【TB・虎兎】禁断の木の実は一番おいしい Forbidden fruit is sweetest 2【腐向】
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   2

 

 虎徹とバーナビーが戻るころには、砂浜はちょっとしたパニック状態になっていた。

 さすがにプライベートビーチだけあって一般の野次馬はいないが、駆けつけた警察と保安官の人数は多く、少し離れた位置からは泊まり客を押しとどめながらホテルマンも集まっている。

 なんといっても死体がVIP御用達のプライベートビーチで出たのだから、ホテルはもちろん、サリにとっても堪った話ではないだろう。

 

「よし、ボートを引き上げるぞ!」

「はい」

 

 ボートの底が砂浜に当たり、まず虎徹が降りる。敢えて「大丈夫か?」とは聞かなかった。

 バーナビーは顔色こそまだ悪いままだが、思いの外しっかりとした足取りで虎徹に続く。どうやら、倒れるまでの醜態は晒さずに済んだようで、虎徹はバーナビーには見えない位置で小さく笑った。

 このプライドの高い青年にとっては、さぞ屈辱だったことだろう。あのあと、落ち着いてからも虎徹に背中を向けてうずくまったまま、自分を気遣うジャンナの手も払って一言も口をきこうとしなかったのだ。

 

(これも経験だぜ、バニー)

 

 どんなに完璧にマニュアルを覚えていても、現場で実際に体験することには敵わない。マニュアルが作るのは言わば心構えだ。

 

「シートをくれ! それとタンカだ!」

「気温が高いわ、急いで!」

 

 警官や保安官が数人で駆け寄り、ボートの回りをブルーシートで覆う。

 遺体は虎徹とジャンナが手際よくシートをかけて、運搬用のタンカに乗せた。砂浜なのでストレッチャーは使えないのだ。

 

「わたくしはサリの保安本部に報告してくるわ」

「頼む」

 

 言うが早いか、人種こそ様々だが、彼女に似た雰囲気の男女数人の元へジャンナが走って行き、次いでシートで壁を作る目隠し役と並んでタンカが運び出されるのと入れ違いに、虎徹よりもいくつか若そうな警官が意を決した様子で進み出てきた。

 

「あ、あの、ミスター…」

「ヒーローのワイルドタイガーだ。あんたが現場の責任者か?」

「は、はい。そういうことになります。あなたが第一発見者ですか?」

 

 酷く緊張した面持ちの警官の質問に対して虎徹が口を開く前に、うしろからバーナビーがかすれた声で答える。

 

「僕もいっしょにいました」

「事実ですか?」

「………ああ」

 

 表情は見慣れたものに戻っているが、顔色だけでなくバーナビーの声にはまだいつもの覇気が戻っていない。

 虎徹は内心で舌打ちする思いで頷いた。

 第一発見者は警察の事情聴取を受けなくてはならない。事件にしろ事故にしろ、滅多にないような事態である。長時間の事情聴取を受ける可能性も高いので、この場は自分だけで片付けたかったのだ。

 

「わかりました。それでは、お二人とも署まで同行願います。詳しいお話を伺いたいので」

「待って! ワイルドタイガーさんには検死を手伝っていただきます。今回はたぶんここのドクターでは頼りにならないわ。だから、事情聴取はバーナビーさんを先にしてちょうだい」

「おい、ジャンナ」

 

 警官に申し出たのは戻ってきたジャンナだ。バーナビーは目を丸くしただけだが、彼女に向き直った虎徹は表情はそのままで、声を低くした。

 こういった状況で経験の浅いバーナビーを一人にしたくなかったのだ。

 しかし、ジャンナは譲らなかった。

 

「人手がないのよ。だったら、適材適所でしょ。わたくしの見たところでは、ワイルドタイガーさんよりもバーナビーさんの方が状況の説明や解説することに長けているわ」

 

 ジャンナの深いブルーアイがジロリと虎徹に向けられ、虎徹は口元の笑みを消してジャンナを見返した。

 

(………どういうつもりだ?)

 

 しかし、虎徹の険しい視線を意に介することなく、ジャンナは困惑の表情でこちらを伺うバーナビーを一瞥しただけで先に行ってしまった。

 

「おじさん、彼女の言うことは一理あります。でも、人手がないなら事情聴取は後回しでも」

「いや、こっちはなんとかする。確かに俺は説明やらは苦手だからな。一人で心細いだろうが、バニーちゃん、頼めるか?」

「茶化さないでください。本当にいいんですか?」

「伊達に十年選手じゃねえさ。これでも検死官(コロナー)の資格は持ってるぜ。悲しいことだが、いつでも息のある要救助者に会えるとは限らねえからな」

 

 肩を竦めて笑ってやると、血の気を無くしていたバーナビーの表情にようやく穏やかなものが戻って「わかりました」と頷いた。

 

「さすがに、今回は意外ですとは言いませんよ」

「ひっひっひ、尊敬したか?」

「そういうことを自分で言わないでください。恰好の悪い」

「そうかあ? まあ、いいさ。――おい、クルーの中に体調を崩した連中がいる。事情聴取は病院でもできるだろ。こいつを付き添いで行かせるから、病院に行ってくれ」

 

 バスタオルを手に駆け寄ってきたマチューの顔色も悪い。受け取ったバスタオルを先にバーナビーの肩に掛けてやりながら言うと、警官は仰天して首を横に振る。

 

「バーナビーさんまで困りますよ! サリの規則では必ず事情聴取は署に同行していただいてからと」

「こんな時になにが規則だ! こっちにゃ病人が出てんだぞ! ぼさっとしてねえで、とっとと病人を運べ!!」

「は、はいッ!」

 

 虎徹の大喝に震え上がった若い警官が敬礼し、慌ててクルーの処置をしている救急隊の方へ走る。

 この腰の重さは平和ボケ以外なにものでもない。とにかく、手際が悪いのだ。

 

「貴方が怒っても仕方がありませんよ。…あ」

「なんだよ?」

「いえ、向こうに」

「向こう?」

 

 バーナビーに言われて顔を上げると、野次馬を押しのけてこちらにやってくる派手な二人連れが見えた。

 

「はぁい、タイガー。相変わらず、暑苦しいのねえ」

「まったくだ」

 

 警官の制止と KEEP OUT のテープを無視して入ってきたのは、虎徹とバーナビーもよく知る二人だった。

 きらびやかな赤とピンクのパレオがよく似合う長身で妖艶な黒人ヒーロー、ファイヤーエンブレムことネイサン・シーモアと、縦にも横にも虎徹より二回りは大きく逞しいラテン男、同じくヒーローのロックバイソンことアントニオ・ロペスである。

 

「うお、びっくりさせんなよ。なんでおまえらがここに?」

「アンタたちがここだって言うから、アタシたちもサリ行きにしたのよ。せっかくだからいっしょに遊ぼうと思ってたのに、相変わらずなんにでも首を突っ込んでるのねえ」

「俺は昔の舎弟がここで働いてるから、ついでに様子も見てやろうと思ってな」

「そうか。いや、俺だってこんな予定はなかったんだぜ?」

 

 頬に手を当てて大げさにため息をついたネイサンと、いかつい肩を竦めたアントニオに虎徹は笑いながら頭を振った。

 

「うふふ、今日もハンサムね」

「よう。おまえも災難だったな」

「この人といっしょにいると、いつもなにかしらありますから、もう慣れましたよ。おじさん、僕は事情を説明してきます。そのあとはスタッフに付き添って病院に行ってきますから」

「ああ。頼んだぜ」

 

 二人に挨拶を済ませたバーナビーが困った様子でこちらのやり取りを伺う警官に向かったのを見届けて、虎徹はにやにやと自分を見ている二人に向き直る。

 

「まーた『オジサン』になってるの?」

「機嫌が悪くってな」

「そりゃまあ、せっかくの休暇が台無しじゃなあ」

 

 それが理由ではないが、わざわざ相棒の恥を教えることもないだろう。

 そう考えていつものハンチングのない頭を掻いて、虎徹は笑ったままアロハ姿のアントニオを見上げた。

 

「バイソン」

「あぁ?」

 

 太い眉を上げたアントニオの目を見て、視線をバーナビーに移す。

 

「………しょうがねえな」

「あとで一杯奢るぜ」

「忘れんなよ」

 

 虎徹とアントニオならば、それだけで十分だ。しかしネイサンは面白くなかったらしく、そんな二人のやり取りを見て「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「ハンサムも顔色が悪かったわね」

「いろいろあったんだよ」

「……大体、想像はつくわねえ」

 

 頬に手を当てて笑ったネイサンがちら、と視線を向けた先で、スタッフの面倒を見ながらホテルへ歩いて行くアントニオとなにやら話しているバーナビーがいる。

 言い合いをしている雰囲気ではないので、上手く手伝いを申し出たらしい。このあたりはさすが年の功だ。

 

「それで、アンタはどうすんのよ?」

「病院で検死だ。人手が足りなくてな」

「あら、そう。……ちょっと、まさかアンタ」

「もちろん、手伝ってくれんだろ? ヒーローたるもの、困ったヤツを見捨てたりはしねぇよな?」

 

 先に歩き出しながらにやりと見上げると、ネイサンは通りすがりに咲いていたハイビスカスを手折って虎徹の頭に乗せて言った。

 

「本ッ当に憎たらしいわね! アンタたちコンビ、本気で一回一晩つき合わせてやるわ!」

「酒ならいくらだってつき合うさ。行こうぜ」

 

 日が傾きはじめていたが、まだ砂浜は熱い。虎徹のメイクを担当した女性が慌ててサンダルを持ってきてくれたので、虎徹はありがたくそれを履いてホテルに向かった。

 このビーチからはホテルを経由しなければ、結局どこにも行けないからだ。

 サリの最高級ホテルの看板に恥じない豪奢なロビーを抜け、正面玄関から出ると、一台の小型車両が待っていた。

 優しい丸みのあるボンネットにラフィリアのイラストが大きく書かれたミントブルーの車体は、サリの保安部のものだ。

 

「お手間をお掛けいたします。ジャンナは先に病院に行きました」

「そうか。こいつにも検死を手伝ってもらうことになった」

「はい、ですが……」

「アタシはネイサン・シーモア。検死官の資格は持ってるから、IDで確認してくれて良くてよ」

「了解いたしました。では、どうぞお乗りください」

 

 虎徹はアイマスクをつけているが、ネイサンは素顔のままである。だから敢えてヒーローである身分は明かさず、資格の話だけで済ませたのだ。

 警察や保安部が収拾をつけたのか、考えていたほどは野次馬の数も多くはなかった。

 事態を知らずに立ち寄っただけらしい観光客と、あとはホテルマン数人だが、こちらは自分たちの好奇心からではなく泊まり客を不安にさせないようにという配慮からであることがよくわかる様子で、虎徹もほっとする。

 

(ポリスよりホテルマンの方が責任感があるっつーか……プロなんじゃなあ)

 

 世界のVIPに安全を保証する楽園が聞いて呆れるというものだ。

 

(サリのスタッフ……保安官か。保安官の方は違うな)

 

 ジャンナもそうだが、この男にも隙がない。政府管轄である警察よりもよっぽど頼りになりそうだ。

 ビーチに集まってきたところをちらと見ただけだが、あの場を仕切っていたのは現場責任者だと言っていた若い警官ではなく、保安官の方だった。

 

「タイガー、着いたわよ」

「ん? ああ。どうも、ありがとうございました」

「こちらこそ、せっかくのバカンスがこんなことになってしまって申し訳ないのですが、どうぞよろしくお願いします。では、私はこれから本部に戻って報告しますから」

 

 環境上、濡れたまま乗り込むことも多いのだろう。座り心地は悪くないが、ビニールのシートから降りて挨拶をかわすと、小型車はそのまま行ってしまった。

 二人が降りたのはサリで唯一の病院だ。やはり景観を損ねないように白い石造りの建物で、ゲートの看板がなければ病院ではなく、大きなホテルのような造りである。

 

「せっかくだから、正面玄関から入りたかったわよねえ。ここ、見事な噴水があるのよ」

「患者じゃねえんだから我慢しとけ。あとでまた観光に来たらいいだろ?」

「いくらキレイでも、ついででもなかったら病院なんて観光する趣味ないわよ。……あら、美人のお出迎えよ?」

「いてッ」

 

 派手なパレオを結び直してぼやくネイサンが、裏口に立っているジャンナを見つけて肘で虎徹の脇をつついた。

 口調はからかってるようだが、結構本気で肘を入れられた脇の痛みに、虎徹はしゃなしゃなと前を歩いて行く長身の仲間の背中を睨む。

 

「来てくれたわね。ガードマンには話を通してあるわ」

「バニーは?」

「撮影クルーといっしょにいるわ。事情聴取は診察のあとにするようにポリスとドクターに話を通してあるから、心配いらなくてよ」

 

 ジャンナの話に頷き、ネイサンと並んで裏口から入ると、数人の保安官が並んでいた。

 人種や性別、年齢はまちまちだが、姿勢良く毅然とした姿は頼もしい。

 だが、虎徹とネイサンに向けられた笑みは自然なもので、虎徹もいつものおどけた表情で軽く片手を上げた。

 

「ども、お邪魔するぜ」

「お手伝いさせていただくわ」

 

 保安官たちも笑って会釈し、三人を見送る。

 それから虎徹たちはジャンナの後に続いてエレベータを降り、地下の一室に向かった。

 遺体安置所だ。

 

「……こういうとこだけは、どこの病院でも変わらねぇんだな。気の重くなる造りだぜ」

「お約束だものねえ」

 

 事情を知るネイサンの手が軽く背中に触れ、「まったくだ」と答える。

 

「検死はこの向こうでするのよ。着替えもね。一人ずつだから、わたくしから行くわ」

「ああ」

 

 裸になって全身の洗浄とエアシャワーを浴び、着替えを済ませなくては処置室に入ることができないのは、通常の手術でも同じだ。

 準備を終えて中に入ると、所在なげに若いドクターが立っていた。落ち着きのない様子を見ても、検死自体それほど経験していないのだろう。

 確かにこれでは戦力として数えられそうにない。

 

「ベテランのドクターは全員お昼寝中か?」

「まさか。生きてる患者の相手しかしたがらないのよ。言ったでしょう? ここには監察医がいないの」

「だッ、しょうがねえな!」

「ぼやかないの。とっとと始めましょう。この人も気の毒でしょ」

「……だな」

 

 ネイサンに言われて、深く頷く。こんな殺風景な部屋で、冷たいステンレスのベッドに寝かされているのは、確かに生きていた誰かなのだ。

 虎徹は意識を切り替えて薄いゴム手袋の感触を確かめ、シートをめくり、記録を取っている若いドクターに向かって日付と時刻を言う。

 

「推定年齢三十歳代前半、白人男性。直腸温23度、角膜混濁の程度、発見された海底の水温などから死後20時間…は越えてそうだな。頭部、および顔面まであちこち持ってかれて、左上腕部、右は手首から挫滅、下半身は…左腰から両大腿部まで挫滅。実用的な筋肉がついてるし、肉体労働者と思われる。身長は……6フィートって所か?」

「頭髪はダークブラウン、ブラウン・アイ。贅肉のない鍛えた身体がとってもセクシー。もうちょっとあってもアタシの好みだわね。歯はほぼ無事。奥歯の減り具合から見ても、確かに肉体労働者で間違いなさそう。…あら? 肩にタトゥーがあるのね。蛇…みたいだけど」

「蛇だと!?」

「あん、ちょっと!」

 

 思わずネイサンを押しのけて覗き込むが、そこにあったのはアナコンダを模した蛇のマークだった。シュテルンビルトで人気のあるパンクバンドのトレードマークだ。

 

「タイガーさん? どうかしまして?」

「いや、……悪りィ。ちょっと、勘違いしただけだ。続けよう」

 

 若い医師を手伝って記録をつけていたジャンナも怪訝な表情で見るが、虎徹はそれ以上なにも答えずに作業に戻る。

 損傷が激しいため思ったよりも手間が掛かり、一段落つく頃には開始から二時間程度経過していた。

 

「傷口から見て、たぶん犯人は鮫ってことになるでしょうね。かなりの大物よ。問題は、どこでやられたかだけど。ねえ、タイガー。解剖はするの? だとしたら、アタシもアンタも無理よ。検死官(コロナー)のライセンスはあるけど、監察医のライセンスはないでしょ」

 

 ネイサンが口調よりも厳しい表情で言ったのは、シュテルンビルトの法医学制度についてであった。検死は検死官だけでも行えるが、解剖までするには監察医の資格が必要なのだ。

 ヒーローアカデミーでも検死官まではライセンスの取得を認められているが、監察医になるにはどうしても医療系の大学で学ぶ必要がある。

 虎徹はヒーローとしての経験も長く、その間に必要に迫られて検察官までは資格を取得したが、さすがにそこまで専門的な部分までは手が回らない。

 

「ここまで死因がはっきりしてりゃ、どうだろうな。ジャンナ、身元はわかったのか?」

「リゾート客の中に行方不明者はいないわ。職員で現在連絡が取れていないのは五人。オフだから旅行に行ってる者もいるし、最終的な確認が取れるにはもう少しかかるかも知れないわね」

「そうか。早く身元がわかればいいな」

 

 生前の人柄も知らないが、それでも人の死は胸に迫る。虎徹は改めて両手を合わせ、結局記録を取るだけでこちらに寄りつきもしない若い医師に声を掛けた。

 

「聞いての通りだ。解剖はどうします?」

「や、え、ええと…ひ、必要ないんじゃないかな? 鮫が原因ですよね?」

「ええ。死因は。ただ、そうなった原因はまだわからねえ」

「ど、どういうことです?」

 

 青い顔をしながら、それでも一歩寄ってきた若い医師に頷き、ネイサンに合図して遺体を横に向ける。若い医師に後頭部を見せるためだ。

 

「頭部に打撲痕がある。それから、ざっと見てわかる部分で頸骨の骨折、左上腕部の開放骨折。両手が無事なら防御創の有無が調べやすかったんだが、しょうがない。もっとも、どれも生体反応があるかないかで結果がずいぶん変わるけどな」

「鮫が食いちぎる時に振り回した結果かも知れないしねえ。アタシは、司法解剖に委ねるべきだと思うわ。傷からなにか出るかも知れないからね」

「なにか?」

「ああ。もしなにか固いもので殴られたとしたら…そうだな。簡単に言うと、鉄パイプが凶器ならその成分が傷口にこびりついていたりするんだ。今回の場合は発見場所が海中だし、どの程度確認出来るかわからねえが」

「な…なるほど」

 

 怖々とした表情は変わらないが、最初よりは落ち着いた様子になった医師がもう少しそばに寄り、ジャンナと頷き合う。

 

「ありがとう、さすがはヒーローね。わたくしからも上に報告するわ。彼はこのまま保存処置に入ります」

「わかった。頼む」

「それより、鮫よ。ビーチはどうしたの?」

「もちろん遊泳禁止の連絡を入れましたわ。このサリでこんなことが起こったのは口惜しいけれど、安全が確認されるまでは仕方がありませんわね」

 

 それだけわかれば十分だ。

 ため息をついたジャンナに二人で頷き、使い捨ての紙で出来た術衣を脱ぎながら、虎徹は遺体安置室のドアに手を掛けた。

 そんな虎徹の背中に、ジャンナが真摯に声を掛けた。

 

「せっかくサリでの休日を楽しみにおいでくださったのに、こんなことになってしまって本当に申し訳ないことを致しましたわ。落ち着いてから必ずお詫びに伺います。バーナビーさんにもどうかお伝えください」

「いや、あんたのせいじゃない。じゃあ、なにかわかったら頼む」

「アタシにもね。関わった以上、気になるわ」

「はい。必ず」

 

 虎徹が笑って片手を上げると、ジャンナも微笑んで作業に戻った。

 脱いだ術衣を捨て、また全身を洗ってそれぞれエアシャワーを浴びてから着替える。

 濡れてないネイサンはともかく、一度海に入ったまま着替えずにここに来た虎徹は生乾きの水着を履くことになり、かなり不快だった。

 

「だッ、着替えを持ってくるんだったぜ!」

「じゃあ脱いだら? アタシのパレオを貸してあげるわよ?」

「気持ちだけもらっておくさ」

「つれないわねえ」

 

 殺風景な廊下を歩きながらころころ笑うネイサンに肩を竦めてエレベータに乗り、一階のボタンを押す。

 ほとんど浮遊感を感じさせずに止まったエレベータから降りると、外から西日が差し込んできていた。

 

「あらぁ、きっとビーチで見たらキレイでしょうねえ」

「鮫がいなかったらな」

「それは言いっこなしよ。わかってるくせに」

 

 目が合ったガードマンが会釈し、どうやら待っていたらしい保安官の若い女性が出て来る。

 そして彼女の口からバーナビーの事情聴取が終わったこと、一日検査入院することになり、今はアントニオといっしょに病室にいることを聞いた。

「入院!? あいつ、どっか悪いのか!?」

「い、いえ。私はなにも聞いていません。ただ、ほかのスタッフの中にも検査入院する人がいらっしゃいますし」

「そうか。わかった。ありがとう、わざわざ悪かったな」

「いえ。それでは、私はこれで」

「お疲れさま。助かったわ、お嬢さん」

 

 緊張した様子だった娘がはにかみながら二人に挨拶をして戻り、二人はまずロビーを目指した。

 虎徹は直接病室に向かいたかったのだが、セキュリティの関係で受付を通さなければ病室に立ち入れないからだ。

 関係者扉からホテルのような雰囲気の広々としたロビーを抜け、受付に向かう。

 保安部から連絡があったようで、あっさりと病室を教えて貰えた。

 食い下がる若い女性看護師の案内を断って乗り込んだエレベータはスタッフ専用のものとは違い、美しく装飾され、中には生花が活けられている。

 この分だと、病室も華やかなのだろう。汚職を追及されそうになった政治家がよくサリで「急病のため」入院する理由がなんとなくわかって、虎徹はげんなりとした気分になった。

 

「わぁお、見てよ、この床!」

「病院ってカーペットとか駄目なんじゃなかったか?」

「当たり前でしょ! まあ、滅菌処理は完璧にしてると思うけど、さすがエグゼクティブフロアねえ」

 

 バーナビーがいるのは五階の特別室だ。エレベータのドアが開いた瞬間、目の前にどんと派手な南国風の植物模様の赤いカーペットが現れて、思わず声が上がった。

 かなり大きなフロアだが、廊下も広く、部屋数は左右に四つ、正面に一つだ。

 天井のシャンデリアの輝きにしみじみため息をつきながら進むと、正面のマホガニーの扉のプレートにバーナビーの名前が書かれていた。

 

「………入院って聞いて心配したけど、どうしてハンサムがこんなところにいるのか、なんとなく想像ついたわ、アタシ」

「おう、俺もだ」

 

 まず扉をノックしてみる。妙に遠慮がちになるのは、辺りの雰囲気に飲まれた気分だったからだ。

 

「僕ならもう寝てます!」

「おいおい、バーナビー…」

 

 そして中から聞こえてきたのは、噛みつくような返事だった。

 虎徹も思わずネイサンと顔を見合わせて笑ってしまう。

 

「ずいぶんはっきりした寝言だなあ? バニー?」

「おじさん!?」

「こら、起きるなって! 虎徹、開いてるぜ!」

 

 虎徹の声に弾けるような声が返り、金のノブを掴むと、あっさりと扉が開いた。

 やはり広い。さすがにこの中に敷物はなく、床は石造りで、様々な色の石を組み合わせて落ち着いた幾何学模様を形作っている。

 正面には四人がけの応接セットが、左側にはバスルームとクロゼットがあった。肝心のベッドは奥の窓のそばにあり、やはり天蓋付きだ。ダブルどころか、キングサイズの大きさのベッドはまるで貴族の使うもののような豪華なもので、なにもかもがカーテンを開けた大きな窓から入る鮮やかな夕日に優しいオレンジに照らされていた。

 

「具合はどうなんだ?」

「僕の診察はいらないと言ったのですが、ドクターがどうしてもと……結局、点滴を打たれただけです。もうなんともないのに、検査入院しろと言われてしまって」

「そりゃすごかったんだぜ? 部屋に入ったら入ったで、十分ごとに看護師の姉ちゃんや時々兄ちゃんがやって来て、やれ、気分はどうだだの、体温を測るだの、着替えを持ってきただの、最後にゃ尿瓶持った三人が押しかけてきてな」

「病院は病人を治すのが仕事なのに、わざわざストレスを与えに来てるとしか思えない。僕はもう絶対に入院なんてしたくありません」

「そりゃあ災難だったなあ」

 

 立ち上がったアントニオが譲ってくれた籐椅子に腰を下ろすやいなや、バーナビーが切々と訴えて来て、虎徹は思わず笑ってしまった。

 

「それで、ションベンは大丈夫だったのか?」

「点滴スタンドを引っ張って自分で行きましたよ。べつに動けない重病人じゃないんですから」

「俺が採ってやるって言ったんだが、どうしても嫌だって聞かなくてな」

「ああん、アタシがいたら手取り足取りやってあげたのにィ」

「うおお、やめろ! おまえが言うと洒落になんねえ!」

「なんでよォ」

「ややこしくなるから、おまえらはもうあっち行ってろ!」

 

 くねくね文句を言うネイサンとアントニオを追い払うと、じゃれ合う大男二人に氷のような視線を向けていたバーナビーがやっと虎徹を見る。

 ベッドの向こうには、大きな窓から出られるベランダがあった。高い建物が少ないため、空は大きく、ゆったりした町並みの向こうに海が広がっている。

 しみじみとそんな風景に目を細めて、虎徹は不機嫌そのものの表情をしたバーナビーと向かい合った。

 バーナビーは南国風の部屋着を羽織っただけの姿で、この部屋と整った容姿と柔らかな金色の巻き毛も相まって、まるでどこかの貴族の子息のようだ。

 

「なんつーか、災難だったな。俺がいたらしてやったのに」

「なにをですか? 貴方まで止めて下さい。それに、一番酷い目に遭ったのは間違いなく被害者の方でしょう」

 

 夕日に照らされた頭につい伸びた手が払われてしまう。

 じっと見つめ返してくるバーナビーの緑の目が思いの外しっかりしているのを感じて、虎徹はなんだかようやく一息つけたような気がした。

 

「貴方の取り調べは、また明日落ち着いてからすることになりました。撮影とインタビューの続きもです。とりあえず、帰りましょう。貴方が戻ってきたなら、僕にはもうここにいる理由がありません」

「あ? けど、大丈夫なのか?」

「僕が大丈夫だと言ってるんです。それに、こんなところじゃ落ち着いて寝てられませんよ」

「ははは、今夜一晩の入院中に何人の夜這いが出るか賭けてもいいな」

「笑えねえぞ、バイソン! バニー、気持ちはわかるがな…」

「止めるんですか? 無駄ですよ。力ずくでも、僕はここには泊まりません」

 

 言うが早いか、ベッドから降りようとするバーナビーは本気だ。

 これ以上止めては、虎徹の制止を振り切って窓からでも帰りそうな剣幕である。

 そこに助け船を出してくれたのはネイサンだった。

 

「ねえ、ハンサム。本当にもう大丈夫なのね?」

 

 いつにない真面目な様子のネイサンに、一瞬戸惑ったバーナビーだったが、虎徹が頷いてやると、慌てたように「はい」と答えた。

 

「夜になってまた具合が悪くなったら、アタシも怒るわよ? あんたの相棒は、あんたが一人で寝てるから一人で遊んで来いって言ったって、素直に遊べるような男じゃないの。自分の看病で相棒の休暇を台無しにしたくないでしょ?」

「……はい。大丈夫です」

 

 子どもに諭すような言い方だったが、バーナビーは反発せずに生真面目に頷く。

 ネイサンも満足したのか、「ん!」と朗らかな笑顔になって言った。

 

「それなら、いいわ。アタシが話をつけてきてあげる。ヒーローが手続きしないで無断で退院なんかしたら、あとが面倒になるからね。バイソン、行きましょ」

「あ? 俺もかよ」

「アンタのことだから、馬鹿正直にハンサムにつき合って座りっぱなしだったんでしょ! せっかくの美尻になにかあったら大変よ!」

「だから俺の尻を掴むな!」

 

 慌ただしく部屋を出た二人をぽかんと見送ると、扉を閉める前にちら、とふり返ったネイサンが虎徹にウインクする。

 わざわざ席を外してくれたのだ。

 自由奔放に生きているようでいて、ネイサンは人の心の機微を本当に見ている。こんな時は特によくわかった。

 

「ファイヤーエンブレムがああ言ったんだから、任せて大丈夫だろ。バニー、喉は渇いてないか?」

「大丈夫です。冷蔵庫にいろいろ入ってるようですから、貴方こそ欲しかったら飲んでください」

「いや、いらねえ。ほかの連中は大丈夫だったのか?」

「はい。カメラマンのフラビオさんもマチューさんも、もう問題ないとのことで先に退院してます」

「あ? じゃあ、誰が入院してるんだ?」

 

 虎徹が思いつく限り、一番具合が悪そうだったのはあの二人のはずだ。不思議に思って訊くと、バーナビーはメガネがなくて落ち着かないのか、何度か確かめるように目を瞬いて答えた。

 

「検査入院したのは二人で、一人は撮影機材に蹴躓いて転んだんです。頭を打って気を失って、もう一人はその時に倒れたレフ板で脚を切ったそうで、出血が多かったのと上がってきたその…ボートを見て気分を悪くしたので、一応検査入院になりました。二人とも知らせを聞いて慌ててしまったようですね」

「なんつーか…そういうこともアリか」

「正直、僕も驚きましたから」

 

 呆れるやら同情するやらの気分で顎の髭を撫でながら頷くと、小さく苦笑したバーナビーが姿勢を変えて向きなおる。

 表情が改まったのを見て、虎徹も茶化さずに視線を合わせた。

 

「……それで、どうだったんですか?」

「ん?」

「事件性はあったんですか?」

 

 毅然とした表情も声も、「ヒーロー」のバーナビーのものだ。

 なんだか頼もしく見えて笑いそうになった口を押さえ、虎徹は答えた。

 

「まだはっきりとは断言できねえ。ただ、死因は鮫だ」

「鮫?」

「傷口の直径から見てかなりの大物だな。あの場で遭わなくて良かったぜ」

「嘘ですね」

 

 安心させるように笑って言ったのだが、バーナビーの表情が険しいものに変わる。

 驚いて目が丸くなってしまった。

 

「えーと…根拠は?」

「貴方がいない間に、ポリスが頼りにならないのはわかったので保安官から話を聞きました。やっぱりサリの本島を包んだ網に綻びは見つからなかったそうです。それに、被害者の傷に対してこの辺りにいるハンマーシャークは小さい。そうなれば当然相当のサイズに成長するホオジロザメかイタチザメ辺りが候補になりますが、そんな鮫がこの近海にいることは考えられない」

「どうして? 餌を求めて泳いで来たのかも知れないぜ?」

「本気で言ってるんですか?」

 

 流ちょうなバーナビーの説明に素直に感心しながら言ったのだが、バーナビーは気に入らなかったらしく、声が1トーン上がった。

 虎徹の場合は怒ると声が低くなるが、クールに見せかけて気の短いバーナビーは声が高くなるのだ。

 

「いや、バニーちゃんの見解を聞きたいと思っただけだ」

「バニーちゃんはやめてください。簡単な話です。候補に挙がる鮫の生態から考えて、わざわざこの時期に餌の乏しい海に来るとは思えません。人にとって美しい南国の海は、魚にとっては砂漠と同じです。透き通った海水は餌となるプランクトンが少ないってことですから。ましてこの少し沖では鯨が子育ての時期ですし、なおさら危険を冒してまで来る理由がない」

「なるほど。……言われてみりゃ、その通りだな」

「貴方の見解はどうなんですか?」

 

 バーナビーに詰め寄られ、虎徹はベッドの上に放り出されていた派手な羽の団扇で扇ぎながら答える。

 ここでしらばくれたら、今度こそ本気でバーナビーが怒ると思ったからだ。

 

「鮫はねえな」

「根拠は?」

 

 今度は俺かよと苦笑して、虎徹は額にうっすらと汗の滲んだバーナビーを煽いでやる。

 

「貴方の口調なら、検死結果が『鮫が原因』ということになったのでしょう?」

「違うとも言い切れなかったんでな」

「だから、どうしてそう思うのかって訊いてるんです!」

 

 短気なバーナビーが虎徹の手から団扇を奪って放り出し、ベッドから降りようとするが、その前に虎徹はバーナビーの口を手のひらで塞いだ。

 同時に、自分の唇に人差し指を当てる。「黙れ」の意味だ。

 視線で扉を指したがバーナビーは不服だったらしく、がぶりと噛まれて慌てて自分が悲鳴を我慢する羽目になった。

 

「オジサン、しょっぱいですよ」

「人間なんだから、汗ぐらいかくっての!」

 

 その上、思い切り嫌な顔をされては堪らない。歯形の残る手のひらを振って文句を言う内に、扉がノックされた。

 

「僕は寝てます!」

「コラコラ、俺が出りゃ問題ないだろ。はいよ、どちらさん?」

 

 ますます機嫌を損ねたバーナビーを押しとどめて声を掛けると、ゆっくりと立派な扉が開き、ぞろぞろと白衣の天使たち――バーナビーにとっては真逆かも知れないが――が現われた。女性五人、男性一名の総勢六名の集団だ。

 

「あのう、私たち、どうしてもバーナビーさんが退院なさると聞いて………」

「知りませんでした。そんな大切な旅行だったなんて……うぅ」

「そうです。大切な旅行です。必要もない検査入院なんかで、一日、いいえ、一分たりとも無駄にしたくはありません!」

「こら、バニー! いや、そんな。お嬢さんたち、なにも泣かなくても……」

 

 虎徹は女性の涙に弱い。バーナビーに会えるとわかり、きっと気合いを入れて化粧をしたり髪を整えたりしたであろう女性陣に向きなおり、約一名の男性は無視して声を掛けると、耐えかねたように三人の看護師が泣き出した。

 さすがにバーナビーも剣幕を押さえて不審そうな目で一行を見る。

 

「ああ、ごめんなさい。あの、これはせめてもの私たちからの気持ちです」

「はい?」

 

 一体なんのことかと尋ねる間もない。一番後ろにいた小柄な女性看護師に、両腕でも余るような巨大な花束を押しつけられて、虎徹はとっさに受け取ってしまった。

 

「どうか…お幸せに!」

「あたしたち、誰にも言いませんから!!」

「自分としてもバーナビーさんに直接お渡しするのは辛いので、これで失礼します!!」

「え? ちょ、ちょっと…もしもーし!!」

 

 そして悲鳴のような声で次々呪いのような祝福の言葉を投げかけ、男性の看護師までまるで酷いことをされたように飛び出して行ってしまった。

 意味がわからないのは残された二人だけだ。

 

「あ、えっと…な、なにを話してましたっけ?」

「……鮫が犯人じゃないって根拠についてです」

 

 なんだか間抜けな恰好だが、渡された花束は虎徹の腕にさえ大きくて重い。

 サリ特有の蘭やユリの亜種がそろい踏みで、見た目が華やかで美しいだけではなく、匂いも素晴らしかった。

 ただ、いかんせん量が多すぎる。

 

「どうするよ? これ。捨ててくわけにゃ行かねえぞ」

「どうするって…ちょっと、こっちに持ってこないでくださいよ。臭いです」

「あー…、じゃあ、ちょっとこっちのテーブルに置いておくか」

「ええ。また頭が痛くなりそうです」

「またって、おまえ、頭が痛かったのか?」

「いえ、べつに」

 

 驚いてふり返ると、バーナビーが一瞬浮かんだ「しまった」とでも言いそうな表情を消して首を振る。

 だが、虎徹はサリについてからどうも本調子ではなさそうなバーナビーの様子を覚えていたため、大股でベッドに戻ってバーナビーの額に手を当てた。

 

「やめてください。もう治りました」

「それならいいが、どうして素直に言わねえんだ? ファイヤーエンブレムじゃねえけどよ、あとから具合が悪くなったら困るのは自分だぞ?」

「自分が遊びに行けなくなるからですか? 僕はべつに貴方についていて欲しいなんて、」

 

 これでは拗ねた子どもと同じだ。目をそらして悪態をつくバーナビーの足下に膝をついて両頬を包み込むと、虎徹はわざと怖い顔を作ってバーナビーを正面から見据えて低く呼んだ。

 

「バーナビー」

 

 とたんに、バーナビーが口をつぐむ。自分でも自分が悪いとわかっているからこその反応だとありありと見えた。

 

「そういう意味じゃない。わかるよな?」

「…………」

 

 また目をそらして、ほとんどわからないぐらいに頷く若い相棒に、虎徹は辛抱強く語りかける。

 

「じゃあ、ごめんなさいは?」

 

 バーナビーの唇は動かない。ただ悔しそうに噛みしめられて、かすかに震えるだけだ。

 西日がずいぶん落ち着いた部屋は暗くなってきていたが、視力に恵まれた虎徹の目にはバーナビーの鼻の頭が日焼けとは違う理由で少し赤くなってきたのを見逃さなかった。

 

「それじゃやっぱりおまえはバニーちゃんだな。俺は相棒とのバカンスを楽しみに来たのであって、子守に雇われて来たつもりはないぜ? ああもちろん、おまえが俺を雇うってんなら、話は別だけどな?」

「取り消してください! いくらなんでも、そんな言い方は許せません!!」

「ああ? 俺にだけ要求するのは狡いんじゃねえか?」

 

 噛みつくような反撃に、虎徹はことさら意地悪く言い返してやる。屈辱で燃える緑の双眸が今にも潤みそうな気がしたが、そこでやっとバーナビーの唇から譲歩が漏れた。

 

「わかりました! さっきのは僕の失言です!」

「なんだ、その政治家みたいな言い方は。ゴメンナサイだろ?」

「わ…るかったような気はします」

「バニーちゃん?」

 

 素直じゃないのは、この口か? 尖った唇を掴んで凄むと、思いきり虎徹の手をはたいたバーナビーがやけくそのように叫ぶ。

 

「どうも、ゴメンナサイ! これで満足ですか!?」

「よしよし、しょうがねえな」

 

 まったくもって謝る態度ではないが、これ以上引っ張るのも大人げない。

 大らかなところを見せてやると、バーナビーは不服そうに「貴方だけ謝らないのはずるいですよ」と睨んでくる。

 

「それはそうだな。本当に悪かった。ごめんなさい、バーナビーさん。そういうわけで、話の続き行くぞ」

 

 べつに言い争うつもりはなかったのでさっさと終わらせると、一瞬ぽかんとしたバーナビーがむっとした様子で、坊ちゃんにしては珍しくなにやら口の中で吐き捨て、「……どうぞ」と話の続きを促した。

 

「鮫じゃないと俺が思う根拠だな」

「はい」

「遺体に歯が残ってなかったからだ」

「歯…ですか?」

「候補に出るホオジロザメの歯は抜けやすいんだよ。あんな風に食いちぎった状態なら、骨がどっかに引っかかって一本ぐらいは残ってそうなモンだが、そういった痕跡は一切なかった。いや、もちろん鮫だけじゃなくて、被害者はずいぶんいろんなヤツらに――」

 

 最後まで言う前に眉をひそめてまた口を押さえそうな表情になったバーナビーに気づいてそこで止め、話を変える。

 

「単純なところだが、まずそれが理由だな。あとは俺得意の勘だ」

「またそれですか。そう言えば貴方、なにかあるって確信して潜ってましたよね。勘だと言っていましたが、それだけじゃないでしょう?」

「いや、それは…そんな大した理由じゃないんだが」

「言ってください。知りたいんです」

 

 なんとか衝撃から立ち直ったらしいバーナビーが素直に見上げてきて、虎徹は頬を掻いてもう一度椅子に腰を下ろす。

 

「海底の様子がな」

「様子?」

「そう。ちょっと、おかしいと思ったんだよ。この辺りの珊瑚礁も保護対象なのに、なにかひっかいたような傷がついていたし、あの辺りの砂の模様がちょっと歪に見えたんだ。魚とかカニの仕業じゃなくてよ」

「……気がつかなかった」

「俺も偶然気がついただけだ。大体、遊びに来てんだから」

「あの岩場も?」

「ああ。苔が剥がれた真新しい痕があった。もっとも、こっちは機械なのか人の手なのか、さっぱりわからねえけどな」

 

 嘘ではないのでそう言うと、バーナビーはなにか考える様子になり、膝の上で手を組んで俯く。

 落ち込んでいるのではなく、頭の中で情報を整理する時のバーナビーの癖だった。

 

「落ち着いたか?」

「え…?」

 

 そのまま少し見守って、虎徹は声を掛けた。

 バーナビーが初めて虎徹の存在を思い出したような顔をして瞬きをする。

 

「あいつらが入ってこれなくて困ってるんだよ」

「……あ。ああ、はい。すみません」

 

 言われてようやくネイサンとアントニオのことも思い出したのだろう。バーナビーが慌てて立ち上がる。

 中の声が聞こえていたようで、虎徹が立ち上がる前に開いた扉から二人が戻ってきた。

 

「もう、話が長いわねえ。本気で入院したいならこのままでも良いんだけど?」

「すぐに帰っても良いそうだぜ。…って、なんだ、この匂い!?」

「花束を貰ったんだよ。なんか、泣きながら看護師連中が渡しに来て参ったぜ。オマエ、どんな説明したんだよ?」

「うふふ、それはご想像にお任せするわv それより、早く出ましょうよ。これからが大人の時間よォ?」

 

 音がしそうなウインクを食らってそれ以上の追求は止め、虎徹はバーナビーの足下にサンダルを置いてやる。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして。歩けるな?」

「当然です」

 

 なんだかんだ言っても礼を言う辺りが憎めない。メガネがなくても歩くことに支障が出るほどではないと知っているのでそれ以上は出しゃばらず、虎徹は三人が出るのを待ってから部屋の照明を消した。

 

「あの、支払いはどうすれば良いんですか?」

「気にしなくても大丈夫よ。よっぽどおバカな理由でない限り、サリに滞在する間はすべて経費で落とせるから」

「そうなんですか?」

「ええ。もちろんお土産は自腹だけどね?」

「わかりました」

 

 もしかしたらネイサンが肩代わりしたのではないかと心配だったのだろう。バーナビーの表情に安堵の色が浮かぶ。

 それから一行はまたロビーに降り、今度は人数の増えた病院スタッフたちの悲喜こもごもの視線を浴びながらようやく外に出ることが出来た。

 

「あぁ……すっきりしました」

「なんだよ、そんなに病室が嫌だったのか?」

「はい。それに、その花束が来てからはもう臭くて」

「それは同感だな」

 

 空はもう暗くなって大きな星がいくつも浮かんでいる。

 サリは南国だが、夜になるとぐっと気温が下がって過ごしやすくなるのだ。

 ライトアップされた大きな噴水を前にして、珍しく深呼吸したバーナビーがさっぱりとした表情で笑った。

 

「あら、そんなに臭い? アタシは好きよ?」

「一つ一つは良い匂いだと思うんですが、量がありすぎます」

「まあそう言わずに、オマエに込められた愛の重さだろうがよ。ちょっとは持ってやれよ」

「嫌ですよ、あ、ちょっと…!」

 

 腕時計を見ると、午後八時前だ。せっかくの一日が潰れたのはもったいないが、バーナビーも撮影クルーも今のところ無事らしいということで、虎徹は胸を撫で下ろす。

 

(……いや、全員じゃねえよな)

 

 それからすぐに無残な姿になった名も知らぬ被害者のことを思い出し、首を横に振った。

 ヒーローとはいえ、ただの人間なのだ。どんなに必死に腕を伸ばしたとしても、聞こえない声までは拾うことはできない。

 わかっていても、救えなかった命を思い出す度、胸が痛む。

 体格の良い男が連れ立っているのが目立つのだろう。公園のような病院の中庭を抜けて表通りに出てからも、あちらこちらから視線を感じた。

 そのどれもが幸せそうな観光客だ。

 

「ハンサム!?」

 

 苦い思いでため息を堪えたのだが、唐突に焦ったネイサンの声が聞こえて慌てて目をやる。

 いつの間にか三人から少し離れてしまっていて、前を歩いていたバーナビーがアントニオの腕に支えられて立っていた。

 

「おい、どうした!?」

「いや、それが……」

「急にふらついたのよ」

 

 駆け寄ってバーナビーの肩を抱くと、触れた素肌の部分がひやりと冷たい。

 頬にかかる髪で表情が見えないのに焦って覗き込むが、バーナビーは大きな花束をアントニオに押しつけながら何度も首を振って一人で立ち直った。

 

「バニー、大丈夫か?」

 

 外灯の光で、白い頬にかすかに汗が浮かんでいることがわかる。

 だが、ここで肯定すれば病院に逆戻りだとでも思ったらしく、バーナビーは努めていつもの表情になりながら言ったのだった。

 

「花の臭いに当てられただけです。それに、お腹が空きましたし」

「ああ、おまえ全部吐いちまったもんな」

 

 うっかり言った瞬間、射殺されそうな目で睨まれたが、虎徹は笑ってごまかして困惑顔の二人に向きなおった。

 

「大丈夫そうだ。ファイヤーエンブレム、悪いけどその花、貰ってやってくれねえか? 俺も部屋に置くのはきついしな」

「それはいいけど……カードは貰ってあげなさいよ?」

「カード?」

「これか? うお、呪いの手紙かよ!」

 

 密集する花の間にねじ込まれたものをアントニオが発見し、虎徹に投げ寄こす。

 何事かと見てみると、ピンクの封筒にびっしりとこの花を贈ったと思われる人の名前が書き連ねられていた。

 

「ななな、なんだ、これ!?」

「そりゃあ、ハンサムに恋する乙女達の血の涙でしょうよ」

「気持ち悪いだろ!」

 

 慌ててバーナビーに渡そうとすると、両手をうしろに回してぶんぶんと首を振りながら後退さる。意地でも受け取らないという確固たる意志が虎徹を睨む目にみなぎっていた。

 

「アタシだっていらないわよ。お花はもらうけどね」

「俺もいらんぞ。そんな重い手紙はちゃんと自分で処分しなけりゃな」

「おい〜」

「とりあえずアタシは一度この花を部屋に置いてきたいわ。なにより着替えたいし。夕食は後で合流していただくことにしましょうよ」

「そうだな。俺もシャワーを浴びるか。なにせあの病室じゃ、俺が目を離したら何人バーナビーの子を身ごもる女が出るかわからん状態だったせいで、便所にも行けなかったんだ」

「恐ろしいことを言わないでください!」

 

 虎徹は思わず吹き出したが、バーナビーは冗談ではなく震え上がって拒否する。

 バーナビーも年頃なのだ。浮いた話の一つや二つや三つはあってもいいと思うが、相手を選ぶ冷静さがあるというより、少々潔癖な部分がなんだか可愛らしく思えた。

 やはり自分から探さなくてもあっちやこっちから群がられると、狙われる草食獣のような気分になるのかも知れないとしみじみ同情する。

 

「うふふ、無事だったなら良かったじゃないの。じゃあタイガー、あとでね。アタシたちは向こうのホテルだから」

「バーナビー、無理はすんなよ」

 

 結局、カードを虎徹の手に押しつけたまま二人は通りがかったタクシーを呼び止めて行ってしまい、仕方なく虎徹はそれをシャツのポケットに突っ込んだ。

 

「持って帰るんですか? それ」

「おまえ、自分で捨てるか?」

 

 じとっとした目で睨んでくるバーナビーに言うと、バーナビーは黙り込んでそっぽを向く。

 

「まったく、オジサンはなんでもしまい込むんだから。そんなもの持ったままあんまりそばに寄らないでくださいよ」

「誰のせいだ、誰の! それより、コテージに帰るぞ。この先のショッピングエリアから直通のバスも出てるそうだが、タクシーにするか?」

「……ええ。早く帰りたいです」

 

 弱音を吐かないバーナビーが珍しくしおらしい。本格的に体調を崩したのかと一瞬心配したが、とぼとぼ歩き出したバーナビーの腹から元気な音が聞こえて笑ってしまった。

 

「笑いすぎですよ。僕だってお腹ぐらい減ります!」

「ははは…! 悪い悪い、そりゃ空きっ腹にあんな匂い間近で嗅いだら辛かったよな! とっとと帰ってなにか食おうぜ。その分じゃあいつらを待てねえだろ。ホテルのロビーでサンドイッチを売ってたから、それ食って一息つけばいいさ」

「はい。そうします」

 

 こっくりと頷いた背中を叩いて励まし、バーナビーを連れて虎徹も通りに急ぐ。この通りはタクシーが多く、手を挙げるとすぐに一台が停まった。

 ホテルに帰ってロビーに急ぎ、空腹ですっかり弱ったバーナビーを先にコテージに向かわせてワゴンのサンドイッチを物色する。

 ふと考えてみると、虎徹も昼からなにも食べていなくてずいぶん腹が空いていた。

 野菜たっぷりのチキンとチーズのサンドイッチやタマゴとツナのベーグル、シュリンプとマヨネーズがぎっちりと詰まった薄い生地のサンドイッチを選んで包んで貰っていると、ホテルの黒服が近づいて来る。

 用件はわかっていた。事件の顛末を知りたいのだ。

 

「俺の口からは言えねえ。警察か、保安部に訊いてくれ」

「そうですか。わかりました。申し訳ありません」

「悪いな」

 

 嘘ではないのでそう言うと、黒服の男は慇懃に礼をして心配そうにこちらを伺う従業員の元へ戻って行った。

 おそらく好奇心旺盛な泊まり客の質問の答えに苦慮しているのだろうが、それは虎徹にはどうしようもないので仕方がないのだ。

 

「お帰りなさいませ」

「おう、ただいま」

「ご友人がおみえになってらっしゃいますよ」

「友人?」

「ええ。私は丁度交代から帰ってきたところで、バーナビーさんにはまだ伝えていませんが」

 

 コテージのあるプライベートビーチに続くドアに行くと、この一日ですっかり顔見知りになったドアマンが笑顔でそう告げる。

 だが、虎徹には身に覚えがない。

 

「そうか、ありがとよ!」

「どういたしまして」

 

 表情に出さずに礼を言って飛び出し、虎徹は急いでコテージに走った。

 ネイサンとアントニオではないのは間違いない。ほかに「友人」と名乗る人物の来訪にまったく心当たりがなかったからだ。

 

「バニー!」

 

 大きな月と星明かりに白く浮かぶ波打ち際を、数羽のラフィリアをお供にぶらぶらと歩いていたらしいバーナビーが振り返る。虎徹の怒声に驚いたのか、ラフィリアが飛んで逃げたが、虎徹は構わずにきょとんと首を傾げたバーナビーの元に走った。

 

「脅かすなんて可哀想に。ラフィリアが逃げてしまったじゃないですか」

「わ、悪い、けど――」

 

 砂に足を取られながらなんとか追いついた虎徹が説明する前に、ガタ、とコテージの方から音が聞こえた。

 見た目はレトロでも設備は最新だ。虎徹たちが出かけたあと、木製の階段が収納されて上には上がれなくなっている。

 音がしたのはコテージの床下に当たる部分だった。

 

「誰だッ!!」

 

 バーナビーも虎徹と並んで身構え、鋭く誰何する。

 焦れた虎徹がサンドイッチの袋を抱えたまま床下を覗きに行く前に、誰かの脚が見えた。

 どうやらコテージの骨組みの上で休んでいたらしい。

 

「あいたた…私としたことが、すっかり寝入ってしまって……」

 

 よたよたと出てきたのは、ジーンズと白いTシャツの男だった。笑うと歯が光りそうな金髪碧眼の青年は虎徹と同じぐらいの身長だが、体格は二割増しにごつい。

 

「スカイハイ!? おまえまでここにいたのかよ!」

 

 この男もヒーローで、その名をスカイハイ。本名はキース・グッドマンである。

 

「すまない。そして申し訳ない。私は一昨日着いたのだが、ワイルド君たちがサリに来ていると会社から聞いて遊びに来たんだ。でも、誰もいなくて」

「あ、あぁそりゃ…悪かった。いろいろあってよ」

「そう言えば、やけにビーチが荒れている様子だったけど、何かあったのかい?」

「いや、それが…どこから説明すればいいやら。ま、まあいい。上がれよ。バニー、いいよな?」

「ええ、もちろんです。スカイハイさん、驚かせてしまってすみませんでした」

 

 バーナビーは社交的かつ柔和な笑顔で頷き、階段のロックを解除して先に階段を上がった虎徹のあとに続く。

 

「いや、こちらこそ。先に連絡をすれば良かったものを、驚かせようと思ってしまって。ご迷惑ではないだろうか?」

「迷惑だなんて、そんなことはありませんよ」

「それなら良かった。ありがとう、素直にお邪魔させていただくよ」

「ええ、どうぞ」

 

 部屋に入り、まずは照明をつけて二人をソファに座らせ、紙袋をテーブルに置いた。

 バーナビーだけではなく、キースの腹からも元気な音が聞こえていて、虎徹は二人にサンドイッチを譲ることに決めたのだ。

 どうせこの後でレストランに行くのだから、我慢できるものが我慢すればいい。そう考えてのことである。

 

「スカイハイ、コーヒーでいいか? バニーはミルクだっけ?」

「それは寝る前です。カフェオレにしてください」

「はいはい。了解」

「ありがとう、そして感謝だ! でもこれは、君たちの夕食なのでは?」

「バニーと分けろよ。俺はこのあとバイソンたちと待ち合わせてるから、気にすんな」

「そ、そうか! では遠慮なく…! あ、私もカフェオレで良いだろうか?」

 

 待ちかねたように紙袋を開けたスカイハイに笑って頷き、虎徹は備え付けのキッチンで取り急ぎ二人分のカフェオレを淹れた。コーヒーもミルクも冷蔵庫の中のものだが、二人とも文句は言わないだろう。

 冷蔵庫にはわざわざアイスドリンク用に薄いグラスまで冷やされていて、その至れり尽くせりぶりに少しばかり感心してしまった。

 

「はいよ、お待たせ。足りなかったら果物もいろいろあるから、好きに食ってくれ」

 

 それぞれが頬張ったままぺこりと礼をしてグラスを取る。いかにも血色の良いキースはともかく、バーナビーの食欲のある様子にほっとして、虎徹は二人の向かいに腰を下ろしてしばらく旺盛な食欲を見守った。

 先に虎徹の視線に気づいて顔を上げたのはバーナビーだ。

 

「虎徹さん、本当に食べないんですか?」

「ああ、いらねえ」

「でも……」

 

 自分の持つ少し残ったシュリンプサンドと虎徹を見比べて躊躇したバーナビーに続いて、こちらはしっかりと二つを平らげたキースが口元のタマゴフィリングを拭きもせずに慌てる。

 

「すまない! 本当にぜんぶ食べてしまった!!」

「いいって。俺が食えって言ったんだからよ。バニーも食いな。その分じゃぜんぜん足りねえだろ」

「す…すみません」

 

 素直に赤くなったバーナビーが恥ずかしそうに残りを口に入れるのを見て、虎徹は自分もコーヒーを淹れて一息ついた。

 ミルクとシロップが多めなのは自分の空腹への慰めだが、もちろん二人に対して文句はない。

 

「あの、虎徹さん」

「ん?」

「先に失礼して、シャワーを浴びてもいいですか? お客さんがいるのに失礼だとは思うのですが」

「遠慮するなよ。好きにしな。そんな小せえことをガタガタ抜かすような客かよ」

「その通りだとも! バーナビー君、好きなだけ浴びたまえ! そして、洗いたまえ!」

「いやいや、ふやけない程度にしとけよ?」

 

 遠慮がちなバーナビーに二人でたたみかけると、ほっとしたのか、やっと笑ったバーナビーが頷いて立ち上がった。

 

「ありがとうございます。それではお先に失礼します」

「おう。なんだったら背中を流してやろうか?」

「遠慮します」

 

 よっぽどシャワーが恋しかったらしく、着替えのことも考えていない様子でいそいそとバスルームに消えた背中をシンクの前から笑って見送ると、キースが心配そうな表情でそばに来る。

 それから取り出したハンカチでやっと口元を拭って言ったのだった。

 

「ワイルド君、なんとなくだが、バーナビー君の元気がないように見えるのだが」

「わかるか?」

「なんだかジョンの尻尾に元気がない時のようで、心配だよ」

 

 ジョンはスカイハイの愛する飼い犬だ。犬と比べて心配されるのはどうなのかと一瞬思ってしまったが、自分がバーナビーをウサギにたとえてあれこれ思うことがあることを思い出して納得する。

 

「あー…だから、いろいろあったんだ。体調もちょっと悪いのかも知れねえ」

「それはいけない。病院には? なんだったら私が運んでも」

「おいおい、ここでNEXTの力なんか使ったら速攻でたたき出されるぜ? 下手すりゃ収監されたり、」

「そんなこと、仲間を救うのにためらう理由にならないだろう?」

 

 言い終わる前に真っ直ぐな目で言われて、思わず感動してしまった。

 この青年は風使いのくせに空気を読まずによく話題を振りまくが、本当に真っ直ぐで良い男なのだ。

 

「やっべー…俺が女なら今、プロポーズしてたかもなあ。いや、もうかみさんがいるから無理だけどよ」

「ん? それは褒められたのかな?」

「褒めた褒めた。てか、本っ当におまえ、誰かいい相手ができたらいいのになあ。絶対相手は幸せになれるぜ」

「それは嬉しいな。誰かを幸せにできるなんて、最高の褒め言葉じゃないか」

 

 照れもせずににこにこ笑うキースに虎徹も釣られて笑って、クロゼットからあれこれと取り出した。

 着替えがなくて困るバーナビーをからかってから出してやるつもりだったのだが、キースと話しているうちに自分のそんな悪戯心がなんだかとても悪いことのような気がしたからだ。

 案の定、シャワーの音が止まって覗きに行くと、バーナビーが困った様子で少し開けたガラス戸の隙間からこちらの様子を伺っていた。

 

「お待たせ。バニーちゃん、隠れてるつもりだろうが、密着しすぎて大事なところが丸見えだぜ」

「!」

 

 バスタオルと着替えを持ってきた虎徹を見てぱっと笑顔になった顔が、一瞬で真っ赤に変わってひきつる。

 磨硝子なので、半分は嘘だ。だが勢いよく背中を向けたバーナビーが可笑しくて教えてやらずにちょいちょい、と肩にタオルを当てて言ってやる。

 

「わざわざ尻まで見せてくれなくても、着替えぐらいオジサンはちゃーんと持ってきてやるんだから、さっさと着替えて出てこいよ」

「見せてません!」

「はいはい、じゃあここに入れておくからな」

 

 このままここにいたら、いつまでも出てこられない性格なのはわかっている。

 だから言葉通りカゴに放り込んで離れると、後ろでごそごそ着替えているらしい気配がして口元が緩んだ。

 以前では考えられなかったことだが、今ではこんな風に他愛ないじゃれ合いができる距離にお互いが近づいたことを実感して、なんだか面はゆい気分になる。

 

(一回りの年下の若造と仲良くなんかできるかって、本気で思ってたんだがなァ……)

 

 逆に、この年齢差が自分に余裕を持たせている。自分の方が大人なのだと自覚して接していれば、生意気なところもどこか懐かしい、可愛らしい部分のように見えてくるのだ。

 それは一度同じ年代のころ自分が経験したり考えたりしたことを、バーナビーがなぞるように見せてくれるからだろう。

 そのせいで時々は覚えのある痛がゆさを見てしまって必要以上に叱りつけたくなる瞬間もあるが、概ね問題ない。

 

「ワイルド君、楽しそうだね」

「そうか?」

「ああ。良かったよ。君たちが本当に仲良くなってくれて。なんというか、いっしょにいると楽しそうだ」

「ああ、……確かに。楽しいかもな」

 

 どうやら顔に出ていたらしく、にこにこキースに言われて、虎徹はしみじみ不思議な気分で頷いた。

 バーナビーだけではない。ずっと一人で活動してきたのに、いつの間にかプライベートな自分の空間に誰かがいても、気にならなくなる時間が長くなっていたことに気がついたのだ。

 

「そっかァ。俺もすっかり板について来たんだなー」

「コンビがいるのもいいものだと、君たちを見ていると思うよ。少しだけ、そう。羨ましい」

 

 ソファに座って笑い合っていると、室内用のタオル地のサンダルを履いたバーナビーが出てきて、不思議そうにこちらを見る。

 

「すっきりしたか?」

「はい。これから出かけるんでしょう?」

「ああ。スカイハイも合流したことだし、今日の所はぱーっとやろうぜ」

「いえ、僕はもう寝ます。貴方は気にせずに行ってください」

「いや、そんなわけにはいかねえよ」

「べつに体調が悪いわけじゃありませんし、子どもじゃないんですから。本当にゆっくり寝たいだけです。スカイハイさん、すみません。お先に失礼いたします」

「あ、ああ。おやすみ」

 

 シャワーを浴びて落ち着いたのか、確かに顔色は悪くない。本当に疲れた様子でさっさとベッドルームに行く背中を追いかけると、バーナビーはまだ湿っている頭を振ってあくびをかみ殺しながらのそのそとベッドに潜り込んだ。

 

「オジサン……まさかついてるなんて言わないでくださいよ?」

 

 見上げてくる目は本当に眠そうで、さっきの言葉が嘘ではないとわかる。

 

「言わねえよ。けど、明かりは消してやる」

「窓は開けておいてください」

「ああ。月明かりもオツなもんだろ? 窓際にすりゃいいのに」

「近すぎて落ち着かないんです」

「そうか、それならいい」

 

 南国風の部屋着は膝まで丈のある一枚を着るだけで、下はない。薄い布の中でめくれた部分を引き下ろしてタオルケットをかけてやったころには、バーナビーの目は閉じられて呼吸もほとんど寝息になっていた。

 寝顔を覗き込むと、目の下にうっすらと隈が出ている。

 

「今日は大変だったな」

 

 柔らかい前髪をかきあげたら無意識に口から出てしまって慌てたが、扇形をしたバーナビーの長い睫毛はぴくりとも動かなかった。

 いつもの緊張感のない寝顔は、まるで小さな子どものようだ。

 

「バニー、おやすみ」

 

 もう少し見守ってやりたいような気はしたが、それでは後で本当に子ども扱いだと嫌がられるだろう。

 そう思って冷えやすい腹にもう一枚薄い布を掛けてやり、虎徹はそっとベッドから離れた。

 

「ワイルド君。バーナビー君は私が見ていよう」

「……いいのか?」

「ああ。私も今日はくたびれた。なにか片付けたいことがあるのだろう?」

 

 そう言ったスカイハイが指したのは、テーブルに置いた虎徹の携帯だ。ファイヤーエンブレムからの着信があったことを示して、赤いライトが点滅している。

 

「片付けたいこと…ってのとは、また違うんだけどな」

「うんうん」

「とりあえず、詳しい話は明日でいいか?」

「もちろん」

「じゃあ、頼んだぜ。…って、二十歳(ハタチ)も過ぎたデカイ男にお守りなんていらねえけどよ」

「任せてくれ。そして、お任せあれ!」

 

 満面の笑顔で親指を立てたキースに笑って、虎徹は着替えに持ってきたTシャツと麻のシャツに着替え、ハンチングを被った。

 それから小声で見送るキースに手を振ってコテージを出る。

 昼間の喧噪が嘘のように波が静かで海は深い藍色に染まり、波間に映った月が金色のさざ波になって、まるで空の星がこぼれて落ちてきたように見えた。

 

「あー…ヤベ、アントニオのラテンのノリが移ったか?」

 

 無意識に、本名で親友の名が口から出る。

 そんな自分に苦笑しながら、虎徹は携帯を取り出した。

 

「よう、おまえは誰のバディだ? 帰らなくてもいいのか?」

 

 着歴を呼び出しながら、もう夜だというのにどこかに帰ることもせずに砂浜に佇むラフィリアに声を掛ける。

 大きな白い鳥が虎徹の言葉を気にせず、毅然とした風情で顔を上げているのがなんだか妙に可笑しかった。

 いかにもプライドの高そうなその姿が、なんだかたった今置いてきた相棒の青年の横顔に重なったからだ。

 

『ちょっと、遅いじゃないのよ!』

「悪い、どこだ?」

『近いわよ。アンタたちの泊まってるホテルの上! ここなら帰るのも楽でしょ? アタシも疲れたら部屋を取れるしね』

「そうか。スカイハイも来てたんだが、バニーと部屋に残ってくれた。バニーが眠くて潰れちまってな」

 

 歩きながら言うと、一瞬間が空いて明るい笑い声が聞こえてきた。隣にいるらしいアントニオにも聞こえたのだろう。なにやら言い合っている声が漏れてくる。

 

『よっぽど疲れちゃったのねえ。まあ、良い経験になったんじゃなくて? 明日にでもそのカードを見せて、また元気を出させれば良いのよ』

「あー…そんなモンもあったな。てか、あれって結局なんなんだよ?」

『さっき言った通りよ。それより、さっさと上がってらっしゃい。いろいろ話があるしね』

「話?」

『心配しなくても、今のところ大したことじゃないわ。ハンサムには明日にでも言えば良いし』

 

 それはつまり、バーナビーにすぐに聞かせる必要があるほど切羽詰まった内容ではないということか。

 そう合点をつけて「おう」と頷くと、虎徹は二人のいる店名を聞いて通話を切った。

 

「……風が出てきたな」

 

 立ち止まって見上げた星空に浮かぶ雲が、風にちぎられて壊れながら流れていく。

 こんな空の日には、ハリケーンが近い場合もある。

 なんとなく幼いころに母親に聞いた話を思い出し、足下にいた小さなカニを慌ててかわして、虎徹は落ちかけたハンチングを押さえて急いだ。

 

 

 

――― to be continued.

 

説明
.■Forbidden fruit is sweetest: 2  禁断の木の実は一番おいしい ■連載二回目です。南国リゾート、虎兎あっちこっち物語。あ、木守ヒオの、虎兎メインで書いてる方です。大人指定なんですが、まだそこまで行ってないです。最後にはそうなるんで読まない人は最初から読まない方がいいかなーと思って入れたんですけど、どうなんでしょう??(汗)■仕事がなかったらこの程度の長さなら二日に一本書けるんですが、こればかりはどうしようもなくて(汗)毎日更新はさすがに無理でした。時間かかってごめんなさい! あ、なんかメッセージくれた人がいたみたいで、どうもありがとうございます。私、こういうツールに疎くて書きっぱなしなものだから、お礼とかどうするのかよくわからなくて(汗)でも、読んでくれてる人がいるんだなーって実感できて、うれしかったです。ありがとうございました。自分の読みたいものを好きなように書くだけで始めたんですが、誰かが喜んでくれるのってうれしいなあ。楽しく読んでくれたらなによりです♪■本文は、一話もちょこまか間違いを直してます。二話もたぶんどっか直すかも。でもまあ、本にする時は加筆修正入れ るし、この話の前後も入れたいし、その時でいいかなー。悩むなー。とりあえず、第三話書いてきます〜。

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