歩近づいたアスカは「可愛い顔してるのに、カヲルなんかじゃもったいないわ」なんて言いながらにっこりと笑った。
それには流石に、どう答えていいのかわからないのか口を閉ざしてしまった彼女が不憫に思えた。いくらなんでも好きな相手をなんか、と言われたら怒りたくもなるだろうがこの状況下じゃどうしようもないのだろう。
「ま、幸い暴力は振るってないわけだし、もう私たちに関わらないって約束できるなら大学に報告したりしないわ」
これでもアスカにしてはかなりの情状酌量だろう。退学にとまで言っていたというのに、今じゃ退学に、なんて考えてもいないようだった。
「――嫌です」
この言葉を聞くまでは。
「はぁ?」
流石に青筋を立てるアスカを前にした彼女は、焦ったのか慌てて口を開くと弁解するように言葉を続けた。
「えっと、そうじゃなくて、貴方達には近付きません。本当に。ただ……渚くんのことは簡単に諦めがつかないと思うので少しだけ猶予を下さい」
ちらちらとアスカの顔色を伺いながら言葉を紡ぐ彼女は本当に小さく見えた。
「どうせ、あと三カ月もないんです――もう、卒業だから」
少し涙声になったことよりも、言葉の内容で絶句した僕たちは、まじまじと彼女の顔を見つめてしまった。確かに今、聞き間違えではなければ――。
「「卒業っ!?」」
「え、あ、はい」
僕たちの声の大きさにびくっと肩を揺らした彼女はそんなに驚くことだったろうか、とでもいうような表情で僕とアスカの顔を見る。
「……先輩、だったんですか」
思わず敬語になりながらも聞けば、きょとんとした顔で頷かれ、アスカと顔を見合わせることになる。二人してなとも言えない微妙な表情のまま固まっているとすっかり涙の乾いた彼女、もとい先輩が「ごめんなさい」と謝った。
「声かけたこともあったんですけど、やっぱり私じゃ相手にされなくて。当然なんですけど……」
「当然なんてことはないわ、だったらシンジが相手にされてる意味がわからないじゃない」
年上だとわかったあとも態度を変えないアスカにも驚いたが、それ以上に失礼な物言いに思わず「そこまで言わなくても」と呟くが、もちろん聞き入られることはなかった。
けれど、確かにアスカの言うこともわかる。当然なんて決めつけるのは自分でチャンスを摘んでいるようなものだ。
「話すのならあいつの得意分野はやめたほうが無難よ。あと褒めるのも嫌がるから、思ったままに話せばいいの」
あいつだってただの人間だもの。
そう言って肩をすくめると、ロッカー開かないからどいてくれる? と笑った。もう許す気なんだろう、座っている僕に視線を向けると早く立ちなさいよ、と手を使ってジェスチャーをする。
「あの、本当にごめんなさい……」
「あら、どちらさま?」
自分のロッカーに向き合ったままこれでもかというほど演技がかった声色でそう言うと、目を丸くする先輩には視線もやらずに、未だ座り込んでいた僕に苛立ったように早く立ちなさいよと捲くし立て、慌てて立ちあがった僕の手を掴んで重たい扉を潜りロッカーを後にした。
「あー、すっきりしたわ」
晴々とした表情で笑うアスカはいいけれど、次の実技で使うものを取りに行ったはずなのに結局取ってこれなかった僕としてはどうするべきかと途方にくれる。さすがにいまさら戻れないことくらいはわかっているので今日は忘れたことにしようか。
「なに微妙な顔してんのよ」
「あ、いや、定規取ってくるの忘れたなぁって思って」
流石に製図の授業で短い定規しかないのは辛いものがある。生憎先輩ばかりの講義では知り合いもいない。
「定規なら持ってるわよ」
選択実技で使ってるから、とひょいっと鞄から取り出した五十センチ定規を見せるアスカになんて良いタイミングなんだろうと先ほどの登場時よりも感動する。
「貸すけど、これは貸し一だからね。さっきのと合わせて二回ご飯付き合いなさい」
「定規くらいで……」
思わず出た本音にアスカの表情が険しくなると同時に今手渡されるところだった定規がひょいっと手をよけるようにして上げられてしまった。
「私は別に貸さなくてもいいのよ?」
確かに僕が一方的に借りたいだけなのだからとりあえずはアスカの言うことを聞いておくのが先決だろう。それに、アスカと一緒に行ったからといって奢らされたことは一度だってないのだ。いつもきっちり割り勘で、アスカの言い分はこんなところで貸しだと思われるのも嫌だからだそうで、別に僕をそういう面倒くさい類いだと思ってるわけではなくそういう奴もいるからということだった。
「ま、いいわ。貸しはなし、その代わりこの前言い合ったのもなしにしましょ」
ぽんっと手のひらに置かれた定規と、アスカの言葉に喧嘩していた事実をやっと思い出して呆けた顔でまじまじとアスカを見てしまった。じっと見てしまった所為かアスカの頬が少し赤くなってることに気づき、なんだか照れる。
しばしの沈黙ののちなにか言おうとしたアスカが口を開いたのと同じタイミングでロッカーの扉ががちゃりと音をたてたのに気づき、二人して顔を見合わせそれも一瞬で、すぐに校舎に続く扉を開けエレベーターホールまで走る。
授業に向かう生徒たちが怪訝な顔をしてこちらを見てきたが、そんなことを気にする余裕もなくちょうど開いたエレベーターに乗り込んだ。
「この年で廊下を走るなんて思わなかったわよ」
「で、何階に行きたいんだい?」
突然聞こえた声に二人して勢いよく声の主を見ると、走るもともとの原因とも言えるカヲルくんが立っていて、なんてタイミングだと言葉も出ない。
「このままだと一階につくことになるね、それといくつでも廊下を走るのはやめた方がいいんじゃないかな」
そう言って肩を竦めたカヲルくんに食ってかかりそうな勢いで「誰の所為よ!」と詰め寄ったアスカは「もとはと言えばアンタが」と長くなりそうな前置きをしたところで常時いつも通りの働きをしていたエレベーターは一階につき、ポーンっと高い音を立て知らせた。
「もとはと言えば僕の所為だと言うのなら謝るよ、ごめん。ただ授業に遅れるから続きはまた今度。その時までに今の三分の一以下の長さで短くまとめておいてくれないかい? 苦言を聞くのは骨が折れる」
ましてや長いとね、と大仰な様子で肩を竦め、言外どころか言葉の中でもアスカの話は長いと言い捨て後処理もしないまま行ってしまった。
もちろん残されたアスカは青筋を立てカヲルくんの背中を睨む。その背中が消える前に、またエレベーターは自分の仕事をしようと扉を閉じた。
「……アスカ、三階だよね」
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カヲシン大学生パロ。 続き→http://www.tinami.com/view/265744 |
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