記憶喪失のパラドックス
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 雨。車の窓ガラスを叩く。音は小さい。それほど強くない雨だ。しんしんと降っている雨。その雨粒が無数にへばりつく車窓を視界に捉えた。今は夜だ。外はとても暗かった。それは分かった。だが、何故僕は車にいるのだろう。

「ようやく起きたか。大丈夫かよ」

 誰だ。聞きなれない声だ。焦点の合わない視界を声のした方向に向ける。そいつは運転しているようだった。

「ホントーに大丈夫? 貴方のおかげで死にかけたのよ」

「誰ですか、貴方達」

 少々言葉をきつくしてしまったが、仕方ない。よくよく車内を見てみれば、これは僕の車ではないか。何故か僕が後部座席で寝ていて、見知らぬ誰かが運転をしているのだ。ありえない。なにが起こったのだ。

「おいおい、今日会ってすぐに名乗っただろう」

「そーよ。あたしたち三人意気投合したでしょ」

 初対面であったのか。この男女とは。だが、僕がそんな簡単に気を許すだろうか。何かを成し遂げようとしていたのではなかったか。そんな感覚は頭にあるが、朧げである。ただ、それがあったというのは分かるが、内容は分からない。このジレンマから抜け出したい。

 しかし、それよりかは現状のほうが把握したい。

「忘れたようです。もう一度お願いします」

 二人は本当に大丈夫かというように、二人で顔を見合わせた後に、名乗った。

「俺は、カルフ」

「私は、白キャット」

「ふざけているのですか」

 そんな名前が本名なわけがない。

「なんだよ。ハンドルネームじゃ駄目っていうのか。本名を名乗れってか。結局一緒だろ。今日俺達は死ぬんだから」

 あまりにも突拍子がないことを聞いた。

「そうそう。そんなことを聞くのは野暮っていうのよ。私のこの腕の痕を見たでしょ。ようやく死ねるのよ。出血死って一人じゃ無理だって分かったわ。あまりの痛みに、死の壁を超えれずに切ることが出来ないんですもの。でも、貴方の提案してくれたこのやり方なら安心だわ」

 女はそう言って、僕に練炭を見せた。練炭自殺。その単語を僕の脳は記憶している。一酸化炭素中毒による自殺方法として有名。まさか、な。黙止して考える。こちらを不気味そうに見てくる白キャットと名乗った女はいないものとしよう。いたとしても現実の中だけだ。思考には邪魔だ。だから視界を閉じる。

 二人の言動から察するに、この二人がやろうとしているのは練炭自殺である。しかも集団での。そして男のハンドルネームという単語。ネットでの知り合いによる自殺オフだろうか。分からない。分からないのは現状ではない。

 ――何故、僕はこんなにも理解が早いのだ……?

 練炭を見ただけで即座に練炭と分かり、ハンドルネームと推測を立てただけで、現状が推測できてしまった。やはり、僕も自殺へと参加しようとしていたのか。いや、女の言動から考えると自殺方法を考えたのは僕であるから、企画したのも僕の可能性が高い。男と女にそれとなく聞いてみるしかないだろう。

「このオフ会を企画したのは僕でしたっけ?」

「はあ、本当に大丈夫か。ぼけてないだろうな。企画したのは全員だろ」

「そーそー。あたしが自殺したいなーって書き込んだら、あんたたちが募ったんでしょ。カルフは場所を、あなたは方法を、あたしはきっかけを作ったの。だから三人の合同企画。三人一緒にあの世行き。どう? 理解した?」

「ご丁寧にどうもありがとう。それで場所というのは?」

 口調も徐々にくだけた感じにしていこう。そのほうが何かと聞きだしやすい。

「定番中の定番、富士の樹海と言いたいところだが、無理だってのは説明しただろ? 都内から少し離れた山の中さ。ちなみに俺の地元だ。人通りが少ないのだとか、そういうのは調査済みだ。これに勝る自殺スポットはないぜ」

「おあつらえ向きね」

「ああ、調度良かったぜ」

 この二人が、自殺のことを念頭に置いているのは分かった。こいつらの語る以前の僕もそうであったようだ。だが、そうだったとしてもその通りに行動していいものか。それに今の僕には自殺を第一とする理由が分からない。というより、自殺したいと思わない。記憶が鮮明でないし、喪失しているのかもしれない。それとも、僕の脳があまりの恐怖に記憶を乱しているのか。

 その可能性も充分ある。もともと自殺というのは本能に反する行動だ。生きて種を残すのが生物の本質。それを覆してまで自殺したいと思うということはよっぽどの何かを抱えているのだろう。それが僕にあるのか……? 今の僕に。

「そこまであとどれぐらいで着きそうなんだ?」

「ざっと一時間ぐらいじゃねえの。それより体調は治ったのか。一緒に死ぬ予定なんだから、先に死なれちゃ困るんだぜ?」

「ああ……でもなんだか記憶が曖昧だ。どうして僕は気を失ってたんだ?」

「運転していたら、いきなり頭がいてえとか言い出したんだろ。夜だったから事故にはならなかったが、信号無視を何度かしたんだぜ」

「ねえーアクション映画の主役にでもなったかのような気分だったわ」

「……ああ、そうだったか。目的地に着くまでまた寝させてもらうよ」

 寝るというのは嘘だ。もう二人と会話をするのが嫌になった。以前の僕も、この二人と一緒の存在だったかと思うと寒気が走る。自分で考えることを投げ出すということだ。思考が消散するのは恐ろしくないのだ。自分の行く末、取り残される世界のことについては考えない。関係のないところへ行くからだろう。

 だが、それで良いのか。

 自分が生きたという証が残らない。成したものも何もなく、ただ無駄に生きただけで終わってしまう。歴史に名を残すような大仰なことをしようという訳ではない。自分が満足していないのに死ぬというのは、どうなのだ。生きた意味がないのではないか。何か満足をしてから死ぬものなら死にたい。

 陳腐な言葉だが、幸せを満喫したいのだ。今は不幸でもなく、幸せでもない。記憶が不安定なのだから、当然だ。自分の人間としての立ち位置、生活のリズム、血筋すら靄がかかったように分からない。生きる理由もないが、死ぬ理由もない。ならばこのような考える時間がずっと続くだけかもしれないが、これが途切れるよりかは途切れないほうがマシだ。

 不思議と恐れの感情はなかった。自分が自分で分からないという程のものではなく、記憶が不鮮明というだけで前の僕の根本がまだ残っているからだろうか。もしかしたら前の僕の記憶が蘇り、自殺を決心するかもしれない。

 自殺自体が悪いことではない、その行動に意義があるかないのかが問題なのだ。だから僕はあの二人を止めようとは思わないし、道連れにされたくはないと今は思っている。何かしらの、生きがい、死にがいを見つけ出せれば僕の道は定まったと言えるだろう。が、それは定まらない。

 こんな一時間という雀の涙程度の期間では、結論を出すことなど出来やしない。簡単な議論の末に現れた結論は、必ず見直す必要があるのだ。その見直すことが出来ない選択なのだから、時間をかける必要があるのは当然のこと。

 でもどうやって逃げ出せばいいのか。今は車で山へと向かっているところである。信号などで止まる時は当然のようにあるだろう。その時に車を降りればいいわけだが、降りたところであまり意味はない。彼らの中では三人で死ぬことに意義があるようだし、三人でないと出来ないのかもしれない。

 ということは、自殺を所望している彼らが難なく僕を逃がすという選択肢はないだろう。彼らにとっては逃がさないではなく、呼び覚ますという考えに近いかもしれないが、とにかく僕の認識と彼らの認識にはズレがある。

 そのズレが一度生じたら大抵戻らない。自分では歯止めが効かないものなのだ。僕は新たな自分が生じたおかげできっとそのズレが戻ったのだろう。偶然の産物だったのだろうか。分からない。ともかく、逃げる方法としてベストなのは、この二人が死んだ後に僕だけ生き延びて抜け出すことだろうか。

 しかし、それは逃げた後に問題が出てくる。文字通り見殺しである。法律としてどうなっているかは分からないが、自殺を助長したと捉えられてもおかしくない。というよりは、僕が二人を殺したと見て取るのが定石だろう。

 ならば、今逃げ出すのが吉……か?

 決断は出来ない。悩むのは悪いことではない。そのことについて、最良の結果をだそうと脳が働いている証拠なのだから。彼らのように思考放棄をして投げ出すよりも、よっぽど人間らしく、醜く生きている。綺麗な死に方よりも、醜く這いつくばって生きるほうが人間に合っている。前者は、人間の粋を外れた者しか選ばない。

 ともあれ、どうするかだ。

 彼ら二人から逃げるには、二人揃っていたら厳しいものがある。とはいえ、僕が逃げるなどという考えは彼らの中にはきっと存在しないだろうから、不意をつくことは確実に出来る。どこで逃げるべきか。軽く窓から外を眺めてみる。先ほどと変わらぬ雨が降っていて相変わらず外の景色は見辛い。山の中に入って灯りが消えれば、どこに行ったか把握することは出来ないだろう。ならばその時がベストか。しかし自分が逃げた後に周りを確認できるライトがない。携帯電話を僕は持っていないだろうか。

 スボンのポケットをまさぐってみると、確かにそこには携帯電話があった。急いで、しかし落ち着いて取り出す。電話は光っていなかった。電池切れという考えが浮かんだが、電源が入っていないかもしれない。一心不乱に電源ボタンを押し続けた。しかし、点かない。電池切れのようだった。どうにか点かないものだろうか。考えを巡らす。

 そうだ。ポータブル充電器というものがある。それを僕は持っていないだろうか。ポケットをまた漁ってみるが、出てきたのは適度の紙幣と小銭だけであった。

 携帯は使えない。ライト代わりにすることは出来ない。どうするべきか……。いや、まだ携帯は使える可能性が残っている。この二人が充電器を持っているならば、借りればいいのだ。まだ彼らとは共同に行動をしている仲間という立ち位置である。本心でどう思っていようが彼らは分からない。ならば持ってさえいれば貸してくれるはずだ。しかし、もし無かったら……。

「なあ」

「……ん、どうした」

「いや、なかなか寝付けなくて。携帯を開いてみたんだけど、電池切れなんだ。充電器とか持ってないか」

「いんや、俺はもってねえな。あんたはどうだ」

「アタシー? フツー持ってるわけないでしょ。そんな都合よくねえ。まあ確認してみるけどさあ。あ、あった。使うんでしょ。どーせいらないからあげる」

「あ、ありがとう」

 僕のさっき考えていた不安は水泡と化した。なんて運が良いのだろう。これで楽々彼らから逃れることが出来る。貰った矢先に僕は携帯へと接続した。ピコンという電子音とともに赤いランプが灯る。充電を開始したのだろう。これで逃走の安定化は図れる。しかし、先程も考えたように、山道を通ることになるだろう。山の中に入っていくときにどんな木々があるか軽く見ていったほうが良さそうだ。その山に生えている木というのは大抵似たようなものがほとんどだ。枝が多い木か、少ない木かは重要となるだろう。高いところに生えている枝は問題ないが、低いところにまで降りてきている枝、折れた枝などは邪魔となる。出来れば細い木々が連なるよりかは大きな木が連なっていてくれたほうが、間を通り抜けやすく良いのだが……それは運否天賦に任せるしかないだろう。ともあれ、これで何をするかは定まった。

 ただの生存するための行為だ。本能も味方をしてくれることだろう。では残った時間に何をするべきだろうか。逃げる時まで体力を温存するために寝るという選択肢は、ない。寝起きはもっとも行動の動作が遅い時であるし、そのまま練炭自殺を行っていたというのではあまりにも馬鹿らしい。自分の意識を手放すという選択肢は絶対に避けないといけない行為だ。僕の第六感もそう告げている。

 この意思を手放すということは、すなわち死であると。常に考え最良を選択する。

 まず練炭はあの女の下にある。そして練炭自殺の現場となるのはこの車であろうが、それは現在、男の支配下にあり不可能。この二つを奪うことは放棄する。それに伴う代償の大きさは計り知れない。

 では他に出来ることはないか。自分の服装は夏らしく軽装である。暑さよりも今は木々をすり抜けるときの擦り傷などを考慮したい。傷などどうでも良いのだが、痛覚があるので反応が鈍る可能性がある。それを排除するべく何か出来ないものだろうか。車の荷台には何もないようであった。

 いや、よく見ると荷台の中には黒いシートを被ったものがある。そこで二人のほうを振り返る。女は携帯を、男は前を見てしっかりと車を操縦しているようである。この車は僕の車である。それを何故だか理解している。だから、あいつらがもしこちらを振り向いたとしても言い訳がつくだろう。僕はこのシートをめくってみることにした。

 そう決断はしたものの、なんだか嫌な予感がする。見てはいけないものが隠されているのではないか。その考えが固定され、頭をつかみ離さない。シートを掴む手が自分の脳を掴んでいるようにさえ感じる。どうしたのか。いつの間にか、手は揺れていた。ぶるぶると震え、力が入らなくなる。いつの間にかシートを掴む手は離れ、頭を掴まれているような感覚も消えていた。鼓動の速度も跳ね上がっている。

 頭ではそれをしないといけないと思っている。だが、体は思うように動かない。なんだろうこの矛盾は。やめたほうがよいのか。しかし、やめる理由は分からずに、ここで止めるというのも後味が悪く、どうしようもなく気分が悪い。なんとでもして、めくらねばならないだろう。

 シートは掴んでいる。腕を動かすことが出来ないのならばと、掴んだまま体を捻らせた。狭い車内でそんなことをすれば当然のようにあちこちを強打することになったが、そんな痛みは問題にすらならない。多少なりとも音がなってしまっただろうが、二人にそれに気づいた気配はないようだ。そして僕は右手を見る。しっかりと黒いシートを掴んでいた。

 やった……! 訳のわからない呪縛にかかったような心地だったが、方法を変えただけで出来ないことをすることが出来た。謎の現象ではあったが、問題はない。シートをたたんで、脇のほうへと置いておく。僕はその黒いシートをかぶっていたものを見ることにした。

 ガムテープ。それは確かにガムテープの集まりであった。間違いはなく、言葉通りである。その横に使われなかったのか、新品のガムテープが何本か積まれていた。目を離さずにはいられなかった。

 ――ガムテープに包まれた人の形をした何か。僅かに走る既視感。この光景と似たものを見たことがあったのか。本当にそうかは分からない。ただ、記憶としてあるわけではないのだ。

 ――だから、こんなものを見るのが二度目ということはありえない。

 おかしなことだ。紛れも無い現実世界で、夢のようなことが起こっている。ありえないことが起きている現実を、否定することは愚行である。予測不可能な出来事が起こったということは、それをも凌駕する何かかが起こるのも可能性の内である。だから、なにが起こってもありえるものとして考えるべきだったのだ。どんなに理不尽なことが起こったとしても。動揺せずに最良を尽くすべしだ。

 例えばこの二人が山に行く前に止まり、急に自殺を図る。そのようなことを含めて想定すべきである。この自分の記憶、思考、行動に発生するパラドックス。その原因解明もいずれは行うべきだ。だが優先順位としては後であることに変わりはない。徐々に何をすべきかが浮き彫りとなってくる。その通りに行動するだけだ。それ以外はする必要はない。無駄なことはしなくていい。

 とりあえずは、これが人間であるかどうかである。彼らに聞くべきか。分からない。彼らはこれについて知らないのかもしれない。なぜならこれは僕の車であるから。それは分かる。なのに、なぜ記憶がないのか。悪魔の手のひらの上で踊らされているような感覚。

 記憶を失っているのが作為的に起こされたものではないかと思ってしまう。今の僕を誰かが監視していて嘲笑っているのではないか。確かにそうであったほうがおかしくはないかもしれない。こんなの偶然にしては出来過ぎだ。しかし、偶然であろうが起きているものを取り消すことはできない。良いだろう。これが罠だとしても僕は乗り越えてみせる。

 まだ二人はこちらの行動に気づいた様子はない。感触で確かめてみよう。ちょうど頭のような部分が近くにある。そこを小突いてみた。硬い。それは確かに硬く、頭蓋骨を連想させてくれるに充分なものだった。これがやわらかくて、全くの別物であったのならどれだけよかったろう。いや、こんな精神状態では腐った死体かもと考えるのが妥当だったか。いや、それなら匂いが充満して気づくだろう。つまり硬くなければよかったのだ。なのに、硬く、骨。骨なのか。僕にこれを引き剥がすことは出来ようか。あれだけ黒いシートを取るのさえ躊躇った僕が。

 とてもじゃない。無理だろう。これ以上はあの二人にも気づかれるかもしれないし、この存在を知ったからといって、僕がどうこう出来るわけじゃない。もしだ。もし以前の僕が、もし殺人という大罪を犯していたとしても、それは僕じゃない。記憶がないのだから今の僕には関係ないのだ。忘れるべきだ、こんなことは。逃げることを考えるべきだ。

 そう考えた矢先に、的外れな音声を捉えた。

「そろそろ山に入っていくぜ」

「やっとー? 長すぎるわ、ホント」

 もうそんなとこまで来ていたのか……。

 一瞬の迷いも生じたが、このまま車に乗り続けることにする。時が進むのを早く感じる。辛いときほど時は長く感じ、楽しんでいる時ほど短く感じるというが、それは逆の時も当然のように存在することを認識した。どうしようもないぐらいにパニック状態に陥っているときが、最も時間のスピードが早い。ああ、それもそうだ。正常に考えられない時間のほうが長く感じられるなんてありえない。走馬灯なんてあるわけがない。

 ここからは横になっているわけにもいかないだろう。このままでは足に力が入らないし、血流も促進されない。常態になり、呼吸を整える。できることなら、準備体操となるものが出来ればいいのだが、そんなものは出来ない。動作で怪しまれないように足をマッサージする程度だ。

「それで、ここからどのぐらいかかるわけ?」

「山まで来ちまえばすぐだよ。そんなに標高が高いわけでもねえ。十分ぐらいだろ。分かれ道があってな。閉鎖されてるほうを突き破っていく」

「はあ? ってことは獣道みたいなとこをすすむの?」

「獣道ほどひどくはないさ、土で固定されてるだろ。多少はな。まあ落ち葉とか小枝とか石とかそういうのはゴロゴロ転がってるかもな。まあ快適なドライブとはいかないだろうぜ。ひひひ」

「楽しそうに言うもんじゃないっての。それで、アンタはもう起きて大丈夫なわけ?」

 こちらを見ながら問いかけてくる。

「ああ、大丈夫みたいだ。これからは安らかに眠れるんだしね。できるだけ苦しみなく眠るようにして死にたいさ」

 あいつらの調子にわざわざ合わせる必要もなかったかもしれないが、ここは合わせておいたほうがいいと判断した。疑われるよりは信用させておくほうが良い。

「そ。ならいいけど。そーいえば確認してなかったけど、アンタ、ガムテープはちゃんと持ってきてるんでしょうね?」

 ガムテープ? 当然のように持ち歩いているわけなどない。しかし、ガムテープはあの死体に……。いや、その横に新品のものが何個か積まれていたか? ああ、そうだ。間違いない。確かにあの死体の横にはあった。これは僕の車だ。僕が積んできたのだ。あのガムテープを。……死体も?

 きっとそうだろう。ここまで状況証拠が成り立っているのだ。否定するほうがおかしい。狂っている。ハハハ、笑うしか無いだろう。怪訝そうな顔でこちらを見てくる女がいるが、気にしない。自殺を逃げたとしても、僕は列記とした殺人者。精神鑑定によってこの記憶喪失が認められれば良いが、正直に言ってしまったら、荷台に積んである死体の殺人については大丈夫だとしても、この自殺現場を放置したということになり、捉え方によっては死体遺棄。殺人の助長に捉えられる。いや、僕の車であるから、殺人を犯した後に死体遺棄をしようとし、それを邪魔されたために他二名を殺人というあらすじに仕立て上げられるかもしれない。

 それは間違いだ。しかし、偶然が重なりすぎてこちらのほうが狂言に聞こえてしまう人間もいるだろう。きっと難航する。難航した結果、どちらに転ぶかは運である。運否天賦に身を任せないといけないことになるとは。

「ねえ、聞いてんの? ちゃんと用意してあるんでしょ?」

「ああ、あるさ。あるとも」

 僕は後ろの荷台から、あれを見ないようにして新品のガムテープを掴んだ。それを女に見せる。

「他にもあるんでしょ? 一個じゃ足りないかもしれないし、効率も悪いからたくさん持ってくるように言っておいたし」

「あるよ。安心しろって」

 後ろに積んであった新品のガムテープを全てこちらに持ってくる。それを確認したのか、女はもう興味なさげな視線をこちらに投げると、携帯へと視線を落としていた。僕の携帯は充電されているだろうか。持ったままのガムテープを横に置き、携帯を確認してみる。なんとか電池は戻っているようだが、ここは電波がきっと悪いだろう。必要となるまでは電源を切っておいたほうが良さそうだ。

 必要となるまで? 頭が回っていなかった。ガムテープは何に使うのだ? 何かと何かを繋ぎ合わせるもの。蓋をするもの。そうだ。車は密閉されているわけではない。エアコンの通気口やドアの一部に隙間は存在する。密室でなくては、練炭自殺は完璧に遂行されるとは言い難いだろう。そのためにガムテープで封じるわけか。そうに違いない。

 逃げ出すときの妨げとなるか? それが問題だ。ガムテープは三本はある。一人一本として今の配置のまま近くにあるところを封鎖することになるだろう。ということは僕が後部座席を担当することになるはずだ。片方のドアをガムテープで止めたふりをして実は止まっていないようにしておくべきだろうか。それともきっちり密閉して問題のないようにした上で、力技でおしのけるべきか。考えたが、無駄な労力を使わなくてもすむ前者を選ぶことにした。もしミスを指摘されたとしても間違いをすぐに認めて貼り直せばいいのだ。こうすれば、デメリットなしで行動できる。

「この辺でどうだ」

 車を止めると男は同意を求めてきた。

「いいんじゃない? 完全に森の中でしょこれ。山だから森かは知らないけど」

 道なき道を進むと思っていたから、だいぶマシだ。考えながらも位置情報の取得は怠っていない。ここから車を出てさっき通ってきた道を逆走したのちに、木々の中へと突っ込んでいく。獣がいる可能性はたぶん低い。いたとしても野うさぎ程度だと思われる。熊などの大型の動物が出現する場合は、どこかしかに看板や注意書きが記されているものだ。それが山に入るときには見当たらなかった。可能性という憶測ではあるが、起こってないことは全て未知数ともいう。たとい熊が出現するような山でも僕が出会わなければこの山に熊はいなかったということなのだ。

「いいんじゃないかな」

「それじゃ、覚悟というか、いいよな?」

「いいわよ。ちゃっちゃと準備しましょ。ガムテープ貸して」

 僕は黙って女にガムテープを二つ渡した。

「はい、アンタも。そっちのドアを止めたあとは、エアコンの風が出るとことかもよろしく」

「あいよ」

「で、アンタは後部座席の窓二つと、荷台のほうをお願いね」

「外に出てやれってことか」

 これは思ってもみないことだった。この二人に怪しまれずに外に出られることができる。それにあいつらはガムテープを貼っているのに夢中で、僕が何をやっているか気づかないかもしれない。どうしようか。いや、やはり駄目だ。パッと後ろを向いたときに僕が逃げる姿が映ってしまったらそれだけで終わりだ。やはりこの二人が死んでから逃げるというのが一番良い。会話の途中だが、考えて黙りこくってしまった。

「なーにー? 怖いわけぇ? ライト代わりに携帯でも使えばいいじゃない。あ、まだ充電できてない系なの?」

「ああ、そうなんだ。何か代わりのものはないかな」

「私も携帯ぐらいしかないわよ。そっちなんかないわけ」

「俺も悪いが、もってねえよ。だいたいそんな重装備で来るわけねえだろ」

「じゃあ、私の携帯かしてあげるわ。画面を見るなっていうのは無理だと思うけど、できるだけ見ないでやって。電話とかが、かかってきてもでなければいいから」

「ありがとう。使わせてもらうよ」

 女から携帯を受け取る。女の口調から察するように、チャラチャラしたような携帯かと思いきや、まだ真新しい携帯であった。とにかく急ぐべきである。携帯にライト機能はついていなかったようなので、携帯を開き液晶画面のあかりだけでなんとかガムテープをつけていく。液晶画面の光が途絶える。ボタンを一度押してまたつけるという作業。単調な作業は簡単だからこそ、ミスをしやすい。携帯が明るいままであるのに、ボタンを押してしまった。慌てて画面を見ると、通話中の文字。そして非通知という文字。切ろうとも思ったが、自分のものではなくどうしようかと悩んだ。とにかくこちらから声は発さずに聞いてみることにした。耳に携帯を近づける。しかし、すぐにそれは止めた。もうすでに声が聞こえてきたからだ。

 醜い罵声。もう充分だった。内容は金のことだ。それだけで想像するのに容易い。これ以上は知る必要もない。偶然知ったということに留めておくためにも。

 それからは無心でガムテープを貼っていた。女にはいずれ気づかれるだろうが、わざわざ自分から伝えるほどのことではない。女もそう望んでいるはずだ。だからそれについて考えるのは止めた。ただ、生きがいをなくしたから死ぬしかないという人間もいることを改めて知らされただけだった。

 無気力。これはまずい思考だ。やるせなさを感じさせる。僕は必死に自殺を止めようとはしないで来ていた。それは見殺しであるのに、殺しではないと考えていた。それは本当にそうなのか。駄目だ。振りはらえ。女にはそれしか道が残されていないのだ。それに、もう決心を決めている。僕も女もだ。忘れろ。

「……ふう」

 深呼吸。車へと戻る。急いだおかげか、まだ後部座席のガムテープは付けられていない。これで、自分でつけることが出来るだろう。女に携帯を渡した。女は簡単に携帯を操作していたようだが、僕が電話に出たことに気づいたかどうかは分からない。ともかく、もうどうでもよさそうであった。

 ドアの片方はしっかりと空気が漏れないように貼付け、上から抑えつけておいた。もう片方は、貼ったように見せかけるだけだ。抑えつけずに中に浮いたような状態のものと、しっかりと貼りつけてあっても、ドアとつながっていないように貼っておいた。これで逃げるときはスムーズに逃げられるはずだ。どうやら前の二人は難航しているようだった。エアコンの出てくる位置は足元もあるようで、それを封じるのに苦労を要しているようだった。ともかく、これで万全だ。

「ようやく終わったわ。それじゃアンタらもいいわね?」

「ああ」

「……ああ」

「それじゃ配るわ。即効性の睡眠薬ね。一応言っとくけど。カルフが練炭を炊くから、もうアタシらは飲んでもいいけど、念のため最後まで見守りましょ。いいわね」

「分かったよ」

「じゃあ、俺は練炭を炊くぞ」

 男が練炭を炊いている間に僕は携帯の電源を入れて確かめることにした。そろそろ点けておかなくては逃げる時手間になるだろうと思ったからだ。問題なく起動した。そして、メールが届いていた。二人の動きを観察するに、まだ時間はあるようだった。そのメールを見ることにした。

『それは俺の体だ。早く返せ、死んでやる。お前が殺したんだ。俺は殺していない。お前が俺の意識を殺すからこんなことになったんだ。恐怖しろ。そして戰け。自分自身を忘れろ。混乱しろ。そうやって意識を無くせ。俺の体だ。お前は誰でもない。存在しない。頭を割れ。記憶を消せ。人格を返せ。お前がいたせいで、俺は勝手に損をする。道理に合わない。お前の存在が。お前もろとも消え去ってやる……』

 文面はまだ続いていた。が、無理だ。割れる。頭蓋骨が薄いガラスで出来ているようだ。眼球は琥珀。固まる。動かない。頭を支える手から、頭に亀裂が走っていくような。そんな錯覚。

「……大丈夫アンタ。ねえ、ちょっと、ダブル、ねえダブルってば」

 ダブル? ああ、僕のハンドルネームか。そうだろう。皮肉めいている。僕の存在を否定しているのに、二重とは。駄目だ。消え去りそうだ。どの道、僕に生き残る術は残されていなかったのかもしれない。生きれば罪人であることはまごう事無き事実だ。助からない。棺桶に片足を突っ込んだような状態で僕は居たのだ。しかし、棺に入る前に地面が裂け、そこに落下する。ああ、救われない。救われる価値などないからだ。そうして僕の記憶は沈み、切り替わった。

 

説明
 記憶喪失によって引き起こされる相互矛盾。
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