博麗の終 その3 |
【人は問う】
「事態の説明は終わったようだな」
ざわついた場の空気を、抑えるように。やや低めのよく通る声を発して、立ち上がったのは上白沢慧音だった。
「いくつか質問させて頂きたい。代表者は去ってしまったが、誰に話せばよいのだろうか?人間側代表として聞いておかねばならないことがある」
慧音はぐるりと場を見渡して、話が通じるであろう者を探した。
主催者であり、幻想郷でも有数の重鎮であり、この事態を招いた責任者であるところの八雲紫は、己の責任と矜持のために全力を尽くすべく、すでに立ち去っている。
では今、この場はいったい誰が取り仕切るというのか。
かの大妖怪の後を務められる者など、本当に数えるくらいしかいないというのに。
――では
囁くような、囀るような。
この喧騒の中では掻き消えてしまうはずの声が、場の隅々までしっかりと響いていた。それはあたかも万人の耳元で呟かれたような、幽か過ぎる音の振るえだった。数名の人妖は後ろを確認していたが、その声の主は会場の数多に紛れ込むような者ではなかった。
「この場の主催者である八雲紫は別の仕事へと向かいましたので、その代理として。友人であり冥界の管理者でもある私、西行寺幽々子が承りますわ」
ゆるやかに、たおやかに。
音もなく立ち上がる様は、それだけで舞いのようですらある。そのまま代表の座る席へと向かい、くるりと場の方へと振り向いた。幽々子はにっこりと微笑んでいた。
「なお、これは主催者からの事前依頼によるものですので、どうかご理解下さいますようお願い致します」
謙譲の気持ちが伝わる完全な一礼と、好意的な印象を与える柔和な微笑と。一つ一つがどうしようもなく洗練された一連の流れに、場の空気は飲まれ気味であった。
「発言者から続きのお言葉が出ないようですから、主催側からお伺いしましょう。人間側からはお二方、里の長老と相談役にお越し頂いておりますが、上白沢相談役が人間側からの発言をまとめて頂けるということでよろしいですか?」
問われることで始めて、慧音は呆気にとられていたことを理解した。
――咳払いを、一つ。加えて髪を軽くかき上げる。己が冷静さを取り戻すための仕草を二つはさみ、やっと口を開いた。
「ああ、人間以外との交渉は私に任されているからな。長老はまあ、半分妖怪な私のお目付け役と思ってもらってかまわない」
「了解しました。それではお願いします」
慧音は「うむ」と言った後、ばつの悪そうな顔を浮かべながら発言を続けた。
「…正直なところ、始めに思っていたよりも事が大きくてな。ちょっとまずいことになるかもしれないんだ。長老は里で行われる会合でこの事実を話さないといけないから、幻想郷が危機に陥ったという状況は里のお偉方に知られることになる。そこまでなら冷静な対応が期待できるのだが……」
と、言葉を止めてちらっと長老を見た。長老はゆるゆると頷いて、先を促すような仕草をした。
慧音は続けて言った。
「問題は里人達にこの話が漏れてしまった時なのだ。ほぼ確実に流言蜚語の類が飛び回って、人間社会が丸ごと恐慌状態となるだろう。そこまでなら皆に迷惑をかけなくて済むのだが、幻想郷は人間対妖怪の図式で成り立っていることから予想すると……」
また言葉を止めて、今度は幽々子を見た。
慧音には、幽々子の浮かべる軽い微笑みが、全てをわかっている者の余裕のように見えた。
だから、慧音は続けて言った。
「今後、人間はいつの間にか妖怪のせいという話で一致団結して、総力を挙げて足を引っ張ることになるだろう。私は『妖怪を手当たり次第に吊るし上げにする』くらいの暴走を想定しているので、出来れば里人には正直に話したくない。だからといって里人達に知らせず、ただその時が来て『実は知っていました』なんてことも出来るわけがない。そこでだ。里の会合でも話し合うが、幻想郷の者達にも相談させて欲しい。この件、人間の里にはどこまで知らせるべきだろうか。また、知らせないべきだろうか」
言い切った慧音に向けて、雑多の妖怪たちが騒ぎ始めた。
幻想郷が外界から隔離される前、もうその頃から妖怪にとって住み難い社会になっていたのである。だからこそ、今、幻想郷が失われてしまうことを最も恐れているのは妖怪なのだ。
人間は、外の人間の社会へと戻ることも出来るだろう。だが、妖怪は違う。最早、外界に妖怪の住む場所なんか無いと理解しているのだ。ここに来るからには、相応に知恵が回る妖怪なのだから。
だからこそ、妖怪たちは一般の人間では到底発することの出来ない罵詈雑言を、容赦なく発しているのだ。言葉は悪いが『この危機に、無駄な争いを起こすのか!』と、至極当然の正統な批判を。
「せめて、この件に打つ手があるのなら良かったんだが…」
そう言って慧音は顔を伏せた。続く言葉はあったのだが、あたりはもう言葉が届かないくらいの熱気で、慧音を、人間を糾弾している。何を言っても逆効果になるばかりだろうと、口をつぐむことにした慧音の判断はきっと正しいのだろう。
彼女も考えている。
聡明だからこそ、今の状態が人間という集団にとって致命的な方向で作用するとわかっている。だから危険を冒してでも、ここで問わなければならなかったのだ。
人には集まれば集まるほどに、個人の良識的な判断が失われるという習性がある。不満は暴走を招き、暴動となって爆発する。おそらくは自分達が壊滅するまで無茶をするのだろう。勝てもしない相手にわけのわからぬ正義を振りかざして、誰もが幸せになれない戦いを繰り返すのだろう。
避けたい未来があるからこそ、慧音は目の前に迫る殺意に立ち向かわねばならない。
場の興奮具合がどんどん高まってきて、とんでもない数の妖怪たちから殺気が発されていた。
慧音は、人間に類する者として、罪の意識から顔を上げてはいられなかった。
長老は、この殺気の中でも前を、幽々子の方を真っ直ぐ見つめていた。
幽々子はただ、静観していた。
表情を全く変えないまま、ただ見ていた。
騒ぎは大きくなるばかりで、一向に収まる気配を見せない。雑多な者たちは今にも慧音に、長老に飛びかからんばかりに熱く盛り上っている。
そして。
「こいつらを殺して人間を潰しちまえ」という声があがったところで、「ふぅ」とやわらかく息を吐いたのが始まりだった。
ゆっくりと愛用の扇子を取り出して、その手をやや斜め上方へ。
パッ、という音さえしなかった。
ただ、やや大きめの仕草で扇子を開いて、そのまま口元へと持ってきただけなのだ。
その仕草だけで、暴走寸前だった場が一気に冷めていった。喧嘩をする猫たちに氷水をぶちまけたとしても、ここまで急激な変化は望めないだろう。
長老以外は誰も幽々子を見ていなかったのに、数瞬後には水を打ったような静けさへと変貌を遂げた。
幽々子の顔は微笑んでいた。
場の者は皆、口を開く勇気など一欠けらも残っていなかった。
妖怪の中には、音を立てたくないあまりに息を止めている者もいた。
誰もが無意識と、本能で理解している。
次に発言する者は幽々子なのだ。
幽々子は、皆を一人一人、丁寧に見回していった。
その間に、妖怪の一人が酸欠で意識を失った。
ぜえぜえという音が場に響いて、幽々子の目がそちらを向いた。
隣にいた妖怪は、生涯最高の動きで倒れた妖怪を担ぎ上げ、過去最高のタイムを記録する速さで場から離脱していった。
日常ならどう考えても理解できない異常な行動だが、皆が感じているのは同情のような気持ちだけだった。皆、彼らの行動を理解していた。今、物音を立てるくらいなら舌を噛み切る方がずっといい。
――命という概念を鷲掴みにされているような感覚
場に立ち込めていた熱という熱を奪い尽くしていく。ただ、ひんやりとした静寂がだけが場を支配する。
誰もが幽々子を見ていた。いや、誰もが幽々子から目が離せなかった。
まばたきすら躊躇われるような、畏怖。
場がまさに凍りついて、数瞬という永遠が経過した頃。
ふいに。
幽々子がつまらなさそうに、言った。
「つまり、人間がこのようになってしまうのだと、考えてよろしいですか?」
慧音は、コクコクと頷くことしか出来なかった。
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意図あって集められた会合は、詰め将棋なのです。 | ||
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