薄荷嫁脳
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「私は君のなにを知っているというの」

 ツナ缶を開けながら嫁が言った。

 朝だというのに、文学的なことを言う。寝ぼけた頭にはきついものだ。

 ただ、今日は日曜だし、なによりそう言う突飛なところが好きで結婚をしたわけで、かまわない。

「それに関しては君が一番よくわかっているはずだよ」

 僕は薄っぺらい食パンをトースターに入れながら答えた。

「ならば、私は・・・マヨネーズとって・・・ありがと」

 渡したマヨネーズをツナ缶に山のように盛ると、嫁は慣れた手つきでかき混ぜる。程良く混ざり合ったら、缶から食パンに移し、大きな口を開けて食べる。

「で、私は・・・なに」

「なにが」

「こっちが聞きたいよ」

 パンに染み込んだ油がしたたり、皿に落ちる。僕は口の端を拭って「食べ終わるまで待つよ」と苦笑した。

 

 食べ終わった嫁は、油まみれの細い指をティッシュでふき取りながら話の続きを始めた。

「君は私の事をなにも知らない、それなのに、私は君のすべてを背負っているの、フェアじゃないわ」

 困ってしまった。フェアじゃないと言うが、履歴書でも作って嫁に見せればいいのか。タバコに火を点けて目頭を押さえる僕を見て、嫁が口を開く。

「いいわ、まず近しいことから教えて、私と君が出会う以前の、そう、専門学校の事」

「専門学校のことかい」

「実を言えば、ここが一番ミステリーなのよ、だって君は専門学校の思い出なんか滅多に話してくれない」

 こめかみに指を当てて、対面する僕を嫁はじっと見つめた。

 確かに、これまで僕は専門学校時代の頃の話を嫁との会話に出す事はなかった。学んだモノを全く活かすことなく生きている現状に負い目を感じている部分がある為、なるべく思い出さないようにしていたからだ。

 僕は、タバコの灰を二度三度、灰皿に落としてから意を決した。

「いいよ、なにから話そうか」

 僕が通っていた学科がコミック科なものだから個性的な人間が集まっていた。しかも、みんな若かった。たった一年の間であったがその一年は濃密で、ネタに困ることは無い。

 手始めに、W君がヌードモデルを直視できずに、モデルを見ないでデッサンを完成させた事を話そうかと思い、嫁を見ると、嫁は首を横に振っていた。

「お話をだけじゃ、君は分からない、行きましょう」

「行くって、どこへ」

「専門学校」

 嫁が僕の手を引っ張る。まるで子供のように、振り返りもせず、玄関に向かって歩き出す。

「ちょっと待ちなよ、わかったから着替えておいで、君は寝間着じゃないか」

 サイズが大きいTシャツ一枚を着た嫁の足が止まる。伸びきった襟元を覗き、下着さえ着けていない自分を確認して、「絶対に行くから」と僕の小指に指を絡ませ、「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます」と歌い、クローゼットがある和室に入っていった。

 やれやれと、僕は居間に戻って食器を片づける。と、言っても水を張ったシンクに放り込むだけなのだが。

 油さえ残っていないツナフレークの缶詰。よくも、こんな油を摂取して、嫁は太らないものだ。前屈がすこし苦痛になった僕は少しうらやましい。

 しかし、困った。僕はどうやったら嫁を専門学校に連れていけばいいのかしら。

 

片道一時間弱。日曜日の上り電車は程良く混んでいた。

 

「どこ」

「東中野だよ」

「じゃなくて」

「ここだよ」

「針千本飲む気か、君は」

 ふくれっ面の嫁は可愛いなと思って頭をくしゃくしゃと撫でたら、振り払われて腹に一発、パンチをもらった。

 結構痛い。というか的確に鳩尾を捉えてくれたので僕はうずくまる。

「本当だってば、ここに専門学校があったの」

 僕は、声を絞り出しながら、目の前の高層マンションを指さした。

 専門学校は、数年前にその短い歴史に幕を閉じた。

 嫁はじっと目の前の高層マンションを見ていた。少しだけ横顔に悲しみが滲んでいるような気がした。

「ねえ、君が学んでいた教室ってどこら辺かな」

 嫁が言った。

 僕が通った第二校舎は、鉄筋コンクリート造りの三階建てで、僕は二階の教室で漫画を学んでいた。

 僕はマンションと記憶の中の校舎を重ね合わす。最初は薄く陽炎のような校舎だったが、思い出を手繰り寄せて、目の前の風景に照らし合わせていくと、ジグソーパズルを合わせていくように十年前の姿形が、現在を覆い隠していく。

「あそこだよ」

僕は、マイメロディーがプリントされた布団が干された部屋を指さした。

「じゃあ、あそこではなにがあったの?」

 嫁がマンションの定礎を指さす。

「あそこで、卒業写真の集合写真を撮ったんだ、帰ったら見るかい」

「あそこは?」

「外階段だね、あそこでよく友人と話した。課題の締め切り前は眠気覚ましに夜風に当たるにはいい場所でもあったね」

「あそこは」

「三階は、添削会とかやっていた、漫画家さんが来て話を聞いたりね、居眠りしたらすごい怒られたよ」

 嫁は無邪気に、無作為に指をさし、僕はその度に、思い出を語った。当時、パソコンが苦手で授業をバックれたりした事や、文化祭で病院をモチーフにした飲食店を催して、料理の鉄人を模したコントをした事、でも僕は、納豆を練って客に出す店をやりたかったことなどを話した。

 嫁は、目を丸くしたり、軽蔑したかと思ったらケタケタと笑って、僕は万華鏡のようにくるくると変わる嫁の表情を見るのが楽しくて、喋るのを止めなかった。

「じゃあ・・・あそこは」

 嫁はマンションの三階あたり、丁度、校舎の屋上だったところを指さした。

「あそこは・・・あれ」

 僕は忙しかった口を止めた。

 おかしい。そこだけピースがはまらない。余ったピースを合わせようとするが、どれもはまらない。強引に入れてしまおうと思うが、そうしてしまったらすべてのピースが崩れてしまいそうだ。眼底が鈍く痛み出す。

「おぼえてないんだ」

 嫁は無表情だった。僕をじっと見ている。

「ごめん、なにもなかったのかな」

 僕は苦笑いを浮かべるが、嫁はそんな僕を許してはくれなかった。

「思いだそうよ、そろそろ過積載なんだ」

「なにを言ってるんだ」

「ずるい君が、そういってしらばっくれるなら・・・」

 嫁は、僕の耳元に唇を近づけて呟く。

「ホリオコトコ」

 嫁の言葉が僕の眼底を震わす、痛みが視神経を伝って脳の奥に届く。

「ホリオコトコ」

 頭が割れそうな痛みに耐えて、息が上がる僕に容赦なく嫁は口にする。

「ホリオコトコ」

「やめてくれ、その女の名を呼ぶな」

 僕は際限なく溢れる唾液を地面に垂らしながら嫁に言うと、フッと耳に息がかかった。

 嫁が笑ったのだ。

「なんだ、少しは覚えているんじゃないの」

 僕はゆっくりと声の方を見る。

 嫁はいなかった。代わりに、金髪坊主頭の若い男が僕を睨みつけていた。

「ちょっと面かせや」

 男は強引に僕の腕を掴み、マンションへと連れていく。

 手慣れた手つきで暗証番号を入力し、中に入る。チラリと管理人室の窓口を見るとカーテンが閉まっていて人の気配がない。

 男はせせら笑い、ロビーの端にある用具倉庫に、僕を押し込んだ。

 むき出しのコンクリート壁に立てかけられたモップの枝に背中を強く当て、思わず僕は息をもらす。

 男は辺りを見回した後、二人入れば満員の用具倉庫に入り、内鍵を回した。

「どこの組のもんじゃい」

 眼前に迫るブルドック顔がタバコと虫歯の臭いが混ざった糞便のような息を吐きかけながら凄んだ。

 僕は激しい頭痛とさっき打ちつけた背中の痛みで精一杯で首を横に振ることしかできなかった。

 男は僕の胸ぐらを掴み、早口でまくし立てる。まるで、異国の言葉のようだ。多分、マンションを指さして話していたのが、気に食わなかったのだろう。なんかやばい商売でもしていたのか、それを僕が詮索していたとでも勘違いしたのだろうか、ああ、しかし、そんな事はどうでもいいんだ。それよりも僕は、痛みに寄り添う「ホリオコトコ」の顔を思い浮かべようと必死だった。

 古い刑事映画のように髪、目、鼻、口に分割された様々な顔が右から左へ流れていく。

 そして、嫁とよく似た顔が形成された。

 すると、頭痛がバカみたいに消え失せて、ブルドックの首筋で光る金属を、僕は冷静に見ることが出来たのだ。

「あにしてんだよおまえ」

 さっきまでの威勢はどこへやら、金髪の男は金縛りにあったように硬直した。

「ここでの思い出は?」

 男の首筋の動脈にあてがわれたツナ缶のフタを手にした嫁が、男の左肩に顎を預け僕の顔をのぞき込む。

「ここは、喫煙所だったよ、タバコを吸いながら友人と話すのが好きだった」

「未成年だったでしょ」:

「ああ、今では僕だけ喫煙者だ」

「最悪じゃん」

「思えば不勉強な学生だったな」

 男を挟んで二人で笑い合った。

 男が何か騒いでいる。バカだなと思う。騒げば騒ぐほど、フタの鋭利なフチがあなたの動脈に潜っていくというのに。

 男が女みたいな悲鳴を上げた。彼の血が、嫁の細くしなやかな指を伝いショッキングピンクの悪趣味な男のシャツを一層赤く染め上げる。

「うちの嫁がごめんね」

 口のはしに泡をためる男に僕は謝った。こうなると、いくら僕でも嫁を止められない。刃物を持たせないように注意していたのだがね、缶詰のフタとは盲点だったよ。

 幾度、僕は嫁のために頭を下げたのだろうな。

三十人だ。あなたを含めて三十人だ。記念すべき三十人目だ。おめでとうと言ったら失礼かな。そうだよね、キリ番ゲットって喜ぶわけにもいかないし、何より君は死んでしまうんだからね。

ごめんなさいね。おっと、やはり君は特別だ。僕は二回も頭を下げてしまった。こんな事はないんだよ。特別ついでに教えて上げるよ、愛おしい嫁が人殺しをする度に分かったことがあるんだ

 戦争みたいな非日常的ではなくて、きわめて日常での暴力の優劣は腕っぷしの強さで決まるわけじゃないんだよ。どれだけ躊躇なく暴力を行使できるかが優劣を決めるのさ。君はガタイもよくて、威勢もいいけど、嫁の域に達する程ではなかったのだね。がっかりだよ、Vシネのヤクザはやはりファンタジーだったんだな。嫁はね、蚊を叩くように人を殺してしまうよ。君は蚊のように死んでいく。

 男のシャツは真っ赤で、ピクピクと痙攣している、嫁は動脈だけでは飽きたらず、こころゆくまで、肉を裂く快感に震えようと決めたようだよ。

 ああ、もう、聞く耳も持たないね。

 

 ブルドックからナポリタンに整形された男は、嫁の足下で生き絶えている。

「ここからは、僕の仕事だ」

 僕は、なるべく綺麗な雑巾を探して、嫁の細い体にかかった返り血を拭いてあげた。

 さて、この死体をどこに隠そう。これは難題だ。

 なんせ、昼間だ、東中野だ、都会だ。外は、人でいっぱいだ。さりとて、このままここに放置するわけにもいかない。持ち出すとして、さっき、管理人の不在は確認したけど、監視カメラの有無まで確認する余裕がなかった。立派なマンションだ、監視カメラは有ると考えるべきだろう。

 僕は倉庫を漁り、適当に使えそうなモノを見繕った。そして、それを並べて、頭を巡らせて半透明のゴミ袋とガムテープを選択した。

「安心して、いいことを思いついたよ、このゴミ袋をガムテープで繋ぎ合わせてこいつがすっぽり入る大きな袋を作ろう」

「でも、半透明だよ」

 嫁は血だらけのツナ缶のフタを弄びながら言った。

「ガムテープを全面に貼ろう、そうすれば中身は見えないよ」

「でも、監視カメラで君がぐるぐるガムテープを巻いた怪しい袋を運び出すのが映っちゃうよ」

「大丈夫だよ、ゴミ袋を頭に被れば問題ないよ、それに僕の事を心配してくれて嬉しいけど、君も被るんだよ、それにいくらなんでも一人で運べない、君にも手伝ってもらう、捨て場所は有栖川公園にしようかと思うけど、それならここに放置したままの方が得策かもしれないね、ねえ君も考えてくれないかな」

「あの時はどうしたの」

「あの時?」

 嫁が僕の手を握った。相変わらず冷たい手だ。

「もういいんだよ、もう過積載なんだから」

 嫁の言ってることはいつも不思議で僕はそれを理解しようとするんだけど、やっぱりよく分からない。

「エレベーターに乗ろうよ」

「まずいよ」

「きっと楽しいよ」

「エレベーターなんか楽しくないよ」

「止まるとき、フワっとするんだよ」

「嫌だよ」

「なんで」

「それはわからないけど」

「じきに分かるよ」

「やめろ」

「もう、止まらないよ」

「やめろ」

「ホリオコトコ」

 嫁がまたあの女の名を口にした。

 頭痛が再発する。なすがままの僕は嫁に引っ張られ、エレベーターに乗った。

「走馬燈へようこそ」

 嫁はそう言って、ボタンを押した。

 僕は壁によりかかり、頭痛に耐えた。

 上昇。時折、外の光が射し込む。

 声が聞こえる。騒がしい。

 このマンガが面白いだの、ネームが仕上がらないだの、誰彼が好きだの、聞き覚えのある声が外の光とともにエレベーターの箱の中へ入っていく。

 僕は、長方形の窓を見た。

 懐かしい顔、懐かしい教室、風景が上から下へと次々と窓に映る。

 そして、僕はその中に、最後のピースを見つけた。

 腰までの長く艶やかな黒髪、切れ長で内斜視の瞳、唇は薄く赤く・・・嫁と瓜二つの少女、昔の僕と微笑みあっている。

「怒らないで…」

 背後から声がした。

「ホリオコトコ」

 僕は振り返り少女の名を呼んだ。

 ホリオコトコは、悲しそうに微笑んだ。

「ゴメンね」

「・・・謝っちゃうんだ」

 僕は乾いた笑いを発した。

「悪いと思っているよ、最低だと思ってる」

 泣き声で、ホリオコトコは俯き言った。

「謝らなくてもいいよ、それに、その話は聞きたくないよ」

「でも、本当に愛しているのはあなただけなの信じて」

 僕は黙って、オレンジ色に光る『R』を意味もなく見ている。

「卒制の〆切があるからって…私も一緒なのに、あなたは…」

 ホリオコトコの言い訳を遮るように、ポーンとエレベーターが屋上に着いたことを告げた。

 僕とホリオコトコの思い出の場所、僕がホリオコトコと結ばれたマルチデザイン学園の屋上だ。

 僕は、緊張でうまく口が回らなくて、結局、呼び出されたホリオコトコが告白する羽目になっちゃったんだっけ。

 味気ない正面の第一校舎から目を逸らし、見上げれば、僕の気持ちとは正反対な青空が広がっている。

「寂しかったの…」

 少しの衝撃と暖かい感触。その温もりが、僕を完璧に壊した。

「汚いな」

 僕は、しがみつくホリオコトコを振り払った。ホリオコトコが灰色の地面に倒れる。

 僕は、頭を抱えて立ち上がろうとするホリオコトコを蹴倒し、馬乗りになって細い首を絞めた。

 ホリオコトコの細い指が僕の腕にくい込む。

 ホリオコトコの脈打つ動脈、引っかかる筋、コリコリとした気道の感触を親指の先で感じた。

 ホリオコトコの綺麗な顔が歪み、半開きの口から覗く赤黒い舌がぴくぴくと痙攣している。僕は、その舌にエロティシズムを感じ、絞める力を一層強くした。

 やがて、食い込んだホリオコトコの指が離れ、ぱたりとホリオコトコの「おもらし」で出来た水たまりに波紋を作った。

 僕は、下腹部に残った蕩けそうな残滓に身体を震わせるのと同時に温い精液で濡れたトランクスがひどく不快に感じた。

「そして、ママは死んで、私は生まれました」

 ホリオコトコ、いや、嫁が僕と果てたホリオコトコを見下ろしていた。

「ママ・・・ホリオコトコが…馬鹿を言うなよ」

 僕は息を整えて、嫁の母親、僕にとっては義母の顔を思い出そうと記憶を駆け巡ったのだが、義母はおろか、義父も、隅にも奥にも底にも欠片も存在しなかった。

「正確にはママではないけど、私が生まれるきっかけを作ったのはホリオコトコ」

 嫁は、ホリオコトコの亡骸に慈しむような視線を向けた。

「嫁、君は誰だ、誰なんだ」

 僕の問いに、嫁は鼻で笑った。

「ずっと言ってるでしょ、過積載だって、以来、君は身勝手にも私に全てを背負わせた、でもそれも今日でおしまい、既に超過なの、キャパオーバーなの」

 また、嫁は訳が分からないことを言う。僕が何をした。君に何をした。僕は、君を養い、愛したじゃないか。その対価としてリスクを背負うのは夫婦として当たり前ではないか。 

「あなたは誰を養い、誰を愛したというの」

「嫁を」

「誰を」

「・・・堀尾琴湖を」

「残念、大ハズレよ」

 堀尾琴湖は僕に手を振り「さよなら」と別れを告げた。

 僕の視界が反転し、重力を感じた。

 ああ、逆さまの琴湖が遠ざかっていく。

 僕は、せめて地面に叩きつけられる前にと、血だらけで曲がりくねったツナ缶のフタを首にあてがった。 

 

 

 

 

 

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