第一章　チョルル港　（パート１）

　カモメが鳴く。遠く、遠く。

　突き抜けるような晴天に恵まれた港町の空を、つがいなのだろう、二羽のカモメがのんびりと飛行を続けていた。遥か天空を滑空するカモメを見つめながら、フランソワ＝ラーヴェル＝シャルロイドは両手を組んでぐい、と精一杯の背伸びを行った。そのまま、海から漂う潮の香りに包まれた風を自身の肺に押し込んでゆく。柔らかな、そして心地の良い空気を堪能した彼女は満足そうな笑みを浮かべて、頭上に伸ばした両手を解放させながら、無意識に口から漏らした様子でこう言った。

　「ん、いい天気！」

　何気ない言葉の端にも気品を感じさせる、そして透き通るような彼女の声は港湾業務に勤しむ海男たちの興味を引くには十分な力があったらしい。その言葉に反応するように、港に停泊する船舶への積荷作業を行っていた海運作業員の一人がフランソワの姿を見つけると、強面の表面を幾分か崩しながら威勢の良い言葉を上げた。

　「こりゃ、フランソワのお嬢様ではありませんか！」

　「おはよう、グレイス。」

　彼女よりも二回りは巨体である、業務の必然性から自然と身に付いた屈強な筋肉を持つグレイスに対して、フランソワは微塵も怖気つく様子を見せずにそう答えた。グレイスからお嬢様と呼ばれているように相当の身分を持つ、今年十六になったばかりの少女であるにも関わらず、である。

　「昨日は散々でしたな。」

　苦笑しながら、グレイスはそう言った。

　「被害は無かった？」

　「おかげさまで、死人は出ませんでした。何人かの怪我人と、それから小型船が何隻か流されてしまった様子ですが。」

　「久しぶりに、大きな嵐だったからね。」

　フランソワはそこで、深刻な表情で同意を示して見せた。避難指示を早めに出しておいたことが効を奏したといえるだろうが、それでも自然の猛威に対して全ての被害を防ぐにはやはり力が不足しすぎている、と切に痛感する。

　「怪我をされた方の様子は？」

　「問題ありません、お嬢様。あのくらいで怪我だなんて騒いだら、そもそも海運など勤まりませんぜ。」

　そこでグレイスはがはは、と大声で笑って見せた。少し雑なところはあるが、グレイスは誠実な男だ。それを十分に理解しているからこそ、フランソワは満足したように頷き、そしてこう言った。

　「それなら、私は港の様子を見てくるわ。」

　「でしたら、護衛が必要でしょう。」

　「でも、忙しいでしょう？」

　グレイスの申し出は確かにありがたいが、彼の背後では昨日の遅れを取り戻そうと躍起になっている海運業者達のせわしない姿が見て取れる。自身の我侭で一人の貴重な男手を奪ってしまうことは少なからず申し訳が無い。

　「なに、作業に影響はありません。幸いにと言いますか、昨日の嵐のおかげで午前中は入港してくる船もありませんし。」

　気さくな様子で、グレイスはそう言った。それに対してフランソワは柔らかな笑みを見せると、凛とした口ぶりでこう答えた。

　「なら、お願いするわ。」

　世界の物産はチョルルに集まる。

　フランソワが見回りを開始したチョルル港は世間一般でその様な認識を持たれている、ミルドガルド大陸最大の貿易港であった。チョルル港が属するアリア王国は大陸唯一の島国であり、その北端に位置するチョルル港は北西対岸にあるシルバ教国と、東部対岸にあるコンスタン王国、そして北方に位置するビザンツ帝国の中継拠点に位置していた。その地理的状況から必然としてチョルル港はミルドガルド大陸の海運を一手に担うことになり、大陸一の貿易港として発展したのである。

　また、チョルル港は海に迫る山地と、市街を形成するに足りる十分な広さを持つ平地、そして海に入ると急激に水深が落ちるという天然の良港としての機能を土地の構造として有しており、数千トンを誇る巨大船舶でも余裕を持って停泊できる能力を備えていた。その結果として、チョルル港はその交易量に見合った広大な港湾面積を有している。ほぼ東西に数キロ単位に伸びるチョルル港を横断するだけでも、午前中一杯は余裕を持って使い切ってしまう程であった。

　だからこそ、フランソワはグレイスの報告のみならず、自らの足で視察をしようと考えたのである。無論、港を警備するアリア王国海軍の精鋭も嵐の後始末を行うべく、そこかしこで作業に勤しんでいた。それでもフランソワが自らの目で、というこだわりを見せるのはそれだけ彼女にとってチョルル港が大切なものであるという事実の他に、もう一つだけ理由があった。

　「ハンプトンは無事だったみたいね。」

　チョルル港の東側に位置している商船区域を越えて西側へと移動すると、チョルル港は途端に軍事色が強くなる。ハンプトンとはアリア王国が誇る木造戦艦（戦列艦）であり、大陸でも最大級の規模を持つ、アリア王国海軍旗艦である。左右合計七十門の大砲を抱えた大型艦であり、甲板長は５０ヤルク（作者註：ミルドガルド大陸の距離単位。一ヤルク≒一メートル）を誇る。見たところ無傷に見えるハンプトンの甲板場で作業員が忙しなく動いているところを見ると、念のための点検を行っている、といったところだろうか。

　「ハンプトンが沈没する時は、まさしくこの国の終わりですぜ。」

　冗談ではなく、真面目な口調でグレイスはそう答えた。事実、周囲を海に囲まれたアリア王国にとって海軍は国の命運を左右する重要な軍事力であり、旗艦ハンプトンが沈む時はアリア王国も沈む、と王侯貴族のみならず、民衆に至るまで本気でそう考えていたのである。

　「そうね。でも、あの船は沈まないわ。」

　まるで自身のことを誇るように、フランソワはそう言った。フランソワは彼女自身の事情から、科学技術全般に、特に船舶関係の知識を豊富に有していた。だからこそ、他の人間以上にハンプトンの実力を正しく評価していたのである。そしていずれはハンプトンを越える名艦を作り上げたい、とはフランソワが幼少の頃から密かに考えていることであった。

　「違いないです、お嬢様。」

　グレイスが野太い声で同意を示し、軽く頭をかこうとした時である。唐突にグレイスは頭に乗せかけた手を止めて、不審そうにその瞳を歪めさせた。

　「どうしたの、グレイス？」

　「いえ、お嬢様、奥に人が倒れているような？」

　「人？」

　そう言いながら、フランソワはつま先を伸ばして、出来うる限り自身の背を伸ばそうとした。だが、軍艦に搭載するのだろう、港に野積みされている弾薬やら食料やらが詰められているらしい木箱の山に囲まれて、フランソワの視界ではどうしても奥を見通すことが出来ない。

　「とにかく、行って見ましょう。」

　うんうんと唸りながら背を伸ばそうとするフランソワを微笑ましく思いながらグレイスはそう言った。そのまま、軽く駆け出す。本来ならもっと早く走れるものだが、女性であるフランソワの速度に合わせたのである。

　グレイスが発見した人物は、その後すぐにフランソワの視界にも届くことになった。男性であるらしいその人物を見て、昨日の嵐で気を失ったのだろうか、とフランソワは考えたが、それにしては奇妙な格好であった。誰も彼も真っ黒に日焼けした海男たちとは違い、健康的な日焼けはしているものの、極端な肌の黒さは持ち合わせていない。それに、身に付けている服装はフランソワがこれまで見たことの無いものであった。胸元が大きく開いたジャケットを羽織り、その下には首元がY字型にかたどられた白地のシャツ。そしてジャケットの配色に合わせているらしい薄手のズボン。貴族が身につけるような服とも違う、かといって庶民が着るものでも、港湾作業員が身につけるような服装ともまるで異なる衣装であった。

　「どうします、お嬢様。」

　倒れている男に近付きながら、グレイスがそう訊ねた。その言葉に軽く頷きながら、フランソワは男の傍で腰を落とす。身につけたワンピースが風にさらわれないようにだけ気を付けながら、フランソワは今一度、男の姿を観察した。右手に握り締められているものは刀の類であろうか。丈夫そうな袋に包まれているものだから確証は持てないものの、長さと大きさから考えるに恐らくは正しい推測であろう。その脇には大きな巾着袋と、青色に染められた旅行鞄程度の大きさを持つバックがまるで投げ出されたように横たわっていた。良く見ると男の服も、鞄も、巾着袋も全てが水を吸い込んで湿っている。やはり昨晩の嵐の被害者なのだろうか、と考えながら、フランソワはそっと男の手首に手を伸ばした。そのまま、脈拍を測る。

　小さな鼓動が、フランソワの細い指先に伝わる。まだ生きている。その事実にフランソワは安堵し、そのまま軽く、指先で男の頬に触れた。目覚めない。もう少し、強く。

　「ん・・。」

　口から漏らすように、男が呻き声を上げた。そのまま、ゆっくりと瞳を開いて、まぶしそうに眼を細めた。今日の太陽は嵐の後だけあって、一段と輝きが強い。

　「大丈夫？」

　太陽の影になるようにと、上半身を男の顔の真上に移動させながら、フランソワはそう尋ねた。その男はぼんやりとフランソワの表情を見つめ続け、そしてぽつり、とこう言った。

　「・・真理？」