痕跡。
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 彼女はある時、視界の端に黒い影のようなものが走ったような感覚に囚われた。

 それはなにやら強いめまいを伴い、思わずたたらを踏んだ彼女はその場に立ち尽くした。

 めまいはすぐに収まり、彼女は黒い影の正体を探して辺りを見回すが、すでに違和感はどこにもない。

 きっと行き交う人々の多さに酔って、変な錯覚でも起こしたのだろう。彼女はそう思うことにして、その日はまっすぐ家に帰ることにした。

 ところがその日以来、彼女は事あるごとに黒い影を視界の端に発見し、めまいを覚えるようになった。

 これは何か悪い病気なのではないかと、病院をたらいまわしにされてまでも検査したが、身体的にも精神的にも異常はみつからない。

 彼女は学生の時に運動部で体を鍛えていたし、過密な労働をしているわけでもない。また私生活では結婚を考えるほど仲睦まじい恋人がいた。仕事もうまくいっている。

 どこにも翳りがない彼女の人生において、突然の黒い影と目眩の襲来は、それ自体がたちまち大きな不安となってしまった。

 まず、場所と時を選ばない。例えば家の中で。浴室の中で。会社のデスクで。路上で。公園で。食事をしている時。仕事をしている時。いつでも襲ってきた。

 何度かめまいの所為で危険な目にも遭った。

 しかも襲来の頻度は増し、黒い影も長いこと視界に留まるようになっていった。こうなると気丈に普段の生活を続けていた彼女も、さすがに参ってきてしまう。

 貯金を叩いて高名な医師の診断を受けるも、やはり目には何の異常もなく、精神的疲れによるものではないか、という結果だった。

 彼女は精神的な疲れが出る前から症状が出ていることを知っているので、その結果に落胆してしまい、それからは何もかもがうまくいかなくなっていった。

 頻繁に黒い影―― それが人影であることに、彼女はようやく気付いたのであるが―― に脅かされるようになった彼女は仕事もままならなくなり、部屋に引き籠るようになった。恋人とも会わなくなってしまったし、そもそも人と会うことすらもなくなっていった。

 健康を害し、精神はますます尖った。些細な物音でも驚くようになり、彼女は半ば狂人のようになってしまったのである。

 そこでいよいよ出張ってきた彼女の両親が、医者の次に、人づてに聞きだした霊能者のところに彼女を連れていくことにした。病気とは違うのだったら、もはや現実的解法ではどうにもできないと考えたのだろう。

 彼女は父親の運転する車に乗せられ、母親に抱きかかえられて霊能者の自宅へと向かった。霊能者は壮年の男性で、彼女の顔を見るなり申し訳なさそうな顔をして頭を振る。両親はその所作を見ただけで、内蔵をそっくり悪魔にでも握られたかのような絶望感に苛まれた。

「これは、わたしではどうにもなりません」

「そんな、どうにかならないんですか?」

 父親が喰い下がるが、霊能者はただ首を振る。

「娘さんは、たしかに病気や事故でこうなってしまわれたのではないでしょう。そればかりはわかります。しかし、かといってわたしの手に負えるものではなさそうで――」

 霊能者はそこでいったん言葉を切り、彼女の瞳を遠目で覗きこんだ。

「娘さんに見えているものには、わたしたちは関与できないでしょう。それは力の有無の問題でもないのです。本来なら、彼女にも見えてはいけないものなのです。しかし、何かのきっかけ≠ナ見えるようになってしまった」

 霊能者が説明しあぐねていることは、彼女の両親にもわかっていた。彼の眼は必死になにかを掴もうとしているものの、それが結局どうにもならないと知って諦めている。

「こう言っては何ですが…… いえ、やめておきましょう。お力になれませんで申しわけない。せっかく御足労いただいたというのに」

「そんな……」

「申し訳ない。お引き取り下さい」

 散々頭を下げ、奥に引っ込んでしまった霊能者にそぞろな礼を言うと、両親は仕方なく彼女を連れて家に帰った。

 結局なんの解決もしていない。彼女の瞳はうつろなままで、誰にも見えないものを追っている。

 両親は顔を見合わせ、途方に暮れた。もう娘を救う手立てはないのかもしれない。二人の間に、重苦しい沈黙がわだかまっていた。

 それからは、どこの誰を訪ねても原因不明ということだけが告げられるばかりで、なんの収穫もないことが続いた。何度も何度も繰り返し、気の遠くなるような労力と相応の時間が失われた。

 そのころになると彼女は明確な妄言が増え、突然暴れ出すことも多くなっていた。

 両親はその姿に憐れみと愛情を持って接したが、それも限界に近づくにつれ、まず母親の方がノイローゼ気味になってしまった。

 父は他に留守を預けることが出来る人間もいなかったので、正気だったころに娘が使っていたマンションの一室に彼女を押し込むと、一日だけ気分転換にと母を連れて公園に散歩をしに出掛けた。

 心配になってほんの小一時間だけ空けて帰っていくと、なにやらマンションの前に人だかりが出来ている。悪い予感がして人をかきわければ、ちょうど誰かが救急車に運び込まれるところだった。

 路上には血の花が咲いている。漂ってくる鉄の香りに顔を青くしながら、父親はそばに居た救急隊員の袖を引いた。

「すみません、いったいなにが」

「え、ああ―― 人が上から飛び降りたんですよ。あなた、もしかしてこのマンションに住んでいる方?」

 救急隊員は少し鬱陶しそうな顔をした。あまりに血相を変えて聞かれたから答えたものの、父親のことは野次馬くらいに思っているらしい。

「あの、もしかして落ちたのは―― 若い娘ですか?」

「はい、その通りですが。まさか」

 救急隊員が何か言いかける前に、父親は母親を支えていた腕を離し、半ば飛びかかるようにして救急車に乗り込んでいった。支えを失った母親は路上にへたり込み、すぐ先に見える血痕をずっと見つめている。

 救急車からは、救急隊員の怒声と、父親の鳴き声の混じった叫び声が聴こえて来る。落ちたのは彼女だった――

 

 空白の一時間の間に、彼女はノートに手記を残していた。

 以下は、その内容である。

 

 

 わたしは十六回目の痕跡である。

 わたしはわたしとしてこの文字列を残すべきではないとわかっているし、まったくの無駄だということも知っている。

 だけれど、知った喜びがあるから書く。書かせてほしい。

 わたしに見えているのは、十五番目の痕跡である。

 彼女は会社にいっている。うまくいっている。

 彼女は、彼女が彼女として知らないことを、きちんと知っていない。

 おそらく、わたしが外れてしまったばかりに、本来消されるべき痕跡が残ったのだ。

 なにがきっかけかはわからない。ただ、十六番目であるわたしによって消されるべき十五番目が、そうされなかったことによって真実を見せた。

 世界はもうすぐ終わるものと思う。ぐるぐるぐるぐる廻っているから、終わるものと思う。

 終わるきっかけなどなんでもよろしい。誰にも予想が出来ない気まぐれさで、唐突に世界は終わる。ニンゲンはあまりに厚顔過ぎた。

 もう終わるのだから、それを知ってるわたしが長らえる必要もなかろう。

 おそらく、十七番目の痕跡は、彼女としてではなくわたしとして、世界の終わりを経験しないだろう。わたしがしないからだ。させないからだ。

 正しさなどということは、勝手に考えて。どうせもう時間などない。終わる時には終わる。終わる(以下、判読不能になるまで「終わる。」の羅列)

 

 

 本当に間違いない。我が子は狂っていたのだ。

 両親はその手記を部屋で発見した時、二人で抱き合ってさめざめと泣いた。

 たしかに終わったのだ。娘のいない世界など、もう終わったも同然だ。

 夫婦は泣き続けた。涙が出なくなるまで泣き続けた。

 

 それから、彼女が死んでから四日と少し経って、世界は滅亡した。

 

 

 

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