少女の航跡 短編集05「彼女の事情」-1 |
西域大陸の中立国家として、または同時に教皇領としての役割も果たす、山岳地帯の国
家、『セルティオン』。
その王都である《リベルタ・ドール》は、難攻不落の都市として、長年に渡って他国からの侵
略を受けずにいた。しかし、『ディオクレアヌ革命軍』によって、半月ばかりその支配下を、ディ
オクレアヌ・オッティラに譲るという出来事が起きたばかりだった。
『セルティオン』は難攻不落であり、決して侵略されない。その壁は、城の壁であり、教皇と同
時に国王をも務める、エドガー・セルティオン13世の、教皇としての壁があるからだ。
皆がそう思っていたのだ。
革命軍の侵略は、一時のものだったとはいえ、皆に恐怖を持たせた。『セルティオン』という中
立国家であっても侵略を受ける事もあり、占領される事もあるのだと。
革命軍の侵略の恐怖も抜けきらない、そのわずか一ヵ月後の出来事。
『リキテインブルグ』の『フェティーネ騎士団』団長を務める女騎士、カテリーナ・フォルトゥーナ
によって、革命軍の最大の脅威であった巨大生物の『リヴァイアサン』が打ち倒された直後、
《リベルタ・ドール》からは、ものの数刻の内に、ほとんどの革命軍兵士が消え去った。
革命軍の兵士は、所詮はゴブリン無勢だったが、負けたら逃げるという意識はあったらしい。
もちろん、革命軍全ての1割程度にも満たなかったが、ゴブリン兵は捕えられた。しかしそれ
だけではなく、革命軍の残党兵が、未だに《リベルタ・ドール》を襲ってくる事もあったのだ。
今日もまた、《リベルタ・ドール城》の警鐘が鳴り響く。
人々も寝静まった深夜、《リベルタ・ドール城》が俄かに騒がしくなっていた。侵入者などに対
し、警戒させるための警鐘だったが、今はゴブリン兵に対しての警戒に使われているようなも
のだった。
ゴブリン兵は神出鬼没で小柄なので、なかなか兵士に発見されにくい。それどころか、彼らは
平気で塀をよじ登る事もできる。城壁など簡単に乗り越えられてしまうのだ。
だが、一体一体の力は人間よりも非力なので、たった数体のゴブリンにより、城が落とされる
ような事はあり得ないのだが。
「ゴブリンだッ! ゴブリン共が侵入したぞ!」
「とっとと、ひっ捕らえろ」
城の夜警の兵士達が、慌ててゴブリン達を探し出そうとしている。ゴブリンはどんなに狭い隙
間にも入るし、天井にだってへばりつく。兵士達にとっては、ネズミよりも探し出すのが面倒だ
った。
まして、相手は凶器で奇襲をかけてくるかもしれない。
何体のゴブリンが潜入したのかも分からないまま、《リベルタ・ドール城》の兵士達は、ゴブリ
ンを追い詰めようとしていた。
『ディオクレアヌ革命軍』の襲撃を受けても、城内は酷い略奪を受けたりはしていなかった。
廊下に置かれている置物も、そのままの状態で残されていた。以前と変わらない城内を、兵士
達はゴブリンを追い詰めようと付き進んで行く。
3人の兵士達がゴブリンを追い詰め、バルコニーの方へと追い詰めていく。
「どうやら、気配からしても一匹みたいだぞ」
一人の兵士が言った。
「どうせ、腹を空かして、晩飯の残り物を狙ったに違いない」
そう言いつつ、兵士はバルコニーにいる一匹のゴブリンを見つけた。彼らは槍を構え、ゴブリ
ンを追い詰める。
そのゴブリンは、唖然とした様子で兵士達の姿を見上げた。とても無防備な姿である。そのゴ
ブリンは腰に短剣を吊るしていたが、それだけで革命軍としての武装をしていなかった。
「やれやれ、こいつをどうしてやろうか。煮るなり焼くなりして、二度と、侵入できないようにして
やろうか」
一人の兵士が言った。
「まさか、な。城への侵入罪は死罪に決まっているだろう。それが、例え、こそ泥だろうと、何だ
ろうと、な」
そう言った兵士は槍を構える。
ゴブリンは、まるでその槍が、武器としてはおろか、何のために使うものなのか分からないと
いった様子で見上げていた。
「じゃあなッ!」
そう言い放ち、兵士は、ゴブリンへと槍を振り下ろす。しかしその時、槍を振り下ろした兵士
の背後から、何者かが襲いかかるのだった。
うめき声を上げ、槍を振り下ろそうとした兵士は、突き飛ばされる。
「何だ? 何だ? 何が出た?」
慌てた兵士は背後を振り返るが、彼らの背後には何もいなかった。
しかし、振り返った兵士達は、次の瞬間、後ろに強い衝撃を感じ、その場に倒れこむしかなか
った。
ゴブリンを追跡してきて、一体次の瞬間に何が起こっていたのか、分かることも無く兵士達は
気絶させられていた。
その後、夜はいつもと変わらずに過ぎていった。
「何? 何者かに襲われたが、何も見えなかった、だと?」
翌朝、《リベルタ・ドール城》の廊下に声が響き渡っていた。その声の主は、『セルティオン』の
近衛騎士団団長、ルッジェーロ・カッセラート・ランベルディのものだった。
「は、はい…。でも、素早く動く何者かが、ゴブリンと共にいたのは、確かだそうです…」
と、ルッジェーロに昨晩起きた出来事を報告していたのは、《リベルタ・ドール》の警備団長だ
った。彼は若いルッジェーロとは違って、かなり年配の男だ。だが、彼よりも身分も兵士として
の階級も低いため、ルッジェーロに対しては上官に従う部下として振舞わなくてはならない。
一方のルッジェーロは、近衛騎士としての、純白の装束に身を包んでいる。汚れ一つ無いよ
うなマントと、長身の彼自身の体躯は見事に似合っていた。さらに銀髪と、凛とした表情も合わ
せれば、まさに騎士の鏡だった。
「それで、その襲われた兵士達は、怪我をしているのか?」
ルッジェーロは警備団長にただそれだけ尋ねた。
「いえ…、いわゆる当身を食らわせられて気絶していただけのようで…、もしかしたら、城に忍
び込んだ賊の輩の仕業かもしれませんぞ…」
警備団長は意気込んで言った。
「だが、ゴブリンは当身など使えんぞ…。賊の輩が、当身なんていう紳士的な方法を使うとは思
えないがな…」
「どちらにしろ、エドガー王の身辺の警備はより一層強化する必要があると言えます。例えゴブ
リン一匹であろうと、エドガー王に近付くような事があれば、お命を奪われる事になりかねない」
「あ、ああ…、よろしくな…」
警備団長は、ますます意気込んでそう言ったのだが、ルッジェーロは、何かを考え込んでい
る様子で、曖昧な返事しか返さなかった。
「それでは、失礼します」
警備団長は敬礼の姿勢を取って、その場から立ち去っていく。彼が立ち去ってしまうと、城内
のその廊下にいるのは、ルッジェーロただ一人となっていた。
そんなルッジェーロは、ふと顔を上げる。そして、誰もいないはずの廊下で、まるで誰かがそ
こにいるかのように声を出すのだった。
「いるのは分かっているんだぜ、メリア。警備団長はもう行った。出てきても良いんだぜ」
と、廊下に声が響く。すると、ルッジェーロの背後の壁のほぼ天井に近い位置から答えの声
が戻って来た。
「こんにちは。ルッジェーロ…」
声のした方向をルッジェーロは振り向く。そこにいたのは、緑色のフードを被った若い女だっ
た。
「お前も、無用心にこの城の中に忍び込まないほうがいい…。革命軍の残党の奴らが今でもこ
の城を狙ってきている。城は厳戒態勢だ。見知らぬ人間がいればすぐに分かるしひっ捕らえら
れる」
ルッジェーロがそう言うと、メリアは少し笑った。
「あら、その点なら大丈夫じゃあなくて? こうして、誰にもバレないように、こっそりと忍び込ん
できてあげているんだから」
悪戯っぽく言ったメリアは、壁の天井付近から床へと飛び降りた。軽やかな動きたった。並み
の人間にはそんな高さから飛び降りる事などできないだろう。
「そういう事を言っているんじゃあない。俺とこうして会話しているだけでも、お前は結構危険な
事をしているんだぞ…」
飛び降りたメリアに、ルッジェーロは言い放つ。周囲を再度見回し、廊下には誰もいないとい
う事を確認する。
「今に…、始まった事じゃあないでしょ…」
メリアは悪戯っぽい笑みを浮かべながらルッジェーロに近付いた。
「お前の目当ては、この城には無いだろう…。だったらこの城の中に来るべきではないはずだ」
と、ルッジェーロはメリアに言いうのだが、すると彼女は少し顔をしかめた。
「何言っているのよ。あたしの目的はここにしっかりとあるじゃあない。あなた自身。そう、あた
しは、今度はあなたを盗んでいくのよ」
そう言ってメリアはルッジェーロに一歩歩み寄る。
メリアの言葉にルッジェーロはうろたえた。
「ちょっと待て、お前とはもう終わったはずだ。別れ方は確かに悪かったかもしれないが、俺は
盗賊のお前とは付き合う事はできないぞ…。『セルティオン』の近衛騎士団長であるこの俺が、
盗賊の女と付き合っていたら…」
そうルッジェーロが言っても、メリアはルッジェーロに一歩近付く。
「へええ…。でもね、あたしは、あなたのそんな所が好きなのよ…。だから、こうして来たの。あ
なたが、あの女の子をもっと好きになるよりも前に、ね…」
メリアはルッジェーロを壁際まで追い詰め、更に迫った。
「はああ…? カ、カテリーナの事を言っているのか? お前…? あいつとは、お前よりも長
い付き合いなんだよ…。だからな…」
「ふふふ…。でも、あたしの正体を知っているのは、あなただけよ…」
そう言って、メリアは被っていたフードを脱いだ。
カテリーナよりも一段と大人っぽく、また女らしさも持っているメリア。盗賊の女にしては、かな
り魅力的だ。いや、彼女は自分自身のその魅力さえも武器にしてしまう。危うくルッジェーロも、
その魅力の虜にされそうになったのだ。
「悪いな…。俺は、お前とは付き合えない。例え、近衛騎士をやっていなくても、な。もう、お前
に理性まで盗られたりはしないからな…」
ルッジェーロは、メリアを押し戻した。
しかし彼女は怒るような素振りも見せずに言う。
「この街が危機になった時は、一緒に戦ってあげたでしょう? 盗賊としてではなく、あなたの目
と耳になって働いてあげたわ」
「この街を守ろうって気持ちは、お前も一緒だろう?」
と、ルッジェーロ。
「ええ、そうね。でもね、私は、この街だけではなく、あなたも守りたかった、ただそれだけの事
よ」
メリアは、更にルッジェーロに迫ろうとしたが、彼はそれを振り切った。
「ああ、そうかよ。だが、幾ら誘っても、駄目だ。俺には、もっと大きなものを守る使命がある。
愛よりも、大勢の人の命を優先するっていうのが騎士のする事だ」
ルッジェーロは毅然とした様子で言った。かつて、メリアに誘惑されたときは、まだ自分が若く
未熟だったからだ。今の自分にはそんなことは無い。
「じゃあ、私への愛が、そのまま大勢の人の命を救うかもしれない事になったら、あなたはどう
するの?」
ルッジェーロは、もうメリアの事など放っておこうかとも思ったが、彼女の一言で、背後を振り
向く。
「どう言う事だ? 何を言いたい?」
「こっちへいらっしゃい」
メリアは城の廊下のバルコニーに呼びかけた。すると、バルコニーの死角から、のろのろとし
た様子で、一匹のゴブリンがやって来る。
ルッジェーロは少し驚かされた。
「な、こいつ、ゴブリンか…? 革命軍のッ?」
うろたえるルッジェーロ。革命軍のゴブリンが、また一匹、城の中に乗り込んできたとでも言う
のか。
しかし、ゴブリン一匹程度ならば、この場で斬り捨てる事もできる。ルッジェーロは腰に帯びた
剣を抜き放とうとした。だがそれを、
「やめて。この子は、革命軍のゴブリンじゃあないのよ。いえいえ、元、革命軍ではあるんだけ
れどもねえ…」
メリアがそのゴブリンを庇うようにして立ち塞がった。
「何? どういう事だ?」
すでに剣の柄へと手をかけていたルッジェーロは、そのままの姿勢でメリアに尋ねる。
「この子は、革命軍の部隊とははぐれてしまった子、なのよ。この街の外でうろうろしていた所
を私が見つけてあげたの…」
「じゃ…、じゃあ、そいつも革命軍の一員だろう? ただ、はぐれているってだけで…」
だが、メリアは、
「でもね。この子と話したんだけれども、
ある日、突然、見知らぬにんげんがこの子の村にやって来て、食べ物を沢山と寝る所をやる
から、俺の言う事に従えって言ったら、一斉にそいつに従ったそうなのよ。確かにそのにんげ
んは、村のゴブリン全てに、食べきれないほどの食べ物を与えて、住む所までくれたそうよ。た
だ、代わりに武器を与えて、にんげん達を襲ってくるように命令もしたそうだわ。それで、この子
達の村のゴブリン達は、皆、一斉にこの《リベルタ・ドール》を攻めてきたってわけ」
その説明を、ルッジェーロは、黙って聞いていた。
「なるほど、それが、ディオクレアヌらしいやり方ってわけだな。食べ物をやれば、ゴブリンは黙
って従う。扱いやすい奴らを大量に味方に付けたというわけか? だが、そのゴブリンもそんな
命令に従っている奴らの、一員という事に変わりは無い…」
ルッジェーロは、更に剣を引き抜こうとしていた。
「まだ説明が途中よ。村の大半のゴブリン達が、そのにんげん、多分ディオクレアヌの奴に付
き従っちゃったけれども、中には気の乗らない大人しいゴブリンもいたそうなの。そんなゴブリ
ン達は、いつ、作られた部隊を抜け出そうかって考えていたんですって。そんな時、この街への
襲撃命令が出て、そんな襲撃も、今ではこのありさま。この子達の村の部隊もちりじりになって
しまったというわけ」
メリアがそう説明している間に、彼女の腰の高さほどしか身長の無いゴブリンが、ますます彼
女の後ろに隠れる形となった。
「できすぎた話じゃあないか? それって」
と言ったものの、ルッジェーロはすでに剣を鞘の中へと納めていた。
「ゴブリンが、こんなに回りくどい作り話を作ると思うの?」
「さあ、しないとも限らないが…。どっちにしろお前も、そのゴブリンも、この城の中にいてはい
けない存在には変わらないだろ…」
「ただ、大切な話を、この子から聞いたからね…」
と、メリアが言いかけたときだった。
城の廊下の向こう側から、足音が聞えてきていたのだ。多分、やって来るのはこの城の警備
兵だろう。そう察したルッジェーロは、素早くメリア達に言った。
「おい! お前達、さっさと隠れた方がいいぜ…! こんな所を他の連中に見られたりしたら
…!」
そうルッジェーロが言い終わる前に、ゴブリンは、ルッジェーロのマントの中へと潜り込んでし
まっていた。さらに、メリアも、ある行動に移っていた。
「やれやれ、俺のマントの中に隠れるって言うのか…」
しぶしぶながらもルッジェーロは、自分のマントの中にゴブリン達を隠す事になった。
足音の主達が、廊下の向こう側からやって来て、ルッジェーロの前に姿を見せた。
「ルッジェーロ様! ご無事ですか!」
何やら慌てた様子で、兵士達がルッジェーロの元へと駆けてくる。その慌てぶりから、何かが
起こったのだろうと、ルッジェーロはすぐに察した。
「何だ? どうした? 騒々しいぞ」
少し苛立った様子でルッジェーロは答えた。さっさとこの兵士達を追い払いたかったからだ。
「も、申し訳ございません。ですが、曲者がこちらに侵入してきた姿を見たものがいましたので」
「曲者、どんな奴だ?」
また面倒な事になってきたと思いつつ、ルッジェーロは尋ねる。
「はッ! 緑色のフードを被った、小柄な者だったそうで…、ゴブリンとは違います。ですが、間
違いなく間者かと」
やれやれ、メリアの事じゃあないか。と思いつつも、ルッジェーロは知らぬ振りをした。
「知らないな。だが、よく探しておけ」
ルッジェーロは、自分よりも年上の兵士に対しても、そのように言い放ち、言われた兵士達は
敬礼の姿勢を取ると、そそくさと、ルッジェーロの脇を走り抜けて行った。
彼らが行ってしまうのを見届けると、
「これで分かっただろう? 俺はお前の味方じゃあないんだぜ…。さっさとこの城から出て行くこ
とだ」
すると、ルッジェーロの閉じられたマントの裾に、こじんまりとした塊が現れ、それがマントから
抜け出してくる。
「なあ、メリア?」
マントから抜け出してきたのは、一匹の茶色い毛並みの猫だった。だが、ただの猫ではな
い。髪飾りのようなものを頭に着け、体には緑色のフードつきの服を着ている。ただの猫で無
いという事は、誰から見ても明らかだ。
その猫は、ルッジェーロの方を見上げ、口を開いた。
「あらあら、今は助けてくれたじゃあない?」
猫はそう喋った。人の言葉をしっかりと介した。
「隠してやっただけさ。お前がもし人間の大きさだったら、俺のマントの中にゴブリンと一緒に隠
してやる事なんてできなかったぞ」
猫に引き続いて、ゴブリンがルッジェーロのマントから抜け出してくる。
「それに、だ。大切な話っていうのを、まだ聞いていなかったんでな」
と、ルッジェーロが言うと、目の前の猫は喋りだす。
「そうだったわね。『ディオクレアヌ革命軍』は、《リベルタ・ドール》の次の目標を既に定めてい
たの。これは、そのゴブリンの子から聞いた話よ」
とメリアが言うと、一緒についてきたゴブリンは、拍子抜けたかのような唸り声を上げた。
「目標だと…? 革命軍はもう壊滅状態なんじゃあないのか?」
と、ルッジェーロは猫に尋ねる。
「そんなこと、一体誰が決めたのよ? その子の話じゃあ、《リベルタ・ドール》を襲った部隊な
んて、ほんの一部だそうよ。別の部隊が合流して、今度は、《ハルピュイア》を襲って、海の道
を確保するのが革命軍の狙いらしいわ」
「何、それは本当なのか?」
またゴブリンが少し唸る。
「《ハルピュイア》を奪ってしまえば、『リキテインブルグ』の交易の大半を断つ事ができるし、海
を通じて、どんどん西域大陸の海岸を襲うことができるわね」
「そ、それは…、一大事じゃあないか…! いつ起こるんだ? 早く『リキテインブルグ』にこの
事を伝えないと…!」
と、落ち着きを失うルッジェーロだったが、足元の猫は落ち着いた口調で、
「そうかもねえ…。だから、あなたにこの事を早く伝えてあげたかったのよ。昨日は邪魔が入っ
ちゃってね」
猫は、そのまま背を向けて、ルッジェーロの前から立ち去ろうとする。しかし、
「待て、メリア。お前が、何の見返りも無しに俺に情報を渡すとはどういう魂胆だ? お前は情
報を渡す見返りを、いつも求めるだろう?」
猫は足を止めて、ゴブリンと共にルッジェーロの方を振り向いた。
「もちろん、あるわよ」
猫は悪戯っぽい笑みを浮かべた。猫であっても、人間にもはっきりと分かる表情の変化だっ
た
「ほう…。前払い主義のお前が、後払いなのか?」
「うーん。そうねえ、この情報は、私があなたに与える事で、私にとって有利になる情報だって
言ったらどうかしら?」
「はあ? どういう事なんだ?」
目の前の猫を見下ろして尋ねる。
「そろそろ、私も帰りたいのよ。帰るべきところに」
猫はそれだけ答えた。
「もっと、分かるように言えよ。《ハルピュイア》にお前の実家でもあるって言うのか?」
「いえいえ、そんなんじゃあなくって、私達種族の産まれた所に帰りたいって言っているのよ。私
達だけじゃあない、あなた達人間も、ゴブリンも、あらゆる亜人種も産まれたっていう誕生の地
にね…」
ルッジェーロは、猫のいった言葉をしばし考えた挙句、
「そんな話を、おとぎ話か何かで聞いた事があるぜ。セーラの教典にも確かにある…。俺達、
生き物は、この西域大陸じゃあない、どこかの地で産まれたんだって話をな…。だが、お前、そ
んなあるかどうかも分からない場所を目指すのか?」
「この子が、教えてくれたのよ」
猫は、ゴブリンの方を見上げて言った。
「このゴブリンが、伝説にしか登場しない地を知っているっていうのか?」
ルッジェーロが見たゴブリンは、間の抜けたような顔をしていて、逆に何を考えているのかも
良く分からない。
「ええ、知っているのよ。ゴブリンのおとぎ話でね」
猫は平然とそう言ってのけるのだった。
「はあ? 何だ。それじゃあこういう事か? お前はゴブリンのおとぎ話で、その帰るべき所って
いうのを知って、しかもそこを目指そうって言うのか?」
ルッジェーロは呆れて見せた。
「確たる証拠は無いけれども、人間には分からない直感と言うものが私達にはあるのよ。確か
な確信が、私達をその地まで帰そうって言う気にさせるのね」
「そこの所は良く分からないが、まあ良い。《ハルピュイア》の事は警戒しておこう。それがお前
に協力するという意味ではないにしろ、だ」
すると、猫は笑って見せたようだった。
「それでこそ、あなたよ…。また、《ハルピュイア》に行くよりも前に、会いに来るからね」
猫はそう言って、《リベルタ・ドール城》の廊下をゴブリンと一緒に駆けて行った。
ルッジェーロは、人の姿に化ける事ができる猫の女と、ゴブリンが行ってしまうまで、ずっとそ
の後姿を見つめているのだった。
メリア達が《リベルタ・ドール城》を訪れた晩。ルッジェーロは、一人、城内の自室に篭ってい
た。
夜警や、エドガー王の夜の護衛は部下に任せている。夜は自室に篭り、何か特別な事があ
る以外は国王の護衛の任務に戻ったりはしない。
だがルッジェーロは今晩に限り、メリアの言葉が気に掛かっていた。
あの、人の姿に化ける事ができる猫の目と耳、そして盗賊の仲間同士の情報網は、ルッジェ
ーロが想像している以上に広い。もしかしたら、どんな国の間者でも彼女達の情報力と行動力
は叶わないかもしれない。
実際、ルッジェーロ自身も、メリアという女には、一度騙されそうになったのだ。
メリアが自分を誘惑し、秘密の関係を築き上げ、それが終わるというその時まで、ルッジェー
ロもメリアの正体を知らなかったのだから。
あの女が、人ではないと知った時は、産まれて初めて、度肝というものを抜かれたものだ。
メリアは、『セルティオン』王家に伝わる財宝を盗みに来たらしい。それは、王族を除けば、ル
ッジェーロなど高位の騎士にあるような者しか在り処を知らない。
だからルッジェーロを誘惑し、メリアはこの世界で唯一無二の財宝を狙っていたのだ。
もちろんルッジェーロはメリアの正体を知ってしまった以上、彼女にこれ以上城に近寄るよう
な真似はさせなかったし、関係も崩れた。
メリアは、王族の秘宝を狙ったのだ。そんな賊は捕えられ次第、吊るし首が当然だろう。
だが同時にルッジェーロとメリアの関係も周囲にばれる事になる。『セルティオン』の近衛騎
士ともあろう者が、盗賊の女に惑わされ、危うく、王族の秘宝を盗まれそうになった。とでもなれ
ば、ルッジェーロ自身の立場はおろか、ランベルディ家の何も大きな傷が付く。
ルッジェーロはメリアを遠ざけたし、彼女自身もそんな事を噂に流すつもりも無いようだった。
だがそれ以来、ルッジェーロはメリアを常に見逃さなければならなくなっていたし、いつまた彼
女に王族の秘宝が狙われるか分かったものではない。
しかも、ルッジェーロとメリアとの関係は、何も二人の間だけでの秘密で済むという訳には行
かなかったのだ。
「ねえ? ルッジェーロ、いる?」
ルッジェーロの部屋の外から、声が聞えて来る。また小さな少女の声。それはルッジェーロも
良く知っている声だった。
やれやれとため息をつき、ルッジェーロは、部屋の扉を開けて見せた。
そこにいたのは、頭が尖った帽子を被り、紫色の装束を身に纏った、年の頃10歳ほどの童
女だった。
「何だ? フレアーか? 何の用事だ?」
メリアの事もあって、ルッジェーロは少し参っていた。明日ならば、せめて一眠りした明日なら
ば、もっとまともに会話できると思いつつも、ルッジェーロはフレアーを部屋の中へと招き入れ
た。
とんがり帽子を被った少女は、部屋の中へと入りつつルッジェーロに尋ねる。
「ねえ? 明日、《ハルピュイア》に発つって本当なの?」
フレアーは、その大きな目と瞳を使ってルッジェーロに尋ねて来る。彼女の瞳は、大きい上
に、独特の緑色をしていて、まるで吸い込まれていきそうな気分になる。
それは、魔法使いという種族の大きな特徴だった。人間の童女と変わらない姿をしている
が、特徴的な装束とその瞳で誰にでも魔法使いの種族は明らかだった。
「ルッジェーロ? どうしたの?」
フレアーは再び尋ねて来た。
「いや、気にするな。ああ、旅立つ。明日にな。それよりも、シルアはどうした?」
フレアーの側にいつもいる彼女の使い魔の姿が見えない。
「あの子ならとっくに寝たよ。喋ることはできるけど猫だからさ。良く寝るの」
ルッジェーロはフレアーの瞳を長いこと見ていられず目線を離した。
「どうして? どうして、近衛騎士団の団長様ともあろう人が、自らそんな情報に飛びついて《ハ
ルピュイア》まで行こうとするの?」
フレアーは逃げたルッジェーロの目線を追いかけて再び尋ねた。
「見逃せない情報だからさ。それも、俺自身が掴んだんだぜ…。エドガー王の護衛に関しては
部下が幾らでもいるんだから安心してな」
だがフレアーはルッジェーロの表情から、すぐに読み取った。
「メリアに、言われたんでしょ?」
「う…、何故分かるんだ?」
フレアーの感情の陰りを感じ、ルッジェーロは振り向いた。
「どうせそんな事だろうと思っていたもん。でも、あの人とはいい加減別れてよ!」
メリアとの関係を知っているのは、このフレアーだけだ。彼女は外部に2人の関係を漏らすよ
うなことはしなかったが、一つだけフレアーに知られてはまずい事があった。
「今回が、最期だって。これ以上はあいつのいう事なんて聞かないからよ…」
と、ルッジェーロは言うのだったが、
「あたしを、お嫁に貰ってくれるっていう約束はどうなったの!」
フレアーの声が《リベルタ・ドール城》の廊下に響き渡った。慌ててルッジェーロはフレアーを
制止する。
彼女を部屋の中へと招きいれ、扉を閉めた。
「わ、分かっているって。メリアは、近々、《ハルピュイア》から別の大陸に向って旅立つんだ。こ
れで満足だろ?」
「ふううん。じゃあ、あたし達の関係も回復ね」
とフレアーは言った。ルッジェーロは、何年も前からフレアーにお嫁に貰ってくれとしつこく言
われてしまっている。
『セルティオン』王家にとって、魔法使いは重宝される存在だ。『セルティオン』は教皇領として
の機能も果たしており、魔法使いは相反する関係だと見なす国もある。だが、彼女達魔法使い
は、精霊と通じ合える、人間には無い能力を持っている。
『セルティオン』が教皇領である限り、精霊と通じ合え、同時に自然とも通じ合える者達という
ものはいなくてはならない。
だから、『セルティオン』における、フレアーの身分はかなり高いのだ。
代々、『セルティオン』王家の近衛騎士団を組織して、実際にそれを統括してきてもいるランベ
ルディ候の、正当な継承者であるルッジェーロ。決して身分に差があるものではない。
王に近いといえば、むしろフレアーの方が身分が上かもしれない。フレアーを嫁に貰うという事
は、ランベルディ家でも、不思議な事ではないだろう。
だが、ルッジェーロはフレアーが他の魔法使い達と同じように、誰の目でも見ても分かる特徴
を持っていたから、どうしても乗り気にならないのだった。
「ねえ? この前、あなたはカテリーナと話していた時、結婚の申し出をしたでしょう?」
フレアーは、そう言った事を話すときに、何のためらいも見せないし、恥じらいもないようだっ
た。見た目もそうだが、性格もかなり子供っぽい。
「あ、ああ…」
「ずうっと、最近、色々な事があったから、あたし、そんな事なんて忘れていたんだけどね…」
そう、フレアーは、子供のような姿にしか見えないのだ。彼女の場合、性格もかなり子供っぽ
いから、余計にそう見えてしまう。だが実際の所は、フレアーの年齢はルッジェーロよりも上だ
し、ルッジェーロは子供の頃から、フレアーの事を知っていた。
フレアーにお嫁に貰って欲しいと言われたのは、ちょうどルッジェーロが、今のフレアーと同じ
ぐらいの容姿の、10歳くらいの時だった。それ以来、15年間もずっと詰め寄られているが、ず
っと、結婚ができる年齢まで、と避けてきたのだった。
突然、フレアーはルッジェーロに近付いてきて、いきなり何をするかと思えば、頬を打ってくる
ではないか。
魔力が高まるとかいう手袋をしたままの、フレアーの手で頬を打たれると乾いた音がした。
「もうッ! 何度も浮気しないでって言っているのに! まだメリアの事とか忘れられないの!」
突然、フレアーは甲高い声を上げてルッジェーロに言い放つ。隣の部屋にまで聞えてしまい
そうな勢いだ。
「だがな、フレアー、お前はまだ…」
しかしそれは言ってはならない言葉だった。
「あたし、あたしが、まだ? あのねえ! あたしこれでももう成人なんだよ? 魔法使いなんだ
から、子供っぽく見えるのは仕方が無いの! そんなに、あたしよりも、あのカテリーナとかメリ
アの方がいいの?」
「い、いや…、そういう訳じゃあ…」
何かを言おうとしたルッジェーロだが、その先に出てきそうな言葉も、フレアーの感情を逆撫
でしそうだったので止めた。
「カテリーナならまだ分かるよ。あんなに格好良くて、しかもあんなに綺麗な娘に、男が憧れな
いわけがないものね。あのカテリーナと結婚するのならば、あたしも喜んで応援するし、あたし
は、親戚のスペクターにでもお嫁にもらってもらうから」
「おいおい…」
まるで、お嫁に貰ってもらうという事が、女にとってどういう事か、分かっていない子供のよう
な口ぶりだな、とルッジェーロは思う。フレアーだって大人なんだから、お嫁にもらおうという事
がどういう事かは分かっているだろうに。
「いいわよ…」
と、一呼吸置いた後、フレアーが呟く。
「ああ、何だよ?」
ルッジェーロは、振り返ってフレアーに尋ねた。フレアーの小さな手で頬を叩かれたとはい
え、まだ痛みが残っている。
「明日、あなたと一緒に、あたしも《ハルピュイア》に行くから」
そのフレアーの言葉にルッジェーロは少し驚かされる。
「な、何だよ、急に、お前…」
「本当にメリアが、《ハルピュイア》から別の大陸に行っちゃうかどうか、しっかりと見届けておき
たいの。そうすれば私も納得することができるから」
はっきりとした口調でフレアーは言った。やれやれとルッジェーロは思う。
フレアーは年齢的にはルッジェーロよりも年上だが、性格は見たとおりの子供そのものだっ
たから、頭が混乱しそうになる。
だからルッジェーロは、子供をあやすかのようにフレアーに接してきたが、そうするとフレアー
は逆に怒り出すのだ。
「お前、そんなに俺が信用できないのか?」
ルッジェーロはフレアーの目を見て尋ねる。
「うん。信用できない」
フレアーにきっぱりと言われてしまうルッジェーロだった。
「じゃあ、いいよ、付いて来いよ。それでお前が満足できるのならばな…」
しぶしぶ納得するルッジェーロだった。
これでいよいよ面倒な事になってきたようだ。
一方、《リベルタ・ドール》近隣の山の中では、盗賊のメリアと、一匹のゴブリンが炎を囲って
いた。
メリアは盗賊だが、一匹狼だった。人ではない、人の姿に化けることが出来るだけの猫だっ
たせいもあってか、集団行動は苦手で、もっぱら、種族独自の特性を生かして、一人で活動す
る事が性に合っているらしい。
それはメリア自身もはっきりと認めている事だった。
「メリア様ぁ〜」
大分のんびりとした声で、共に炎を囲っているゴブリンが尋ねて来た。ゴブリンの言葉は人間
には理解できないが、メリアは理解することが出来た。それは今のように人の姿をしている時
のメリアでもはっきりと理解することが出来る。
メリアは、ゴブリンだけではない、犬や猫といった、種族が近い動物の言葉だったら理解し、
話す事もできた。
「はいはい、どうしたのよ?」
メリアは、のんびりとした口調のゴブリンとは対照的に、はきはきとした素早い口調で尋ね
る。
そんな彼女の言葉がゴブリンの頭の中で理解できるまでは、いつも数呼吸の時間がかかる
のだった。
「メリア様は、おいら達のおとぎ話にある、始まりの地っていうところを、目指すんですよね
〜?」
ゴブリンはのっそりとした声で言った。はぐれたこのゴブリンを拾ってからと言うもの、メリアは
まるで主人でもあるかのように慕われているのだった。
「ええ、そうね。あんたが付いてくる必要は無いけれどもね」
メリアは念を押して言った。ゴブリンなんかが付いてこれる旅とは思えなかったからだ。
「メリア様は、そこに行くために、船に乗るっておっしゃっていました〜。でも、そこは、おいら達
が、ディオクレアヌ様に言われて、襲う街にあるんですよね〜?」
ゴブリンが一言言うのには、人間の2〜3倍の時間がかかる。だが、メリアははっきりとその
言葉を聞き取ってから答えた。
「ええ、そうね。確かにその通り。でも安心して、今朝会った男なら何とかしてくれる」
だがゴブリンは、
「メリア様の言う事なら間違いありません〜。でも、おいらは、またおいらの仲間と会う事になる
かもしれません〜」
なるほど、このゴブリンは、自分の仲間と出会ってしまうのが嫌なのだな。とメリアはすぐに理
解した。彼はずんぐりとした体をしていて、口調ものろのろとしていたが、確かに、臆病な性格
ではあるのだ。
「わたしが船を確保するまで、あんたはあたしの後ろにでも隠れていなさい。そうすれば、誰に
も顔を見られはしないわよ。船に乗って海に出てしまえばそれでいいんだから」
「はい〜、ありがとうございます〜」
ゴブリンの顔が、炎の先に揺らいでいる。
このゴブリンは、自分の事をどう思っているのだろうとメリアは思った。人間の姿をしているけ
れども、猫の姿をする事もできる自分。一匹狼の自分を、このゴブリンは、似たようなはみ出し
者と思っているのだろうか?
ゴブリンは、餌付けをしてみれば、関係が無かった時と比べては驚くほど従順になるという。
海賊の中には、ゴブリンを労働力と使っている所もあるという話だ。
メリアは、確かに自分の食べる物をこのゴブリンに分けてやってきた。だが不思議だった。こ
のゴブリンは、餌付けとかそういったものを超えたような信頼を、自分に持っているような気が
してならないのだ。
説明 | ||
少女の航跡の番外編物語。今回は、騎士ルッジェーロと、魔法少女フレアー。そして盗賊の女、メリアから、彼女がルッジェーロに王国襲撃の情報を伝えに来たところから物語が始まります。 |
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