蒸気 |
港から出て行く蒸気船を、私はぼんやりと見送った。
振り向けば、少し離れたところで忙しなく積荷の揚げ降ろしが行われている。
降ろされた荷物はすぐそばに停車している貨物列車まで運ばれ、次々に積み込まれていく。港まで延長された線路を逆にずっと辿って行けば、この大陸を横断してはるか東の日が昇る国へと到達するはずだ。
蒸気機関車がまた一両、貨物を引くために黒煙を上げながら港に入ってきた。
私は貨物車と連結される機関車を横に見ながら町へと戻った。
北の山手側にある木工職人の集まる区画と違い、この鉄工所の集う海側は独特のにおいに包まれていた。油のにおいや蒸気機関車の吐き出す煙のにおい。それに少し工場から離れると、かすかに潮のにおいも漂っていた。
灰色の街並みには生気があふれていた。この街と同じようなくすんだ色の広がる鬱々とした空の下とは思えないほど、人々は活き活きとして自分の仕事に従事していた。
ふと、立ち止まる。
向こうから鉄くずを満載した馬車がやってきた。
狭い道なので片に寄ってやり過ごす。
すれ違いざま、馬車を御すいかつい中年男性が「すまねえな」と礼を述べたので私も会釈をして返した。
機関車や船など蒸気を利用した乗り物もだいぶ人々の間に広まってきたものの、それらは長距離の輸送が主であり、また利用できる場所も限られていることから、多くの運搬はいまだに馬車が主流となっている。だからだろうか。珍しいものが視界に飛び込んできて、私は思わず首から提げたカメラをかまえた。
パシャッ、パシャッと何度かシャッターを切る。
道の向こうからやってきたのは蒸気自動車だった。
小さな煙突から煙を吐き出しつつゆっくりと走ってくる。ただ、石畳の地面は舗装してからずいぶん時を経ているようで、凹凸が多く車の走行には最悪の環境だった。
案の定、不具合でもおきたのかすぐそばまで来たところで、ガクガクと不自然に車体を揺らして動かなくなった。
「くそっ! タイヤがイカレちまったか」
運転していた男性が飛び降りるやいなや前輪を調べるためにしゃがみこむ。
背は低いが長年力仕事をしてきたであろう老人の体躯はごつごつとした筋肉質で、油で汚れたツナギもその身に馴染んでいた。
私は少し離れたところで作業を見守ることにした。
老人はジャッキを使って車体を持ち上げると工具箱から様々な工具を取り出して、手馴れた手つきで修理していく。
こういった乗り物の機械構造には疎いので、私は何も手伝えぬまま、ただただ成り行きを黙って見守ることしかできなかった。
程なくして修理は完了したのか、工具箱を片手に老人が立ち上がる。
使ったものを自動車に積み込み自身も飛び乗ったところで私に尋ねてきた。
「あんた、さっきからずっとワシの作業を見ていたがこいつに興味あるのかい?」
「ええ、蒸気自動車なんて珍しいなと思いまして。以前一度だけ乗り合いの自動車は見たことありますが、いろいろ話を聞くと給水が大変だったり、道が悪いとすぐ走れなくなったりで何かと不便らしいですね」
そう答えると老人はしばらく何かを考えるような素振りをみせた。マズイ発言でもしたかと心配しているとしばらくしてふたたび老人が口を開いた。
「やはり世間に普及するにはまだまだ時間がかかりそうだな」
「普及……するんでしょうか?」
「そりゃするさ。いや、させてみせる! なんせワシの夢は世界中に自動車を走らせることなんだからな。だいたいみんなが気軽に乗れるようにならんと発明した意味がないだろう?」
老人がさらりと述べた内容に私は耳を疑った。
今、この老人は「発明した」と言った。
ならば自動車なるものをこの世にはじめて創り出したのはこの老人ということになる。
あらためて確認するとやはり「世界初の自動車はワシが創った」という老人の言葉が返ってきた。
「おまえさんが見たという乗り合いも、おそらくワシの書いた設計図を基に造られているはずだ」
「そうなんですか。けど、なぜ自動車を? 失礼ながら皆慣れている分、馬車のほうが使い勝手はいいと思いますが……」
「おまえさんの指摘どおり、いまはまだ馬車のほうが便利だ。しかし、条件さえ整えばみんな自動車のよさがわかってくるはずさ。蒸気機関車や蒸気船の力強い動きを見たことがあるだろう? 人員も物資も馬に比べてはるかに多く運べる」
たしかに動物を動力にするよりは安定していて馬力もある。私は納得してうなずいた。
「新しい力を開発して利便性を追及していく、それがワシらの仕事ってわけだ。そのためにも改良の余地があるうちは手を加え続けにゃならんし、安全に走らせようと思ったら道の整備なんかも必要不可欠になってくる。ま、道のほうはワシひとりではどうにもならんけどな」
老人が自動車の生みの親かどうか、真偽はともかくその情熱は確かなようだ。
まっすぐなまなざしは年齢を感じさせず、まるで少年のように目を輝かせて夢を語るのだから驚かされる。その力の源は何か?
例えれば、蒸気機関が石炭を燃やして推進力を得るように、まさにこの老人は情熱という底なしの燃料で自分の見定めた道をひた走っている、そんなところだろうか。
「まあしかし、あんたがさっき言ったとおり問題も山積してるしなぁ。そこでだ」
老人がニッと歯をむいて笑った。
「ここだけの話、実はちょっと前から新しい動力の開発に取りかかっとる。そいつは油を燃料にするんだが、うまくいけばいろいろと応用が利く分、蒸気より受け入れられやすいとワシは踏んでいる。そうなったら世界の運搬事情は大きく変わるぞ。いつ完成するかわからんがそう遠くないうちにお目見えするだろうから、ぜひ楽しみにしといてくれ。それじゃあな」
老人はそれだけ言い残すとふたたび自動車を走らせてゆっくりと去っていった。その小さな背が実際よりずっと大きく見えたのは、歳を重ねてなお新しいことに挑戦し続ける気概に満ちた人物だったからに違いない。
彼が大発明家かどうか、いまの私は真実を知る術を持たないが、少なくとも熱意をもって事にあたる生き様は見習うべきところだ。
それにしても大変興味深い話を聞いた。新しい動力とはいったいどんなものだろうか。世界が変わるほどだというのだから相当なものだろう。
そんなことをしばらく考えているうちに、ふと気づいて笑みがこぼれた。
なるほど、この蒸気のように噴き出す好奇心こそが明日への第一歩を踏み出させるのか。
ならば彼の老人が創り出す次の発明を楽しみに私もまた、まだ見ぬ被写体を捜し求めて旅立つこととしよう。そう決意させるのに十分な力を、この「好奇心」という名の原動力は秘めていた。
説明 | ||
2011年6月25日作。原題は「工業都市」。掲載段階で変更。偽らざる物語。 | ||
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