ローリィ・キャット(レンリン) |
「ごめんね。せっかくひさしぶりに会えたのに」
緑に囲まれた公園の隅にある白いコンクリートのベンチに腰を降ろし、頬や目の縁にどこか疲れた色の見える青年は、すぐ隣に座っている少女に申し訳なさそうに言った。
このところはずっと大学の課題に追われていて、食事も睡眠もろくに取れていなかった。そんな状態では遠くに出かける体力など残っているはずもなく、ちょっと近くの喫茶店にでも行こうと家を出て、強い日差しの下を数分歩いていただけでも立ちくらみが襲ってくるという情けない有り様だった。
「ううん。レン君がいればどこでも楽しいよ?」
すると少女はすぐに頭を横に振り、まったく気にしていない様子で微笑みかけた。ベンチのすぐ傍にある大きなクスノキの枝や葉が風に揺れるたびに、穏やかな木漏れ日が少女の髪や身体に降り注ぐ。
あどけないその笑顔も、白いセーラーの布地も、頭の上で揺れている真っ白なリボンも、疲れ切った彼の目には眩しすぎるくらいだったが、そこから目を逸らす気にはなれずに、レンと呼ばれた青年はわずかに目を細めた。
「……くん、レン君?」
すると目を細めた瞬間に視界がぐらりと揺れて、瞼の上に手のひらを翳してしばらく固まっているレンの顔を、少女は――…リンは心配そうに覗きこんでいた。
「大丈夫? まだ眠いんでしょ?」
「うん……大丈夫。ちょっとだけこうしてたら……」
ほんの少しだけ。あと何秒かだけ目を休ませたら――…。
しかし頭の真上から絶え間なく聴こえてくる木の葉が擦れる音は、柔らかな雨が地面を叩く音のように心地良く、その音に耳を傾けているうちに瞼は完全に上がらなくなってしまった。
……ダメだ。早く顔を上げないと、よっぽど疲れているんじゃないかと心配をかけてしまう。それにこうしてひさしぶりに会えたんだから、話したいことがたくさんあるんだ。
時間なんていくらあっても足りないくらいなのに。君に……、リンちゃんに、話したいことが――…
張りつめていた糸がふつりと切れるように、彼の思考はそこで途切れてしまった。
「…………っ!」
それからどれほどの時間が経ったのか。俯いていた頭が何かのはずみで大きく揺れた瞬間、その衝撃でレンは眠りの底にあった意識をようやく取り戻し、自分が夢も見ないくらい深い眠りに落ちていたことに気付いた。
「……ご、めん! どのくらい眠ってた?」
「んーと、三十分くらい?」
小さく首を傾げたあとに何でもないことのようにリンからそう告げられて、レンは外れかけていた眼鏡を戻しながら、今度は別の意味で気が遠のきかける。眠気なんて一瞬でどこかに行ってしまった。
「ごめん……っ! 本当にごめ――……ん?」
両手を合わせて地面に擦りつけんばかりの勢いで頭を下げた直後に、足元で何かがもぞもぞと動く感触があった。あまりに小さくて丸々としたその姿に、レンはしばらくそれが何かが分からずに首を捻ってしまう。
真っ黒な毛玉……いや、これは……。
「この子たちが遊んでくれたから大丈夫」
それからすぐ隣に視線を向けると、そこにはまだ生まれて間もないくらいの大きさの子猫と、楽しそうに戯れている愛しい少女の姿があった。それも一匹だけではなく二匹、三匹……よく伸びた草の間をかき分けるようにして、一度には数え切れないほどの子猫が二人の足元に集まっていた。
「わ、わ……っ」
危うく靴をぶつけてしまいそうになって、レンは慌ててベンチの下の隙間に自分の足を引っ込める。
「この公園に住んでるのかな」
差し出した手のひらを舌先で舐められてくすぐったそうに声を震わせているリンの隣で、レンは少し考えこむそぶりを見せる。
「野良にしては人なつっこいし、餌をあげてる人がいるのかも」
足に身体をすり寄せてくる子猫たちは、生き物というよりはやっぱりどうしても毛糸玉かぬいぐるみのように見えてしまう。白、灰色、ブチとその色はバラバラで、まだちゃんと喉を鳴らすことはできないのか、どこか舌足らずな声でミィミィと交互にか弱い鳴き声を上げている。
「かーわいい」
すぐにその愛らしさに取りつかれたように、リンはとろけた笑みを顔いっぱいに浮かべると、両手で包みこむように白くて柔らかい毛並みを撫で上げる。
レンはそんな微笑ましい光景を見ながら、猫という生き物には見た人を「可愛い」と無意識のうちに言わせる魔法がかかっていて、とくに女、子供には絶大な威力を発揮するのだという、嘘か真かも分からない話を思い出した。
……まあ、確かに可愛いんだけどね。
そんなに小さな身体をしているのに、無防備な姿で足元に擦り寄ってくる姿や愛らしい鳴き声は見るものの警戒心を一瞬で打ち砕き、自分が守ってあげなくては、という気持ちにさせるのだろう。けど――…。
「ねえ見てレン君。毛づくろいしてる」
「ん? あ、うん」
小さな舌で全身の毛を舐めている姿に、またしても声の調子が変わっていくのが分かる。可愛くて仕方ないものを目にしたときの、「可愛い」だけではとても表現しきれないものを存分に含んだ声。
「可愛いねぇ」
そうだね、と呟いたその声にあまり感情がこもっていなかったことにレンは自分でも驚いた。リンもすぐにそのことに気付いたのか、きょとんと首を傾げる。
「レン君はそんなに猫って好きじゃない?」
「そ……そんなことないよ。すごく可愛いよ」
今度はちゃんと感情の入った声でそう言い直すと、リンもまたそれに同意するように同じ言葉を復唱する。
「ね。本当に可愛い」
可愛い、かわいい、と何度も呪文みたいにくり返す。甘くとろけた蜜の声。
だけどそうやって猫を見て可愛いって言ってる、君のほうがずっと可愛いよ、なんて。
「う、うん。本当に……」
そんなことを真っ先に考えてしまう自分の思考が急に恥ずかしくなって、レンは気を紛らわすように子猫に手を伸ばした。
「レン君、猫なでるのうまいね」
「そうかな?」
両手で顎の下や耳の後ろ、背中や腹を交互に撫でていると、自分が撫でているときとはまるで違った反応を見せる子猫の姿に、リンは羨望の眼差しを向ける。
「だってその子、すごく気持ちよさそう」
言われてみれば。先ほどから手を動かすたびに気持ちよさそうに喉を鳴らし、もっと撫でて、とねだるように自分から頭を擦り寄せている。
……思わぬ特技を見つけてしまったかもしれない。日常生活ではまったく役に立ちそうにないのが難点だけど。
「あたしも猫になりたいな」
「……え?」
「だって猫になったら、いつでもレン君に甘えられるのに」
冗談とも本気ともつかない声でそう言って、肩にもたれかかりながら笑いかけてくる少女の横顔に、言葉にならない感情が胸にこみ上げてくる。
猫の毛よりもずっと柔らかそうな髪が、木漏れ日を反射しながら音もなく揺れている。その髪の毛先から茶色のローファーを履いた足のつま先、ベンチの下に長く伸びた影まで、そこにあるものすべてが、愛しくてたまらない。
「猫にならなくたって、いつでも甘えていいんだよ」
「……本当に?」
「も、もちろん」
……僕の理性が保つかぎりは。なんて情けないことを考えながら、どこまでも真剣なリンの視線を正面から受け止めて、瞬きするのを忘れるほどに見つめ続けた。
「じゃあ、ね」
するとリンは顔を胸のあたりに埋めて、耳元に囁きかけるように声を潜ませる。
「さっき猫にしてたみたいに撫でて?」
「えっ、と……」
いきなりのことに最初のうちは戸惑っていたものの、その柔らかそうな髪をすぐ近くで見ているうちに心ゆくまで触れてみたい衝動に駆られ、レンはためらいがちに手を伸ばした。
「…………ん」
両手の指を髪の中に差し入れて、子猫の毛をブラッシングするようにゆっくりと梳いていく。掴んだ先から指の間を滑り落ちていく髪の感触に、思わず感嘆の声がこぼれそうになる。
さらに追い打ちをかけるように、髪に指を差し入れるたびに果物みたいな甘い香りが広がっていく。優しい香りなのにどこか切なくて、途方もない甘さに胸が焼けるようだ。
……頭が、クラクラする。
「っ、……!」
どうしよう。ただ髪を触ってるだけなのに、何だか――…。
「もっと触って?」
手のひらが耳の横に触れると、リンは頬を擦り寄せてくる。
「レン君の手、気持ちいい」
「リ、ンちゃん……」
……本気で頭がおかしくなりそうだ。
きっとこの子が本当に猫だったら大事に大事に育てて、絶対に危ないことなんてさせない。他の誰かの目に触れないように家の中に閉じこめて、外になんて絶対に出さないだろう。自分の腕の中だけで、他のどんなものより大切に――…。
「って、それじゃ今とそんなに変わらないような……」
「え?」
「……何でもないよ」
いつまで経っても子供っぽい独占欲の消えない考えに自分でも呆れてしまう。
それに猫ほど気まぐれじゃないにしても、いつだって振り回されているのは僕のほうで、大人しく閉じこめられてなんていないだろうし……。
「っ、ひゃっ……」
そんな取りとめのないことを考えながら指でそっと顎の下を撫で上げると、唇の隙間から掠れた声が漏れる。顎の輪郭を指の腹でなぞるたびに、セーラーに包まれた細い肩が小さく跳ねる。
「レンく……くすぐった、っ……」
次第に甘さを帯びていく声に、これ以上は危ないと理性が警鐘を鳴らしているのに、どうしても止まらない。もっとそんな表情を見てみたくて、何かを堪えるような声をもっと聴いてみたくて。
他の誰も見たことのない姿を、もっと。
そんな衝動に突き動かされるように、自分の意思とは別のところで動いている指が、ほのかに赤く染まった首筋を辿ろうとした瞬間――…。
にゃあ。
「――……あ。見て、お母さん猫だよ」
それまでの甘い空気を一瞬で吹き飛ばすかのようなその声に、すっかりどこかに見失ってしまっていた理性がようやく戻ってくる。
「え? あ、本当だ……」
視線を鳴き声がした場所に向けると、いつの間にか一匹の黒猫が茂みの中から姿を現していた。先ほどまで二人の足元にいた子猫たちもいつの間にか母親の元に戻っている。
それを見てまた歓声を上げながらベンチから腰を上げて猫に近付いていくリンに、触れているときの体勢で固まっていたレンは、助かった、と大きく肩を落とした。あのままだったら何をしでかしていたか――…。
「……っ、た!」
「リンちゃんっ!?」
するとリンが屈みこんだ直後に聴こえてきた悲鳴に、レンは慌ててベンチから腰を浮かせる。
「……あ、大丈夫。ちょっと引っかかれただけ」
「大丈夫?」
ベンチの下に屈みこんで自分の指を押さえていたリンはすぐに「大丈夫」と小さく頷いた。
「あたしが子猫に触ろうとしてたから守ろうとしたんだよ」
まだ唸り声を上げている黒猫に「ごめんね」と言って、心配そうに覗きこんでいるレンを安心させるように唇に笑みを浮かべた。爪で引っ掻かれたばかりの指先は傷口が開き、真っ赤な血を滲ませている。レンはその痛々しくて鮮やかな色に目を細め、自分のものよりもずっと細い腕に伸ばす。
「え……、っ」
それから出来るだけ力を入れないように指を高く持ち上げて、血を滲ませている傷口に、ゆっくりと舌を這わせる。
「…………っ!」
舌の上にまだ生温かい鉄の味が広がる。軽く吸い上げると、傷口に染みたのかリンの肩がびくりと小さく震えた。
「レ……ン、くん……」
しばらくは指を口に含んだままほとんど無意識に傷口を吸い上げていたが、吐息まじりの声をすぐ近くから耳にして、レンはようやく我にかえる。
「っ! ご、ごめん」
口内から指を引き抜くと、唾液でかすかに湿ってはいるがそこにもう血は滲んでいなかった。
「血、とまったみたい。ありがと」
「……そ、そっか。よかった」
それからすぐに自分の取った行動を思い返して、血液が顔に集まってくるのを感じた。
「レン君のほうが猫みたいね」
「え……」
思いもよらない言葉のあとに自然な動作で後ろに手を回されて、そのまま頭を撫でられる。まるでさっきまでの立場が逆転してしまったような状況に、レンはすっかり固まってしまった。
少し癖のある部分を指先で摘み、そのまま撫でつけるように手のひらで触れてくる。猫というよりは子供にするようなその仕草に、気持ちが安らいでいく。
「可愛い」
しかし細い指が耳の後ろを撫で上げた瞬間に、肌の上を羽根の先でなぞられるような感覚が、すぅっとレンの背筋を這い上がっていった。
「リンちゃん……」
ほんの少し手を伸ばせば触れられるくらいの距離にある唇。レンはほとんど無意識のうちにその唇に触れて、それから顎に指をかけると、あと少しの距離を埋めようとした。
近付いていく唇に吐息が触れる。長い睫毛が微かに震える。
リンは青いガラスのように透き通った瞳にレンの瞳だけを映しこみ、淡く色づいた唇を開くと――…。
「……レン君。ここ、公園だよ?」
「あ…………」
ふたたび現実に引き戻すための言葉を、その唇に乗せた。
いくら公園の広い敷地の中でもとくに人通りが少ない場所とは言え、少し離れた場所では鳩に餌をやっている老人や親子連れの姿もある。
そのことに気が付くと、レンは伸ばしていた指を下ろしてがっくりと項垂れた。
「家に帰って二人っきりになったら、いっぱいしようね」
そんなレンの様子を見て、リンは耳元に唇を寄せると、内緒話をするように小さな声で囁いた。
あくまで抱きしめたりキスをしたり、そんな範囲のことだと分かっているのに、それ以上のことを考えてしまいそうになる自分がひどく汚れているような気がした。いや実際にそうなのだろうけど……。
唇のかわりにもう一度だけ指で唇に触れると、いつまでも指先に残る甘さばかりを持て余してしまう。
にゃあ、と。そんな二人を冷やかすように、猫の鳴き声が遠くから聴こえてきた。
きっと誰もが心奪われずにはいられない愛らしい声。その姿。
だけど心なんてとっくの昔に奪われているから、君たちの魔法は僕には効かないよ。
End.
ローリィ番外編。公園で子猫とじゃれながらただひたすらいちゃいちゃ、という微笑ましい光景のはずなのにどこか不健全な匂いがするのは気のせいですか気のせいですね。
そして今回の話は以前に描いていただいたローリィのイメージイラストを、それはもう穴が開くほど眺めていたら話が一本できてしまったので、許可をいただいて書いてみました。
説明 | ||
大学生レン×中学生リンシリーズ。番外編。ひたすらにゃんにゃんいちゃいちゃ。脛骨さんに以前に描いていただいたイメージイラストに話をつけさせていただきました! | ||
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