枳の庭 |
二人は、いつも一緒だった。
グラブをそれぞれ手にし、道路脇でこぢんまりとキャッチボールをする。
時折、二人の目線は恨めしげにすぐ隣の、かつての「広場」に向けられた。
―今までのように。ほんの半月前と同じように、そこが使えたら。
二人はこんなところでつまらなげにボールの投げ合いをする必要はないのだから。
その空き地も、今はもう存在しない。
既に空き地とは呼べないぐらいに、『家』が出来上がりつつあった。門の構えからして重厚で大きく立派で、庭もとにかく、―なにもかもばかでかかった。まるでお寺みたいだな、と妙なところで二人の認識は一致した。……そして、この建物を嫌っている所も。
「なんだってこんなでかい家がたつんだよ。こんなとこにさ……」
何度も何度も、ここに入ることができなくなってから、三四郎は同じことを言っている。どうせろくでもない連中が住むんだ。と、ここまではさすがに口には出さないが、強く思ってはいた。
「だけど、なんにも、しようがないだろ」
政宗は控えめにしゃべった。言っても始まらないことは最初から言わない。そのあたり、少し三四郎よりも大人びているのかもしれなかった。
ボールが三四郎のグラブからするりと転げ出た時、車がこの道に走り込んで来る。
「あぶねぇなぁ」
「って、言ってるばあいか」
政宗が引っ張る形で、さらに脇へと寄る二人。
そして、車は通り過ぎ……なかった。
予想に反して、その場所で車は緩やかに速度を落とし、そして停車したのだった。
二人のほぼ目の前、彼らからかつての空き地を隠すように、その黒い車は止まった。
そして、そこから降り立ったのは一つの家族。
いや、家族なのだろうか?
少なくとも、二人が知っている家族―両親がいて、子供がいる。そんな当たり前の家族ではなかった。いつの間にか二人の視線はその『家族』の背後に注がれ続けていた。
「立派なおうちですのね」ややあって、若い女性が口を開いた。
変わっているのは、デパートのレストランなどで見かけるような、制服―メイド服を着ていることだった。普通、日本の住宅街で見かけるような格好ではない。
言葉は、確かに自然な日本語だった。しかし彼女の髪は明るい金色で、政宗は最近読んだ物語の主人公を連想した。「がいこく」に住んでいる、いじんとかがいじんと呼ばれる人間だろうと思った。
「ふむ。南欧の家とは比べようもないが、まあ思った通りの出来」
一番背の高い、老人は言った。しかしこれほど姿勢も体つきも立派な老人、というのを二人とも見たことがない。襟元で縛ってある髪が幾筋も銀糸になっているところ、声の渋味から『年寄りだ』と感じたのだが、普段それとなく見たり思ったりしている年寄りの枯れた感じがしなかった。茶系の色あいのスーツを完璧に着こなしている様子は壮年の人物そのものだ。
「雅、匠。これがわしらの家だ。もちろんもう少し先の話になるが」
老人の声がいかにも子供向けに柔らかくなった。身を屈める。
少年たちからは車の蔭になって見えなかったが、どうやら子供も二人居るようだった。
気づかれることもないまま、少年らはこの不思議な来訪者のやりとりを背後から見やっている。
「……」
「……」
「どうしたね」老人の声は、あくまでも優しい。
だがそれに対する答えは、違った。
「ここには何もないもの」
女の子の声が、ぽつりとした。
とても喜んでいるとは、思えなかった。小さな呟きは、弱々しくさえ感じられた。
そして。その台詞に込められたものは限りなく重かった。メイド服の女性と老人とが一瞬、顔を見合わせる。
「……それなら、どうしたい?」
少女は、黙ったまま。
答えられないのだろう。どうしたらいいのか分からない。
というより、誰かに、どうにかしてほしかったから。
「何もない、か。かもしれぬ。―しかし、それなら、『何か』を見つけてゆくしかないのだ。自分たちで」
老人は続けた。
「そもそも、お前たちはこれからがたくさんのことを知って、見つけてゆく時代だ。―わしはな、」
上げられた顔は、心なしか厳粛に見える。この年齢になって唐突に迎えた奇禍に、立ち向かうかのように。
「お前たちの父母に代わって、それを助けてやることしかできぬ」
「……」
「……」
「(どうする?)」
いい加減にいらいらしてきたのか、三四郎は隣の少年を肘でせっついた。
「(どうするんだよ)」
そうやって突かれたところで、政宗にもどうしようもない。
二人はすでにこの状況に飽き始めていた。どこかへ移動するかしたかったのだが、目の前の彼等が動かないのでこちらも動けない。
もっとも、別に悪いことをした訳ではない。勝手に動けばそれでいいのだが―今、彼らのこの時間を壊してしまうことが、なんとなく「悪いこと」のように思えた。
しかし、結局のところ、少年らの底浅い忍耐力はたちまち限界に達してしまった。
「(行こうぜ)」ささやきを強くして、三四郎が肩を当ててくる。
「(やめろよ)」と、政宗。ついついやり返してしまうのが、やはり子供だった。
「む?」
老人がその「強いささやき声」を耳にし、振り返る。
「まぁ、かわいい」
金髪の女性が明るい声を上げた。
一応、少年たちのことを佳く言ってくれているのだろう。いきなりの「かわいい」という評価にびっくりしながら、二人も、改めて相手の顔を見た。
『若い女性』というよりは『女の子』って感じだな、と思う。……もちろん、二人から見ればだいぶ年上のはずだが。
なんというか、本当に本の中から飛び出して来たような人だった。少々大きめの、黒のメイド服に真っ白なエプロン。ゆるやかに波打った金の髪は三つ編みにされ、自然な感じで肩口から背中へと流れていた。背筋を伸ばして立つ姿からは威厳さえ感じられそうなのに、穏やかな微笑は柔らかで暖かみがある。
「あなたたちは、どこの子かしら? ここの近くに住んでいるの?」
彼女は訊いた。子供の扱いには手慣れている様子だった。
「おれは、こっちだよ」三四郎が目の前の、「彼らの家」の右隣を指さした。
政宗は無言で左隣を指さす。
「それじゃ二人ともお隣になるのね。私はアンナ=エーデル」ちらりと老人の方を見てから、彼女は自分の名前から紹介を始める。……本来の作法を破ることの是非を、老人の顔色から判断したのである。当然ながら彼も咎めるそぶりは見せなかった。
「そして、この方たちが―さあ、お嬢様方、ご自分で」
優しくアンナが促し、少年らの前に二人の少女を押し立てた。
彼女としては、この少女らにまずは『友達』を見つけて欲しかったのだ。先の言葉を聞いて、なおさらそう感じた。
ここで少年たちは初めて、二人の少女を目の前にした。
先にアンナを見て、あまりに鮮やかな印象を受けていたせいか、少年らは多少免疫ができていたかもしれない。まして思春期は遙か先の別世界であって、異性だの何だのを意識するような年齢でもない。さっきのように、歳に似合わずどきまぎするということもなかった。
……ただ、これはだいぶ後になってから『男と男どうしの会話』の中で確認しあったことであったが、二人してこの少女らのことを「かわいいな」と思っていたらしい……
少女は二人とも同じような淡い青のワンピースで、髪は腰のあたりまで届きそうな長さだった。念入りに手入れがされていて、初春の弱々しい日差しを受けて艶やかに輝いていた。この姿かたちで黙りこくった様子は、なんとなく人形を思わせなくもない。
正面に立つ少女はやや俯き加減で、二度三度ちらりと二人のことを見やっては目を逸らしていた。その彼女の後ろに半分隠れてしまっている少女は、やはり黙っていたが、じっと二人を見つめている。
「……しどう みやび」
ぽつり、と正面に立つ少女は言った。
「しどう たくみ」
完全にそれに倣う形で、後ろに隠れるようにしていた少女は自分の名前を口にした。
さて。―今度は彼らの番であった。少年らは顔を見合わせた。
唐突な話ではあったが、断る理由など全くない。二人とも笑顔になる。
「おれは『からすま』。からすま さんしろうだよ」
「みや まさむね」
互いの名前を言い合うだけの、初対面のあいさつ。
しかし、それだけで充分だった。他に語るような経歴も、肩書きもなにもない。
彼らにとって、それはこれから積み重ねてゆくものであり、そのほとんどは、共有するもののはずだから。
お互いの顔を見やりながら、彼らはそれぞれの笑顔を作った。
早春。少年たちは遊び場だった空き地を失ったが、友達として二人の少女を得た。
説明 | ||
三四郎、政宗。雅、匠。少年が少女と出逢い、同じ場所と時間とを手にしたときから全ては始まった。すれ違うことなど思いもせぬままに過ごし、だからこそ生じた小さな瑕疵。それはいつものように忘れ去られるだけのはずだった。 しかし、雅はつぶやいていた。胸の小さな銀十字を握りしめて。 その出来事は少年たちをすれ違わせ、二人の少女それぞれに影を色濃く落とし彼らはそれぞれに思いを抱き成長してゆく? ただその場所と、その場所が与えてくれた絆だけは変わることなく。 その場所が、彼らを巡り合わせる。 セピアオペラ、開幕。 ※その序章です |
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