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 大正池と名付けられたその池は、太陽の光と青空とを映して、エメラルドグリーンに輝いていた。

「なーんや。霧なんて出てへんやん」

 薄いグレーのパーカーのポケットに両手を入れた真(しん)が、つまらなそうに言った。

「今日は晴れとるからな。天気予報じゃ明日は曇りや。明日を楽しみにしとれよー!」

 俺は言う。

 俺たちは美大の映研(映画研究会)サークルのメンバーで、秋の学園祭に出す映画を撮りに、夏休みを利用して信州の上高地に来ている。

 監督兼脚本の俺、中村哲也と、主演男優の小笠原真、カメラマンの本山、AD兼大道具の前田、照明の早川、主演女優の篠田麻衣、衣装兼小道具の高橋幸江(ゆきえ)、総勢7人が、池の前に立ち止まって雄大な景色を眺めた。

 俺と真は、学年は一緒の2年だが年は一つ違いの油絵学科の学生で、本山は日本画科、前田と早川はグラフィックデザイン科、篠田はプロダクトデザイン(工業デザイン)科、高橋はテキスタイルデザイン(布や衣服のデザイン)科である。色んな学科から、映画好きが集まっているわけだ。

 

 大正池は大正4年に、近くにある焼岳大噴火による泥流で、下を流れる梓川(あずさがわ)がせき止められてできた池で、その際水没した木々――シラビソやカラマツなどが池の中に立ち枯れとなって林立してる様は、どこか寂寥を感じさせる。それらの木々が池に逆さまに反映して、それがまたこの景色を幻想的なものにしているのだ。また池には鴨がいて、今もすぐそこを親子連れが悠々と泳いでいる。

 ここからほどない場所に、田代池というまた一回り小さい池があり、周辺は湿原地帯になっている。田代橋を渡り、ホテルが並ぶ上高地温泉を過ぎるとウェストン広場に行き着く。ウェストンは日本アルプスを世界に紹介したイギリス人で、その功績を称えてレリーフが作られている。そこからさらに梓川沿いに行くと、上高地の中心地でもある河童橋がある。芥川龍之介の小説『河童』にも出てくる有名な場所だ。

 

「でもすごい眺めやなぁ」

 本山が歓声を上げた。彼は荷物を入れた大きなリュックのほかに、16ミリカメラやその機材を入れた金属製バッグも抱えているので、重そうだ。

「やろー? 目の前に雪解けの穂高連峰!」

 俺も前方を指差して、大きな声で自慢げに言った。

 俺と本山、それに真は関西出身で、サークルの中でも特に気の合う仲間だ。

「神野も見たかったろうに」

 本山の横にいた真が、残念そうに呟く。彼はリュックを背に抱え、記録用の一眼レフカメラのバッグを肩から提げている。俺ははしゃいでいた表情を変えて、振り返る。

「当日になってドタキャンなんて」

 と、呆れたように早川。

「しょうがねえよ。ひどい風邪らしいもん。なっ、哲也」

 その横にいる前田。

「あ・・・うん」

 俺は戸惑いを隠して、頷いた。

 

 今日の朝。俺は電話の呼び出し音に目を覚まされた。一人暮らしの下宿アパートの一部屋に、それは響き渡った。

「なんや誰や〜、朝から・・・」

 目覚し時計よりも早く起こされて、俺は不機嫌にベッドから身を起こした。

 電話台の上の白い電話から受話器を取り、覚めきらない頭のまま、耳に当てた。

「はい、中村です」

「俺・・・」

 沈んだ声が、電話越しに漏れてきた。

「神野か?」

 受話器を持ち直す俺。

「俺・・・今日、行かない」

 沈んだ声は続ける。

「・・・なんで?」

 真剣な面持ちで、俺は聞く。

「聞くまでもないだろ? 見せつける気かよ」

 言葉の裏に静かな怒りの感情を込めて、神野は言った。

「・・・お前何ゆうとんねん」

 自分勝手な彼に、俺はいらついた。

「映画は協同して作るものやねんぞー! お前一人が欠けるだけでみんなが迷惑・・・」

「辛いんだ・・・」

 それだけの言葉を耳に残し、ガチャ・・・と彼はそっと電話を切った。

 

「監督さん」

 その声に、考え事をしていた俺は気付かなかった。

「哲也」

 やっと、はっとする俺。顔を上げた。声の主は本山だった。

「いや・・・何?」

「今日、撮れるとこは撮っときますか? 林のシーンとかさ」

 前を歩く本山は聞く。

「そうやな」

 大きな池を眺めやりながら、俺は答えた。池は輝き、空は青い・・・。

 

 

『辛いんだ・・・』

 その沈痛な声を、俺は反芻する。

 俺と神野は1浪して、今の大学の油絵学科へ入った。同い年だ。真は現役組なので、一つ下だ。

 昔から美大は、私大であれ国立であれどの学科も狭き門で、ちょっとやそっと絵が描けるだけでは、到底入れない。中でも現役で入る者が特に少ないのが、この油絵科なのだ。高校1年から美術部に入って準備していても、難しい。美大専門の予備校の先輩には、国立へ入るために3浪も4浪もしている人がいた。俺も一応現役の時から国立は受けたが2度とも落ちて、なんとか受かったのがこの私大なのだ。神野は最初からここ狙いだった。

 俺と神野とは同い年で1浪同士なこともあって、すぐに仲良くなった。美大生というのは不思議と、初めのうちは現役同士、1浪同士、2浪同士とグループを作って友達になる。高校までは、周りがみんな同じ年で同じ学年だったから、その名残が残るのだろうか。それに、同じ苦労を味わってきた者同士、というのもあるのだろう。しかししばらくすると、そんな垣根は越えて年の差など関係なくなるのだが。

 

 俺は神野だけでなく、同じ関西出身の真ともよく話すようになった。初めは俺も、彼が現役ということで一目置いていた。多少の悔しさもあったから・・・。だが、ある日彼のほうから話しかけてきた。話してみると人懐っこいというか気さくな奴で、俺はすぐに自分の中の垣根を壊せた。前髪を立てた短髪の黒髪が似合っていて、くりくりとした大きな目が人を惹きつける。俺とはちょっと違う柔らかい関西弁で話す真は、年を問わず男子にも女子にも人気があった。

 そして3人が映画好きということも分かり、一緒に映研へ入った。昼食の時など、3人で行動することも多くなった。観た映画や、自分で撮りたい映画の話に花を咲かせた。

 

 それが変わったのは・・・俺が真を映画の主役に選んだ時からだった。1年の夏休み前、その年の学園祭用に撮る映画を構想していた時のことだった。映研の部室でみんながいる時に彼がなんとなく冗談で、昨日観たドラマの俳優の真似をしてみせたのが、すごく似ていて上手かったからだ。台詞を言う声の張りも良かった。それを見て俺が試しに、その時書いていた映画の脚本を見せて「ここを演技してみてくれ」と言うと、彼は最初は恥ずかしがって嫌がった。それでも俺が懇願すると、彼は根負けして演じてくれた。すると真は俺が想像していた主人公そのままに動き、台詞を吐いた。男の友情ものでシリアスなシーンだったのだが、・・・俺はその場で震えてしまった。まるで、その主人公が俺の頭の中から飛び出してきたかのようだった。俺は彼を主役に抜擢した。

 

 それから、演技の打ち合わせだといって、俺は神野より真といることのほうが多くなった。映研を出ても、絵を描く時や構内を歩く時も、いつでも彼と一緒だった。神野は何故かやがて、そんな俺たちから離れるようになった。昼食の時も、俺と真以外の学生が一緒にいる時でさえ、同じテーブルにつこうとはしない。

 そんな秋のある日、神野は俺にこんなことを聞いてきた。夕方、部室に二人になった時だ。

「・・・どうして、お前は俺を名字で呼ぶんだ? 小笠原は名前で呼ぶのに・・・」

 立ったまま俺の書いた脚本を見ながら、俺のほうを見ずに彼は聞いた。俺は椅子に座って、撮った映画のフィルムを、スプライサー(切ったフィルム同士を繋ぎ合わせる機械)を使って編集していた。明りをつけた部屋の中に、窓からの夕日が差し込んでいた。

「だって、優(すぐる)って、なんか言いにくいやん? 真やって、そっちのほうが言いやすいからや。そんだけ」

 俺が軽く答えると、そのまま神野は黙ってしまった。その時は、その質問の意味がはっきりとは分かっていなかった。

――ぎくしゃくとした1年が過ぎた。

 今年に入って、俺はまた真を主役に選んだ。映研のメンバーも、誰もそのことに疑問を呈す者はいなかった。神野以外は・・・。

 

 2週間前のことを思い出す。サークルの打ち合わせ日ではないその日、俺は部室で、脚本の最後の仕上げに取りかかっていた。家でも大学でも、俺はそれを仕上げるために鉛筆を走らせてばかりいた。部室はサークル棟の端にあり、割と静かで落ち着くので、俺は時々ここを執筆部屋として使っていた。そばには真がいた。はかどっているかと、差し入れを持ってきてくれたのだ。

「何々? 『約束の場所』? うわっ、さっぶいタイトルやなー。なんとかならんのかいなこれ、監督さん」

 俺のそばにあった原稿用紙の1枚目を取って、真は冗談交じりに言った。彼は俺の後ろの椅子の一つに座っていた。自分が持ってきたポテトチップスの袋から、1枚を取り出して食べた。

「うっさいな。ええやろ。もう決めたんやから」

 俺は鉛筆を止めて振り返り、反撃した。

「だってや、俺が出るのに、せっかくの学園祭やのにこんなありがちなタイトル? きっついわー。ほかに考えつかへんかったん?」

「はい、そうでした。考えつきませんでしたー!」

 俺は椅子ごと真のほうに向き直り、関西弁のイントネーションで、膝を両手で叩きながら冗談で開き直ってみせた。

 

「ほんなら、お前何かもっとええの考えてぇや」

 俺は一度立って椅子を真のほうに近づけ、また座った。膝の上で、手を組んだ。

 真は腕組みをし、下を向いた。

「んー・・・。俺も思いつかん」

 顔を上げた。

「なんやそれ」

 俺は拍子抜けして、左肩をがくりと落とした。

「ならやっぱ、これでいくでー!」

 また身を起こす。

「はいはい、しゃーないわ。監督さんも主演男優も、発想が貧困やから」

 真は原稿用紙を俺に渡した。

「どんなサークルやねん」

 二人おかしくなって、笑った。

 

 そこへ、ドアの開く音がした。真越しに見ると、そこには神野が立っていた。彼は茶色い、肩まで伸ばした髪をしていた。絵を描く時のツナギを着たままだった。俺たちを見た途端表情を変えたのが、俺には分かった。

「何? 今日は打ち合わせはないで、神野くん」

 真は後ろを振り返り、椅子から立ち上がって軽く言った。

「な?」

 俺を見やって同意を求めた。

「ああ。何か取りにきたんか?」

「いや、横井先生が呼んでるから、呼びにきたんだ。たぶんここかと思って・・・」

 神野は真から目を逸らして告げた。

「そう。ありがとうな。・・・また、描き直せっちゅうんやないやろなー。勘弁してほしいわ、あの先生ちょっとでも気ぃ抜いて描いてるとすぐ分かりよるから・・・」

 脚本はまだ仕上がっていないが、続きは家で書くしかないようだ。横井先生は説教を始めると、長いのだ。今日はせめて話だけにして、描くのは明日にしてほしいものだ。ここのところ映画のことばかり考えて、絵のほうが疎(おろそ)かになっているのが、教授には分かってしまったのだろう。

 

「じゃ、行ってくるわ」

「うん。がんばってき」

「何をや」

 俺は真とそんな会話をし、部屋を出ようとした。

「先生どこにおるって?」

「・・・」

 ドアを開けたところに立つ神野は、俺の顔を見たまますぐには答えない。

「神野?」

「・・・2号棟の、2B教室・・・」

 俺たちが今授業で使っていて、描きかけの絵をイーゼルに立てかけて乾かしている部屋だ。

「分かった。お前も戻る?」

「あ、ああ・・・。絵、もうちょっと描きたいから・・・」

 下校時間だが、助手の許可があれば教室で、自分の納得がいくまで授業で描いている絵の続きを描くことができる。神野がいるところへ、教授がやってきて俺の絵を見たのだろう。

 サークル棟の廊下を歩く時、横を行く神野の表情が冴えないのが見て取れた。

「神野、どうしたん? 最近暗いで、なんか」

「・・・別に、何もないよ・・・」

 口ではそう言っても彼が何かを思いつめていることを、俺はその時悟った。それがなんであるかは、今から数日前に分かった。・・・ 

 

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 池の周りを少し散策した後、荷物も置きたいし旅疲れもあるので一旦ホテルで休もうと、全員で予約してあるそこへ向かった。

「ここてほんまに絵になるとこやなあ。カメラマンの腕がなるでー!」

 長方形の卓の一角に落ち着くと、本山は後ろに両手を突きながらくつろいで言った。和室で、今この部屋には俺と本山、真、前田と早川、つまり男性組が揃っていた。女子の二人は隣の部屋だ。俺の前には真、右斜め横に本山が座っている。卓の上にはポットなどのお茶入れセットがあり、3人の前にはそれぞれ湯飲みが置かれ、温かそうな湯気を立てている。

 他の二人は部屋に備え付けてあった将棋盤を見つけ、これから勝負を始めようとしていた。

「おい、後で撮影しに行くんやから、勝負してる暇はないで。将棋倒しか将棋崩しにしとけよ」

 俺は部屋の片隅に陣取っている前田と早川に軽く言った。この二人は1年同士で仲が良く、いつも行動を共にしている。

「えー。ちょっとぐらいいいじゃん。部屋出る時、1回勝負お預けにしてさ」

 早川がだだをこねるように言う。盤を挟んで彼と向かい合っている前田も同じような顔をしている。

「しゃあないな、全くお前らは・・・」

 俺は呆れながらも許した。二人共どこか子供っぽいところがあって、だから気が合うんやろうか、などと思った。許された二人は喜び勇んで駒を並べ始めている。

 

「ところで・・・監督はなんでここ知っとったん?」

 上着を脱ぎ、白いTシャツ姿になった本山が聞く。

「子供の頃家族で来たんや。そん時も霧がすごくて・・・今回のシーンにピッタリやて思い出したんや」

 俺は頬杖を突きながら、当時のことを思い出す。池の水面を、微風にそよいだ長細い霧がゆっくりと動いていく様は、圧巻だった。幻想的で・・・。あんな美しい景色は、生まれて初めて見た。まだ小さい頃だったが、その時の感動だけは今でも鮮明に覚えている。

 今回の映画の脚本はこうだ。

 それまで仲睦まじかった若い男女が、ある時感情のすれ違いから喧嘩別れしてしまう。逃げた女(篠田麻衣)の行方を男(真)が追う・・・。二人が最初に旅行をした思い出の地である湖に男が辿り着くと・・・霧に包まれた湖のボートに、一人で揺られている女と再会するのだ。彼女は男がここまで来るのか、そして男の愛を、確かめてみたかったわけだ。

 大正池は「池」と名が付いてはいるが、湖といってもいいくらいの面積はある。何よりそのエメラルドグリーンの水と霧とが、俺の心を捉えて離さなかったのだ。だから俺はここを撮影地に選んだ。

 

 本山を見ると、霧のボートに乗った篠田を想像しているのがすぐ分かった。

「篠田さんきれいやろなあ」

 うっとりとした顔つきで、宙を仰いだ。

「俺は? 一応主演男優なんやけど・・・」

 真は苦笑いで、突っ込みを入れるのを忘れない。

 

 

「でも・・・やっぱこれも霧あったほうがええんちゃう? ほら、なんちゅうか、しっとりした話やし」

 カメラのファインダーを覗きながら、本山は俺に言った。

 このカメラは学校の備品で、合宿の間借りている。同じ映研の3、4年生の先輩は、バイトで稼いだお金で買った、もっと高価なカメラを持っていたが、彼らは彼らで別チームを作って映画を撮るので、借りられなかった。

「見てみる?」

 本山に勧められ、俺は彼と位置を変わってファインダーを覗いてみた。レンズの向こうには、林の中に佇む篠田がいた。彼女はストレートのロングヘアーで、目鼻立ちの整った美人だった。普段から、あまり美大生には見られないようなお嬢様っぽいところがある。美大の女子は総じて、自己主張が強いせいか、性格が男っぽくなる傾向があるのだが。服装もほとんどみんなジーンズなのだ(これは絵の具などで服が汚れてしまうから、という理由もあるが)。例えば高橋なんかがその典型だ。篠田はそれに反して、大学にスカートもよく穿いてくる。今は役柄もあるので、足首まである白くて長いスカート姿だ。つなみに本山は1年の時から彼女に度々言い寄っている。結果はいつも惨敗なのだが。

 

 ファインダーの中の篠田は俺に気付き、笑顔を見せて手を振った。少しつり上がった猫のような目が、細くなる。

「中村くん、ちょっと歩いてみていい?」

 少し離れているので、篠田は声を張った。

「ああ。10歩ぐらいでええで」

 カメラマンは本山だが、まずは監督の俺が見てみることにした。

 彼の横には、今日は出番のない真が一眼レフを首から提げながら立って、現場を見守っていた。

 篠田は生い茂る青々とした草の中を、ゆっくりと歩き出した。俺はそれをカメラで追う。

 一歩ずつ歩を進める度に、長い髪が横顔にかかる。俺は彼女を引きで見たり、アップで見たりした。

 

「いつまで見とるん? もう彼女歩き終わったで」

 本山が横から声をかけた。

「あ、ああ・・・」

 俺はファインダーから目を離し、かがんでいた腰をまっすぐにした。

「な、どんな感じ? これに霧があったら、もっとよくなると思わん? 木とか周りの景色が霞んどるほうが、篠田さんの美貌が映えるってもんや。な、真もそう思うやろ?」

 真は篠田のほうに目をやり、「まあな」と軽く頷く。本山はわくわくしている様子だ。

「うん・・・。でも、明日以降ちゃんと霧が出るかどうか・・・」

「なんで? さっきはあんなに自信ありげやったやんか。明日は曇りやからって」

「そうやけど、青空やもん、今。なんか自信なくなってきた」

 俺は空を見上げた。本山も真もつられる。空には雲も出ていたが、面積的には青色のほうが勝(まさ)っていた。

「ま、これ見とったらそう思うのも無理ないけど。合宿の間ちゃんと出てくれんと困るな。それがあっての映画やし。な、とりあえず今日はどうする? 霧なしで撮ってみる?」

「うん。とりあえず今日は、試し撮りだけしよう」

 

 その日は結局、”女”が湖に向かって林の中を歩くシーンだけを撮って終えた。

 機材を片付けている時、手伝っている俺に向かって本山は聞いた。すぐそばには真や前田、早川もいる。

「な、お前って篠田さん意識しとるわけ? それとも、篠田さんがお前を好きなんかな?」

 俺は三脚を畳んでいた手を止めた。思わず鼻で笑った。

「何ゆうとるん? いきなり・・・。彼女にはちゃんと彼氏がおんねんぞ。同じ科の・・・。お前も知っとるやろ?」

「そんなん分かっとるけどや、気が変わるってことも人間にはあるもんや」

 何やら疑り深い彼だった。

「あのな、俺は彼女をそういう目で見てへんから、安心しいや。俺までお前の片想いに巻き込むなや。篠田はあくまで”友達”で”仲間”や。サークルの・・・。彼女かて、全然そんなんとちゃうと思うで」

「ほんまか?」

「ああ。せやからこれからもアタックがんばりや」

「アタックて、そんな古い言葉・・・。でもま、そんなら分かった。ごめんな、変なことゆうて」

 彼はやっと納得してくれ、カメラをバッグに入れに来た。

 

 篠田が美人なのは認める。だが、言葉の通り俺にはまるで恋愛感情のようなものは湧かなかった。仲間として、女優としてしか考えたことはない。彼女のほうも、今は彼と仲よくやっているようだし、俺にそんな素振りを見せたことはない。本山の勘繰り過ぎだ。撮影の時手を振ったのだって、単なる監督である俺への合図だ。

 それよりも・・・俺が今気になるのは真のほうだった。数日前の、神野とのある諍い・・・。そのことがあってから、俺は彼を特別な感情で意識するようになってしまった。

「哲っちゃん。また考えごとしとるん?」

 夕日を望むホテルへの帰り道、横を歩く真が声をかけてきた。今回のチームで、俺のことをこう呼ぶのは彼だけだった。

「ああ、もし霧が出なかったらどうしようかて、考えてた」

 俺は適当にごまかした。

「せやな。本やんが言う通り、霧があっての映画やしな。ま、あとは運任せやな」

 彼は仕方がない、といったほのかな笑みを見せながら言った。

 

 

 夕食後、明日の撮影計画を立てようと、チーム全員が俺たちの部屋へ集まった。前田と早川の将棋の勝負は、夕食前までの空き時間で決着をつけていた。ちなみに勝ったのは早川だった。

「で、明日は池まで出て、ボートを借りるんやけど・・・」

 俺は絵コンテと脚本を卓の上に置いて、全員に説明していた。みんなの前にも、コピーして作った同じものが置かれている。

 その時、いきなり携帯の着信音が響いた。流行りの女性アイドルグループの曲だった。――篠田の携帯だ。

「おい、篠田。切っとけって言うたやろ?」

 俺は呆れて言った。

「ごめん、ちょっと・・・」

 と、彼女は音を切って携帯を耳に当てた。口元をもう片方の手で隠す。

「あ、ごめんね。今打ち合わせしてるから、後でかけ直すね」

 小声でそれだけ相手に告げると、携帯の電源を切った。

「どうぞ」

 照れ隠しに、篠田は右掌を見せ、前へ差し伸べた。

「何々? 誰? あ、斎藤くんでしょ?」

 彼女の隣に座っていた高橋が、いたずらっぽい顔をしながら肘で小突いてみせた。

「うん、まあ・・・」

「じゃ、今夜は長電話だ」

「うるさいなあ」

「お前たち、もうええか?」

 女二人の他愛ない会話を呆れて聞いていた俺は、咳払いをしてから言った。

「はい」

 二人は怒られた子供のように肩をすくめて、大人しく正座し直した。

 斎藤というのは篠田の彼氏で、旅先の彼女を心配して電話をかけてきたのだろう。本山は真の横に座っていたが、ちょっと見ると悔しそうな顔をしてみせていた。これで俺への疑いも、晴れたことだろう。

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 打ち合わせが終わると男女それぞれ温泉に入り、男子部屋では世間話や大学の話を仲間同士でしばしすると、ようやく寝ることにした。明日も朝が早い。

 深夜になった。俺は本山の隣に敷かれた布団に入り、眠りに就こうと努力していた。枕合わせに前田と早川が寝ている。3人とも、すでに夢の中らしい。だが、俺は一向に寝付けずにいた。長旅と撮影で、体は疲れているはずなのに・・・。天井を向いていた体を横にし、寝返りを打った。

「・・・」

 俺は神野のことを思い出していた。それは、夏休みに入る直前のことだった。

 

 

 放課後、俺と神野とは二人だけで教室にいて、授業時間だけでは納得がいかなかった油絵の続きを描いていた。静物画や人物画ではなく、設けられたテーマにそって描く、というものだった。今回のテーマは「再生」だ。俺は自分のエスキース(スケッチ)をもとに、抽象的な形を描き出そうとしていた。

「哲也、疲れない?」

 俺の後ろのあたりで描いていた神野が、声をかけた。

「いや、もうちょっとがんばってみるわ」

 俺は彼のほうは見ず、絵筆を走らせながら答えた。

「俺、何か飲み物買ってくる」

 彼が椅子から立ち上がる音が、後ろでした。

「うん、分かった」

 その後はドアへ向かう足音がするはずなのに、その音が聞こえてこない。不思議に思って、俺が振り返ろうとした時だった。

 

「哲也」

 俺の体は、彼に後ろから抱きしめられていた。彼は俺の肩から腕を回して、前で両手を組んでいる。彼の着る青いツナギから、油と絵の具の匂いがした。部屋には、空調の音だけがしている。

「好きだ」

 その声が、二人だけの部屋に響いた。それほど大きくはない、その声が・・・。俺はまだキャンバスに向かったまま、息を止めた。

「神野・・・」

 俺は座ったままやっと振り返り、彼の真剣な表情から、それが冗談ではないことを感じ取った。神野はそっと俺のあごを掴み、口付けようとした。俺は体を動かす代わりに、口を開いた。

「ごめん。俺・・・あかんわ・・・」

 その言葉を聞くと、彼は俺の首の前で組んでいた指を解き、ゆっくりと離れた。ツナギのポケットに両手を入れた。

 彼の今までの言動の答えが、その時全て分かった。思い詰めていた、そのわけが・・・。

「そんなに・・・あいつがいいのか。真が・・・」

 再びキャンバスに向き直った俺の背中に向かい、神野は静かに言った。

 

 

 そこまで思い出している時、キィ・・・という音に気付いて俺は起き上がった。ドアのほうを見ると、俺とは一番離れた場所に寝ていたはずの真らしき人影が、ドアを開けて部屋を出て行くのが見えた。部屋は真っ暗なので廊下のほの明りを受けてそれは四角い空間に一瞬現れ、パタン・・・という音とともに、すぐに消えた。

「真・・・?」

 俺は気になるので上着を着て、彼の後を追うことにした。

「うわっ、外は冷えるわ」

 ホテルの外に出ると外気の冷たさに震え、俺は両肩を抱いた。夏とはいえ、ここは山が近いので標高も高い。昼間はまだ暖かいくらいだったが、夜になって気温が下がったのだろう。

 

「おっ、やっとるやっとる」

 少し歩いて池に着くと、真がカメラを三脚に載せようとしているのが見えた。彼が四角い空間にシルエットで現れた時にカメラバッグのようなものが見えたので、もしやと目星をつけて来たら、案の定だったのだ。

 真は写真が趣味で、いつもカメラを持ち歩いている。このロケには俳優としてだけでなく、スチール写真の記録係としても参加している。持ってきた一眼レフに、自分が気に入った景色を撮るのと、映画撮影の様子を記録するのと、二つの役割を果たさせている。

 今も彼は、池に向けて三脚を動かしながら好位置を探し、カメラをセッティングしている。脇には、色んなレンズやフィルムの入ったバッグが河原の上に置かれている。

 

「お前も眠られへんのか?」

 俺はそんな彼の横へ歩いていった。カメラのファインダーを覗いていた真は気付いて、俺のほうを振り返った。

「いや・・・見てみ。霧が・・・」

 顔で池を指し示した彼につられてそこを見ると――目の前の景色一面に、白い霧が立ち込めていた。池にも、山にも、林にも・・・。

「あ・・・」

 そのまま、俺は声を失った。子供の頃に見た、その時と同じ霧渡る大正池が、そこにあった。いや、子供の頃に見たのは朝だった。夜の霧に包まれた池を見るのは、これが初めてだ。蘇る、そしてまた新たに生まれる感動に、俺は横にいる真の存在も、しばし忘れた。

 

「それに満月や。霧に霞んどるけど・・・」

 彼の言葉に暗い空を見上げると、確かに煌々と輝く丸い月が浮かんでいた。薄く霧を通して、それが見える。その影が池に映じている様に、俺は一層息を飲んだ。

「すごいな・・・。いつ、気付いた?」

「うん。最初疲れてたから寝てたんやけど、冷えるなあ思って目ぇ覚ましたんや。そんで、昼間哲っちゃんが霧が出えへんかったらどうしよう言うてたの思い出して、ふと寝ながら窓の外を見てみたんや。そしたらなんか、空気が霞んどった。これはと思ってカメラ持って外に出てみたら、こうなっとった」

 真は話しながら、カメラにレリーズを取り付け終えた。夜の景色を撮るのは露光時間が長いので、直接カメラのシャッターを触って切ってはカメラブレしてしまう。そのために、こうしてレリーズという間接シャッターを使うのだ。黒い紐でカメラのシャッターと繋ぎ、その先にスイッチが付いており、それを押すとシャッターがバネ仕掛けで切られる、という仕組みだ。

 

「そうか。寒ないか?」

 真は灰色の、俺は白いパーカーを着ていた。それでも、俺は少し肌寒い感じがした。

「いや、大丈夫。下に着とるから」

 次に、真は露出計を使って露出を計った。

 そうしている間にも、池には濃い霧が渦を巻きながら、その上を滑っていた。ゆっくりと、まるで生き物のように・・・。周りの林や穂高連峰は、青白く霞んでいる。いつか、こんな景色を有名な日本画家の絵で見たことがあるような気がした。きっと、その画家も今の俺と同じように、霧を見た深い感動に包まれて記憶に強く刻み付けたのだ。

 

「俺な、好きな写真集があって・・・それ全部月の光だけで撮っとんねん。そん中に山と湖の写真があるんや。深い霧の夜で・・・」

 セッティングが一段落すると、真は話し始めた。俺が絵のことを考えている時に、彼は写真のことを考えていたのか。俺はパーカーのポケットに両手を入れて、彼の話に聞き入ることにした。下を見ると、様々な大きさの小石が敷き詰められていた。それが、月の光を受けて一つ一つ艶やかに光っている。

「でもな、できた写真には月光が霧を通り抜けて・・・写ってないねん山と湖しか。あるはずの霧が、写真には存在してへん」

「へー」

 俺は感心した声を出した。その写真集は聞いたことはあったが、俺はまだ本屋でちらりと見かけたことがあるくらいだった。真の言わんとしてることは分かる。長時間露光でその時間が長いほど、夜の光はより多く写真に写し込まれる。よく見る花火や車のライトが線になって写っている写真なども、露光時間が長いからこそ撮れるのだ。太陽の光に比べれば、本来ならば弱々しいはずの月の光が、時間をかけて撮ることによって、立派な光源となるのだ。

 

「俺もいつかそんなん撮ってみたかったんや」

 真は微笑みながら言った。俺も笑む。

「で、こんな夜中に」

「そ」

「暗いから露出に時間かかりそうやな」

「せやねー。何話しましょ?」

 真はまたかがんでファインダーを覗いた。

「・・・」

 俺はそこで口をつぐんだ。俺は――俺はこいつを好きなんやろか・・・?

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 しんとした教室の、部屋に漂う油の匂いを俺はまた思い出した。

「神野・・・。真とはそんなんやないねん。お前誤解しとるわ。俺はただあいつの演技に惚れこんどるだけや」

 パレットを持ち、筆を動かす手を休めずに俺は後ろの神野に言う。動揺した気持ちを隠すためか、腕は機敏に動く。視線はキャンバスの中を泳ぐ。

「でも・・・今はお前の気持ちにも答えられへん。ごめん」

 俺は神野の顔は見ない。いや、見られない、のか・・・。

 ツナギの衣擦れの音がし、彼が動いたのが分かった。

「なんでだ?」

 神野はおもむろに筆を持った俺の右手首を上から掴んだ。そのまま自分のほうへ引っ張り、もう片方の手で俺の肩を掴んだ。無理矢理、振り向かせる。

 

「ちゃんと俺の目を見ろよ!」

 カラン、と音を立てて絵の具のついた絵筆は床へ落ち、転がった。

 顔を近付け、見据える神野。俺は掠れ気味な声を出した。

「離・・・せや・・・」

 しかし彼は俺の右手首を掴んだ手の先に力を込めた。

「なんで俺を突き飛ばしたり・・・、笑ってはぐらかしたりしないんだ?」

 睨み付けるように、視線はまっすぐに俺の瞳を捕らえる。俺はその言葉に眉を歪めた。視線を外すことはできない。

 掴んでいた俺の右手を神野は二人の顔のあたりまで挙げる。

「分かってたんだずっと前から・・・。お前は俺と同じだって」

「う・・・」

 ぐっと言葉を詰まらせる俺。

「離せやアホ!」

 たまらず、俺はようやく彼を振りほどいた。早足でドアへと向かう。

「合宿前やのに妙なことぬかすな!」

 彼に表情を読み取られないよう、ドアに向かって俺は叫んだ。叫ぶとドアを開け、振り向く。

「当日ちゃんと時間通り集合せえよ! 分かったな!」

 あの時神野は何も言わなかった。でもあいつの目は訴えていた・・・。”同じだ”って・・・。

 

 

 俺は・・・。

『同じ』ってなんや? 『同じ』って・・・。

 神野の気持ちが薄々分かっとったのは事実や。けど、『そんなはずない』って、俺はずっと自分の中で否定しとった。俺にとって神野は、友達以上の何かになってほしくなかった。いつかこういう日が来ることを、予想はしてた。せやから俺は、あの時驚く素振りもあまり見せへんかった。けど、けど・・・。

 やっぱり俺は神野の言葉には納得でけへん。俺は違う。あいつとは違う。

 今まで一度も、同性をそんな目で見たことはないねんから・・・。ないはずや・・・。

 けど、俺はあの時あいつに見据えられたまま、動かれへんかった・・・。

 

「哲っちゃん」

 思考が渦巻く中、真の声で目が覚めたように顔を上げた。俺の表情は、沈んでいただろうか。

「さっきからなんもしゃべらんと・・・。その間に1枚撮れてしまいましたよ」

 カメラの後ろに立って、真は言う。

「あ、ああ、そう・・・」

「なんや、こっち来てから元気ないなあ。監督さんがそんなんやったら、俺も演技に力入らんようなるわ」

 座ろうと、彼は膝に手をついた。

「何? なんか悩んどるん?」

 彼はその場に体育座りをした。彼に目で促され、俺も横に座る。河原の小石のひんやりとした冷たさを、触れた部分に感じた。真の横顔を見る。

 

『俺はお前を好きなんかもしれん』

 そんな台詞が、心によぎった。

 アホか俺は・・・。そんなこと言えるかい・・・。

 真に対しても神野同様、俺は彼とは友達のつもりだった。しかし神野に言われてから、俺は確実に真を別な心で意識し始めている。人に言われて目覚める感情、というものがあるのだろうか・・・。

「いや・・・別に・・・。ただ、ちゃんとこの風景を活かしきれた映画が撮れるんやろかって・・・」

 言えるはずのない言葉を飲み込んで、俺は言った。しかし出されたほうの言葉も、あながち嘘ではなかった。

「大丈夫やって! お前の脚本ええし・・・。俺らもがんばるから」

 真は俺のほうを見て大きな目をさらに見開き、笑顔で励ましてくれた。

「うん・・・ありがとうな」

 

 神野に唇を合わせられようとした瞬間が、蘇る。

 あの時・・・俺はあいつを受け入れるのが嫌やいうより――怖かったんや・・・。

 

「ほんまに・・・きれいな景色やな・・・。お前が撮りたなるの分かるわ・・・」

 体育座りのまま霧に霞んだ満月を見上げ、俺は溜息をついてから言った。心が震えるような、現実にありえないような風景・・・。しかし、それは目の前に実在している。

「何ゆーてんのー。ここロケ地に選んだん監督さんでしょー。おかげでええモチーフ得られたけど」

 真は膝の前で組んでいた両手を組み直し、目を細めた。焦る俺。

「いい写真撮れるとええな」

 言いながら、俺はあることに気付く。

 

 なんやろ・・・。なんか、あったかい・・・。

 こういうの、神野といる時には感じひんかった・・・。

 そう俺は思った。

 

「ありがとう」

 真は微笑む。

 俺は彼のこの温かい眼差しを、いつも待ち望んでいた。彼の笑顔を見ることに、安らぎを覚えていたのだ。だから、この眼差しを壊したくはない。

 横にいる真を、俺はじっと見た。微笑みを返しながら・・・。

「何見とんの?」

 見つめられた真はちょっと不審な目をして、聞いた。

「いや・・・なんとなーく元気出たし・・・」

 俺は池のほうに目をやった。生き物のような霧の流れは止まず、水面を覆い尽くさんとしていた。広大な池、山、空、澄んだ空気・・・それらに包まれ、心は晴れ晴れとしていた。深呼吸をする。

 

「一緒におるだけで楽しいゆーのはこんなんかなーと思て」

 俺の台詞にきょとん、とこちらを見る真。赤くなる俺。

「俺も・・・かな」

 しかし真は空を見上げながら、さりげなく呟く。そして、また俺を見る。

「お前とおると安心するわ」

 それを聞き、俺の顔はさらにぱっと晴れたに違いない。

「この霧朝まで続くとええな」

 真は体育座りを崩し、後ろに両手を突いた。

「せやなあ」

 外気は冷えていたが、俺の心は反対に温まっていた。

 

 

「哲也! 起きろや! 見て見て、外!」

 朝になり、俺は本山に叩き起こされた。あまり寝ていなかった俺は、眠い目をこすりながら窓から外を見る。――目は、覚めた・・・。

「ほらほら真も! 早く起きなきゃ、撮影やろ! 二人ともどしたん? 遅いで!」

 本山は真も起こした。真もなかなか起き上がろうとしない。俺と二人一晩語り合って、彼も寝ていないのだろう。本山はすでに着替えている。他のメンバーも皆起きて布団を畳んでいるところだった。

「あ。・・・やったな。哲っちゃん」

 寝巻き代わりのTシャツのまま、窓にいる俺の横に立って真は言う。

 

 風景は変わらなかった。夜の間と・・・。違うのは、そこに朝の光が雲を通して注いでいることだった。黒く見えた山も空も池も、今はグレーに染まっている。しかし、立ち込めている霧はとても白い。

 木製の白いボートを借り、篠田をそこに乗せて池に浮かべ、撮影は始まった。俺としては真のシーンを先に撮りたかったが、映画の一番の見所を後回しにするわけにはいかない。朝食の時ホテルの人に聞くと、霧は朝のうちが濃いので撮影するなら今が一番いいと言っていた。

 

 少し岸から離して、池の中ほどにボートは漂った。

「やっぱり想像した通り・・・いやそれ以上やな。・・・見る?」

 本山は、カメラ越しに見ていた篠田の感想を述べると俺と代わろうとした。今度は俺がカメラの後ろに立った。

「お前また、こんなアップにして」

 笑いながら、俺は篠田を見た。

「だって、表情チェックしないと。きれいなもんは大きく見たいしね。・・・やろ?」

 うまくはぐらかしながら、しかし後半は真面目な口ぶりになって、本山は言った。

「うん・・・」

 

 確かに彼の言う通りだった。

 彼女は長い髪を乱し、ボートの仕切り板に寄りかかっていた。両手を重ねて、その上にあごを載せて・・・。顔はこちらのほうに傾けている。伏目がちな長いまつ毛の目元、薄く化粧した淡いピンクの唇、白く細い手指・・・。その様は美しかった。俺が脚本を書いている時、心に浮かべたそのままの寂しげな彼女の表情、周りの景色・・・。無意識のうちに、俺は撮影開始のボタンを押していた。

「哲也・・・?」

 本山は驚いて声をかけた。

 気が付いて、俺は撮影を止めた。

「ああ、カメラマンはお前やったな。つい、あいつの表情がええから・・・」

 俺は笑って弁解した。再び本山と代わる。

 

「・・・今の、使う?」

「いや・・・後で全部撮ってから決めるよ。後はお前に任せる」

「そ。・・・あ、ねー篠田さん、今撮っちゃったって!」

 本山はボートにいる彼女に向かって叫んだ。彼女はぱっと顔を上げる。

「えー、言ってよー! 今変な顔してたでしょ、あたし」

 篠田は俺と本山の二人に言う。

「ごめんごめん。でも、そんなことないって。やっぱええ女優さんや篠田は。俺が見込んだだけある」

 俺は冗談半分に言ってやった。

「もう」と言ったらしい彼女の声はこちらまでは届かなかった。

 ”美しい”と感じたのは確かだ。だが、やはり俺の中には恋愛感情は生まれない。きれいな絵や景色を見るのと同じ感情・・・とでもいえようか。美しいものを美しいと感じた、ただそれだけだ。

 

 やっと真――”男”を撮る段階になった。

 林の入口に佇む男・・・。彼女――”女”が湖にいるかもしれないと感じ、これから走りだそうとしている男・・・。真が演じるのはそのシーンだ。

「本山」

 カメラをセッティングし終えた彼に、俺は呼びかけた。彼はファインダーを覗こうとしていたが、振り向いた。

「最初に・・・俺に見せてくれへんか?」

「ああ・・・ええけど・・・」

「画角、確かめたいから。さっきみたいに勝手に撮ったりはせえへんよ」

 彼と場所を代わりながら、俺は言う。

「カチンコ係だっているんだから」

 前田が白黒ストライプのそれを持ちながら冗談交じりに言った。本来なら、神野がやるはずだった仕事だ・・・。神野もADの一人だった。

「分かっとる・・・」

 俺は16ミリカメラのファインダーを通して、真を見た。この瞬間はいつも満たされた気分になる・・・。

「真」

 ファインダーを覗いたまま、彼に声をかける。パーカーのポケットに両手を入れて立っていた真は気付いて、こちらを見て微笑んだ。俺も微笑む。

 

 互いになんも求めんけど・・・俺らは心のどっかで通じ合えとるんやと思う。だから俺は真とおる・・・。それじゃあかんか? 神野・・・。

 

END

説明
オリジナルJUNE短編小説。友達以上恋人未満な感情を描いた、映画研究会サークルの美大生達のお話です。
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