一歩を踏み出す勇気   【794文字+574文字】
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 今、私の目の前には壁がある。何とも言えない抵抗感を感じる透明な。

 見えない壁と言っても、向こう側に行けないという訳ではないけれど。

 謂わば暖簾の様なものなのだと思う。こちらとあちらとは空間的に繋がっているけど、そ

れが一枚あるだけで、明確に別の場所であると意識せざるを得ない様な。

 それを越える事ができたなら、どこへでも行ける様な気がした。今より上を望む事だって

できると思う。

 でも、私はそれを目の前にすると何時も、逡巡せずにはいられなかった。

 それでも怖ず怖ずと一歩を踏み出そうとするのだけれど、どうしても踏み止まってしまう。

 その一歩を踏み出すのに必要なものなんて何もない。そう思っても、私の足は前に踏み出

してくれない。

 そうして何時も私の心は霞に包まれてしまう。

 でも、今は違う。

 隣には、私を優しく見守ってくれる彼が居る。

 彼の微笑みに何度癒され、何度勇気を貰ったことだろう。

 その微笑みが今ここにある。

 今ここに不安はもうない。

 いつもの様に足が怖じ気付くこともない。

 私は確かな一歩を踏み出そうとしていた。

 ふと、私の手が温もりに包まれた。肌に慣れた彼の手の温もり。

 彼の手に引き寄せられて、私は一歩前へと足を運んでしまう。自分の意志とは関係なしに。

 思わず私は憮然となって零す。

「自分の意志で踏み出したかったのに」

 彼は困った様に見える曖昧な、それでいて暖かな笑顔で応える。

「気持ちは汲み取りたかったのだけど、後ろがね」

「後ろがどうし――」

 振り返ろうとして、私は慌てて前に向き直る。後ろで人が列を成しているのが目端に映っ

たのだ。

 熱い。耳まで熱い。篝火に当てられているみたいに。

 顔を伏して恥ずかしさに気を揉んでいると、彼がそっと手を差し出してリードしてくれる。

 彼は私が上階にしっかりと足を着けるのを確認すると、華やぐ笑顔で囁いた。

「君は本当にエスカレーターが苦手だね」

 

 

※        ※

 

 

 人は最初の一歩を踏み出せれば前に進める。

 

 でも、私はその一歩がなかなか踏み出せない。

 

 何時もためらってしまうから。

 

 ただ一歩だけ踏み出せれば、上を目指すことだってできるのに。

 

 おっかなびっくり脚を出しては、直ぐに引っ込めてしまう。

 

 一歩を踏み出す、ほんの少しの勇気。

 

 ためらう私に、何時も隣にいてくれる男の子が微笑む。

 

 その柔らかな笑みが、私の背中を後押ししてくれる。

 

 この笑顔さえあれば、何も怖いものなんてない。

 

 きっと踏み出すことができる。

 

 さぁ、一歩を踏み出そう。

 

 ふと、私の手に温もりが触れる。

 

 彼の手に優しく引かれて、私は一歩前へと足を運ぶ。

 

 頬を膨らませて、彼に不服を訴える。

 

「もう、あと少しで自分で一歩踏み出せたのに〜」

 

 彼は弱りながら、でも笑顔で応える。

 

「うん、ごめんね。でもね、渋滞を引き起こしちゃってたから、また今度」

 

 私が振り返ると、そこには数人が並んでいて、慌てて前へ向き直る。

 

 思わず顔が火照る。

 

 きっと頬が林檎の様に真赤になっているに違いない。

 

 俯く私に、彼は柔らかな声で囁いた。

 

「君は本当にエスカレーターが苦手だね」

 

 

※        ※

 

 

(ついでにその批評)

 

『一歩を踏み出す勇気』は叙述トリック的な作品ですが、主人公のいじましさがよく描けて

いました。

全体的に現代詩モドキになってしまっているので、もう少し文章を工夫すると、ぐっとおも

しろくなります。

 

説明
某SNS某コミュニティの掌編小説コンテストに投稿した作品で佳作に選んで頂きました。
その際に頂いた批評を元に改稿したものです。

改稿前のもの合わせて載せておきます。
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掌編小説

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