空色の傘(セニア他)
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 それが床に落ちていることに、最初に気づいたのはセニアだった。

 穏やかな日常が一転して血の惨劇になったその日、集団でやってきた侵入者達の強さはここに住む彼らの手に負えるレベルではなく、まるで嵐のように彼らを薙ぎ払い、そして三階への道へと進んでいったのだ。

 急ぎ三階へと敵の襲来を伝令に走ったトリスの背を見送るセニアの視線が、ふと床に落ちた。

 穢れの紅い海に一点、場違いに浮いた存在。血の様な緋色の絨毯に転がっていたそれは、遠目には空色の水溜りに見えた。

 いつもなら侵入者が落としていったものに、特に興味は惹かれない。せいぜい新しい武具によって皆の戦闘力が上がることくらいだ。

 にもかかわらず、今日に限って強烈に──あの空色に惹かれた。

 背中に受けた太刀傷もそのままに、セニアは血が溢れ流る左足を引きずりながら空色に近づく。

 水溜りなどではなく、それは空色の傘だった。

 こんなところに何故傘があるのだろう。先ほどの侵入者の誰かがたまたま持っていて落としていったのか。理由はわからないが、その傘は確かにセニアの眼前に存在していた。

 血で汚れた自分の手が触れていいのか暫し逡巡し、悩んだ挙句セニアは恐る恐る傘へと手を伸ばす。

「……たい」

 真新しい空色の傘を手にしたセニアの喉奥から、言葉が零れ落ちた。

 差してみたい。

 この建物から出ることの出来ない身では、到底無理な願いと判っている。

 それでも。

 この傘で、天から落ちてくる雫を──雨を浴びてみたい。

 微かに指先を震わせながら傘の柄をそっと掴んだセニアに、いつの間にか隣にいたアルマイアから声がかけられた。 

「セニア、呆けてないで早くイレンドのヒールを受けといでよ。自分じゃ気づいてないかもしれないけど、あんたの怪我、背中も足も結構酷いんだからさ」

「……ああ、すまないアルマイア」

「心配してるのは、別にアタシだけじゃないさ」

 みてごらん、と言われるままに振り返ると、この場にいないトリス以外のメンバーがセニアに向けて心配のまなざしを向け──特に癒し手であるイレンドの目は険しさすら帯びていた。

「判ったろ?」

 肩をすくめたアルマイアの瞳が、さっさと治癒を受けて休めと言っている。無理するなと口が動いているのはラウレル、泣き虫のカヴァクはすっかり涙目になっていて、イレンドは自身の怪我も厭わずこちらに歩いてくる。

「セニア、じっとしててね」

 どうみても怒っているイレンドの瞳にセニアは若干たじろいだが、イレンドの腕も相当の怪我を負っているのに気づいて首を横に振った。

「イレンド。お前も怪我をしてるだろう、私よりもお前の傷を」

「セニアが先」

 有無を言わせぬ迫力で言葉を遮られ、セニアは口ごもる。イレンドは普段至極温厚な気立てなのだが、言うべきことはしっかり言う。それも大抵筋が通っているから、反論できない。

 イレンドの腕から滴り落ちる血が気になったが、ここはおとなしく言うことを聞いておくべきと判断したセニアは、その場にしゃがんでイレンドのヒールを受けた。

 片膝をついてイレンドがセニアに癒しをかける。温かい光がセニアの体を幾度となく包み込んだ。

 その間も、セニアは掴んだ傘の柄を離さずにいた。一度手にしてしまうと、今度は手を離すのが惜しく感じる。何故そんな風に思うのか、イレンドの治療を受けている間セニアはずっと自問していた。

「はい、傷は大体塞がったよ。でもヒールじゃ体力は回復できないからね、ちゃんと休むこと。ここじゃいつまた敵と遭遇するかわからないから、なるべく早く居住区域に移動しよう」

 安堵の表情に疲れの色を滲ませたイレンドが額に浮かんだ汗を拭いながら立ち上がり、しゃがんでいるセニアを見下ろして頷く。

 相当のSPを消費させたらしく、イレンドは肩で息をしている。それだけセニアの負った傷が深く酷かったのだと物語っていた。

「すまない、イレンド。本来ならば真っ先に私がそう提案してしかるべきを……」

「怪我をすれば思考も鈍るよ。こういう時なんだから、少しくらい人に責任を預けたっていいと思うよ」

 仲間なんだから、と穏やかに微笑んだイレンドが今度はカヴァクのところへ行き、ヒールをかけていく。

 責任──それを負うのはセニアにとってアイデンティティであり誇りだ。だがそれゆえに仲間同士助け合うという考えを失念しがちだった。

 リーダーという役割は牽引力も大事だが、かといってワンマンではいけないのだと、三階に住まう兄分である騎士、セイレンに言われたことを思い出す。

 セニアには、セイレンの言が正しいと判っている。でも仲間が傷つくことの方が耐えられないし、リーダーとして仲間の安全を確保する責任を負っていたいのだ。

「さ、立てるかいセニア。イレンドの言うとおり、さっさと移動しよう。三階に行ったトリスも部屋に戻ってるかもしれないしね」

「そうだな」

「ところでセニア、それは?」

「ああ……そこに落ちていたんだ」 

 ゆっくりと立ち上がったセニアは、怪訝そうに傘を覗き込んでいるアルマイアに頷く。手渡して見せても良かったのだが、なんとなく持ったままでいたかったセニアは傘を見せるようにアルマイアの眼前へ軽く掲げた。

「わあ、傘だ! 傘だよね、それ」

「カヴァク、まだヒールの途中なんだからおとなしくしてて」

「傘なあ。セニアが剣以外のモンを拾うなんて珍しいな。ま、俺も杖か短剣以外興味ないが」

「えー。でもラウレル、こないだカタール拾ってなかったー?」

「ばっ……カヴァクお前余計なこと覚えてんじゃねえよ」

「痛いっ。殴んなくったっていいじゃないかあ」

 男子三人のやりとりを眺めて呆れ顔をしているアルマイアがやれやれと肩をすくめていた。

 さっきまで死闘を繰り広げていたはずなのだが、この三人の会話を聞いていると漫才というかコントを見ているような気がして気持ちが和む。ささくれ立っていた心が和らいだ所為か、セニアの中に若干余裕が生まれた。

 ぎゅっと強く傘の柄を握り、くるりと皆を見回してから一呼吸置いて、セニアは口を開く。

「皆。この傘なんだが……私が持っていても構わないだろうか」

「別に構わないんじゃない?」

「うん、いいよー」

「トリスが傘なんて欲しがるとは思えないし、俺も別にいいぜ」

 イレンド、カヴァク、ラウレルがそれぞれセニアの問いかけに同意して首肯する。

「アルマイア、お前は?」

「アタシは別にいらないし、欲しいなら持っていきなよ」

 トリスの意見はまだだが、とりあえずこの場にいる全員に承諾を得られたセニアはほっと胸をなでおろし、水色の傘を抱きしめるように胸へ抱えた。

 

 

 

 血を洗い落としてから自室へと戻ったセニアは濡れた髪の水分をタオルで吸い取りながらベッドへ腰掛けた。

 サイドデスクに立てかけていた傘をそっと手繰り寄せ、おもむろに開く。

 小さな音を立てて開いた傘は、柄や各所についていた血は綺麗に拭われていて、雲ひとつ浮かんでいない晴天のようだった。

 そのままベッドに寝転んだセニアは、自身の頭部に被るように傘を置く。するとセニアの視界に空色が広がった。

 何故なのだろう。

 今もってその理由はわからない。

 ただ──安心する。

 いくらシャワーを浴びても落ちることのなかった血の匂いが薄れていくような気がする。

 見たことないはずの景色が心の上澄みに浮かんではおぼろげに消えていく。

 どんな敵を倒しても、仲間が傷ついても、自身が傷ついても涙を見せなかったセニアの頬に一筋の雫が伝う。

「空色の世界に降る雨は、何色をしているのだろうな」

 視界を空色に染めてくれる傘。

 きっと他の色では意味がなく、空色だったからこそ欲しかったのだと──心が凪いでいく不思議な感覚の中、セニアはそれだけを理解した。

説明
ラグナロクオンラインの生体工学研究所のお話。前作の似たもの兄妹(http://www.tinami.com/view/288715)となんとなく繋がってたりなかったり。
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