ECHOES OF TIME |
夢。
夢を観ている。
目を覚ませば忘れてしまう、そんなありふれた夢を観ている私の耳に、微かな音が聴こえて来る。
見知らぬ音楽。
荘厳な管弦楽の響き。
美しく、どこか哀切に満ちたヴァイオリンの旋律。
夢の波間に漂いながら、私はいつしか、その幻想的な音に身を任せ、やがて夢も観ない深い深い眠りへと落ちていった。
病院のベッドはいつだって退屈。
長い長い入院生活の末、ようやく一番大変な手術を乗り越えた私を待っていたのは、やはり長い術後入院だった。
勝手に出歩く事を禁止され、薬の効果でぼんやりとした頭を抱えた私は、大人しくベッドに横になり、
まどろみながら窓越しに見える晴れ渡った青空を眺めていた。
いつかまた、あの綺麗な空の下を、再び元のように歩ける日が来るのだろうか…。
経過良好とお医者様からは言われているものの、その日の到来が気の遠くなるほど先の事に思えて、
私はその日何度目かの溜息を吐く。
そんな時、私の耳に、病室の白いカーテンを揺らす風と共に、微かな音が運ばれて来た。
開いた窓から入って来るその音楽は、曲名も判らないのに、どこか聞き覚えのある様に思えて、
何処で聴いたのか、思い出そうとするが…上手くいかない。
「あの」
「どうしたの? ほむらさん。何処か痛む?」
頭を横に傾け、午後からの検査の準備をしていた看護婦さんを呼ぶと、彼女はすぐに寄って来てくれて、
ひんやりとした手を私の額に当てながら、優しく声を掛けてくれた。
「いいえ。あの…この音楽…」
「音楽…? あぁ、他の部屋から聞こえて来てるのね。うるさかった?」
「いえ…、何ていう曲か御存知でしょうか?」
「…さあ、私、こういうのあんまり詳しくないから…」
私の言葉を聞いて耳を澄ませる仕草をしていた看護婦さんは、合点がいったように頷き説明してくれたが、
肝心のその曲については何も知らないらしく、首を傾げている。
「そうですか…」
「聞いてきてあげましょうか?」
「えっ?」
仕方ないと頷きかけた私の様子が少し残念そうに見えたのか、看護婦さんがそんな提案をしてきたので、私は驚く。
「下の病室にね、今、音楽好きの患者さんが入院しているの。多分その子だと思うから…」
「いえ、そんな、わざわざ…ご迷惑なんじゃあ」
「いいのよ。どうせ検査で回るついでなんだから…じゃあ、何か判ったら後で教えてあげるわね」
突然の申し出に恐縮するが、看護婦さんは全然構わないといった風に手を振り、
最後に私の上の毛布を掛け直してくれると、そのまま病室を出て行ってしまった。
大人しく口数の少ない私からの問い掛けを、世話好きそうな彼女は嬉しく感じてくれたのかも知れない。
私はどうしようかと暫く気を揉んだ挙句、もはやどうしようもないと諦めて毛布を被り、午睡を決め込んだ。
「はい」
「あの…これ…?」
次の日。
看護婦さんから手渡されたCDを見て私はキョトンとした。
「どの曲か判らなかったから、CDごと借りて来ちゃった」
「え…ええっ…?」
看護婦さんのその説明に、私はようやく昨日の会話を思い出し…次いでビックリしてしまう。
「多分、このCDの中の曲だろうからって…あ、別に無理を言って借りて来たんじゃないから心配しないでね」
「で、でも…」
軽く取り乱す私を宥めるように肩に手を置き、看護婦さんは細かい説明をしてくれた。
私はその間、手の中のCDケースを持て余し、裏返したり元に戻したりを繰り返している。
「お昼寝の邪魔をしてしまったお詫びの印に、だって。ヘッドホンが壊れててスピーカーで聴いてたんだけど、
もう新しいのを用意して貰ったから大丈夫だって言ってたわ」
確かに言われてみれば、今日はいくら耳を済ませても、窓から音楽は聴こえて来ていない。
「そんな、お詫びだなんて…私は別に」
「返すのはいつでもいいからって言ってたわよ。音楽は聴いてくれる人の為にあるものだから、
もし興味を持って気に入ってくれたのならとても嬉しいって」
「そう…ですか…」
看護婦さんを通じて聞かされたその相手の言葉に、私は暫く黙って、貸して貰ったCDに見入ってしまった。
何て優しい…と思う。
「あの」
「ん? なあに?」
「どういう方…なんですか。その…」
「え、ああ、その患者さん? 上条くんっていってね、あなたと同い年くらいの男の子よ」
純粋に興味から尋ねた私は、看護婦さんの意外な返答に再度ビックリした。
「えっ…お、男の方だったんですか?」
「そうよ。言ってなかったっけ?」
「は、はい…」
私は小さく頷くと、パジャマ姿でベッドに半身を起こしたまま、何となく身を縮こませる。
男の人は声が大きくて、乱暴で、ちょっと苦手…そんなイメージしか持っていなかった私には、
こんなに繊細な心遣いの出来る人が、男性の中に、しかも自分と同い年の人の中に居たという事が、
俄かには信じられなかった。
「…もし直接会ってみたいんだったら、部屋の番号教えてあげようか?」
看護婦さんの少し悪戯っぽい問い掛けに我に返った私は、その意味を理解して3度目のビックリをした。
「え…えええっ!? い、いえそんな、結構です私、別にそんなつもりで」
今度は少し声が裏返ってしまう。
「あらそう? でも結構カッコイイ子よ? お似合いだと思うけどなあ」
「なな、何言ってるんですか! や、止めて下さい、私そんなつもりじゃ」
何のつもりか、そんな風に言ってくる看護婦さんに、私は病室に居るのも忘れて大きな声を上げ、
必死に両手をブンブン振ってその申し出を辞退した。
本当に…いきなり何を言い出すのか、この人は…とんでもない話だった。
治ったばかりの心臓がドキドキする。
きっと顔も赤くなってしまっているのだろう。
「あーごめんごめん、悪かったから落ち着いて…冗談だから…」
「………」
すっかり気が動転してしまった私を見て、さすがに悪い事をしたと思ったのか、
看護婦さんは謝りながら私の両肩を抑えてゆっくりベッドに寝かせてくれる。
でも、もう遅い。
もし私の病状が悪化したら、それは看護婦さんの今の冗談のせいに違いない。
すっかりヘソを曲げてしまった私は、その後看護婦さんが何を言っても返事をせず、
検査の時間まで毛布を頭から被って出て来なかった。
ようやくそのCDを聴いてみようという気分になったのは、夜も遅く更けてから。
お昼寝し過ぎたせいで、消灯時刻を過ぎてもなかなか寝付けなかった私は、ベッド脇の小さな明かりをつけると、
テーブルに置いてあったCDケースに手を伸ばし、枕元でそれを改めて眺めた。
ジャケットには、ヴァイオリンを手に持つ女性が写されている…この人が奏者だろうか。
「エコーズ・オブ・タイム…時のこだま…?」
何処か詩的な響きを持つタイトルの付いた、そのCDケースを開き、私は取り出したCDを、
病室に備え付けのプレーヤーにセットした。
ベッドに身体を深く沈めると、ヘッドホンの位置を確かめ、小さくボリュームを絞ってからリモコンの再生ボタンを押す。
…少しの間があって、静かに音楽が奏でられ始めた。
幸い、確かにそれは、私がもう一度聴きたいと思っていた曲だった。
あの日、窓越しに微かに聞いた、あの曲。
その事に少しホッとして。
まだ名前しか知らない、上条さんという男性の厚意が無駄にならなかった事を、少しだけ喜びながら。
私はそのまま目を閉じ、音楽の世界に身を委ねた。
夢。
夢を観ている。
目を覚ませば忘れてしまう、そんなありふれた夢を観ている私の耳に、微かな音が聴こえて来る。
見知らぬ音楽。
荘厳な管弦楽の響き。
美しく、どこか哀切に満ちたヴァイオリンの旋律。
夢の波間に漂いながら、私はいつしか、その幻想的な音に身を任せ、やがて夢も観ない深い深い眠りへと落ちていった…。
説明 | ||
もしメガほむが上条君と同じ病院に入院していたら…と仮定してのお話です。 | ||
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