【TB・虎兎】禁断の木の実は一番おいしい Forbidden fruit is sweetest 1【腐向】 |
Prologue.
突き抜けたように青い空に、小型の黄色いセスナが飛んでいた。
乗員は三人だ。レトロなサングラスを掛けた壮年のパイロットと、狭い革張りのシートに不機嫌そうな面持ちで座る金髪の青年、そしてビールを片手に陽気な表情で鼻歌を歌っている、目元だけを黒いマスクで隠した中年男。
どちらも長身で、よく鍛えられた体つきをしている。
「……それにしてもよく飲みますね。いざついた時にふらふらになっていたら、捨てていきますよ?」
「たかがビールの二本や三本で酔っ払うかよ。優雅な空の旅に冷えたビール! サイコーだぜぇ?」
「そうですとも! ワシだって操縦がなけりゃ飲みたかったところだ!」
ご機嫌な男の言い草にパイロットまで加わり、そんな二人にうんざりとため息をついた青年は、特徴的な金色の巻き毛をかき上げて肩を竦めた。
この青年の名は、バーナビー・ブルックスJr.
金髪と緑の瞳、白い肌に加え、品のある整った容姿をしているが、その正体は川の中州に浮かぶ美しい水上都市、シュテルンビルトの誇るスーパーヒーローである。
一方の中年男は鏑木・T・虎徹。
黒髪と琥珀色の瞳、日に灼けた肌の色で、一目で東洋系の人種だと見て取れた。
こちらもヒーローだ。ただし本名は明かさず、「ワイルドタイガー」という名で活躍している。
「しっかし、今回は本当に嬉しかったね! シュテルンビルトを救った英雄、あのワイルドタイガーとバーナビーを運べるなんざ、運び屋仲間にも自慢できるってもんだ」
「はは、英雄なのはこいつで、俺はオマケだけどな」
「謙遜しねえでくださいよ。前にテレビでバーナビーさんが言ってたじゃねえですか! アンタの助けがなけりゃ、勝てなかったって! なあ、ワイルドタイガー、あんたは俺たちにとっちゃ特別なヒーローだ。今回はご褒美と療養を兼ねた長期休暇なんだってな。リフレッシュして、またがんばってくださいよ!」
「おう、そりゃもちろんだ」
本当に嬉しそうに口元のしわを深くしてミラー越しにウインクをしたパイロット、エディに苦笑すると、虎徹は髭と並んでトレードマークになっているハンチング帽を被りなおし、残っていたビールを飲み干した。
直属の上司であるロイズから今回の旅行について聞いたのはほんの三日前だ。バーナビーはこの旅行が強制参加の上、虎徹と同行することも意外だった。
バーナビーにしてみれば、せっかくの休暇に落ち着きのない虎徹のお目付け役をさせられるようなものだ。
もっとも、同行の理由として現地でのグラビア撮影があるからということはわかっているが、べつに現地集合でも構わないのではないかというのが本音である。
(冗談じゃない、……と言いたいところだけど、たまには悪くないか)
以前の自分であれば、厭味の一つや二つどころか、既に不機嫌全開になっていただろう。
しかし、今日は引き結んでいるつもりの口元が柔らかいことが自分でもわかる。
そんな自分の心境の変化を不思議に感じながら、バーナビーは楽しそうに笑う東洋人にしては彫りの深い横顔から視線を小さな窓に移した。
デビューしてから両親の敵であるジェイク・マルチネスを斃すまでは、本当にただがむしゃらなだけだったと過去を振り返る。
スーパールーキーとしてもてはやされ、特に女性や子どもたちから熱い支持を受けたが、落ち着いたバーナビーが周囲を見渡せるようになって気がついたのは、意外なほどのワイルドタイガーの人気だ。
それも、あのジェイクを打ち倒すのに大きな力となったことをバーナビーが話したからではない。純粋に長年ワイルドタイガーを応援しているのは、彼自身に年齢の近い男性陣だった。
この壮年のパイロットもそうだ。もちろんバーナビーにも失礼のないよう接しているが、なによりもワイルドタイガーに会えたことが嬉しいのだと全身から伝わってくる。
(これもこのオジサンの人となり…かな)
やたら賠償金を背負っても、テレビの前では活躍してるように見えなくても、一貫して見せてきた虎徹のヒーローとしての姿――。
十年間の積み重ねが、確かなヒーローとしての姿を彼らの中に残しているに違いない。
そう思って口元に浮かんだ淡い笑みをごまかすようにメガネを掛けなおすと、バーナビーは小さな窓越しに広がった真っ白な雲の切れ間を見た。
まず飛び込んできたのは眩しい光。そして紺碧と呼ぶに相応しい、青と碧が混じり合った美しい海である。
「おお? さすがこの辺りの海は色が違うな! バニー」
「……バーナビーです」
いい加減慣れてはいたが、単調なエンジン音を聞きながらの長い空路で疲れていた神経がチリっと反応して、つい言い返してしまう。
「あァ? まだこだわってるのかあ?」
「こだわりますよ。誰だってウサギ呼ばわりされて嬉しいはずがないでしょう。わかりませんか? オジサン」
最近ではようやく名前と半々になっていた呼び名を、わざと昔のように戻して言ってやる。
怒るかと思ったが、虎徹は怒らずに自慢の髭を撫で、「まあ、俺は気にしないけどな」と笑って自分が飲んだビールの缶を片付け始めた。
上手くはない鼻歌を歌いながら腕時計を確かめる横顔は本当にご機嫌な様子で、バーナビーの方もこれ以上突っかかる理由が見つからなくて黙り込む。
「バーナビーさん、退屈させちまったでしょうが、もうすぐですよ」
「え?」
「もうすぐ目的地の『サリ』です。今から百年前のあの大地震で浮かび上がった楽園の島――地球上で最も天国に近い島でさ」
エディの台詞が終わらないうちに、小さな群島が見えた。濃い緑色の小さな島々は、まるで海に浮かぶ緑の宝石のようだ。
「おお、すげえ。まさに太陽の如く……だな」
続いて身を乗り出して覗き込んできた虎徹の言葉は、陳腐な比喩ではなかった。
見えてきたのは、巨大な石造りの神殿を中心に据えた本島だ。周囲を八つの小さな島に囲まれていて、その姿は太陽そのもののように見る者の目に映る。
「この島は、本来は船でなきゃ上陸を許されないんですよ。ただ海路になると来るだけで何日もかかっちまいますからね。まあシュテルンビルトを救った英雄お二人ですから、そこはちょっとだけ特別扱いってヤツですな。飛行機を除いてこの島の形を見渡せるのは、あの神殿にある塔だけだって聞いてます」
「そうですか。確か、ここは島のすべてが観光施設でしたね」
「その通りです。ここならヒーローも政治家もない。だからゆっくり羽根を伸ばしてくださいってことで」
「楽しみだぜ。なあ、バニー?」
「ええ」
返事を促すように肩を抱かれて、バーナビーはいつものように社交用のにこやかな笑みを浮かべて頷いた。
「さあ、着きましたぜ。この島から船で本島に向かってもらいます。第一の島…ここが唯一飛行機の着陸が許された場所です」
エディに教えられて見下ろした小さな島に、両サイドをパームに囲まれた灰色の滑走路が見えた。本当に申し訳程度の長さで、とても大型の飛行機は降りられないほど狭い。
管制塔と短い通信を交わしたエディに促されてシートベルトを締めなおし、緩やかに近づいてくる滑走路を見下ろしているバーナビーの視界を、白い鳥の群れが横切った。
この辺りにしか生息していない尾の長い真っ白な海鳥は、サリの象徴と呼ばれるラフィリアだ。
優美な姿に見とれているうちに、がくりと振動が伝わってセスナが着陸した。
見た目は旧式だが、設備は最新型のセスナでも休憩を入れた空路で丸一日の旅路である。虎徹もバーナビーもベルトを外すのももどかしく、扉を開けて飛び降りた。
いくら設備が良かろうとも長身の二人が小型のセスナの中で身動きできる範囲は限られていたので、固いアスファルトの上に立って伸びが出来るだけでも有難い。
エディもそんな二人の気持ちがわかっているのだろう。にこにこしながら二人の荷物を降ろして、それぞれに手渡した。
「――それでは、お二人ともどうかお気をつけて! 帰りもぜひお声を掛けてください。タイガーさんも、ちゃんと遊び方を教えてあげなくちゃ駄目ですぜ?」
「もちろんだ! ありがとうよ。世話になったな」
「今さらなにを教わる必要があるのかは疑問ですが、ありがとうございました。この辺りは気候が不安定だそうですから、どうぞお気をつけて」
妙に下品な笑みを交わす二人に呆れながら手を差し出すと、エディは代わる代わる握手をして黄色い愛機に乗り込む。
そして様になるエディの敬礼に虎徹が返礼すると、横腹に書かれた水色の文字「Love and friendship」が、すぐに読めない高度まで舞い上がった。
「慌しいですね」
「空からってのはそれだけご法度なんだと。お客人の夢が壊れるからってよ。しょうがねえさ」
「現実を忘れて楽しむ島だから、でしょう?」
「そういうこと! まあ、その前に俺たちはグラビアを一本片付けなきゃならねえけどな。……っと、おいでなすったぜ」
囁くように言われて、バーナビーは虎徹が視線を向けた先に向き直る。
吸い込まれそうな空の下、肩に大きなラフィリアを止まらせて歩いて来たのは、コーヒー色の肌を大胆に露出した長身の女性だった。
胸だけを覆うビキニのようなタンクトップと幾何学模様のパレオは、スタッフのユニフォームである。
ヒールの高いサンダルのせいもあるが、視線の高さはほぼ虎徹と並んでいた。
「ようこそ、楽園の島、サリへ……。あのシュテルンビルトでも名高いヒーローコンビにおいでいただけるなんて、嬉しいですわ」
「こっちこそ、まさかこんな美人に出迎えてもらえるなんて思ってなかったですよ! いやあ、参ったな」
「まあ、そんな。お上手だこと。うふふ…」
特徴的に編んだ長く豊かな黒髪を腰まで垂らした女が妖艶に微笑み、鼻の下を伸ばした虎徹の首に鮮やかな花のレイを掛けて頬に口づける。
そうしながらちらりと向けられた濃い青の目に、バーナビーは妙な既視感を覚えた。
(……なんだ?)
「さあ、バーナビーさんも」
「…………どうも」
いつもなら満面の笑顔で応じる場面だが、バーナビーの表情は固い。
甘く強い匂いのレイを掛けられて身を引くが、それよりも早く女の腕が首に回って引き寄せられた。
「!」
危うく唇に口づけられるところをかわして、耳元に濡れた唇が触れる。
虎徹の下品な口笛よりも、突き放されても動じず見つめてくる女の目に浮かぶからかうような表情の方が癇に障った。
彼女を突き飛ばした瞬間、慌てて飛んだラフィリアの白く長い尾が柔らかく頬を掠める。
「あら…ごめんなさい。まさかバーナビーさんには、こんな挨拶はまだ早かったのかしら?」
「おいおい、なにも突き飛ばさなくてもいいだろうがよ。お嬢さん、大丈夫ですか? あのでかい鳥にも悪いことしちまったな」
「わたくしも、あの子も大丈夫ですわ。でもラフィリアはスタッフにしか懐いていませんから、気をつけてくださいね。あれでけっこう気が荒いところがありますの。バーナビーさん、ごめんなさいね? わたくし、からかうつもりではありませんでしたのよ」
生理的な嫌悪感に逆らえず手の甲で耳元を拭っていると、虎徹がわざとらしくバーナビーを咎めながら女の機嫌を取っていた。
文句を言いたいが、着いた早々騒ぎを起こすのも本意ではない。バーナビーは白々しい女の詫びを黙殺して視線を逸らした。
「ふふ、お可愛らしいこと。ではお二人とも、楽園の庭でごゆっくりお過ごしくださいまし。ただ、ここではNEXTの力を発動するのは禁止になっています。場合によっては即刻国外退去になりますから、どうかお気をつけて。なにかございましたら、いつでもわたくしたちスタッフが駆けつけますわ」
「ああ、はい。NEXTの能力を使っちゃいけねえってのは聞いてます。あと、こいつはちょっとヘソ曲がりなんでね。どうかお気になさらず。えーと、それじゃ俺たちは向こうに見える建物に行けばいいんですかね?」
「いいえ。あれは管制塔ですわ。基本的に空からの入国は禁じられていますけれど、緊急事態がないわけではありませんから。本島へは船で向かっていただきます。ご案内しますわ」
「いえ、場所を教えていただければ僕たちだけで大丈夫です」
早くこの女性と離れたい。そう思って断ったが、女は婀娜っぽい仕草で編みこんだ長い黒髪を流し、また肩にあの白い鳥を止まらせて微笑んだ。
「いいえ、ご案内しますわ。この第一島は狭いですけれど、それでも一般人の立入が禁止された場所がありますの。危険な場所もね。さあ、わたくしについていらっしゃって?」
「バニー…」
「…………」
どうやら、ほかに道はないらしい。笑って促す虎徹にため息をつくと、バーナビーも肩を竦めて長身の美女に続いた。
1
稀代のテロリスト、ジェイク・マルチネスとの壮絶な決着から二ヶ月。
直属の上司、ロイズから突然休暇を取るように言い渡されたのは、二人が退院して、そろそろ調子を取り戻してきたころだった。
その時には驚いたし、虎徹も自分も必要ないと断ったのだが、会社としての決定だと言われて従わざるを得なくなった。
それがバーナビーの養父とも言える存在であり、このアポロンメディアの社長、アルバート・マーベリックの指示だということ、それから他社のヒーローも同じように順番に休暇を与えられると知ったからだ。
なにより、これで現在準備を進めている二部のヒーロー候補生たちにも実戦の場が与えられる。彼らに必要なのはなによりもまず経験だと諭されれば、断るわけにはいかなかった。
かくして、虎徹とバーナビーのコンビが揃ってこの島に渡ることになったのである。
第一島に降り立ってから小一時間ほどで、二人はホテルに到着した。
出迎えた女に教えられた通り、第一島と本島を結ぶ船から下りた港でホテル直通のリムジンに乗ったのだ。
車窓から見える風景は、確かに「楽園」と呼ぶに相応しいもので、眺めているうちにバーナビーの気分も落ち着いた。
空は透き通るように青く、道は優しい灰色混じりの石畳で、ところどころに大きなパームの葉が揺れ、絶妙の配置で南国特有の色鮮やかな花々が咲いている。
建物は濃淡様々な木造と、改まったものは白っぽい石造りだ。店や民家に関わらず、どれも凝った意匠の彫刻や絵が飾られ「南国の楽園」のイメージ通りの統一感を醸し出している。
行き交う人々は住人か観光客かを問わず水着やラフな姿の者が多く、いかにも開放的だ。
誰の表情も楽しげで、見ている方まで釣られそうな気持ちになる。
このリゾート地については、「心地良い」と感じるように色彩や建物、緑の配置を計算し尽くして造られているという情報から「人工の不自然な観光地」という先入観があったが、バーナビーもホテルのチェックインを済ませるころにはそんなイメージは消えていた。
「やっと着いたぜ! しっかし、これでもうちょっと涼しけりゃ言うことねえのになー」
「常夏の国です。それは仕方ありませんよ。でも、プライベートビーチにある水上コテージに滞在できるというのは、ちょっと素敵ですね」
「覗かれる心配もねえし、カーテン全部開けっ放しにすりゃ、風が気持ち良いしな」
「いくら治安が良いと言っても、無用心な気はしますけどね。エアカーテンがありますから開けっ放しでも虫や熱気に悩まされることはないそうですが、入り口に扉もないのは気になります」
二人の部屋として案内されたのは、ホテルのプライベートビーチに建てられたコテージだ。
こじんまりとしたレトロな木造だが設備は最新で、エアカーテンを使う空調や防音設備も整えられている。
大きな窓や出入り口には大胆な構図で花や草木の模様を織った布を何枚も重ねて扉代わりにしていて、虎徹は大いに気に入ったようだが、バーナビーは不用心な気がして好きになれなかった。
「おお、見ろよ! シャンパンにワインにビール、ジュースもあるぜ。それも特上のヤツばっかりだ! さすがに気前がいいな」
「それ、取ったらチャージされるヤツではないですか?」
「小せえことを気にするな。今回は会社持ちだぜ?」
「それはそうですけど……。まあ、自販機もないようですしね」
「そういうこった。小さいがキッチンもあるし、その気になりゃ自炊もできるな。まあ、外食中心になるのはしょうがねえとして、バールやレストランもよりどりみどりだし」
さっそく大きく広々としたソファに腰を下ろした虎徹を置いて、バーナビーはコテージの設備をさらに詳しく見て回ることにした。
いついかなる時でもヒーローたるもの、油断は禁物。安全の確保はなによりも最優先される事項だ。
虎徹はよくヒーローとしてのこだわりや心構えについてああだこうだ言うが、こんなところを見ているとどうしてもイライラさせられてしまう。
しかも、そんな自分の気持ちを読んだように、虎徹が時々からかい混じりの視線を向けてくるのが腹立たしいが、努めてバーナビーは普通の表情でやり過ごすことに決めたのだった。
つまらない挑発に乗れば、もっと面白くない事態になることが目に見えているからだ。こと虎徹に関しては。
「バニーちゃん、なんか面白いモンは見つかったか?」
「べつに面白いものを探している訳ではありませんよ。初めて来たところでの安全確保は、最重要事項ですから」
「それも教科書か」
「それが何か?」
さっそく取り出したペリエを片手に笑う虎徹をじろりと睨むと、バーナビーは改めてリビングの天井を見上げた。
丸太を組んだ梁がむき出しの高い天井には、大きな空調機のプロペラがゆったりと回っている。木と焚き染められた香の匂いは慣れれば気にならないのかも知れないが、部屋数が少ないのはいただけないと思った。
コテージの大きさから考えれば不釣合いなほど大きなバスルームを除くと、このリビングとベッドルームしかないのだ。
「虎徹さん……ロイズさんはちゃんと二人だって言って、部屋を予約したんですよね?」
「あ? ああ、そりゃそうだろ」
ソファに陣取ったまま旅行バッグを開けて、カメラや土産リストを取り出す虎徹に尋ねるが、虎徹は「だからなんだ」と言わんばかりに目を瞬くだけだ。
バーナビーはため息を堪えて言った。
「……いえ。ベッドルームが一つしかなかったので」
「ベッドが一つしかないとか?」
「そういうわけではないです」
観葉植物が置かれた広いベッドルームに並んでいたのは、天蓋つきのベッドだった。どちらもその気になれば二人でも楽に寝られるぐらいの広さがある。
一日や二日ならまだしも、コンビを組んでいる相手とはいえ他人と何日間も寝泊まりすること自体初めてのことなので気分が重くなったのだが、虎徹は気にならなかったようだ。
「なんだよ、二つあるならなんの問題もねえだろ」
「そんなものですか?」
「入院中にそんなこと気にしたか? 最後は大部屋でバイソンたちともいっしょだったじゃねえかよ。まー動けなかったからケンカになってもミカンの投げ合いするのがせいぜいだったけどよ」
「あれは特殊な状況だったじゃないですか」
「入院中はお互いのションベンの音まで聞いたんだ。今さら気にすんな。心配しなくたって、おまえがどこかのお嬢さんと仲良くしたけりゃ出てやるさ。飲む場所にゃ困らねえしな」
「なんてことを言うんですか!」
あまりの言いように赤くなって言い返したが、笑った虎徹にひらひらと手を振られて、話を打ち切られてしまった。
「まったく……。もういいです。撮影が終わったら僕は僕で好きにやりますから。オジサンもお好きにどうぞ」
「はいよ、了解」
「さっさと用意して下さいよ。約束まで時間がないんですから」
ここでムキになってもからかわれるだけだ。この数ヶ月の付き合いでその程度のことは学習したので、バーナビーは少し考えてベッドルームに移ることにした。
リビングのソファは大きいが、どうしても虎徹と並んで座る気分になれなかったからだ。
ちらりと見ると、虎徹はテーブルにハンチング帽を置き、脚を組んで買ったばかりのパンフレットを眺めている。にこやかな横顔は本当に楽しそうで、最初は慰安旅行を渋っていたのだが、もう気持ちを切り替えているのがわかる。
(……こういうところは、見習うべきなのかも知れないな)
いつまでも順応できないのは自分だけだ。
そっとため息をついて扉代わりのカーテンのような布をよけてベッドルームに入り、クロゼット側のベッドに腰を下ろした。
今はエアカーテンを切ってあるので、外から吹き込む風が深い紅色や紺色で植物の形に模様を染めた麻の布を大きく揺らす。
その度に青い空が見えて、思わず目を奪われた。鮮やかな原色の布との見事なコントラストが眩しい。
優しい波の音に加え、時折視界を過ぎる真っ白なラフィリアの美しい姿に見とれてしまった。
細部にまで拘った選ばれた者のためのリゾートというのは、まんざら嘘でもないようだと思う。
このサリに入国するのはそれだけ難しいのだ。たとえ軽度のものであったとしても、一度でも犯罪歴があればそれだけでビザが下りないし、特にこの本島に至っては十五歳以下の子どもも入国を許さないという徹底ぶりである。
いつの間にか、バーナビーはベッドに横になっていた。
仕事の前だというのに、ヒーローとしてのバーナビー・ブルックスJr.が自分の中で勝手に休暇宣言を出してしまいそうだ。
天井の複雑に組まれた梁の手入れの行き届いた艶を眺めつつ、柔らかな香の匂いを嗅いでいるうちにまぶたまで重くなる。
しかしそれもつかの間、リビングの虎徹の声が聞こえて、現実に意識が引き戻された。
「これはどーもどーも、大丈夫でしたか?」
「少し遅くなりましてすみません。やっとスタッフが揃いまして」
どうやら、撮影クルーが来たらしい。虎徹の声が聞こえるまで気がつかなかった自分に驚きながら、バーナビーは本格的に眠ろうとしてしまっていたのか、予想外にだるい身体をなんとか起こした。
「バニー、お客人がお着きだぜ」
「はい」
アイマスクをつけた虎徹に戸口からひょいと顔を出して言われ、ベッドから足を下ろしたバーナビーの前に、眉をひそめた虎徹が大股でそばに来た。
「なんです?」
「どうも顔色がよくねえな。気分が悪いとかないか?」
「いえ、特には。少し眠くなっただけです」
ずいっと間近で顔を覗き込まれて目を瞬くと、虎徹はまだ心配そうな表情のままでぺた、とバーナビーの額に手を当てた。
「熱はねえな」
「ありませんよ。もう、なんですか?」
「なに、ちょっと気になっただけだ。移動で疲れたのかもな。この撮影さえ終わったらあとはオフだ。それまでの辛抱だぜ、相棒」
「早く遊びたいのは貴方だけですよ。大体、怪我の程度は僕よりも重かったのに、同じ時期に退院できるほど回復の早い貴方の方が可笑しいんです」
「俺の体力がそれだけスゴイってこった。ほら、行くぜ」
苦笑して肩を竦めたバーナビーの様子を見て安心したのか、にっと笑った虎徹に肩を抱いて促され、バーナビーは素直に立ち上がってあとに続く。
リビングに戻ると、落ち着きなく部屋を見回していたカメラマンとスタッフ二人がぱっと笑顔になってかしこまった。
カメラマンは気のよさそうなラテン系と思しき中年男、スタッフの一人は虎徹より少し下ぐらいの鍛えた体つきで無口な男性、残った一人はバーナビーと同じぐらいの青年で、そばかすとにこにこした表情で少し幼く見えてまるでアルバイトのようだ。
「お疲れのところ、すみません! カメラマンのフラビオです。左の無口なマッチョはスタイリストのルッツ、右の童顔はマチュー。彼がインタビューも担当します。どうかよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。今日はグラビア撮影…ですよね?」
「はい。あとはこのサリのPRを兼ねてインタビューを少し。お二人のオフを邪魔してしまうことになって申し訳ないのですが、なるべく早く済ませることにしますから」
「気を遣っていただかなくても結構ですよ。仕事ですから」
にこり、といつもの笑顔で握手すると、カメラマンが照れくさそうに赤くなり、嬉しそうに頭を掻いてほかの二人を促す。
「では、まずこのビーチで一枚撮りましょうか。お二人とも、水着に着替えてください。それから日焼け止めを。ルッツ、頼むぞ。マチューは俺と撮影の準備だ」
フラビオの指示にルッツはいかめしい顔で頷き、マチューはにこにこ頷いて飛び出した。
私物の水着に着替えるのかと思ったのだが、衣装も準備してあるらしい。ルッツがスーツケースを開けてあれこれ取り出すのを横目に、バーナビーがシャツを脱ぐ。
顔出しのヒーローとしてグラビアは何度も経験しているので、仕事だと割り切れば人前で裸になることも厭わないが、虎徹も経験が長い分同じらしく、豪快にスラックスまで脱いでいた。
「オジサン…せめて下着は隠れて脱いでくださいよ」
「あ? 男同士だし、いいだろ。べつに減るモンじゃなし」
「そういう問題ではありません。デリカシーのない人ですね」
「はいはい、バニーちゃんは俺と違って紳士(ジェントルマン)ですもんね〜」
軽口を叩きつつも一応配慮したらしく、腰にバスタオルを巻いて着替える虎徹に肩を竦めて、バーナビーもルッツに手渡されたパレオを巻いて下着を脱ぐ。
続けて渡された水着はかなりきわどいビキニで、思わず目を丸くしてしまった。
虎徹も同じ心境だったらしく、「どうするよ?」と視線で訴えられる。
我慢しろと言われればそれまでだが、思わず口を開きかけたところで、先にルッツに言われてしまった。
「パレオをつけますので、お気になさらず。タイガーさんは先に普通の水着とシャツで撮りますので、そちらのものをお願いします」
「あ…そ、そうなんすか?」
「はい。バーナビーさんも泳ぐときにはもう少し布面積の多い水着を着ていただきますから、大丈夫ですよ」
正直、拍子抜けだ。だがまあ、それなら構うまい。
ほっと息をついて水着に着替えたバーナビーの腰に新しいパレオが巻かれ、次いで背中に日焼け止めのローションが掛けられる。
遅れてアシスタントらしき女性が入ってきて虎徹の手伝いを始めたが、虎徹の方は「美人に触られると落ち着きませんので」と断って自分でローションを塗っていた。
「よし、俺はこれで終わりだな。バニーちゃんは全身きっちり塗っておけよ。日焼けってのは案外怖いんだ。俺と違っておまえさんの肌じゃ大火傷になっちまうからな」
「わかってます」
「タイガーさん、一応メイクも……」
「ああ、はいはい」
この世界に入るまで知らなかったことだが、撮影の時は女性だけではなく、男性もメイクをする。
アイマスクで顔を隠した虎徹でも細かい部分まで手を加えられるのだから、素顔のままのバーナビーはなおさらだ。
それこそ女優のようにあれこれ塗られ、爪の手入れまでされてしまった。
「あの…化粧までするんですか?」
「目鼻立ちをはっきりさせた方が写真で映えますからね。二人とも肌が綺麗なのでカバーはいらないけど、これだけ元がいいんだからデータで修正するのはもったいない」
「はあ」
ノーメイクに見える虎徹でもファンデーションをつけ、唇にはベージュのグロスをつけられている。バーナビーの唇にもルッツの硬い指がパールのグロスをひいた。
いつものグラビアではもう少し簡単に済ませていたので戸惑ったが、これも職人のこだわりと言われればそれまでだ。
虎徹と同い年ぐらいの女性スタッフが小さく笑って虎徹に続き、バーナビーの髪をブローする。
最後に虎徹は色鮮やかなレイを、バーナビーはウッドビーズと貝殻の首飾りをじゃらじゃらと首にかけられ、ひとまず準備が終わった。
「なーんか、落ち着かねえな」
「同感です。スーツなら慣れてるんですけどね」
「バニーちゃんは下着もやってただろ」
「それは貴方もでしょう」
なんだか気恥ずかしくなって不毛な言い合いをしているところでカメラを構えたフラビオに呼ばれ、振り向いたところでシャッターを切られる。
「お二人とも、イケてますよ。さあ、ビーチに出ましょう。あ、サンダルはお忘れなく。火傷してしまいますからね」
とにかく、ここまで来たならあとは覚悟を決めるだけだ。まとわりつくパレオの裾を払いながら出て行くと、待っていたスタッフ数人が歓声を上げて迎えてくれた。
「お休み前の一仕事だな、バニー」
「ええ。さっさと終わらせましょう」
階段を使うのももどかしく軽やかに飛び降りた虎徹に頷いてビーチに降りる。正面には南国の海、後ろは立ち並ぶパームとハイビスカスの群生と、ロケーションは最高だ。
「はいはーい、では、お二人ともこっちへお願いします! まずは海を背景に撮りましょうか!」
慌ただしくレフ板を用意するマチューの愛想の良い声に応えて進みかけたバーナビーだったが、ふと視線を感じて身構える。
この中の誰とも違う類の視線の主は、スタッフから離れた場所からこちらを見ていた女だった。
(あのひとは……)
特徴のある編み込んだ黒髪を払って微笑んだのは、最初に会ったスタッフの女性である。
「あの美人、よっぽどおまえが気になるんだな」
「え?」
「バニーちゃんの社会勉強にはもってこいじゃないのか?」
「なんの社会勉強ですか? …って、ちょっと。なにをしてるんです?」
大きな手が頭に置かれて睨むが、虎徹は気にせずになにかをバーナビーの耳元に挿した。
「ハイビスカスだよ。赤いハイビスカス、好きだろ? 部屋にもあんなでっかいパネルがあるし」
「べつに好きなわけじゃありませんよ。最初から部屋にあったものですし。貴方がつけたらいかがです? 黒髪(ブルネット)に赤い花の方が映えるんじゃありませんか?」
「あ、バーナビーさんそのまま! 似合ってますから。タイガーさんはこちらでパームをお願いします」
むっとして取る前にスタッフに止められ、バーナビーは渋々そのまま波打ち際まで歩いた。
湿った砂は思いの外固く、スタッフにサンダルを脱がされて素足になると、足の裏に心地良いひんやりとした冷たさが伝わる。
「ジャンナさん、お願いします!」
「ええ」
「ジャンナ?」
聞き慣れない名前に思わず顔を上げると、あのスタッフの女性がこちらに歩いてきた。
サリ側のモデルなのかと首を傾げたバーナビーに微笑み、深い胸の谷間から取り出した銀の笛を咥える。
しかし、音は聞こえなかった。
「くぅーッ、目の毒だな!」
「貴方だけです」
「オマエ、ちゃんとついてんのか?」
「それ、ここで証明する必要があるんですか?」
下品な虎徹の言いようにじろりと睨んで言い返すと、虎徹は「できるもんならな」とぼやいてそっぽを向いた。
そんな様子にスタッフの間に和やかな空気が流れ、この言い合いの元凶となった長身の美女、ジャンナがくすくす笑いながら近づいて来る。
「本当に、仲がよろしいのね。名乗るのが遅くなりましたわ。わたくしはジャンナです。少しだけですが、今回の撮影に協力させていただくことになりました」
「や、これはどうもご丁寧に」
「協力…では、貴女もモデルを?」
「ええ、それもあります。あともう一つは……」
微笑んだジャンナが革製の太いベルトを巻いたしなやかな腕を伸ばし、そこに舞い降りてきたラフィリアが留まった。間近で見ると、やはり大きい。真っ白な尾羽が揺れ、スタッフの間に感嘆が広がる。
「ああ、じゃあさっきの笛が」
「ええ。犬笛と同じで、人の聴覚では聞こえない音でこの子を呼んだのです。サリのスタッフには一人に一羽、仲の良い子がいるのですわ」
「飼い慣らしているんですね」
「そうとも言いますわね。……さあ、どうぞ?」
虎徹は鼻の下を伸ばしているが、バーナビーはどうもこの女性が苦手だ。
なにやら大きなラフィリアに囁いてぬいぐるみのように差し出され、バーナビーは一瞬動けなかった。
「どうした、バニー?」
「あ、いえ」
「怖くはありませんわ。この子に言い聞かせましたもの。絶対に、バーナビーさんを傷つけないようにって」
「う、俺は?」
「ああ…そうですわね。説得が必要かしら?」
「いやいや、冗談ですよ」
にこやかな二人のやり取りに呆れながら渋々腕を伸ばすと、利口そうな青い目で顔を覗き込んできたラフィリアが大きな翼を広げて軽やかに飛びついてきた。
「わ…っと」
「おおー、凄いな」
「本当なら言い聞かせなくても、バーナビーさんに危害を加えるようなラフィリアはきっといませんわ」
まるで目を細めたジャンナの言葉に頷くように柔らかな羽毛に包まれた頬をバーナビーの耳元に寄せ、腕に収まったラフィリアは、見かけよりも攻撃力のありそうな鋭いかぎ爪のある足を縮こまらせる。
「ははは、似合うぞ。どうだ?」
「意外と…というか、見た目よりも重いですね。それに、がっしりしてます」
「そりゃ、空を飛ぶだけの筋肉がいるからな」
「はあ。あの、それで僕はどうすれば?」
正直、動物は苦手だった。今まで飼ったこともないし、どう接すればいいのかわからない。
その緊張が伝わると良くないだろうと思っても、バーナビーの身体も表情も硬いままだ。
しかし腕に収まったラフィリアは気にした様子もなく、むしろくつろいだ様子で驚いた。
「大丈夫ですわ。必要な撮影が終わるまでこの子はおとなしくしています」
「そうですか! ジャンナさん、どうもありがとうございます。よし、お二人とも撮りましょうか!」
「あ、あの、ちょっと…」
「バニー、大丈夫だとさ。さっさと片付けようぜ」
飼い主とも言えるジャンナがあっさりと離れ、虎徹には気楽に言われて、バーナビーは頬を引きつらせて波打ち際で立ち尽くす。
「バーナビーさん、笑ってください! タイガーさんはいい表情ですよ!」
笑ってるつもりが、引きつったままらしい。どうにか顔を作ろうと苦労していると、見かねたらしい虎徹が「じゃあ、俺がコイツを」と大人しくしているラフィリアに手を伸ばし、指先をつつかれた。
「いてッ、なんだよ。俺は動物と相性良いんだけどな〜」
「そう言えば貴方、以前本物の虎やライオンとも写ってましたね」
「そうだとも。参った。おまえは動物苦手そうなのに不思議なモンだ」
「まったくです」
ふくれっ面になった虎徹が可笑しくなってくすっと笑った瞬間、シャッターが切られた。驚いたが、それを皮切りに次々と角度を変えて写される。
「わ、髪を咥えてんじゃねえ! 焼き鳥にしちまうぞ!」
「それじゃ動物に好かれてるんじゃなくて、動物を脅してるんじゃないですか」
首を伸ばして虎徹の髪を咥えたラフィリアとのスリーショットは、スタッフには好評だったが雑誌には使えないそうで、その代わり今日の記念にプリントしたものを貰えることになった。
次は虎徹が脱いで水着だけになり、バーナビーがアロハ姿でハイビスカスの群生を背景に写真を撮り、最後に海だ。
予定通りバーナビーも水着を着替え、青と碧の混じり合った美しい海に入る。
遊ぶのにはもってこいの岩場もあり、はしゃいだ虎徹に思いっきり水を掛けられてやり返したことが引き金になって、バーナビーはところどころで表情を作ることを忘れたまま撮影されてしまった。
「バニー、潜れるか?」
「当然でしょう。水難救助の訓練も受けていますから、貴方より上手いぐらいだと思いますよ」
「ひひひ、言ったな?」
にやりと笑った虎徹がゴーグルをつけて先に潜り、負けじとバーナビーも続く。いつの間にか水中用カメラに持ち替えていたフラビオも、慌ててシュノーケルを咥えて追いかけてきた。
いざ潜ってみると、透明度が高くてわからなかったが、沖の方は思ったよりも水深がある。白い砂紋が光と水の流れを受けてゆらゆらと揺れ、豊かな珊瑚礁と鮮やかな色をした様々な魚の群れがバーナビーの視線を引き寄せた。
美しい。素直に感嘆して陶然と見とれていると、少し先を泳いでいた虎徹がちょいちょいと指でバーナビーを呼んだ。
不思議に思ってついて潜った先に、巨大な青いエビがのそのそと海底を歩いていて、思わず口を開けそうになって慌てて押さえる。
こんなに大きなエビは見たことがない。それ見たことかと笑う虎徹が憎らしいが、バーナビーは好奇心を抑えられずに手を伸ばし、長い触覚に触ろうとして虎徹に腕を掴まれた。
ふり返った先で真顔で首を横に振られて、大人しく手を引く。
虎徹が笑わないときは従った方が良い。それもこの数ヶ月で学んだことの一つだった。
青いエビはそんな二人のやり取りを気にする様子もなくのんびりと離れていく。次いで腕を引かれて視線を向けると、だいぶ離れたところに大きな魚の群れが見えた。
特徴的な頭の形をした魚影は、ハンマーシャークと呼ばれる鮫のものだ。
近づいてくる様子はないが、危険な魚であることに変わりはない。そのまま腕を掴んで水面を指す虎徹に従って浮上すると、思った以上に息が切れていた。
「あー、びっくりしたな。あいつら、確か群れで狩りをするんだよ」
「ええ。……こんなに近くで泳いでるなんて、大丈夫なんでしょうか?」
「ちょっと心配だな」
眉根を寄せた虎徹の呟きに、遅れて浮上したフラビオが答える。
「この島の回りには強度の高いワイヤーの網が張り巡らされていて、中には入ってこれないようにはなってるそうですよ。ジャンナさんがそうおっしゃってました」
「ワイヤーの網?」
「ええ。景観を損なわないように、なるべく見えないように作られてるそうですが」
なるほど。それなら問題はないのか。
そう考えたバーナビーは納得したのだが、虎徹はまだ顎に手を当ててなにやら考えている様子だった。
「……おじさん?」
うっかり本名の方を呼びかけてぎこちなくなったが、虎徹は違和感を感じなかったというより、それどころではなさそうな様子だ。
不思議に思ってもう一度声を掛けようとしたところで、虎徹が言った。
「なーんか、引っかかるな。こう、すっきりしねえっていうか」
「どういう意味です?」
「んー…ヒーローの勘ってのか? もぞもぞすんだよなー」
「はあ?」
しきりに首をかしげる虎徹の言いたいことがわからなくて目を瞬くと、虎徹はもう一度首を横に振ってフラビオに言った。
「駄目だ。気になるとどうもな。おいあんた、先に上がっててくれ。もうけっこう写真も撮れただろ?」
「あ、はい。な、なにかあったんですか?」
「わからん。なにもなけりゃそれで良いし、ちょっと見てくるだけだ」
「僕も行きます」
落ち着きなく岸を目指すフラビオの背中を見送り、すぐに潜ろうとした虎徹の肩を掴んで言うと、問いかけるように琥珀色の目が向けられる。
「海中ではなにがあるかわかりませんし、パートナーですからね。大体、僕ならともかく貴方が一人でと言うのはかえって不安です」
「言うねェ。いいぜ。ついてきな」
「貴方の許可なんて必要ありませんよ」
いつもの調子の良いものではないふてぶてしい笑みを向けられ、むっと唇を尖らせたバーナビーは大きく息を吸い込んで先に潜った。
虎徹がなにを探すつもりなのかわからないが、こうなったら意地でも見届けるまでだ。
(大体、この人の勘なんて……)
すい、と一掻きで前に出た虎徹を眺めてぼやくが、その勘が現場ではそれなりに役に立っていたことを思い出す。
そうなると腹立ちも長続きしなかった。深くなって水温が低くなった海の中でも見事な泳ぎを見せる虎徹の背中に、今度はしみじみと考える。
(魚みたいだな)
もしも男の人魚がいたら、こんな姿かも知れない。そんなことを言って調子づかれるとやっぱり腹が立つのでなにも言うつもりはないが、バーナビーは口元だけで笑って虎徹に続き、大きな岩を回り込んだ。
こんな岩は時に巨大な貝のこともある。触れないように注意深く確かめると、確かに本物の岩のようだ。
毒のある魚がこちらの様子をうかがっているのに気づいてそっと離れると、虎徹の動きが止まった。
怪訝に思って近づいた先で虎徹の手が上がり、冷静な視線が岩陰を示す。
(なんだ……?)
そこに見えたのは、オレンジ色をした布の切れ端だった。
(この岩、穴が空いてるのか?)
入り口らしき部分が半分砂に埋まった洞窟のような形になっているらしい。そこまで見て取ったバーナビーが虎徹の後ろに回り込み、今度こそ息を呑んだ。
入り口と思しき部分に、白いものが見える。バーナビーのゴーグルは視力に合わせて度の入ったものであり、見間違えるはずもない。
それは、ふやけてはいるが間違いなく人間の腕の一部だった。
(人形…?)
頭の片隅で否定しながらそう考えたバーナビーの前で、虎徹が無造作にその腕を掴み、引いた。
「!!」
途端、バーナビーの口にどっと海水がなだれ込み、もがくこともできずに両手で口を押さえる。
水死体を見ることは覚悟していた。しかし、虎徹が引き出した人物に下半身はなく、ところどころパーツを失ったかつて人の顔だった部分が間近に迫り、声を上げてしまったからだ。
自分が溺れている自覚もなかった。
いつの間にか海面に引きずり上げられ、激しく咳き込んでいる自分に気がついたのは、両頬をきつく掴まれて、視界いっぱいに厳しい虎徹の顔が入ってからだった。
「おい、しっかりしろ!」
「…あ…?」
「ったく、まさかおまえに使う羽目になるとは思わなかったぜ!」
なんのことだ、と思う前に、縮こまった身体が抵抗なく水面に浮かんでいることがわかる。目の端に写ったのは、海中で見たのと同じオレンジ色だ。
それでやっと虎徹が溺れた自分に携行用のライフセーバーを装着して、強引に浮上させたことがわかった。
「そんなに水も飲んでねえはずだ。頭ははっきりしてんな!?」
「は、はい」
「よし、それなら向こうのボートに上がれ! ジャンナ! こっちだ!!」
「ポリスね!? 信号を出したから、わたくしも行くわ!」
「頼む!」
なんとか息を整えて頷いたバーナビーを置いて、勝手に話が進む。ふり返ると、スタッフがゴムボートでこちらに来ていた。
「虎徹さん! 僕も…!」
「おまえはボートで待機だ! 上がって待ってろ! フラビオ、マチュー!!」
「はいッ!!」
とりつくしまもない。虎徹は矢継ぎ早に指示を出し、そのまま潜る。呆然とするバーナビーの肩に、柔らかい手が触れた。
虎徹に呼ばれて、すぐさま海に飛び込んだジャンナの手だ。
「バーナビーさんには引き上げ用のボートを任せますわ。ボートに上がるのにわたくしの手は必要?」
「……結構です!」
子どもに対するように微笑むジャンナにむっとして手を払うと、ジャンナが腰のポーチから取り出した黄色いボートが弾けるように海面に浮かぶ。
潮に流されないように慌ててそのボートを掴むと、ジャンナはぽんとバーナビーの背中を叩いて虎徹に続いた。
「バーナビーさん! 大丈夫ですか!?」
「ありがとう、大丈夫です」
「さあ、こちらへ!」
フラビオとマチューに代わる代わる呼ばれ、手を借りてボートに上がる。それからゴーグルとライフセーバーを脱ぎ、ジャンナが膨らませたボートに飛び乗って二人に先に戻るように言った。
「いえ、ここにいますよ。心配ですし、戻るならいっしょに」
「ですが、その…あまり見たくないものを見ることになりますから」
ここで死体のことを口に出来なかったのは、自分でも意外なほどさっきの衝撃が大きかったからである。
だが、説得する前に虎徹が浮かんできた。
「ジャンナ! あんたが先に!」
「ええ。バーナビーさん、手をお借りしてもよろしくて?」
二人が掴んでいるのは、間違いなくさっきの人物だ。だが、今はジャンナがつけていたパレオに包まれている。
残った二人のためには良かった。ほっとして頷き、バーナビーはジャンナの褐色の腕を掴んでボートに引き上げた。
「ありがとう。あとはいいわ」
「そんなわけにいきません。手伝います!」
「こちらは結構よ。それより向こうに座ってバランスを取ってくださる? でないとひっくり返るでしょ?」
黒いビキニ姿になったジャンナは濡れた髪を絞りながら有無を言わせずバーナビーをボートの端に押しやり、虎徹の前に待機する。
そこは自分のポジションだ。そう思ったものの、そのまま引き上げ作業に取りかかった二人を見てバーナビーは慌てて腰を下ろした。
ジャンナの言うとおり、一人がこちらでバランスを取らなければボートがひっくり返ってしまうからだ。
「うわ…ッ!」
「ひ、」
パレオで覆うことができたのは、一部分だけだった。二人がかりで引き上げた遺体の状態を見たフラビオとマチューが口を押さえて目を背け、激しく嘔吐する。
バーナビーも吐くことはかろうじて堪えたが、ひくついた喉と口を押さえるのに気が行ってしまって、遺体となった人物に丁寧につきそう形で上がってきた虎徹になかなか声を掛けられなかった。
「気の毒に……。行方不明者は多いのか?」
「いいえ。滅多にないはずよ。旅行者に限っては丸一日IDが使われた形跡がなかったら調査するぐらい」
「そうか。服装だけじゃわからねえし、スタッフなら認識タグは?」
「ピアスがあるわ。もっとも、彼は両耳とも無くなってるから、そこから調べるのは無理ね」
そこまで聞いて不自然に胃がよじれ、思わず顔を背けたバーナビーに、虎徹が厳しい調子で声を掛ける。
「バニー、吐くなら海にしろ。検死前の遺体にゲロをぶっかけるなんてミス、新人のポリスでもやらねえぞ」
「…平気です。必要なら検死も手伝いますよ。アカデミーで検視官の資格も取ってますから」
「ふふ、頼もしいこと」
むっとして言い返すが、ジャンナには笑われ、虎徹には笑いもせずに言われてしまった。
「それなら凍結処理された五体満足な遺体としか対面したことねえだろ。ジャンナ、この島の検視官は?」
「病院のドクターが兼ねてるわ」
「そうか。なら、俺が加わってもいいな」
「歓迎するわ。……こんな検死、今の若いドクターは経験してないと思うしね」
「あー、この島じゃなあ」
「ドクターを育てるには行き届き過ぎた環境は考えものってところね。損傷の激しい遺体はめったに出ないのよ」
虎徹に対してはいつの間にか砕けた口調になったジャンナが肩を竦め、虎徹も笑う。
バーナビーはそんな二人と無言で横たわるもう一人から視線をそらし、口を押さえながらきつく目を閉じた。
風景は変わらずこんなにも美しいのに、自分だけが悪い夢に捕まったような錯覚に捕らわれる。
(……そうでもないか)
悪夢に捕まったのはほかのクルーも同じだ。離れた場所から聞こえる騒動に苦笑しかけたが、少し高い波でボートが揺れ、犠牲者を包んだパレオの端から思いがけないものが見えてしまって、バーナビーは今度こそ堪えきれずに海に身を乗り出して盛大に吐いてしまった。
「あーあー、なにやってんだ。背中さすってやろうか?」
「飲み水は持っていましてよ。大丈夫、すぐに落ち着きますわ」
こんな場面で心配されずに呆れられるのは、子ども扱いではないからだとわかっている。
しかし、虎徹に呆れられたことよりも、そっと背中に添えられたジャンナの手が無性に悔しくて、バーナビーはなにも言い返せずに頭から海に落ちたくなった。
――― to be continued.
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■Forbidden fruit is sweetest: 1 禁断の木の実は一番おいしい ■木守ヒオの、虎兎メインで書いてる方です。 夏の間にと思っていたのに、間に合わなかった南国リゾートの虎兎物語。 ジェイクとの戦いのあとの十ヶ月の間のことです。バニーがデレていく過程。 「おじさん」から「虎徹さん」に固定されるまでみたいな。 これから良い仲になっていく二人はいいですなあ♪ 自分が読みたかったからいいんだ! 自分を含め、長編小説の好きな腐属性の方向けです。なるべくさくさく書いていきますので、気が向いたら最後まで読んでやってください。お願いします。 |
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