Dragon_Eyes (後編) |
3.
深夜まで二人は事件と作戦について語り合い、少しのまどろみを手に入れたリュウは、いつもの時間に目を覚ました。
普段ならリュウがいくらゆすぶっても起きないボッシュの姿は、もう部屋にはない。
朝早くにボッシュが出て行ったことを知っていたリュウは、そのときも声をかけず、まどろみながら背中でその気配を聞いていた。
一人で黙々と身支度し、基地へと向かったリュウに、いつもとは違う命令が待っていた。
「リュウ1/8192、今朝は特別出頭命令が出ている。すぐ隊長室へ。」
「はい。」
ロッカーの奥の、なじんだ武器に手をのばす。
剣をわずかに引き出して、くもりのない輝きとコンディションを確かめる。
隊長室へ足を向けると、いつものデスクに腰を下ろしたゼノ隊長と、そのわきに立つ今回の事件の指揮官クロウシュ1/128が、リュウを待っていた。
「リュウ1/8192、早くからご苦労。
今日、お前には特別任務についてもらう。クロウシュから説明がある。」
「はい、隊長。」
「リュウ1/8192、本日、レンジャー襲撃事件の特務捜査にお前が選ばれた。
発信機・盗聴器をつけて、普段のようにパトロールに出るように。
ファーストの射撃手が常に警護に当たるので、身の安全は保障される。
しばらくパートナーは、別の者と組むことになる、そのつもりで。
…ところで、ボッシュ1/64から報告のあった、ディスクは持っているか?」
「はい。」
リュウは、体をねじって、腰の後ろの革ポーチから、ミニディスクを見せた。
「オリジナルデータは?」
「これが、オリジナルです。コピーはボッシュから提出されましたか。」
「確認した。
オリジナル、あるいはコピーの場所を、誰かに話したか。」
「いいえ。」
「もらすなよ。装備と任務詳細の指示を与える、武器室で待て。
ほかに、わからないことは?」
「いいえ、ありません。」
「…今回の任務は、一種のおとり捜査になる。」
ゼノが両手を前に組み、静かに話しかける。
クロウシュは、理解できない、という目で隊長の方を振り返った。
「覚悟がいるぞ、リュウ。」
「はい。」
リュウは敬意を込めて、かかとを鳴らし、ゼノに敬礼を返した。
隊長室を出て向かった武器室で、指示を待つ間、同じ新米サードの同僚のエリーが、リュウの支度を手伝った。
エリーは、同じサードでも、リュウたちのようにパトロールに出たりしない、機械・技術系を担当する捜査官として訓練を受けている。
ジャケットと薄いセーターを脱がされて、上半身裸になったリュウの胸元に、肌色のテープで盗聴器を取り付けていく。
いつもなら同世代の異性に触れることに気恥ずかしさを感じるエリーも、今日は内気さを押し殺して、真剣に集中し、真正面を向いて仕事に取り組んでいるようだ。
「どう? どこか引っ張れたり、違和感はある?」
リュウは手を左右に動かしてみた。
「いや、気にならないよ。」
「右手を下ろして、体の横を指で叩いてみて。」
リュウは、エリーの指示に従った。右手を下ろし、人差し指で体のわきをトントンと叩く。
細くてまっすぐな長い髪をかきあげて、大きなヘッドホンの片方を耳に押し当てていたエリーが、ほっと息を吐き、今日はじめて笑顔を見せた。
「うん、聞こえる。…よかった。」
「いまとりつけたの、何?」
「盗聴器なんだけど、改造したの。
もし、声が出せない状況になったとき、体のどこかを指で叩いて。
緊急用コードで叩いてくれたら、体を伝わった音が、こちらに届くから。」
「トン、ツーで、”緊急支援要請”てこと?」
リュウの中で、なにかがきらめいた。
なんだろう、何かを思い出しそうになる。
「ほんとは、そんなこと、考えたくないのよ。
リュウが、あの事件のおとりなんて―――。」
エリーが顔を曇らせる。
「大丈夫だよ、エリー。」
「気をつけてね、本当に。」
シュ、と音を立てて、パトロールのジョンが入ってきた。
「よ。邪魔か?」
「馬鹿言うなよ。まったく、緊張感のないやつだな。」
「準備、終わったから。だいじょうぶ、もう機能するわ。」
エリーが立ち上がり、リュウにセーターとジャケットを手渡した。
「今日一日は、その緊張感のない俺と組むことになるそうだ。俺じゃ不服とか言うなよ?」
「まさか、」リュウは破願した。「よろしく、ジョン。」
新米レンジャーの中でもとびぬけて運動神経がよく、また状況判断が的確なジョンは、射撃の腕でも頼れる同僚の一人だった。
「けど、なぜ突然リュウがおとりに? それがさっぱりわからないな。」
「理由は、俺が、証拠のディスクを持っているから。」
リュウが、腰のポーチを叩いてみせた。
ジョンがのぞきこみ、エリーが心配そうに眉根を寄せた。
「でも、本当は、これ、おとり用の空ディスクだったりするんだ。
本物のデータは、ボッシュが持ってる。」
「そういえば、お前のエリートの相棒は、どこ行ったんだ?」
「ボッシュは、司令室にいるはずだ。
今頃は、本物のデータを分析してると思う。
とにかく滅茶苦茶に複雑で、俺にはさっぱりわからないけど、
今度の事件には、この証拠が深くかかわってると、ボッシュは考えてる。」
それから、リュウはしまったという顔をして、唇に指を当てて見せた。
「あ、っと、いまの内緒だよ。…とくに、ターニャには。」
噂好きの同僚のことを思い出し、ふざけたリュウの言い方に引き込まれて、エリーは、もう一度笑顔を見せた。
「リュウ1/8192、聞こえるか。」
「はい。」
にわかパートナーのジョンと、足早に急ぎながら、リュウは右手を右の耳のところにあてた。
耳たぶにつけられた通信機が、ぴかりと光る。
結局、クロウシュが指示のため、武器室を訪れることはなく、技術系のファーストレンジャーがエリーの仕事をチェックした後、ジョンとリュウは、転送されてきた地図データとともに、出動の指示を受けた。
耳元のクロウシュの声は、ひどく遠くから聞こえる。
「現状を報告せよ。」
「現在、二人で指示のエリアに向かっています。
15:45に到着予定。」
「お前たちからは、見えないだろうが、ファーストの狙撃チームが援護のため追尾している。
心配するな。報告を絶やさないように。以上。」
「了解。」
「…K13、なんだって?」
「狙撃部隊が遠距離から援護するから、心配するな、だそうだ。」
「やれやれ。」
軽口をたたきながらも、ジョンは油断なく、手にした銃のグリップを握り締め、リュウの後を遅れずについてくる。
断ることもできたはずなのに、危険な任務につきあってくれる同僚に、リュウは感謝する。そういうやつなんだ。
一度通路をふさごうとした鉄板が、また破られてできた尖った穴をくぐり、リュウとジョンは、下層街よりさらに深く、最下層へとつながる通路へと足を踏み入れた。
「こちら、リュウ1/8192。入り口へと到着しました。」
「了解した。」
短く報告を終えると、指定された地点へと続く通路に入るため、武器室で支給されたプラスティックのIDカードを、リュウは閉ざされた電子ロック式ドアの横にはりつけてあるリーダーへと押し付ける。
少しの躊躇ののち、ロック解除の信号が青く点り、しゅっという音を立てて、開く。
閉ざされているときは金属の壁のように見えていたドアは、数センチの間隔で金属のバーが組み合わされてできたつくりで、それがパズルのようにほどけるしくみだ。
くし状の金属のバーが同時に横方向と上方向にスライドして、壁の中に格納され、リュウの目の前には、赤い光に照らされた、広い空間が広がった。
ジョンが、リュウに続いて、すばやく開いたドアをくぐり、だだっ広い空間に向けて、すばやく銃をかまえる。
今まで通ってきた通路からは予測もつかない空間の広がりを、リュウは目を凝らして、見た。
はば3メートルの通路がまっすぐリュウの足元からのびて、数百メートル先に赤黒くかすむ小さな電子ロックの扉まで続いている。
通路の左右からは、大人が手を広げてもかかえきれないような、太い柱が何本も斜め上に伸びて、円形にたわんだ高い天井を支えている。
通路はまっすぐ、一本道だったが、左右と上には、通路からの光が届かず、目視できない闇が、そこここにあった。
「なぁ、ここ、前に、来たことあるか?」
「いや。初めてだ。どのみち、ふだんは電子ロックで閉鎖されてる区画だから。」
「いやな感じだな。」
そうだね、という代わりに、リュウは耳に軽く手を添えて、クロウシュに話しかけた。
「リュウ1/8192、該当地区に入りました。」
「……。」
「リュウ1/8192、該当地区到着。」
だが、通信機からは、サーッというかすかなホワイトノイズしか、聞こえてこない。
リュウは、とっさに背後を振り返った。
二人が入ってきた電子ロックの入り口は、何事もなかったかのように、ふたたび閉じられていた。
リュウは、ゆっくりと、自分たちの進路へと視線を戻す。
まっすぐ数百メートル先まで伸びた通路は、つり橋のように、天井から斜めに伸びた柱で支えられ、せまい通路の左右は、底の見えない暗い闇となっている。
ここを歩くのは、進んで射撃の的になるようなものだな、とリュウは思った。
けれど、どのみち、目標地点へ着く為には、この通路をまっすぐに歩く以外に方法がない。
意を決して、リュウは、ジョンを振り返り、無言でうなずくと、足を踏み出した。
慎重に進みながら、リュウはすばやく天井にも目を配る。
左右の壁は高く、上にいくほど丸くドーム型に歪曲し、より合わさった継ぎ目の部分が、深く裂け、その先は高さのわからない真の闇になっている。
いったい、どこに部隊が潜んでいるというのだろう、
通路はしんと静まり返り、2人以外に誰の気配もない。
ファーストの部隊は、いまもリュウたちを見ているのだろうか。
それとも、この先の目標地点に配備され、2人が来るのを待っているのか。
身構えつつ、リュウたちは、一歩また一歩と進み、つり橋のような通路の中間地点を通り過ぎた。
最初は赤黒いもやの先にかすんでいるように見えた終点の出口が、前方にはっきり見え始めた。
出口まであと150メートル。
リュウの背中を、すぅ、と風がなで上げるような感じがした。
なめらかに前方にある出口がスライドし、せまいドアをくぐりぬけて、黒っぽい大きなディクがのっそりと入ってきた。
「だれだ!」
リュウは、背後のジョンに、立ち止まるよう、手をかざす。
そして、リュウは、ぶら下げていた剣をすらりと抜き、抜き身で持った。
リュウの倍ほどの背丈の巨大なディクは、全身が濃い褐色の長い毛で覆われて、垂れ下がった毛の内側から小さく丸い目をぎらぎらとさせている。
前かがみの姿勢で歩き、異様に長い手がほとんど床につくほどに垂れ下がっているので、二本足で歩いてはいるにもかかわらず、はじめは4本足の動物に見えた。
ディクは通路の上をそのまま、ぶらぶらとリュウたちに向かって、進み始めた。
ディクの肩の上には、ガスマスクで顔の前面を覆い、目の部分が細い円筒形のゴーグルをつけた細身の男が一人、乗っている。
無言の男を乗せたディクは左右にゆらゆらとゆれながら、一本道の通路を、リュウたちの方へと歩いてくる。
その何事もないような、さりげない動作は、ただ通りがかっただけのようにも、見えた。
だが、電子ロックの必要な、こんな場所で、誰が偶然通りがかるというのだろう――?
「ジョン、俺から離れて。後方から援護射撃を頼む。」
「わ、わかった。」
ジョンの足音がためらいがちに後ろへ離れていく。
それでも急ぐことも立ち止まることもなく、ディクの足取りは、少しも変わらない。
あと、50メートル。
近づくにつれ、リュウの目に、ディクのぶらぶらと長く垂らした手の先に、毛に隠れた黒く長い爪が見えた。
緊張が、限界に達した。
「止まれ!」
「下っ端は、大変ですね。」
「なに?」
リュウは、汗で滑る剣を強く握り締めた。
この声は、聞き覚えがある…。
「また会いましたね。」
残り15メートル。
ディクの背から、ふっ、と男が消えた。
男の行方を見失ったリュウが、急いであたりを見回すと、背後から、ジョンのうめき声が響いた。
あわてて、振り返ったリュウの目に、血を流して通路の上に倒れたジョンと、その上に覆いかぶさるあの細身の男の後姿が見えた。
かがんだ男の手には、血のべっとりとついた金属の棒が握られている。
レンジャー相手に、銃でも剣でもなく、金具のあちこち出っ張った金属の棒で殴りかかったのか。
リュウは怒りの声を上げ、迷うことなく、すぐにジョンの方へと駆け寄った。
迷わなかったのが、幸いした。
リュウの背後で風が動き、大きなものがぶん、といまリュウの頭のあった場所をいき過ぎる気配がする。
かまわずに、ジョンの元へ駆け寄ると、男はまた大きく跳び、リュウの視界から消えた。
頭から血を流してうめいているジョンの首すじに手をやり、すぐに脈拍の強さを確かめる。
幸い、気を失っているだけのようだ。
だが、このまま、ぐずぐずしてはいられない。
ジョンが生きていることを確かめたリュウは、剣を握り直し、すぐに背後のディクのほうへと向き直った。
毛むくじゃらのディクは、口元をゆがんだ形に引き上げて、長い右手をまっすぐ上に上げていた。
まるで、笑っているように。
リュウは、右手にもった剣を振り上げると、立ちふさがる巨大なディクの懐に向かって、そのまま、まっすぐに走りこんだ。
ぶん、と大ぶりに振り下ろすディクのかぎ爪を避けつつ、手前でリュウは方向を変えると、通路の床を蹴った反動で、ディクの右手斜め上に向かって伸びる支柱に向かって、思い切り跳んだ。
あわてたディクが、リュウの跳んだ方向へと頭を回して、ぶきっちょに大きな体の向きを変えようとする。
斜め30度の角度に伸びた支柱の上を駆け上がったリュウは、すぐにきびすを返して、今度は坂を駆け下りる要領で、通路のディクに向かって大きく跳躍した。
使い慣れた剣を、両手で下向きに握ってふりかざし、渾身の力を込め、ディクの真上で、振り下ろす。
リュウの剣が、ディクの首の後ろに、めり込むようにずぶずぶと根元まで突き刺さる。
すぐに、リュウは、手を背中に回してもだえ苦しむディクに跳ね飛ばされて、反対側の柱に背中からたたき付けられた。
そのまま柱の角度にそって、手負いのディクに向かって、ずるずるとすべり落ちていく。
黒くて長い毛で覆われた全身を、見る見るうちに、血で濡らしながら、リュウに向かって、ディクが憎しみを込めた声で吼えた。
通路に落ちたリュウの上に覆いかぶさったディクの喉笛を、リュウは背中に用意していたもう一本の剣で、真下から切り裂いた。
ボッシュが、以前の戦いでリュウに教えた、獣の弱点だった。
リュウのさした刃が、硬いものにぶつかり、そのまま断ち切った。
ディクの目が、今度は本当の真紅に、染まる。
振り上げられたディクの両腕が、一瞬動きをとめたかと思うと、そのままディクは前のめりになり、どう、と倒れた。
リュウは、獣の血に足を滑らせながらも、横滑りに転がって、なんとか巨体を逃れた。
通路のはばいっぱいに広がって、奈落へと滴り落ちる血だまりの中で、リュウは、ディクが最後に一度痙攣し、やがて動かなくなるのを確かめる。
一瞬の静寂の後、リュウは、ディクをはさんで、通路の向こう側に倒れたままの、ジョンの元へと、もう一度走りよろうと立ち上がった。
リュウの目の前にまっすぐに伸びた通路の先に、黒く丸い影がうすく落ちたかと思うと、それが次第に濃く、大きくなりながら、リュウの足元までやってきた。
リュウは、背後を振り仰いだ。
天井のオレンジ色の光の真ん中をさえぎる、大きな黒い影がリュウめがけて、とびかかってくるまさにそのとき。
高いホールに幾重にも反響をとどろかせながら、銃声が鳴り響いた。
リュウに向かって跳びかかった黒い人影は、突如勢いを失って、ちがう方向へはじかれ、くずれ落ちた。
銃弾に真ん中を貫かれ、男のゴーグルが砕け散る。
撃たれた男は、通路の床にぶつかり、ボールのようにバウンドして、そのまま、奈落の闇の底へと、落ちていった。
それを覗き込んだリュウの髪を、下から吹き上げてくる風が乱す。
今度こそ、ほっと、息をついたリュウは、銃声の飛んできた先を、仰ぎ見た。
高い壁の一角が一箇所だけ四角に切り取られた部分、その四角形から、向こう側にある通路の一部がのぞき、そこだけバルコニーのように手すりがつけられている。
そこにボッシュが立っていた。
かまえていた遠距離用ライフルの銃身を片手でつかみ、そのまま手を伸ばして、リュウのいる通路の上にまっすぐに落とす。
がしゃん、と通路にぶつかって、ライフルが跳ねる音がした。
見上げるリュウと、見下ろすボッシュの視線が、ほんのわずかの間だけ、合った。
深い、緑色の瞳の光が、わずかに揺らぐ。
リュウは、ゴーグルの中の赤い光の点滅に気づいた。
一言も言葉を交わさないまま、すぐにボッシュは、バルコニーの向こう側へと姿を消した。
リュウは、倒れているジョンの元へと駆け寄り、傷ついた同僚を助け起こした。
4.
ジョンに肩を貸して、戻った基地で、犯人や獰猛なディクと戦ったサードへの賞賛と安堵の声が、リュウを待ち受けていた。
すべてが終わった後で、押し寄せた支援部隊は、リュウの倒した巨大なディクの死体を確認した。
だが、2時間をかけて捜索しても、ボッシュに射殺されたはずの男の死体は発見されなかった。
医務室へ運ばれたジョンにそのままつきそっていたリュウは、まもなくゼノに呼び出しを受けた。
隊長室へ呼び出されたリュウに、ゼノは冷たく静かな声で、告げた。
犯人と思しき男の死体はいまだ見つからないこと、
リュウに目撃された後、ボッシュを見かけたものは誰もおらず、
分析中のデータを司令室に残したまま、行方がわからなくなったこと。
――つまり、ボッシュ1/64が、6人目の行方不明者になったこと。
リュウは、敬礼もそこそこに、隊長室を飛び出した。
着替え室の自分のロッカーへと向かい、中に置いてある装備を引っ掻き回し、身につけた。
ふと、リュウはロッカーの中の棚の上にある、見慣れぬ紙袋に気がついた。
中には、カスタムされた銃、そして、几帳面な字でメモが残されている。
『いざというときには使え、リュウ1/8192』
リュウは、迷わずその銃を、いつもは空けてある腰のホルスターの内側へと差し込んだ。
そのまま、レンジャー基地をとび出すと、いつもの下層街の方ではなく、リフトポートの方へと向かう。
リフトは、いつものように故障で停止しており、人影もほとんどない。
リュウは迷うことなく、使われていない線路の方へと飛び降りた。
いくつものドアをくぐり、エレベータを降下して、最後にリュウは高さが10メートル、幅が5メートルくらいの巨大なドアの前へとたどり着いた。
ドアの脇にあるID認識パネルを手のひらで押すと、目の前の金属の壁に等間隔の切れ目が走り、組み合わさって一枚の金属に見えていた扉が、くしの歯のように分かれ、一部は上へと引きあがり、交差していた残りは右側へと吸い込まれていった。
開いたドアの向こうに、あちこち腐食の進んだ広々とした空間が広がっている。
エラーディク廃棄施設、最初の死体が発見された場所だった。
「ちょっと、待ってくれ、リュウ君。」
背後からの声に、リュウは、振り向いた。
腰の辺りに下げていた剣を、目の前に引き上げて、真横にかざす。
そのようすを見て、相手が両手を挙げた。
「待った、私だよ。
まったく、走り出したら君の速度には、誰も追いつけないな。」
「…クロウシュ指揮官、すみません。俺…、ボッシュを助けに行かないと…。」
「気持ちはわかるが、単身で向かうなど、自殺行為だ。
私が同行しよう。
しかし、どうしてここに彼がいると思ったんだ?」
「ボッシュがゆうべ言い残して行ったんです、
迷ったら最初の現場へ向かえ、と。
ひょっとしたら、怪我をして、
どこかで動けなくなっているのかもしれないと…。」
全体が緑色の光に照らされた背後の広がりを、リュウは振り返った。
廃棄施設は、しんと静まり返り、なんの音もない。
「君の勘を信じて、とにかく、そのあたりを探索してみようか。」
「ええ。お願いします。」
二人は、酸に侵されてあちこち崩落した床の上を慎重に進んだ。
高い壁のあちこちから四角い突起物が飛び出していて、得体の知れない泥色をした液体がそこから下へと流れ落ちて、壁に暗色のしみを作っている。
床はあちこち腐食し、めくれあがって物陰を作り、さがすところは数え切れないほどありそうに見えた。
「そういえば、リュウ君、君に聞いておきたいことがあった。」
「はい。」
「ドクター・ステイシーが、何者か、君は知っているのか?」
「え?」
リュウは、虚をつかれて振り返る。
「何者かって、どういうことですか?」
「この事件の張本人…レンジャーを殺した原因が、
あのドクターのせいだと、君はどこまで知っていたんだ?」
「おっしゃっている意味がわかりません。」
「この事件のすべての原因を作ったのは、ドク・ステイシーだと…。
レンジャーたちはそれに巻き込まれて死んだのだと…。
彼が昔どこにいて、何をしていたか、本当に君は何も知らないのか?」
「クロウシュ指揮官、俺は、」 リュウは、苦しそうに頭を振った。
「ドクターが事件と関係があるなんて、俺は、信じません。」
クロウシュの目が、憐れみの色を帯びた。そして、隠すことのない軽蔑の――。
「もしかしたら、ボッシュ1/64のことも、君は信じているのか?」
「当然でしょう?」
「本当におめでたいな。
彼は、君をおとりとして、作戦に差し出したんだぞ。
ローディなど消耗品だと言っていた人間を、それでも信じると?」
「相棒を信じて、何が悪いんです。
そんな言葉をボッシュは口にしたかもしれない。
でも、本当にボッシュがそう思ってるってことにはならないでしょう。」
リュウは、むっとして言い返した。
「失礼、クロウシュ指揮官。だけど、さっきからあなたの言うことは変だ。
レンジャーが巻き込まれて死んだとか。
ドクター・ステイシーがいったい何者だって、言うんですか。」
「そうか。本当に何も知らなかったようだな。
ドクターは、あの化け物を作り出した…、
すべての元凶だったんだよ、リュウ君。
みんな、あのドクターの作った化け物に襲われて、死んだ…。」
「みんなって、襲われたレンジャー…。」
リュウは、はっとしたような表情をして、1歩、2歩下がった。
あたりを見回した。
広い施設はしんと静まり返り、リュウとクロウシュのほかは誰の姿もない。
クロウシュは、落ち着いたようすで、リュウに近づく。
「皆が化け物に襲われて死んだなんて、なぜ、知ってるんです?」
1歩、2歩。
「…もしかしたら、あなたがなにか、…。」
下がる場所を失い、壁に背をぶつけたリュウが低く、静かに問いかけた。
「勘違いをしないでくれ、リュウ君。
私は実験動物の輸送を請け負っただけだ。
皆、払いのいい仕事だと喜んで引き受けてくれた。
籠に入ったディクを運んで、買い手にひき渡すだけの簡単な仕事のはずだった。
あのディクが、変異さえしなければ――。」
「輸送? 何の?」
「バイオ公社の実験動物。
閉ざされた実験施設から、こっそり持ち出したサンプルのことだ。
昔、ドクターがデザインした機密の一部だ。」
「その実験動物が、レンジャーを殺したというんですか?」
「……サンプルを持ち出したことさえ、知られてはならなかった。
なにしろ、最高機密だからね、政府に知られたら、身の破滅だ。
証拠隠滅が最優先だったよ。
ところが君があのディクの毛を、見つけてしまった。
少なくとも、私に証拠として提出していれば、なんとでも収まったんだ。
証拠を処分し、
適当な戦闘ディクと、雇われ者を犯人に仕立てあげて射殺すれば、すむことだからね。
だが、君はあの実験動物の毛を、直接ドクターに持ち込んだ。
分析データは、私ではなく、君の相棒の手に渡ってしまった。
消去すべきものが増えてしまった。
なにもかも君のせいだったんだよ、ローディ君。
君が余計なことをしなければ、
せめて、おとなしくさっきの戦闘で死んでいてくれたら――。」
クロウシュは、細身の長い剣を、すらり、と抜いた。
「救いがたい低脳だ。
ドク・ステイシーを信じ、私を信じ、あのボッシュ1/64まで、信じるんだから。
なにか、反論がありそうだな?」
「ええ、あります。
あなたは、勘違いしてる。」
「何?」
「今回のおとりの件を言い出したのは、ボッシュじゃない。
俺が自分で、おとりになると、言い出したんです。」
「――救いがたい、ローディだから。」
壁の突起物のひとつから、ボッシュがひょい、と頭を覗かせて、身軽にブロックを飛び降りた。
クロウシュをはさんで、リュウから数メートル離れたところに、着地する。
「ボッシュ1/64…。」
クロウシュが皮肉めいた笑顔に顔をゆがませた。
「俺が、あんな雇われ者にやられるかよ。ま、かなり気持ちの悪い相手だったけど。」
ボッシュは、少しだけ肩をすくめた。
「こいつをおとりにしろって、最初に提案したのは、クロウシュ、お前だぜ。
その案に乗っかって、
お前をここまでおびき出すおとりになるって、
こいつが言い出したんだよ。」
「ボッシュ、こいつ呼びはやめろよ。」
「うるさいぞ、ローディ。消耗品は黙ってろ。」
クロウシュ1/128は、体を折り曲げて、笑い始めた。
「なぜ、気づいたボッシュ1/64?」
「最初っから、お前は、変だった。
5人目の死体をあてつけに俺に見つけさせたり、
作戦に巻きこみ、おとりのリュウを殺させて、
その責任をかぶせて俺をつぶそうとしたり。
そのくせ、証拠を分析したドクターは、結果をお前でなく、俺に届けた。
変だろ?
――つまりさ、K13、はじめから、お前はただの雑魚なんだよ。」
クロウシュの顔色が、さっと変わった。
ボッシュが、クロウシュの背後に回りこみ、リュウが入り口をふさぐ格好で、剣を身構えた。
クロウシュは、ゆっくりとリュウの方へと顔を向けた。
「二人だから、楽勝だと、思ったのか?」
レイピアを斜めにかざしたボッシュが、じりじりと間合いを詰めていく。
クロウシュの足元を、アナセミと呼ばれる小さな鳥形の野良ディクが通り過ぎ、後ろの物陰に隠れるのを、一瞬、リュウは視界の隅に捕らえた。
剣の行く先を、ぴたりとリュウに合わせて、クロウシュがまっすぐ前へと腕を伸ばした。
そのとき、リュウの目の前で、銀色の、鞭のような触手が、物陰からするりと伸びたかと思うと、クロウシュの足元から胸元まで、くるくるとまきついた。
クロウシュ1/128は、叫び声さえあげなかった。
ただ、信じられない、といった表情で、自分の胸元にまきついた銀の触手を見ていた。
そして、そのままの表情で、足元から引きずられ、部屋の中央にある床がめくれあがってできた大きな裂け目の中へとのみ込まれていった。
そして、すぐに、吐き出された物体が、リュウの背後の壁へと飛び、張り付いた。
暗色のしみが、下へと流れる。
リュウの脳裏に、ぎざぎざの跡を体に残して、死んでいたレンジャーの遺体のホログラムが、まざまざと浮かんだ。
「あの馬鹿、回収しなかったのかよ!?」
後ずさりながら、ボッシュが、叫ぶ。
床の割れ目に隠れていた生き物は、リュウたちの目の前で、次第に形を変えてゆく。
半円形の体の表面が、みるみるうちに細かく割れて盛り上がり、甲羅のように黒く硬くなり、その中心からさらに円錐の突起が伸びはじめた。
甲羅は一つ一つがさらに大きくなり、さらに数を増し、甲羅が覆うディクの体全体は、見上げる大きさへと成長していく。
リュウの前にいたボッシュから変異体までの距離は、数メートルしかない。
「ボッシュ、こいつは…。」
「リュウ、おそらくあの暗号の持ち主だ。
…こんな変異ディク、見たこともない。
あのドクター、いったい何の遺伝子を仕込んだんだ?」
「ボッシュ、下がって!」
鈍重に見えた変異ディクの甲羅のすきまというすきまから、四方八方に銀色の触手が一気に飛び出したかと思うと、腐食した壁や天井に矢のように突き刺さった。
リュウは身をかわしてそれをよけ、ボッシュはレイピアで、己に向かった触手の何本かを斬り落とし、さらに次の触手を斬ろうとしていた。
だが、その間に、巨大なディクの体全体が、天井へとつきささった触手に引っぱられて、一気に上へと持ち上がり、ボッシュの方へと落下した。
リュウは、迷わずボッシュの方へと駆け出し、後ろからその細い腕をつかむ。
どおん、と重い肉が床にたたきつけられる音と衝撃の中、リュウは、ボッシュを守り、床を転がった。
腕をつき、たちまちリュウの下から身をひきはがすボッシュに、
「すぐに、助けたろ?」
とリュウが、笑う。
「ふざけるなよ、リュウ。」
ボッシュがうなり、リュウが肩をすくませた。
「それより、
あいつ、触手を切っても、ちっともこたえて無いぞ。
このままじゃきりがない。」
リュウが、ふと、背後のホルスターに手をやった。
「もしかして、この銃、
『いざというときに使え』って。
…たぶんドクがくれたんだ。」
「はぁ?
この化け物を作ったやつから
もらった武器だろ?
お前、正気かよ。」
「だけど、何もしないよりましだ。」
「その銃に仕込まれているのが、
もし、さらに変異を進ませる薬だったら、
一体どんなことになるか、
その小さいおつむでもわかるだろ…?」
「ちがうよ、きっと。俺は、ドクを信じるから。」
「おい、リュウ。馬鹿もいい加減にしろよ…!」
二人の間に、銀の矢が飛んできて、二人は別の方向へと飛びのいた。
変異体のほうへ転がったリュウは、銃を手にし、立ち上がると、巨大化したディクの本体へと駆け寄った。
近づくと、生臭い肉のにおいが、リュウを襲う。
ふたたび床にはりついていた変異ディクは、天井の触手を縮め、リュウに向かって甲羅の突起を伸ばす。
アメーバーのようなねっとりとした腹が、リュウの前に壁のように立ちふさがった。
そのど真ん中にある、黒い中心に向けて、リュウは手持ちの一発を撃った。
小さな弾は、大きな変化をもたらした。
黒い核にめり込んだ穴の中心から、肉のうねがもりあがるように湧き出した。
みるみると肉塊でできたこぶはふくらみ、数を増し、大きくなり、リュウの前で、爆発的にかさを増していく。
「リュウ、来い! つぶされるぞ!」
声がかかる前に、リュウはあとずさり、空っぽになった銃を捨て、走り出していた。
前を走るボッシュが、振り返って見上げる角度が、さっきよりも高い。
肉の動めく、めりめりとした音が背後から追ってくる。
リュウは走りながら一度だけ、振り返り、部屋いっぱいにふくらもうとしている生き物を見た。
盛り上がった肉のひだの間から、数え切れない銀の触手が伸びて、ひゅんひゅんと狂ったように、のたくっている。
やがて、苦しさに耐え切れないように、四方八方に硬い鱗で覆われた突起を伸ばし、部屋の中の構造物をなぎ倒し始めた。
変異体は、己の膨張と暴走を止められないようだった。
背後から、銀色の矢がいくつも通り過ぎ、リュウの走り抜ける通路の壁に、足元に、次々と突き刺さる。
ボッシュが、レイピアで、檻のように行く手をさえぎる触手を切り落としながら、リュウの前を進んでいく。
リュウも、右手の剣で化け物の触手を切り払い、切断され跳ね回る触手を避けながら、ボッシュが先導する出口の扉まで、走った。
巨大なかたまりとなって追ってくる変異ディクの落とす影が、リュウの足元を暗くして、部屋の端まで届きつつあった。
ボッシュが背丈の3倍ほどもある大きな扉から走り出たのにつづき、リュウも出口を走り抜けた。
振り返ると、膨張した肉塊と化した変異ディクは、その大きな出口いっぱいになり、それでも二人に追いすがり、扉からはみ出ようとしていた。
飛び出した突起の先に、黒いウロコで覆われたディクの顔が見える。
目の中心にある瞳の中に、赤い輪が一瞬現れて、しゅうと細くすぼまり、リュウを見た。
「リュウ!?」
ボッシュの声が飛ぶ。
リュウは、かまわずに、きびすを返し、ディクに向かって逆走する。
ボッシュは、手にしていたレイピアを持ち替えて、リュウの目の前にいるディクに向かって投げつけ、触手を伸ばそうとしている肉塊に突き刺した。
ディクがひるんだ隙に、リュウが扉のわきに走り込み、そこにあったロックパネルに、思い切り手のひらをたたきつける。
たちまち、鋭い音を立てて、開いていた扉の上部と、右側から、くしの歯のようになった金属のバーが、ディクの体めがけて押し寄せた。
しゅん、という音を立てて、大きなくしの歯が互いに組み合わさり、重い金属の扉が閉まった。
静けさが、やってきた。
リュウの目の前には、体中のこぶから泥色の液体を吐き出し、まっぷたつとなったディクの体と切断された首が転がっている。
それらはやがて、しゅうしゅうという音と白い蒸気を出しながら、リュウの足元へと届く前に、くたりと溶け出していった。
5.
壁に四角く開いた隠し金庫の中に、強酸の入った薬品のびんを投げ入れて、ドクター・ステイシーは、すばやくすべての扉を閉じた。
10年間身を置いたこの場所に、愛着は、無かった。
感情など、ずっと昔に置いてきてしまったのだ。
本当の名前や昔の自分の精魂込めた仕事を捨てたときに。
すべて灰になっても惜しくない、いやすべて灰になってしまえばいいのだ。
ドク・ステイシーという名前の人間とともに。
そんな気分だった。
薄暗い部屋の扉が開き、逆光に少年のシルエットを捉えても、ドクターは驚かなかった。
最初から、こうなることは、知っていたのだ。
覚悟は、10年も前から、できている。
「それで? …このまま姿をくらます気かよ?」
「ようやく来たんだな。ボッシュ1/64。」
「失礼、ドクター…なんだっけ?」
「私の名前を、知っているのかね?」
「10年前、バイオ公社で行われていた極秘計画。
生体実験が失敗し、逃亡したプロジェクトリーダー、だろ。
そいつの名前なら、聞いたことがある。」
「逃亡ではない。
名前と身分を剥奪され、政府の監視下に置かれたのだ。
本来なら、懲罰で殺されてもおかしくないところだったが、
私は、生かされて、新しい名前と身分を与えられた。」
「そのはらいせが、これってわけ。」
「はらいせ? まさか、そうじゃないよ。
今回の事件は、すべてクロウシュ1/128がやったことだ。
厳重に保管されていた、あのサンプルの一部を持ち出して、
売りさばこうとしたらしいな。
ただ、彼が昔の研究成果を持ち出していることに私が気づき、
口をつぐむようにと、彼は私を脅していた。」
「だが、あの化け物、元はあんたが作ったんだろ。
あんたが仕込んだ暗号は目覚めた。
あれがレンジャーを殺したんだぜ?
研究所から持ち出したのはクロウシュにせよ、
変異した化け物が、レンジャーを殺したんだ。
あんたに責任はない、って言う気かよ?」
「遺伝子をあれだけ細かな断片にすれば、
通常の遺伝子なら、変異しないはず…だった、
…私の計算…予測では…。
…前と同じだ…私は、黙って見ているしかなかった…。
そう、きみの言うとおり、私が作ったものの一部だ。
きみも、気づいたんだろう?
暗号は、解けたかい…?」
「…あんたに聞くほうが早いさ。そうだろ?」
ボッシュは、ドクターをにらみつけた。
「そう。膨大で、複雑なデータだったろう?
最高の部下を何十人と使い、
15年かけて調べた成果の、
あれはほんの一部だ。」
「言えよ。いったい、何の研究だったんだよ?」
ドクターは、古びて傾きかけた椅子をひき、とさりと座り込んだ。
背中を丸めたまま、息を吐き、手で前髪をかき上げる。
「昔、地上に獣が作られた。
大きな、獣だよ。
地上のすべての生き物、
いきとしいけるものすべての強さと非情さを
詰め込んで、最高の戦闘能力を持つ生き物が作られた…。」
「竜のことか……?」
「だが…長いときの間に、情報は失われ、記憶は薄れ、
その欠片は、一部だけが伝えられた。
半分だけの、粗悪なコピーとして。
ここから研究は始まった。
コピーを解読し、オリジナルの遺伝子配列を作り出す。
それが、私の命じられた計画だった。」
「D検体…"神の遺伝子"……。」 ボッシュが思わずつぶやく。
「…そう呼ぶものもいた。
失われた竜の遺伝子を、すべて復元する、
そしてもう一度、神を作る計画だと。
馬鹿なことだ。」
「見つけたのか、完全な遺伝子配列を?」
ボッシュが思わず身を乗り出すのを、ドクターは冷ややかな目で見つめた。
「一次サンプルを作成し、
私は、ある実験体に作成した遺伝子を注入した。
自信があった…すばらしい成果だと。
…完全な竜を、再現するのだと…。
ばかげた野心とおごりの果てに、
やがて実験体は変異し、
目の前で、何人もの部下が食われて死んだ。」
右手を押し当てた指の隙間から、ドクターは疲れた目でボッシュを見た。
「私は、政府の目を盗んでデータを処分し、
作成した遺伝子を切り刻み、
切り刻んだ配列を、こっそり実験動物のDNAの中に分けて隠した。
クロウシュが持ち出したのは、全体のほんの一部にすぎない。
私は、10年前も決して口を割らなかった。
サンプルの完全な配列は、もうここにしかない。」
ドクターは、自分のこめかみを右手の先で示した。
「それで、政府は殺さなかったんだな。
あんただけが、神の配列を知ってたから…。」
「神?
あれは、そんなものじゃない。
お前も見たんだろう? 化け物を…
あれが神の一部か? あんなものが?」
ボッシュは、沈黙した。
「ボッシュ、1/64、
その意味がわかるか?
自分が、何者なのか、
知っているか?
お前の体内に、いったい何が64分の一、入っているか、
いままでに一度でも考えたことがあるかね…?」
ドクターのとび色の目の中心に、赤い輪が一瞬現れ、しゅう、とすぼまった。
ドクターの持っていた、低くは無いD値を思い出す。
ボッシュは一瞬言葉を失い、やがて何かを否定するように、ゆっくりと、頭を振った。
「は、動揺させようたって、無駄だぜ。
今回の事件には、あんたにも道義的責任がある。
だから、いまだって逃亡を図ったんだろ…。」
「そうだ、今回のこともすべて、
もともとはサンプルを完全に処分しなかった
私の行いから生じたことだよ。
だが、私は逃げるつもりはない。
じきに、政府から処分が届くだろう。
どのみち、もうここにはいられないからね。」
「本物の分析データを、なぜ、俺に渡した?」
「きみなら気づく、
そして、遠慮なく、処断するだろう…?
ひょっとしたら…今度こそ、
終わらせたかったのかもしれないな……。」
「それで? リュウのことは、どうする気だ?
あいつ、あんたを信じてたんだぜ!?」
「リュウ…1/8192か…、もう会うことはないだろう。
あの子をまきこみたくは、なかった…。」
ボッシュは、くるりと背を向けた。
彼は、けして神の配列を口にしないだろう、とボッシュには、わかった。
もう、ここに用は無かった。
すたすたと出口まで歩き、開いた扉の前に、リュウが立っていた。
ボッシュのほうに目もやらず、まっすぐに前を見、唇を引き結んでいる。
「おい、リュ…。」
声をかけようとして、ボッシュは、やめた。
すべてを、聞いていたはずだ。
ボッシュはそのまますれ違い、リュウを行かせた。
リュウは、まっすぐドクターのいるうす暗い部屋の中へと、吸い込まれていく。
扉が閉まり、ボッシュは歩み去った。
たぶん、ローディには、ローディの事情があるのだ。
そして、それは、ボッシュの知ったことでは、ないはずだ。
6.
「ボッシュ1/64、よく戻りましたね。
クロウシュ1/128は6人目の犠牲者、
ドクター・ステイシーは行方不明の被害者として、通常処理されます。
犯人は、あなたたちが倒したエラーディクと公表しています。
ほかの件は、けして口外しないこと。
リュウ1/8192にも、徹底しなさい。」
「了解。」
事件の顛末を要領よく―とくに自分の手柄に都合よく―、まとめた報告書を隊長室に提出した後、
ボッシュは珍しく、下層街を見渡せる階段上に一人で立ち、昼間から夜へと表情を変えようとする街を見下ろしていた。
ここからは、真正面に聳え立つバイオ公社ビルもよく見える。
下町の上を通ってきた風が、ひんやりと、肌を冷やした。
リュウがドクターのいた鑑識課から戻ってきたのは、日付をまたいでからだった。
今朝になってドクターの存在すら跡形もなく、処理され、その痕跡すらも残ってないことを、皆が影で噂していた。
リュウが、あのあと、ドクターとどんな会話を交わしたのか、ボッシュは知らない。
ただ、会ったことのない父親の姿を、リュウがドクターに追い求めていたことだけを、ボッシュは知っていた。
今日ばかりは、事件が解決した開放感からか、夜勤に入るレンジャーたちも、気安くボッシュに声をかけ、通り過ぎて行く。
ボッシュが退屈な街の風景に飽きて、そこを離れようとしたとき、いつも額に引き上げているゴーグルが、赤く明滅した。
ボッシュは、リュウへの指示を何かと送るけれど、
リュウは、めったにこの通信手段を使わない。
ボッシュは、つけていたゴーグルを外し、その内側を透かし見るように、街の上にかざしてみた。
赤い点滅は、だんだん早くなる。
赤、赤、長い赤信号。
――緊急支援要請。
ボッシュがあわてて手すりから身を離し、くるりと向きを変えると、
そこにリュウが立っていた。
「なんだよ、驚ろかすなよ。」
「手が離せなくてさ、ほら。」
リュウは両手に持っていた缶のうちのひとつをボッシュに投げてよこした。
それは、下層街で売っている怪しげな下級アルコール飲料で、
ボッシュが、嫌がって一度も口にしたことが無いことを、
リュウも知っていた。
「…こんなの飲めるかよ。
お前、わざとやってるな?」
「ま、たまには、いいんじゃないの?」
リュウは、ボッシュの隣にすたすたと歩いてくると、高台の手すりをつかみ、眼下の下層街に向かって、発泡飲料の缶の蓋を開けた。
こぼれだした液体が、金色の光を浴びて、きらきらと街の上に散っていく。
しかたなく、ボッシュも、ひじを背中の手すりにかけたまま、缶の蓋を開けた。
途端に、無数の泡が勢いよく噴き出して、ボッシュの髪や手をあちこち泡だらけにする。
「ボッシュでも、こんないたずらにひっかかるんだ。」
「お前〜〜。」
どうしてやろうかとにらみつけるボッシュの手にした缶に、リュウが自分の缶をカシン、とぶっつけた。
「お疲れさん!」
「…あぁ。…覚えてろよ?」
遠くに見えるバイオ公社ビルの屋上に、赤い誘導灯が明滅し始めた。
リュウは、高台の手すりの上に上半身を乗り出し、両腕を投げ出して、安物のアルコールを飲みながら、黙ってそれを見ている。
ボッシュは、下層街を渡る風に髪を乾かしながら、泡だらけのそれを一口だけ飲み、やっぱり飲めた代物じゃない、と思いきり顔をしかめた。
END.
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ゲーム「BOF5 ドラゴンクォーター」二次創作小説です。レンジャーが誘拐され、殺害される事件に、リュウとボッシュが巻き込まれる話。後編です。 | ||
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