楽園の花 -1-
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【絶望の赤】

 

「はぁ、はぁ……」

 

 街は絶望と混乱、悲鳴に包まれた。戦争という災厄は、ついにここまでやってきたのだ。

 

「くッ……」

 

 窓から差し込む赤い光に照らし出された廊下を、一人の少女が歩いていた。

 美しく、華奢で小柄な少女は、ゆっくりと、しかし確実に前に進んでいる。

 

「ぅッ……ぁ」

 

 腹から込み上げる吐き気をなんとか我慢する。先ほど、人が焼ける臭いをたくさん嗅いだからだ。

 戦火は、少女の思い出の詰まった街を破壊し、蹂躙《じゅうりん》していく。大切な人の死も、友達と過ごした毎日も――彼との出会いも、すべてが飲み込まれていく。

 

「先生ぇ……」

 

 時折こぼれる彼の名前。少女は、彼を探して屋敷までやってきたのだ。

 しかし、数ある部屋を探そうとせずに、彼女はある場所へと向かっていた。

 と、その時だ――

 強烈な爆音と振動が屋敷を襲った。

 

「きゃ……ッ」

 

 衝撃で廊下へと叩きつけられる少女。さらに――窓のガラスが割れ、それらが少女へと降りかかった。

 

「ぁ、くッ」

 

 身が切れ、白く簡素な服が血の色で染まっていく。

 幸いにも急所は大丈夫だったが、それでも幼い少女の体力と気力を奪うには充分だ。

 

「……行かないと」

 

 どれだけ体に傷が刻まれても、服が己の血で汚れでも、彼女は決して歩みを止めない。止めないのだ。

 

「はぁ、はぁ……くッ」

 

 時折、血が足りないせいか気が遠くなる。その度に、自分の舌を噛んで意識を呼び戻す。口の中は鉄の味しかしない。

 

「先生の所に……」

 

 そして、少女は目的の場所――屋敷の屋上へと辿り着いた。

 真っ先に、屋上の端に佇む、フードのついたコートをはためかせた一人の男を見つけた。

 

 そう、彼こそが青年であり、先生と呼ばれる存在。

 

 少女のすべての人生を覆し、変えた人。

 

「花売り君」

 

 少女に向かって振り返ったその顔は――優しくて、どこか悲しい、あの時の顔をしていた。

 

 二人が出会った、あの時の……。

 

 

 これは、一人の絶望に生きた少女と、謎の青年が紡ぐ、不思議な物語。

 世界を巻き込んだ奇跡の序章である。

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【花売りの少女】

 

 世界の中心では、今まさに戦争が行われていた。

 様々な国が自らの兵士を用いて、それこそが国の為だと盲信し――殺しあう。

 だがそんな世界情勢の中でも、大地に住まう多くの民は毎日を生きようとしている。戦争とは無縁とは言い難いが、彼らは毎日を生きるのに必死だ。ただでさえ貧困なのに、戦争のおかげで民はみんな疲弊《ひへい》していった。

 この港町と都市を繋ぐ小さな街も、戦争の煽りをくらっていた。裕福なのは一部の貴族と戦争によって儲けた富豪だけだ。みんな、誰もが飢えを耐えている。

 

「お花はいかがですか…」

 

 今にも消え入りそうな声で花を売っている少女が一人。彼女にも名前はあったが――それは意味を成さない。法律的には、彼女の存在は無いのだから。

 

「誰か…お花……」

 

 道行く人はまばらだ。その誰もが、虚ろな目をしている。

 当たり前だが、花では腹は膨れない。彼女自身も分かってるのだ。誰もが飢えを耐えてるこの街に、花など買う余裕のある家なんて――先ほどの貴族か富豪くらいだろう。

 しかしそういった裕福な者は、街の薄汚れた少女の売る花なんて物は見向きもしないだろう。

 

「はぁ…今日もゼロか」

 

 溜め息をいくらついても、腹は減るばかり。

 少女は今日も諦め、住居にしている寝床へと戻っていった。 街の周りを囲うように流れる川。東西南北にはレンガで造られた橋が架かっていて、街に入るには必ず通る道だ。

 特に東西は主要道路と繋がっているので人通りも多い。そして、「家」もまた橋の東西に集中して存在する。

 

 そうした中、少女の「家」は最も静かな北の橋の下にある。北には森と山しか無いので、こちら側の街にもそんなに人は居ない。だからこそ、ここを選んだ。

 

 

 拾ってきた廃材を組み合わして作られたそれは、彼女にとってのまさに「家」だ。

 

「はぁ…」

 

 稼ぎの無かった事に少し気落ちしながら、寒さ避けにボロボロな毛布にくるまり、森で拾ってきた木の実を口にする。

 

「ん…っ」

 

 口の中に渋い味が広がるが、構わず飲み込む。

 

「……これからどんどん寒くなるよね」

 

 季節は冬。秋は森に行けばある程度食べ物には困らなかった。けれど、あと十日もしない内に雪がちらつくだろう…。

 外に暮らす少女にとって、最も過酷《かこく》な季節がやってくる。

 

「家の補強。しないとな」

 

 工具も無ければ知識も無い少女の造った家だ。隙間はそこらにある。最近は隙間風も馬鹿にできなくなって来た。

 

「また、とってこないと――」

 

 ドサッ

 

「ぅッ」

 

 立ち上がろうとして足をひっかけてしまい、その場でこけてしまったのだ。

 少女は自分の口の中でする泥の味を感じながら、

 

「……お母さん」

 

 嗚咽《おえつ》を洩らした。しかし、涙は出なかった。出し方も忘れてしまい、出せばそれだけ水分が減ってしまう。自分にそう言い聞かせてやってきた。

 

「辛いよ…」

 

 彼女の母親の生まれはこの街より海を越えた、はるか遠くの島国だという。

 そこにある国のたくさんある村の一つで生まれ育ったという。

 そのまま平穏な日々が続いていれば、母も彼女もこんな目には合わなかった。

 そう、彼女の母親は…絶望の中で、少女を産んだ。

 

 ただ皮肉にも、絶望が存在しなければ、少女も存在しなかったのだ。

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【母の軌跡】

 

 この話は少女は知ることのない、母親が心の中に置いてきた話だ。

 現在、少女がいる大陸から見て、海を挟んで東には島国がいくつか点在している。その中の最も巨大な島国。ここの数ある村のひとつが少女の母親の故郷である。

 

「それじゃ、行ってきます」

 

 村に名前は無い。農業と畜産によって稼ぎを得る、という事だけが特色。他にこれといってなにかある訳でもないが……少なくとも村人の誰もがそれを嘆いている訳ではない。

 

「あら、今日はどうしたの?」

「あ、今から森の花畑まで行ってくるんです」

「アンタも好きね〜。お花もいいけど、ちゃんとイイ男見つけないと……」

「でも、私そういうのは――」

「もう数年したら成人(十五歳)なんだから。ただでさえ、戦争のおかげで働き手が減ってるんだ。オバさんみたいに八人は産みすぎだけどね!」

 

 

 昨今の戦争によって大人の男。特に若者はほとんど村に居ない。残っているのは老人か女子供だけ。

 しばらく戦争が続けば、また徴兵があるかもしれない。次に連れて行かれるのは子供。そうなれば働き手がかなり減り、また戦争によって税金もあがる。この悪循環にはどの村も頭を抱えているという。「戦争、終らないかな」

「どうかね〜。結局は御上の決めることだからね。それでも早く終わるのに越した事はないんだけどね!」

 

 豪快に笑いながらも、どこか顔には“疲れ”が見えた。

 その顔を思い浮かべながら、彼女は空を仰いだ。

 

「オバさん……旦那さんが戦争行ってるんだよね」

 

 空の色は平和そのもの。それなのに、大地では今日も血が流れ、屍が山となっている。

 

「あ! すぐに用事済まさないと」

 

 暗くなりかけた顔を軽く叩き、自分に活をいれる。

 

「お花、綺麗なのが咲いてるかな」

 

 

 

 太陽が最も高くのぼる頃、彼女は村へと帰ってきた。

 

「いっぱい咲いてたな。これ飾ったら綺麗かな?」

 

 両手には摘んで来た花で溢れていた。

 名も無き花……けど、力強く咲き誇る姿は見る者に力を与えてくれる。だから、彼女は花が好きなのだ。

 

 

「あれ? なんだろ」

 

 村の集会場に使われている広場に、人だかりが出来ていた。

 人だかりと言っても百にも満たない数だが、これですべてなのだ。

 

「あ、オバさん。何があったんです?」

 

 見覚えのある顔を見つけたので声をかけてみる。

 

「さぁ……なんでも、領主様が直々に視察に来るらしいけど…」

「へぇ…」

 

 この国では広大な国土を管理するのを、すべて貴族に任せてある。

 これは領土と呼ばれ、他の国にも見られる制度だ。貴族は土地を任せられるという事が 自らのステータスになり、価値がある土地を任せられるとそれだけでかなりの地位にいるという事になる。

 この国では領主となった貴族は、領土の中では王のように振る舞うことができる。税金から司法、区画整理から土地改革――そのすべてが貴族が定める。 貴族の器量で、裕福にも貧困にもなる。

 

 だが最も危険な急所が、この制度には存在する。 領主の子飼いの兵士が書状を掲げながら叫ぶ。

 

「まもなく領主様がやってこられる。しばしその場で待て!」

 

 もちろん村人達は動揺したが――皆、納得したような顔した。

 

「税金の事だろうねぇ」

「え?」

「先月はちょっとだけ足りなかったらしいから、それの催促か……もしかしたらまた税金があがるのかもね」

「そんな! これ以上あがったら、みんな飢えちゃうよ…」

「こんなご時世じゃしかたがないさ。けど、領主様ってあんまりいい噂聞かないし――」

「噂?」

「なんでも、いろんな村から税金をギリギリまで搾り取って、その金を国に献上してるって」

「なんで……」

「そりゃ、国に認めて貰えたら領土が増えるし地位もあがる。そうなれば贅沢な暮らしができるって訳さ……わたしもあやかりたいよ」

「……酷い。みんなが大変な目にあって稼いだお金で…」

「あくまでも噂だよ。ほら、女の子は笑ってないと!」

「は、はい」

 

 不服そうな顔で頷いた為か、オバさんも苦笑いで返した。 しばらくして、村や畑のある風景から切り取ったように浮いている馬車がやってきた。

 豪華絢爛《ごうかけんらん》な造りと言えば良いのだろうが……彼女には見栄と権力を被った悪趣味なモノにしか見えなかった。

 

「それでは、今から領主様からのお言葉を伝える。心して聞くがいい」

 

 馬車の傍らに立っている兵士が村人全員に向かって叫んだ。

 領主は馬車から降りて来る気配さえない。

 

(あれ? 領主様が直接喋るんじゃないんだ)

 

 それならわざわざ兵士をお供にして来なくても、最初に来た兵士が言えば良いはず。

 

(なんでだろ)

 

 彼女と似たような事を考えたのか、周りの村人も何人か動揺している。

 

「この度、長らく続く戦争の影響により領土を管理、維持する為の力が不足し、このままでは戦争がこの国で起きた時に対応が難しくなる。また本国も似たような状況からの税が増え、今のままでは自滅さえしてしまう危険がある。ついては税金と人員の追加を決定した」

 

 さきほどより動揺はあまり無かった。みんな覚悟していた事ではある。

 しかし、この後の発言は、皆の予想に反し、動揺が広がった。

 

「なお、この村では税金の追加のみ行うが……領主様の提示する条件を満たせば税金の追加は無い!」

 

 本来ならば願ってもないことだ。戦争のおかげで労働力が激減している村にとって、税金は最も頭の痛い問題。

 

「まず、これから起る事は――」

 

 そう言いながら兵士は、手近に居た老人の肩を掴み、無理矢理に地に伏せた。

 

「ふぁ!?」

 

 突然の兵士の行動に誰もが唖然とし、なにも出来なかった。

 

「他言無用だ。もしも喋ればどうなるか……試してみるか?」

 

 鞘から抜いたナイフを首筋にあてる。後はちょっと力を加えるだけで、血が噴き出すだろう。

 

「や、やめ……」

「この中で若い女をここに並べろ。一人残らず、全員だ」

 

 殺気の籠った声で静かに命令する。

 なかなか自主的に動かなかった者は、待機していた兵士数人が無理に広場の方へと引きずり出す。

 

「痛いッ!」

「五月蠅い《うるさい》、黙ってこい」

 

 こうして十数人の若い女性が広場に並ばされた。

 

「よし」

 

 拘束していた老人を解放した兵士は、馬車の扉をノックした。

 

「領主様、準備は整いました」

「うむ……」

 

 馬車から降りてきたのは、恰幅のいい小柄な男。お世辞にも美形とはいえない顔をしている。動物に例えるなら、牛とイノシシを足したような感じだ。さらに服は、馬車同様派手。身に付けている宝石の値段は、この村が一年は何もしなくていいくらいだ。

 領主は、並べられた女達を見渡し──一人の娘。つまり、彼女を指差した。

 

「はっ」

 

 兵士達は有無を言わせず勢いで少女を取り押さえる。

 

「や……」

 

 そのまま領主の乗る馬車の中へ押し込んだ。

 

「いた。なにがどうなって――ッ!?」

 

 普通、馬車には人が乗る為の座席がある。しかし彼女の目の前には、白いシーツに覆われたベッドがあった。

 

「な、なんなんですか!」

「嫌なら泣き叫べばいい。儂はそれでも構わんが……」

「何を言って…」

 

 少しずつ迫って来る領主。後ろへとさがる

 

「お前が泣くと、村人の首がひとつ飛ぶ。お前が抵抗すれば、お前の首が無くなる。騒がず、ただ儂の言う通りにすれば……そうだな。金一封でもやるか」

 

 迷いの無い、本気の目。それも濁り腐った欲の色をしている。

 

「儂はお前さんのような」

 

 少女のあごを持ち上げ、頬を。唇を。首筋を。少し膨らんだ胸を撫でまわす。

 

「ひぃ」

 

 嫌悪感から少女は悲鳴をあげた。

 それを見て、領主はさらに触れる。その度に反応する彼女を見て、楽しんでいるのだ。

 

「くくく……生娘が好きなんだよ」

「あ、あぁ――きゃあ!?」

 

 領主はやけに手慣れた手付きで彼女を組み伏せ、手錠をかけた。

 

「この方がそそるのでな……さて、そろそろ楽しませてもらおうか」

「嫌…」

「さぁ――」

 

 この世で最も歪んだ笑顔を見た瞬間――少女は叫んでいた。

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 

 

 数時間後、村人に対して領主は満足げな顔でこう言い残した。

 

「約束通り、この村の税金は今のままにする。ただ、滞ったりすれば――儂が直々に制裁を加える。ゆめゆめ忘れぬようにな」

 

 誰もが怒りと戸惑いを感じながらも、誰もがなにもできずにいた。

 

 その日、村から四人の女性と、一人の男が消えた。

 

 二人は事が終わった後に自ら命を絶ち、一人は領主に連れさらわれ、男は領主に異義を唱えた為に死んだ。

 

 そして――腹に新たな命を宿した少女が一人。村から忽然と姿を消した。

 

 

 

 彼女はそれから産まれるまで町工場や掃除婦、住み込みで働きながらお金を稼いだ。

 

 子供が産まれてからもしばらくは色んな町や街、国を転々とした。安らいで暮らせる場所を探して――。

 

 そして、つい八か月ほど前にこの街へとやってきた。

 ここで彼女は念願だった花屋がしたいと、今のような路上で売るという形で始まった。

 

 暮らしは決して楽では無かった。裕福を夢見るしかない環境。

 でも、そこには幸せがある。たった一人の子供との――小さな幸せ。

 

 

 幸せが終わったのは半年前。

 

 彼女の、死んだ日──。

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【花売りと──】

 

「あれ……もう、朝?」

 

 朝日は大地に満遍なく降り注ぎ、川に光が反射して、まるで宝石のような輝きだ。

 

「今日も頑張らなくちゃ……」

 

 母親が半年前に亡くなってから、少女は一人で生きてきた。

 元々望まれて孕んでいたわけでは無い。……が、母親は亡くなるその日まで、彼女を愛していた。

 それだけが今の彼女が生きる理由。愛してくれたこの命を無駄にしない……そう誓った。

 

「花はどうですか……?」

 

 いつもの場所に立って、いつもの台車に積んだ花を売る。花と言っても、まともに花だけを売るのでは誰も買わない。

 取り扱うのは花以外に、ケシの花や薬草になる植物など。これにより多少は売れるのである。

 

「ありがとうございました」

 

 今日はこれで三つ目。いつもより売れ、少女は思わず――しかし外から見た表情は変わらないが――微笑む。

 

「おうおう、嬢ちゃん。こんなトコでナニしてんの?」

「兄貴、このガキここで商売してるみたいだぜ」

 

 たとえ、小さな幸せであっても長くは続かない。こうやって難癖をつけてくる大人はいままでごまんと居た。 歯向かえば殴られ、蹴られ、花を踏みにじられ――最悪、犯されそうになる。

 

「どうもすいませんでした。二度とここではやりませんので……」

 

 台車を押しながら逃げようとした――だが、その前を大柄な方の男が遮った。

 

「嬢ちゃん。別に俺達は怒ってる訳じゃねーんだよ。俺達も最近この辺りをしめてるんだが……」

「……?」

「頭の悪ぃガキだなぁ。よーは所場代として、こんだけ払えって事だよ」

「払えば、とりあえず嬢ちゃんの仕事の邪魔はしないぜ。それどころか、いちゃもんつけにやってきた奴から守ってあげてもいいんだぜ?」

「兄貴優しい〜」

「もしも、払わなかったらどうなるんですか……?」

「こうなる」

 

 予備動作もなにも無く、突然少女は後ろへと吹き飛ばされた。壁に叩き付けられる少女。

 

「かはッ――」

 

 大柄な男は力いっぱい、少女の腹を殴ったのだ。

 

「わかっただろ? 払わないとどうなるか」

「兄貴かっこいい〜」

「けほっ」

 

 腹を押さえながら起き上がろうとして、失敗する。崩れかけた少女の首根っこを掴み、大柄な男はその顔を覗きこんだ。

 

 そしていきなり――ニヤリと笑う。

 

「嬢ちゃん。別に金が無いなら無いでいいんだぜ?」

「ぁ……?」

「おい。お前は念のため見張っとけよ」

「兄貴、終わったらヤらせてくれよ」

「おーけ」

 

 首根っこを掴んだまま暗く狭い路地へと連れてこられる。

 

「嬢ちゃん、何歳だ?」

「じゅう…に」

「そうか。若いが、俺は別に気にしないぜ」

「な…にを?」

「こう、するんだよ!」

 

 乾いた布が破かれる音と共に、少女の裸体が露わになる。

 

「……」

 

 このくらいの歳の少女なら悲鳴の一つでもあげただろう。

 だが、この少女は全く動じず――大柄な男を見据えていた。

 

「へっ、ビビって悲鳴もあげられないってか? まぁこっちとしては好都合だけどな」

(もう、疲れた…な)

 

 現状に絶望も、悲嘆もしない――流されるままに生きるのも、悪くない。

 少女には選択肢がなかった訳では無い。ただ、その選択を出来るだけの活力は…すでに彼女の中にはなかった。

 

「くくく…じゃあ頂くとするか」

 

 男が少女に手をかけようとした――その時だ。

 

「あ、あに――ぶげッ!?」

 

 つい今しがたまで路地の入口に居たはずの男が、派手にこちらまで飛んで来た。

 

「誰だ……誰だてめぇ!」

 

 

「誰か…そう聞かれるのも久しいな」

 

 顔にかかっいたフードを脱ぎながら、青年は言った。

 

「あぁん?」

「残念。僕の名は君らじゃ理解どころか認識すら出来ない」

 

 青年はかなり整った顔立ちをしていて、服装もこの街に似合わず小綺麗だ。

 

「てめぇふざけてるのか!?」

 

 しかし物怖じもせず男は吠える。

 いくら子分がやられたからといって、今まで何十という荒くれをその拳で黙らせてきた男にとって、目の前の青年はなんの脅威にすら写らなかった。

 

「少なくとも、今の君よりマシだが?」

 

 今まさに少女をどうにかしようとしてる様を指摘された男。しかし怒るどころか、男は高らかに笑い出した。

 

「はっはっはっ――お前はなんにも分かってないな」

「……」

「俺は当然の代価を貰ってるんだぜ? こいつはここで商売出来なくなったら、他へ移るしかない。他はすでに別のチームが陣取ってやがる。この意味がわかるか?」

「君が囲って守ってる――とでも言うのか」

「そうさ! ひどいトコになると、ガキの体刻んで切り売りしやがるからな…俺ならせめて、娼婦館にぶち込むくらいだよ。ひゃっはっ」

「そうか…」

 

 問答を続ける間に、子分格の男が起き上がった。

 

「てめぇ、さっきはよくもやってくれたな……」

 

 青年が一歩踏み出そうとしたら、大柄な男はすぐさま少女を羽交締めにした。

 

「人質のつもりか?」

「へっ。てめぇ、この街の人間じゃねーだろ?」

「だとしたら…どうだと?」

「余所者が首突っ込むと、痛い目にあうぜ!」

「るらぁ!」

 

 ガスッ!!

 

「人間ってのは、かくも醜いものなのか……」

「な…」

 

 男の一撃をいとも簡単にいなし――地面へと叩き付ける。

 

「がッ!」

「くそッ。てめぇ、これが見えるか!?」

「ナイフに見えるが?」

「こいつがどうなっても――」

「それを決めるのは僕でもお前でもない」

 

 まるで指揮者のように手を動かし……少女を指差した。

 

「君はどうしたい? この暗い世界で、そんな男に犯され墜ちていき終わるのが君の望みなのか?」

「何を言って――」

「僕はこの子に聞いている」

 

 睨みをきかせただけで、男は声をあげる事が出来なくなった。

 

(な、なんだコイツ!?)

 

 異質な何かを感じ、それ以上なにも言えなくなる。

 全身から寒い汗が流れ出る。今、自分の首に死神の鎌を当てられているような感覚が男を襲う。

 

「どうなんだい?」

 

 うっすらと笑みも浮かべず、真っ直ぐ少女の瞳をみつめる。

 

「わ、たしは」

 

 静かな空気が震えた。

 

「……生きたい。陽の下で咲く花みたいに…」

「そうか」

 

 その答えに満足したのか、それ以上の言葉は発しなかった。

 

「お、おい……」

「今しがたお前らの未来が決まった。この子の未来を摘み採る可能性のある、」

 

「お前らを……消す」

 

 淡々と宣言した――ただそれだけなのだが、有無を言わせない迫力に満ちていた。

 次の瞬間、

 

「ナニふざけたこ――」

「あに――」

 

 路地に満ちた山吹色の光。それが青年の発したモノだと認識するころには……すべてが終わっていた。

 光が収まり、路地に先ほどまでの暗さが戻る。

 

 ドサッ──。

 

 突如現れた重力に引かれ、少女は地面へと倒れこんだ。

 ――少女の意識も、そこで途切れた。

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その男、先生なり

 

 少女が目覚めて最初に見たモノは、木目のある天井だった。

 

「……ぁ」

 

 いつも着ていた服は破かれてしまった──代わりに、今は簡素で清潔な白い服を着せられているようだ。しかし、その布は決して安いモノではない。

 

「ここは、どこ?」

 

 ふと横を見れば、窓があった。

 そこからはあの街が見える。それも全体を一望できることから、どうやらこの建物は、街近くの高台にあるようだ。

 

「誰かのお屋敷?」

 

 部屋の調度品といい、純白のベットといい――橋の下でホームレスをやっていた少女には、見たことも無いようなモノばかり。

 

「起きたかい?」

 

 部屋を眺めていたら、いつの間に居たのか…部屋の住みの椅子に腰掛けている青年が居た。

 

「いやすまない。僕もちょっと寝ていたよ。無許可で力を使うといつもこうだ」

「ぇ?」

「気にしないでくれ。ただの独り言だ」

「はぁ」

「ここの屋敷は僕が使ってる。君以外に人は居ないから、自由に使ってくれて構わない」

「あの……」

「なんだい?」

 

 優しい眼。少女が感じた青年の印象だ。だが同時に――

 

(冷たくて……)

 

「淋しいんですか?」

「――ん?」

 

 初対面の人間にいきなりこんな事を言えば、誰もが怪訝そうな顔をするか、怒るかだ。

 だか青年は……

 

「君は、そう見えるのか」

 

 青年はなんの感情の動きもななく淡々と――いや、しいて言うならばそれは『興味』か。

 

「あの…」

「なんだい?」

「お世話になりました。だけど――」

「君のそれは、警戒か?」

「え?」

「それともただの遠慮か、疑念か…」

「いえ……私はあの街で住んでる人の中の一人です」

「そうのようだね」

「貴方は…貴族か、富豪か。どちらにしろ、私がここに居る事が知れば――」

「悪い噂が広まると?」

「あ、はい……。それに、私はこの街でしか生きる術を知りません。少しでも、その……」

「この環境に慣れてしまったら、もう戻れない。そう言うんだね?」

「はい。助けてもらったのに、こんな事言う資格は無いんですけど…」

 

「ならその資格と権利は僕が預かろう」

 

「……え?」

「君の事情はよくわかった。だがしかし、僕が君の提案を受け入れる理由にはならない。もしもそれに権利だ、資格だと言うのなら……僕が預かる」

「……」

「どうかな?」

「それだと、私も貴方の提案を聞く理由にはなりませんよ?」

「……君は頭がいいね。その通りだ――と言いたいが。君と僕とでは平等では無い。だが、知らないかもしれないが、この国の法律だと、保護者の居ない子供はすべて国営孤児院に強制収容される。この街でしか生きれない言い分があるなら、今から僕が保護者になる」

「……ちょっとだけ、考えさせてください」

「そうだね」

「なんで、私にそこまでしてくれるんですか?」

 

 一瞬だけ、青年の眼に深い悲しみが宿る。だが、すぐにいつもの顔に戻った。

 

「助けたかっただけさ。それよりご飯はいるかい?」

「いえ、私はいりま――」

 

 きゅるるる――

 

「あっ」

「君のお腹は正直者だな」

「あぅ……」

 

 少女は、人生で初めて――穴があったら入りたいと思った。

 

「いつまでも君では不都合だな…。君はあの街でどんな事をしてた?」

 

 療養中なので、食事はこの部屋でとる事になった。

 テーブルの上には、少し味気の薄いスープに固めのパン。チーズと野菜のサラダに紅茶がある。

 どれも戦争中でなければ有り難みも無いような物かもしれない。だが少なくとも、この街の多くの人々はこんな食事でさえ満足に出来ないのである。

 

 

「いつまでも“君”では不都合だな……。君はあの街で、どんなことをしていた?」

「花売り、ですけど……」

「じゃあ、今から君の事は花売り君と呼ぶことにするよ」

「別にいいですけど…私にも名前くらいありますよ。苗字は無いですけど……」

「苗字?」

「この国では、お金を払って初めて苗字を貰えるんです…。苗字が無いと、街でも住んでる事にはならなくて」

「詳しいね」

「母から聞いただけです」

「だが、名前に固執する事は無い」

「……?」

「名前は、個を特定する為の手段だ。個と個の間で意味が通じれば、一つの名前に固執する必要もない」

「……そういう考えって、ちょっと淋しいです」

「そう、なんですかね」

 

 しばらく、食器がたてる音だけが部屋に響き渡る。

 

「じゃあ、私はなんて呼べばいいです?」

「僕の名か……」

「ここで、どんな仕事をされてるんです?」

「端的に言えば、言葉と知識を伝える仕事かな」

「それって、先生ですか?」

 

 ある程度の大きさの街には大抵学校がある。国の援助や私塾などの違いはあるが、お金さえ払えば知識を学べるという所は一緒である。

 もっとも、この街では貴族の子が通う様な学校しか無い。

 

「私、一度でいいから通って見たかったんです。母も、幼い頃は通ってみたかったと言ってました」

「学校、か」

 

 何やら意味ありげに頷くが、特に感想は無いみたいだ。

 

「あ、そっか。先生は貴族の人の学校に勤めてるんですか?」

 

 それならこんな屋敷に住んでいるのも頷ける話――なのだが、

 

「いや、そういった仕事はしてないよ」

 

 首を横に振りながらも、顔の表情は変わらずだ。

 

「それならば花売り君」

「なんですか?」

「ここが学校の代わりというのはどうだろうか」

「学校……ですか」

「授業料はこの屋敷の家事手伝い。花売り君が家から通いたいというなら、そうでもいい」

「でも……」

「なに、僕もまた…暇なんだよ」

 

「じゃあ、その……それだけお言葉に甘えます」

「あぁ、そう言ってくれると助かる」

「?」

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 こうして、少女と青年の奇妙な関係は始まった。

 橋の下の家で少女は新しく貰った(ほぼ押付けられた)毛布の中で朝を迎える。

 

「おはよう、お母さん」

 

 屋敷に行く前に、溜めた水で髪型を確認。少し濡らして整えた。

 

 次に森の中にある秘密の場所にやってきた。陽当たりが良いので花が育ち易いので、よく利用している。

 この日は、冬でも咲くスノードロップという花を摘んだ。ただ、もう少し寒くなれば雪が降る。そうなれば、花も育たなくなってしまう。

 

「どうしよ」

 

 さすがに花の専門知識は無い少女。

 

「……後で先生に聞いてみよ」

 

 屋敷へとやってきた彼女はまず、庭にある小屋にいる鶏に挨拶をしに行く。

 

「元気にしてた?」

「ケェー!」

 

 この屋敷には、鶏小屋の他に畑などがある。毎朝ここで朝ご飯の食材を拾っていく。

 

「ぁ、卵一個あった…貰っていくね」

「コココ……ケェー!」

 

 まるで意思の疎通が出来てるかのような会話である。

 

 ちなみに彼女は料理らしいリョウウィをした事が無い。なので――

 

「包丁は、こうやって使うんだよ?」

「はい」

「間違っても、さっきみたいに逆手で持っていけない」

「はい……」

 

 随時、青年による特別授業が行われる。

 昼まで少女は授業をうける。と、言いながらも主な内容は『読み書き』だ。

 

「えっと…あれ?」

「ほら、脇に力が入り過ぎてるよ……」

「ひゃっ!」

「ん?」

「いや、なんでもないです……」

 

 この日、彼女は自分が脇に弱いことを七回知った。

 そして昼前になったらご飯の用意。とはいえ、まだ朝の事があるので先生の付きっきりだ。

 

「包丁は片手で、もう一方の手で添えて切るのが基本」

「はい」

「間違っても、両手で持って振り下ろしてはダメだからね」

「はい……」

 

 とりあえずみじん切りまでは覚える事ができた少女であった。

 

 ちなみに朝は焼いたパン、野菜サラダに紅茶。昼はパンに野菜と塩漬けのハム、半分にした目玉焼きを挟んだ物とスープ。どれも先生に教わりながらだが――少女は料理が楽しいと感じる様になる。

 

 そして昼すぎ――

 

「わぁ……」

「ここが屋敷の屋上だよ」

「凄い、ガラスだ」

 

 屋上にある平地部分に建てられたガラスの小屋。

 彼女が驚くのも無理は無い。ガラスは基本的に窓か器か…それで家のような小屋を作るなんて発想は、この国でもかなり奇異である。

 

「前の貴族か何かが作ったらしいけど……どんな目的で作ったんだろうと思って調べたら、面白いことがわかったよ」

「なんですか?」

「この小屋はガラスで出来てるから、太陽の熱を集めやすい。内部は冬でも気温が高くなる。夜は小屋にシートをかけて熱を出来てるだけ逃さないようにしてやれば…」

「冬でも、春のような花が咲きます?」

「可能だろうね」

「……」

「初めて見たよ」

「ぇ?」

「花売り君の顔が、嬉しそうなの」

「そう、なんですか?」

「あぁ…それじゃあ、昼からは土を運ぶかな。そんなに広くは無いけど、それなりに骨がおれそうだ」

「は、はい」

 

 

 

「あれ――?」

 

 まぶたをこすりながら、少女は自分がベットに寝ている事に気付く。

 

「……夜?」

 

 窓の外はすっかり日が暮れている。月だけが、ぼんやりと光を放ち――しばらく少女はそれを眺めていた。

 

「そういえば、終わった後…」

 

 少女には土入れが終わった直後からの意識が無い。

 当然と言えば当然である。普段激しく動いたことが無く、今日は張り切ってしまった……緊張が途切れた瞬間に意識が飛んでしまったのだ。

 

「家に帰らないと――?」

 

 ふと、違和感に気付いた。

 自分の横になにかある――、いやあった。

 

「先生…」

 

 ベットの隣には青年が寝ており、整った顔が月に照らされ…どこか神秘的な雰囲気がする。

 よく見れば、ここは青年の部屋だ。最初に少女が寝ていた部屋は一階にあり、ここは二階だ。もしかしたら、

 

「先生も疲れたのかな…」

 

 服も昼のままで上着だけ脱いでいる。

 

「……おやすみ、先生」

-7ページ-

【雪山の花】

 

 それはいつもの授業をしていた時だった。

 

「この国に限らず、世界統一の常識として“時間”というモノがあるのは知ってるかい?」

「時間……朝とか、昼とか、ですか?」

「そうだね。でも、もっと詳しく時間を表してるのがこの“時計”と言われる機械だ」

 

 青年はポケットから丸く平らで、手の平サイズの物を取り出した。

 

「これが時計。ほら、長い針と短い針がそれぞれ数字を指してる。今の時間を表してるんだ」

「……今の時間はどうなんですか?」

「長い針が“2”、短い針が“4”。つまり二時二十分って読むんだ」

「なんで、“4”なのに二十って読むんです?」

「1日は二十四時間。一時間は六十分って単位にわかれる。時計もそれに基づいて作られてるから、六十にわけた場合、“4”の位置は二十になる」

「これ、考えた人凄いですね…。このたくさんある、特にこのよく動いている小さい針はなんですか?」

「これは秒。一分を六十にわけた単位。だけど一秒なんてすぐだから、忙しく回ってるんだよ」

「なんだか、不公平ですね」

 

 規則正しく動く針。ひとつ、ひとつの大小の歯車が寸分違わない動きをして、それが狂う事なく動くことで安定が得られる。

 

「そうだね。でも、これは摂理みたいなモノ。動かなくなったら、すべてが止まるからね…」

「そう、なんですか?」

 

 意味ありげに顔の表情を柔らかくした青年は、時計を眺めながら少女にこう言った。

 

「あぁ。人も、動物も、花売り君も……自然の摂理の中で生きてるんだ。だから、無理にそれから外れようとすれば、逆に大変な事になってしまう」

「……私って、自分のことちょっと変だと思ったけど、先生も変わってますよね」

「何故だい?」

「本当なら、機械にある機能ひとつに、不公平って……おかしいですよ? 意識なんてあるはずが無いのに」

「……確かに少しおかしいかもしれない。けど、もしかしたら意識もあるかもしれない」

「え?」

「ただそれを苦痛だと思うか、当たり前だと思うかは見た人の自由だよ」

「……」

「モノは大切にしていると、いつか答えてくれる」

「それ、この前読んだ童話じゃないですか?」

 

 

 どこにでもある、教訓を含んだおとぎ話。

 

 その話は、職人が死を迎える時まで仕事道具を大切に使った。

 

 最後はそれを受け継いで大切に使っていた息子と、使わなかった息子の末路が描かれ、大切にされた道具は恩を返し、されなかった道具は復讐をした……そんなどこにでもある話。

 

 

「花売り君は、これがただの空想だと思うかい?」

「違うんですか?」

「人だって恩を感じれば、それぞれの主観で返してくれる…返してくれないのも含めてね。物だって、奥を感じたら……何か返してくれるかもね」

「先生って」

「なんだい?」

「よく夢見がちって言われません?」

「あまり経験は無いね。話が逸れたね。次は曜日と月の名前を――」

 

   

 

「――という事なんだ」

「はい……ん」

 

 思わず出てきた涙を拭う。

 

「おや、もうこんな時間か」

 

 時計は長針が“4”を、短針が“12”を指していた。

 

「さすがに疲れたようだね」

「すいません……」

「いいよ。ここまでよく出来たね。それじゃ、今日やった時間の名前をよく復習をするんだよ。明日は地図の見方を教えるから」

「はい」

「じゃあ今日はここまで。晩ご飯の用意をしようか」

「はい」

 

 ぐるぅ――

 

「あ……」

「花売り君のお腹の時計はちょっと早いみたいだ」

「うぅ……」

 

 柔らかな表情になった青年は、少女の頭を撫でる。

 

「今日は手伝いはいるかい?」

「いえ…たまには一人で頑張ってみます」

「そうか、楽しみにしてるよ」

 

 少女は――自分では気付いていないが、その表情はやんわりと微笑んでいた。

 

「はい」

-8ページ-

 

 そんなとある日のことであった。

 

「え、いいんですか?」

「あぁ。その時計、しばらく花売り君に預けようかと思う。最近、よく気にかけてるしね」

 

 その日から、少女は頻繁に時計を眺めるようになった。だから原動力のネジを巻くのも彼女の役目になってきている。

 しかしこれは世間の情報に疎い彼女でも分かるくらい、高価な品だ。それこそ貴族や富豪にしか持てないような……。

 ただ青年はそんな少女の考えを見越したかのように、言葉を続けた。

 

「もしかしたら、その時計と波長みたいなのが合うのかな」

「無意識に接して居るのに、妙に気が合ったりする時によく表わす言葉だよ」

「……」

 

 不思議そうに時計を眺める少女――そして唐突に青年は、

 

「今日の授業は、外でやろうかな」

「はい?」

 

 

 

 こうして、2人は外でピクニックをする事となった。

 もちろん、それがただのピクニックに終わるはずが無いことは、言うまでも無い。

 

「先生」

「なんだい、花売り君」

 

 現在、彼らは屋敷のある山を登っている。

 この街自体は平地にあり、都市方面は広く緩やかな丘程度の平野が広がっている。対して、港町方面は小さな山と山の間を縫うように道があり、街の裏手には大きな山と森がある。

 この辺りはどちらかと言えば大陸の南部にあるので、雪もさほど積らない。それでも山を登るのは多少キツくなるのは当然だろう。

 

「この山で、どんな授業をするんですか?」

「そうだね……一言で言えば“自然観察”かな」

「?」

「時計で言えば“2”が指す頃には着きたい」

「はぁ」

 

 青年はいつも街を歩くようなフード付きのコートを着ている。少女も似たような格好だが、下には色々と防寒している――青年は、いつもと変わらない格好だ。

 

「寒く、ないんですか?」

「花売り君よりは体が丈夫なんだよ」

 

 また荷物も軽装だ。皮のリュックには火をおこすマッチに固形燃料、金属のカップが2つ、水の入った水筒、、簡単な弁当、地図――これだけだ。人があまり足を踏み入れないような山を登るのに、日帰りとはいえこれだけ……それが多少なりとも少女を不安にさせた。

 

「大丈夫だよ。そこまで険しい山でもないし、一本道だから迷う心配も少ない」

 

 いつもと変わらない言葉。あまり感情を含んでない、聞く人によれば突き放したようにも聞こえる。

 だが――

 

(先生…もしかして、楽しんでる?)

 

 今までの授業や生活においても、青年はあまり自ら進んで行動を起こさない。強制も滅多にしないこの青年が、こうやって準備までして行動するのは初めてではないか…。

 真実はどうあれ少女は、

 

(一緒に楽しもうかな)

 

 心を軽くし、少女もこの状況を楽しむ事にした。

 

 道中は目立った変化はなかった。あったとすれば、それは青年と少女の心境だろうか。

 そう、二人は心から今日この日という出来事を楽しもうとしている。

 

 

 ――が、事故や事件という出来事は、あらゆる死角をついて迫って来る。少女にも、それが近付いていった…。

 

 

 先に“それ”に気付いたのは青年だった。

 朝早くに出た甲斐があり、すでに山の中腹辺りに差し掛かった所――しかし、突然生まれた気配に、青年は足を止めた。

 

「ッいた」

 

 ちょうど真後ろを着いて歩いていた少女は、いきなりの停止に間に合わず、青年の背中に鼻をぶつける。

 

「どうし――」

「静かに」

 

 周りに雪が積った森があり、申し訳程度に道がある。その道を歩いてきた訳だが、

 

「数は……三か」

 

 少女が「何がです」と聞き返そうとした――その瞬間、

 

「伏せろ!!」

「ッ!?」

 

 青年は少女の頭を無理矢理下げさせた。

 少女は頭の上を“何か大きな物体”が通り過ぎたのを感じる。

 そして、その正体はすぐ判明した。

 

「るぅぅッッ」

「あ、犬!?」

 

 背中は黒く、腹は茶色い少し大きな体。目付きはするどく、こちらに敵意があるのは誰の目にも明らかだ。

 最初の攻撃を躱《かわ》した獲物に対し、油断なく距離をとっている。

 

「なんで、こんな所に野生の……あッ」

「るぅぅぅッ」

 

 さらに、もう一匹。唸り声をあげながら、木々に隠れつつ姿を見せた。

 

(挟まれた……)

 

 突然襲ってきた犬は、道を塞ぐように……しかし、すぐに飛び掛かれる間合いを維持しながらこちらを見ている。

 少女は、思わず青年のコートを握った。

 

「先生……」

「花売り君。こいつらは野生じゃないよ」

「え?」

「元々、犬は統率のとれた獣だけど……どうにも人間臭さがある」

「それって、どういう…」

 

 それに答えるように、犬の後ろに人影が現れた。

 

 

 人影はもちろん人で、ガタいのいい男だ。まるで品物を見定めるかのような目つきで、その口を開いた。

 

「二人か…」

 

 見た目は三十代半ば。浅黒い肌、短く刈り込んだ髪、頬などに傷跡が目立つ。そして服装は、薄汚れているツナギのような服。二の腕にあたる場所には、王冠が椅子に座っているかのようなエンブレムがついている。

 つまりこの人物は、

 

(軍の兵士か。しかも……隣国の)

 

 現在、この国は世界的な戦争を行う多数の国のひとつ。自国でも燐国との国境では、かなり大規模な戦いが行われている。

 今だに国の内部までは戦火が届いてないのは不幸中の幸い――だったのだが、

 

(明らかに入り込んでいる。それとも逃亡者か?)

 

 戦争を行うのが人である限り、そこには様々な感情と思惑、事情などが交錯する。

 戦場が怖くなった者、指揮官が殺され戦場で散り散りになった部隊、敵領地で致命傷を負った者など……しかし、青年は、すぐにその可能性を消した。

 

(もしそうでも、“軍用犬”を連れて待ち伏せる意味が無い)

 

 軍用犬とはその名の通り戦場で兵士と共に戦う、一種の“兵器”だ。特別な訓練により獣本来の凶暴さと攻撃性を持ちつつ、人の命令には絶対服従の理性。それらの統率には犬笛という特別な道具を使う。まさに戦いが生み出した成果――とでも言うべきか。

 

 目の前に現れたこの男は“何も持ってない”事から、どこか近くに犬笛を持った仲間が居る。

 

「お前らに質問をする。イエスか、ノーで答えろ」

「……」

「お前らは、そこの街の人間だな?」

「イエス」

「我らの事は知っていたか?」

「ノー」

「お前らは軍の関係者だろ」

「ノー」

「わざわざ冬の、しかも雪が積る山に登るのが趣味とでも? 怪しい、怪しすぎるな」

 

 男はニヤニヤ笑いながらも――その顔を見た少女は握る手をさらに強める――眼が少しも笑ってない。

 そう、例えまだ年端のいかない少女であろうと、彼らは容赦しない。

 純真な身体を男達が貪り弄び、心を徹底的に砕かれ――やはり最後は殺されるか、少女が自害してしまうかで終わりを告げる。

 

「では、詳しい事は我らの拠点で聞くか……」

 

 男は逃げ場が無い獲物を捕らえるべく、腰に携帯してあった縄を取り出した。

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(花売り君)

 

 後ろで震えている少女に小声で話しかけた。

 

(せ、先生)

(すまないが、先に地図の場所へと行っててくれないか)

 

 男からは見えないように折り畳んだ地図を手渡す。

 思わず受け取ってしまうが、少女は困惑する。

 

(無理です……)

(花売り君ならできる。いいかい? 合図したら向かって左の森の中へと逃げるんだ。右にはまだ、気配を感じる…)

(先生は?)

(足留めしたら、すぐに追い掛ける…さぁ)

 

 もう手を延ばせば届く所まで、男は迫っていた。

 

「気付かないとでも思ったか? なんの相談をしている」

「さぁな」

「生意気な――」

 

 男の目には、突然目の前が真っ暗になったように写っただろう。青年は単純に男の目の前でしゃがみ、

 

「行け!」

 

 合図と共にコートを頭目掛けて投げたのだ。さらにバランスを一瞬だけ崩した隙に、コートが巻き付いている頭に回し蹴りを喰わし、続いてみぞおちに膝蹴りを叩き込んだ。

 

「がァ!?」

 

 男にはまだ何が起こったか、把握しきれてない。油断はなかった。ただ、青年の動きが桁外れに速かった。

 

「オンッ」

「ッ!」

 

 軍用犬が与えられている命令を即座に実行に移す。逃げる少女に向かって行動をしようとした――が、前足に飛来してきた何かを喰らい、その場に倒れこんだ。

 

「キャンッ!?」

 

 自身の血で、雪が赤く染まる。前足の一本は、綺麗に切断されたように無くなっていた。

 

「しまった…」

 

 青年も即座に攻撃出来たのはその一匹だけ。

 続いて攻撃したが、木を盾にして上手く逃げられた。いや、獲物を追い掛けたのだ。

 

「くッ!」

 

 横から飛んできた三匹目の軍用犬――どうやら、伏せてあった犬に、隠れていた仲間が新たに命令したのだろう――を寸前の所で躱す。

 

「よくもまぁ、やってくれたな」

 

 コートを投げ捨てながら、男は腰からナイフを取り出した。

 

「よく鍛えてあるんだな」

「どうやらお前も、ただの街人って訳でも無さそうだな」

 

 森の奥からさらに、二匹の軍用犬が姿を現す。三匹と、目の前にいる男に、隠れて犬を操る奴――これだけの敵を相手にしなければならない。

 

(力はそう使えない。だが花売り君に一匹迫っているか――)

 

 青年の顔は、やはり見た目にはなにも変化は無い。

 

 しかし、彼から漂う緊迫した雰囲気だけが――どれだけの状況かを示している。

 

(せめて、無事で……)

「かかれ!!」

 

 青年に対し、犬達が一斉に襲いかかった。

 

 

 

「先生……ッ」

 

 盛り上がった根っこや石につまずかないように走る。走る……。

 

(なんで、こんな事に)

 

 なにが起こったのか、今だに少女には理解出来ていなかった。

 ここで逃げているのも――誰から、何から逃げているのか。わからない。それが不安となり、彼女の心に刺さっていた。

 

「はぁ、はぁ…ッ」

 

 それでも地図を確認しようと立ち止まる。

 ただ闇雲に逃げていても、それなりに深い山の中。すぐに遭難してしまう。

 

「ここから真っ直ぐきて――」

 

 聞こえた。

 微かに、唸り声のようなのが少女の耳に……、

 

(とにかく、離れないと!)

 

 今聞こえた声が、さっきの軍用犬ならば急がなくてはならない。非力な少女と、訓練された犬。どちらが優勢かは、明らかである。

 

『―――ォッ』

 

 さっきよりはっきりと聞こえる。どうやら、かなり近付いてきているようだ。

 

「逃げないと――」

 

 少しずつ、少しずつ敵が迫ってくる恐怖を、これまでに体験するはずもない。

 とにかく一心不乱に走り――そして、自分の失敗を悔やんだ時には、すでに軍用犬が背後にまで迫っていた時だった。

 

「……ッ」

 

 “そこ”から足を踏み外しそうになり、すぐに踏ん張った。

 

「崖…」

 

 そう、“そこ”は崖だ。それもかなり高さのある――落ちれば無事で済むはずがない。

「引き返さないと…」

 右も左も崖だ。せめて来た道を少し戻らないとならないが、それを行う時間は永遠に失われた。

 

「るぅぅぅッ」

「ッ!?」

 

 獣の唸り声に後ろを振り返ると、そこには彼女を追っていた狩猟者――軍用犬が息を荒げながらこちらを見ていた。

 恐らく犬は『この距離なら後は飛び掛かるだけ』という間合いギリギリに構えている。

 

(私は…なにも出来ない)

 

 敵意を剥き出しにした相手。話し合いなんてモノに期待など出来ない。

 ならば、どうするか? 普通の成人男子なら立ち向かうかもしれない。足に自信があれば即座に逃げ出すか。知恵を振り絞り、なんらかの活路を開くか。

 しかし、そのどれも選べない人はどうなるか。絶望に身を委ねるか、捨て身の行動を起こすか。それかこの少女のように――、

 

 

「――るぁッ」

 

 牙を剥いて、少女のか細い首筋を狙い突進する。

 が、一瞬早く、少女は決断していた。

 

「――ッ!!」

 

 崖から、その身を投げ出したのだ。

 

「ッ!!」

 

 飛び下りた少女はまず、すぐ下の岩肌から生えていた枝に掴まろうと腕を伸ばす。無論、彼女の腕力程度では掴まりきれるかは、運次第だ。

 

 ――バシッ

 

「あ!」

 

 奇跡的にも掴むことに成功した――が、すぐに落下のエネルギーが彼女を襲い、腕の筋肉にかなりの負荷がかかる。

 

「あ……くッ、うぅ」

 

 少しずつ手の握力が抜けていく。それでも最後の力を振り絞り――先ほど見えた、木の枝の真下にある“横穴”目掛けて降りようとする。

 しかし不思議である。崖の真上からでは確認はできず、地図にも載っていない抜け道……少女は何故、見つけれたのだろうか。

 

(誰かが、教えてくれた)

 

 もしも少女が人に説明を求められても、こう言うしかない。  

 

 ガリッ――

 

「ッ!」

 

 岩肌に掴まりながら降りていたが、左手に痛みが走った。どうやら爪が剥れたみたいだ。

 

 落ちかけたのを、最後は横穴に飛び込むような形になった。

 

(あ、駄目)

 

 体の前から固い地面にぶつかる寸前、なにかを守るように体を捻らした。

 結果、肩からぶつかるハメになったが、少女は安堵の表情を浮かべた。

 

「良かった…」

 

 そう、彼女は首からさげた“時計”を守ったのだ。

-10ページ-

 山へと出発する前日の夜。あてがわれた部屋で彼女は、時計を不思議そうに眺めていた。

 時計の短い針や長い針はすべて大小の歯車だけ。後はネジを巻く力で動いている。さらにこの時計には、秒、日、月も表示されている。

 

「時間って、誰が決めたのかな」

 

 今でも、こんな詳しい時間というモノを知っている人は……この街では少数派だ。

 朝、昼、夜。これだけ分かれば生活に困ることは無い。この世界中で、時間が必要な人はごく一部なのだ。

 

「不思議……それに、きれい」

 

 時計に特別な装飾が施している訳ではないのに、どこか不思議な気持ちになる――。

 

「あ、そっか……。先生に似てるんだ」

 

 それを誰か他人が聞けば、失笑したか、子供の言葉だと言っただろう。人と時計が似てるなんて、おとぎ話にもならない。

 しかしこの少女の言葉が、実はかなり的を得ている事は――彼女自身、知るよしはない。

 

「あ、ネジ巻かないと……」

 

 背面にネジを回す為の鍵がついてあり、それを使って頭から回す、単純な動力。

 

「どんな仕組みなんだろ」

 

 そんな事を考えながら、彼女は眠りについた。

 

 

 

 指先に走る激痛を耐えながら、寒い洞窟の中を彼女は歩く。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 先ほどまで気絶していた体には、この寒さは堪える。それでも彼女は前へと進む。青年との約束の為に。

 

「あと、一時間くらいかな」

 

 すでに周囲は暗闇の中だ。陽のある場所で見た地図と時計により、大体の位置と時間は把握した。

 だが、この穴が地上へ繋ってるかどうかは、運任せになってしまう。

 それでも、彼女は前へ進む。

 

「くッ……ぅ」

 

 指先に巻いた服の切れはしを直しながら、左の壁に触れながら歩く。時折走る激痛も、慣れてきた。

 そうやって、しばらく歩いた。時間がどれだけ経ったかは、暗闇のせいで分からずにいる。

 

「あれ……曲がってる?」

 

 突然壁の感触が無くなる。どうやら折れ曲がっているようだ。

 

「このまま行けばいいのかな……?」

 

 とは言え、判断材料も無いので勘に頼るしかないのが現状である。

 

「行って、みようかな」

 

 曲がっている方向へ進もうとした時、彼女の耳には聞こえた。

 

「ん?」

 

 カチ、カチ、カチ――

 

 それが、首からさげた時計から発している事に気付くのに、しばしの時間が必要だった。 何故なら、今まで“音”なんて鳴らなかった……もしくは、鳴っていても限り無く小さかったからか。

 

「もしかして、私になにか言ってる?」

 

 少女の歳がいくら子供といえど、普段ならこのような事も言わないだろう。

 特異な状況だから。鳴らないはずの音が聞こえたから……どれも理由には足りないかもしれない。

 それは直感と言うべきか……普段は感じる事のない感覚。いつもなら異質に感じとる“それ”を、彼女は不思議に思わなかった。

 

「こっち?」

 

 後に、彼女はこの行動について一切考えなかった。まるで、忘れてしまったか――忘れさせられたように。

 

 

「確かに、風が吹いてる」

 

 ほとんど微動だにしない洞窟の空気の流れ。大きく動いているという事実は、なんらかの出入りできるくらいの穴が地上と繋っている事に他ならない。

 

「うん。もう少しなの?」

 

 自分の胸元に話しかけては、道を選択していく。先ほどのように壁に手をついてるものの、その歩きには迷いが無い。

 

「あ!」

 

 そして彼女は闇の奥に、小さな光を見つけた。同時に、時計の音は聞こえなくなったのだが、彼女は気付かなかった。

 

 

「外だ…」

 

 中に居たのは一時間くらいだろうか。それだけの時間でこれだけ光が恋しいと思えるのだから、人は陽が無ければ生きれない。

 

「わぁ……凄い景色」

 

 出口は山の岩場の一角にあったらしく、そこから街や平野が一望できた。

 

「白銀色だ…」

 

 しかし見惚れていたのはそこまでだった。

 背後に強烈ななにかを感じ、少女は体を強張らせる。だが、それが失敗なのだ。

 

「てめぇ、さっきのガキだな!?」

 

 太い腕が彼女の首に巻き付く。一瞬にして宙に浮された彼女は、息苦しさにもがいた。

 

「くぅ…ッ」

 

「はっはっ。こんな所でまた出会えるなんて、俺はとても運がいいな!」

 

 さっきの兵士の男だというのに、そして男には先ほどの余裕が無いのは少女から見ても明白だ。

 

「あの野郎は王国軍ご自慢の騎士か!? それか他国の機密部隊か何かか! どっちにしろ、そうでもなきゃ俺達がやられるはずない!!」

 

 男は錯乱していた。自分の喋りに夢中になり、どんどん締め付ける力を強めていった。

 

「――かはッ」

「そうだよなぁ。こうなったら、このガキを人質にするか? 当てつけにここで開きにしてやるか?」

 

 そう考えたら、自然ともがいていた。鍛えられた兵士と、か細い少女では端から勝ち目は見えている。

 それでも――、

 

(なにもしないのは……嫌)

「このガキ、暴れるんじゃねぇ!」

「ッ!!」

 

 少しだけ緩んだ腕に、少女は持てる力をすべて出し噛み付いた。

 

「ガッ!?」

「……!」

 

 さらに出来た隙間から、彼女はすり抜けるように束縛から逃れる。

 

「早く、逃げないと……あ!」

 

 逃げるのに必死になりすぎて、コートに引っ掛けていた地図を落としてしまった。

 

「いってぇなぁ……あぁん、ガキ? なんだこの紙切れ」

「……返して下さい」

「地図か?」

 

 眺めていくにつれ、男の顔はニヤついてきた。もちろん、少女にとって悪い意味で。

 

「この印。ここがお前達の部隊のキャンプか? それとも本国との連絡員と落ち合うのか……結構長い事、この山に居るが、ここは知らなかったなぁ」

 

 その場所こそが青年と落ち合う場所であり、最初の目的地である。

 

「違う……」

「か、どうかは俺が判断する。ここで殺されたくなかったら、一緒に来てもらおうか」

「嫌」

「はっ。俺はどっちでもいいけ――ぶッ!?」

 

 今だに自分が優位だと得意になっていた男は、投げつけられた雪玉を避けられず顔で受けてしまう。

 

「返して!」

「このッ」

 

 その隙に地図を奪い取ろうと、男の腕に飛び掛かる少女。

 しかしいくら虚をついた所で、

 

「──ガキが!!」

「ぁッ!」

 

 大の男に敵う確率は限りなく低い。

 飛び掛かって来た少女目掛け、男は拳を合わせ殴る。

 

「――ッ!?」

 

 腹に一撃を食らった少女は、人形のように吹っ飛び、半身が雪の中に埋まった。

 

「ったく、余計な手間掛けさせやがって」

「ゲホッ――うッ」

 

 少女は込み上げてきたそれを抑えきれず、その場で吐き出す。赤い色の混じった吐しゃ物だ。

 

「面倒だな」

「……」

「これが見えるか? 俺達の部隊が特別に所有する事を許された、最新式の銃だ」

「……ッ」

「クソむかつく目をしやがって」

 

 パンッ――乾いた破裂音が山に響き渡る。

 血が飛び散り、雪を赤く染めた。

 

「くぁッ!?」

「簡単に両足をぶち抜くたぁ、さすが最新式だ。これで抵抗する奴なんて、いやしねぇだろ」

 

 男は満ち足りた顔で語る。

 優越感。強者が弱者に抱く絶対の余裕。今、男を支配している感情。

 

「く……ぁッ」

「はっ、それじゃあ行こうか」

「あぁッ!」

 

 痛みにより苦悶の表情を浮かべる少女の腕を無理やり掴みあげる男。

 あまりにも強く握った為に手首の骨が軋んむ。

 

「あッ…くッ」

 

 雪の上には流れ続ける血が大量に付着し、純白を汚していった。

 

「……こっちか」

-11ページ-

 辿り着いたのは出口のあった場所から、そう離れていない。山の敷地では端に位置するこの場所。

 周囲の木々や雪に隠れ小さな入口が顔を出していた。正規の道から大きく外れてる為、地図でもなければ辿り着くことはおろか、迷子になってしまう。

 

「ここがそうか?」

「はぁ……はぁ……」

「どうだって聞いてるんだよ!」

「ッ!」

 

 乱暴に蹴り飛ばすが、少女はもう呻き声しか出すほどの余力しかない。

 

「ちッ、まぁいい……確かに隠れ家には丁度良さそうな穴だな」

「……」

「おら、いくぞ!」

「……」

「黙ってんじゃねぇ!」

「はッ…」

 

 頬を叩かれるが、瞳には澱んだ光しか写さない少女に、男は舌打ちをする。

 

「さすがにやりすぎたか?」

 

 軽く頭を蹴るが、反応が薄い。辛うじて生きている、といった所だ。

 

「面倒だな……!?」

 

 咄嗟に前に屈み、飛来してきた“雪玉”を避ける。

 

「誰だ!?」

 

 木々や茂みに向けて銃を向ける。威圧に空へ向かって一発だけ撃ちこむ。

 

「……出て来い。さもないと、このガキのドタマぶち抜くぞ!!」

 

 ダラリとした、体中の力が入らない少女の首に、自分の腕を巻き付けながら頭に銃口を突き付ける。

 

「……分かった」

「やっぱり、てめぇか!」

 

 物陰から出てきたのは青年だ。ただ、目の前の男と同様に、顔にいつもの余裕はなかった。あるのは焦りと疲労と、緊張。

 

「なんでここがわかった!?」

「……」

「答えろ!!」

「ここは元から、僕と彼女の落ち合う場所だった。途中からは血の跡が道標代わりだったが……」

「このガキのか……」

「僕もひとつ聞く」

「あぁ!?」

「花売り君のその傷。それはお前がやったのか?」

「はッ。このガキ、大人しくしとけば、こんな事にならなかったのになぁ」

「そうか」

「おい、ここに何があるんだ? このガキは何も答えなかったけど、お前なら答えれるだろ」

 

 突き付けた銃の引き金にかけた指に力をいれる。一触即発な状況は、さらに緊迫した方へと転がる。

 

 多少怖じ気付きながらも、すでに常人とはいえないくらい切羽つまった精神状態の男には、大して効果は無かった。

 

「……」

「この場で、てめぇが死んでくれたらこのガキはすぐに解放してやる」

 

 少女に突き付けていた銃口を、そのまま青年の心臓へと合わせる。

 

「まぁ、何があるかは俺が調べたら分かる話だしなぁ。てめぇは黙って死んでくれたらいいんだよ」

「……ッ」

 

 実はというと、青年には余力が無かった。軍用犬と兵士を戦った際に力を使い、かなり消耗している。

 

「僕は……僕は!」

「あぁ?」

 

 焦りを見てとった男は、ニヤニヤと笑いながら引き金を引こうと――、

 

「……め」

 

 か細く、そよ風にも負けてしまいそうなくらい弱い声。誰の耳にも入らなかった。だが、

 

「だめ……」

 

 小さな小さなかがり火になろうとも、確かな意志をもつ彼女の発する言葉は、炎にも勝る彼女自身の力となる。

 

「だめッ!」

「なッ!?」

 

 すべての力を振り絞り、男の顔――眼の辺りを叩く。

 思いもよらない場所からの攻撃に、男は怯み、銃口はあさっての方角を向いた。

 

「ふッ!!」

 

 最初で最後の好機。青年もまた全身の力を振り絞り、少女を救おうと走り出した。

 しかし……ここは雪の積った土地。陸上なら驚異的な動きをする青年も、辿り着くのに少しだけ時間がかかる。

 

「このッ……!」

「あ――」

 

 一瞬早く、銃口は少女の胸元に定められ――

 

 パンッ――乾いた音がひとつ、雪山に響き渡った。

 

 

 ────────────

 

(あれ?)

 

 最初に感じたのは違和感だった。

 自分は確か銃で打たれ……

 

(あれ、それからどうなったんだろ)

 

 目の前は真っ暗でなにも見えない。体も妙に軽く感じる。

 まるで、体という鎖から解き放たれたように。

 

(死んじゃった、のかな)

 

 死。

 その意味は知ってる。どのような状態なのかも知ってる。

 しかし、死を迎えた者の感覚は知らなかった。

 

(なら、これがそうなの?)

 

 そう思うと、なんだか楽になった気がする。

 ただ1人の家族だった母親は死んだ。ここまで野たれ死ななかったのは、その母親のおかげでもある。

 生きる事が母親の願いで、自分の願いでは無い。

 

(ううん、違う)

 

 彼。先生と呼んでいる青年と出会ってからは、生きる事は私の願いとなった。

 同時に、生きる事を感じさせてくれた先生に対して、“なにかしたい”と思いもした。

 

(できたかな……)

 

 自信は無いけど、少なくとも彼の命は救ったと思う。

 

(先生、なにしてるかな)

 

 それだけが、少し――気掛かり。

 

 

 カチッ

 

(あれ?)

 

 カチッ、カチッ――

 

(時計の、音?)

 

 まるで感触の無かった体が、突然重たくなった。

 

(なに?)

 

 違和感が無くなり、まるで自分の中の歯車が噛み合ったような……。

 

『君の力を――すまない』

 

 誰か私の近くで喋っている。

 聞き慣れた、とても優しい声。

 

(先生?)

 

『君も認めたというんだね――あぁ、わかってる』

 

(なんの話を……?)

 

 そう思ったら、だんだんと意識が無くなっていくのがわかった。

 いや、それはむしろ意識が元の場所へ帰っているというべきか。

 

『永久に――別れだ』

 

『君はずっと、その姿のまま彼女を――見守ってくれ』

 

『そろそろ彼女も覚醒する。あぁ。さようならだ。いつか会える、運命の日まで』

-12ページ-

 そして、少女が最初に感じたのは……先生の暖かな温もり。優しく、どこか寂しい匂い。

 少女の胸元で変わらぬ時を刻む存在が、あの時刻を告げた。

 

「良かった……」

 

 そう言いながら、彼女を優しく抱き締める青年。

 傍らには一丁の拳銃が転がっている――だけだ。

 しかしそれに彼女は気がつく事はなかった。

 

「先生……あれ? 私、撃たれませんでしたっけ?」

 

 胸元に感じた感触、両足に熱した鉄が刺さったような痛み。それらのすべてが――消失していた。

 

「間一髪で当たってなかったよ。ただ強くぶつかったりしてるから、当分の間は安静だ」

 

「……」

 

 全部、気のせいだったのか。それとも疲労からくる幻覚か、夢か。それを確かめる術は、彼女にはない。

 

「あれ?」

 

 彼女はひとつ、気付いた。

 

「ここはどこです?」

 

 意識を失うまで外だったはずだが、いつの間にか屋内――洞窟のような、かなり開けた場所に居た。

 

「ここに、見せたい物があるんだよ」

「……?」

 

 洞窟が三角錐のような形をしており、天井と壁の間に穴が空き、そこから太陽の光が差し込んでいる。体感の気温は外よりも低く、空気は静かに流れている。

 

「この洞窟がなにか……」

「始まった」

 

 少女には、最初なんの事だか分からなかった。

 だが、それも一瞬だ。

 

「花……?」

 差し込んでいた光の地点。氷点下にある土の上で、本来なら咲くどころか育つことなく枯れるであろう花が、その花びらを誇らしげに咲かせていた。

 

「ガラスみたい…」

「硝氷花だよ」

「え?」

「この花の名前さ。氷点下の気温の中で育つ、世界でも珍しい花なんだ」

「こんな所に…」

「太陽の光に当たり続けても枯れてしまう。でも、当たらなければ育たないし……花も咲かない。そういった気難しい特性のせいで、なかなか現物は見つからないみたいだよ」

「先生は、ここで見つけたんですね」

「あぁ。去年の話だよ……今日はすまなかった」

「なんで、です?」

「僕の失敗のせいで、君は命の危険にさらされた――本当にすまない。僕は、」

「良いんです」

「……?」

「先生はちゃんと、私を助けてくれた。それだけで、良いんです」

「……」

「それでも先生の気が済まないんだったら……今日のご飯、先生のが食べたいです」

「あぁ」

「本当に綺麗な花です。こんな寒い所で、生きてる。とても素晴らしい事だと思います」

「僕もそう思うよ」

 

 しばらく花を眺めていたが、日が暮れる前に二人は下山した。少女は、青年の背中の温もりを感じながら――青年は、確かな生命を感じながら。

 

 -続-

説明
戦争という病に世界が侵されてる時代、絶望という日常の中にいた少女と出会った青年。ニ人が出会う時、世界は少しずつ動き出す──終わりへと向けて。
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