鏡の中の私が、私になり代わる日
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「私って鏡映り悪いでしょう?」

 寝癖のついた髪にブラシを通しながら、今日子は言った。毎朝の日課となった二人でのブラッシング中でのこと。

「そんなことはないよ、鏡の中の今日子も綺麗だよ」

 朝からそんな歯の浮くようなせりふを、隣でひげを剃る大輔はさらりと言ってのける。剃り残しのある口元に笑みを浮かべながら。

「そうかしら、なんか淫乱に見えない?」

 一足先に髪を梳かし終えた今日子は、鏡に向かい頬を膨らませたり、引っ張ったりをくりかえしている。

「鏡なんだから同じだろ」大輔は興味もなさそうに、顔を洗い、あいたタオルで濡れた顔を拭うと今日子を残して先にリビングへと向かった。

 二人がけのテーブルにはそれぞれの分の朝食が用意されている。大輔は一人席に着くと、用意されていたトーストを口に運んだ。

 やや硬くなったパンを噛み千切ったとき、洗面台の方から何かが倒れたような鈍い音、それに続いて今日子の悲鳴が響き渡った。

何事かと、あわてて駆けつけた大輔が見たものは、鏡の前に立つ二人の今日子の姿だった。

 

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 今日子は鏡の中の自分の姿に違和感を覚えていた。容姿は確かに自分自身である。しかし、内側からにじみ出る雰囲気、とでも言うのだろうか、それは今日子が自覚しているものとはかけ離れている様に思える。

 初めてそれを感じたのは二年前、仕事がうまくいかずイライラしていたときのこと、たまたま再会した友人がある薬をくれた。友人曰く「何もかもうまくいく薬」ということだった。

「大丈夫だって、私も使ってるし、すっごいハイになれるんだ」

「それって麻薬じゃないの」

「違う違う、合法ドラッグって言って法律的にも問題ないんだから、とりあえずちょっと試してみて、もし気に入ったらまた電話くれればいいから」

 彼女はそう言って薬と携帯の番号を今日子に渡し去っていった。

 

怪しいことはわかっていた。しかしあのときの自分は、何もかもがいやで、洗面台の前で頭を抱えて悩んでいた。薬に頼ることは負けることとはわかっていた。もう一度自分の力でがんばってみよう。そう思った時、鏡の中の自分がささやいたのだ『自分の力だけでは無理よ、このままでは変わらないわ。その薬は本当の自分を解き放つの』と。

 そのときの鏡の中の自分はやさしい微笑で、私を力強く励ましてくれた。背中を押してくれた。そう信じられた。それが本当の自分の思いだと信じていた。今日子は意を決してその薬を飲んだ。

 それから鏡の中の自分はもうしゃべることはなかった。黙って同じ動作を真似するだけ…。そのときは自分の作り出した幻覚。そう思っていた。

 

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 その後は、友人の言うとおりすべてがうまく回り始めた。気分が晴れ、仕事は順調に進み女性ながらに昇進を繰り返した。

 プライベートでも大輔と出会い恋をした。しかし、それと引き換えに今日子は、もう薬なしでは生きることができない体になっていた。

 薬は確かに合法だった。しかしそれはまだ規制の対象に入っていない、というだけのことで、激しい副作用と依存性を持っていた。

始めは飲み薬だったものが今では、直接血管に注射しなければ効果がなくなっている。腕では傷が目立ち始めたため、今では目立たないよう太ももの内側に注射するようになった。定期的に友人を介して見知らぬ黒人から薬を買う日々が続いている。

もちろん、このままではいけないと頭では理解できていた。しかし今日子の体は逃れることのできない、薬の深い依存症に陥っていた。もがいても、もがいても、決して這い上がることのできない蟻地獄のようだ。

 最近になってからは、恋人の大輔からプロポーズも受けた。だが今日子は仕事を口実に答えを先送りにした。結婚に踏み切れない本当の原因はもちろん薬の依存症だった。半年前から同姓ははじめたものの、今日子の心はいつも罪悪感でいっぱいだった。

 あの時以来、鏡の中の声は直接聞こえて来ることはない。しかし、自分とは違う意思がその中に育っていることは感じていた。大輔に尋ねても「同じ顔にしか見えない」と言われる。この違和感は自分だけのものなのだろうか。

 

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 今日子は再び鏡の中を覗き込む。もちろん鏡の中の自分もこちらを覗き込むように顔を近づける。いつもの見慣れた自分の顔、しかし今は違った。

「きゃっ」短い悲鳴を上げて、今日子は後ろに跳び下がった。鏡の中の自分がこちらを向いて笑ったのだ。今、自分は笑っていない。それは間違いない。今日子とは違う意思が鏡の中では働いたのだ。鏡から離れはしたものの、言い知れぬ不安から目を放すことができない。

 『誰なの』心で思っても言葉にできない。返事が返ってくるのが怖い。今まで隣にいた大輔は、すでにリビングに移ってしまっている。この場所に今は今日子一人だ。

 そう、気にしなければいい。勘違いなのだ。そのままこの場所を離れればいい。わかっていても体が動かない。そして今日子は見た。見間違いなどではない。鏡の中の自分が再び、今度ははっきりと唇の端を釣り上げて笑ったのだ・・・。

今自分の意識では驚きの表情をしているつもりだ。しかし鏡に映る自分は明らかに白い歯を見せて笑っている。そしてそれは意思のある笑顔。向けられている対象はもちろん自分自身。今日子に向けてのものだった。

 

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「笑って・・・いるの?」

 言葉に出すことで今日子は一言、一言口の動きを確認した。間違いない鏡の中の自分は唇を動かしてはいない。同じ表情でずっと今日子に向けて笑顔を送っている。今日子は初めて自分の笑顔に恐怖を感じた。視線をはずすことなく数歩後ろへ下がる。右手が洗面所から出る扉のノブに触れた。その場から逃げ出そうとする今日子に対して、鏡の中の今日子が動いた。

 ゆっくりと鏡の内側から手を伸ばす。指先がガラス面に触れると、鏡面に波紋が広がり、鏡はまるで湖面のように揺れる。鏡の中の今日子の指先が、手の平がそして体が現実の世界に具現化してきた。鏡の中の今日子は空を泳ぐように今日子に迫る。同じブラウスに包まれた上半身が鏡面から出ると、そのまま流れるように全身が姿を現した。

這い出るように現れたもう一人の今日子は、しなやかに体をくねらせ、洗面台の上に腰を下ろした。

今日子とまったく同じ姿かたち。しかし洗面台の上から見下ろすもう一人の今日子にはオリジナルにはないまがまがしさをはなっていた。

 ゆっくりと、しかし確実に今日子は現実を受け入れていった。そして理解の許容値を超えた時、恐怖の悲鳴を上げたのである。

 

 

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 鏡から這い出した女は、今日子の前にゆっくりと立ち上がり、乱れた髪をかき上げた。今日子はその場から動くこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 女は微笑を絶やさぬまま今日子に声を掛けた。

「はじめまして、って言うべきかしらね」

 声もまさに自分のものだ。今日子は震えながらも懸命に質問を返した。

「あ、あなたは何者なの」

「あら、見ていなかったの?私はあなたよ、鏡の中のあ・な・た」

「大丈夫か、今日子!」

 悲鳴を聞きつけた大輔が洗面所に駆けつけた。

「い、いったい、どういうことだ…」

 開け放った扉から二人の今日子を見つめ大輔は戸惑いを隠せない。

「大輔、私にもわからないのよ。いきなりこの人が鏡の中から出てきたのよ」

「鏡の中からだって?」

 大輔は二人の後ろにあるドレッサーの鏡をのぞく。そこには二人の姿は存在せず、間抜けな表情で立ち尽くす大輔だけが一人で映っていた。

 

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「そうね、あなたは今日の子で今日子、だから私は鏡の子で鏡子ってことにしましょう」

 鏡の中から来たという女性は自分を鏡子と名乗った。今三人は洗面台を離れ、全員リビングに移っている。2LDKマンションのためリビングは広いがテーブルには二人分しか椅子がない。そのため、鏡子はソファーに座って、ここに引越して来たときに購入した薄型の大型液晶テレビを見ながら、あたらしく焼いたトーストと目玉焼きを食べていた。

「今日子が右利きだから、君は左利きなんだね。」

 大輔がどうでもいいことを指摘した。鏡子は笑顔で返事を返し、そのまま朝食を続けた。

「それより、あなたの目的は何?何でいきなり鏡の中から出てきたのよ」

 不安を隠すため今日子は叫ぶような口調で言った。態度には出さないが、大輔も今日子や自分に危害を加えるつもりがあるなら力づくでも鏡の中に押し戻してやろうと考えていた。

 二人の注目する中、鏡子はすました顔で答えた。

「私が現実世界に来た目的? それは、大輔に会うためよ。今さっき、鏡の前のあなたに『鏡の中の今日子も素敵だよ』と言ってもらえて、とてもうれしかったわ。あなたにひと目会いたい。そう思っていたらここにいたのよ」

 鏡子は大輔だけを見つめてそう答えた。

 

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「安心して、だからどうってことはないのよ。わかっているわ、私はあくまでも今日子の影、ちょっとだけ現実の世界を楽しんだらすぐに鏡の中に帰るわ」

 残ったトーストを一口で口の中に入れると鏡子は時計を見て言った。

「あら今日子、もう出社しないと間に合わないわよ。今日は大事な会議なのでしょう?」

「何であなたがそんなことを知っているのよ」

 睨みつけながら今日子が叫ぶ。

「私はあなたの影よ、あなたのことはすべて知っているわ。すべて、ね。」

「行けよ。こっちはおれが何とかしておくからさ。今日の会議ははずせないんだろ」

 大輔も仕事だが出社時間の遅い大輔はまだ余裕がある。

「ごめんね」

 今日子は食べかけのトーストを皿に戻すと、大慌てで家を飛び出していった。

 廊下を駆けていく今日子を見送るとリビングに残った鏡子を見つめて大輔はため息をついた。

「さてと、君をどうすればいいかな」

 自分を見つめる大輔に対し、鏡子は胸の前で手を組んで懇願した。

「大輔、お願い!あなたの時間を今日一日だけ私にちょうだい」

 

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「な、何を言い出すんだよ」

 突然の申し出に大輔は戸惑った。今目の前にいるのは姿かたちが同じでも大輔の愛する女性ではない。頭ではわかっていても、二人きりで見つめられれば気持ちが揺らぐのを止める事はできない。

「ねぇ、いいでしょう?鏡の中では私、自由に動くことができないの。どんなに綺麗な服や素敵な人がいても、現実の世界に縛られる。私の思いとは関係なく、ただただ人まねを繰り返すしかないの。今日一日でもいいの、私を普通の女として扱って。そうしたら私、今夜中に鏡の中に帰るわ」

 鏡子は目を潤ませて訴えた。

 女性の涙には魔力がある。大輔は逆らうすべを知らず、静かにうなずいていた。

「ありがとう…」

 鏡子は頬をつたう涙を拭いながら静かに微笑む。

 すでにこのとき、大輔の心はなかなか結婚を受け入れてくれない今日子より、積極的な鏡子に傾き始めていたのかもしれない。

 仮病を使い会社を休んだ大輔は、鏡子を現実の世界へと連れて出かけた。

 

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 間一髪、今日子は会議への遅刻を免れた。しかし参加した会議の内容はほとんどあたまのなかに入ってはこない。こうして仕事をしていると、今朝の出来事は夢だったのではないかしらと疑いたくなる。

 しかし、休憩に入り化粧直しのためトイレの洗面台に立った時、やはり今朝の出来事は現実であったと認めざるを得なかった。

 鏡の前に立つ今日子の姿がそこに映ることは無い。鏡の中の自分は今このときも、現実世界に存在したままなのだ。

 白い肌に脂汗が流れ出るのを感じる。呼吸が激しくなり、心臓は爆発しそうなくらい激しい鼓動を繰り返した。

 そろそろ薬が切れる時間だ。日に日に発作の感覚が短くなってきている。頭ではわかっていてもやめることはできない。一度その味を覚えた体は何度でもその快楽を欲する。今の今日子にはそれに抗うだけの意志の力はなかった。

 今日子はトイレの個室に入ると、かばんの中から注射器を取り出し、傷が目立たないよう太腿の内側に針を刺した。そっと意識を開放させる。鼓動が落ち着いていくのがわかる。これであと半日は持ちそうだ。体内を駆け巡る悪魔の液体は体の疼きを沈め、意識をクリアにする。

落ち着きを取り戻し、仕事に戻った今日子は、早めに仕事を切り上げ家へと急いだ。言いようのない不安が今日子の足を速める。

エレベーターが来るのを待つのももどかしく、駆け足で階段を上った今日子は自分の家の扉を開いた。

「ただいま」

 家の扉を開けると、奥のリビングからあわただしい物音が聞こえた。妙な胸騒ぎを感じ、パンプスを脱ぎ捨て家に上がると、一気にリビングへと駆け込んだ。

 そこで今日子が目にしたものは、ソファーの上で抱き合う鏡子と大輔の姿だった。

 

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「きょ、今日子、違うんだ、これは・・・」

 大輔が三流ドラマのような台詞を吐く。表情を変えないまま今日子は頬に一筋涙を流すと、何も言わずにその場から逃げ出した。

「今日子!」

 後を追おうとする大輔を鏡子がなだめる。

「待って、私が悪いのよ。私が行って説明するわ」

 そういうと、脱ぎ散らかした服を身に着け、すぐさま今日子の後を追って家を飛び出していった。

 

 今日子は混乱していた。自分と同じ姿の女が大輔に抱かれている。まるで幽体離脱した自分を見ているようだった。もしかしたら彼女の方が本物で自分こそが偽者なのではないだろうか、そんな不安までが心をよぎる。

 いきよい良く飛び出したものの、どこにも行く当てなど無い。結局、今日子がたどり着いたのは家の裏手にある人気のない公園のベンチだった。

 

「あらあら、威勢良く飛び出したわりには、ずいぶんと情けないところにいるじゃない。長旅にでも出たのかと思ったわ」

 薄暗い街灯の光に照らし出されたのは、タイトな短いスカートから自分と同じ細く白い足を惜しげもなくさらした鏡子の姿だった。

 

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 今、鏡子が着ている服は自分のものではない。今日子はそんな派手な服は持ってはいない。おそらく今日の日中に、大輔が買い与えたものなのだろう。鏡子が誘惑したのか、それとも…。そんなことは考えたくはなかった。

「どうしたのそんなに見つめて?ああ、この服、大輔に買ってもらったのよ、あなたって地味な服しか持ってないのだもの。大輔はこれくらい派手な方が好みなのに。もっともあなたはあの痕が気になってこんな服は着られないのかしら?」

 鏡子の言葉に思わず内腿を押さえた。

「何のことよ」

「とぼけても無駄。私はあなたの影、あなたが薬なしでは生活できない体だってことは知っているのよ。それに、お勧めしたのは私だしね」

 鏡子は笑顔を絶やさぬまま、ゆっくりと今日子の周囲をめぐるように歩く。

「あなたが大輔のプロポーズを受けないのは、そのせいなのでしょう?でも大輔とは別れたくない。わがままよね、そうは思わない?」

 鏡子はベンチに座る今日子の正面に立つと、今日子のあごに手をのばし自分の顔を近づけた。そして究極の目的を口にする。

「ねぇ、あなた、私の代わりに鏡の中に帰ってよ」

 

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 大輔にとっては永遠に近いときが流れた。二人が戻ってきたときは、心のそこから安堵したものだ。

「今日子、あの、本当にすまなかった。おれは…」

「わかっているわ、」

 今日子は目もあわせず、それだけを言うと、大輔の横をすり抜け一人寝室へと入っていった。ひきとめようと伸ばした腕は、鏡子によってさえぎられる。

「今はそっとしてあげる方がいいと思うわ」

大輔の腕を離すと、鏡子は口元を押さえ、静かな声で大輔に詫びた。

「ごめんなさい、私のせいよね・・・」

「いや、君だけのせいではないよ。ここではなんだ、リビングで少し休もう」

 鏡子を思いやって、というよりも大輔本人が憔悴しきっているようだ。玄関からリビングに入ると半分倒れるようにソファーに座りこんだ。

クッションの間に沈んだ大輔の隣に、寄り添うように鏡子が腰を下ろす。うなだれたまま顔を上げない大輔に対して、鏡子は覗き込むようにして唇を重ねた。驚きの表情を現す大輔に対して耳元でそっとささやく。

「ごめんなさい。私、本気であなたのことを愛し始めてしまったみたいです…」

 

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「私が現実の女だったらあなたとすぐにでも結婚できるのに…」

 そうつぶやくと、鏡子は大輔から離れて立ち上がった。

「でも、これ以上二人の関係を壊すわけにはいかないわ。約束どおり私はもう鏡の中に帰るわね」

 その言葉に大輔は一瞬反応したものの、再び下を向いて沈黙してしまった。

「許してもらえるかわからないけど、今日子にも謝ってから行くわね。さようなら。大輔」

 鏡子はゆっくりとリビングを出た。背中に大輔の視線を感じたが、今は振り向くべきではない。鏡子の計画した道筋は順調に進んでいる。もう少しですべてを手に入れられる。

 鏡子は逸る心を抑え、寝室の扉をノックした。返事はない。ノブを回すと扉は簡単に開いた。

部屋は真っ暗だ。ゆっくりと体を滑り込ませ、手探りで部屋の電気をつけた。

 蛍光灯の瞬きのあと、明るくなった寝室にはベッドの上に座る今日子の姿が映った。

 後ろ手に扉を閉めると鏡子は勝ち誇ったように言った。

「そろそろあなたには消えていただかなくてはならないわね」

 

 

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 室内に明かりがともると、うなだれたままベッドに座る今日子の姿があった。ベッド脇の小机には使いたての注射器がおかれていた。

「ちょっとやりすぎなんじゃないの?」

 鏡子は見下すように鏡子を眺める。

「準備はできたわ、彼は罪悪感から、あなたと入れ替わった私に優しくしてくれる。安心して、鏡に戻るあなたの印象も良くなるように手は回しておいたわ」

 今日子は相変わらず黙ったままだ。

「ほら、そこの鏡台からさっさと入ってよ。あなたにはもう他に方法はないでしょう」

 今日子の肩が小刻みに震えている。悲しみからか怒りからか、どうすることもできない苛立ちからか、もしくはそのすべてのためか。

「あなたの分までちゃんと愛されてあげるから、鏡の中で指でもくわえて見てなさい。ほら、ちょっとはこっちを向きなさいよ」

 今日子の乱れた髪をつかみうなだれた顔を自分に向けた。憎しみを撒き散らした今日子の瞳。勝利を確信し嘲るように本体を見下す鏡子の瞳。

ぎりぎりまで張り詰めていた糸が切れたとき、今日子は隠し持ったナイフを鏡子の腹部に深々と突き刺していた。

 

 

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 鏡子は自分の腹部に刺さった物を確認し、傷口を抑えて数歩後退さった。しかし、鏡子は笑っていた。ナイフを突き立てたままの状態で。

「面白いわ、あなたがこんな行動に出るなんてちょっと予想外よ」

 鏡子は傷口から手を離す。ナイフは刺さったままだ、しかしそこからはあふれるはずの血流は存在しなかった。

「こんなもので私を消せるとでも思ったの?鏡に映ったものは、いくら鏡を粉々にしても壊すことはできないでしょ。あなたが存在する限り私も存在し続けるのよ」

 鏡子は踊りを舞うようにその場でくるりと回って見せた。その間もナイフは鏡子に突き刺さったまま、まるで洋服のデザインの一部であるかのように納まっている。

「でも、これはこれで面白いシチュエーションよね。あなたがどう動くのかゆっくり拝見させてもらうわ。どういう結末になったとしてもそれはあなたが招いたことなのよ。よく覚えておきなさい」

 不適な微笑を残し、鏡子はわざとらしく大声で悲鳴を上げた。いきなりのことに今日子はどうすることもできない。

 あわてて飛び込んできた大輔が見たものはおびえて動けない今日子と、ナイフを突き立てられ苦しみながら倒れる鏡子の姿だった。

 

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「鏡子!しっかりしろ!今救急車を呼んでやる」

 あわてて携帯を探す大輔の手を鏡子はそっと抑える。

「大丈夫、私は現実の人間ではないから、少し休めばなんともないわ」

 大輔の力を借りて突き刺さったナイフを抜く。激しい苦痛に耐える表情に、大輔が心配そうに声を掛ける。 

 鏡子が落ち着くと、ベッドで震える今日子を見た。その目はいつもの優しい瞳ではない。愛するものを傷つけられた憎しみの目だ。

 気負されさらに後ろへ下がろうとした今日子の腕が小机に当たり、上のものがフローリングの床に撒きちらされた。そこには使いたての注射器もまぎれている。それに気づいた大輔はそっとそれを拾い上げた。

「今日子、どういうことだ?まさかお前・・・」

 問い詰める大輔の後ろで、こみ上げる笑いをこらえるように鏡子が口を押さえて震えている。大輔はそんなことには気づかずに決定的な一言を放った。

「何で、お前が現実なんだ。お前が偽者ならばいいのにっ」

 

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「お前が偽者なら・・・」大輔の言葉は今日子の最後の希望を断ち切り、鏡子の望みを現実のものとした。

「お前を警察に突き出すようなことはしたくない。ここから出てってくれ」

 大輔は今日子から目をそむけて吐き捨てる。

 今日子はその言葉を落ち着いて理解した。大輔は私を必要としていない。でも、それは鏡子によって仕組まれたもの。大輔もいつか気づいてくれる。そうでなければ私が目を覚めさせるしかない。でも今はいったんここを離れるほかはないようだ。今の大輔には何を話したところで取り合ってはもらえないだろう。今日子は手近なものだけを持ちベッドから立ち上がった。

 今日子が荷物をまとめる間も、大輔は動くことなくその場で沈黙を守った。

 今日子と大輔、二人が神妙な面持ちでそれぞれの行動をこなす中、一人、喜劇舞台を見る観客のように鏡子だけがあふれ出る笑顔を抑えるのに必死だった。

 今日子は荷物をまとめて大輔の横をすれ違う。大輔は今日子と眼をあわせようとはしなかった。誰にも見送られることなく、今日子は二人で過ごした部屋を後にした。

 

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 静かに扉が閉まった。部屋には鏡子と大輔が残り、そのまま静かに抱き合った。

「傷は大丈夫なのか」

 鏡子の頬に触れながらやさしくたずねる。

「うん、」

 鏡子はそれに答えた、そのまま大輔は唇を重ねようと顔を寄せるが、鏡子はそれを拒んだ。

「どうしたんだい?」

「だめ、私は現実の人間ではないもの、あなたと対等に付き合う資格がないのよ」

「そんなことはない。鏡子、君は人間だよ」

「傷を受けることもない、鏡に自分の姿も映らない。そんな私が普通の人間と言えるの?」

 大輔の腕を振り解き、背を向けてつぶやく。

「どうやったって私は今日子の影。いつかは鏡に戻らなければならない運命。大輔と結ばれることは出来ないわ」

「どうすることもできないのかい?」

 大輔の問いに少し戸惑いの表情を浮かべた鏡子は意を決したように答えた。

「私の代わりに今日子が鏡にもどれば私はこっちの世界に、現実にとどまることができるかもしれないわ」 

 背後から見ていた大輔には、口元を緩めながら答えた鏡子の表情を知ることはできなかった。

 

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 鏡の中は今日子という存在がなくなり、バランスが崩れている。だから、体を通すことのできる大きさの鏡に、鏡子か今日子どちらかが触れれば、世界の均衡を保つために触れたものが鏡の中に吸い込まれるのだという。

 鏡子は現実にとどまりたいという。大輔も信用できない今日子ではなく、鏡子にそばにいてほしかった。もし今日子が鏡に吸い込まれても、それは事件にはならない。現実にはキョウコはきちんと存在する。より、自分の理想に近いキョウコが…

 計画の準備をすませると、大輔は今日子にメールを打った。

 

『さっきはごめん、言いすぎたよ。もう一度話し合おう』

 

送信ボタンを押す。深くソファーにもたれかかり、大きく息を吐く。

 うまくいくだろうか、大輔の心に不安が残る。殺人を犯す前というのはこんな気分なのだろうか。携帯を握り締めたままうつむいた大輔の肩に、鏡子がそっと寄り添った。

「大丈夫よ、すべてうまくいくわ。心配は要らないわよ」

 細かく震える大輔の肩を抱き、優しく頭をなでる。そして、しばらくして抱き合う二人の耳に呼び鈴のチャイムが響き渡った。

 

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 今日子は再びこの家に戻ってきた。玄関の扉が開かれ、やさしく迎え入れてくれたのは大輔だった。

「鏡子は、どうしたの?」

「うん、君とゆっくり話したかったから、席をはずしてもらったんだ」

 大輔に促されてリビングへ向かう。ここを出て何時間もたっていないというのに、懐かしい思いがあふれ出し今日子は瞳を潤ませた。

「今日子…」

「ごめんなさい、もう戻れないと思っていたから。薬もなんとしてでもやめて見せるわ、だからお願い」

「わかっているよ」

 大輔は急に今日子の体を強く抱きしめた。

「愛してるわ・・」

「ぼくもキョウコを愛してる・・・」

 頭を大輔の胸に押さえつけられ、抱きしめられたまま今日子は少しづつソファーへと押されていく。

「愛していたよ、今日子。ごめんな」

「え?」

 不意に腕の力が緩み、今日子はソファーへと突き飛ばされた。ソファーの上には鏡台からはずされた姿見が今日子を待ち構えていた。

 

 

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 今日子は受身を取ろうと鏡の上に手を突いた。しかし、鏡は体を支えることはせず、今日子の腕を飲み込んでいった。

「いやーっ!」

 指先から手首へ、そしてひじまでが沈むように鏡の中に消えていく。

 もがく今日子の姿を心配そうに見下ろす大輔。そして奥のキッチンからは鏡子が現れ、大輔の腕によりすがった。

 今日子は一瞬にしてすべてを理解した。鏡子は大輔をたぶらかして、私を鏡子の身代わりとして鏡の中に閉じ込めようとしているのだ。

気分が悪い、肉体が別のものに変換されていくようだ。指の先からしだいに感覚がなくなっていく。痛みはない、喪失感だけが体を侵食していく。このままおとなしく鏡に飲み込まれるわけには行かない。何とかこの状況から抜け出さなくては。

 わざわざこんな大きな鏡を持ってきたということは鏡の中に入るにもそれなりの大きさが必要だということなのだろう。そういえば、鏡子が現れたのも洗面台の大きな鏡台だった。

 今日子は一瞬のうちに考えをめぐらせる。何かでこの鏡を割ることができれば。

 今日子は肩まで飲み込まれた体を懸命に動かし手探りで何か硬いものはないかと探す。今日子の指先に何かが触れた、それは机の上にあるいつも大輔が使っていたガラスの灰皿だった。迷っている時間はない。今日子は自由な手でそれをつかむと自分の体を飲み込む鏡へと、力の限りに叩きつけた。

 

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 激しい音とともに砕け散った姿見とガラスの灰皿は、きらめく光を反射し部屋中に散らばった。今日子の体も強い力に吹き飛ばされるように壁に叩きつけられ、細かい破片が今日子に降り注いだ。

 鋭い刃物と化した破片により、鏡を叩き割った右腕は傷だらけになってしまった。しかしどうにか鏡の中に取り込まれることだけは免れたようだ。真っ赤になった腕を抱え、今日子は痛みでその場にしゃがみこんだ。その時目に入ったのは、同じように左腕を抱えて痛みに顔をしかめる鏡子の姿だった。

 血だらけになった今日子に比べて、鏡子は見た目に怪我をした様子はない。

 しかし今日子は気づいた。確かに鏡に映る存在は傷つけることはできない。しかし映っている本体が傷を負えば、そこに映るものも同じ傷を負う。光と影の関係を残す限り、外見は映っていたときの状態を維持しても、受けた痛みは共有することになるのだろう。

「鏡子、あなたを退治する方法がやっとわかったわ。あなたは私の影、影を消すには陰になる本体を消せばよかったのよね」

 今日子は足元に落ちた鏡の破片を拾い、自分の首筋に押し当てた。

 

 

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「な、何をするんだ今日子!」

 大輔が叫ぶ。あわてる大輔に比べ、鏡子は落ち着いて言った。

「あなたに自殺するような勇気があるの?それに、もしかしたらあなただけが死んで私は平気で存在し続けるかもしれないのよ?」

 あざけるように鏡子が言う。言葉とは裏腹にその目は真剣そのものだ。

「もしも私がいなくてもあなたが存在できるなら、あなたのことですもの、迷わず最初に私を殺したはずじゃないの。それをしなかったということは、私の存在とあなたの存在は今でもつながっているということでしょう」

 油断なく鏡子を見つめ交渉を掛ける。

「鏡に戻るのは私じゃない!あなたよ!鏡の中に閉じ込められるくらいなら私は死を選ぶわ!あなたはどうするの?鏡の中に帰る?それとも私と一緒に消える?」

 今日子は首筋にあてたガラスの破片を次第に深く首に食い込ませていく。相対する鏡子の額にも脂汗が流れ始めた。

「大輔、あなた私を選んでくれたじゃない。あの女を止めて!早く鏡の中に閉じ込めてよっ!」

 鏡子の叫び声が広いリビングにこだました。

 

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 大輔は鏡子の叫びで我に帰った。ひとまず、今日子の自殺だけは食い止めなくてはならない。ゆっくりと今日子までの間合いを詰める、大丈夫だ、鏡子をけん制しているため、こちらの動きには気づいていない。

 いまだっ。大輔は今日子につかみかかり手に持っていたガラスの破片を跳ね飛ばす。そしてそのまま両腕を押さえて床に押し倒した。

「いい怪訝にしろ!」

「離してよ!あなたは鏡子が消えるのがいやなだけでしょう。」

「そのとおりだよ、でもお前にも死んでほしくはない」

 ふと優しい大輔の目が戻ってきた。しかし大輔は憤怒の形相に変わった鏡子によって突き飛ばされ、ガラスの残る床に転がされた。

「邪魔よ、」

鏡子は今までとは一転してさめた瞳で大輔を見下ろす。何の感情もない、まるで落ちたゴミ屑を見るような目だ。そして今度は床に横たわったまま動けない今日子のことをにらむ。

「なかなか面白いことをやってくれたわね、まったく現実って奴はどうしてこううまく行かないのかしら」

 鏡子はゆっくりとしゃがみこみ、動けないでいる今日子の首を締め上げた。

 

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「大丈夫、殺しはしないわ。仮死状態になったとき、そのまま鏡の中に放り込んであげる」

 鏡子の腕に力が入る。意識が遠のいてくる、同じ痛み、苦しみを鏡子も感じているのだろうに顔には笑みさえ浮かべている。精神が肉体を凌駕しているのだ。

 今日子の意識が途切れそうになったとき、覆いかぶさっている鏡子に対して大輔が体当たりを掛けた。たまらず鏡子は今日子から手を離した。髪を振り乱し憎々しげに大輔をにらむ。

「何で邪魔をするの。あなたは私を選んだんでしょ?」

「違う、やっぱりおれの愛しているのは今日子だ、お前ではない」

 弁慶のように今日子を守るたてとしてその存在を鏡子に誇示した。

「いらいらさせてくれるわね、ホント。あなた要らないわ」

鏡子は今日子の持っていたガラスの破片を拾うと大輔に切りかかった。

 

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 大輔は間一髪避けるが、右腕のワイシャツは裂け、露出した肌からは薄っすらと血がにじんだ。

「大輔」

 今日子は絞められた首を押さえ、軽いせきをするも、なんとか自力で立ち上がることができた。おそらくあざになっているだろう、痛む首をさすりながらそんなことを考える。

 何とかして大輔を助けなくては、今日子は武器になりそうなものを探すがこのリビングにはそんなものは存在しない。あるのはテーブルとソファー、そしてテレビだけ。そうしている間にも大輔の傷は増えていく一方だ。反撃するにもあいては女性、しかも自分の恋人と同じ容姿をしていては気持ちの上でわかっていても手を上げることはできない。

 大輔が追い詰められていく。今日子はその姿を間接的に見た。そう、鏡だ。ここには鏡と同じように姿を映し出すものがある。そこに映る大輔は一人で逃げ惑っているようにしか見えない、鏡子の存在はそこには映らないのだ。もちろんそれを覗き込んでいる今日子自身の姿も映ってはいない。

これを使えば大輔を助け、鏡子を鏡の中に戻すことができる。もう時間はない。今日子は覚悟を決め、声を上げた。

 

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「大輔さんには手を出さないで。本当に消えてほしいのは私でしょ。私はここにいるわ」

 今日子は姿勢をただし、凛とした声で叫ぶ。

「傷つけるなら私を傷つけなさい!」

 体の中の勇気を一滴残らず振り絞り、今日子は鏡子と相対した。

 今まさに刃をつきたてようとしていた鏡子は大輔から離れ、目標を今日子へと変えた。

「そうね、まずはあなたを何とかしないとまた厄介なことになりかねないわ」

大輔の血で染まった刃をもてあそびながら、ゆっくりと今日子に歩み寄る。

まだだ、まだ遠い。今日子は感づかれないようにじりじりと後退する。それを怯えていると考えたのか、鏡子はサディスティックな笑みを浮かべさらに近づいてくる。もう限界だ、これ以上近づくと自分が危ない。今日子はその場にとどまり相手の出方を待つ。

「ついにあきらめたのかしら、」

 再び鏡子の腕が首筋に伸びる。その瞬間をのがさず、しゃがみこむように腕をすり抜け鏡子の足を引っ張った。バランスを崩した鏡子は体を支えようと手を伸ばす。そこは電源が切られているため、まるで鏡のように部屋の状態を映し出している、大型の液晶テレビの画面の上だった。

 

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 鏡子の手のひらは体を支えることなくテレビの中に吸い込まれた。じわじわと、底なし沼に沈むように鏡子の腕が吸い込まれていく。

「今日子ぉ、許さないわよ!」

 まだ自由な左手をもがくように伸ばす。腕はその間も吸い込まれ続け、すでに肩そして顔も半分以上がテレビの中に入ってしまっている。

「許さないわ、許さない。私は存在し続けるのよ」

 体はすでに半分以上が飲み込まれている。画面の外に出ているのは左腕と顔の部分だけだ。まもなくすべてが飲み込まれる。しかし鏡子の執念がそうさせるのか、飲み込まれたはずの右腕を再び画面の外へと伸ばした。宙をさまようようにうごめく腕は、そのまま画面のふちに手をかけるとそこを支点として力の限りに自分の体を画面の外に引き出した。

「私は…消えるものですか…」

 鏡子は腰が抜けたまま動けないでいる今日子に向けて触手のように腕を伸ばした。

 

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 鏡子はさらに体を引きだす。

「やめろ、お前はもう鏡の中に帰れ」

 大輔が画面の枠に掛けた鏡子の手を引き剥がしにかかった。しかしがっちりとつかんだその力は予想以上に強く、引き離すことはできない。それどころかもう片方の手で大輔の首をつかみそれをも支えとしてさらに体を現実の世界に戻そうともがき続ける。激しい力で首をつかまれた大輔は息ができない。鏡子の手を引き離そうともがくが、一行に力が緩まることはない。いや、むしろ鏡子の長い爪が大輔の首に食い込んできている。

 大輔を助けなくては。今日子は何か使えるものはないかと周囲を見回すが役に立ちそうなものはない。しかしひとつだけ今日子の目にとまるものがあった。テレビのリモコンだ。この騒ぎでテーブルから落ちたらしく、飛び散った破片に紛れて床に転がっている。しかもそれは今日子のすぐ近くにある。

 今、テレビの電源を入れたらどうなるだろうか?もしかしたら鏡子を自由にしてしまうかもしれない。でも、うまく行けば…

 もう時間はないのだ。今日子は決断した。

 

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 今日子は鏡子の動きを牽制しつつ床のリモコンを拾い、すばやく電源のボタンを押した。不可視の光線はテレビの受信部によって受け取られ、テレビの電子回路が作動した。

 鏡子がこの行為に気づいたとき、すでにテレビは光の集合である映像を結ぼうと、電子を集結して瞬き始めていた。

 鏡子という障害物によりテレビが火花を上げる。画面は赤や黄色の筋が点滅を繰り返した。そしてその中央で腰から下を画面の中にうずめた鏡子は、光の点滅に合わせて体を振るわせた。

 突き飛ばされるような形で大輔は解放された。すぐさま今日子は大輔を抱き起こす。二、三回乾いたせきをこぼしたがまだ意識はある。今日子は大輔の無事を確認すると、火花を放ち続けるテレビと鏡子に目を向けた。

 テレビは鏡子を飲み込んだまま明滅を繰り返す。今日子と大輔の二人は抱き合って事のなりゆきを見守った、ひときわ大きい光を放ちテレビは青一色の画面で落ち着きを取り戻した。そして二人の前には下半身が切り取られ、外に出ていた鏡子の上半身だけがぐったりと、床に横たわっていた。

 床に転がる鏡子はそのままの姿勢で首だけを今日子に向けた。

「私は消えない…あなたが存在する限り私は…」

そう言い残すと、鏡子は二人の前で霧のように消えていった。

 

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この事件の後、今日子は大輔と別れ家を出た。あれ以来、鏡子が現れることはない。しかし、今でも今日子の姿は鏡に映ることはなかった。もしかすると、鏡子はまだどこかに存在しているのかもしれない。

今日子は自分の姿だけが存在しない鏡を見るたびにそう思うのだった。

 

そして大輔は、今日子が出て行った後もこの部屋に住み続けていた。ここを離れたくない。というより何もする気にならないといった方が正しいだろう。

ある朝、大輔はいつものように洗面台で寝癖のついた髪にブラシを入れていた。二人で並ぶには狭かったこの場所も一人で使うには広すぎる。

すべてが夢だったようにも思える。リビングに戻れば今日子が朝食を準備して待っているのではないか、ふとそんなことを考える。しかし、二本あった歯ブラシ、それが今は一本しかない。今は一人なのだ。寂しい、一人がこんなに寂しいとは知らなかった。つらい。生きていくことすらいやになる。

大輔は顔を洗って、自分の顔を鏡で確認する。ちょっとやつれたかもしれない。頬に手を当てて様子を見る大輔に対して、鏡の中の自分が優しく微笑みかけた。

『つらそうだな、俺が変わってやるよ…』

            END

 

説明
今日子は鏡の中に自分とは違う意思が働きだしていることを感じていた。

 そしてその不安は現実のものとなる。鏡の中のから現れたもう一人の自分、彼女の目的は?
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