カルヴァドス |
昔のことはよく覚えていないの。記憶はあるのだけれど、どこかぼんやりしていて。ドクターによれば、事件の衝撃が大きかったんでしょうって。
だから、気にしなくても……。
そう言って彼女は笑った。気遣いの笑顔がどこか寂しそうで、それが昔故郷で見た夕暮れの赤い光に似ていて、彼の心は少し痛んだ。
そう、ふたりが親しくなるのは、ある面必然だったかもしれない。
誰にでも丁寧で優しいけれども、なんとなく距離を作っているような、そんな彼女の姿をいつの間にか目で追うようになっていた。雑談になればなるほど輪に入れないでいる彼女の肩を、よっ何してる、と背後から叩くことがよくあった。
つまりは、彼も引いた位置にいる。そのことに気づかぬほど不注意ではない彼女は、あなただってと言いたげにおかしそうに唇をほころばせた。
アニュー・リターナー。
変わった名前だった。どこの出身なのか、聞いただけではわからない。
なぜ、彼らはそこにいるのか―― 必然でもあり、伏せられた事実でもある過去の背景を、例外的にライルだけはみなに知られている。
兄のせいだ。
彼女と話していると、ときおり少年の―― データが正確なら、そんな年齢ではないはずなのだが、少年にしか見えない―― 厳しくて潔癖な鋭い視線を感じることがあった。女性のように繊細な髪をしたマイスターは、眼鏡越しにライルを責めているようにも見えた。
―― 悪かったな、兄貴と違っていて。
彼は何度も心の奥で呟いた。比較されることには慣れている。繰り返されるだろうと予想していてもなお、彼はそこにいることを選んだ。なぜなのか…… もっともらしい口実を並べることはできたけれど、自分を納得させるには至っていない。ただ、彼は兄のいた場所に、いなければならない。行かなければならないと、そう思ったのだ。
いや、思考することすらなく、選んでいた。
―― 兄弟の情ならわかりやすかったんだけどな。
それもあるだろう。それだけではないから、わだかまる。ふと、彼女には何があったんだろうかと思った。
逃亡に次ぐ逃亡を続けている彼らでも、一息つくだけのひとときはある。その日トレミーが着陸した場所は、森に囲まれた場所だった。
ヨーロッパ大陸全土に点在する広大な自然保護地区は、彼らのいい隠れ蓑だ。性格的にこそこそすることが苦手な彼は、新鮮な果物の調達という名目で調理担当のアニューを外に連れ出すことに成功した。
「フェルトさんやミレイナさんも、誘ったらよかったかしら」
たわわに実をつけたリンゴの樹を前にして、アニューはトレミーを振り返った。なんで子どものお守りを、とライルは思うが口にはしない。彼女にわかるよう肩を落として
「おいおい。オレとふたりじゃ不満?」
そうじゃないけれど、と彼女は喉を転がすように笑った。
「だって、こんなにたくさんあるなら、ふたりでは取りきれないでしょう」
意外に欲深なことを口にして、彼女は背伸びして高い位置の枝に手を伸ばした。すらりとした彼女の腕が、緑の間を生き物のようにするすると上昇する。迷いのない動きにしばらく彼は見とれていたが、指先が僅かに届かないのに気づいて、注意をしようと口を開いた。
「あっ」
それより早く彼女の靴は草を滑り、回転でもするかのように彼女は大きな枝の影に消えた。
「おい!」
どさっと、身体が地面に落ちる音がする。彼は回り込んで、彼女の様子を窺った。思い切り土の上に転がったようだが、ゆっくりと身を起こそうとしている。大したことはなさそうだった。
「案外ドジだな…… って、おい」
からかうつもりでそう言いかけたが、腰を下ろしたままぼんやりと宙を見つめるアニューの様子に気づいて、彼は真剣な顔になった。
「どうした? 頭を打ったのか? おい」
え? とアニューはため息と間違うくらいの返事をして、彼を見上げた。
夢見る瞳をしている。とろんとして不思議ないろ…… 彼は、こんな瞳を他に知らない。
「あ、大丈夫……」
我に返った彼女は、私、どうしたんだろうと、自分の態度に焦りながら、乱れた髪を指で梳いた。その掌からすうっと流れる一筋の赤。
「怪我してるじゃないか」
相手の意見を聞きもせず、彼は彼女の細い腰に手をかけると、ほとんど無理矢理に引きずりだした。そのまま、ひょいと抱え上げる。
「やっぱりどこか打ったんだろ。トレミーで見てもらおう」
「え! いえ、違います。その……」
真っ赤になって焦るアニューを、こんなときだが可愛いと彼は思った。
「いーや、駄目だ。あんたは無理をする性格だからな。連れてくぞ」
「そうじゃないんです!」
耳元で予想外の大声を出されて、彼はうっと呻いた。控えめなようでいて、実は頑固なところもあるのを、短い付き合いではあるが悟り始めている。ライルは素直に彼女を下ろした。
「あの……」
彼女の声でキンと遠くなっている片耳を抑えつつ、無言で怪我している手を指さした。
「まず手当」
「あ、はい」
彼女も素直にウエストポーチからシートを出して、素早く手当を済ませた。それを確認してから、で? と彼は話を促す。彼女は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「あの…… 前にもこんなことがあったなって」
「は?」
まだ子どもだったころ。アニューは親族の集まりで、年齢の近いいとこたちと遊んでいた。そのなかにやんちゃな男の子がいて、庭にあったリンゴの樹に登って枝を揺らしたりして遊んでいた。そんなことしちゃ駄目よ、と彼女は諫めたのだが……。
「結局、足を滑らせて私のうえに落っこちちゃって…… そのとき見上げた景色と、なんだか似てるなあって」
なんだよ〜。ライルは深く息をついた。そんなことでぼんやりしていたのか。人騒がせな…… と思いつつも、彼女ならありそうでもあった。
「んで、それが初恋の男の子とかいうわけだ」
安心した彼は、さっそくふざける。彼女は、小さく、いいえと首を振った。
「その日の午後、テロがあって…… 私以外の人は、みな亡くなりました。その子も……」
あっ、と彼は息を呑んだ。誰もがみな傷を抱いてそこにいる。それを一番よく知っているのは彼だったのに。
「…… すまない」
「あっ、やだ。気にしないで。私、昔のことはよく覚えていないの。記憶はあるのだけれど、どこかぼんやりしていて。ドクターによれば、事件の衝撃が大きかったんでしょうって」
むしろ思い出したこと自体に驚いちゃって、と彼女は続ける。
「だから、気にしなくても……」
そう言って彼女は笑った。気遣いの笑顔がどこか寂しそうで、それが昔故郷で見た夕暮れの赤い光に似ていて、彼の心は少し痛んだ。
失った悲しみはなくとも、悲しみを失った悲しみは必ずある。あるはずなのに手の内にないものを想って、彼女はどれだけこんな微笑みを作ってきたのだろうか。
あるはずなのに……。持っているとみながいうのに、感じられない喪失。彼にはなじみの感覚だ。
「とにかく」
彼女が無事で―― ここにいて。
「よかった…… なんともなくて」
彼は、柔らかく…… とても優しく微笑んだ。
そのとき、彼女の脳を電気が走る。
青い空…… 綺麗に澄んだ青い空が、濃い緑をした葉の隙間から見えている。こぼれる太陽の輝き…… 目にまぶしい。何十年もの時間を経た古木を背負うようにして、栗色の髪をした少年が彼女を覗き込んでいる。奔放な性質は影を潜めて目を潤ませ、ごめん、ごめんよ、と何度も口にしていた。
大丈夫。私は大丈夫だから。
そう答えたいのに、身体が動かない。脳震盪を起こしていた。
わかってる…… あなたはちょっとふざけただけ。みんなが大好きで、自分を好きになって欲しくて、だから、こんなことができるよって見せたかっただけ。わかってる。
大丈夫、私はあなたのこと好きよ。怒ってなんかいない。
そう。
そう伝えたかったのに、部屋に運ばれた彼女は彼と言葉を交わさないまま病院に向かい…… それが永遠の別れになった。
ぽろり、涙がこぼれる。
「おい」
「え?」
泣いていることにさえ、彼女は気づかなかった。涙を止めることができなくて、壊れたように後から後から流れてくる。
「あ、あの、そうじゃなくて…… これは、その」
そんな自分に驚いて、彼女は顔を覆った。
「やだ…… 見ないでください……」
ふっと、彼の頬が緩む。
「ああ、見ないよ」
彼女の頭に手をやって、そうっと引き寄せた。
「見てないから」
彼は腕のなかに収まった彼女を感じながら、彼女の気が済むまで黙ってそうしていた。
心のなかで凍り付いていた何かがとろけて、彼女の一部として混じり合っていく。あのとき、どうしたかったのか。なぜ、今、思い出したのか。その意味がすべてわかったような気がする。
髪に絡む彼の指が、彼女に教えてくれた。
優しいひとね。
そう彼女は思った。
とても…… やさしいひと。
ひとしきり泣いて落ち着いてしまうと、今度は気恥ずかしさで顔を上げられない。だからといって、このまま抱き合う形もやっぱり恥ずかしい。どうすべきかと、冷静さを取り戻したアニューはぐるぐる考えを巡らせる。
「あんたは有能なのに、どこか抜けてるよな」
もぞもぞ動く彼女の気配を察して、ぼそりと、彼は呟いた。
「そんな」
反射的に顔を上げてしまい、彼女はにやっと笑う彼と正面から向き合った。
「あっ、私、ひどい顔して……」
彼は、大丈夫、あんたは泣きべそでも美人だよ、と軽口を叩く。
「で、そういうとこが、ほっとけない……」
もう一度、彼が近づいて、そうっと彼女の唇に触れた。一瞬迷ったアニューは、結局ゆっくり瞼を閉じた。
静かな時間が流れ、やがて彼は唇を離す。
ずっと満たされずにいたものが、今はそんなふうには感じない。これは一体、なんだろう?
「あたたかい……」
知らず彼女の口をついて出ていた言葉を、彼だけがすくい上げる。壊れないよう、傷つけないよう、その頬に触れた。
「なら、きっとあんたは寂しかったんだよ……」
そうかもしれない、と彼女は思った。あれを寂しさというのなら…… では、この気持ちはなんというのだろう?
膨大な知識を検索しなくても、彼女はもう知っている気がした。
彼も…… 知ってる。
今度は確信をもって、彼は彼女に、彼女は彼に口づけた。
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ガンダム00、ライル・ディランディ×アニュー・リターナー。あんまりに唐突な展開だったので、勝手に補完しました。アニューにとって、ライルがどういう存在だったのかなと。 | ||
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