月冠 |
清々しく冷たい空気に満たされた町で、私は女王の姿を追い求めていた。
一週間前、遅い昼食を済ませてカフェでくつろいでいた私は、窓外に一匹の猫をみつけた。雪のように真っ白で細身、ステップは軽くしなやかで、長い尾には先から三分の一ほどのところに鈍く光る銀のリングがはまっている。
首輪はしていないので飼い猫ではないようだがあのリングはなんだろうか。疑問に思っていると、じっと猫を眺める私に気付いたカフェのマスターが教えてくれた。
「彼女はこの町の猫の女王さ。あの尻尾のリングも悪ガキどもが何度か奪い取ろうとしたんだが、そのたびに反撃されたり逃げられたりして軽くあしらわれたらしい」
マスターは冗談半分といった様子で笑っていたが、私は彼女が猫の女王であるというのはあながち間違いではないような気がしていた。
姿かたちだけではない。他のネコと違い、どことなく立ち居振る舞いにも気品が感じられる。あのリングは女王の証だろうか。
私は支払いを済ませると、カメラを持って彼女のあとを追うことにした。
トコトコと石畳の上を進んでいた彼女は、私の気配に気付いて立ち止まり、振り返った。すかさずカメラを構える。
だが、彼女はぷいっとそっぽを向いて体を翻した。レンガ造りの町並みに溶け込むようなすばやい動きで道から道、路地から路地へと緩急自在に駆けて行く。
私も必死であとを追い、シャッターを切った。しかし、これといった一枚は結局撮ることができなかった。
それから一週間、彼女との追いかけっこが続いた。はじめのうちは追いつくだけで精一杯。ときによろけて人にぶつかりそうになったり、露店の商品を蹴り飛ばして店主に頭を下げたりすることもあったが、次第に不思議と身のこなしがスムーズになってきたのか、動きに余裕が出てきていた。
猫の高く細長い鳴き声に私は目を覚ました。
宿の窓から街路を見下ろすと、ガス燈の下にあの白猫が座り、私を誘うように細く鳴いている。
私は防寒具を着込み、カメラをつかむと窓の外に出た。庇の端にある樋を伝って地に降り立つ。どの宿に泊まっても、正規のルートのほかに外に出る方法を事前に確認するようにしている。それがひょんなことから役に立った。
寝静まった町には人影などひとつもない。
昼にもまして気温は下がり、息を吸い込めば鼻がつんと痛くなる。
彼女は私の姿を見てまたぞろ駆け出した。
夜半にようやく顔を出し始めた下弦の月が、弱々しい光を降り注いでいる。暗く足元がおぼつかないなか、街燈の明かりを頼りに後を追った。
いつもと違って目的地がはっきりしているのか、彼女は迷うことなく駆けて行く。その姿はあっという間に闇にまぎれてしまった。
私は女王の姿を追い求めて走った。
完全に見失えば二度と機会は巡ってこないだろう。けれど不安は感じなかった。
私は猫になっていた。
いや、なぜかいま自分は猫となり、人間の踏み込むことの出来ない夜の世界を疾駆しているような感覚が体中を包み込んでいたのだ。
勘が研ぎ澄まされ、これからどこに向かえばいいのかも自然とわかる。
息は苦しいのに足は軽く、長い坂道をものともせずに上っていく。ゆるいカーブを曲がって行けば、次第に町は下方へと遠ざかっていった。
周囲には姿こそ見せないものの、いくつもの気配が併走している。
そしてようやく、坂を上りきったところで彼女に追いついた。
町を展望できる高台の公園に彼女はいた。
見上げなければならないほど高い台座のようなオブジェに座り、こちらを見下ろしている。周囲にはどこから来たのか、何十匹もの猫たちが寒さをものともせずに集まっていた。
その群れに私と併走してきた者たちも列席する。
彼女が一声、大きく鳴いた。
応じるように何十匹もの猫がいっせいに声を発する。
その大きな響きに、ふと私は我に返った。静かにカメラをかまえる。
それに合わせるかのように、彼女がピンと背筋を伸ばした。
輝きを増して浮かんでいる下弦の月が、すっと彼女の頭に重なる。
その瞬間、ふたたび猫たちが一斉に鳴いた。
白銀の月の冠を戴き、白い猫は凜とした姿でたたずんでいる。
彼女はたしかに猫の女王だった。
私は一度だけシャッターを切った。
高貴なものの気まぐれか、それともほかに理由でもあるのか。とにかく私は元来踏み込めない場に特別に招かれたのだ。
彼女の毛色に似た白い吐息が、夜の闇に溶け込むように消えていった。
と、女王は早くも頭を下げると台座から飛び降りてしまった。
他の猫たちの間に混ざりこみ、あっけなく気高い幻想に自ら幕を引いた。
やはり私が招かれたのは、たまたまだったのだろう。
彼女は気まぐれな「猫の女王」なのだから。
説明 | ||
2010年12月24日作。月冠(げっかん)は造語。偽らざる物語。 | ||
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