ゆき
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 私は広大な雪原を北に向かっていた。

 綱をひく犬たちの荒い息を聞き、身を切るような冷たい風を真っ向に受けながら、それでも止まることなくソリを走らせる。

 時間がなかった。

 町のさびれた酒場で老人が話してくれた光景を、私はこの目で見届けたかったのだ。

 見ず知らずの旅人に、赤ら顔の老人は機嫌よく物語を聞かせた。酒場のマスターがやれやれまたかといった風に首を振るのも、老人は意に介していなかったようだ。

 ――北の雪原に広がる湖のほとりには一本の木が立っている。そこから月夜の晩に空を見上げれば、今までに見たこともないような美しい光景を目にすることができる。

 ――偉大なる風がその合図だ。

 私ははじめ老人の話を、半信半疑のまま聞いていた。だが、すぐに気が変わった。

 ふと向けられた皺だらけの老人の顔。その眼差しが、まるで少年のようにいきいきとして私を捉えていたのである。

 今夜あたりみられるんじゃないか。

 その老人の一言に、いつのまにか私は衝き動かされていた。

 

 氷が張った湖のそばに、一本の大きな木が立っていた。

 ソリから降り、犬たちを休ませる。

 夕にふったばかりのまださらさらの雪が、踏みしめるたびに靴の裏で音を鳴らした。

 月の光は静かな銀世界をやさしく照らし出していた。暗い夜空を見上げても老人の言っていたような美しい光景など見当たらない。

 私はひっそりと立ちつくす木から、少し離れて腰を下ろした。もってきたバッグから一台のカメラを取り出す。

 この不思議な世界を撮りつづけてきた私の愛用品に、映ずる光景を収めるつもりでいた。

 いつしか丸い月は雲に隠れてしまった。

 随分待ったのではないか。すっかり闇に閉ざされた雪原で、私は凍える手に白い息を吐きかけていた。

 今夜は無理かもしれない。

 あのときの老人の口ぶりからも、そう容易く巡りあえるものではないのだろう。

 急いでここまで来たものの、しかたがない。

 私が諦めて立ち上がったときだった。

 遠くから唸るような風の音が聞こえてきた。風は瞬く間にその強さを増すと、すべてを吹き飛ばし、巻き上げる勢いで吹きぬけた。

 私は腰を抜かしていた。犬たちをつなぐ手綱を握り締め、飛ばされまいと必死に地面にへばりつく。神の息吹とでも呼べそうな荒々しい風だった。

 一瞬とも永久ともとれそうな奇妙な時間が過ぎた。

 ようやく風もおさまり、ゆっくりと瞑っていた目を開けた途端、それは視界に飛び込んできた。

 暗いはずの夜空が、きらきらと輝いていた。

 幾千万の星をも凌ぐほどに。

 理由はすぐにわかった。

 あたりに積もっていたまだ新しい雪が、風に吹かれて一気に舞い上がったのだ。

 ふたたび顔を出した月はいつになく力強い神々しさをたたえ、雪の結晶を包み込む。

 月の光に照らされた雪たちが生まれてきた天空へと帰っていくさまに、私はただ見惚れることしかできなかった。

 脳裏に老人の嬉しそうに話す姿がよぎる。

 私はずっと、ずっと夜空を見上げていた。

 最後の輝きが消える頃、ようやく写真を撮り忘れたことに気付いた。

 だが、後悔はしていない。しっかりとこの瞼にいまの光景を焼き付けたのだから。

 私は犬たちを引き連れて南へと向かう。

 なぜか、笑みが溢れてきて止まらなかった。

 

説明
2003年1月作。偽らざる物語。あとがきと雑記等はpixivに掲載してます。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=1213583
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