お別れの風景 |
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私は気がつくと片手には絵筆を、もう片方の手にはパレットを持っていた。
目の前には真っ白いキャンバス、ご丁寧にイーゼルに立てかけられたそれを目の前に私は丸椅子に座っていた。
あたりを見渡すとそこは何処かで見たような、それでいて全く見た事の無い様な小さなログハウスだった。
でも我が家ではない、何故なら窓から差す光は不自然に明るい。あれは外の世界にある太陽というものの特有の光だ。
(尤も、それを不自然だと思うほど私は長く地下に潜っていただけなのかもしれないけれど……)
自虐的な思念を振り払いながらも、私は何故このような場所にこうして居るのかなどと考えてみたけれどもそれがすぐに無意味な問いかけだということに気がつく。
私は試しに握っていた絵筆にパレットに付着していた赤い絵の具を付けて、真っ白いキャンバスになぞってみた。
高い粘性のあるそれは、しかし何故だかなじむように白いキャンバスへと溶け込んでいく。
赤く、深く、暗い赤い色、それがどんどんとキャンバスの中ににじんでいく、
それは私の中で何か、過去にあるものをそこで漸く想い起した。
そうだ、これは私の色だ。私を形作る色、面白くなってきたのでそのまま筆を進めてみた。筆を通して感じる感触は油絵の具のそれに近い、なのにその絵の具はなぞった端からキャンバスに広く滲んでいった。そしてとたんに乾いていく、乾いたものは段々と黒みを帯びていって、それは最後には強い独特の嫌悪感を与えてきた。
間もなく限界だ。体中から力が抜ける。私は座ることも辛くなり、絵筆とパレットを投げ捨て、床に膝を着く、
窓から差す暖かな日差しとそしてどこか暖かな雰囲のなログハウスとは対照的にこのキャンバスに描かれた真っ赤なものは酷く暗いイメージだった。
夢だ! これは夢だ!
私は何度も自分に言い聞かせてみても私にはそのキャンバスの赤が言葉ではない何かで責めたててくる様で仕方が無い気持ちになった。
それとは対照的な周りの風景がそのキャンバスの赤黒い違和感を余計に際立たせる。
ここは私の夢の中だ。そしてここは私の中の否定の論法で成り立っている。
一つ一つは私自身に対してなんら害の無いものなのだけれども、私自身が行動を起こすたびにそれは私の思考を次々にと悲観論に追い込んでいく、
恐い、こんな気持ちになったのは何年ぶりか?
過去からの自分の想いが私を苛む、恐怖を呼ぶ憎悪が、悲しみを呼ぶ怨嗟が、憎しみを呼ぶ、赤だ、漆黒から抽出したような赤だ。
あれこそは間違いない、今の自分を作る為に犠牲にしてきたものの呻きだ。
私は大声を上げて自分の見知っている者達の名を呼んだ。
火焔猫燐、霊烏路空、他にもあまたのペット達、しかし誰一人として姿を現さない。
部屋を出て広い廊下に出たところで私は漸く正気に戻る。
そこには私の知っている人が立っていたからだ。
私の知っている彼女は、私に最後に何かを言って来た。
A
目が覚める。
私が目覚めるとき、それはこの旧地獄の朝だ。
この場所には空から差す太陽も無ければ月も無い、それゆえに眠った時間から起きるまでの時間を夜として個人個人でライフスタイルを作っていく妖怪が多い、だが就労時間や旧灼熱地獄の管理などで時間を図る必要があるときには正確な時間を計るものがある。
しかしこういった日常の中では夜や昼と言った概念はあまり意味を成さない。
それ故に、今が私自身の朝だ。
部屋の窓を開けに行こうとベッドから身を起こそうとするが、私はそこで漸く自身の体の違和感に気付く。
(暑苦しい)
私は後ろから飼い烏に羽交い絞めにされていた。
「……」
両手を動かそうにも彼女は私の両腕をぎっちり掴んで離さない。
諦め混じりに私は彼女に背中を委ねる。
全く、ここで寝たら貴方の羽根で散らかるっていつも言ってるでしょうに……
背後に居る私のペットの一人、霊烏路空には此処に来たときに幾度か注意していたのだが、彼女がそれを覚えていてくれた試しがない。
そして私自身彼女に強くそれを駄目だとは言えないのだから形無しもいいところだ。
私は目覚めの悪い夢を思い起こそうとして、そしてそれがひどく不快感を浮かび上がらせてきたので散らす、そして酷く心臓が早く脈を打つのを覚え、私はこの暑苦しい飼い烏の体に身をゆだねて安堵を得る。
彼女は私がどこかに行かないことがわかったのか、多少力を緩めてはくれたけれども、それでもやっぱり暑苦しかった。
腕の動く範囲で胸の第三の瞳に被せていたカバーを取り去り、そしてその瞳で周囲を見渡す。
(おはようございます)
その思考が読みとれた。それは私のベッドの中からではなく、少し離れた場所にあったバスケットから聞こえてきた。
霊烏路空が居るという事は必ずこの部屋のどこかに彼女も居る。そう確信出来たのはこれまでの経験からであり、彼女の所在が直ぐに分かったのも彼女のこれまでの行動からの推測だった。
彼女は霊烏路空が私の部屋に進入して眠るときは必ず私の部屋に持参したバスケットで猫の姿で眠る。私のベッドには決して入ってこない。
(今は喋らないでください。お空はまだほ殆ど寝ていないんです)
その言葉を聞いて、私は、ああ、またやってしまったのかと思った。
喉元に軽い痛みが走る。何かで引っかいたような痛みだ。
そして彼女が決して離さなかった自身の指先を見つめる。そこには乾いた血が少しついていた。
(あまり彼女に心配をかけないで上げてください)
そう言いながらも彼女も私の傍らには薬箱が置いてあった。
私は心の中で礼を言いながらも、あとで詫びようとも思った。
彼女は私が無事なのを理解すると、頭を下げ、そのまま眠ってしまった。
原因不明の悪夢、ここ数日立て続けだ。私は夢の向こうで何かに足掻こうとして必死にもがいて、そして最後に見知った誰かの声を聞き、そして目が覚めるといったようなそんな気持ちの悪い悪夢を見続けていた。
そしてそれが物理的にもたらしたのはこの首のひっかき傷、私を最初に発見したのは霊烏路――お空だった。
彼女が時々親を思い出して恋しくなって私のベッドに潜り込んで来る時があったが、私が丁度その悪夢を見て、今のように首にいくつもの引っかき傷を作っているのを彼女が見つけてしまったのだ。
彼女は泣き叫びながら私を起こしたらしい。私はその時の記憶が曖昧だからこの情報はお燐から聞き出したものだ。
いや一部は読んだ物だ。
私が自分の喉を引き裂かんとするような強い力で爪を立てる姿が浮かんでくる。
自分自身の能力を酷く忌々しく思うのはこうした時だ。彼女は幾度も私を責め立てるように言葉を漏らした。私にはそれをただ受け止める事しかできなかった。
彼女は口にこそ出さなかったが、私にこういった感情を持っていた。
(一度はあなたに処理されそうになったお空をこれ以上どうして苦しめようって言うんだい?)
私はその言葉に応えられるような言葉を持ち合わせていなかった。
額に汗が浮かぶ、お空の体温は私よりも若干高い、手が動かないから額に浮かぶ汗を枕にこすり付けて落とす。
そして途方もないことを考えてしまう。
私は今地霊殿の主である。
しかし今現在の私は確実にこうした私の大切なペット達によって生かされている。
けれどもそれに反発した思いも自分の中に生まれている事を自覚していた。
それはやっぱり彼女たちに対して非常に悪い気持ちになるけれども、私はそうしたお空の優しさや、お燐の情け深さが、先ほどまで見ていた夢を彷彿とさせられて、それがどこかで恐ろしい気持ちがしたからだ。
B
……
……
ふわあぁぁぁ〜
間の抜けた声であたいはおもいっきりあくびをした。
今日の仕事は休みを戴けたのでのんびり寝てもいいんだけれども、あまり長く寝ていると日常生活のバランスが崩れるためこうして自室でボーっと暇を持て余している。
さとり様のあの発作にはなんとか慣れたとは言ってもそれでも釈然としないものがある。
あれは明らかに不自然だ。
何故ならタイミングが良すぎる。お空がさとり様の不調を発見したのはあたいが外の世界から人間を呼び込んだあの異変の直後からだ。
あたいも始めは彼女が地上と地底という二つの世界が繋がりを持つという事に酷く不安を覚えたためその心労が祟ったのだと思った。
そういう雰囲気は確かにある。
それは同じ穴の――犬の仲間で例えるのは甚だ不愉快だが、ムジナであるあたいにも理解できる事だ。
何せあたいだって外の世界から要らないと言われた存在だ。その見捨てた世界があたい達を今更快く迎え入れてくれるなんて言うムシのいい話なんて信じやしない。
いや寧ろそれを信じた時点でそれはかつての自分自身を蔑む行為になるだろう。あたいもそうだが、この世界に住んでいる存在はそういった外の世界の価値観や生き方にどうしても妥協が出来なかった業突張りのならず者の集まりだ。それを忘れたあたいじゃあない。
だからこそ、いずれ外の世界という自分達をかつて受け入れなかった世界と再び合間みえる時がいずれ訪れる事くらいは予期して然るべきだろう。
「いつだって加害者は過去を覚えていない。いや、これはあたいの思考の飛躍かもしれないけどね」
やれやれ、主人がああなってちゃあたいも気が滅入るね。
あたいの苦労性も甚だしいものだ。
「猫可愛がり〜♪」
「ぎにゃっ!」
その時あたいの思考を遮るかのように誰かが抱きついてきた。
いくらボーっとしていたとはいえ、ドアが開けば気づく、それを気づかせない相手となると一人しか思い当たらなかった。
「こいし様……何かご用ですか?」
彼女の抱きつくのを何とか両手で抑えながらも彼女に聞く、そして彼女が何か危険な事をしでかさないか見張る。
「猫私も飼いたいのにお姉ちゃんが許してくれないんだもん。私だってお燐みたいな猫欲しいのに、ねぇお燐早く猫の姿に戻って〜」
「嫌ですよ。あたい確かに猫の姿の方が楽ですけど、あなたったらあたいの事力一杯抱きしめるじゃないですか!」
「駄目なの?」
「そういうのを好む猫は多分居ませんよ」
「飼われている立場の癖に偉そうね?」
あたいは彼女が襲いかかってこないかどうかをきちんと目で追った。
やれやれ、面倒くさい相手に絡まれたもんだ。
頭の中で何度もそれを悔やむ、けれどもそれは決して払われない、下らなくて虚しい悩みだ。
この地霊殿に来てあたいは、さとり様の元で働いていくつかの事を知った。
その中の一つに、この古明地姉妹の相違点と共通点だ。彼女たちの能力はまるで左右対称だった。
意識の元で行われる思考を読みとり、そしてそれを力とする姉、古明地さとりと、無意識という他人には絶対不可侵の世界に潜り込んで他者の無意識を食い散らかす古明地こいし、全く別の方向性でその瞳が生み出す力を持った二人は外見も全く違っている。姉妹なのに髪の色すら違う、でもそんな二人でも一つの悪癖を持っているという点では強く結びついていた。
それはペットを愛玩するという点であった。
自分よりも立場の弱い存在を一方的に従属させてしまう。そうした嗜好が本人達の自覚的か、それとも全くの無自覚なのか? 確かに姉のさとり様のような存在は高い知性を持った存在からしてみれば疎ましい事この上ない。事実私自身仕えていながら甚だそういった事に嫌悪感を覚えるときがある。
だからこそそういった物を持たない存在を側に置いておくという考え方が通ると言えば通る。
しかし、私は実際仕えてみてそれだけではないと言う事を理解せざるを得なかった。
彼女たち姉妹はその従属される事にある種の悦びを見いだしている。姉、古明地さとりに関しては、これは大した問題ではなかった。
他人の趣味にはいちいち難癖を付ける程あたいは偉くはないし、ここは旧が付くとは言え地獄だ。その地獄の領主がどんな残虐非道な性格を持っていてもそれに難癖を付けられるようなものじゃあない。
あたいの思いつく限りの神話の地獄の主などに比べれば、そういった嗜好は正直言って拍子抜けするくらいに穏やかだし、何よりこうしてあからさまな嫌悪を向ける自分に対しても他のペットと同じ待遇にしている時点で寛大な方だろう。
でも目の前にいる古明地こいしは違う。
彼女の閉じた瞳とは裏腹にぎらつくような緑色の両の瞳があたいの体を、獲物を狙うかのように睨み付けてくる。
彼女は自分のペットが自分自身思い通りにならなかった、自分を大切に思ってはいないと感じると即座にそのペットを血祭りに上げるタイプだろう。
彼女の自室を一度だけ見たことがあった。
大きな棚に並ぶ数々のビーカー、その中には首を切られたモノや散々固い何かで打ち付けられた後があるモノなど様々な動物の死体があった。
あたい自身死体を収集する趣味があるので死体を部屋に保存することそのものにはそこまで嫌悪感は無かった。
でもあたいが彼女に感じたものは、そんな生易しいものじゃあない。
それは子供が持っている特有の危うさだった。
無垢といってもいい、そんな感じでその他者の無意識に浸透してくる能力のおぞましさだった。
だからこそ無意識で上手く操れない存在を受け入れない。受け入れられないモノが存在すること自体が許せない。そういった精神性だった。
一度彼女に言われて旧地獄に降ってくる人間の死体で出来る限り新鮮なモノを彼女の部屋に運んだことがある。
彼女は最初こそその死体を楽しそうに着飾ったが、段々とその死体が自分の思い通りに動かないことに我慢ができなくなったのか、机の引き出しにあった金槌を取り出して、それでひたすら死体を打ち付けた。骨が折れる音が鈍く小さく響く、死後硬直した筋肉を粉砕する音が不協和音を奏でる、あたいの脳味噌にそれは強く響いた。
死体を叩き壊すことはあたいの道徳心には何一つ響かなかったけれども、その音によってもたらされる彼女の精神性が幾度と無くあたいに強い恐怖を与えてきた。
この二人は同じ嗜好性を持っているのにどうしてこんなにも正反対な反応を示すのだろう?
さとり様は死んだペットの死体をきちんと埋葬する。
地獄の主の癖に彼女は言う。
「どうか安らかな眠りを、どうぞ来世は幸せな世界へ」と……
あたいは仕えておきながらこの古明地という姉妹の事を驚くほど何も知らない。その能力に関しても、或いは彼女達のこの反応の違いは、その瞳を閉じたことにあるのか? それとも……
「ねぇ、お燐、そんなに知りたい?」
「何をですかい?」
「私と、あの馬鹿の違い、お燐って心を見るまでもなく何を考えているのかまるわかり、もっとも私はあの馬鹿と違って解りもしないことを解ったような口は開かないけどね」
「あなたは自分のお姉さんの事を酷く言うんですね」
「だってあいつの現実逃避を何度も見ているんですもの。灼熱地獄が暴走したときに何一つ気付こうともせずに気付いても対策すらとらなかったのは何? このだだっ広い地霊殿に閉じこもっているあいつは何? この地獄で偽善者ぶって死んだペットの死体を埋葬するあいつは何? 人間の肉は平気で食う癖に自分に仕えたペットの死体には手を出さないなんて、頭がいかれちゃってるとしか思えないわ。気狂いよ」
「あたいにはあなたがそう見えますがね。手に入れたペットを片っ端から殺してまわるあなたは、自分の気がふれているとは思わないのですか?」
「お燐、私はね、あなたとは仲良しになれると思っているんだ。あなたはあの気狂いのお姉ちゃんの側に居ても正常でいられる。私の事を気狂いだと言ったわね? それもある意味で正しい、でもそれは全体的に見れば間違っている。あなたは、所詮は一人の妖怪という視点からしか物事を推し量れない。だから私を気狂いと言える。それはあなたが自分自身の生存を打算的に見ている臆病心から来ている。それは生物として正しい有り様ね。だからあなたはあなた自身を正常だと見ている。だからこそ言う、あなたは、所詮は一人の妖怪としてしか物事を判別できない。それは恥ずべき事じゃあないけれども、すべてを知ることは出来ない。でも理解できないのなら、あなたには何かを偉そうに言う事は出来ない。だからさ・・・・・・」
そういうと彼女はあたいに近寄ってきた。
あたいはなんとか逃げようとしたが、それは出来なかった。よく分からないけれど、人形のように手足が動かない。それが彼女の力だというのなら、説明が付く、でもそれが、彼女に対する内側から来る底知れない恐怖なのなら、それこそがおぞましい事だ。
彼女は開かない瞳をあたいの右手の手のひらに押しつけてきた。薄く黒く光るそれに、
「だったら見ようよ。お姉ちゃんの無意識を、私の無意識を・・・・・・」
無意識の世界へとあたいを引きずるつもりなのか? 悪いけれど、あたいはそんなお前を理解するつもりはないね!
その手を何とか振り払う。
彼女の両の瞳がじろりと怒りを見せる。でも、それだけだった。
「どうやらまだあなたは私のモノにはならないようね。ならいいわ。少しずつ、私はあなたににじみよるわ。それまではさようなら」
瞬間彼女の気配が消えた。
背中に脂汗を感じる。
あたいの心臓は強く鼓動を脈打つ、怖い、彼女は底知れない。だからこそあたいは泣き叫びそうになった。
そして実感した。
ここはやっぱり地獄なのだと……
C
私は絵画というモノにあまり馴染みが無い。
というよりも絵画というモノが真実を描写したことがあるなんて一度たりとも考えたことがない。といった方が正しい。
その思想は私自身の能力に依って裏付けられた思想に他ならない。
人間はあまたの言葉を生み出した。数々の古代語から高い文明を持たない地方部族の特有の言葉まで、それぞれが様々な意味合いの言葉を生み出し、そしてそれでも自分達の言葉でその全てを語り尽くせ無いという真理に最終的にたどり着いてしまう。
それはそうだ。一つの言葉はその意味合いが断続的に変化していく、それは幾重も世代を重ねそして全く異なるものに変化するもの有れば、その刹那的に細かく解釈が変わっていくこともある。
だからこそ私は言葉の持つ普遍性を信じない。
そして人間の想像力は言葉よりも多くの場合が視覚に頼ることの方が多い。何故なら私の第三の瞳が読む他者の心はいつだって映像だ。それもその瞬間に変化していくモノだ。
だからこそ私は絵画というモノが好きじゃない。いや好き嫌いという事を考える前に、それが真実に到達しないと言う見解を持っているからだ。
我ながら傲慢だと思うけれども世界とはそういったモノの情報で溢れているという自覚がある。
でも、だからこそ私は向き合う。
目の前のキャンバスに、赤黒い血液のような赤で染められた絵画を前にして私は再びパレットを取り、そして暖かな太陽の光を浴びながら、今度は緑の絵の具を絵筆に塗り付け、そして厚く塗り付ける。
赤い絵の具のお陰か、今度は血のように滲まなかった。それでも私は念入りに厚く塗り付け、そして少しずつその造形を深めていった。
絵筆を油で洗い、今度は別の絵の具を塗り付ける。
自分でも驚くくらいに絵の造形がはっきりとしてきた。
(仮説を立てるだけと、実際の現象は違うと言う事の現れかしらね?)
私の頭は驚くほど鮮明に何かの一つの風景を描こうという意志が明確に示されていく、
意識が一つに統合されていく、その一つの意志が私になにを描くべきなのか、そして何のために描くのかを明確に示してくる。
何時間かかっただろうか? 数えることこそ無意味だ。何せここは夢の時空の世界、朝起きればこのキャンバスだって無い、それでも何故だろう、酷く喉が渇いてくる。
ふと見ると、テーブルの上に水の入ったコップが有った。
その冷たさを表すかのようにコップにはあまたの水滴が付いていた。
私は我を忘れてその水を飲んだ。そしてふと自分の描いた絵を見直した。
それはどこまでもダル・トーンな色彩を放っていた。
こんな明るい世界には不似合いな異質の絵画だと、自分でも思う。
喉を越す清涼感溢れる水はその私の絵画を否定するほど清々しいモノだった。それがなんだか悔しくて、だからその不完全な絵画を引き裂いてやろうと思った。
私は画材が入っているケースからペインティングナイフを取り出した。
そして自分の描いた不完全な絵画ともう一度対峙した。
その振り上げた腕をどうしても振り下ろせない。
私と絵画との間に涼しく優しい風が吹く、それは地底の底では味わえない、木々の芽吹く匂いを含んでいた。
その風のせいだろうか? 私は遂にその腕を振り下ろせなかった。
出来るはずがない。だってその絵こそ、私の思い描いた××なのだから・・・・・・
私はだからこそその重く苦しい夢からまた目を背けた。
D
「ねぇ、お空はさ――」
あたいは後ろで死体を灼熱地獄の人工太陽に投げ込んでいる友人に聞いてみた。
「うん?」
彼女に問いかけた後で自分が本当はなにを聞きたかったのかが解らなくなった。
「その、さとり様をどう思っているの?」
だから酷く曖昧な問いかけで彼女に遠回しでもなにかしらの回答が得られるような問いかけをしてしまった。
別に自分自身の問いかけに明確な回答を求めた訳じゃあない。だから適当にはぐらかされると私は信じていた。
「大切な人だよ。だってこの館の主だし、私たちを唯一守ってくれる人だもん」
「そうかい」
彼女らしいまっすぐな答えだ。
「でもね、大切だけど、一方的に好きになれるようなそんな存在じゃあないな」
「え?」
あたいはその時彼女の顔をもう一度見た。
いつもと変わらないあどけない表情には、しかしどこかで複雑な色を浮かべていた。
「お燐だってさ、色々辛く当たってるでしょ? 私がさとり様を心配して夜一緒に寝ている事とか」
「そりゃ――まぁ……」
「そういった気持ちがさ、まさかお燐だけが持っている、なんて思ってはいないよね?」
「……どういうことだい?」
「そりゃ、私はさ、お燐よりもここは長いし、さとり様の事は大切な人だよ。ここまで私が成長したのはここがあるお陰だし、さとり様に守られてきたってところもあるけれどさ、それでもどうしても不満って言うのは溜まっていくものなんだよ。だからさ、この力を手に入れた時にあんなことをしちゃったんだよ」
そういうと彼女は右手を振り上げた。焼却炉に入れた死体が一気に燃え上がり、一瞬にして灰になる。
「焼け残りは?」
あたいは一気に燃え上がった彼女の力に多少の驚きと、そして彼女が抱える物の正体不明なものにいくらか戦慄した。
「無いよ。私の能力は知っているでしょう?」
「そうかい」
「お燐ってさ、時々不思議だよね」
「私がかい?」
「うん、普段は凄くしっかりしていて、抜け目が無いのに、こうどうしてか時々変に当たり前の事で躓くよね?」
笑いながら言ってくる友人に、でも私は呆れながら答えた。
「そんな日常的ないざこざの延長線で地底を焼き尽くそうなんて普通は考えないよ」
「うん、考えないよね。つまりは、それだけじゃあ解消できないほどの“何か”が私にはあったんだよ」
「その“何か”って?」
「“何か”は“何か”だよ。うーん、ちょっと待ってよ。確かにあの時は、なんだろう、こうさとり様に対して何かとんでもなく嫌な気持ちを持っていたんだけどなぁ」
彼女は頭を抱えてうんうん、唸りだす、なんかなぁ、彼女ったらやっぱり物忘れが激しいというか……
「忘れた? いや違うなぁ……ねぇ、お燐ならわかる?」
「何をだい?」
と、瞬間に彼女が制御棒を私の眼前に向けた。
「どういうつもりだい?」
「私が一言スペルカードを宣言したらお燐は吹き飛ぶ、それこそ跡形もなしに、そうさせるだけの動機って必要なのかな?」
あたいはポケットの中にあるスペルカードを取り出すような動作は出来ない。ただ目の前にある圧倒的な力が敵意を持ってあたいの体を撃とうとしている。
自身の中に渦巻くのは戦闘意欲というよりも、ただ生き延びたいという臆病心だけだった。
「お燐、あんまり人をナメちゃだめだよ? 私だって分かる。自分が色んなことを忘れていくような、そんな情けの無い自分だけど、そうやってあからさまにされちゃうと誰だって嫌になっちゃうよ……そっか、憎いのか……」
彼女は何かを納得したように制御棒の先を私から外す、そして当たり前の様に私に呟く。
「そうだ、お燐、私は憎悪していたんだよ」
「憎悪? さとり様にかい?」
「うん、憎悪、これが重要な感情だってことはお燐には分かるでしょう?」
「こっちは仮にも怨霊を操作しているからね」
「私はどんな性格をしていてもこの旧地獄の水を飲んで生きてきた存在だよ? その感情からは逃れられない。だからこそこの感情を持て余すときがある。憎み、戦い、そして敵を倒す、この本能からはどうやっても逃げられないんだ。私は、ヤタガラス様の力を貰う前のことはもうそんなには憶えてないけれども、それでも分かる。私はさとり様の事を憎悪していたんだってね。今のお燐みたいにね、だから私は反抗したんだ」
「でもおかしいよ」
「何が?」
「人を憎むには――憎悪をするにはそれだけの理由がある。今のあんたみたいにさ、それは即席で出来るようなもんじゃあないさ。例えばあたいがあんたの事を物覚えが悪い馬鹿だって考えてたのがあんたは気に入らなかった。一回や二回じゃなくて何度も何度も時間をかけてだ。それが分かったからあたいを憎悪した。あんたはさとり様に対してあたいに対するそれ以上の感情の負荷を感じた。そうじゃなければあんたはあたいに今正に撃ち抜かれていた。若しくは、そもそも力を手に入れた時にさとり様に楯突くような事はしなかったはずだよ?」
「お燐が言うように憎悪は長い時間で成長させるのが普通だと思うんだ。でもね、私はそれだけじゃあないって時々考えるんだ」
「へぇ、お空にしては饒舌だね」
「うん、例えば今のお燐の言い方が気に食わなかったって言う感情がトリガーになって全ての感情を変えてしまうのかもしれないの」
言われてあたいは思わず口を両手で押さえてしまった。いけない、あたいはどうにも先ほどからの彼女の雰囲気に流されて、上手く波長を合わせられない。何だろう? 何があたいをこんなにも動揺させてしまうのだろう。
あたいの思考は暫くそちらに向いたが、あたいは彼女が会話を止めていることに気付く、慌てて彼女の方を見る。彼女は呆れたようにため息をついて仕切りなおす。
「感情というのは一種のエネルギーなんじゃないかなって私はエネルギーを操るようになって感じたんだ……考えたんじゃあないよ。私の能力で出来ることは力を操作して効率よくエネルギーを発動させる。エネルギーを制御することだよね? でさ、思ったんだ、私たち妖怪の感情っていうのは別々の方向に向かっているエネルギーで、それが私たちに楽しい思いをさせたり悔しい思いをさせたり、そんなもので出来ているんじゃないかなって、そうだとするとさ、その感情って言うのがもし一つの方向に強い引力を持ってしまったら他の方向に向けられていた感情のエネルギーがそれに飲み込まれて一つの膨大なエネルギーになるんじゃないかなって、そう考えたら憎悪というものはある瞬間に一つのきっかけで他の全ての感情をその方向に吸収してしまう。だから私はあんな事をしてしまったんだと思うな。でもどうしてさとり様を憎んだのかが分からなかったら結局同じなんだけどね」
ひたすら喋り続けると、彼女はその場にうなだれる。
どうしたんだい? と尋ねると、彼女は顔中に汗をダラダラと垂らしていた。
彼女は笑いながら答えた。
「久しぶりに頭使ったから疲れた〜お燐運んで〜」
私は思わず笑ってしまった。その彼女はいつも見る彼女のそれだったからだ。
「なんだい、あたいをさっき撃ち殺していたらあんた此処で野たれ死んじゃってたよ」
「うにゅ〜そこまで考えて無かったよ〜」
あたいは猫車をその場に置いて、彼女の肩に腕を回した。
「ほら、甘えないで自分で半分は歩きな!」
「面倒くさいよ〜お燐あれで運んでよ〜」
あたいは後ろに転がる自分自身の猫車を見て、そしてすぐに前を向く、
「ありゃ死体専用だよ。生きてる奴にゃあ贅沢すぎるわ。それに……」
「それに?」
あたいはもう一度首を振り、彼女の答えをはぐらかした。
(あんたの死体なんて運びたくないよ)
なんていうキザったらしい言葉は飲み込んでおいた。
「それで、お空のさとり様に対する憎悪は消えたのかい?」
自分のポケットに入っているスペルカードを意識する。よく考えればあたいは世界を憎んで恨んで消え去った者達、怨霊を使役する存在だった。だから憎悪というものがどうやって発生するかなんてメカニズムは考えたことが無かった。
「ううん、憎悪は強い吸引力を持っている。だから私は今でもさとり様を憎んでいる。でもそれだけじゃあないんだ。言葉じゃあ分からないけれども、そういった全てでさとり様と付き合える方法を見つけたんだ」
あたいは肩を貸している友人をもう一度見た。表情も、雰囲気すらも変わらない。いつもの、能天気であっけらかんとした彼女だ。
「それって?」
「うん……それはね……」
その言葉を聞き、あたいはもう一度一つの事実を再認識した。
ここは地獄だ。“旧”や“跡”という言葉でウェザリングしていたとしても、ここは罪を背負う者達が住む世界だ。あたいのような外の世界からやって来た妖怪には持っていない生まれながらの地獄の妖怪の気質を、喩えそれが個人の性格はどうであれ、彼女もまたその残酷さを確かに持ち合わせていたのだ。
E
夜、これはあたいの体内時計での認識の夜だ。でもそれはこの地霊殿の中での夜という概念とほぼ同期している。共同で生活をしているのならそれは必要不可欠な事だった。
だからこの舘に住んでいる者は皆就寝している。
さとり様の性格からかこういった事には結構厳しい、ただ彼女の厳しさは物理的な厳しさというよりも精神的な厳しさが強かった。
けれどもあたいは猫だ。そういった規則やしがらみからは幾らでも抜け道を作ってしまう。
それに、あたいの勘が正しければ今現在のさとり様は就寝している。
「そして恐らくはまたあの悪夢を見ている……悪趣味だね」
あたいは一つの部屋の扉の前に立った。ドアにはその部屋の主の名前が刻まれている。
木製のレリーフに「古明地こいし」と書かれたその扉を叩こうとする。しかしあたいが叩く前に中から声が聞こえてきた。
「鍵は開いているわ。どうぞ、入ってらっしゃい」
あたいは言われたとおりに中へと進む、
「その様子じゃあ大体の察しはついているようね」
「あなたは残酷だ」
安楽椅子に座る彼女に思わず答えてしまう。
「何かをするにはそれだけの動機がいる。私の思いがあって、お姉ちゃんの思いがある。そのうち片方の肩だけを持って発言するというのは卑怯だわ」
「だからって彼女を使う事は無いでしょう?」
「ほら、物事の本質が分かってない。だめ、それじゃあ0点、私とお空はね、利害が一致したのよ。だから彼女が表面上に現さなかった事を私が変わりに示してあげた」
「今日の言葉だって?」
「それは流石に彼女を甘く見すぎだよ。彼女はこの旧地獄跡で生まれ育った妖怪で、その性質も持っている。あなたに何を言ったのか知らないけれども、それは彼女の言葉から出たものでしょう? それにね、あなたも霊烏路空も自分達が起こした事を理解していない。私がこんな事をしたのもあなた達に感化されたからだよ?」
「え?」
言われて先の異変を思い返す、しかしそのどの点での事かが理解できない。
「行きましょう。あなたはそれが見たくてここまで来たのでしょう?」
彼女は私の手をとり、歩き出す、そして向かった先は、彼女の姉、古明地さとりの部屋だった。
彼女はその部屋を扉の向こうから聞こえてくる悲鳴を聞きながら、何度も頷き、そして中に入る。
そこにはあたいが何度も見てきた風景が広がっていた。
自身の力の精一杯を使って何かに反抗するように体を振り回す彼女と、それを固く両手を結んで掴んでいるお空の姿が……
「お姉ちゃんは長い間他人の感情を読み続けてきた。私には分かる、その数多の他者の感情を恐らくは持て余していた、私はそれから目を背ける為に目を閉じた。もう二度と私とお姉ちゃんの間に心が通う事は無いと思っていた」
「それでこんな悪夢を見せているのかい?」
「本質的にはそう、でも表面上の現象を説明するのならそれは40点位、落第点だわ」
彼女はさとり様の傍まで歩み寄り、そして額に手を当てる。
「お姉ちゃんの無意識に堆積された他者の意識、それは何度も何度もお姉ちゃんを苦しめたんじゃないかな? それは表に出ることも無く、いずれ無意識のうちにお姉ちゃんを精神的に殺す、だから私はお姉ちゃんの自我を解放した。それが、この体たらくよ」
こいし様は手招きして、あたいを傍まで寄らせる。
彼女はあたいの手を掴むと、唐突にその手を彼女の閉じた瞳に寄せてきた。
危険を察知して手を引こうとするが、間に合わない。
しくじった! と思ってももう遅い。あたいは彼女の術中に落とされる。
「逃げないで、真実を知りたいのなら、そのまなこを見開き現実と向き合いなさい」
瞬間、あたいの視界は暗転した。
F
「出来た!」
私は手に持つ絵筆とパレットを落とし、その自分が描き上げた絵を見た。
それこそが私が長い間捜し求めていたものだった。
題名はなんと付けよう? そうだ、これこそが私の求めていた理想の家、これこそが私のお城、「地霊殿」だ。
手に付いた絵の具にも気にしないで両目の涙を拭う、こんな気持ちは初めてだった。身を削って描いた絵がこんなにも自分の心を響かせるなんて、なんで私はこんな単純なことにも目を背けていたのだろう?
「こんばんは、お姉ちゃん」
私は呼ばれてすぐに彼女の姿を探した。彼女は廊下のほうからゆっくりと歩いてきた。
「こいし、丁度良かったわ。あなたに見て貰いたかったの。丁度出来上がったのよ。私が捜し求めていた物が漸く完成したのよ」
私は興奮してしまい、思わずこいしの手を引っ張ってしまった。
こいしは珍しくも驚いた様子で私の傍まで寄ってきた。
「ほら見てこいし、お姉ちゃんが漸く描き終えたの。辛かったのよ。苦しかったのよ。私はどうしてもこんな世界が欲しかったの。でも遂に手に入れることは出来なかった。だから描いてみたの。どう? 素敵でしょう?」
するとこいしは一度両目を閉じると、静かに首を横に振った。
どうして? こんなにも素敵な絵なのに、なんで?
「お姉ちゃん、こんな絵は私は望んではいない。お姉ちゃん私が求めていた世界っていうのはね、こんな色をしているのよ」
そういい終えると、こいしは唐突に手から何かを取り出した。
それは私に悲鳴を上げさせるのには十分なものだった。
G
「火焔猫燐、あなたにとって私は何?」
「あたいと友人を傷つけるのなら敵」
「私にとってのあなた達は私の心に変化をもたらした変革者、そういう意味では尊敬しているわ」
「え?」
あたいは思わず彼女の顔を見上げた。その表情には普段からは見られない何かを決断した時のような強い意志を感じ取れた。
「私もお姉ちゃんも違うようでいて同じだった。覚り妖怪としての能力は違えども先の見えない闇の中で、この穴倉の中で先を見ようともせずにただ毎日を生きてきた。だから私だけでも変わる。そう決断させてくれた存在だった。はるか昔に誰かに問いかけられた質問、Operor vos qua adveho , quod qua caput capitis? これに答えられる日も来るかもしれないわね」
「褒められてるんですか?」
「褒めているけどいけ好かない。個人的にはね」
と、そこであたいは一つの異変に気がついた。
彼女の腰の辺りにいつもあった黒い瞳が胸にまで上がっていた。それだけじゃあない。
彼女の第三の瞳が開いている。
「ああ、こっちでは開いているのよ。ここは夢の世界、意識と無意識の境界線、私が他人の無意識を操るということはその他者の無意識を視る事が必要、何かを見るには瞳が必要、わかるでしょ?」
「そりゃそうですが……」
それでも納得はいかない。何せ彼女、さとり様の望んだ事の一つこそ彼女の覚り妖怪としての再生なのだから……
「ほら、視なさい、あれが旧地獄跡の主の成れの果てよ」
彼女の示す先、そこには一つの絵にひたすら目を輝かせている女性がいた。
いつもの威厳なんてかなぐり捨てたようにまるで生気が無く、目もどこか虚ろだった。
そしていつもは胸の箇所にある第三の瞳は、だらしなく足元に、そして何より開いていない。
「あなたは観客、壇上に立つのは私だけ、じゃね、一方的だけどお姉ちゃんをお願いね」
彼女はそのままさとり様のところに歩いていった。
彼女は、さとり様の言い分を聞きながらも、彼女の描いた絵画を見ていた。
それは暗い絵だった。地霊殿に誰も住まなくなって、誰もがその姿を忘れ去った様な、そんな孤独な絵だった。
「お姉ちゃん、私が求めている世界はね、こういう色をしているのよ」
そう言うとこいし様は手に持っていたライターで彼女の絵に火を放った。
「や、めて、どうして? ねぇ、やめてよ。こいし……どうしてこんな事をするの?」
「言ったでしょう? 私の求めている世界はこんなにも鮮烈な色をしているの。炎は猛り、新緑は生々しい臭いを放ちながら芽吹き、大地を昼は太陽が、夜は月が照らすの。こんな固まった一つの世界じゃあないわ」
こいし様はさとり様の手を引っ張るとそのまま外に出てしまった。
あたいは一人部屋に取り残されて、その焼き払われたキャンバスを眺めてみる。けれどもそこにあるのは焼け焦げたイーゼルだけで跡形も無い。
彼女が使っていた画材を見る。
「やれやれ、向こうでは妹が目を閉じて、こっちでは姉が目を閉じて、それじゃあ二人の間に永遠に心の壁があるようなもんじゃないのかい」
と、そこであたいは一つのパラドックスに気付く、よく知っていていつも顔を合わせているお空にすらあたいの知らない心の闇があってそれはついぞ理解できなかった。
そう考えるのなら、彼女達の関係こそあたいたちのような普通の人間関係が出来るのかもしれない。普通で、それでいて不完全な、良く分からないな。何故彼女達は人間の姿で生まれたのだろう。
さとり様が残した絵の具を見る。外の世界では良く見た金属製のチューブに入ったそれは、よく考えれば原材料は、植物や鉱物から作り出したものだ。植物の死骸、それに遠い昔に死んだ何かの死骸が色づいた物を原材料に、彼女の言い分で言うのなら、それは正しく死を象徴するようだった。
「どこから来てどこへ向かうか……難儀な妖怪だねぇ」
彼女が姉へ与えた毒、それは彼女、覚り妖怪が唯一理解できなかった純粋な心“愛情”だった。一体覚り妖怪は一生にどれだけの負の感情を他者から受け継いできたのだろうか? それに見合うだけの正の感情を彼女は得られたのだろうか?
恐らく得られなかったのだろう。だからこそ互いに依存し、その感情の本質に気付かない。だからこそ霊烏路空の無垢の心を送ったのだろう。
彼女達は一体何故人の形として生まれてきたのか? そして何を理解しようとしてこの世界に現出したのだろうか。それは所詮死体運びの一妖怪には想像の付かないことだった。
H
「こいし! 離して!」
「いや、お姉ちゃんこうでもしないと絶対に外出ないんだもん」
こいしは私の手を離さないでよくも知らない庭まで私を引っ張ってくる。
「私が見たいのはあんな風景じゃあない。お姉ちゃん、あなたは何であんな絵を描いたの?」
言われて私は自分の考えを巡らせる。
でもいつだってこの頭がきちんと働いてくれたことは無い。
「お姉ちゃんはさ、優しいよね。私だけじゃなくてさ、でもさ、その他人に向ける易しさって言うのはどこから来ているの?」
「それは、こいし、あなたのためよ」
「でしょ? お姉ちゃん、いや覚り妖怪の古明地さとり、あなたは私という一人の妖怪の為にその有り様を歪めてしまった。私は私であなたという一人の妖怪の為にその有り様を歪めてしまった。だからね、私たちは知らなければならない。私と、あなたという他者をよ」
「何を言っているの? こいし」
ふとその時私は彼女の胸にある球体が漸く視界に入った。
その黒い球体には確かにはっきりと開いた瞳があった。
「やっと気がついたの? お姉ちゃんはいつだってそう、自分を中心に表面だけを見て物事の本質を見失ってしまう。でもそれは私にも責任があるの。だからお姉ちゃん、私は最後にお姉ちゃんに見せるのはお別れの風景よ」
「……出て行くの?」
「今はね、私はお姉ちゃんのことが分からない、お姉ちゃんも私のことが分からない。でもそれは永遠に続く事じゃあない。だから今は私はあなたの傍を離れるの」
そう言うとこいしは空を指差して私の視線を誘導する。
そこには正しく幻のような光景が広がっていた。
虹だった。空に弓のように輪を描いて輝く七色の大気光学現象、正しく幻想そのものだった。
「虹はいつまでもそこにあるわけじゃあない。光はどんなに合わさっても滲まない。私たちはそういった関係をまた取り戻さないといけない。そう考えるから、お姉ちゃん、今はただ、さようなら」
彼女はアーチ状の虹の彼方へと走っていった。
「待って! こいし! お願いだから!」
どんなに走っても彼女には追いつけない。おまけにぬかるみに足を取られて私は滑って泥まみれになった。
見えない両のまなこをこすり、なんとか彼女の走り去った方向を見ても、そこにはもはや彼女どころか虹すらも見えなかった。
「帰りましょう。さとり様」
背後から声が聞こえてくる。よく知った声だ。
「こいし様は行ってしまいました。自分のあるべき姿を求めて」
「嘘よ」
「私たちには帰るべき場所があります。今はそこで彼女の帰りを待つ事が大切なのじゃあないですか?」
「そんな事は有り得ないって言ってるでしょう!」
「……ならあなたはどうするのですか? この果ての無い夢の世界にいつまでも閉じこもっている気ですかい? ここは夢の世界です。この温かくて優しい風も、移ろう季節も、あたいたちの世界には無い風景です。私たちは私たちの世界に帰りませんか?」
「……! お燐!あなた達嵌めたのね! 共謀していたのね?」
「いいえ、あたいもお空も彼女に利用されました。さとり様、あなたが見ていた悪夢の正体を教えます。それは霊烏路空のあなたを愛する心と、あたいのあなたを大事に思う人情です。私たちはこいし様に利用されてあなたを傷つけました」
「……良くもぬけぬけと!」
「なら、今すぐその開かない瞳であたいの心を読んだらどうですかい?」
言われて私は自身のだらしの無い第三の瞳を拾い上げる。閉じた瞳を無理やりにでもこじ開ける。
「やめてください! さとり様! あなたにはこの世界は合わない! ここはあなたが目を背けた世界ですよ! こいし様が現実世界で目をひらけないのと同じくらいあなたは目を開けないんですよ!」
「離しなさいって言ってるでしょ!」
「いいえ、離しません! だってそうじゃなけりゃあなたは逃げようとする。逃げる気ですか? 現実から! あなたの作った世界から! あなたの体と一蓮托生になっている奴らは幾らでもいるんですよ! そいつらの命を見殺しにする気ですか?」
「なら皆死ねばいいわ! それで私に恨みを晴らせればそれでいい! 私にとっては妹が全てだったのよ! それを取り戻しに行って何が悪いって言うの?」
唐突にお燐が私の胸倉を掴んできた。首が苦しい。
「その言葉、他の誰かに言いましたか?」
「言える……わけが……ないでしょう」
「ならそれは泡沫に消えた言葉でいいですね。朝は目覚めの時間です。おはようございます」
彼女の気持ちがいいほどの右ストレートが私の頬を叩いた。
I
あの日からこいしはこの世界から消えた。
彼女のいた部屋は荷物が何一つ無く、レリーフすらも消えていた。
彼女の存在すらもペットの記憶の中からは消えていた。
憶えているのは私と、そして当事者であるお燐だけ、私は起きた直後に彼女を問い詰めたけれども、結局彼女からは夢で話した以上のことは何も読めなかった。
「同情はするけれど、でも彼女の決定にあたいはどうこう言える立場にはいない。あたいはあなたのペットであってこいし様のペットではないからね」
彼女の言い分が正しいのは分かっている。分かってはいるけれど、それで納得は出来ない。
彼女はここではない何処かで元気で暮らしているだろうか?
何日も悩んでいたが、悩みすぎたらしく、私は結果として数日ほど眠らずにいたらそのまま病気にかかった。
お燐には何度も何をやっているんですか、と呆れられたが、それが私の性分なのだから仕方が無い。
そして私を看病してくれているお燐のところにお空が尋ねてきたときに、こんな話があった。
「ねぇ、お燐、黒いつばのある帽子を被った淡い色の髪をした妖怪って見た事が無い? なんか、喉の辺りにこう出掛かってるんだけどさ、出てこなくって」
その言葉を聞くとお燐は心底困ったような顔をして苦笑交じりに答えた。
「ああ、あたいの勘だけどさ、もしかしたらそういった妖怪に会えるかもしれないね」
彼女の目配せに私は軽く首を縦に振った。
「Operor vos qua adveho , quod qua caput capitis? ね、過去のどこで誰が言ったのかは忘れたけれど、本当にどこに行くのかしらね?」
私は窓からこの地底世界の空を見上げた。けれどもそこはどこまでも漆黒それがまるで黒インクを滲ませたようで、虹なんて素敵で悲しいものは浮かび上がっては来なかった。
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地霊異変の終わった後のこいしがさとりの元を離れていく話 | ||
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