モチツキ大王とワタシの目標
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 白煙が溢れ、落とした卵かけご飯は一瞬にして消え去った。

 代わりに((桃子|とうこ))の目の前に現れたのは、十代前半ほどの少年だった。

「くっ……くくく」

 少年は肩を震わせて小さく笑っている。まるで特撮物の悪役みたいな笑い方だと睡魔が侵食し始めた頭で桃子は思う。

 いや、『みたい』ではない。少年の格好はまさしくヒーロー物の悪役そのものだ。

 カラスのような黒ずくめの衣装。光物の((類|たぐい))は一切装飾されていない。それをだらだらとした長いマントが包む。

 彼の肌は蛍光灯のように青白い。窓から((射|さ))す月明かりが映す髪の色は白。それは肩口で綺麗に切りそろえられている。本来耳があるであろう位置は、大きな獣の耳が付けられていた。少年の震える肩に合わせて、ひくひくと上下する。

 一般的な三畳半の台所には、不釣合いな人物だ。

 少年の赤い目が桃子を移す。開いた彼の口から鋭い犬歯が覗いた。

「良くぞ余の封印を解いたな、娘よ」

 歓喜の声を上げながら、少年は優雅に前髪をかきあげた。何故かその髪から光る粉が舞い落ちる。フケなのだろうか。汚らしく見えて桃子はその場から後退りした。

 その動きをどう誤解したのか、少年は小さな鼻を鳴らす。

「そう怯えるではない。お前は幸運に恵まれたのだぞ」

 気取った声で彼は笑う。少年の小さな指が桃子の顎に触れる真似をする。

「そなた、名を何と言う?」

「返せ、私の卵ご飯!」

 一喝と共に、桃子は((箸|はし))を握ったままで少年目に殴りかかった。間一髪で少年はそれを避けた。しかし、その表情からは余裕が消えていた。

「な、何をするのだ」

 うろたえる少年に桃子は再び少年に拳を振り下ろす。

 突然の桃子の行動に、少年は驚きつつもそれらの攻撃を器用にかわす。((虚空|こくう))を切る拳は箸置きや食器棚等に当たり、痛みを訴え始める。

「止めろ! 無礼であるぞ」

「やかましい! 私のお夜食を消し去って何を偉そうに。あー何なのさ、こいつめこいつめ」

 ((外|はず))れ続きの攻撃に付け加え、空腹が桃子の更なる怒りの芽を呼び覚ます。

「深夜の勉学の素敵なパートナー、それがお夜食! ほかほか柔らかご飯に((艶|つや))やかな甘い卵。それらを繋ぐ((黒曜石|こくようせき))の雫、((醤油|しょうゆ))。日本人の((真心|まごころ))の結晶『卵かけご飯』が、こんな変な子供にぃ」

 人間の三大欲求のうち、すでに二つが欠けてしまった桃子に理性という歯止めはない。支離滅裂な叫びを発しながら、少年を責め立てる。

「成績落ちたら責任取れや、この犬坊主!」

「や、やめろ。やめんか……」

 鬼気迫る桃子の表情に少年は怯え始める。

 ついに少年を台所の((角|すみ))にまで追い詰め、桃子は絶叫した。

「返せぇ、わたしのごーはーんー」

「何してんだよ、姉ちゃん」

 深夜の物音に飛び起きたらしい、二つ歳の離れた弟が飛び込んできた。姉の異常を瞬時に見抜いた彼は体育系の部活で鍛えた腕で暴れる彼女を((羽交|はが))い((絞|じ))めにする。両手の自由を奪われ、桃子は必死に抵抗する。

「放してよ、((正彦|まさひこ))。私はコイツと決着をつけなければ……」

「少し落ち着けよ。大変なのは見れば分かるからさ」

 涙目で弟は姉をなだめるが、理性を失った姉を制することは出来なかった。

 ((虚|うつ))ろな目で桃子は、座り込んだまま震える少年に恨み言を吐きつける。

「たまごをかえせ。しょうゆをかえせー」

「ちょ……母さん、父さん! 姉ちゃんが乱心した!」

 弟の叫びに両親達も駆けつけた。台所の明かりが照らされたところで桃子の記憶は途絶えた。

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 窓の向こうから聞こえる小鳥のさえずりが、目覚めを((促|うなが))す。重いまぶたをこすり、ベッドに横たわったままでも桃子は大きく伸びをした。

「んん、まだ眠いなぁ」

 枕元に置いてある携帯を見てみれば、まだ起きるには早い時間だ。それでも桃子は気力を振り絞って頭を起こした。

「あーだるい」

 多少面倒でも仕方が無い。学生の本分は学門だ。半ば脅迫観念に近いそれが、桃子に奮い立たせる。

 またあの時のような絶望は味わいたくない。

 重い頭を回していると、冷水のような声が背後から浴びせられた。

「感心だな。まだ日も完全には昇っておらぬぞ」

「勉強するのに太陽なんか関係な……え」

 一瞬で桃子の頭が覚醒した。同時に心臓の音が大きくなる。息も荒くなる。そのくせに、体全体は震えている。

 泥棒。変質者。朝だから、幽霊は除外だ。

 素早くまだぬくもりが宿る布団に潜り込み、中からこっそりと声の((出所|でどころ))を覗く。ベッドの上に立つ、不審者の白い足が見えた。

 桃子の恐怖を((余所|よそ))に、謎の人物は声を荒げた。

「いいか、娘よ。余の名はモチツキダイオウであるぞ!」

「………………はい?」

 ほのぼのとしたその名に、波が引くように緊張感が失せた。

「えーと、餅つきたいよう?」

「違う!」

 ((癇癪|かんしゃく))を立てる子供のように白い足が地団駄を踏み始めた。

「望月大王だ! わざと間違えているな、この愚か者」

 よく聞けば声質も声変わりしてない少年のものだ。運動音痴の桃子でも、彼を取り押さえることぐらい出来るだろう。

 最悪返り討ちにされても隣の部屋で寝ている弟を呼べばいいのだから。

 そう思うと腹の底から勇気が湧いてきた。未だ喚《わめ》きたてる少年目掛けて布団を投げつけた。そして、起き上がり布団の上から全身で押さえつける。布団の下からは抵抗する気配はない。

「どうだ! 参ったか餅つき泥棒……」

 勝ち誇る桃子の表情は再び凍りついた。

 布団は確かに少年を捕らえた。だが、彼の顔は桃子の目の前にある。

 見覚えのある白い髪に赤い目。ぴくぴくと動く大きな獣の耳。特撮の悪役のような装束。

 少年の透けた体越しに、散らかったままの机が見えた。つまり、彼は……。

「うわわわっ。般若波羅蜜多心経!」

「下等なモノノケと余を一緒にするな。((経|きょう))など聞かぬ」

 怯える桃子に満足したのか、少年はその場で胡坐を組む。

「さて、娘。確か桃子と言ったか。まずは礼を言う。そなたのおかげで、余は再び((現世|げんせ))に解き放たれたのだからな」

 外見に不釣合いな凶悪な笑みを少年は浮かべた。彼の口から覗く鋭い犬歯に、桃子は身を震わせる。

「わ、私は何もしてない」

 背筋を伸ばして精一杯の虚勢を見せる。

 少年の華奢な体が浮き上がり、桃子の顔を見下ろした、

「よく思い出せ。昨夜、余の封じられた茶碗に千個目の命を捧げただろう」

 言われて桃子は記憶を掘り起こす。

「確か、昨日の夜は勉強していてお腹が空いて台所に……」

 真夜中に調理をする気力もなく、手間のかからない卵かけご飯を作ったのだ。温め直したご飯に卵を割り、醤油をかけたところで茶碗から湯気以外の煙が立った。

「夢じゃなかったんだ」

 その後の顛末まで全て思い出し、桃子は手で顔を覆う。きっとあとで家族から説明を求められるだろう。

 少年は満面の笑みで桃子に話しかけた。

「そう嘆くな、むしろ誇れ。新たなる((下僕|げぼく))、トウコよ」

「誰が下僕だ! てか、どさくさに紛れて呼び捨てにすんな」

「いけないのか?」

 首を傾げ、少年は心底不思議そうな表情を浮かべている。

「駄目に決まっているでしょうが!」

 怒鳴っているうちに恐怖心も吹き飛んでしまった。ベッドの上で((胡坐|あぐら))をかき、上からの視線を真っ当から見つめ返す。

「大体、アンタ何者なのさ」

「さっきも言うただろう。余は望月大王だ」

「それは分かったから、何でその大王が家の茶碗になっているの?」

 疑問をぶつけると少年の耳は悲しげに垂れ下がった。

「それには深い訳があるのだ」

 まだ人が夜闇を恐れていた時代の話。望月大王と名乗る物の怪の王が人の世を制圧しようと反乱をしかけたのだ。

 数多の人ならぬ者を引き連れ、混乱と恐怖を人々に与えたが時の陰陽師らに封じられた。

 大王の説明が終わったところで桃子は頭を抱えた。

「何か、めちゃくちゃいけないことをしてしまった気がする」

 ため息を吐いて後悔の渦にいると、少年が手を差し伸べてきた。

「安心しろ。お前は人間だが、余の下僕であり恩人だ。大事にしてやるぞ」

 触れられない手を払いのけるフリをして、桃子はきっぱりと言い返す。

「全てお断りですっ」

「遠慮をするな」

「していません」

 押し問答を繰り広げていると、部屋の戸が叩かれた。この乱暴な叩き方は正彦だ。

 ベッドから離れて戸を空けると、不審気な弟の顔がそこにあった。

「姉ちゃんさぁ、何で朝から独り言を話てんの? うるさいんだけど」

「ああ、ちょうど良かった。アンタもこっち来てよ。味方は多い方がいいし」

「はぁ?」

 いぶかしむ正彦の腕をひっぱり半ば無理矢理部屋に引きいれる。ベッドの上では、少年がふんぞり返っていた。まるでこの部屋に主《あるじ》のように。

「ほら正彦。アイツに何か言ってやってよ」

「……姉ちゃん、大丈夫か?」

 神妙な弟の声に、桃子は首を傾げた。正彦はそれに構わず桃子をベッドまで引きずり横にさせた。

 桃子が抗議の声を上げる前に枕元で乱れていた布団を丁寧に掛けられた。

「俺が母さんに言っとくから、今日はゆっくり寝てろ」

「な……ちょっと正彦」

 起き上がるが、すぐにまたベッドに沈められる。

「寝不足で幻覚が見えるまで勉強頑張るから去年、高校受験に失敗したんだろ。おやすみ、姉ちゃん。去年みたいに風邪引くなよ」

 妙に優しい眼差しを湛えたまま、弟はそっと部屋から出て行った。最後に桃子の古傷を掘り起こして。

 悔しさと未だ解けぬ混乱のせいで桃子は何も言い返す事が出来なかった。

「余の力はまだ完全ではないからな。封印を解いたそなたにしか見えぬし、聞こえぬ」

 そして、この桃子にとって迷惑極まりない物の怪の少年王は声高らかに宣言した。

「封じられた仲間を全て救い出し、余の力が完全に戻るまでの間、お前に憑いてやるからな。どうだ。勉学よりもよほど有意義な提案だろう」

 いっそ夢であって欲しかった。心底、桃子は己の不運を嘆いた。

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「全くどういうことだ」

 頬を膨らまし、望月大王は今日も吼える。

「余の活躍が、何故歴史から抹消されているのだ!」

「そりゃ『勝てば官軍、負ければ賊軍』だからでしょ」

 掃除道具をロッカーに片しながら桃子は続けた。

「物の怪の反乱なんて隠蔽しとかないと後々面倒だって思われたんじゃない?」

 この言葉は今まで何百回は繰り返している。口の中にマメが出来てしまいそうだ。今日は日本史の授業があったから、いつもよりも三割り増しだ。

 せめて清掃中は黙っていてくれないかなと、桃子は心の中でため息を吐く。

 特に今週だけでも静かにして欲しい。今週の掃除担当場所である、学校の和室には高価な茶器がいくつも有るのだ。うっかり割ってしまったら洒落にならない。

 桃子の思いを一滴も汲み取らずに、大王は愚痴を続ける。

「その結果、そなた等のような覇気の欠片も無い若者がこの世に蔓延しているではないか。情けない、実に情けないぞ!」

「意外に熱血だよね、もっちんは」

「そのような馴れ馴れしい名で余を呼ぶ出ないっ」

 共に過ごすようになって早一ヶ月。今じゃ二人は軽口を叩き合えるような仲にまで発展していた。

 あの日から桃子に生活は一変した。

 朝は夜明けと共に起こされ、夜は夜で望月大王の話し相手をさせられる。現代科学の機器に解説を求められ、更には行動の一つ一つに口出しまでされる。箸の上げ下げですら厳しく指導されるのだ。おかげで以前ほど勉学に力を((注|そそ))げない。

 大王の指導や疑問に対して、桃子はうかつに返答できない。他人の目からは桃子の一人芝居にしか見えないからだ。

 だからと言って無視し続けていると、拗ねられる。一度へそを曲げられると、なかなか機嫌を戻してはくれない。四六時中むっつりした顔を見ているのは、なかなかストレスが溜まる。

 自称何百歳の物の怪と言っていても、結局は外面通りのお子様なのだ。手のかかる弟が増えたかのように思える。

「どうした。何故に余を見つめているのだ」

 口から出せば怒るのが目に見えていたので、桃子は笑って誤魔化した。納得いかなかったのか大王が口を尖らせていると、クラスメイトがこちらを覗きこんでいた。

「ねぇ、桃子。誰かいるの?」

 声が聞こえていたらしい。慌てて桃子は首を振った。

「ううん。知らないよ」

「ええー。じゃあやっぱりアレなのかな。ここって出るって噂だし」

 オバケもどきなら、確かに桃子の傍にいる。が、大王なら怖くない。

 顔を曇らせるクラスメイトに桃子は明るく言い放つ。

「そんな訳ないじゃん、まだ夕方だし」

「そうだよね。そういうのが出るのは夜だもんね」

 あっさり納得したクラスメイトは、鍵束を桃子に差し出す。

「私、日誌を先生に渡しに行くから後は頼んでもいい?」

「うん、任せて」

 鍵を受け取り、桃子はクラスメイトを見送る。大量の鍵を音を立てて選別していると、大王が鼻で笑った。

「愚かだな。逢魔刻を知らぬとはな」

「怖がらせるわけにはいかないでしょ。それにこんな所にオバケがいるわけないじゃない。もっちん以外は」

「いや、気配はするぞ」

 冷気が帯びた言葉に、桃子はうっかり鍵束を落としてしまった。タチの悪い冗談では無さそうだ。

 獲物を狙うような瞳で大王は辺りを見渡す。やがてその視線はある一点に注がれた。小さな鼻をわずかに鳴らして大王は薄く笑う。

「フン、久しいな。この気配。この歪みの色……。間違いない」

「ちょっとそっちは関係者以外立ち入り禁止だってば」

 桃子の制止を聞かずに大王は茶器の納められた棚を物色し始める。

 やがて大王の目が茜色の茶器の前で留まる。一筆書きで書かれた鶴が翼を広げて夕日に飛ぶ姿が描かれていた。よほど古い物なのか、正面に一文字のヒビが刻まれている。

 何故だか嫌な予感がした。

 くるりと、大王が振り返って言う。

「桃子、これを取れ」

 瞬時に桃子は拒否した。いくら後で機嫌悪くされようにもこればっかりは聞くわけにはいかない。

 しかし大王も引かない。それどころか桃子の目の高さまで浮き上がり、にこやかに微笑んだ。

「言う事を聞かぬならば、いかなる時もそなたの耳元で呪詛を吐き続けてやる」

「……この悪魔め」

 本気の脅しに桃子は屈した。これ以上日常生活に支障を来たしくは無い。

 渋々と薄い硝子戸を引いて指示された茶器を取り出す。ずっしりとした感覚に、背筋が震える。

「はい。これでいいでしょ」

 大王の前にそれを掲げると彼は満足そうに頷く。そして、赤い目を閉じて透けた指を口元に置き、何やら呪文を唱え始めた。

 声はまるで波紋のように部屋中に広がってゆく。吹くはずの無い風が、桃子の黒髪を揺らした。未知なる現象に自然と胸の高鳴りが大きくなる。

 伏せられたままの大王の目が開かれた。その目が黄金色に輝く。

「目覚めよ」

 鐘が響くような音と共に、一瞬だけ桃子の手にある茶器が震えた。

「……何も起こらないじゃない」

 大王の目はもう元に戻っていた。ただ口元に何かを含んだ笑みを浮かべていた。

 合点《がってん》がいかず、桃子は手元の茶器を覗き込んだ。その中には、シワだらけの老人の顔が浮かび上がっていた。

 小さく悲鳴を上げて、桃子は驚く。心臓が縮んだように感じた。

『若様、お久しゅうございます』

 エサを求める鯉のように老人が口を動かす。

『またそのお姿を見られる日が来るとは』

「安心しろ、爺。これからはまたずっと傍に置いてやるぞ」

 大王の言葉には幾分かの友愛の情が感じられた。しかし老人は口を動かすだけですぐには返事を返さない。彼の顔中に刻まれたシワが少しだけ増えた気がした。

「爺?」

 心配になったのか、大王が眉をひそめた。

 長い沈黙の後で老人は決意したのか、静かに語りだした。

『若様。爺はこのまま茶器として生涯を歩もうと存じます』

「な、何を申すのだ?」

『この身を封じられ、どれだけの月日が流れたでしょう。学の無い爺には分かりませぬ』

 老人の声は落ち着いていた。その孤独や悲哀を湛えた響きは安らかささえ感じられて、心の奥まで染み渡る。

 信頼する仲間達と別れ、こんな硬い器にその身を閉じ込められる。

 器に意思など無い。ただ、人々の思惑の中で彼は様々な場所へ移される。

 彼はどんな思いで気の遠くなるような歳月を過ごしてきたのだろう。その思いを馳せて、桃子は胸が詰まる。

 老人は空洞の目を細めた。まるで過去を懐かしんでいるように見える。

『あの時から、私は大勢の人の手に乗せられました。初めは屈辱でした。人如きが軽々しくこの身に触れる。怒りの念で茶器にヒビを走らしたほどです』

 告白の内容とは裏腹に老人は穏やかに微笑でいた。彼の表情の意味が理解出来ないのか大王が声を荒げた。

「ならば、再び余と共に立ち上がろう。新たな下僕も見つかったのだぞ」

「下僕って私かよ」

 さすがに聞き捨てならなかったので思わず抗議の声を上げた。

「いつの間に、私がアンタの下僕になったのさ」

「余の封印を解いた時点でだ」

「全力でお断りだぞ、もっちん」

「そう遠慮するな。そしてもっちんと呼ぶな、新たな下僕よ」

 二人の会話を遮るように、老人が笑い声を上げた。その心底楽しそうな様子に二人は顔を見合わせた。何が彼をこんなに喜ばせたのか想像が尽かなかった。

『若様は良い友を得たようで』

 老人の顔はこれ以上ないほどに柔らかなものだった。

『嗚呼。これで爺は思い残すことは有りませぬ。先に眠った仲間達の後を追いかけられます』

 ゆっくりと老人の顔が茶器の底に沈んでゆく。同時に茶器に篭もっていた熱も、桃子の手のひらの上で霧散していった。

「待て、爺! 他の者達もまさか……」

『はい。皆、爺と同じく器として終えることを選びました』

 今度こそ大王は絶句した。

 無理もないだろう。救出を誓った仲間達が既にいなくなってしまったのだから。共に抱いていたはずの志を彼等は手放してしまったのだから。ただ一人、大王だけが気の遠くなるような時の中でそれを忘れていなかった。

 哀れな大王を労わるかのように老人がもう動かなくなった口で語りかけた。

『悲しまないでください。これは我々が望んだ道。器としての喜びを、人の心を癒すという誇りを見出したのですから。若様もどうか負の道に進まれぬよう、お祈りいたします』

 老人の顔はもう完全に茶器の模様と一体化していた。最後に動かない瞳で桃子の姿を映した。

『どうか若様を──』

 もう声は途絶えていた。

 ただ、彼が桃子に何を伝えようとしたのかは理解出来た。そんな気がした。

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「もっちん、チョコ食べる?」

 もちろん彼が食べられるはずも無い。そんなことは桃子も知っている。

 ただ、話すきっかけが欲しかっただけだ。

 あれから幾日か過ぎたが、大王は塞ぎこんだままだ。桃子があだ名で呼んでも怒鳴ったりはしない。桃子の部屋の角に座り込んで、じっと天井を見ているだけだ。

 恐らくはもう人の世を転覆させようなどという当初の企みは、すっかり消えうせているのだろう。

 彼の隣に座り、桃子は板チョコをかじりながらぼんやりと思う。

 私が受験失敗した時はこんな様子だったんだな。

 さぞかし家族は面倒な思いでいただろう。

 だが、目指していたものが崩れ落ちた瞬間ほど空虚なものは無い。そこに憤怒や悲哀といった感情は含まれない。抜け殻に近い状態だ。

 誰かが救いの手を差し伸べることは出来る。しかし、立ち直るのは結局自分の意思なのだ。当人にとっては他者の慰めなど迷惑としか感じられない。

 それでも、桃子は大王に話しかけた。

 あの老人への義理という訳ではない。ただ、この少年に元気を取り戻して欲しい。以前のように軽口を叩き合いたい。それだけだ。

「昨日茶道部の子に聞いたらね、あのお爺さんの茶器は人気なんだって。あれで飲むと、お抹茶が美味しく感じるそうだよ」

 大王は答えない。

 桃子は喋り続ける。

「さっきお母さんと夕飯の洗い物していたんだけど、もっちんだった茶碗の行方を聞かれて焦っちゃったよ。だってさ、もっちんの茶碗って正彦が使っていた奴だったから」

 ついに言葉が途切れ、部屋に重苦しい沈黙が訪れる。

 それでも板チョコを食べる事でやり過ごせた。しかしいくら時間をかけて食べていても、いずれは無くなる。

 チョコを包んでいた銀紙を、音を立てて丸めながら桃子は尋ねた。

「もっちんは……これからどうするの?」

 窓の外から差す夕日に目を細める。まぶたを閉じても光は焼きついたまま白く残る。

 それは、諦めた夢の残り香に似ていた。

「トウコよ」

 久方ぶりに桃子は大王の声を聞いた。こんなに弱々しい声だったのだろうか。初めて見た時は恐ろしく感じた八重歯も、どことなく丸みを帯びているようにも見えた。

「爺達は己の信じた道を行ったまでのこと。そんなことは当に分かりきっておったわ」

 だけどそれは頭の中でだ。感情では納得していないことを桃子は見抜いていた。

 桃子に全て悟られていることを知ったのか、少年は頬を赤くさせてぽつりと呟く。

「本当だぞ。余は、あやつらの王なのだからな」

 しょげたように獣耳がぴくぴくと動く。桃子はそっとそこに手を伸ばした。指は耳に触れずに通り抜ける。

 きっと触れられたなら、柔らかく暖かいのだろう。

 実体が無いというのは、不便なものだ。慰めるのに頭を撫でることも、抱きしめて背中を擦ることも出来ない。

「もっちんの体って元に戻らないの?」

 何となく口に出したら、思った以上に驚かれた。

「おぬし、何を企んでおる?」

「純粋な疑問だってば。で、戻れるの?」

 答えはすぐに返ってこなかった。顔をうつむけて、大王は小さく分からないと言った。

「じゃあ、方法を探そう。私も手伝うよ」

 元気付けるよう、力強い視線を送った。

「難しそうだけど、やりがいが有りそうじゃん」

 初めは口をぽかんと開けていた大王だったが、徐々にその目に生気が宿る。

 この眼だ。

 この不適で怪しく輝く眼こそ、物の怪の王として相応しい。

「言うたな、トウコよ」

「言ったさ、もっちん」

 二人同時に噴き出した。腹を抱え、床を叩いて笑いあう。

 こんなに笑ったのは久しぶりだ。腹の底からくすぐったい。

 桃子が涙をぬぐっていると、大王がじっと桃子を見ていた。

「もとより力を取り戻すまでおぬしに憑いているつもりだったのだからな。……だが、礼を言うぞ」

 大王が桃子に手を差し伸べる。小さな子供の手。だけどその手は桃子のものより骨ばっている。

 その手に触れることは出来ない。……今は。

「お礼なんかいいよ。それよりさ、元に戻ったらその耳に触らせてね」

 途端に大王は表情を曇らせた。眉間にシワを寄せて渋い顔をしている。

 恐らく、触れられる側はあまり心地よくないのだろう。

「駄目なら、いいけど」

「……いや、許可する!」

 慌てて大王が叫んだ。獣耳も大きく上下している。

 その様子が可愛らしくて桃子は自然に笑顔になる。

「じゃ、約束ね」

 右手の小指を立てて大王に寄せた。

 大王は戸惑ったような色を浮かべてから、そっとそれに自分の小指を重ねる。

 触れ合うことは出来ないが、それでも二人は指を絡めあう。

「契約成立だな」

 その外見に似合う悪戯っぽい笑みを浮かべて、大王が言った。

 

 太陽が本日最後の赤い光を放つ。

 その光で出来る影は一人分だけだ。

 だけどいつかその影は二人分になる。

 出来ることならその日がいち早く訪れるよう、努力しよう。どんなことでもしよう。

 それが、桃子の新たな目標だ。

 

【了】

説明
コバルト短編小説新人賞に応募した作品です。
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