エイナナ(ななつ夜幻世録) |
浮御堂につれられてきたときにナナリの目に入ったのは、甘い匂いのする「何か」だった。
「それ、とても甘い匂いがするね…」
大きな木にいくつも大きな白い「何か」がついていて、ナナリはおもわず前を歩いていた叡峻の裾をひっぱった。
叡峻の歩幅はとても大きく、歩く速度は早い。
くんと後ろにひっぱられた彼はとても嫌そうにナナリを振り返ると、差された「何か」をみて「あぁ」と呟いた。
「よく咲いているだろう」
匂いは強くはないが、ほのかにただようそれは、海風によそぎながらさわさわと身を揺らす。
「サイテイル?」
小首をかしげてその意味を知ろうとするが、尋ねる相手は怪訝そうに眉をしかめている。これは聞いたらいけない事なのかとナナリは叡峻の裾をぱっと放して黙った。 それが昨日の事である。
「ほうほう。そんなことがあったのかね」
楽しそうに、目の前のキツネは四つの尻尾を揺らして答えた。キツネの名前はヤシロ。浮御堂の主で、この淡海を守護する天狐である。
一見享楽主義のようにみえる彼は、実はとても優しく人に対しては慈愛に溢れていて、この地を納める生神様であった。
禍い招く「マレビト」として、ナナリはヤシロの裁量をまつことになったのだが…ヤシロは何もしなかった。それどころか、優しく彼女に言葉をかけ、食事を与え、寝床を与えた。そして現在に至るのだ。
ナナリはにこやかに訊ねるヤシロにむかってこくんと頷いてみせた。
どうやらナナリという人物は人と会話する事をあまりしたことがなく、また外の世界をいっさい知らない赤子のように純真無垢な少女だった。だからこそ、傷一つない宝玉を扱うように、ヤシロはナナリの頭に柔らかく触れて撫でながら、そっともう一度訊ねた。
「ナナリ、君はあれについているものが「何か」わからなかったのかい?」
「うん」
そうか、そうかと頷いてそっと立ち上がると庭に降りて、白い「何か」に近寄ると、ぱきんと一枝手折って部屋に戻ってきた。そして、その枝をナナリに持たせると、「これは花というのだよ」と言ったのだ。
「花?」
「そう花だ。君が知りたいとおもった白い「何か」は「花」というんだ」
手に取った白木蓮の花をそっと撫でるとナナリは蕾が開くようにそっと笑った。
「本体眞如住空理寂静 安楽無為者鏡智慈悲 利生故運動去来名荒…」
朝から叡峻の声はとてもよく響く。
「貪瞋癡之三毒煩悩皆 得解脱即得解脱…」
ナナリは叡峻のこの声が好きだった。
はじめて会った時は、とても怒っていたが、会話すると穏やかに染み入るこの静かな声がとても心地良い。お経ははじめて聞いたのだが、謳うような旋律と張りつめた声に心が静かになる。目をつむると清々しい気持ちにさせられる。
うっとりと頬杖をついて聞き惚れていると、
「…おい」
叡峻はため息をついてナナリを見た。たまりかねたように何かを押し殺したように表情をしている。ナナリはきょとんとしてこう言った。
「どうしてやめるの?」
「…オマエが邪魔をするからだ」
「ワタシ、邪魔なんてしてないよ」
「気が散るという言葉は知っているか?」
もうちょっと聴きたいのに、というまなざしは叡峻には通じない。
ナナリはちょっと俯いた。叡峻は誰に対しても操舵が、怒っているように言葉を投げ付けることがある。それは怖くはないけれど、少し哀しいと感じていた。
「あ、ゴメン」
「俺に用事があったのか?」
ふと、考えが通じたように叡峻は声を柔らかくしてナナリに言ってみせる。
「あ、うん…」
慌てて顔をみあげると、少しだけ穏やかな表情をした叡峻と目が合って、ほっとすると、ナナリはヤシロからの預かりものを渡した。
祈祷場では、毎日毎日叡峻はヤシロの仕事を手伝っている。その仕事の一つだという風呂敷の中身はナナリは知らない。ちらりと見ると、額に青筋を若干浮かべていた。あまりいいものではないらしい。叡峻が「またこんなものを…」といいかけてせき払いをすると、平然とした表情でナナリに「確かに受け取ったとオヤシロ殿に伝えておいてくれ」そう告げた。
「うん。それから…伝言があるの」
「何だ」
「ワタシに花の名前を教えてほしいの」
「…なんだと?」
「花」
「何故だ?」
「ワタシ、知らなかったの」
「…?」
「今日、はじめてあの白い「何か」が花だと知ったの。そしたら、ヤシロが「世の中にはいろんな花があるから、さしずめエーシュンに教わんなさい」と言ったの。だから…ダメ?」
言われてはっとしたのは叡峻だった。
はじめて会ったときはわからなかったが、ナナリはとても世間知らずといえる。親王だった自分より更に輪をかけるほどの世間知らず。それはまるで箱の中に身を閉じ込めていたような物の知り無さであり、その知識の無さや言葉の滑舌の悪さには年相応の経験がないことがみてとれた。
彼女は何も知らない。
その大半を知らなくて、ただその場に生きているだけだ。
大きなため息をつくと、叡峻は「…半刻ほどであれば、構わん」とそう言って、ナナリを祈祷場に招き入れた。
縁側から見える落葉の亜高木を指差しながら、ナナリは子供のように叡峻に言葉を強請った。
「あれは?」
「ハナミズキだ。ヤマボウシとも呼んでいる者もいる」
「じゃあ、あれは何?」
「コブシだ」
「さっきのモクレンとどうちがうの?」
「花の大きさと開き方だ。説明はするが…覚える気ならば見て覚えた方が早い」
「…うん、じゃあそうする。あ、あのフサフサのネコみたいな尻尾の花は?」
次々と質問するナナリの目はキラキラと輝いていた。まるで子供だ、と叡峻は思った。
実際子供なのだろう。こんなふうに無邪気に答えをもとめてくるのは幼子くらいなものだろう。
ボケ、ヤマブキ、ミツマタ、ジンチョウゲ、シバザクラにレンギョウ。
ナナリはいろんなものを指差して聞いていた。
木にあるもの地に生えるもの全てをいまのうちに知りたいとばかりに、質問攻めだ。
物欲が希薄だと思っていたナナリの執着をこんなところでみようとは思わずに、叡峻は心の中でみじろいだ。
そういいながら、どれもこれも名前とともに説明をちょこちょこと加えて雑学を拾うしているのは叡峻の性分かもしれない。
それがお互いにとって、とても楽しいものだったのはいうまでもなく…半刻ほど時間をかけるつもりだったのに、申の刻限などとうに超えてしまっていた事に叡峻自身が驚いていた。
ナナリが浮御堂に帰ったのは、亥の刻限がすぎたくらいで、玄関で足を盥で浄めていると、待ちかねたようにヤシロが廊下をぱたぱたと足音を鳴らして出迎えてくれた。
「おお!帰ってきた。帰ってきた。お帰り、ナナリ」
「ただいま、ヤシロ」
「エーシュンに届け物をしてくれてからそのまま遊びに行ったのかと思ったよ」
「ううん。ごめんね」
「なんのなんの。その顔色は良い事があったのかな?」
そう言って、ヤシロがナナリの手の中の枝をみて微笑んだ。
「うん。これはエーシュンが持っていけって言ったの」
「どうして僕から隠すんだい?」
「ええと、あの、ヤシロには見せるなって言ってた」
「ほうほう。あやつめ」
ニヤリとした視線の先には白い花。掌に収まるくらいの可愛い花。野に咲いて風にゆらぐ素朴な花。
手にある花の意味する所はナナリはまだ何も知らない。
了
2008.06.17
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