天杯 |
私は急いでいた。
広大な草原には所々に大きな岩が転がり、背の低い広葉樹が点在する以外は何もなかった。日はすでにはるか西の山稜に姿を隠し、残した緋色も次第に藍と混ざり合い、ついにはのまれていく。
まっすぐ続く一本道を行けば、目と鼻の先に目指す町はあった。
そんな折、ふと視界に入ってきたのは、まだ幼い少年の姿だった。
街道脇の岩に腰掛け、じっと空を見上げている。なにやら小さな杯のような物を両手に包み込むようにして持っていた。
こんな時間に何をしているのだろう?
私は声をかけた。
「きみ、もうすぐ夜になるよ。早く家に帰ったほうがいいんじゃないか?」
少年は何も答えない。ただ、睨むようにして星が瞬きはじめた夜空を見上げるだけだ。
私はしばらく彼の背を見守っていたが、ため息をひとつついて荷物を降ろした。いくら平穏な草原とはいえ、少年一人を置き去りにするわけにもいかなかった。可能性は低いが、野生動物に襲われたり人攫いの被害にあったりするかもしれない。
私も少年が座っている岩に背を預け、空を仰ぎ見た。
どこまでも続く黒い空間に、ぽつぽつと光点が散りばめられている。夜半に至れば、さらに輝きは増すことだろう。
「父ちゃんのちからをかりにきたんだ。母ちゃんがたおれたから」
不意に少年が口を開いた。横目に見ると相変わらず少年は夜空を見上げていた。
「倒れた?」
「おいしゃの先生は『かろう』だっていってた。すぐなおるって。でも……」
少年は思いつめたようにうつむいてしまった。よほど母親のことが心配なのだろう。
「きみの父さんはいつここに来るんだい?」
「こないよ。母ちゃんが、父ちゃんはぼくが赤ちゃんのときにお星さまになったっていってたから。いつも空からぼくたちのこと見てるんだって」
早くに伴侶を亡くし、子を育てるために母親はがんばりすぎたのだろう。
話を聞いているうちに今は祖母の家に厄介になっていること、祖父もすでに他界していてあまり裕福ではないこともわかってきた。
夕飯を早めに済ませて自室にこもり、窓から気付かれないように抜け出してきたらしい。
もしこの子が部屋にいないことを知れば、大騒ぎとなるに違いない。
私は悩んだ。
このまま付き合うか、今すぐ無理やりにでも町へ連れて行くか。
しかし、少年の意志は固そうだ。
結論が出ないまま時間だけが過ぎていった。
私は焚き火に細い枯れ枝を投げ込んだ。火勢は弱いが気温が高いので苦にならない。
私には少年をその場から動かすことは出来なかった。当の本人はすでに私の肩にもたれかかってうつらうつらしている。
せっかくだからこの星空でも撮っておこうか。
カバンからカメラを取り出した。
遮るものなど何もない満天の星空は、夜が進むほど輝きを増していく。
無数の煌きのなかを光の筋が一本、すーっと滑り落ちてきた。
「流れ星」
一言つぶやいたときだった。
連れ添うようにもう一本、光の筋が降ってきた。さらに間を置かずして三つ、四つと何本もの光が後に続く。次から次へと降る流れ星の雨に、私は心を奪われそうになった。
流星群か。
私は少年の肩をそっと揺すった。
彼は眠そうな目をこすっていたが、私が天を指差すと弾かれたように立ち上がり、岩によじ登った。
私は星空がよく見えるよう、焚き火に砂をかけて消し、携帯型の三脚にカメラを固定した。
闇の中に少年の影が浮かび上がる。
彼は持ってきた杯を天高く掲げた。幾多の星の雫が、杯の中へと零れ落ちていく。
少年はこのときを待っていたのだ。
実際に杯の中に何が入ってくるわけでもない。ただ、天の星となって見守り続ける父の、そしてこの少年の、妻や母に対する思いが杯を満たしていく。
あの白い筋一つ一つが、父親から息子に託された奇跡の輝きだった。
「父ちゃん、ありがとう。ありがとう……」
今にも泣き出しそうな声が、夜空に吸い込まれるように消えていった。
早朝、町に着いた私は彼を家まで送った。
どうやら家人は誰も気付いていないようだ。
少年は大事そうに杯を抱えたまま、窓からいつまでも手を振っていた。
後日、彼らの元気な姿を市場で見かけた。
母親の手を引く少年の笑顔は、太陽のような暖かさを感じさせた。
説明 | ||
2010年12月29日作。天杯(てんぱい)=造語。ここでは天皇から賜る杯の意ではない。サラブレッドのテンパイとも別。偽らざる物語。 | ||
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