枳の庭【第一章】おもいでのかけらたち
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   おもいでのかけらたち

 

 

     1.

 

 四堂家には家主として老人、兆がいる。

 築年数は浅いはずなのに門といい、家屋といい、純日本風の使い込まれた屋敷の雰囲気を早くも見せていた。これは兆の趣向らしい。木目の新しさを嫌って、わざわざ別の旧家からの材木を用いさせたりした。質の佳いものを選んでいるので、その雰囲気には昔ながらの日本家屋独特の威厳すら感じられる。

 庭の木々はさすがにまだ背が低かった。「老人の趣向」を考えればこの家には生い茂った槁などがあってしかるべきなのだろうが、すべて思い通りになるはずもない。これはこれで育ちを見るのが楽しみなことだ、と彼は朗らかに言っていた。

 著名な画家で、その名前は日本よりも欧州などでより広く知られている。南仏に住居を兼ねた工房を持ち、もう長い間日本に戻ることもなかった。―あるいは、二度と戻るつもりもなかったのかもしれない。

 だが、息子夫婦の事故死で事情は変わった。

 彼らには……二人の娘たちが居たのだ。そして老人は、今や少女らの唯一の肉親だった。

 姉妹二人を自ら引き取ると同時に、それを機に日本での生活を決め、帰ってきたのである。家屋の純日本指向といい、実はこよなく日本を愛していたのではないかと思われる節があるが、実際に生活するのは何十年ぶりのことだった。

 ……ちなみにそのとき兆老人が珍しくもためらったのが、メイドとして彼についていたアンナの扱いだった。

 

「アンナ」

「はい」

「わしは日本で暮らすことにする。おそらく、死ぬまでだ」

「……はい」

 『死』という言葉を耳にしてアンナは一瞬だけ反応を鈍らせた。

「それで―お前を、どうするかなのだが……」

「お邪魔にならないのでしたら、このままだんな様の許で働きたく思います」

 アンナは躊躇なく、すらりと答えた。

 しばし黙考し、彼は口を開く。

「うむ……。実は孫の世話のこともあって、わしとしては、女手が欲しい」

「でしたら、なおさらのことです。私は小さな子の世話も慣れていますから。……最初から、そう言って下さればよろしいのに」

 老人は、少女を振り返った。その表情は複雑だった。

「わしがそう言えば、お前は必ずそう答えるだろうと思ったからね」

「……。それが、お嫌だったのですか?」

「わしが嫌うのはな。お前を解放してやろうとしたわしが、結局はお前を縛っているのではないかという懸念だ」

 

 聡明なアンナではあったが、この問いかけには即座に答えられなかった。

 ―しかし戸惑いは一瞬のことで、

「心配はご無用です。私は、だんな様にお仕えするのを嬉しく思っていますから」

 彼女はもう笑っている。

 それを聞いて老人は表情を和らげた。―もっとも、それですべて納得している訳でもなさそうだったが。

「それならば、是非ともわしと一緒に来て欲しい」

 とにかく、次に口から出たのは、その言葉だけだった。

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     2.

 

 昼間、家の門は開いており、庭の様子などは誰でも窺えた。

 朝方にはアンナが掃除をしている。昼過ぎから夕方にかけては子供らが何やらしていることもある。

 その大きさや、ちょうど真ん中にあるということで、この庭に彼らが集まることは多かった。

 ……彼らが最初に出会ってから、三年ほどが過ぎようとしている。

 三四郎や政宗の身長はぐんぐん伸びていた。微妙に三四郎の方が大きく、そのせいという訳ではないだろうが足も速い。グラウンドや空き地で遊んでいても、その活発さはどこか目立つ要素があった。自然と同年輩の子供たちの真ん中にいる感じがする。

 そういう場所では、政宗は三四郎の少し離れた所に居る。その友人の姿が誇らしくもあり、また何か悔しくもあり、子供心に複雑なものを感じているのかもしれなかった。

 とはいえ、政宗も素養は優れていた。鉄棒だの縄跳びだのと、いわゆる『技』が必要な所で、難しい技を誰よりも早く吸収してしまう。そして、ほとんどの場合、―人より巧かった。

 三四郎が皆に囲まれて、その輪の中で抜きんでているのならば、政宗はその輪から少し離れて、時にはその輪の上にいる。そんな感じだ。

 学校の成績に関しては、これは常に政宗が勝っていた。一度、三四郎もムキになって追い越そうとしたときがあったが、どんなに頑張ったつもりでも政宗の上にはなれなかった。さんざん口惜しがったものだが、結局、この時に分かってしまったような気がした。……こいつとは、どうも頭の中味が違うらしい、と。妙な納得のしかただが、他にどうしようもなかったのだ。

 ともかく、そうやって張り合うことで、いつの間にやら二人はいろいろと注目される存在になりつつある。……ほんの小さな、小学校でのことであったが。

 

 四堂家の姉妹もまた、それぞれに成長を続けている。

 雅は他の三人よりも一つ年上だった。……が、ひょっとしたら彼らよりも年下に見られることもあるかもしれない。それぐらいによくしゃべり、ころころと笑う。初めて出会った時とは別人のような気がした。

「みやくん、しろうちゃん。瀬良川に行きましょ」雅は提案した。

 雅は三四郎のことを何故か「しろうちゃん」、政宗のことを名字で「みやくん」と呼ぶ。ちなみに、そう呼ぶのは雅と匠だけである(匠は、姉の真似をしているうちにそうなってしまったのだろう)。一事が万事ということもないだろうが、雅はごく自然に「自分らしさ」を出すことのできる少女だった。

 雅がいると、他の三人はとりあえず何をして遊ぶか考える必要がない。まっさきに思い付くのが雅なのだ。

「じゃあそうするか」三四郎は簡単に言う。

「匠も、来るよな?」政宗は声をかけた。

 雅にしてみれば『ついて来るのが当たり前』の妹なのだろうが、呼びかけられもしないのでは寂しいだろう。そういう細かな所で、政宗は優しさを見せた。

 口許で微笑んでこくり、と匠は頷いた。

 匠は、姉に比べて口数はずっと少ない。どこかに行くとなると姉について回ることが多く、しかも一人でいることはほとんどない。おとなしいイメージがある一方で、妙に頑固なところがあった。最近になって兆老人から剣道を習い始めているのだが、とにかく自分が納得するまで素振りはやめないらしい。匠の両手は豆だらけで女の子の手とは思えないぐらいだった。

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     3.

    

 

 彼らの四度目の夏休み……

 

「……」

「何? しろうちゃん」三四郎の視線に気づいて、雅は訊いた。

 プールで雅の幼い胸元に注がれる視線……

 と、いう訳ではなかったらしい。

「ん。……雅、いつからそれつけてんのかなって思ってさ」

 そこには小さな、銀の十字があった。首から銀糸を巻き付けて提げているのである。今までも時折見え隠れしたので気づいてはいたのだが、こうして水着姿で見かけると、一層それが目立つ。

「普通、泳ぐ時とかってはずさないか? なくすかもしれないし」

 ついさっきまでにこやかだった雅の表情が一瞬で硬くなった。

「……大丈夫。なくさないから」

「はずしたくないの?」三四郎にとって、雅の頑なさは意外だった。

「見せてよ、それ」

「やだ」

 言下に拒絶し、雅はそれを、手で覆い隠してしまった。

「いいじゃないか、見るだけだから」その態度にかえって反発を感じ、三四郎も多少むきになった。

「だめ。―お願い、触らないで!」

「しろー!!」

「ぶっ」

 かなり大きな水柱ができあがった。

 匠が三四郎めがけて、被いかぶさるように飛び込んだのである。匠が大声を上げただけでも充分な「事件」だったが……。

 政宗はプールサイドで呆気に取られている。一瞬前まで、匠は彼の隣にいたのだ。

「……ぷはあぁ! なんっなんだよ匠!!」オーバーなアクションで三四郎は水中から身を起こした。匠は既に、少年の前に立って雅を背中に隠している。

「お姉ちゃんをいじめるな! しろーのばか! ばかばかばか!」

「なっ……」三四郎は言葉に詰まった。何ら悪意がなかっただけに、匠の言いようは理解できないし納得もいかない。

「そんなんじゃ」と三四郎が反駁しかけた時。

またもや水柱。三四郎の姿は再び消えていた。

「……」きょとんとする姉妹。

「……ぷはぁぁ! てめぇ、政宗!!」怒号と共に再び三四郎が姿を現した。

「頭冷やせ、三四郎」

 既に政宗は浮かび上がっていた。三人からはだいぶ離れた位置で。……三四郎めがけて飛び込んだ後、そのまま潜水で移動したのである。

「待て、こいつ!」かえって熱くなった三四郎は、政宗めがけて一直線に泳ぎだした。政宗が再び潜る。水の中では、器用な政宗の方が一枚上手であるらしかった。三四郎が思いもしない場所で政宗は突然姿を現す。

「くっそー、ごぼ……。水ん中じゃなかったら……がば」

 時折、悔しがる三四郎の声が聞こえた。

 その様子はどこか楽しげでさえあり、姉妹はいつの間にか笑っていた。

「お姉ちゃん」

「え? うん、何?」

「なにって……。ま、お姉ちゃんがいいならそれでいいけど」

 姉のことはよく分かっているつもりだったから、肩すかしな反応にも怒る気になれない匠である。

「さっきはありがとう、匠」

「お姉ちゃんが困る所、見たくないもん」

 匠にとって、これもまた当たり前のこと。

「やさしいね、みやくんも」

 間を置いて、雅は少し、話をずらした。

「……うん」ゆっくり、匠が頷く。

 匠が三四郎に向かって飛び込んだのは雅のためだったが、政宗が飛び込んだのは二人のためだろう。二人とも素直にそう思った。

「あ……赤くなってる」

「え? ―そんなことないもん」

「あ。顔まで赤くなって」

「へ?」

「ほら、飛び込んだからここが」

 雅は匠の肩口を指さしていた。

「……」

 匠は、一人で勝手に火照ってしまった顔を冷やすべく、水の中にしゃがみこんでしまった。

 

 

 陽差しはやや柔らかくなったが、熱気に衰えはない。

 オレンジ色に染まり始めた町並みはどこか揺れて見えた。肌は火照りを覚える。心地佳い疲れが何もかも穏やかに優しく見せた。

 が、不満を露わにした顔がひとつある。

「政宗。おまえまで雅たちの味方、するのか」

 低い声で少年が言った。裏切られたような心境だったのだ。

 明瞭な答えは即座に返ってきた。

「ちがう」

「じゃあなんで―」

「おまえは、女を相手にむきになるようなやつじゃないはずだ」

 たちまち三四郎は言葉に詰まる。簡単に返されてしまったが、含んだ意味は少年にとって重かった。……つまり、三四郎は「女を相手にケンカをする」という不名誉から、政宗によって救われたのだ。それにけちをつけていたのでは自分があまりにちっぽけに見えてしまう。

「……だけど、それにしたって、感謝なんかしないぞ」

 負け惜しみに近い。

 それを聞いて、政宗も笑った。「分かってるよ」

 帰り道、政宗と三四郎は肩を並べて歩いている。わざと姉妹を先に歩かせ、自分たちだけに聞こえる会話を何気なく続けていた。

 

「何なんだろうな。あれ……」

 

 夕焼けを見やって、三四郎は話しかけている訳でもなく、ぼんやりと言った。

「好奇心では触れないものなんだ」政宗が静かに応じた。

「『こうきしん』って?」三四郎は、その意味をまだ知らない。

「うん……。面白半分とか、興味だけで見る、ってことだよ」

「それなら見せなきゃいいじゃないか」

「見せたいんじゃない。身に付けていたいだけなんだ。雅さんは」

 ……一応、年長ということで、政宗は雅のことを「雅さん」と言っていた。

「わがままだなぁ」くしゃくしゃと、三四郎は頭をかき回した。自分が悪かった、ということは感覚で承知しているものの、認めてしまうのが癪に障るのだろう。三四郎は、そのせいで何もかも傍若無人に見える。

 どっちがわがままなんだよ、と言ってやろうかと政宗は思ったが―苦笑いするだけで終わった。本気で言っている訳ではないのは充分に知っていた。

「とにかく、もうあんなことはするなよな」

「ちぇ。分かったよ」

 たいてい、政宗が諭すように言い、三四郎がしぶしぶと受け入れるのが常のことである。

 

 ……この時期、雅の持つそれについては二人ともその程度の認識しかなかった。

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     4.

     

「これが拾八式」

「はい」

「そしてそのまま拾九式へと……そう」

「はい」

「よし。まずは軽く、それを百回反復する」

「え??…」

「えー、ではない。頑健な男子がこの程度で弱音を吐くな。見よ、匠は文句ひとつ言わぬぞ。?さ、始めい!」

 四堂家の庭が騒がしかった。隣からそれを聞きつけたのか、政宗がやって来た。

 ……いつも、こうして、たいていのことを彼らは共有することになるのである。

「こんにちは、じいさま」

「おお政宗か。どうだ、主もやるか」

「……」

 見れば、匠と三四郎が、拳を何度も振るっている。形としては何か武術の練習のようだが……

「これって、どういう流派なんでしょうか」政宗は尋ねた。

「流派? そういうものではない」老人はきっぱりと否定した。「これはわしの考案した『百式』という」

「……ひゃくしき」聞いたこともない、と思い、すぐにそれが当たり前だと思った。―老人は「わしの考案した」と言っているではないか。

「さよう。わしなりに確かめ、時に工夫し、時に改め、編纂して百の型にした」兆老人は解説する。

 胡散くさい話だな、と思わなくもなかったが、政宗はそういうことを口には出さない。

「僕にはよく分からないですけど。だけどじいさまはほんとうに、いろいろと何でも知っていますね」

「はは。ま、伊達に歳を食っている訳ではないからな」事もなげに相手は言う。

 そんな風に簡単に片付けられることだろうか。剣を好み、何やら武術をも研鑽し、絵で世界中の人々の評価を得る……。言動の確証は別にして、政宗にとってこの老人はひそかに尊崇の対象である。

「何事にも興味を持つこと。ひたすらに追求すること。だが、それをのみ目標とするのではなく、自然と、できなければな。わしのようにはなれんて」呵々と老人は笑った。「で、どうだ。無理には勧めんが、わしの教えには無駄なものはないぞ」

「……はい」

 喜んで、という訳ではなさそうだったが。政宗は頷いていた。兆の言葉もさることながら、目の前で匠と三四郎が何やら頑張っている姿を見て、何だか取り残されたような気がしたのだ。表にはなかなか現れないが、この負けん気の強さは三四郎にも劣らない。

 

 ……

「政宗は、『百式』の練習よりもここに居るときの方が佳い顔をする」

 夕方、自分の部屋に戻ってきた兆は思いの他熱心に作品を眺める少年の姿にそう声をかけた。

「あ……。すみません。こんなに遅くまでここに居ちゃって」

 昼過ぎ、少年と老人はここに入った。その後所用で老人は外出していたのだが、その際に『まぁ、好きなだけ居れば良い』と声だけ掛けておいた。

 だから、戸を開けたときに、未だに此処に居る少年の姿を見つけ、正直な話驚いたのだ。別に眠っていた訳でもなさそうだった。自分が部屋に置いてある幾許かの絵をじっと見ていた。じっと……。

「いや、よいのだ」慌てて立ち上がろうとする少年を制して、老人も座る。「にしても、腹は減らんか。喉は乾かぬか」

 政宗は目を瞬かせ、自分の腹に手を当てた。「そう言われたら、何だかそんな気が」

 老人が大笑いし、政宗もつられて笑った。その後すぐに彼はアンナを呼び寄せ、何か持ってくるよう命じたのだった。

「ごめんなさい、ぜんぜん気づかなくて」言いながら、アンナも笑っている。

「……政宗は、絵が好きなのか」

 彼女が立ち去った後、政宗に体を向けて兆老人は話しかける。

「好きかどうかも分からないです。でも、じいさまの絵はすごいと思います」

 少年は、少年らしい率直さで答えた。

「ほう。どこがすごいと思う」

「それを知りたくて、何度も何度もずっと見ているんです」

 一瞬の沈黙の後、兆は苦笑した。それもそうかと思った。まだ相手は小学生なのだ。

「なるほど、そうか。だから、か」

「分かれば、描けるかもしれないって思うので」

 少年がそう続けたのを聞くと、彼の表情は少し変化した。

「ふむ……。だが、知るのとやるのとはまるで別の話だぞ」

 相手をからかうように、言った。

「は、はい」意味も分からぬまま、ただ頷く政宗。

「絵には人物が現れるのだ。描き手の全てといってもよい。そうでなければ、絵は写真と変わらぬ。それ以下だ」

 少し声に力が入りすぎた。目の前の少年が縮こまってしまったのに気づき、兆は声を和らげる。「まあ、それを表現するための技法も大切ではある。知ろうとするのは、決して間違いではない」

「はい」

「そういえば、図画が得意だそうだな。匠から聞いたぞ」

「いえ、そんなことないです」

(……。あまり、自分のことは好きでないらしい)

 少年の答えに少し不幸な要素を感じたが、……今それをここで言っても無意味だろう。そっと話題を変えるつもりで、

「ところで、政宗はどの絵が好きだ?」と訊いた。

 表情を一変させて、明るい顔で少年が選んだのはひとつの風景画だった。

「……。これ、か」

「この夕空、とても綺麗だと思います」

「夕空、か。なるほど確かに、今はそうだな」

 何となく老人の言葉は変だ、と思った。しかし聞き違いかもしれなかったので、何も訊かずにいた。

 なにか、どこかの原風景なのだろうか。海岸線と海、海と空。他には何もない。

「何もないのは、これが絵だからだ」

「……」

「その意味が分かるか」

「じいさまが、描かなかったから、ですか」

 兆は少し驚いたように目を開き、そして笑った。

「なるほど、お前は賢いな。……その通り。この海にはいろいろなたくさんの船があった」

 厳しい顔で、彼は一人そう呟いた。

「しかし、描かなかったのだ」

「どうしてですか?」

 ほとんど反射的に政宗は訊いていた。当然といえば当然だろう。

「それはもちろん、」

「はい」

「描きたくなかったからだ」

「……」

 老人は、ここで可笑しそうに笑った。あまりに少年が真面目そうに考え込んでしまったのを見たからだった。冗談とも本気とも取れる声で、彼は続けた。

「それが政宗にも分かれば、たいしたものだ」

「それなら、分かるようになります」

 少年は即座に言った。あるいは、単にからかわれたのを嫌っての強がりかもしれない。

 しかしそれで、老人は言葉を狂わせた。語るつもりのなかった言葉まで、少年に呟いたのだった。

「……。これはな、禁じられた色彩なのだ」

 

 禁じられた色彩。

 

 この不思議な言葉に、少年は困惑と不思議な感銘とを同時に感じた。許されることのない色? 使えない色? 何色が、なぜ?

 

 ……。―誰に、禁じられている?

 

 

「いや、忘れてくれ。つい政宗に乗せられた」不明瞭な沈黙を吹き飛ばすように兆は大きく笑った。「由ないことを。すまぬ政宗」

 声も出さず、頷きもしない。老人はそれを了解と判断した。訳が分からぬ事にただ戸惑っているのだろう、と。

 しかしそれは、少年の確かな意志による行動だった。その全てを懸命に記憶しようとしていたのである。その言葉の重さ、その絵の色使い、そのときの兆の顔。

 

「お待たせしました」

 アンナの声が再び、障子越しに聞こえた。

「おお。政宗、お待ちかねのものが来たらしいぞ」

 老人のその声で、ようやく政宗は笑顔になった。

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     5.     

 

 アンナ=エーデルはいつもメイド服を着ていた。それはこういう、「閑静な住宅街」ではかなり奇妙なことだったが、彼女は在欧当時と変わらぬ様子でそれを着続けた。

「お仕事中にはちゃんと、お仕事用の服を着るのは当たり前のことですから」

 そう言われると、日本人は逆に納得してしまうものであった。「スーツを着ないサラリーマンの方がよほど不審な人物」と思う感性なら、充分アンナの言うことは共感できる。

 ……ただ、当の本人がついに投げ出してしまったものがある。革靴だった。

 四堂家の中では革靴で移動できる所は「玄関」ぐらいしかない。なのに庭の掃除やら買い物、郵便物、配達物、来客対応などといちいち外に出ることは多い。

 見かねた兆老人が安物のつっかけを近所で買ってきて、「日本ではこれが正式な『履物』なのだ。『郷に入っては郷に従え』という言葉もある。これを履くようにしなさい」と妙な理屈をつけて、アンナに教えた。

 それが屁理屈なのは分かっていた。また、アンナの気質から言えば、たとえ主人からそう言われても自分の決めたことを続けそうな気が……したが、この件については素直だった。本人も相当嫌気がさしていたのだろう。

 とにかく、アンナと言えばメイド服、メイド服と言えばアンナという認識は、この小さな街の中で既に広く受け容れられていた。

 本人曰く「そんなことはないです。お休みのときにはお休み用の、普通の服を着てますよ」と、なるのだが、そんな姿を街中で見掛けた人間は皆無だ。

 

「てことは、休みが少ないってことじゃないの?」ずけずけと三四郎は訊いたことがあった。

「必要のないお休みはいただけませんもの」

「休みなんてとにかくたくさんあった方がいいと思うけど」

 三四郎の他愛もない話につきあいながらも、彼女は門の前の掃除を続けていた。

「それは、お休みが楽しいからでしょう?」

「そりゃ、そうさ。当たり前だよ」

「私も、お仕事が楽しいから、お仕事の時間が多い方が嬉しいんです」アンナはにっこりとした。

 三四郎は何も言えなくなってしまう。

 実際のところ今のアンナの立場は微妙で、「お仕事」なのか「四堂家の一員としての役割」なのか、不分明なものが多かった。

 たとえば、家事はほとんどのことをこなしたが、その一部はアンナが指示したり、やりかたを教えたりして姉妹にやらせている。これは老人の意向であった。「何もできない子にはしたくない。むしろアンナの見事なやり方を、この子らにはしっかりと覚えて欲しい」と。

 アンナと四堂姉妹の関係は、「使用人と主人の孫」などではなく「長女と歳の離れた妹たち」に近い。そういうことで、アンナは姉妹と共にある時間はいわゆる「仕事」、とは思っていなかった。

「それにしたって、やっぱりたいへんだと思うけどなあ」

 四堂家の渋い黒みのある門柱に寄り掛かり、三四郎は偉そうにしゃべっている。

「?」

「だって、雅と匠とずうっと一緒だもんな。あいつらときたら―」

「なに? しろうちゃん」

 背後に、その姉妹がお遣いの買い物帰りの様子で立っていた。

「……えーと、」三四郎はとっさに、言葉が浮かばない。

「とってもかわいくて大好きですって」と、アンナ。

「え……」雅が赤くなった。……この場合、「素直」というより「馬鹿」と思われそうな反応ではある。

「う・そ。しろーがそんなこと言うはずないもん」匠は即座に否定した。

「確かに言ってないけどさ。あ、言ってやろうか?」

 少年がからかう口調で言う。

「いーっだ」

 が、次の三四郎の言葉は、あまりに微妙だった。

「そうか、匠は俺じゃなくって政宗にそう言われた方が嬉しいに決まってたっけな。悪ぃ悪ぃ」

「! しろーっ!」

 声と同時に、三四郎の顔面めがけて匠の拳が飛ぶ。何も言い返せなくなるとこの少女は行動で訴えて来るのだった。

「おっと」

 とっさに脇にかわし、三四郎は大きく距離を置いた。

「アンナさん、こんなオトコンナの相手すんのってやっぱり大変だろ? ご苦労さま!」

 言うだけ言って、三四郎は逃げて行く。

「もう! 待てぇ?!」匠は追い駆けた。いかにも『活発な女の子』という感じだ。

「……いっちゃった」面白そうに、雅は笑う。

「元気ね、二人とも」

 様子を見つめるアンナの目は優しげであった。

 ほんとう、あの子たちのおかげだわ。と、アンナは思っている。

 四堂家のこの姉妹らが、こんなに元気に成長しているのは、間違いなく「おとなりどうし」の二人の少年のおかげだった。アンナも、立場を越えてこの姉妹には愛情を以て接してきたつもりだったが、それだけでは到底このようにはなれなかったと思う。

 

「ここには何もないもの」

 

 未だ心に残る言葉。今の姉妹からは想像もつかず、その記憶は彼女の中で風化しつつあるが、しかし未だにはっきりと残っている。この姉妹はその言葉で示される境地を出発点として、ここで歩き始め、少しずつ、けれどはっきりと、「大切に思えるもの」「大切にしたいもの」を見つけてきたのである。その中で、少年らは不可欠な存在だった。

 

「ずうっと、……仲良しでいられるといいわね」アンナは呟く。

「いられるもん」雅はにっこりと笑った。

 

 

 ―確かに、この言葉に間違いはなかった。

 

 

 

説明
枳の庭 第一章「おもいでのかけらたち」

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