【カヲシン】君の知らない物語 後 |
木枯らしが吹く中、四人肩を寄せ合って食堂のある二号館へと歩く。
十一月も半ばとなると空気が骨身に染みるような冷たいものに変わっていく。季節はゆっくりと変わっているのかもしれないが、こうして寒くなってみると突然のことのような気がするのだ。ついこの間までは暑いくらいだったのに、どういうわけかもうその暑さがわからない。
同じように、どうやって仲良くなったかなど仲良くなってからはさほど問題ではなく、そう言えばあの時、とたまに話題に上るような、そんな刹那のものだ。
「寒い」
沈黙を破ったのはアスカの苛立った声だった。
誰に苛立っているのか、一度口にすると寒い寒い寒いと繰り返し、薄手のマフラーを口元まで上げポケットに両の手を突っ込む。
「そんなに言ったって暖かくなるわけじゃないだろう」
「うるさいわね、こんなに寒いのにまだ秋なのがいけないのよ」
「四季があることはいいことだよ」
傍から聞いているとお互いに的の外れたようなずれた会話をしているがさほど気にしていないのかぽんぽんと軽口を叩き合っている。
「綾波は寒くないの?」
先ほどから一度も口を開いていない綾波は、ニットコートを羽織ってはいるがその下は半袖の薄手のシャツだ。
絵を描くときにあまりかさ張るものは嫌だからと薄手で腕の可動がしやすいものがいいらしいが、だとしたら作業をするときだけ着替えたらいいのに面倒くさいからと家からずっとその格好らしい。
「大丈夫」
本当に大丈夫そうな顔で答える綾波にそれならいいけど、としか答えようがない。
「はぁ、中は暖かいわね」
「これくらいならいいけれど、電車は少し暑すぎると思わないかい?」
「確かに寒いのを見越して厚着してるのにさらに暑くされたら汗かくくらいだよね」
四人掛けのテーブルを陣取ると各々好きなものを買いに席を立つ。そんな中お弁当を持ってきているのは僕一人で、綾波は家の近くにあるという惣菜屋さんでその日一番安いものを二種類買い、ご飯は自分で持ってくるというのを毎日続けている。
「アンタもよく作るわね」
「まぁ、たまには面倒くさくなるからわりと学食利用してるんだけどね」
自分で作った方が安いとわかると、どうしても買うのを躊躇ってしまうので作ってきた方が精神面でも僕としては助かっていた。はじめのうちは面倒くさくて仕方なかったがもう半年以上経つと、手の抜きどころもわかってきてそんなに苦ではなくなっていた。
お昼よりも削るべきは飲み物代だと気づいた今では水筒まで持参しているのだから慣れというのは凄い。
「そういえば綾波が個展やるのっていつだっけ?」
「再来月の十日から一週間」
スポンサーなどが付く個展ではなく、自ら会場の手配を行い小さな個展をやると聞いたのはつい二週間ほど前のことだった。いくつか賞を取っている綾波ならばスポンサーがついてもいいように思うが、それは自分が嫌なのだといって小さなギャラリーを借りてその片隅で展示をさせてもらうのだという。
個展を開けるギャラリーは多いが、良心的な値段のものとなると交通の便が不便だったり広さが十分でなかったりと一癖も二癖もある場合が多いが、そこはそんなギャラリーのなかでも値段も手ごろで普段から競争率が高いと言われているところだった。
「もう再来月か、早いね」
ということはかなり前から準備をしていたことになる。そう思うと毎日大学に来て、きちんと講義に出席していることだけでもすごいことのように思う。作品を(特に綾波はF100などの大きなものを)作るのにはとても時間がかかるし、体力も精神力も要するため相当大変だと思う。
「楽しみにしてる、って言ったらプレッシャーかな」
「いいえ、ありがとう」
最初のころはにこりともしなかった綾波が次第に感情を示してくれていることが嬉しい。それはカヲルくんにも当てはまることだった。
飄飄としていてその実なにを考えているのかわからなかったカヲルくんも、最近ではよく笑うようになった。作り物めいた笑顔ではなく、本当に楽しそうに笑うのだ。
アスカが「ふるさと」という曲の歌詞の一部である「うさぎ追いし」という部分を本当につい最近まで「うさぎ美味しい」だと思っていた話をしたときなんかは、なにがそんなにツボにはまったのか、肩を震わせ目許を手で覆い、声も出ないくらいに笑っていた。立てなくなって隣にいた僕の肩に顔を埋めたくらいだから本当に面白かったのだろう。
もちろんその反応にアスカは怒髪天のごとく怒っていたが、うさぎが美味しい事実の前ではあまり効果をなさなかった。
そのときのことを思い出すと僕もいつの間にか笑ってしまいそうになり堪えるように唇を噛んだ。
「ハヤシライスってすっぱいのかい? シンジくん」
笑いを堪えたところで丁度お昼を買ってきたカヲルくんが帰ってきて、椅子に座るなりそんなことを聞いてくる。そんなカヲルくんの持つトレーの上には珍しくハヤシライスが乗っていて、ようやく楽に食べられるからという理由で買っていたサンドウィッチ以外にも買う気になったのかとなぜかホッとしてしまった。それも毎日のようにサンドウィッチを買っていたカヲルくんの栄養の偏りが気になったからなのだけれど。
「あ、うん、確かに少しすっぱいかもしれない。でも珍しいね、カヲルくんがハヤシライスなんて」
「うん、僕も初めてだよ。アスカがオムライスと迷っていたから買ってみたんだけど、すっぱいのは苦手なんだ」
困ったようにハヤシライスを睨むカヲルくんに遅れて席についたアスカがじっとハヤシライスを睨むカヲルくんに怪訝な視線をやると「サンドウィッチにしておけばよかったかな」と呟くカヲルくんにもうなにも言えないと呆れた顔になった。
「えっと、僕のお弁当でよければ、交換しようか?」
幸い今日はそんなに手を抜いていない、おかずも一品だけの日もあるが今日は主催副菜箸休めなど四品入っている。
「それは悪いよ、せっかく美味しそうなお弁当なのに僕が食べたらもったいないだろう」
それはいけないと首を振るカヲルくんだが、スプーンを手に取らないところを見るとどうやらすっぱいものは鬼門らしい。肉もあまり得意ではないと言っていたが全く肉類に手をつけない綾波と違い、唐揚げやとんかつは食べないが小さいものや野菜と混ざっているものだったら食べるというカヲルくんが、こうまで手を出さないのも珍しかった。
「なんか見てたらハヤシライス食べたくなったから、よかったら貰ってくれないかな」
ずいっとお弁当箱をカヲルくんの方へ寄せると、戸惑ったような表情を浮かべちらりとハヤシライスに視線をやった。
「アンタがいらないなら私が貰うわよ」
すでにオムライスを食べ始めていたアスカが呆れたように言うと、なんの迷いもなく主食の野菜炒めをスプーンで浚っていこうとする。
「ありがたく食べさせてもらうよ」
瞬時にお弁当箱を引き寄せたカヲルくんは宙を浮いたスプーンに舌打ちをしたアスカににっこりと笑ってみせると「いらないなんて言った覚えはないよ」なんて言ってのける。
「じゃあハヤシライス貰うね」
お弁当ごときで火花を散らす二人を無視し、ハヤシライスを引き寄せればふんわりといい香りが鼻腔をくすぐった。
「そういえばカヲルくんサラダ食べる時ドレッシングかけないよね。マヨネーズもあそこのツナマヨサンドしかだめだし」
マヨネーズがだめな人はわりといるけれどすっぱいもの全般がだめな人も珍しい。
「すっぱいものだけはどうしても体が受け付けなくてね、だからハヤシライスが酸っぱいと知っていれば買わなかったのに、ごめんね。ありがたく食べさせてもらうよ」
いただきますと手を合わせおかずに箸を伸ばすカヲルくんの反応が気になって、手に取ったはいいがまだ一口もハヤシライスを食べれないでいた。
(まずくはないはずだけど、口に合わなかったらどうしよう)
僕の不安な様子を感じ取ったのか、一口食べたカヲルくんがにっこりと笑い「とても美味しいよ」と言ってくれたのでお世辞だとわかっていても嬉しくなった。自然と頬が緩む。
「よかった、食べきれなかったら残してくれて構わないからね」
ようやっとハヤシライスを食べると、やっぱり少しすっぱかった。
『どうしたんだい?』
「いきなりごめん、今大丈夫かな?」
電話の向こうで驚いた声を出すカヲルくんに時計を見ながら聞けば、ちょっと待って、と言われ携帯を置く音がする。一分ほど経ちもう一度掛け直そうかと迷っていると『おまたせ』と澄んだ声が聞こえた。
「大丈夫だった? なんだったら掛け直すけど――」
『大丈夫だよ。ちょっと本を読んでいただけだから』
それより突然どうしたんだいと聞いてくるカヲルくんにどう切り出すべきかと考えて、押し黙る。
『シンジくん?』
「あ、あぁ、ごめん。
――あのさ、この前、アスカと喧嘩したんだ。そのときに……」
もう一か月も経つというのにあのとき綾波に言われた、アスカが悲しんでいるという言葉が忘れられないでいた。どうしてアスカが悲しんでいるのか、それがわからないのだ。
「……」
『シンジくん、今からそっちに行ってもいいかな?』
「え?」
『シンジくんさえよければだけど、きっと会った方が話やすい』
確かにか顔を見た方が相手の考えてることが電話で話すよりもわかりやすい。けれどももう十時をまわっているのにいくら真上の部屋だからといって甘えすぎではないかと思う。
それでもすぐに断ることなどできなくて、しばしの沈黙が訪れる。どうするべきか考えて、断ろうかと口を開いたところで、玄関のチャイムが響いた。
「早いね」
『こういうときはね』
さらりと返ってきた答えに思わず笑ってから、玄関を開ける。
「いまさらだけど、お邪魔してもいいかい?」
「うん、ありがとう」
先に座るように言ってインスタントのコーヒーを入れると片方にだけ砂糖とミルクを入れる。
「ブラックでいいよね?」
「ありがとう、わざわざごめんよ」
それはこっちの台詞だと言えば、ちょうど誰かと話したかったんだと言う。それが嘘だとは思わないがカヲルくんはいつも僕の先回りをするような言葉をくれる。
「それでね、さっき電話したことなんだけど、この前アスカと喧嘩したんだ」
知ってるかもしれないけど、と続け、カヲルくんを見ると促すこともせずに黙ってこちらを見ていた。その視線がどこか不安げに揺れる。
「……その時に、綾波にアスカは怒ってるんじゃなくて悲しんでるって、言われたんだ」
話すうちに乾く口腔を潤すようにコーヒーを一口くちに含んだ。今でもそのときに感じた疑問を拭えないでいた。いきなりの言い争いに売り言葉に買い言葉で返してしまったが、思い返してもどうしてアスカが怒ったのかがわからない。
「なんでかな」
視線を落としてその時のことを鮮明に思い出しても、なにか小骨が喉に引っ掛かったような、そんな感覚を抱くだけで、結局鮮明な理由がわからないのだ。
「わからないかい?」
「え?」
顔を上げると「本当に?」と唇が動く。
「アスカは僕とシンジくんが自分の知らないところで一緒に出かけたのが気に食わなかったんだろう?」
気に食わないと一言で言っていいのかわからないが、簡単に言えばそういうことだと思う。
「だったら答えなんて簡単じゃないか」
口元だけで笑ったカヲルくんは、出会ったときの冷たい目をして自分の指先を見つめた。
「それって、仲間外れにされたと思ったってこと?」
思いついたことを恐る恐る口にすれば悲しそうな顔をしたカヲルくんがゆっくりと首を振る。どうして、と思う。いつもならわかりやすい言葉を投げかけてくれるカヲルくんに距離をおかれたような、そんな悲しさを覚える。
「アスカはね、僕の方がシンジくんに心を許されてると思ってるんだ」
それが嫌なんだよ。なんでかわかるかい? 首を傾げられ、目線を落とす。
それって――。
「――」
言っていいものかと唇を噛むと白い指がそっと顎に添えられ唇に触れる。その冷たさに背筋がスッと冷えた。
「人は見返りを求めたくなる生き物なんだ、どんなに欲のない人間でも、どうしてもじれったくなることがある」
優しく開かれた口から、ぽろりと言葉がこぼれる。
「それって……嫉妬ってこと?」
自分で言っていて湧き出るのは違和感だ。
アスカがカヲルくんに嫉妬しているということは、つまり――。
「シンジくんはとても純粋で、そこが美点だと思うよ。きっとアスカもわかってる。けどね、気づいて欲しいし、欲しくないんだよ。矛盾してるように感じるだろうけれど、結局は気づいて受け止めて欲しいんだ。受け止める気がないのなら気づかないふりをして欲しいんだ。それなのに、シンジくんは気づいてすらくれない。あまつさえいきなり現れた僕と仲良くなっていく、焦る気持ちが出るのは仕方ないよ」
赤い瞳に見つめられ、言葉は優しいのに責められている気になる。
「それってアスカが僕のこと――」
核心をつく言葉を口にしようとした瞬間、添えられていただけの指先が少し力を入れて唇を押した。それ以上は口にしてはいけないとでも言うように、僕の言葉を遮った。
「本当は本人の預かり知らぬところでこんなことを言うつもりじゃなかったんだ」
僕もどうかしてる、そう言って泣きそうな目を一瞬だけ見せたカヲルくんは添えていた指で唇と撫でると「僕だってこの気持ちの見返りが欲しいよ」と呟くとゆっくりと顔を近づけた。
頭が真っ白になり、目を見開くと唇が重なる直前でぴたりとカヲルくんの動きが止まり、軽い音を立てて唇が額に触れた。
信じられない気持ちでカヲルくんを見る。
「なんで……」
「わからないわけじゃないだろう」
もうお暇するよ、と立ち上がるカヲルくんの腕を咄嗟に掴んだ。自分でもなぜそんな行動に出たのかわからない。
「カヲルくんが決めて」
僕の言葉にカヲルくんは大きく目を瞠り「どうして」と言った。
僕を見つめる赤い瞳が揺れる。戸惑いと期待の入り混じった色を感じ、僕は息を呑んだ。
「どうして」
崩れ落ちるように膝をついたカヲルくんの腕を、僕はいまだに縋るように掴んでいる。それを見てカヲルくんは自嘲気味に笑った。
「こうやって僕を頼るシンジくんを振り払えないことなんて、僕が一番わかってるんだ……わかってるんだよ」
声を震わすカヲルくんを前に、僕はようやく自分の言ってしまったことの重大さに気づく。気持ちは他人に制御されるものではないのに、僕は自分で選ぶことのつらさから早く逃げたいがために、カヲルくんに縋ったのだ。
自分を好いてくれているカヲルくんが僕を振り払えないことを、僕は知っていた。自覚はしていなくとも、僕はこの手が離されることなど想像もしていなかった。
なんて傲慢なんだろう。
「ごめん、ごめん、カヲルくんっ――ごめんっ」
溢れ出そうになる涙を堪えた。僕が泣くのは違う。
「いいんだ、追い込んだ僕が悪かった。突然のことに驚くのは当たり前だ。もっとゆっくり伝えられればよかったと思うよ。本当にいまさらなのだけれどね」
戦慄く口許を隠したカヲルくんは僕の手をそっと掴むと少時間かけて、ゆっくりと自分の腕から離した。その事実がまた僕の涙腺を刺激して、涙が出そうになる。
「聞かなかったことにとは言わない、けれど答えは出さないでくれるかな」
君に拒絶されたらと思うと――。
その言葉の続きをカヲルくんは言わなかった。言ってしまえば僕がその言葉にずっと捉えられると知っているのだろう。
(言ってくれればよかったんだ)
そうしたら僕は君を選んだ。けれどそれは逃げだから、君は許してくれないんだろう。
「おやすみ、シンジくん」
陰りを含んだ瞳からはついぞ涙がこぼれることはなかった。頭に伸びた手が直前で動きを止め、かすかに触れるように頭を撫ぜた。まるで風に撫ぜられたような軽さだった。
なにを言ったらいいのか見当もつかなかった口で、それでも「おやすみ」とだけは返すと、夜の訪問者はいつものようににっこりと笑うと、帰っていった。
拭いきれない寂寥を抱えて。
(もう消えてしまいたい)
思うのなら、自由だろう。
僕は昔から自分で選ぶということが出来なかった。どれがいい? と聞かれても、どれでもよかった。色に特別好きな色があるわけでもなかったし、飴の味だって食べられればさして変わらない。出来れば残ったほうを、出来なければ他の子が取らないものを。
そんな性格だからか逃げてばかりいた。
重要なことなどは自分で決めたくなかった。うまくいった時はいい。けれどうまくいかなかったときはどうすればいい。
誰かが決めてくれれば従うだけだ。失敗したってそれは――
(僕の所為じゃない)
自分でもなんて嫌な性格だろうと思うが、そう思わない人間のほうが少ないと思うのだ。出来れば重要なことなど自分で決めたくなく、他人に任せてしまいたい。
「……寝よう」
(カヲルくんだって答えは望んでなかったじゃないか)
それが本心かどうかなど、今の僕には考える余裕だってなかった。ただただこの状況を逃げたかった。
どの選択肢でも、今までのままなんてことは絶対にないんだろう。
寝ようと潜り込んだベッドで、眠ることできず結局夜は明けてしまった。
気鬱なまま玄関を出るとそこにはいつも以上に白い顔をしたカヲルくんが立っていて、一目で寝ていないことがわかった。
「おはよう」
それでもなにもなかったかのように振舞うさまに僕もなにも言えずに「おはよう」と返す。いつからか行く時間が重なる曜日は一緒に登校するようになった。それについてもアスカは仲が良すぎて気持ち悪いと悪態をついていたが、昨日カヲルくんが言ったことが本当だとすれば納得できる。
いつもなら他愛もない話をしながら大学へと向かう道も、重い沈黙が支配していた。二人してなにか話そうとして、けれどなにを言っても上辺だけになりそうで、結局口を噤んだまま。
こうしてカヲルくんと話せないこともそうだが、アスカのことも気がかりだった。アスカはなにも知らない、だから普通に接してくれるだろうけれど、僕からすれば普通でいられる自信がなかった。
(どうしよう――)
どうにもできないことなど知っている。僕がどうこう出来る段階でもないことも。ただ、ただ早くどうにかしたいだけなのだ。
「ごめんね」
隣を歩くカヲルくんの言葉に、なにも返せないでいた。
「なに辛気臭い顔してんのよ」
ぼうっとしていた所為かいきなりかけられた声にびくりと肩を震わせた。とても驚いた僕に、肩を叩いたアスカも「どうしたのよ」と驚いて目を丸くした。
「あ、うん、ぼうっとしてて……」
なんでもないと言いながら、アスカの顔を見れないでいた。
不自然にならないように視線を下げ、アスカの話に頷く。出来るだけ自然を装っていても、やっぱり意識をしてしまって、一人で嫌な汗をかく。そんな僕の様子に本当にどうしたのかと声をかけるアスカに、曖昧に笑って返すしかなかった。
「あんた本当に――」
どうしたのよ、そう続くはずだった言葉を遮ったのは、いつもはこの時間工房にいるはずのカヲルくんだった。
「アスカ、ちょっといいかな」
ちらりと僕に視線をやってから、アスカに向き直ったカヲルくんに、なにを話そうとしいるのかがわかって僕は目を背けるようにして俯いた。頭上ではアスカとカヲルくんが場所を移動しようと言葉を交わす。
シンジくんも一緒に行くかい?
その言葉に顔をあげてゆっくりと首を横に振った。どんな話をするかはわかっているけれど、それを聞いていられる自信がない。
「そう」
呟かれた言葉に、あぁもしかしたら僕が傍にいたほうがよかったのかもしれないと気づいたけれど、それを口にする勇気もなく、教室を出ていく二人の背中を見ているしかなかった。
翌日、いつもなら玄関の前で待っているカヲルくんの姿がなかった。一緒に大学に行くようになって、こんなこと一度もなかった。
いつだって、笑っておはようと言ってくれていたのに――。
(なにか、あったのかな)
昨日は二人が出て行ったあと、長いこと教室にいた。アスカのことはカヲルくんの勘違いなんじゃないかとか、そういえばカヲルくんとは同性同士なのにそこに嫌悪感はないんだな、とか、陽が傾いて辺りが暗くなるまで色々なことを考えていた。
二人が戻ってくることを、少しだけ期待していた。
自分で選んで残ったくせに、どんな会話をしたのかが気になって、ずっともやもやした気持ちを抱えていた。それでも時間は無情にも過ぎて行って、結局一人で暗い道を歩いた。
電灯の少ない道をゆっくりと歩いていると、なんだか笑い出したくもなった。こんなふうに人から思われるなんて初めてで、笑わないと泣いてしまいそうだった。
大切なものを作りたくなかった。
なくしてしまうことなど嫌というほどわかっていた。いまだに夢に見るほどだ、もう二度と味わいたくない。だったらなくすものを作らなければいいと、友達ならと思った。友達なら傷つきはするだろうけれど離れていってもしようがないと自分を納得させられる。
けれど今度は違う。
友達ならと思っていたのに、今はなにも失いたくなかった。傍を離れていくなんて考えたくなかった。できるなら、このままなにもなかったかのように変わらぬ日常を続けたかった。
それなのに、変わらぬ日常は簡単に崩れてしまった。
笑いかけてくれるカヲルくんがいない、きっとアスカもいつも通りとはいかないだろう。作品製作に忙しい綾波に相談するのも気が引ける。
相談したところでなにを話していいのかわからない。僕自身がどうしたいのかがわからないのだから。
もしかしたら寝坊をしているのかもしれないと、携帯に電話をかけてみる。コール音が何度も響くが、そのうち留守番電話に切り替わり、通話を切った。
(カヲルくん……)
階段を上がればすぐなのに、結局見上げることしか出来ずに階段を下りていった。
カヲルくんと合わないうちに、カレンダーは十二月に入ってしまった。
アスカとはぎくしゃくしながらもたまに話しをする。けれど以前のように気軽に言葉を交わせなくなっていることに、お互い気づいていた。けれどどうすることもできないまま。言葉を交わす回数だけが減っていく。
最近は講義の最中も二人のことを考えて、頭を悩ませるばかりだった。
カヲルくんとアスカが話をした次の日、カヲルくんと合わなくなった日にアスカに誘われ、久しぶりに二人だけで食事をした。たまに流れる嫌な間を気にしないように、最近の講義についてなどを話していたが、結局黙っていた時間のほうが多かったように思う。
もう遅いから送っていくと言った僕に、いつもなら「あんたに守られるほど弱くないわよ」なんて悪態をつくアスカも頷いて、午後から降り始めた雨の中を並んで歩いた。
「ねぇ」
道を塞ぐ水たまりに嫌な顔をして跨ごうとしたときだった、アスカが小さい声で呼びかけて、僕も負けず劣らず小さい声でこたえた。
「カヲルに聞いたの?」
雨の音にかき消されそうな小さな声を聞き逃すまいと耳を澄まし、いつもより低い声を捉える。
「うん」
頷いた瞬間空気が揺れた。
それから時間にして十秒ほどしてから、そう、とだけ返される。どうしてか嫌というほど落ち着いていた。いつもならば逃げ出したいと思うような状況下で、アスカの言葉を待っている。
なにも返ってこないまま時間だけが過ぎていく、もう少しでアスカの家だ、と足もとにやっていた視線をあげたところでアスカが一度溜息をついて、僕の前に踏み出すようにして足を出し、くるりと振り返った。
「バカシンジ」
「なんだよ急、に……」
いきなりのバカ呼ばわりに文句を言おうと口を開いて、ようやくアスカが泣いてることに気づいた。流すまいと堪えるように唇を結んで、こちらを睨みつける瞳が涙で濡れている。
「あんたなんか――昔っから意気地なしで自分じゃなんにも決められない優柔不断で他人がよければって人のこと気遣ってるようで自分のことばっか! おまけに鈍感でいいとこなんて、これっぽっちもないじゃない」
矢継ぎ早に言われた言葉に、あっけにとられているとすんっと鼻を啜ったアスカが「なんも言い返さないのね」と馬鹿にするように笑った。そこでやっとなにか返そうとして、けれどアスカが泣いてる所など初めて見て、なんて返せばいいのかすら浮かんでこない。
「そ、そんなこと言ったって仕方ないだろ、もう十九年もこの性格なのにいまさらどうしろって言うんだよ。それに、そんな僕が好きなのはそっちだろ」
声を荒げてから、自分で言った言葉に驚く。
勢いで言ってしまってから、口を押さえてももう遅かった。くっと一文字に結ばれていたアスカの唇が戦慄く。
「しょうがないじゃないっ、私だって嫌いになりたかったわよ! あんたなんかより、もっといい人がいることだってわかってるのっ。けど…だけど! 私が好きなのはあんたなのよっ」
とうとう流れ出した涙をぐいっと拭ったアスカは一向に弱まることのない眼光をさらに強めると吐き捨てるように「忘れたふりなんかしたらタダじゃおかないんだから」と僕の性格をよくわかっている一言をぶつけると握った拳をとんっと肩にぶつけた。
「間抜けな顔」
僕の顔に笑いながら、けれど僕からすれば無理をしているように見えて一緒に笑うことは出来なかった。
「あんたが困るのはわかってんのよ。逃げないで、待ってるから答え出しなさい、バカシンジ」
また泣き出しそうになったアスカに無意識のうちに手を伸ばそうとして、触れる直前で避けられる。
「――慰める気ならこれ以上ない侮辱だわ」
今答えを出す気がないのならもう帰ってというアスカの言葉に、帰るという選択は正しいのか迷い、戸惑う。そんな僕の考えが手に取るようにわかるのか「待つって言ってるんだから帰っていいわよ」と震える手で、それでも力強く僕の胸を押した。
それでも動こうとしない僕に呆れたように溜息をついて、くるりと背を向ける。その背中はいつもより少しだけ弱弱しく見えた。雨が強くなる。
まるでアスカの代わりのように、空が泣く。
あれから何度かアスカと話をするが、答えを出すことは出来なかった。
アスカのこともそうだが、姿を見かけなくなったカヲルくんのことも気になっていた。まるで避けられているかのようにとんっと姿を見ない。もしかしたら工房に籠っているのかもしれないと、足を踏み入れたことのなかった工房に一度だけ行ってみたが、カヲルくんの姿はなかった。
まさかアスカに聞くわけにもいかず、会わない間に冬休みが目前に迫っていた。吹き付ける風は容赦がなく、冷たい。
砂埃でうっすらと汚れる『コーポひまわり』の階段を上る。自分の住む階についてから、ちらりと上を見上げた。あの扉の向こうにカヲルくんはいるだろう。けれど、僕はどうしたらいい。
アスカはきっとこんな気持ちだったのだろう。
答えの見えないものに力を傾けるのはどれだけ勇気がいることか。それでも――大切なものを失うわけにはいかないと階段を上る足を一歩踏み出した。
思えば他人とこんなに早くうちとけたのは初めてだった。珍しいことだとは思ったけれど、それが自然な気がしていた。
ゆっくりと、けれど確実に彼は僕の生活圏内に入ってきて、同化していった。当たり前のような気がしていたのに、気づいたら僕たちはまた個々に戻っていて、大きな喪失感が僕を襲う。一度治りかけたかさぶたが剥がれ、じくじくと傷が痛むようなそんな感覚だ。
備え付けのインターホンを鳴らすと存外間抜けな音がした。僕の気持ちなど知りもせず、くぐもった高い音が扉を隔て聞こえた。
がちゃ――。
開いた扉の向こうから、顔を出したカヲルくんは「待っていたよ」といつもと寸分変わらない笑顔を浮かべると、大きく扉を押し開いた。
「よかったら寄って行って」
強制するでもなくすぐに背中を向けてしまったカヲルくんの真意はわからなかったが、思った以上に簡単に会えたことに拍子抜けしつつ、かすかに緊張しながら足を踏み入れた。
「待っていたけどね、本当は来なかったらどうしようかと思っていたんだ」
なんせあんなことをした後だからね、縁を切られても仕方ないと思っていたから、とまるで世間話をするような気軽さであの日の夜のことを話されてどきりと胸がなる。
考えないようにしていたことだった。
答えの出ない問いだと思って、頭の片隅に追いやっていた。同性だからという嫌悪感すらなく、確かにあの日の僕はカヲルくんならと思ったのだ。打診ではなく、望んだに近いのかもしれない。
惹かれていたかと聞かれれば頷かざるを得ない。憧れに近い気持ちなのだ。こうなりたかった、というのもあるのかもしれない。
「あんな行動にでたのは自分でも驚いたけれどね、そのあとシンジくんに会わないようにしたのは少しでも気にかけてくれているか知りたかったから」
電話をもらった時は揺れたけど、出来ることなら直接来て欲しかったから、無視してごめんね。
そう話すカヲルくんは本当にいつも僕と接するときと変わらず、安心する。
「気になるに決まってるよ」
「シンジくんならそう言ってくれると思ったよ」
ならば会いに来てくれてもよかったのにと少しだけ思ったが、それは僕が言える立場じゃないのだろう。
紅茶でも入れると席を立つカヲルくんに、アスカのことを話すべきだろうかと迷う。相談にのってほしいけれど、それはあまりにもムシが良すぎる気がする。それに、知られたくなかった。
アスカの気持ちはとっくに知られているのに、それを嫌だな、と思う。
「考え事かい?」
両手に持ったマグカップをテーブルに置いたカヲルくんは「え?」と驚いた僕の額を指し、眉間に皺とはそうとう難しい問題みたいだねと冗談ぽく笑った。
言われて初めて気づき、隠すように額を手で押さえる。
「アスカに告白された?」
「――っ」
表情を変えた僕に嘘がつけないんだね、と目を細めたカヲルくんがさっきまで皺が寄っていたであろう眉間に紙のように白い指で触れた。ただそれだけで僕は動けなくなる。
「僕に遠慮することはないよ。答えはいらないと言ったのは僕自身だからね」
それにきっとシンジくんは優しいからどちらかを選ぶなんて出来ないはずだよ。蟲惑的にほほ笑んだカヲルくんに目を見開く。
「ずるいのは重々承知なんだ。シンジくんが誰かと付き合うなんて耐えられない。それならいくらずるくてもいい、蔑んでくれたって構わないよ」
僕を忘れないでくれれば、そう言ったカヲルくんが笑っていることに違和感を覚える。
(なんで笑っていられるんだろう)
「僕なんかの……どこがいいの」
「直球だね」
少しは驚いたのか苦笑したカヲルくんが指を離すとそうだね、と顎に手を添えた。
長い睫毛が影を落とし、表情が憂いを帯びる。なんだか今にも消えてしまいそうだった。白い肌がすうっと透けていきそうで、体の陰に隠れるように指先をそっとカヲルくんに触れさせた。
「全部、とは言わないけどそれに近いものはあるよ。なんせ僕はシンジくんの全部を知りえないし、きっと一生かかっても知ることはできない。けれど、今僕の知るシンジくんなら――全部好きだよ」
愛おしげに目を細められ、体温が上昇した。
あぁ、おかしいんだな、と思う。アスカのときはあんなにも冷静でいられたのに、今はどうだろう。
「恥ずかしいね」
照れ隠しのように俯くと、琥珀色の紅茶にうつる自分と目が合った。声は出さずに、どう思う、と問いかける。僕なんかを好きな人が二人もいるんだって、おかしいよね。
「アスカのことはよく考えてあげるといいよ」
その物言いに、本当に僕の答えは望んでいないんだな、とわかる。僕だったら、もし、僕が逆の立場だったら答えはいらないと言いながらも心のどこかでは期待するんだろう。
「僕とは付き合いたいと思わないってこと?」
「シンジくんがもし、僕と同じ気持でも、友達でいよう」
きっぱりと答えを出され、カヲルくんに触れた手が震えた。どうしてこんなにも頑ななんだろうか。これじゃあ立場が逆みたいだ。
「変なの」
呟くと、カヲルくんが困ったように笑った。アスカに申し訳ないという気持ちではないとしても、僕がどちらかを選べない状況を作り出してみたり、こんなにもまっすぐに気持ちを伝えてみたり、カヲルくんの考えることがわからなかった。
「アスカのことは、大切な友達だと思ってるよ」
多分、彼女以上に僕のことをわかって許してくれる人はいないだろう。これからも、出来うるならば傍にいて欲しい。
けれどカヲルくんは――繋ぎとめておかなければどこかに行ってしまいそうで、それが凄く怖かった。繋ぎとめられるのならば、と思う。
そんな気持ちで付き合おうと言ったところで彼の答えはもう決まっているのだから、まるで片思いのようだ。
「それを、アスカに伝えればいい」
僕のことは? とも聞いてくれない。
あぁ、いつの間にか僕は彼に惹かれていたんだなと気づく。どうして、もっと早くに気づかなかったのだろう。そうしたら、少しは違ったかもしれないのに。後悔など役に立たないのだけれど。
今更自覚した気持ちは、かさぶたの剥がれた傷を引っ掻いた。泣くほどではないけれど、ちりちりとした痛みは僕の傷を広げていく。
「もう、見返りはいらないんだ」
自分でもわかるほどに挑発的な言葉だった。
「それを言われると辛いけれど、僕はもう君に触れた、それだけで十分だよ」
きっと一生それに縋っていけると、苦笑したカヲルくんに返せる言葉などなくて、僕は押し黙った。そうしてずるいのは自分だと、カヲルくんから行動を起こしてくれないだろうかと期待した自分を恥じた。
「ごめん、僕が色々言いすぎたからだね。次に会った時は僕たちはいつも通りでいいんだよ」
「カヲルくんはそれでいいの?」
最後に、もう一度だけ確認するように首を傾げれば、頷くことも言葉を発することもなかったけれど、にっこりと笑顔を見せて、僕は「そっか」とだけ呟いた。
それからせっかく入れてくれたのに冷めてしまった紅茶を飲み干して他愛もない話をすると、本当にいつも通りで、それが作られたものなのかは僕にはわからなかったけれどカヲルくんとはずっと友達でいようと思った。望まれればだけれど、ずっと傍にいようと。
「アスカは大切な友達だよ」
そう告げたときのアスカは、悲しむよりも喉に痞えたものがやっと取れたような清々しい顔で笑った。そうして「答えなんて最初からわかってるのに待たせすぎよ」と腰に手を当て呆れた調子で言った。それが告白した相手に対する態度なのだろうかとも思ったが、僕が答えを出すまでに何度も断られると想像していたのだとしたら苦言も甘んじるしかない。
「本当、決断するのが遅いわねあんたは」
しょうがないからずっと見守っててあげるわよ、と照れ隠しなのかふんっと顔をそっぽに向けたアスカにあっけにとられたあとにそうきたかと笑ってしまった。
「なに笑ってんのよ」
失礼なやつと言われても、口元に浮かぶ笑みは消せなかった。
「ほら、お昼行くわよバカシンジ」
「その呼び方やめてってば」
何度言っても変わらない呼び方に苦笑しながら食堂に向かうアスカの後ろに続く。もう冬だというのに風に揺れる短いスカートは寒くないのかと思う。
「そういえばレイが個展の作品できたって言ってたわよ。今日からお昼顔出すって」
ここ最近は追い込みだからとお昼の時間も作業場に籠っていたが、どうやら目処がたったらしい。
「あ、カヲル」
後ろを向いていても目立つその姿を見つけ、そう言った途端走って半ばぶつかるように肩を叩いたアスカにカヲルくんが叩かれた肩を押さえる。なにか言ったのか二人がこちらを振り返るので駆け足で近づく。
「今日も寒いね」
並ぶと同時にかけられた言葉に頷いて、両の手をポケットに突っ込んだ。カヲルくんの言ったとおり、僕たちは気の合う友達に戻った。戻った、というのはおかしいのかもしれない。結局僕たちはずっと変わらず気の合う友達だったのだ。
けれど、と整った横顔を見て思う
僕がもう少し自分に正直であれば、カヲルくんが望むのであれば、この関係は変わっていたのかもしれないと。傷ついたかさぶたはもう一度治っていく、その下に口にしなかった思いをひっそりと隠して。
いつか思い出を語り合える時に、傍にいたなら言ってみようか。
あぁ、あれは、紛れもない恋だったのだと――。
Fin.
(お付き合いくださりありがとうございました!)
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