爆発日和。
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 西垣先生と出会ったのは、私が生徒会副会長に就任して間もない、4月の事だった。

 帰りのホームルームが終わり、クラスメイトと話す事なく生徒会室に直行した私は、残った仕事を1人で片付けていた。杉浦さんや池田さんなど、他のメンバーはまだ来ておらず、部屋にいるのは私1人。それを寂しいと思うほど人恋しい性格はしていない私は、無骨な事務机にプリントを広げて今日の職務をこなす事にした。

 5月の予定をまとめ、続けて6月の予定を確認しようとした私の耳に、生徒会室の扉をノックする音が聞こえてきた。私は顔を上げる。しばらく仕事に没頭していたせいで気付かなかったが、部屋は既に薄暗く、窓の向こうから刺さる夕焼けで赤いペンキでもこぼしたように真っ赤に染まっていた。

 コンコン。再びノックの音。生徒会のメンバーがやって来たのだろうと考えた私は、そのまま無言で部屋の電気をつけ再び仕事に取り組む事にした。メンバーならば、勝手知ったる人の家ならぬ人の部屋、在室者の返事なしに入ってくるはずだ。

 けれど、ノックは鳴り止まない。そこでようやく、来訪者がどうやら彼女達ではなく客らしい事に思い当たった。少し面倒だと思いつつ、来訪者を迎え入れる。

「やあ」

 扉を開けた先にいたのは、片目をクリーム色の髪の毛で隠した、白衣の女性。彼女の事は見覚えがある、なんてものじゃない。しっかりと覚えている。理科の西垣先生だ。クラス担任になった事はないが、明るいクリーム色の髪の毛といつもどこか黒く煤けた白衣は、入学式に目にして以来ずっと記憶に残っていた。今日もまた同じような白衣に身を包んでいる西垣先生は、プリントを片手に部屋の中を見回す。

「えっと、君は確か、松本、だったっけ? この書類を生徒会長に渡すよう頼まれたんだけどな。全く、あの先生は人使いが荒い。こっちはせっかく実験中だったというのに。何の実験だったのかって? 色々だよ、色々。結果的には爆発の実験になるんだけどな。それに、今日は良い爆発日和だ。爆発は好きか? ん?」

「…………」

 私は言葉を継がなかった。無視をしたわけではない。面を食らっていたのだ。これまで西垣先生とは、ほとんど話をした事がなかった。授業を教わっているわけでもなく、ましてや担任でもない先生と話す機会など滅多にない事だ。だから、先生の口から沢山の言葉が溢れでてくる場面に、意表を突かれてしまっていた。

 それに私は、喋るのが好きではない。むしろ嫌いだと言っても良い。口が言葉をなぞるより先に、自虐的な想像が口に蓋をするのだ。自分の言葉が他人を傷つけたら。期待されていない事を答えてしまったら。そんな思いばかりが私の喉に絡みついて声を失わせる。それもこれも私が言葉を扱う事に怯えているせいである事は承知していた。

 いつからか分からない。けどいつからか、私は喋る事が苦手になっていた。

 思わぬ人物の思わぬ性格に驚いて跳ねた心臓の鼓動がゆっくりになっても、私は話し出す事は出来なかった。そのまましばらく無言で立ち尽くす。先生の目は、私をまっすぐ、矢のようにぶれる事なく射抜いていた。美術品を鑑賞するような真剣な目で、けれど威圧的には感じない、不思議な視線。見つめていたいと思うけれど、このまま見つめ続けてはいけない気もしていた。結局、いつもの癖で目を逸らしてしまう。きっと、悪印象を与えてしまっただろう。それでも先生は話し出さない。この硬直状態がしばらく続くと思われたとき、先生の放った言葉に私は目を見開いた。

「言葉にする事がそれほど大事だっていうわけでもないと思うけどな。人には人の伝え方という物があるだろ。自分が嫌なら、無理に言葉にする必要もないんじゃないか?」

 ……え?

 私は思わず顔を上げていた。見下ろす先生の左目が、まるでレーザーのように私を貫いている。

「…………」

 この人は今、私の言いたい事を理解した?

 いや、ただの偶然だ。文字通り顔に言葉を書いたりしない限り、思っただけの気持ちなんて伝わるはずがない。だから私は口を開く事に怯えているのだから。

 それなのに、先生は微笑んだ。口の端を僅かに釣り上げ、自信満々に言うのだ。

「偶然じゃないさ。言葉にするのは苦手だと、松本の顔にきちんと書いてあるじゃないか」

 私はまた目を逸らした。

 また、俯いた。

 けれど今度は、恐怖ではなかった。心を読まれたらしい事に対する戸惑いと驚き。他にも、沸き起こる色々な感情で頭の中がグチャグチャになる。

「生徒会長はいないみたいだし、それじゃ、私は帰るとするよ。またな。これ、彼女に渡しておいてくれ。今度また会うときは爆発の素晴らしさについて語り合おうではないか。爆友絶賛募集中だ。ああ、それと、あんまり悩むなよ、女子高生」

 私にプリントと謎の台詞を残して、先生は白衣を翻し颯爽と部屋を出ていった。私はその背中をただ呆然と見送るしかなかった。

 先生が出ていって、慌てて扉を閉めて、部屋の中に1人でいる事を確認して、ようやく私はほっとため息を吐いた。

 いったい、さっきのは何だったのだろう。私の顔に文字が書いてあった、とでも言うのだろうか。けれどそれならクラスメイトとももう少し友好な関係を築けているはずだ。気持ちを素直に言葉にしない私が、自分の事で悩む事もないはずだ。

 この数分の邂逅で、私にとって西垣先生は、「良く分からない人」になっていた。

 いち理科教員という認識だったはずが、爆発が好きで、言葉数が多くて、人の心を読み取る、まるで嵐のような、西垣先生。

 けど、決して嫌いにはなれなかった。

 奇妙な先生に興味を持たないなんて事、出来るはずがなかった。

 結果として、それから私の心には、西垣先生の存在が巣食うようになっていた。

 毎週行われる朝礼ではステージ横に並ぶ先生を目で追うようになり、目が合えばまるで悪戯をした子供のように慌てて目をそらす。廊下ですれ違ったときには頷いて挨拶を返すだけだったのが、先生から放たれる爆発マシンガントークにも付き合うようになり。帰りの会が終われば、生徒会室に早歩きで向かって先生が来るのを待つ。先生の存在は、私の学校生活に多大な影響を与え始めていた。

 私の気持ちを読み取る、不思議な人。周りから見れば一方的に先生が話しかけているだけなのだろうけど、私と先生は、確かに言葉を交わし合っていた。気持ちを伝え合っていた。それが、とても嬉しかった。

 先生との出会いは、私にとって一生よりも濃い時間となったのだ。

 

 5月も過ぎ6月に入ると梅雨の時期がやってくる。今日も朝からバケツをひっくり返したような土砂降りが続いていた。鬱々とした気持ちで学校についた私は、教室の扉の前で立ち止まる。扉のガラスを通して教室の中を覗くと、もう既に何人かの生徒が登校しているのが見えた。思わず鞄を握り締める指が痛くなる。周りの生徒に気付かれないように、白い上履きの先を見つめて小さく深呼吸。毎日繰り返しているのに、一向に慣れる気配はない。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせて、扉を厳かに引いた。

 空気が、凍る。

 教室の中で談笑していた幾つかの瞳が私を一瞥し、冷気を放ったあと、すぐに元の相手へと戻る。私に挨拶をしても無駄だと分かっているから、クラスメイトは挨拶をしない。私も、クラスメイトの判断は賢明だと思う。かつて1度だけ挨拶をしてみようと思った事があった。教室の扉を開けて1歩踏み込んで、元気よく「おはよう」と。けれど、口を微かに開いただけで喉はカラカラに渇き、冷や汗が背中を伝い、足はガクガクと震えそうになった。それから、血迷うのはやめた。自分はワックスで磨かれた床の木目だけを見つめて自分の席へとまっすぐに向かうロボットだと信じこむ事に決めたのだ。

 けれど、そんな私にも、話しかけてくる奇特な人がいた。

「松本さん、おはよう」

 新しいクラスになってから隣の席になった彼女は、毎朝私に話しかけてくれる。飽きもせず、呆れもせずに。そうして話しかけてきてくれたその子を私はじぃっと見つめる。

 おはよう。おはようございます。うん、おはよ。雨、ひどかったね。傘さしてても濡れちゃった。湿気も多いし大変だよね。

 頭の中だけなら滝のように流れていく言葉たちは、体の中でぐるぐる巡り、足りない勇気と怯えた心を配合された挙句にぐちゃぐちゃに攪拌されて、ドロドロの液体状になって私の口を塞いでいく。

 結局、私に出来るのは、彼女のつぶらな瞳から目を逸らす事だけだった。

「…………」

 彼女の反応が怖くて、それから朝のHRが始まるまで机の木目から顔を上げる事は出来なかった。きっと、失望しているだろう。このままでは今までと何も変わらない事は十分承知している。

 それでも私にはまだ、現状を変えるだけの覚悟が足りないようだった。先生の忠告を守る余裕なんてどこにもなかった。

 私のクラスは大きなイジメもなく、問題児という存在も時代遅れ、小さないざこざはあるけれど、それは当人同士で解決する程度の、さしたる問題もない良いクラスだと自負していた。だから、私に話しかけてくるクラスメイトに無言で返すのは、親切心から近づいてくる人を刃のない刀で切り刻んでいるようなものだ。自分の好意が無碍にされる悲しみというのは、私でも知っているつもりだ。

 だから、どうにかしなければならないと思っていた。

「友達、か……」

「…………」

 生徒会室、いつものように談笑をしに来た先生にクラスメイトの事を相談すると、見た事もない難しい顔をして悩まれてしまった。眉根を寄せて腕を組んだかと思えば、しばらくうーんうーんと唸り続けている。そんなに深刻に悩まれると、相談したこっちとしてはなんだか心苦しくなってしまう。それほど深刻な悩みではないのだと伝えようとしたとき、先生が一つ頷いて顔を上げた。

「前にも言ったけど、あまり悩む事もないんじゃない?」

 それは私が先生に言いたい言葉だったけど、先生はにっこりと微笑んで続けた。

「それに私だって実験バカだったから、友達なんて数えるほどしかいなかったよ。それでも、今まで普通に生きてきた。……普通じゃないとはひどいな。それで、こうして学校の先生になって、実験尽くしの楽しい毎日を過ごしてる。そうだなー。松本も自分の好きなものを見つけたらどう? そうすれば、少し悩んでも、気持ちを切り替えられる、ような気がする。それから、また悩めば良いんじゃない? うん、我ながらナイスアイディア」

 自分の好きなもの。

 あまり、考えた事がなかった。

 好き嫌いはあまりしない方だと自負しているから、好きな食べ物は何かと問われても答えに窮するだろう。それにこれといった趣味があるわけでもない。生徒会のメンバーはみんな良い人だし、クラスメイトもそうだ。嫌いになる要素を見つける事が難しいくらい良い人だから、みんなを好いている事も確かだ。けれど、先生が聞いているのはきっと違うのだろう。満遍なく振り分けられる好意ではなく、ただ1つの、あるいはごくごく狭い範囲に向けられる好意の話なのだ。

 そうなると、私にはてんで見当が付かなかった。悩みを吹き飛ばす程、好きな物。

 考えて、考えて、考えて。

「…………」

 1つだけ、見つけた。

 いや、1人だけ。

 それは。

 胸に浮かぶのは。クリーム色の髪の毛をして、薄汚れた白衣を身に纏った、何を考えているのか分からない、目の前で微笑む理科教員。

「…………」

 それが西垣先生だと気づくのに、時間なんていらなかった。

 そして、先生への想いを強く心に抱いてしまった事も。

 それは一瞬だった。しまったと思ったときには遅かった。

 意図せず、心に好意の感情を描いてしまう。即ちそれは、表情に機微の変化をもたらすという事。もし相手がクラスメイトだったならば、失敗したと思う必要もなかっただろう。けれど相手は、西垣先生だ。爆発の次に私の表情を読み取る事が得意な、西垣先生だった。まだこの想いは心に留めて置かなければならなかったのに。伝える覚悟なんてできてなかったのに。

 先生の口がにわかに開く。紡がれるだろう言葉に身を固めた私の耳が捉えたのは、予想とは全く別の言葉だった。

「ん? どうした、松本。そんなに見つめられても爆発はしないよ?」

「…………」

 安堵、で、良いのだと思う。私の気持ちが伝わっていない事に安堵した。なで下ろした胸は伝わったらしい。

「安心したって、何に? 爆発した方が良かった感じ?」

 そんな事ありません。私は、先生に爆発してもらっては困ります。

「そっか。私も爆発をさせるのは好きだけど自分が爆発するのは嫌いだな。また何かあれば相談に来ると良い。私は今から実験をしなくちゃなんないから。それじゃ」

 先生はそう言い残すと、そそくさと生徒会室から去っていった。よほど実験がしたかったらしい。私はまたもや、先生が部屋からいなくなった事に安堵していた。廊下ですれ違うときはもっと話したいと思うのに、どうやらこの部屋は私と先生にとっては鬼門のようだった。

 椅子に腰を下ろし、机に突っ伏する。天板がひやりと冷たい。焦りで火照った頬に気持ち良い。

 先生のいつもと変わらない表情を思い出す。

 きっと、これで良いのだ。

 先生に思いが伝わらない事を、喜ぶべきなのだ。

 だってまだ、覚悟が出来てない。伝える覚悟を抱けていない。

 先生の持つ優先事項において、爆発よりも下位に位置している事を悲しむほどの余裕はあるというのに。

「…………」

 覚悟とは、なんだろう。嫌われる覚悟か、好かれていない事を知る覚悟か。それとも、この想いを間違いだと認識する覚悟か。

 問題は、先生が先生である事ではない。私が生徒である事でもない。先生と生徒の恋など、どこでもあるだろう。問題は、年上であることではなく、教員である事でもなく、自分が女で、相手が女である事なのだから。

 私の胸の中は、化学反応でも起こっているみたいだった。先生への思いが、自分の欲望が、私の体を突き動き出したくて仕方がないと訴えかけてくる。

 家への帰路途中でも、晩ご飯を食べてる最中でも、親とテレビを見ているときも、お風呂に入っているときも、宿題をやっているときも、ベッドに寝転がって目をつぶっているときも、ずっとずっと、私の頭の中は悩み事でいっぱいになっていった。クラスメイトとの関係、そして先生への想い。布団の中に潜り込んで、真っ暗闇の中、先生の忠告を思い出す。

 確かに、悩めば悩むほど、答えはだんだん遠のいていく感じがした。かといって悩まなければ問題が解決するはずもない。それに、何かを考えていなければ、私の心はすぐに先生の姿を脳裏に思い浮かばせるのだ。油断ならないこの心も、私をじわじわと真綿で首を絞めるように苦しめていく。

 もう、諦めてしまおうか。

 ふとそんな考えが頭をよぎる。もう先生への想いもクラスメイトとの関係もすっぱりと諦めて、明日からはまた去年と同じ、他人との関係を考える事のない偽りの平和へと戻ってしまおうか。

 そうだ、それが良い。

 胸の奥に燃えている思いは、年上の女性に対するただの憧れなのだ。

 目をつぶる。明日起きれば、もう、変わる。

 

 雨はまだ、止みそうになかった。

 また今日も彼女の言葉に反応できずに机の木目を眺めていた。昨日、あれだけ諦めると決意したのに、彼女の挨拶を聞くと罪悪感が胸を締め付けてくる。でももう決めたのだ。私は、この学校では静かに生きていこう。

 窓ガラスを叩く雨の音に混じって、彼女の友人だろう、私を揶揄する言葉を彼女に吐く声が聞こえてくる。親しげに、緩やかに、そして私に聞こえるように、毒が撒かれる。

「だって挨拶も返さないって事はさ、あんたの事嫌ってんだって。じゃなきゃ普通おはようの一言くらい返すでしょ。そんなヤツに構う必要ないって。時間のムダムダ」

 これが悪意ではなくて彼女に対する善意だという事は分かっている。いつまでもうじうじしている私への罰だという事も分かっている。この罰を止めるには、ホームルームが始まる事を願い続けるしか出来なかった。先生を待つしかない。

「えー、そうかなー」

「そうだって。絶対」

「うーん……」

 彼女たちの会話は淀みなく私の席まで伝わってくる。彼女の唸る声が、私の耳を鼓膜を脳みそを心を揺さぶる。耐えられなくて、私は横目で彼女たちを見た。

「やっぱり、そう、なのかな……」

 彼女から放たれた暗い声に、私は思わず立ち上がっていた。

「松本さん……?」

 違う。違うの。嫌ってなんかいない。覚悟がないだけ。勇気がわかないだけ。悪いのは、私なんだ。

「…………」

 それでも弁明は口を突かない。クラス中の瞳が私を貫く。そのとき、教室の扉が開き、救世主がやってくる。担任という名の救世主の目が、棒のように立っている私を見つめる。私の罪悪感を刺激する。耐え切れなかった。

「はーい、ホームルームを始めま――松本さん? どうしたの?」

 私はこの日、初めてホームルームを抜けだした。

 

 立ち止まって、廊下の窓から外を見上げた。雨はちっとも止む気配がない。むしろさっきよりも勢いを増したようだった。ときに雨粒を振らせ、ときに痛い程の光を降り注がせる、私もそんな空みたいに雄弁になれたらと思う。でもきっとそれは、難しい。

 後ろを振り返っても、先生が追いかけてくる様子はなかった。教室と窓に挟まれた長い廊下がずぅっと続くだけ。普段見る事のない、静かな雰囲気が、私がしたのは悪い事だと知らしめているみたいだった。先生は、どうせすぐ教室に戻ってくるだろうと思っているに違いない。けれど、私にそのつもりはなかった。勢いで飛び出してきてしまった手前、帰るのが恥ずかしいという気持ちもあったにはあった。

 笑えるくらい自業自得だけれど、必死だったのだ。彼女の暗い顔を見たくなかった。

 とは言え、サボタージュなんて初めてだから先生に見つからない場所なんて知らないし、このまま逃げてどうするのかも決めていない。廊下の片隅で、教室にのこのこ戻る羞恥心と中学校の成績を天秤に掛けた結果、傾いたのは成績だった。

 仕方がない、教室に戻ろうかと思って後ろを振り向いたそのとき、背中を叩かれ、思わず体がビクリと飛び上がってしまった。

「どうされたんですか、副会長」

 恐る恐る振り返る。杉浦さんだった。隣には彼女の友人でもある池田さんもいる。私は緊張を解く。

「…………」

 じぃっと見つめる。顔に書いてあったというわけではないだろうが、杉浦さんも私の言いたい事を分かってくれたらしい。

「あ、えと、私たちは雨で体育が自習になったので、図書室に行くところなんです。副会長も自習ですか?」

「…………」

 正直にサボったと言うわけにもいかず、コクンと頷いた。

「それなら、副会長も一緒に図書室に行きませんか?」

「…………」

 今度は、首を振る。一緒にいる所を見られては彼女たちもサボりだと疑われてしまいそうだ。

 そんな事を考えていると、杉浦さんの隣にいた池田さんが何を企んでいるのかニヤニヤとしていた。

「なあなあ、歳納さんがおったらどうするん?」

「な、何言ってるのよ千歳! い、いいいるわけないじゃない! ……そりゃ、ちょっとは期待してるけど……って何言わせるのよ!」

 1人で勝手に盛り上がって1人で勝手に突っ込む彼女が微笑ましい。

「あかん、妄想が……ブハッ!」

「ちょっと、千歳!」

 池田さんも、愉快な人だ。不安になるくらい流血しているけれど、本人はとても楽しそうだ。

 ――歳納京子。

 確か、学年1位の成績と小学生のようないたずら心を持ち合わせた、不思議な子だったはずだ。それと、池田さんに聞いた所によると、杉浦さんの片思い相手でもあるらしい。

 女の子が女の子に恋をする。友情を擬似的な恋だと勘違いしている、という場合ももちろん考えられる。だとしても、その事を指摘するほど野暮ではないし、指摘する理由もない。自分の思想を周りに押し付ける事は、愚かな行為だと思うから。

 恋。

 恋というものがどういうものなのか、私にはまだ良く分かっていない。きっと、綺麗なものなんだと思う。まさに、幸福と名付けるに値する感情なのだと、何かの本で読んだ覚えがあった。幸福。胸の奥が、暖かくなる、らしい。

 あのとき、先生と話をしたときに、私の胸の奥が暖かくなっていたように。

 杉浦さんは歳納さんの事が好きなの?

 聞けば、彼女はなんと答えるだろうか。自分の気持ちに素直ではないから、きっと好きではないと答えるのだろう。自分の気持ちに惑う事なく、真っ正直に、歳納さんの事が好きではないと答えるのだろう。

 私は、どうなんだろう。

 先生に対する想いは今もまだ、胸の奥で小さく燻っている。

「…………」

 胸に手を当てる。ズキリと、痛みだけではない。

 いや、これこそ、先生への憧れを勘違いしているだけだ。私にとって、先生は、会話が成り立つ唯一の人だから。気持ちを言葉にせずとも、自然と読み取ってくれる。感謝とは違う、それは、なんだろう。

「って、会長、お顔が真っ赤ですよ!」

 杉浦さんが目をまんまるに見開いていた。

「…………?」

 自分の頬に手を当てる。本当だ。まるでカイロのように、顔がほっかほかに熱くなっている。

 心の奥に浮かぶ暖かい気持ち。何度も反芻したくなる、奇跡のような想い。それは、確かに、嬉しいという気持ちだった。先生との対話は、私にとっての初めての意思の疎通。人との対面から嬉しいという感情が生み出される事を、私は初めて知ったのだ。

 先生は、私にとって初めてだった。

「…………」

「……えと、会長?」

 小首を傾げていた杉浦さんだが、私がずっと無言で案山子みたいに立ち止まっていると、やがて小さな子供をあやすような顔をする。

「会長は、もうちょっと私たちに頼ってくれても良いんですよ?」

「そーですよー。同じ生徒会なんですからー」

「…………」

 私は杉浦さんに頭を下げる。杉浦さんは鳩が豆鉄砲でも食らったようにキョトンとしていたけれど、私は解説する時間も惜しかった。とにかく、先生に会いたかった。先生に会って、この気持ちを伝えたかった。

 先生に、好きだと言いたかった。

 頭では諦めたなんて考えても、心までは偽りきれなかった。

 昨夜、目を閉じた闇の中は、先生の笑顔で埋まっていたのだから。

 でも、その前に。先生に伝える前に、私には行くところがある。彼女に、感謝を伝えよう。

 雨はもう止んでいた。雲間から射しこむ太陽の光が、眩しかった。

 

 教室の前で立ち止まる。制服の裾を強く握り締める。白い上履きの先を見つめて小さく深呼吸。緊張している。けれどこの緊張は、今までとは違う。恐れではない。覚悟だ。伝える為の、勇気なのだ。扉に手をかけ、厳かに引いた。

「…………」

 彼女に会う事に必死で、今が1時間目の途中だという事を忘れていた。クラスメイトの興味と怪訝が入り交じった瞳に貫かれ、恥ずかしさで消え入りそうだった。穴があったら入りたいくらいだ。けれど教室のどこにも穴なんてなくて、私は大人しく自分の机に向かうしかない。

 授業がようやく終わりを告げる。先生が出て行って、教室はまるで地獄から蘇った死者がお祭りでもしてるように賑やかさを取り戻す。普段は着席したままその祭りを眺めている私も、今日ばかりは椅子から立ち上がり、目当ての人物を正面に捉える。

「松本さん?」

 私と目が合った隣の席の彼女が、友達との談笑から顔を上げてくれる。大きな瞳に見つめられ、私は気恥ずかしくなる。けれど、ここで塞ぎこんではまた同じ結果だ。また、話しかけられない事を悔やみながら毎日を過ごすのだ。静かな、孤独な学校生活を送るのだ。

 そんなのは、嫌だ。

 自責と後悔の重みで押しつぶされそうになりながら、彼女の言葉に罪悪感を抱く毎日を過ごすのだ。

 そんなのは、もうこりごりだ。

 息を吸う。

 彼女の目が私を見ている。

 苦しくなる。泣きそうになる。口を開く。喉を開く。息を吸う。もっともっと息を吸う。喉を締める。あとは、吐くだけ。息を、吸った息を、覚悟と共に吐き出すだけ。

 さあ、ほら。思いだせ、彼女たちの顔を、杉浦さんの、池田さんの、そして、先生の顔を、思い出せ。

「……あ、あの」

 声が、出た。

 少し掠れた、私の声が、空気を震わせて、意味を持って、彼女に届く。

 言う言葉は最初から決めていた。彼女に言うならば、この言葉しかないと思っていた。だから、言う。私の精一杯の気持ちを込めて。

「あり、がとう……」

 彼女は、真摯な目で見つめていた彼女の顔は、ゆっくりと驚愕の表情へと変化する。しばらく凍りついたその顔は、ゆっくりと解凍し、眩しい程の笑顔となった。

「うん、松本さん!」

 彼女の笑顔は、私を勇気づける。杉浦さんも池田さんも、みんなが私を支えてくれている。

 だから、もう、あとは、私の勇気だけだ。覚悟だけだ。気持ちを伝える覚悟、今までずっと逃げてきた、みんなが当然に抱いている覚悟。私は、伝えなくちゃいけない。

 

 生徒会室に飛び込んだ私の目に写ったのは、夕焼けの中で椅子に腰掛ける、西洋人形だ。儚さと美しさにどきりと胸を打たれる。それが先生である事に気づいて、私の鼓動は更に早くなる。バカバカしいと思う。西垣先生は、普通の人だ。それを人形だなんて。もう、とことん参ってしまっているみたいだ。

 けれど、それくらい美しく、キラキラと輝いて見えたのは本当だった。

 先生は生徒会長の椅子に座っていた。背後の窓から指す斜陽が赤いバックライトとなって、先生を照らしていた。クリーム色の髪の毛が柔らかい赤色で包まれている。

 先生が身じろいで、にわかに目を開ける。眠たげな左目が私を捉えた。途端、動けなくなる。ずっとずっと待ち望んでいた瞳。授業中も昼食中もずっとずっと会いたくて仕方がなかった人。

「ああ……おはよう。松本。……そういえば、今日は会うのが初めてだな。いつも休み時間には顔を合わせていたから、今日はどうしたのかと思っていたけど、なんだ、元気そうじゃないか」

 休み時間に会えば、きっと決心が揺らぐと思ったのだ。だから、この放課後までずっと会わないようにしていた。この、覚悟のときまで。

 顔を見たかった。瞳を見たかった。全てを見たかった。その人が、目の前にいる。

「もしかして会長に用事だったか?」

 ……いえ、人払いをする手間が省けました。

「何か大事な話か?」

 はい。とても大事な。

 とてもとても大事な話があるのです。

「そうか。なんだ」

「…………」

 あっさりと放たれた了承に、私はごくりとつばを飲み込む。赤い布に突進する牛みたいに、私は先生へと駆け寄った。部屋の入口から生徒会長の机、その距離が、もどかしくて仕方がなかった。

「ん、どうしたんだ、松本。私の顔に何か付いてるか?」

 ……違います。

 これだけは、この気持ちだけは、言葉にしなければならない。言葉にする覚悟から逃げていたけれど、この想いを言葉にしなければ、きっと後悔すると思った。指が制服を握りしめていた。歯を食いしばる。深呼吸をして酸素を肺に取り込む。緊張が足を震わせる。

「松本……?」

 先生の目を、まっすぐに見つめる。

 ピストンで圧縮した空気が一気に爆発するように、溜め込んだ想いが、溢れ出す。

「す……好きです、先生ぃ!」

 ああ、声が裏返ってしまった。それに声も蚊の鳴くような声。きちんと伝わっただろうか。耐え切れない想いが、先生を震わせただろうか。交わした目線も、撫でられた頭も、伝播する心も、何もかもが先生を求めていた事を、この人は知っていただろうか。

 初めて家族以外の人と会話をした。初めて隣にいて心地良いと思えた。初めて、嫌われても構わないと覚悟した。

「…………」

 先生は目を丸くさせたまま、しばらく動かなかった。血のように赤い紅色の夕焼けの中で、私たちは無言だった。

 先生が何を言うのか。私には分からない。表情を読み取る術なんて持たない。

 嫌われても、構わない。けど、だからって、嫌われるのは、嫌だ。

 失望。嫌悪。忌避。否定する言葉が頭の中をぐるぐる回る。

 嫌だ。嫌われるのなんて、嫌に決まってる。クラスメイトの事も、先生の事も諦めると言いながら、頭の片隅には、剥がしそこねたシールのようにしつこくこびり付いていた。それは、そのシールを剥がしたくないと思ったからだ。繋がりをなくしたくないと思えたからだ。私は、意地汚い人間なんだ。それが、私なんだ。

 先生、好きです。好きなんです。もう、どうしようもないんです。先生、先生、先生、先生――。

「ありがとう」

「…………」

 ヒクッと、喉が鳴った。

 降り注ぐ夕焼けの赤の中で、先生は、微笑んでいた。

 笑顔だった。

「なあ、松本」

「…………」

「私は、ずっと研究をしてきた。小学生の頃に爆発の素晴らしさに目覚めてから、今理科の教員になるまで、ずっとだ。だからな、他人の感情にどう接すれば良いのか、学んでこなかったんだ」

「…………」

「子供の頃からずっと言われていたよ。お前は人の気持ちがわからない爆発バカだって。だから、本当はびっくりしてたんだ。松本みたいに、自分の感情を素直に表している人を見て。初めてだった。他人の気持ちについて、こんなにも考えたのは。爆発だけだった私の中に、松本の存在がずっと残り続けていた」

 同じだ。私と同じ。

「ああ、同じだ。松本の事、私は嫌いじゃない」

 それって……。

「好きだ――と、思う。言っただろう、まだ良く分からない。でも、松本と同じくらいだったと思う」

 何が、ですか?

「好きになったのは」

「…………」

 やっぱり、バレていたんだ。

 顔が熱くなる。先生の顔をまっすぐ見ていられなくなる。世界はどこまでも赤い。私の顔も、夕焼けに染まる生徒会室も、そして、先生の顔も。

「まったく、柄にもない事を言うのは恥ずかしい」

 茶化すようにそう呟いた先生は、こほんと1つ咳をして。

「これから実験をするんだが、付き合ってくれないか?」

 先生が差し伸べる大きな手に、私は喜んで自分の手のひらを重ねる。先生の温もりは、手のひらを通して私の心を熱くする。

「……はい」

 そんなの、当たり前です。

 先生の隣に私がいる未来があれば良い。いつまでも、いつまでも、そんな未来があれば良い。

 今日も良い、爆発日和だから。

説明
 所詮はただの紙片でしかなかったのだ。全ては、彼女が動き出したその瞬間から始まった。果たして、彼女が言語をもって世界に語りかける事を、誰が予想しただろうか。思念よりも難しその意思は、人類の叡智である言葉によって放たれた。咽頭を震わせ、口蓋を開放し、空気を揺るがせたのだ。瞬間的エネルギー解放に似たその衝撃はただ、その身をもって知るべし。(意訳:アニメで会長喋っちゃったよどうしよ)
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