Spiegel Im Spiegel |
繰り返し繰り返し、同じ夢を観て、心穏やかでいられたあの最後の日々を、
私はその後、ある種の郷愁にも似た感情を抱きながら、何度も思い返すことになる。
でも、その時の私はそんな事も知らず、両手一杯に抱えた色とりどりの花束の香りを胸に吸い込み、
それから頭上を振り仰いで、綺麗に晴れ渡った青空を眩しそうに眺めているだけだった。
漸く実感として湧き上がってきた喜び、安堵、そして不安…様々な感情に心の芯を揺らめかせながら、
それでもやっと終わったのだ、と思った。
どんなに理不尽で、辛く、苦しい日々であっても、一日一日を懸命に生き、
少しずつ前に進んでいけば、いつかは終わりを迎える日が来るのだと。
…そんな当たり前の事を、当たり前のように信じながら。
退院の日が決まった。
お医者様からそれを告げられた時、私の心は不思議と落ち着いていた。
付き添いの母の方が先に大喜びして、涙ぐみながら私に抱きついてくれたりしたので、
自分で喜ぶタイミングを逃してしまったのかも知れない。
退院後の生活に向けた様々な手続きや連絡の為、早速表に飛び出して行く母を手を振って見送った私は、
まだ少しフワフワした気持ちを引き摺ったまま、車椅子を回して自分の病室へと戻り始めた。
退院が決まったからといって、当座の生活パターンにそれほど大きな変化がある訳では無い。
せいぜい当日は自力で歩いて病院を出られる様に、リハビリの時間を若干増やすくらいだろうか。
今日のリハビリ治療は午後からだったので、それまでは大人しく病室のベッドで寝ている以外にする事は無かった。
つまり全く今まで通り…
「あ…上条さんにも、報告しないと」
ふと思いついて呟き、不意に現実に戻った気分になった私は、車椅子を止める。
報告…というより、ずっと借りっ放しになっている、例のCDを返さなくてはならない。
最初にあのCDを聞いた翌日、看護婦さんを通して、改めて暫く貸して頂く許可を貰ったのだけれど、
返却するに当たっては、さすがにそんな伝言だけで済ます訳には行かなかった。
何か、もっとちゃんとした手段で、きちんとお礼を述べ、感謝の気持ちを伝えなければ…
それには一体どうするのが一番だろうか…?
再び車椅子を回しながら、私はあれこれと考え続け…病室に着くまでの間、
退院自体よりそちらの方で頭が一杯になってしまっていた。
「そんなの、直接会って話せばいいじゃない」
「…言うと思いました。でも、それはムリですから。絶対」
検温に来た看護婦さんに体温計を渡しながら、私はこの人に相談を持ちかけた事を早速後悔した。
「はい、平熱…っと。えー、どうして?」
「どうして、って…こんな格好じゃ会えないです。そんな、男の人なんて…」
不思議そうに問い返してくる看護婦さんに、私は心の底からとんでもないと思って首を振った。
何せ今の自分の格好ときたら、色白の肌に腰まである長い黒髪…といえば聞こえはいいが、
要は長い入院生活でろくに陽も当たらず青白くなった顔に、切る機会も無く伸ばしっ放しにした髪を
緩く左右の三つ編みにしているだけで、きちんと手入れ出来ないので髪質はボサボサだし、
肌は運動不足と薬の影響で若干荒れ気味だった。
おまけに名前に反して性格も地味で、メガネだし、手足もガリガリで身体つきも貧相だし、
着ている物もオバサンが着るみたいな柄のパジャマにカーディガンを羽織っているだけだし…
対する上条さんはというと、私と同い年の男の人で、カッコイイ人…らしい。
あくまで看護婦さんの主観だが…そんな人に、どうして今の私みたいな人間が、
気安く会いに行ったり出来るだろうか。
そういった趣旨のことを、私がかいつまんで主張すると、看護婦さんは有難くも一笑に付して、
私の心配事を吹き飛ばしてくれた。
「そんな事無いわよぉ。ほむらちゃんとっても可愛いわよ? それにお互い患者さんなんだから、
上条君も別に気にしないと思うけど…」
「上条さんは気にしなくても、私が気にするんです」
「そお? 勿体無いわねぇ…あんなイケメンにアタック出来るチャンス、滅多に無いわよぉ?
私なら迷わず告白しちゃうけどなー」
…この看護婦さんは、どうしても話をそっち方面に持って行きたいらしい。
私は何となく拗ねた様な心地になって、唇を尖らせながら呟いた。
「大体、そんなカッコイイ人なら、彼女さんくらいもういるんじゃないんですか?」
「そうね…確かに時々、お見舞いに来る女の子とか見掛けるわよ」
看護婦さんのその返答を聞いて、私は何故かドキッとしてしまった。
上条さんが普段どんな女性と会っているかなんてこと、私が気にする様な事では無い筈なのに…
いざそういう人が実際に通って来ていると聞くと、何故か心がざわついてしまう…戸惑う私を他所に、
看護婦さんはでも…と付け加えた。
「私の見る限り、まだ付き合ってるって感じの娘はいないみたいなのよねぇ…だから、
ほむらちゃんにもきっとチャンスはあると思うの」
「だから…どうしてそんな話になるんですかっ。勝手な憶測で話を進めないで下さい!」
私は結局また看護婦さんの会話のペースに乗せられて、大きめの声を上げてしまっていた。
慌てて口元を押さえると、私はハァ…と溜息を吐く。
「…もういいです。看護婦さんに聞いた私がバカでした。検温が済んだのなら帰って下さい」
私はもうすっかり不貞腐れてベッドに横になると、看護婦さんに背を向けて布団を頭から被った。
…何か、最近イヤな事があると、毎回こんな態度を取っている様な気がする…。
看護婦さんももう慣れたもので、あらほむらちゃん怒っちゃった? 早く機嫌直してね…
などと言いながら検査器具を纏め、特に心配する様子も無くその場を去って行ってしまう。
そういえば最初はさん付けで呼んでくれていたのに、今はほむらちゃん、と子供扱いされてしまっている。
私の方も最近は割と平気で辛辣な言葉を返せたりしていて、果たしてこれはいい事なのか悪い事なのか…
と、そこで私は大事な事を言い忘れていたのに気付き、布団をガバッと跳ね除けると、慌てて看護婦さんを呼び止めた。
「あ、あの…!」
「ん、どうしたの?」
私が少し大きな声で看護婦さんを呼ぶと、彼女は先程私があんな失礼な態度を取ったにも拘らず、
嫌な顔一つせずに戻って来てくれる。
「いえ、あの…さっきの話、上条さんには内緒で…その、退院の事も、まだ…」
「あぁ…、勿論よ。分かってますって♪ じゃあまた午後の検診でね」
何となく恐縮しながら、私が小さな声で口止めをお願いすると、看護婦さんは快くOKしてくれて、
それから今度は本当に病室から去って行った。
私は静寂を取り戻した病室のベッドに倒れ込むと、再び深い溜息を吐いた。
「はぁ…ほんと。何やってるんだろ、私…」
退院の事や、その後の生活の事…先に考えるべきことは山程ある筈なのに、そこから逃げ出す様にして、
会った事も無い相手の事で、悩んだり、慌てたり、怒ってみたり…本当に私はバカなのかも知れない。
それでも…やがて訪れた眠気に身を任せて目を閉じながら、私は心のメモ帳の隅に、
『上条さんは現在フリー(根拠:看護婦さんの眼力)』
と、小さな字でこっそり書き加えるのを忘れなかった。
退院日当日。
私は何とか立って歩ける様にはなったものの、結局大事を取って、車椅子で運ばれての退院となった。
背後の母に車椅子を押してもらいながら、一階の通路を通り、
大勢の看護婦さんやお医者様達が両脇に並び拍手で祝福してくれる中、屋外へと出る。
それは、まるでドラマの一場面を見ている様で…やはりまだ自分の事とは思えず、
正直かなり気恥ずかしくもあったけれど、何とか感情的になるのを堪え、手術でお世話になったお医者様や、
口々に退院おめでとう、と言ってくれる看護婦さん達一人一人に深々とお辞儀をして、感謝の言葉を返す。
一番お世話になった看護婦さんから、一際大きな花束を手渡され、
「おめでとう。良く頑張ったわね」
と言って軽く抱き締めてもらった時には、やっぱり少し感傷的になって涙が毀れた。
思えば私には、外の世界に親しい友人と言える人など一人もいない。
これから先、一体誰に弱音を吐いたり、悪態をついたり、バカみたいな恋愛話をして笑い合ったりすればいいのだろう?
その事に本当に今頃になって思い当たると、私は急に押し寄せてきた寂しさや心細さで押し潰されそうになり、
彼女の肩に顔を埋めたまま、暫くの間離れる事が出来なかった。
上条さんには手紙を書いて、CDと一緒に看護婦さんに渡してもらった。
いざ返すとなると、なかなか手放し難くて、手紙は数日前に書き上げてあったのに、
渡すのは今朝になってしまったのだけれど、上条さんはきっと許してくれると思う。
カッコイイかどうかはともかく、優しい人だということは、かなりの確信を持って言う事が出来たから。
手紙には、近々退院する旨と、貸してもらったCDへの感謝、それから、
収録曲の中ではヴォカリーズが一番好きです、とか、その前の鏡の中の鏡でいつも眠くなって寝てしまいますとか、
まるで小学生が書くみたいな拙い感想文の様なものを、とりとめも無く書き綴った。
お互いの病状については何も触れず、大それた告白めいた事もせず、ただ、音楽の話だけをした。
その事で、何か空々しい人だと思われたかも知れない。
看護婦さんには奥手過ぎると笑われるだろう。
でも、それでもいいと思った。
偶然と、音楽と、純粋な厚意で繋がれた、私と上条さんの関係を締め括るには、
やはりこういった形が一番相応しい気がしたのだった。
母の手を借りて、迎えの車の後部座席に腰を下ろすと、昂ぶっていた私の心も少しずつ落ち着いてきた。
眼鏡を外して涙の跡を拭い、まだ見送りを続けてくれている方々に手を振って別れを告げようと後ろを向いた時、
何の気なしに座席に置いた花束から、ガチャッと妙な音が響いた。
「…?」
不思議に思い、視線を戻して花束を見る。特にこれといって変わった点は無い…と、そのとき、
私は座席の足元に、何かが落ちているのに気付いて、屈んで手を伸ばすとそれを拾い上げてみた。
綺麗なピンクのリボンが巻いてある…それは、四角いCDケースだった。
表返して、そのジャケットを確認し…私は慌てて背後を振り返る。
車は既に動き出していて、坂の上の病院も、門の前に立っている看護婦さん達も、
どんどん遠ざかって良く確認出来ない。
ましてや、病室の窓など見える筈も無く…そもそも私は上条さんの病室が何処かさえ知らなかった。
それでも暫くの間、病院の方をじっと見つめ…私は顔を戻すと、手に持ったままのCDケースを無言で眺めた。
それは、確かに、今朝返した筈の、あのCDで…リボンには小さな青いメッセージカードが挟んである。
それには、こう書かれてあった。
『退院おめでとうございます。急な事で、こんな物しか贈れずすみません』
…真面目な男の人らしい、綺麗で丁寧な字…CDケースにリボンを掛け、花束の中に忍び込ませたのは、
きっとあの看護婦さんの演出なのだろう。
直接手渡せば、私が遠慮すると考えたのかも知れなかった。
「ほむらさん、どうかしたの?」
「…ううん、大丈夫。何でもないの…」
下を向いたままの私の視界が再び滲み、零れ落ちた雫が手の甲に落ちる。
心配した母の声に首を振ると、私は涙を拭い、それから窓の向こうの流れ行く景色をぼんやり眺めた。
…やっぱり、会いに行ってみようかな。
不意に、そう思った。
別に、特別な意味とかではなくて、ただ…やっぱり直接会ってお礼が言いたい。
勿論、お見舞いに行くからには、それなりの準備をして行かなければならないだろう。
ちゃんと美容院に行って、恥ずかしく無い服装で、それなりのおめかしをして…それから、会いに行こう。
つい先程退院したばかりなのに、いつの間にか次の定期健診の日を心待ちにしている自分に気付いて、
私は思わず微笑んでしまった。
微笑みながら、両手に抱えた花束とCDケースをギュッと胸に抱き締めて。
我が家へと運ばれる車中でウトウトした私は、何かとても幸福な夢を観た様な気がした。
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入院時代のメガほむと恭介君のお話の続きです。 | ||
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