紫陽花の匂い |
思い返すとあの人にとって、私は都合のいい存在だったのでしょう。
誤解されては困るので断っておきますが、ひどい扱いを受けていたわけではありません。
いえ、それならばいっそましだったのかと思うことすらあります。あの人は、滅多に私に構おうとしないのです。
私が傍にいても、何をしても、あの人は書き物に心を奪われたままです。私が突然いなくなっても、きっと気付きもしないでしょう。それが悲しくて仕方ありませんでした。
あの人はいつも自室にこもって書き物をしていて、書いていないときはじっと本を読んでいます。
出会った当初と比べて、あの人は老いてきました。頭髪も白髪が目立ってきました。
外に出るのも億劫なのか、滅多に外出をしません。外の空気を吸わないと体に障るので、どうか外出して欲しいと思っていたのですが、私の心配など、あの人は気にも留めていないことでしょう。
私とあの人が暮らす部屋に、たまに尋ねてくる人がいます。
品の良いスーツを着た男性で、頭を刈り上げているのが特徴です。いつも額に汗をかいた、精力的な若者でした。
一度、馴れ馴れしく私に触れようとした事があり、それ以来私はこの男性を苦手としていました。
男性は来るたびに、あの人の書き物を読んでいきます。あの人はそれを緊張した面持ちで待っていました。
男性が申し訳なさそうに首を振ると、あの人はがっくりと肩をうな垂れるのでした。
そして、書き物も読書も一段落ついて、どうにも手持ち無沙汰になった時、私が呼ばれるのです。
あの人の暇つぶしのためだけに、です。私はそれでも幸せでした。だって私はあの人を愛しているのですから。
あの人に呼ばれた、それだけで私は幸福で胸がはち切れそうになるのです。例えいつも、放っておかれていてもです。
今となってはもう昔のことですが、あの人と出会ってまだ日が浅かったあの日の事を、良く覚えています。
連日雨が降り、気が滅入る日が続いていたときのことでした。
その日は久しぶりに雲の切れ間から日が差し、つかの間のお日様を拝見することが出来ました。
私はつい嬉しくなって浮き足立っていました。今日は何かいいことがあるかもしれない。
そんな淡い期待が、まさか本当に叶うとは思いませんでした。あの人は何を思ったのか、私を散歩に誘ってくれたのです。私はもう、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
私とあの人は河岸の道を歩いていました。
あの人は出不精なものですから、歩みが普通の人よりも随分と遅いのでした。
私はあの人の歩みに合わせて、ゆっくりゆっくりと寄り添って歩きます。
気持ちのいい風が吹いていました。じとじとした部屋に篭っていたことで、鬱積していた心を吹き抜ける、心地よい風でした。その風が、道端に咲いていた紫陽花の花を揺らしていました。雨に濡れて、紫陽花は一層柔らかに咲いているようです。
私は花のことはよくわかりません。はしたないようですが、どちらかと言うと、花より団子の私です。けれど、この紫陽花の花を見たとき、私は素直に美しいと思ったのです。
大切な散歩の途中だというのに、足を止めてしまったほど。
それはあの人も同じようでした。気がつけば、私達はそろってこの紫陽花に目を奪われたのです。
紫陽花に近づいて、私は匂いを嗅いでみました。雨のせいで、殆どわからなかったのですが微かに感じることが出来ます。薄い、淡い、柔らかな、自己を主張しない、優しい匂いです。私が愛する、あの人の匂いと似ていました。
紫陽花の香りを嗅いでいる私を真似て、あの人も紫陽花に顔を近づけます。けれど、紫陽花の匂いはとても微かです。あの人はしばらく匂いを嗅いでいたのですが、結局分からなかったようで、私と目が合うと、あの人は困ったように微笑んだのでした。
近頃、あの人は心の均衡を崩しているようです。ある電話が掛かってきてから、それが顕著になりました。
電話口に何やら怒鳴りながら、あの人の顔が赤くなったり青くなったりするのを見て、私はひたすら気を揉んでいました。私はあの人の身に何が起こっているのかわかりません。電話口の向こうにいる、あの人を脅かす誰かのこともわかりません。何の力にもなれない私は自身を恥じました。
今日、私にとって信じられない出来事が起きました。あの人が私をぶったのです。
一度、二度、三度と私を強くぶちました。その時のあの人の顔は真っ赤になって、まるで鬼のようでした。私は恐ろしくてたまらず叫んでいました。四度目を振りかぶったとき、私の叫び声を聞いたあの人は我に返ったようで、ピタリと拳を止めました。
行き場を失って宙に静止した拳は、ゆっくりと解かれると、私の頭にのせられました。私はまたぶたれるのではないかと、ビクビクと震えていましたが、あの人が私の頭を撫でたとき、その優しい手のぬくもりを感じたとき、杞憂であったことに安堵しました。
ただ、いよいよあの人が追い詰められていることは、鈍感な私でも気がついたのでした。
その晩、私は夢をみました。
私とあの人はいつかの河川敷を歩いていました。道の端にはどこまでも、あの日の紫陽花が咲いています。
雨が降っていたのですが、私は濡れません。あの人が私を傘に入れてくれていたから。
だけど、あの人は傘を私に渡すと、そのまま一人で歩き始めてしまいました。私は追いかけようとしたのですが、何故か体が動かないのです。
せめて、この傘をあの人に渡さなければ。冷たい雨に晒されて、丈夫でないあの人は、きっと風邪を引いてしまうでしょう。
私はあの人の背中に向かって叫びました。だけど、あの人はそのまま振り返らずに歩いていきました。そのまま、見えなくなるまで、まるで雨の中に溶け込むように。私はその消えていくあの愛しい背中に向かい、ただ叫ぶことしか出来ませんでした。いつまでもいつまでも、叫ぶしか出来ませんでした。
翌朝私はリビングであの人を待っていたのですが、なかなかあの人は寝室から出てきません。私は心配になって寝室に様子を見に行きました。そこには、天井から宙吊りになっているあの人がいました。
不思議と驚きはありませんでした。
ひねくれた言い方をすれば、当たり前のようにあの人の死を受け入れている、私自身に驚いたぐらいです。
多分、夢のおかげです。私は昨晩の夢で、あの人が逝ったことを受けいれていたのです。
私は何とかして、あの人をせめて降ろしてやりたくて、何度もベッドの上から飛び跳ねました。
しかし、私の小柄な体躯では届きません。息を切らしながら、今一度と渾身の力を振り絞り跳び上がったとき、運悪く着地点に本がありました。私は本に足をとられて思い切り床に頭を叩き、気を失ってしまったのです。
「全く、ちょっと脅しただけで死ぬなんて。これだから作家は駄目ね。変に繊細なんだから」
私が次に目を覚ましたとき、不意に女の声がしました。辺りを見回すと、あの人の寝室でした。宙にはあの人が未だにぶら下がっていて、ややあって、私は自分が気絶したことに気付きました。
先ほどの女の声は夢だったのかしら。私が思案していると、リビングから物音がします。
あの人を一人にするのは心残りでしたが、どうしても気になって、私はリビングに向かいました。
そこでは一人の派手な女が、あの人のタンスを漁っていました。離れていても分かるほど、強烈な香水の匂いをばら撒いています。
私の足音に驚いたのか、女は悲鳴を上げると、おそるおそる振り返りました。私の姿を見つけると、安心したように溜息を漏らしました。
「なんだ。生きてたんだ。脅かすなっての。それにしてもあの人、こんな小汚いのと暮らしてたのね」
そして女は私にそろりと手を伸ばしました。女の手の、毒々しい赤い爪を見たとき、私は震え上がりました。恐怖ではありません。血が沸騰するような怒りです。
この女が鬼なのだ。あの人の様子がおかしかったのは、鬼に狙われていたからなのだ。この鬼は、寝室にいるあの人を食らうつもりなのだと。
今までに経験したことの無い、暴力的な感情が噴出するのがわかります。自分の奥底から末端に至るまで、血潮がたぎり、怒りに打ち震えるのを感じました。
私は女の赤い爪ごと、女の手に噛み付きました。
女はぎゃあっと叫ぶと私を振りほどこうと暴れました。殴られ、蹴られ、けれど私は意地でも離しません。
やがて、女の足が私のお腹にあたり、苦しさのあまり、噛み付いていた口を開いてしまいました。私はその場に倒れこみ、ヒステリックな叫び声を上げている女は、椅子につまづいて激しく転倒しました。
震えながら女は自分の手を見ています。爪は割れ、血は滴り、裂けた肉の奥には白い骨が見えました。女の繋がった指を見たとき、もっと強く噛み切ってやるべきだったと悔やまれます。
もう一度噛み付いてやろうと思ったのですが、蹴られたお腹が痛くて立ち上がれません。その隙に、女は泣きながら逃げていきました。
私はお腹のじくじくした痛みに絶えながら、周囲を見渡しました。女が暴れまわったせいで、部屋の中は台風が通った後のようになっていました。あの人の書き物も、本も、辺りに散乱していて、私は悲しくなりました。むせかえりそうな、女の香水の匂いが立ち込めています。あの人と私だけの部屋が、女の匂いに犯されてしまった。紫陽花の匂いも、消されてしまったのでしょうか。
私は部屋の匂いをしばらく嗅いで、やがて微かに、紫陽花に似た、あの人の優しい匂いを感じました。私と、あの人の大事な紫陽花の匂い。それを守ることが出来たのです。
私は痛みに耐えながら天国のあの人に向かって、小さく吠えました。
か細い、けれど、愛しい遠吠えでした。
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奥ゆかしい愛というやつ。以前ピクシブで上げたやつを今更。オリジナル、私が愛するあの人。 | ||
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