おはよう |
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止める気力もなく、私はじっと目を閉じていた。
朝だ。
ああ、朝が来てしまった。
頭の中で、昨日の光景が蘇る。目を見開いた友人、その瞳に宿る深い悲しみ。一瞬後に、私の中に込み上げた後悔。
本当ならそれは些細な口喧嘩で、数時間後に仲直りのメールが交されるはずだった。それなのに、私の口から滑り落ちたその一言が、友人を深く、傷つけてしまった。
教室から出て行った友人を追いかけて、すぐに謝れば良かった。でも私は、それが出来なかった。ただ呆然と立ち尽くし、窓の外の雨音を聞いていた。
手遅れなのだ、すべてが。
うう、と唸って寝返りを打つ。朝の光が私の首筋をなじる。それはあまりにも熱くて、私は布団をつかんで頭の先まで引っ張り上げた。目覚ましの音がくぐもる。
綿の塊の下で、私は安堵の息を吐く。この生温かい布団の中から、もう一度夢の世界に行けないだろうか、是非とも行きたいと思った。
しかし、現実の世界には秩序というものがある。大人は社会に出て働かなければならないし、学生は学校に行かなければならない。無力な女子高生である私が世界の秩序に抗えるはずもないが、それでも脳裏では昨日の嫌な光景がちらついていて、板挟みになった私は結局、夢の世界へ行かずに布団の中でじっと目を閉じたままでいた。
諦めたのか、目覚ましが大人しくなった。急に静かになったものだから、変な耳鳴りがした。私はまだ、布団の中で粘っている。
どのくらい経っただろう。ドアの開く音がして、母の声が私の名前を呼んだ。起きなさいという意味だろう。しかし呼ばれたのは一度だけで、母の足音はすぐに遠ざかって行った。
私の部屋は居間と繋がっているので、ドアが開けられると、居間の音がよく聞こえてきた。
父の話に、弟の笑う声。母が食卓に皿を並べる音。テレビのアナウンサーの澄ました声は、どこかで起きた残虐なニュースを伝えている。
居間を外れた小さな部屋で、私は一人布団に包まり、悶々と悩んでいた。
そうして、私はあることを思いついた。
――学校を休んでしまおう。
それがいい。思いついた途端、私の思い描いていた『今日』は一気に塗り替えられた。くすんだ色から淡いパステルに変わったそれは、私の望んだ夢の世界に似ていた。
今日一日だけ――。そう、今日は英単語のテストがあったはず。勉強していないし、悪い点を取って落ち込むよりは、始めからやらない方がいい。
ずっと布団の中にいるのも息苦しいので、私は目を閉じたまま、布団を少しめくった。休む理由は何にしよう。風邪気味と言えば医者に行かせられるし、腹痛は女子だと危機感がないように感じる。ここは頭痛がいいだろうか。
母が再び私の名前を呼んだ。遅れるよと叫んでいる。母の足音が、居間から部屋に近づいてくる。
うまくやらなきゃ。私は固く目を瞑る。まずはもっともらしく唸って布団の中で縮こまるのだ。母が何か言う前に、弱々しい声で、頭が痛いと嘘を吐く。母が体温計を持ってくる。私はでたらめな数値を読み上げる。今日は休んでおく? うん、そうする……。これでいい。これで、上手く行かない現実とはおさらば。そうすれば、私は、私は――。
ふ、と。
味噌汁の匂いが、私の鼻をくすぐった。
匂いに誘われて、私はそっと目を開けた。視界に広がったのは、昨夜と変わらない私の部屋。違うのは光の差す角度だけだった。
賑やかな居間から、その匂いは漂ってきた。素朴な味噌の匂いに加えて、塩鮭の匂いもする。
幸せなその匂いに反応するように、私のお腹が小さく鳴った。
ああ、朝だ。
私はそこで、本当に目を覚ましたのだった。
私が起き上がると、部屋を覗き込んできた母と目が合った。
「出来てるよ、あんたの分の朝ごはん!」
母は早口にそう言うと、忙しそうに部屋の入口から去っていった。私は一人頷いて、ベットから降り立つ。
今日休んでしまったなら、きっと明日もそれを引きずってしまうだろう。そうすれば、いつまでも友人との関係は気まずいままだ。そしていくら休んでも、英単語テストは消えてくれない。今日行けば、何かが変わるはず。どう変わるかは分からないが。
とにかく、行かなければ始まらないと、私は気付いたのだ。
「おはよう」
居間にいた父と弟に声を掛ける。談笑していた二人は私の方に振り返って、「おはよう」と私に笑いかけたのだった。
一日が始まる。
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ある日の朝の状景。 | ||
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