少女の結論とボクの結論
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 この地域は午後八時になると決まったチャイムから始まる放送が流れる。

 内容はひったくりに注意しろ、寝タバコに注意しろ、などのその時節に合わせた防災放送で、普段であれば窓の向こうから聞こえるバイクの騒音や救急車のサイレンなどと同じようにうるさいとも思うことなく、雑音と同じように耳を右から左に流れていく。

 しかし、この日の放送は孝明には体に刺さるかのように大きく聞こえた。

 

 孝明は心に決めていたとおり、八時のチャイムと同時に孝明のことを呼び出した相手の腹に包丁を刺した。

 月のない夜。人通りの少ない、自身が通っている中学校の裏。ブランコと砂場しかない小さな公園。その小さな公園の小さな屋外灯に照らされる死体。右手に残るナイフ。そして全身に浴びた鮮血。

 やっと殺せた。

 殺してしまった。

 この二つの言葉は真逆ではあるが同意だ。

 法治国家である以上、殺人という目的を果たしてしまえばその後に残るのは後悔と保身だけである。勿論計画的殺人であった以上、殺したあとの手筈を考えてはいたものの、目の前に広がる現実がこれほどまでに現実的だとは殺人者になる以前の孝明は知らなかった。

 真冬に裸で外にいるかのごとく全身が大きく震えている。本能が恐怖によって呼吸の仕方を忘れ、過呼吸になったかのようにひたすら息を吸っている。

 ――逃げよう!

 気を失わないようにギリギリ働いている賢明な思考と体の隅々まで行き渡った未知なる恐怖の間の妥協点は、視界からこの現実を消すことだった。孝明は死体に背中を向け、家へと走りだそうとした。

 すると――その走りだそうとして上げた視線のほんの数メートル先に、街灯に照らされた一人の女の子が殺人者を前に怖がる様子もなく、孝明をまっすぐに見つめていた。

「逃げるの?」

 女の子の小さな声が大音量の放送の間を割いて孝明の脳を刺すように響く。

「み、見ていたのか」

「ええ、見ていたわ」

 目の焦点が合わなくなるほどに孝明の頭は混乱を続ける。しかし、そのピントの合わない目でも――通っている中学校のものであるセーラー服は認識できた。

 この罪から逃げる、隠す、などが不可能かもしれない、ということはナイフを引きぬいた瞬間に薄々は感じ取った。そして、同じ学校に通う生徒に目撃をされたということは、その感じ取ったなどという生ぬるい感覚を否応なしに確定的なものにする。

「あ、あ――」

 通報したのかという問いたいことと、通報されてなくとももうダメだという絶望感が、声にならない声としてわずかに漏れる。

「なんで殺したの?」

「こ、殺さないといけなかったんだ。あいつは、あいつは――」

 孝明は自分を恐れた。言葉が出てこないわけではない。話すことよりナイフを握る右手に意識が移っている。

 ――ああ、多分ボクはまた――。

「大丈夫よ。多分私は、あなたが今一番求めている人」

「求めている?」

「私も人を殺したことがあるわ」

 右手がわずかに緩む。

 同じ境遇の人、それは孝明に少しの冷静をもたらした。しかし焦りと興奮という炎で熱した頭にほんの少しの冷静さを注いでも、一気に湯気が上がるだけで頭は冷めるわけもなく、むしろ湯気の分頭にさらにもやがかかったかのように思えた。

 その上、殺人というものはこの小柄な女の子にあまりにも似つかわしくない。

「友達を橋から川へ突き落としたの。事故として片付けられたけどね」

 孝明の目の焦点がだんだんと合ってきた。顔は綺麗に整っているがまだ小学生のように幼い。青みがかった瞳。そして闇を跳ね除けているかのように白い肌。街灯によって輝く長い黒髪。ただ、一番目立ったのは額に見えた大きな刀傷の跡ようなものだった。しかし、普通だったら異様なはずのその刀傷も何故か神秘的に見せる、不可侵な存在を誇張するようなオーラのようなものを放っている。確認すればするほど耳から入ってくる情報と目から入ってくる情報が乖離していく。

「なんで――?」

「なんで殺したのかしらね。私にはわからないわ」

「わからない?」

「ええ、わからないの。そして多分、わからないから殺したの」

 少女は淡々と受け答えをする。しかしその言葉の意味を孝明は微塵も理解出来ていない。

 そして勿論、逃げねばならないという本能もしっかりと働いている。が、それ以上にこの少女には孝明を惹きつけるなにかがある。

「心のどこかでその子のことを嫉妬してたのかもしれない。触れたもので殺人の欲望がどこかにあったのかもしれない。落ちたら死ぬのかな、っていうことの確認かもしれない。でも、あの時の私は彼女の背中を押したことに何の理由もなかったの。だから、振り返ってもそれは全部言い訳か歪んだ自己愛にすぎないの」

 まだ後ろで放送は流れて続けているが、まるで彼女だけ別の周波数で声を出してるかのように、その小さな一語一語がはっきりと聞こえる。

「この感覚を一般的な言葉で表すなら、そうね、狂ってる、そういうことかしら」

 多分それは間違っていない。ナイフを持った男を前に微動だにしないで話を始める女子中学生、いや、大の大人だって正常な神経ならありえない。

「狂ってる――」

 孝明はだんだんと殺人後の気分が高ぶって抑制できない状態から、ハイとローが秒単位で行き来する不安定な精神状態へ移行している。

 ああ、やっぱりボクは狂っているんだ。狂っている、だからどうした。天使と悪魔というお決まりの文句が似合うように、正義と保身がせめぎ合っている。

 それがちょうど中間にいるために、孝明は逃げることも諦めることも出来ずにこの少女の前で止まっている。

「ただ、私はいまだに思うの。私のしたことは罪なのかって」

 初めて、少女がかすかに笑った。

「ここが戦場だったら、功績になる。相手がヒトラーだったら、百人いて百人が私を人殺しと呼ぶかしら? ――中学生が考えそうなことよね。でもまあ実際そうなわけだから。何が言いたいのかっていうと、罪になる部分は殺人って部分じゃなくて、誰を、何故殺したかって部分じゃないのかなって」

 彼女がこの先の会話に何を求めているのかが、孝明には全く読み取れない。

「ああ、運悪くタイムリミットが後ろから来てるわね――」

 そういうと少女は一歩孝明に近づき、強い口調で述べた。

「殺人者の先輩としてあなたに私の結論をあげる。この先、罪が降りかかってくるのはまぎれもない自分自身なの。それを理解した上で、人を殺したことを少しでも後悔してるなら――私の手を握って。一緒に連れてってあげる。私はそれが正しいと思ってるから」

 彼女の白い肌が眩しいくらいに光っている。その光はだんだんと強くなり、まるで孝明を包みこむようで――

 

 キィ!

 

 自転車のブレーキを強くかけた音。

「き、君、何をしている! 今すぐにそのナイフを離せ!」

 人を威嚇する野太い声。孝明は言われるがままにナイフを離す。

 カチン、という金属とアスファルトがぶつかった音が響く。放送はいつの間にか終わっていた。

 ラガーマンのようなガタイをもつ野太い声の主は、素早くあたりを見回し公園内に倒れている死体を発見した。

「二十時〇三分、殺人容疑の現行犯で逮捕!」

 そう言って孝明の両手に手錠をかけ、腕を折れんばかりの強さで握りしめた。そして、もう片方の手で無線をつかみ、その黒く小さい機械に向かって怒鳴り散らしている。

 逮捕されたのだ、と孝明は理解した。

 ――そんなことはどうでもいい!

 孝明は手錠を見つめハッと気づく。

「あの子は!? さっきまでそこにいたあの女の子は!?」

「女の子だァ! 共犯か!? 目撃者か!?」

「違うんだ! 髪が長くて、青い目をしていて――」

「お前、麻薬か!?」

 警官は乱暴に胸ぐらを掴む。

「違う! 額に大きな傷がある女の子なんだ! 僕と同じ学校だから探せば絶対に見つかる! 逮捕でも何でもいいから、もう一度あの子と話がしたいんだ!」

「額に大きな傷だァ?」

「そう、刀傷みたいな、パックりとした傷が!」

 孝明の胸ぐらを掴む力が少し弱まる。

「そいつは額の中心から左目に向かってまっすぐに切れてたか?」

 警官は自分の額をさしながら孝明に向かって問う。孝明はほんの数秒前のことを思い返す。

 ――そうだ、確かに傷は左目に向かってまっすぐに切れていた。

 孝明ははっきりとハイ、と答えた。

「それで髪が長くて、目が青くて――」

 警官が威嚇する目付きから、哀れなものを見下ろす目へと変わった。

「多分お前さんが見たのは幽霊だ。ここで五年前、自殺した女の子がいてな、まさにその子だ。額に刀傷がある女の子なんてそうそういやしねえ」

「幽霊――?」

 幽霊ということを信じないことの現実と、幽霊ということを信じる現実。後者のほうがすべてのつじつまがあうのは――必然と思うしかないのだろう。

 孝明は、全身の力がすうっと抜けていくような気がした。

 馬鹿らしさ、覚めた頭、非現実的すぎる存在。

 そして、何故出てきたのだろうということ。哀れだったのか。寂しかったのか。呼び起こしたのか。仲間を見つけたからなのか。

「ああ、一緒にいた友達を事故で亡くしてな。その事故から私が殺したんだっつーように不安定になっちゃってな。まだ綺麗だった額を切って自殺未遂をしてみたり、そんでついにはそこで自殺をして――」

 もう野太いその声は孝明にはあまり聞こえていない。

 少しでも後悔しているなら――少女はそういっていた。そしてまだ孝明には人間として生きる要素が残っている。すなわち、人を殺して罪悪感を抱く心は残っている。

 多分、死ぬ前に彼女は彼女なりの殺人に対する哲学を手に入れたのだろう。そして、彼女が行き着いた結論は自らの死だった。それに習うか習わないかを考えるには孝明には時間が足りない。

 

 孝明はうなだれるように警官から目をそらす。

 そこには、少女の手が差し伸べられていた。

説明
自分の中の正しい行いと、それが社会では許されないことということの当然のギャップ。
そこに差し伸べられる少女の手。
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オリジナル 殺人 幽霊 

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