音楽の海岸 |
暑い夏の日だった。入道雲を背にして、俺はユウカの出場する水泳大会に一人で観戦に行こうと家を出た。まだ小学生の時分だ。バスに乗って、電車に乗って、地図を広げて、バス停で暇そうにしているおばさんに道を尋ねたりして、あの時はまるで冒険をしているような感覚だった。一つのイベントを乗り越えると、それだけ経験値が上がったかのような力強さがあった。広げた右手に意識を集中すれば、魔法だって使えるんじゃないか。そんな馬鹿な空想も不思議と信じていた。そう。それはいつも「もう少し」の所で使えなくて、まだまだ自分には魔法なんて力を使うには身体が小さすぎるんだ、と思っていた。早く大きな大人になりたい。それがあの頃の俺の、小学生だった俺の大きな原動力。そんな小さな身体がとても素晴らしい武器を発見したのが、あの日の朝だった。あともう少しで目的の競技場に着くという寸前。あそこの信号を曲がれば晴れてゴールとなっていた最後の交差点。その角に楽器屋があった。ガラスケースの向こう側に、今まで見た事の無い額の数字と共に、綺麗に磨かれた楽器がいくつも並べられていた。音楽なんてあまり意識する事のなかった年齢である。楽器に関する知識なんてロクになく、ただひたすらにカッコイイと思った。その瞬間から俺の原動力は「カッコイイ」に変わった。
さて問題です。私が買ったギターはどっちでしょう?
そんな俺の憧れを最近になって手にした者がいる。あの日、あの運命が俺を貫いた日、水泳大会では見事に入賞する事ができた「ユウカ」という一つ年上の幼馴染である。この女。背が俺よりも高い上に、俺と同じ座高なのだ。つまり確実に俺より足が長いわけである。並んで歩くと俺は嘆息してしまう。小さな頃から家が近所で、ほとんど毎日同じ環境で育ってきた腐れ縁なのに、どうして成長にこんな違いがでるのか。胸だってあの頃から比べたらスケベな感じに発達してやがるわけで、たまにそれを「触らせてやろうか?」とおちょくってくるのが非常に立腹する。可愛くないのだ。振り返れば中学生の頃はまだ差が軽微であった。一つ先輩という事を念頭に置いても、まだ許容できる程度の差だった。実際に身長に関しては一センチこいつの方が大きかったくらいだろう。でも高校に入るとこの女は、まるで夏休みのアサガオの様ににょきにょきと天に昇り始めるわけだ。俺が同じ高校に入学する頃には、頭一つぶん空に近付いていた。俺は密かに「太陽の塔」と呼んでいた。
なんだよ「太陽の塔」。お前の自慢話なんて今は聞きたくないんだけど。
あーん? 今「太陽の塔」って言った? 明らかにあからさまに言ったね? 私に身長の事タブーなのに言っちゃったね?
どうしてこの女がギターを手にする事になったのか。本人の前で解説しておこう。そもそもこのデカブツ、つい最近までは水泳の選手だったわけだ。俺のロックンロールが産声を上げた日に入賞してからずっと、学校でも水泳部に所属して、中学ではなんだかの大会で記録を出したりして、高校では水泳の成果を期待されて入学したのだ。このまま行けば全国大会にも名を連ねる事ができる、とまで言われていた選手だった。だがほんの数ヶ月前に全てが終わった。なに。別に大した事じゃない。練習のしすぎで腰を痛めてしまったらしく、それがどうも大きな爆弾になってしまったみたいで、水泳を選手として続けるのは難しいとの事。正直な話。この事を最初に聞いた時はさすがの俺も絶句した。こいつが何よりも頑張っているのを隣で見ていたから感じる。何年もこいつはただひたすらに泳いで、何秒という世界の中を切磋琢磨していたのだ。だから本人の心に林檎くらいの風穴が空いても不思議じゃないと思っていた。だが、大した事じゃない、と最初に言ったのはアイツの方だった。今の俺の説明よりもあっけらかんとした感じで説明して、最後にこう言った。ギターでもやるか。
それより早く選びなって。早くしないと私の「ブラッキー」が火を吹いちゃうぜ。
そう言ってユウカは口を尖らせてゴジラになる。ていうか「ブラッキー」とか言う名前が出ている時点で、エリック・クラプトン仕様なのはすぐに分かった。こいつとはクラプトンのベストアルバムを一緒に買った仲でもある。ちなみに「ブラッキー」とはクラプトンが愛用していたストラトタイプのギターの愛称である。
なんだ? お前も「スローハンド」と呼ばれたいのか?
むむ。さすがコウちゃん。クラプトンのニックネームの中でも諸説ある「スローハンド」という言葉が出てくる辺り、お主さてはヤードバーズファンですな?
二十一世紀に何を言ってるんだか。
いやはや今年は2011年だべさ、とユウカは笑って背中に担いだギターを背負い直す。重そうだ。この中に「ブラッキー」に似たモデルのギターが入っているんだろうか。こいつが水泳を辞めて、ギターをやると公言してから何ヶ月も掛けてバイトをこなした努力の結晶。きっとストラトタイプなのは間違いないだろう。ずっと前から雑誌に噛り付いてはギターの種類について話していた。あれがいい。これがいい。どうせ買うならこれにしよう。俺はそれを隣で聞いていた。何度も。それは本当に飽きるぐらいに。呆れるくらいに。
この七月の青空に首筋から汗が滲んで、学校に楽器を持っていくのも一苦労に見える。朝なのに陽射しは坂道を歩く俺たちに容赦がない。蝉の合唱に目線を細めると、ユウカはなんとなしに呟いた。首筋から垂れた汗など気にする風でもなく、どこか大切に、古びたオルゴールをそっと開けるように、ユウカは呟いたのだ。
コウちゃんも、一緒に音楽しない?
俺は何も言わない。
かき氷を食べたみたいに頭が痛い思い出って、俺は個人的に思っている。俺にとって音楽が、あの交差点で起きた運命のカミナリみたいではなく、ただ聴いて愉しむ物になってしまった理由。それは親父が関係している。もう数年前に亡くなったが――亡くなった理由なんて今ここで話しても、なんの意味もないだろう――ただの酒飲みのロクデナシだった。仕事はちゃんとしていた。お金も特に困った覚えがない。だが親父の酒乱は凄まじかった。特にパチンコで負けて帰って深酒になった時の嵐っぷりと言えば、いや、その話はどうだっていい。とにかく母親が苦労したんだ、と言いたいんだ。家に帰れば酒を飲んで酔い潰れて暴言しか吐かなかった親父の面倒を、母親が文句も言わずに見ていたわけだ。
そんな母親の趣味の一つにピアノがあった。正確には電子ピアノと呼ばれる代物だ。母親の演奏は小さな俺を癒してくれて、同時に親父の酒乱からも守ってくれた。音のカーテンが俺を包んで、ちょっとの攻撃では負けないバリヤを形成していくのだ。そんな想像の証拠に、母親はよくピアノを弾きながら笑ってくれたものだ。そして約束してくれた。中学生になったら、俺がずっと欲しがっていたギターを買ってくれると。結局そのギターは三日で壊れた。そうだ。三日だ。まだ合計すると三時間くらいしか触っていないのに。酒で暴れて、何が気に食わなかったのか、俺が手にしていたギターに手を伸ばして、力の限り放り投げた。ギターが二つになった。だから俺は親父が亡くなった時は内心で喜んだわけだ。そう。喜ぶことしかできなかった。果たしてそこで喜ぶ俺に、あの母親と同じ優しい音色が出せるのだろうか? 親父に言いたかった。親父に聞きたかった。なんで俺は、貴方の死を喜ぶような人間になってんの?て。
それ以来、俺にとって音楽なんて、CDケースに閉じ込められた円盤でしかなくなった。また楽器を触りたい。楽器を使ってライブで演奏するアーティストの映像なんて見ると、時折力にならない声が内側から聞こえてくるのが感じられた。でもそれだけだった。クラプトンの楽曲を聴いても、グリーンディのパンクに頭を揺らしても、キース・リチャーズにリック・リチャーズ。スティービー・レイ・ヴォーンのスライドギターに、ジミヘンのチョーキング。何を聴いても、俺の現実には届かなかった。それが俺の現実だった。俺の現実には楽器なんていらずに、ただ暇をしない程度の音楽が耳に入れば、ただそれだけで、俺という解読不能な機械は満足するらしいのだ。それが親父の葬式後に考えた結論だった。
放課後。ユウカがギターを学校に持ってきて、それから数日が立った週末の午後五時くらい。そろそろ蝉のビブラートでも聴きながら帰ろうかと、自販機で買った紙パックに口を付けている時にメールが鳴った。
一緒に帰ろうぜ。ボーイミーツガール。
意味不明のメールはどうやら音楽室から発信されていた。放課後の誰もいない校舎で、アンプにギターを繋いで、少し歪みの掛かった音でリフを奏でる。そんな事を数日続けていた張本人からの呼び出し。仕方がないから音楽室に足を向けて、ドアを開けて、そうすればアイツの背中が見えたわけで。その背中越しに大きな音が、本当に大きな音が。これがエレキギターなのか、と俺はそのとき初めて生で実感した。お腹の底にドレミが溜まって行くような、そのドレミが身体の中で弾けて、踊って、肌を震わせるのだ。
私のロックを聴けえ!
残念な事にロックでも何でもない、ただの不協和音がその空間を支配していた。でもそれがよかった。不思議と笑えた。そうか。これがロックなのか、と何故だか素直に思えた。ユウカの肩から下がったギターは、夕陽に照らされて光って、下手くそな運指にデタラメに腰を振って、まるでただの馬鹿だった。こいつは本当に馬鹿だった。だから俺は久しぶりに大声で笑ってやったのだ。制服が多少乱れても、長い髪がボサボサになってしまっても、馬鹿な子供ユウカは、なんとも言い難いロックを放課後の校舎で披露して、疲労した。
何故そんなにもこいつは、素直に動けるのだろうか。自分が思った方向に、自分の考える速度で向かう事ができるんだろうか。長く続けた水泳を辞めた時も、ギターをやると決めて行動に移したあの瞬間も、こいつの素直さは俺の思考回路の未来を歩いている。
しばらくして音が止んだ。ユウカは肩で息をしながら、切れてしまった六弦を丁寧に外す。額から汗が浮かんで、背中にもうっすらと影ができていた。そうしてやんわりと帰り支度を進めて、何も言わずにアンプの電源を抜いて、音楽室のカーテンを綺麗に閉じた。部屋の隅で明日を見つめるベートーヴェンの肖像画を一瞥して、ギターケースをそのまま音楽準備室へと片付ける。
先生がここに置いていいってさ。
ふーん。
そうそう。ちょっとだけ付き合ってほしい所があるんだけど?
お前の心はどこに行くつもりだ。
オススメスポットという場所でござるよ。
砂時計をひっくり返す間もなく到着したのは、学校のプールだった。さすが元水泳部員だけあって、プールに通じる鍵を勝手に偽造していたらしく、すんなりと青い穏やかな水面を拝める事ができた。なるほど。確かに水の傍にいると、ひんやりとした空気が身体を撫でて気持ち良い。すでに他の水泳部員は帰宅してしまったらしく、裸足で歩き回る夏のプールが二人占めだった。
この時間帯がね。超気持ち良いの。夏のこの時間帯が。ギラギラとした太陽がさ。おとなしくシュンと赤くなって、それが水面に映って、ほらすごく綺麗じゃん。
確かにユウカの言う通りだった。赤くなった太陽はまるで、昼間の灼熱を反省するかのようにシュンとして水面を漂っている。あのうるさかった蝉だってどこか遠慮がちに声を鳴らして、世界が宇宙の色へと染まろうとしていた。それ以外には何もない。風で僅かに揺れる水面に少し寂しさを覚えるだけで、何もない。ただ優しい想いが、右手と左手に宿り始めていた。
ねえねえ。
何?
コウちゃんさ。重いなら鞄ちょっと下ろしなよ。
そうだな。
それとさ。携帯って持ってたっけ?
ああ、持ってるよ。
ちょっと貸して?
なんで。
なんでも。
財布もあったら貸して?
だからなんで。
なんでも。
そうして服以外の全ての現代科学が没収された。それはつまり原始に還れという事か。薄々嫌な感じがしたのだが、まさかそんな事はないだろう、と忘れていた腕時計も念入りに外す。こちらに振り返ったユウカの瞳が嬉々としていて、笑える事にその瞬間だけ未来が少し見えた。そりゃロクでもない未来だったけど、悪くはないかもしれない。次の言葉を待つ前に背中が押された。犯人はユウカだ。俺は何もしちゃいない。そのままプールの中に盛大に落ちる。派手に水しぶきが上がって、笑っちゃうくらい鼻に水が入ってしまった。身体中の服が張り付いて、それが本当に重い。綺麗に浮くこともままならず、俺はこの未来を引き起こした張本人を見上げた。プールの側に立って、その無邪気な笑みは本当に楽しそうだった。
しかしそんなユウカも、携帯と財布とその他の現代科学を身体から外す。いつからお前はそんなにロックな小娘になったんだと、意を決して飛び込む姿を前に思った。いや。ずっと前からだった。俺が音楽に心を打たれたのと同じく、こいつもやはり心を打たれていたのだ。飛び込んだ後の水しぶきが顔に掛かって、俺は目を細めた。一瞬ユウカの腰が心配だったが、本人は間もなく水面に浮上して、大きく笑ってバタ足を始めた。
気持ち良いね。
お前最初からこうするつもりだっただろ!
バレてたんなら話は早い。ちょっと泳ごうよ。
張り付いた制服のまま、ユウカは綺麗に足を並べる。水面が振動して、僅かな波が俺の肩に律動する。泳ぐ姿はさすがに綺麗だった。絵になると言えば早いのかもしれない。髪の毛がユラユラと揺れて、少しだけ水面から出した顔が空気を吸って、完璧なフォームがそれを支える。キラキラと光る水の中で大きく、非常に大きく彼女は魚になっていた。やがて突然止まって、髪を後ろにかき上げる。白状すると、その姿に少しだけ心が動いた。
ねえ。コウちゃん。
なんですか?
お、丁寧作戦ですか? じゃあ私も丁寧作戦で。
それはいいから。何?
少し話を聞いてほしいのよ。
聞くよ。
一緒に音楽をやってほしいのだよ。私と。ていうかさ。何事もさ。今みたいに飛び込まなきゃ行けないと思うんですよ。そりゃコウちゃんのさ。過去に何があったかは知ってるし、もちろん無理強いはできないけどさ。
それで?
それで、やっぱりそれでも私はコウちゃんと一緒に音楽やりてえなって思うんす。いや、ほら。一人で音楽室で楽器鳴らしてて、気付いたことがあんの。さっきみたいにギャンギャン鳴らしてさ。もちろん音程なんて無茶苦茶だし、リズムだって完全に適当。でも、それでもそれって音楽なわけじゃん。音楽の端っこなわけじゃん。そんときに気付いたの。この先から広がる本当に大きな海の存在に。私はまだ「音楽の海岸」と呼べる入口にしか立ってなくて、それでも圧倒的に広がる海を前にして、やっぱり少し尻込みしちゃってんの。こんな感覚、水泳をやってる時にはなかったの。ただ水泳は私にとって授業の一環みたいな物だったし、辞めてしまってもほんの少し寂しいくらいだった。でも音楽は違ったみたい。この広がりが。今わたしが立っているのが「音楽の海岸」だとしたら、これから泳いで行かなければならない。あの大海に。それも一人で。だから私はコウちゃんがほしい。一緒に泳いでくれるパートナーとして。それが今の私の本音。さっきの私が貴方をプールに落とした理由。
肩までプールに浸かりながら、ユウカはゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。その瞳は少し恥ずかしそうに視線を逸らしたりしながらだったが、でも表情はとても真剣な面持ちだった。まったく。プールに落とした理由を、そんな言い方で白状するのはずるい。この女は本当にデタラメなやつだ。デタラメな可愛さを持っている。だが馬鹿だ。これだけ濡れてしまった後の事など、きっと何も考えてはいないのだろう。
「音楽の海岸」ね。
俺は呟いた。別に呟くつもりなんて無かったけれど。ただその場の空気の温度を保つために適当な言葉を紡いだ。そしてユウカの目を見つめる。あと二メートルくらいに迫ったユウカの顔が、なんだか不安げな表情をしていたので笑う。なんだこいつ。不安になってやがる。仕方ない。そうさ。そこまで言われたんなら仕方がない。俺もこいつに背中を押されて落っこちてしまったみたいだ。「音楽の海岸」とやらに。だったら泳ぐしかないだろう。がむしゃらに。何があるかなんてさっぱりわかんないけれど、遠くの果てに無人島くらいならあるかもしれない。あの青空の向こうでは雷鳴が鳴って嵐が通って、その先に見た事もない大陸が横たわっているかもしれない。コロンブスかよ。
なあ。一緒に音楽やろうぜ。
七月十二日のユウカの口元に花が咲く。その表情に満足した俺は、おどけるように次の言葉を用意する。きっとこの言葉は面白い銃弾となるだろう。きっと本日一番こいつの表情が変わる。顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯いて、いや、もしかしたら殴り掛かってくるかもしれない。それは言ってみなきゃ分からない。そうだ。言うのだ。ブラが透けてるって早く言うのだ。
そのブラ、可愛いブラだな。
隠される。
死ね。
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もう表に出なさそうなのでアップ。 | ||
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