新生アザディスタン王国編 第三話 |
新生アザディスタン王国編 第三話
反連邦組織カタロン。
連邦非加盟国や反連邦勢力を弾圧する地球連邦軍および独立治安維持部隊――アロウズに対抗すべく設立された組織である。
数ある反連邦組織でも最大の規模を誇り、世界各地に支部を持ち、実行戦闘力も地上のみならず宇宙にも部隊を保有している。
この日、カタロン中東第三支部のリーダーであったクラウス・グラードは、会議室に集まったメンバーを見回す。
重要な報告がある、とクラウス自身が呼び出したメンバーの中にはシーリン・バフティヤールの姿もある。全員の集合を確認すると、クラウスは眉間に幾筋も皺をはしらせ、重い口を開いた。
「突然だが、今期末をもって反連邦組織、カタロンは解散する」
その場に居合わせる誰もが、その言葉を理解できずにしばし沈黙が流れ、ようやくにしてどよめきの声があがる。
「いや、勘違いしないでほしい。活動を停止するというわけではないんだ。しかし、主だったスポンサーからの資金提供の停止が確実になってしまった」
弁明するクラウスを黙って見据えていたシーリンが、ようやく口を開いた。
「やはり、そうなってしまったのね」
「ああ、活動規模を大幅に縮小しなくてはならなくなった」
政治活動であれテロ活動であれ、ましてや慈善事業であったとしても、人や物が動くとなれば相応の経費は発生するし、全てがボランティアで済むはずもない。さまざまな思惑や算段があって資金は流動するのであって、組織とは、まず資金がなければ機能しないのだ。
ところが、少し前からカタロンの活動に賛同する組織、いわゆるスポンサーから流入する資金に先細りを感じていたシーリンは、この展開を半ば予想していた。
現状の世界経済をかんがみれば仕方のない部分もある。
などと納得するのはシーリンだけではない。他のメンバーも渋い表情であるものの、反論する者はいない。それほどまでに昨今の経済情勢は世界規模で逼迫していた。
私設武装組織ソレスタルビーイングが巻き起こした、武力介入という世界規模のテロ事件は、地上の軍事バランスを大きく変えた。
各国が独自に軍事力を保有する時代から、地球連邦軍というオンリーワンの軍隊に集束した現状は、有史以来、けっして成し遂げられなかった変革といえる。
簡潔に表現するならば、軍事力の統合。
軍事大国同士のパワーゲームは幕を下ろした。
しかし、経済市場ではその限りではない。
軍事力と対になる、もう一つの地上世界への影響力。
いくら戦いに長けようとも、国民を食べさせていけなくては国家として機能しない。ともすれば経済力とは軍事力を包括する。
経済競争において、各国家群は己の威信と繁栄を賭けて大いなるゼロサムゲームを続けていた。
そう、24世紀になっても世界は未だ一つになりきれないでいたのだ。
『おいおまいら、午後からマリナ様のライブですよ』
『ひけおつー』
『なにこれ下げとまんね』
『オールハイル、アザディスタン!』
『エネルギー関係全滅じゃね?』
『電力託送はダメだな』
『空売りだ!!wwww』
『全滅じゃないよ』
『マリナたん、ハァハァ』
『あー、マジリフ?』
『そうマジリフ』
コツコツ、と。
1900年代に建設された社屋、その落成を祝して寄贈された柱時計は、今も正しく時を刻み続ける。
部屋の中央に設えられた大きな円卓。
1907年のロンドンでの経済恐慌から今まで、この部屋で議論が繰り返され、結果として下された決断は、この国を、時として世界すら動かす。文字盤はその在り様を見下ろしてきた。
円卓を囲む十数人は皆、壮年男性で誂え物のスーツ姿は社会的地位の高さを明示しているし、その面相に刻まれた皺は深く、彼らの歩んだ人生が決して容易な道程でなかったことを物語る。
「早急に政府の資金援助を取り付けなければ、このままでは共倒れするだろう」
ここに集まるのは、国内の主要銀行の頭取、大企業の重役など、いづれも委員会によって選出された金融の専門家たちであり、住人たちだ。
「中国が退くとは……、予想より半月も早かった」
「彼らは事態を先送りしただけで、何も変わっとらん。このままではリーマンどころの騒ぎではなくなるぞ」
議論はすでに10日間に及ぶ。
彼らは来るべき経済恐慌を予測し、その対策を検討している。
「軍拡の抑制だよ。国連……いや、連邦軍の手綱を引き締めなければ、いつまでも事態は収束しない」
4年前、私設武装組織・ソレスタルビーイングを名乗るテロ集団によって行われた、武力介入という名のテロ行為。
ソレスタルビーイングの所有するガンダムというモビルスーツと、それが搭載する太陽炉を主軸としたテクノロジーは、当時の技術水準を半世紀も先行していると言われるほど圧倒的なものだった。その頃の主だった軍隊、AEU、人類革新連盟、ユニオンは大打撃を被る。
"ガンダム鹵獲作戦"、"G計画"、ラグランジュ3におけるソレスタルビーイング殲滅作戦などの度重なる総力戦とその消耗は、世界の総軍事力の40%を削り去ったという。
そしてまたソレスタルビーイング鎮圧後は、地球連邦軍として軍の統合がなされ、独立治安維持部隊アロウズの設立、擬似太陽炉搭載モビルスーツの開発と、軍拡が推し進められる。
性急にすぎる軍拡は、あたかもソレスタルビーイングという亡霊に怯えるかのようであった。
しかし、軍拡は生産活動に直結しない。平時であればなおのこと経済を圧迫するだけで何も生み出さず、ときには浪費と非難されもする。
必然として蓄積されたツケは支払われるべき時を迎える。世界は緩やかに経済破綻に進んでいた。
軍備拡張が原因と判明しているのなら、縮小に転じるのが解決策であろうし、軍拡抑制を唱えることは間違っていない。だが、状況はそれを許さない。
「忌々しくも、ソレスタルビーイングの動向が予断を許さない現状では、そうもいくまい」
誰かが杖で床を2度叩く。
「それを言うならエネルギー事業が問題だ。慢性的な供給量不足を解決しないことには、どうにもならない」
軍備拡張に歯止めが掛けられない現状、来るべき経済危機を打開するため地球連邦政府はエネルギー事業への課税を決定した。
理論上、半永久的なエネルギー供給を実現した太陽光発電。これに軍拡のツケを肩代わりさせようというのだ。
しかし誤算が生じる。
エネルギーの枯渇は払拭されたが、供給量の限度が問題となったのだ。
現状のエネルギー供給の主体は宇宙太陽光発電である。静止衛星軌道上で発電された電力は3つの軌道エレベーターを経由して供給されるケースと、一時的にマイクロ波に変換して地表に照射し、地上の受電設備が電力に変換供給する仕組みの2種類に分けられる。
問題となるのはこれら少なすぎる供給手段だ。マイクロ波変換技術は地表到達時の容量劣化に技術的問題がある。軌道エレベーターは発電容量を劣化することなく地表へ供給できるが世界中でたった3箇所から各地へ分散されてしまう。
それでも総電力供給量は従来の供給量を大きく上回るものであるが、上限は存在する。加えて石油輸出規制の余波もあり、電力に対する需要は数倍に増加していた。
つまり慢性的な需要過多の状況が続いており、軍需負債の負担は、これに拍車をかけることになる。
磐石と思われたエネルギー事業が、実はアキレス腱を抱えていてそれが露呈した結果となった。
地球連邦政府は経済対策に失敗していた。
「その点について、議論していただきたい懸案があります」
唐突に差し込まれた女性の声。
言葉の意味合いからもおのずと衆目が集まる。
屈強なSPに守られて、両開きの扉から現れた女性は、理知的な眼鏡や長い黒髪を後ろにまとめたところなど普段どおりであるが、いつもの軍服ではなく、シックなスーツ姿である。
彼女に付き従うのは、同じくパイロットスーツからビジネススーツに着替えたパトリック・コーラサワー少尉なのだが、専任秘書よろしく慣れた手つきで手持ちの書類を円卓を囲む面々に配布して廻る。それはとある企業のパンフレットであった。
「マジリフ・インベストメント……」
「たしかに、最近の石油事業の復権は目を見張るものがあるが……」
周囲が困惑する様子を、上々な反応と受け取って静かに首肯する女性は、独立治安維持部隊アロウズ上級佐官改め、北米の大手投資銀行JPM特別客員顧問、カティ・マネキンであった。
ロングアイランドの最西部、キングス郡コブルヒルにある年代物の煉瓦造りのアパートメントからロードサイクルでブルックリン橋を渡り、マンハッタン島へ入る。通勤ルートとするには遠回りになるが、そのままパーク・ロウ沿いに新市庁舎前まで進んで、馴染みの露店で朝食を買う。
交通渋滞が一向に解決しない市街において、スーツ姿で自転車通勤するビジネスマンは少なくない。
後ろで束ねた栗色の髪をたなびかせる彼女も例外ではない。幅広でやや大きめな遮光グラスが摩天楼の隙間に差し込む朝日を反射する。
そのままブロードウェイを南下し、セントポールやらトリニティの教会群を横目にしばらく走れば、ほどなく証券取引所や連邦準備銀行といった厳めしい建物群に様相が変わり、ここがアメリカ経済の中枢であることを実感する。
そのころには、街行く人々もホワイトカラーがほとんどを占め、その往来を分け入るように歩道へロードサイクルを乗り上げて停車する。
こちらに移り住んでから、もっぱらデスクワークばかりになってしまったので、片道1時間の自転車通勤だけが運動する唯一の機会になってしまっていた。
朝食の紙袋を片手に、もう一方で自転車のハンドルを押しつつオフィスビルの一つに進めば、馴染みの警備員が笑顔で挨拶を交わしてドアを開けてくれた。
そのままエレベーターで十数階上がったオフィスに入ったところで、ようやく自転車を廊下に立てかける。
そこへカウンター越しに顔を出した秘書が声をかける。
「おはようございます、ミス・バフティヤール。ミスタ・グラードがおみえです」
遮光サングラスから黒縁メガネに架け替えながら、シーリン・バフティヤールは「ありがとう」と頷いてみせた。
反連邦組織カタロンが大幅に規模を縮小するにあたり、各地区の支部ごとに活動の休止か、継続の判断が行われた。いわゆる『支部仕分け』である。
シーリンが所属するのは中東第三支部であるが、アロウズの襲撃により壊滅され、第二支部に吸収された経緯がある。真っ先に仕分け対象とされたのは仕方ないことだった。
結果的にアザディスタン王国へ帰国するシーリンであったが、さらに紆余曲折を経て、今彼女はアメリカ合衆国のニューヨーク州に居る。
さきほどの秘書が座るデスクの前を通りすぎ、すでにドアの開いた自室に入ると、その姿があった。
渡米する以前から知る彼は、比喩ではなく正真正銘の戦友だ。広めの事務机の前に立つ彼を見れば、自然と笑みが浮かぶ。
「午後からでもよかったのに。台湾は面倒なクライアントだったと聞いてるわ」
壁面を埋めつくすほど並べられたモニターの情報を眺めていた彼が気づいてこちらを見る。
「問題ないよ。これで環太平洋地域への石油供給は調整できた」
カタロン中東第三支部支部長であったクラウス・グラードだ。元々インテリ風なところもあるせいか、スーツ姿に全く違和感がない。
彼もまた第三支部休止と同時にカタロンから離れ、紆余曲折を経てシーリンの仕事を手伝っている。
「本当に助かっているのよ、クラウス。外回りばかりやらせてしまって申し訳ないのだけど」
「コンサルティング業務だけの頃ならまだしも、多角化の進んだマジリフ・インベストメントにはキミが必要だよ。適材適所というヤツさ、企業は軍隊より構造が複雑だ。キミの優れた分析能力が明確な意思決定の基準になる」
先ごろ石油輸出規制の緩和の立役者となったアザディスタン王国は石油貿易の要衝となった。
立ち返れば、太陽光発電にシフトして久しいとはいえ、石油そのものは枯渇したわけではなかった。化石燃料については前世紀から埋蔵量の限界が危惧され、おりしも太陽光発電の実現と相まって輸出量の規制に踏み切ったのだ。
そもそも原油の埋蔵量は全てが把握されているわけではなく確定埋蔵量とされる範囲外は不明点が多い。いまも研究は進められているが学説によって推定される全埋蔵量はバラバラで、原油自体その由来すら解明されていない。
つまり情勢次第で化石燃料を代替エネルギーとして利用するのは充分ありえる事であった。
おりしも世界的経済不況下、電力供給への過負荷が問題として表面化した矢先の石油供給の拡大とあって、需要は順調に推移した。
これらの需給関係を円滑に橋渡しするべく設立されたのがマジリフ・インベスティメントである。当初、半国有企業として石油供給のコンサルティング業務を中心に展開していたが、エネルギー事業は全ての産業に繋がっている。事業規模の拡大と多角化は自然な流れであった。いまや複合企業体として経済界の一角を担っている。
クラウスの世辞に「そんなことないわ」と苦笑しつつデスクの端末の電源を入れる。正面のホロスクリーンが閃く。
すぐにメールの着信が3桁単位で表示され、他にも何か呼び出しめいたアイコンがいくつも明滅する。
シーリンは『ほらね?』と肩をすくめて笑ってみせる。
「誇張ぬきでホントに日ごと事業規模が拡大するんだもの。振り回されっぱなしで身動きとれやしないわ」
応じるクラウスは労わるような笑みを見せつつも軽口を言う。
「ま、僕は自由にやらせてもらっているけどね」
「次は中央アフリカ?」
「ああ、夕方にはリベリアへ向かわなくてはいけない」
そこでクラウスは、オフィスに立ち寄った本来の目的を思い出した。
「と、その前にこれをキミに届けておこうと思ってね」
差し出されたのは、紙に手書きされた何かのリストだった。
シーリンは、紙で、なおかつ手書きである意味を理解して表情を硬くする。
「現地で聞いたのだが、これらの企業が早い時期に買収される」
受け取ったリストをさっと流し見て企業傾向を分析し対応策を練ろうとする。が、シーリンは思いとどまってクラウスに鋭い視線を投げた。
「こういう無茶は、あまり関心しないわ」
もちろん彼も承知だ。だから微笑んでみせる。
「ありがとう、けれどこの程度は誰でもやっていることさ」
それから10分か15分ほど仕事の段取りを済ませ、クラウスはオフィスを後にした。
シートに座りなおして、目の前のデスクに置かれたリストを眺めるシーリン。
企業の買収は、その言葉面から悪い印象を与えがちだが、本来は至極合法でかつ平和的な取引だ。しかしながら、買収対象会社の取締役会による同意もないまま推し進められたのでは、その本質は変わる。いわゆる敵対的買収である。
「とりあえず外部のパートナー企業に資金調達を協力してもらう、か」
関連性のない、全く外部の企業に買収会社の株を買わせることで、買収会社の持ち株比率を低下させる。敵対的買収の防衛策とされ、第三者割当増資と呼ばれる。
さらに彼女は時刻を確認する。朝の9時を少し回ったところだ。たぶん向こうは夕方くらいだろう。
シーリンと同じく、デスクワークに励んでいるのは、サーミャ・ナーセル・マシュウールである。
こちらはツナギ姿で上着をはだけてTシャツといったラフな出で立ちだ。
気温が高いのか、冷えた飲み物を手にしている。
例によって感情の読み取りづらいフラットな様子でモニターを見つめているが、コツ、コツ、とデスクを指で叩いている。
モニターでは、細かいリストがスクロールしていて、ところどころで警告メッセージらしき赤い文字が表示される。そのたびにデスクを叩くリズムが乱れるのは、どうやらそこに原因があるらしい。
さらに隣のモニターには、モビルスーツの3面図のグラフィックと、実機そのものが整備士によってメンテナンスされる光景がライブで表示されている。
形式番号GNX-607T、機体名称ジンクスU。
地球連邦軍へ体制移行の過渡期に活躍した機体である。両肩から延びるフェンダーとハードポイントが特徴的だ。
今は、GN粒子発生器がさらに小型化、安定性向上が施された、ジンクスVに主力モビルスーツの座を明け渡している。
まさしくそのまま、モニターで中継されている整備状況が、サーミャの背後で行われていた。
彼女がモニタリングしている管理室の窓から見える範囲でも、10機以上のジンクスUが整備中であるのが分かる。
軽やかなコール音が響いて、サーミャは手元の通信端末を手にした。
「直接お話するのは渡米された時以来ですね」
ビデオフォンに表れたのはシーリン・バフティヤールだ。
『そうね、予定では納品が終わった頃だと思って、連絡したのだけど?』
シーリンの台詞につられるように席を立ったサーミャは、窓際に歩み寄る。
「こちらもそのつもりでしたが、少し予定が遅れています。さしずめロートルをかき集めるのに手間取ったのでしょうよ」
いささか険のある物言いだ。
さきほどからデスクのモニターでスクロールされているのは、整備士たちからの報告である。軽微な整備不良はもとより、腕一本まるごと交換の要望まである。
連邦正規軍からの直接払い下げだと楽観していたサーミャだったが、予想以上に状態の悪い機体が多かった。
対するビデオフォンに映るシーリンは愉快そうである。
『あら、思ったよりストレスが溜まっているようね?』
サーミャは、何かを飲み込むように目を閉じて、投げるように言った。
「用件を」
『今送ったリスト、企業の一覧なのだけど、貴女のルートから共通点を調べてほしいの』
再びきびすを返してデスクに戻ったサーミャは、シーリンからのダイレクトメッセージを確認した。
ざっと中身を見た感じ、ランダムに抽出されたかのような関連性の見受けられない企業の一覧だ。どの企業も業界内で中堅かそれ以上の業績を残している点が唯一の共通点かもしれない、などと思えるくらいに堅気な企業ばかりだ。
シーリンからは、ときおりこのような調査を依頼される。もちろんサーミャの属する組織の情報力をあてにしているのは明白で、彼女も協力を惜しもうとはしない。
そこには、アザディスタン王国復興という任務目標があるのは当然ながら、それを建て前としても、シーリン個人をそれなりに信用しているからでもある。
「いいでしょう。では、こちらからも調査をお願いしておきましょうか」
とはいえ、いつも使われてばかりではいささか釈然ともしないので、彼女は以前から気になっていた事柄に触れることにした。
「現在、アザディスタン国内では、国防軍の建て直しとして国連経由でモビルスーツ部隊の増強を図っていますが、それと同時にパイロットの調達も進めています」
言いながら、サーミャはモニターに別のリストを呼び出す。
国籍もバラバラな人名を縦軸にして、横にはいくつかの数値が並んでいる。
「インテリジェンスを扱う業界で我々は、人材調達の段階として対象人物の『洗浄』を入念に行います。経歴の調査や性格に対するテストを徹底的に行うのです」
『まぁ、健康診断の結果だけってわけにもいかないでしょうね』
「そうです。趣味趣向、政治思想や性癖などなど。それらを調査する上で直接本人をテストする場合もあるのですが、中でも……、それはもう、パッと見、何のテストだか理解できないようなテストもあるのです」
室内は暗く、天井にぽっかり空いた換気扇からの明かりだけが、机一つと、それを挟む一対の椅子を照らしている。
片方の椅子には、くたびれたスーツ姿の中年男性が座っている。白人だ。
向き合ったもう片方の椅子には、若い女性の姿があった。ややクセのある赤毛で、琥珀色の大きな瞳はクリクリとよく動く。それは彼女の活発な内面を現すかのようだ。出で立ちは、いわゆるモビルスーツパイロットが着るそれで、だがヘルメットは持っていない。
中年男性は、じっと女性を正面から見据え、静かに口を開いた。
「では、これからきみにいくつかの質問をする。緊張せずに、できるだけ簡潔に答えてほしい」
「オッケー☆ オジサマの質問ならなんだって答えちゃう」
大仰に両手を開いてにこやかに答える彼女に反応するでもなく中年男性は、変わらない調子で続ける。
「今日はきみの誕生日。そのプレゼントに子牛の皮で出来た財布をもらう」
「うえー、なにそれ、そんなのいらない」
「きみには小さな子供がいる。その子はきみに蝶の標本と捕虫瓶を見せる」
「そんな子供なんかいらなーい」
「きみはテレビを見ている。すると、きみの腕を蜂が這っていることにハッと気がつく」
「その蜂を殺すわ」
「きみは雑誌を読んでいる。すると、女性の大きなヌード写真のページに出くわした」
「ねね、コレってなんの試験?」
「いいから、ただ答えてくれ。きみはそのヌード写真を夫に見せる。すると彼はそれをたいそう気に入ったので、それをきみの寝室の壁に貼る」
「そんなこと、させるわけないジャン」
「なぜ駄目なんだい?」
「あたしがぁ〜、満足させてあげる、か、らっ!」
茶化すような明るさで振る舞ってみるも、やはり中年男性の調子は変わらない。
「最後の質問だ。きみはある舞台劇を見ている。次々と料理が運ばれてくる。客人たちは前菜の生ガキを堪能している。メインディッシュは茹でたイヌだ」
さすがに質問の意図を測りかねた彼女は、黙りこんでしまった。
「ありがとう、ネーナ・トリニティさん。試験はこれで終わりです」
アザディスタン王国、国防軍入隊審査。
午前の個人面談をひとしきり思い返したネーナ・トリニティは、夕食として支給されたレーションを頬張りながら愚痴った。
「ってさ、あの試験ってなんなの? わっけわかんない」
新設された軍施設の広大な食堂。何列も並んだ大テーブル。夕食どきにふさわしい活況につつまれている。
陽はすでに傾いて、壁面の大窓から朱色の陽射しが差し込む。
彼女の問いかけに答えるのは、午後の模擬戦でロッテ(2機編隊)を組んだ青年パイロットだ。
「たしかに気持ちの良いものではありませんでしたね」
そう言って苦笑してみせる。のだが、元から笑ったような顔の造りで表情が読み取りづらい。目なぞは「ハ」の字そのものな糸目で、聞けば中国国籍だというし、元々アジア系の判別を苦手とするネーナにしてみれば、「まぁそういう人種だよねー」ていどにしか感想を持っていない。
ハノイの大手PMCから、わざわざ中東まで入隊審査を受けに来たという彼は、金銭などで雇われ戦争に参加する兵隊、いわゆる傭兵である。
現在のアザディスタン王国は、ひととおりのインフラ整備が完了し、民間企業による経済活動も順調に推移している。
残る課題は軍備だった。
前世紀、もしくは太陽光紛争が始まる少し前から、アザディスタン王国は軍備防衛に消極的な国になっていた。それでも他国に侵略されなかったのは、それまでの歴史に大きく依存するところである。
いづれにしろ、今も基本方針は変わっていない。暫定政府執政官とはいえ、事実上、国内の実権を掌握するマリナ・イスマイール第一皇女も軍事力の整備にはほとんど力点を置かなかった。
だが、地球連邦に加盟国として名を連ねるにあたり、最低限の備えるべき軍事力基準というものがあった。地球連邦軍というオンリー・ワンの軍隊があるとはいえ、最低限の自衛手段は各国で整備しなくてはいけないのだ。
内政一切を取り仕切るサーミャ・ナーセル・マシュウールは、軍備整備の基本方針として傭兵の雇い入れに取り掛かった。
Private Military CompanyまたはPrivate Military Contractor、単に略称でPMCとも呼ばれる民間軍事会社は、地球連邦軍の体制整備とともに衰退するのではと噂されていた。しかし、ソレスタルビーイングによる一連の紛争介入テロによる人材不足は、逆に連邦軍の下請け業界としての地位を固めさせる結果となった。
そういった土壌で即戦力の調達に利用するのは無難な選択であるといえよう。
そして一方のネーナ・トリニティはといえば、王留美の子飼いとなって久しい。その彼女がアザディスタン王国の軍隊の入隊審査を受けているのは相応の理由があるのだが、あくまで表向きはフリーの傭兵ということになっていて、青年パイロットもそれで理解している。
「それに、模擬戦も妙でしたよね。この手の審査は個人技量を測りたいから、わりと自由にやらせるんですけど」
持ち前の人当たりのよさで青年パイロットと打ち解けたネーナを前に、彼も饒舌になっているのかもしれない。
しかしそれ以上に、今回の審査の特殊さは話題のネタにするには充分だった。
「だよねぇ! わざと駆動系にストレスかけたり、紙切れみたいな装甲で飛ばしたりさ。あんなに制約が厳しいと個々の能力なんて測れないんだしさ!」
ネーナも激しく意見を同じにする。
入隊審査となれば、パイロット特性を測る意図で実機による模擬戦は必須だ。だが今回の模擬戦は特殊だったのだ。
彼女らの言うように、機体の動作に制限をかけた地上部隊と、飛行性能を過度に高められた航空部隊との模擬戦は、双方ともにかみ合わない微妙な内容となった。
一見、航空部隊が有利に感じられるが、飛行性能に特化すべく弱装化された火力ではやはり決め手に欠けるのであった。
「しかし、ネーナさんは全く問題なかったじゃないですか」
青年パイロットが関心して見せる。
当然のことながらガンダムマイスターとして調整されたネーナが、この程度のハンデで一般パイロットに劣るはずがない。
むしろ成績が突出しないように手加減したくらいであるから、ネーナは笑みを浮かべるだけに留めて曖昧に返した。
それを謙遜と受け取ったのか、青年パイロットは若干気落ちした風に続ける。
「ネーナさんに比べれば、ボクなんか到底かなわない。せっかくチームを組ませてもらったのに、足を引っ張ってばかりで……。だからなおさら納得できないんですよ。こんなボクは採用されて、なぜネーナさんが不採用だったのか」
本人はといえば、言われてようやく気づいた風に「まぁねぇー」などとつぶやいて微笑んでみせる。
「ホントはさぁ、どっちでもいいんだなー。けどせっかく来たんだから採用されたかったんだけどねー」
「は?」
虚を突かれた青年パイロットは間の抜けた声をあげた。
ネーナはそんな彼を妙に熱っぽい視線で見つめながら言った。
「ンフフ。問題ないわ。大丈夫よ」
今度は、サーミャがリストをシーリンに送信する。
「これはスカウトのときに担当官が行うテストの一つで、特定の組織に属する人間を選別します。この特定の組織というのがいまひとつ不明瞭で、実は私も詳しくないのです」
シーリンは一息分だけ沈黙すると、思いついた諜報機関をリストアップする。
『どのみち人革連の解放軍二部とかFSBじゃないの?』
「いえ、我々の業界の話ではありません。概念としてはフリーメーソンに近いのかもしれない。ただ情報伝達速度が速く、組織の実態にたどり着く前に逃してしまう」
弱気口調のサーミャにシーリンは深刻度を理解する。そしてまた、その謎の組織を気味悪く思う。
「なので相手の懐に入る術もなく、とにかく水際で侵入を防ぐしか手段がないのです」
それでも敵への侵食を謀ろうとするところに、サーミャが属する組織の恐ろしさを感じるシーリンであるが、もちろん断る理由などない。
『わかった。テスト結果を送ってちょうだい。でも期待しないでね、インテリジェンスのプロ相手に適うわけないんだから』
「それはお互い様ですよ。要は違った視点の意見を求めているだけです」
これはサーミャに限った事ではない。各国のインテリジェンスに関わる機関は、諜報の専門家として本能的にイノベイドの存在を察知し、嗅ぎ分ける術を編み出していた。
しかし、サーミャの言うとおり、イノベイドの実態は把握されていない。それほどまでに彼らは巧妙に社会へ浸透していると言えたし、また逆に、「怪しき者は罰する」基準でこれまでイノベイドの浸透を阻止してきた諜報機関もさすがであるといえるだろう。
事実、これらの形振り構わない厳密さは、時として表社会に露呈する。女王陛下の懐刀とか福建の奥地の研究施設だとかネバダの砂漠の秘密基地などに纏わる都市伝説は、それらの残滓なのかもしれない。
サーミャは手にした飲み物を一口含む。
「国防軍再編の進捗は順当です。一度、詳細を報告したいのですが、本国へ戻られる予定などありませんか?」
視線を外してスケジュールを確認している様子のシーリン。
『ちょっと難しいわね』
このやり取りは何度か繰り返されていた。例によって同じ返答のシーリンに軽く溜息をつく。
「まさかとは思いますが、私に国内の雑事を押し付けようと画策しているわけではありませんよね?」
『そんなわけないでしょう』
即答するシーリンは、デスクに飾られているフォトフレームの画像を、フロリダのウォルト・ディズニー・ワールドで撮影したクラウスとのツーショットから自由の女神に切り替える。
もちろん、サーミャからは見えない。
『慌しい国内情勢の中にいると先行きを見誤りやすいわ。物理的にも距離を置いて客観的に現状分析できる視点が、今のアザディスタンに必要なのよ』
「それは分かります、いいでしょう。近日、即位式の関係でそちらへ殿下をお迎えにあがるので、そのときにでも報告します。それとは別件で確認したいことがあります。アザディスタンの防衛体制に極めて重要な事項です」
次のサーミャの台詞にシーリンは表情を険しくする。
「ナタンツの保守状況についてです」
彼女は今、経済特区日本の首都東京、新宿区にその姿があった。
彼女――、ルイス・ハレヴィは、小柄なほうである。
以前、この国に留学していた時に付き合っていたボーイフレンドと並んでみても、彼のほうが拳一つほど背が高く、連れ立って歩く姿はいかにも「それらしく」見えたものであった。
ボーイフレンドの彼も、背は高い方でなかったが、にもかかわらずの身長差であるから、もちろん上背のある男性からすれば、頭一つ分以上の身長差になることもよくある。
今、目の前に立つ男も20センチほど背が高い。
だから、カジュアルなジャケットにジーンズ地のスカートが似合う小柄な女の子に見上げられながら、「地球連邦軍、独立治安維持部隊のルイス・ハレヴィ准尉です。内乱罪、公衆等脅迫容疑であなたを拘束します」などと上から目線で言われてしまえば、滑稽に感じる者もいるだろう。
化石燃料の普及に過激な抗議運動を展開する、いわゆるテロリストであるこの男も、そういった種類の人間であった。滑稽だと笑うだけならそれで済んだのだろうが、自分が当事者であると気づいて彼は逆上した。
安易に懐の銃を抜いてしまうのは軽率でしかなく、一般軍人以上の身体能力を有するルイスにかかれば、銃を叩き落され両腕の関節を妙な方向に極められて、地べたに這いつくばらされるのも、当然の結果だろう。
週末の人ごみで賑わう市街のど真ん中で、突如発生した大立ち回りに周囲は騒然としている。
片足で踏みつけるように男を「拘束」したルイスは内ポケットから通信端末を取り出す。
「公安のかた、容疑者を一人確保しました。引き取りにきてください」
端的に告げる彼女の足元では、ようやく事態を把握した男が何か叫びはじめている。
日本語に通じるルイスであるが、そんな彼女ですら聞いた事のない単語の羅列で理解できない。が、罵声の類であるのは分かった。
「うるさい、黙らないと××に送って×××に××を×××から××××××××××するぞ」
と、日本語の語彙を振り絞ったルイスの台詞に男は怯えながら沈黙した。
雑踏の向こうに黒塗りのセダンが数台到着するのが見えた。さらにその奥のテナントビルには、かなり大きめの街頭スクリーンが設置されていて、昼のワイドショーが放映されている。
国内では割と知られた芸能レポーターがインタビューする相手は、アザディスタン王国第一皇女マリナ・イスマイールであった。
『マリナ王女、緊急生出演!』などと大仰なタイトルであるが、番組そのものはいたって温和な雰囲気で、遊説の合間の広報活動といった風情は、ちょっとした芸能人扱いのようである。
スクリーンの中でもまた、いつもの笑顔でレポーターの質問に答えている。
『はい、即位式といいましても、あくまで儀礼的なものなので何も変わることはありません。むしろ、今の"第一皇女"という呼び方は、本来王位に就く者がいて、王の娘を皇女、息子を皇太子と呼ぶのが正しい。ですが私たちアザディスタン王国の王座は空席のままだったのです。緊迫した国内情勢が主な要因でしたが、ようやくといいましょうか、最近になって落ち着きはじめ、これは良い機会でありましょうと思いました。それにいつまでも皇女と呼ばれる年齢でもありませんので』
『とんでもございませんっ、いつまでもお美しくて、羨ましい限りです』
と言って、レポーターはドッと笑ってみせた。
『――というわけで、現在全国遊説中で大変ご多忙でらっしゃるマリナ皇女殿下ですが、実は音楽の造詣が深いとお聞きしました』
画面には、先日新築された王宮の落成式でピアノ演奏を披露するマリナの姿が、ワイプで差し込まれている。
『先月、ご自身が演奏されたピアノソロをネットで配信されたところ、VMDLの月間トップ10にランキングされる人気です』
即位式だの国内情勢といった堅苦しい話題から解放され、芸能レポーター風に調子づく。
『今後の活動についてはいかがでしょうか? 歌手デビューというのもアリだと思うのですが?』
瞬間、マリナから笑顔が消えた。
『ありません。それはぜったいにありませんから』
終始不機嫌そうにスクリーンを見つめていたルイスは、再びビデオフォンを操作しだした。
それを受けたのは、アンドレイ・スミルノフ少尉である。
彼が立つのは市街地の喧騒とはうって変わって、深い緑に囲まれた林道の途中。静寂の中に小鳥の声が映える。
それでもここは東京都内なのだ。都内には大規模な緑地公園がいくつもあるが、なかでもここは人工の原生林とまでいわれ、その規模は都内のヒートアイランド現象を抑制するほどである。
「ご苦労だった准尉」
ひととおりの報告を受けて、アンドレイが労う。彼は林道を歩きながら、やや意気込んだ口調で「それで」と付け加えた。
「日本の公安はどうだった? 内ポケットにクナイを持ち歩いていたり、手首にズタボロな包帯とか巻いていなかったか?」
『ないですから。ありえませんから』
「なんと、公安も違うのか。東京には居ないという噂は本当だったか……」
『あの、用がないなら切りますが』
「いやしかし、マシュウール殿の情報力はすごいな。環境保護団体、化石燃料反対組織、原発推進派etc、石油貿易の、いやアザディスタンに敵対しうる勢力のタカ派は軒並み検挙できたということだからな」
などと関心しきりのアンドレイに対して、ルイスは相変わらず不機嫌な表情である。
『マリナ殿下をエサにするような手段は納得できません』
「それは違うぞ准尉。今流れている放送もライヴではないのだから、皇女殿下に危害が及ぶはずもないじゃないか」
沈黙のルイス。
「それに、近々執り行われる即位式を前に、主要各国を訪問するという今回の遊説目的は決して建前ではないし、何も後ろめたい事はないだろう」
ただ、現地スケジュールを巧みに操作し、敵対組織を扇動し、浮き足立ったところを根こそぎ刈り取る、という芸当は相当に黒い手管を駆使しているだろう、と思いはするがアンドレイは決して口にしない。
日本だけではない、その前に訪問したブリュッセル、遡って北京、ミンスク、フランス、イギリス。遊説先のことごとくにおいて、地元警察機構を巧妙に利用して実質的障害になりうる団体や政敵の弱体化に成功していた。
そこへビデオフォンとは別に、耳に装着したインカムから定時連絡が聞こえた。
周囲を警備する宮内庁のSPからの連絡である。
彼とてのんびり散歩しているわけではない。目標に充分配慮した距離をとりつつ、周囲の警戒を怠らない。
いづれにしろ報告も終わったわけだし、いつまでも油を売っているわけにもいかない。
「皇女殿下が心配なのは分かるが、少しは私を信頼してもらいたいものだ」
茶化すように言うと、途端にルイスの声が裏返る。
『べっ、べつに自分は護衛任務の本来目的に忠実なだけであって、殿下個人とは関係のない話ですから』
アンドレイが歩く林道は高台に沿って続いていて、眼下には小川とそれに沿った小道が見える。
その小道をマリナ・イスマイールと並んで歩く老紳士、そして二人の半歩後ろを歩く老婦人の姿が見える。
マリナの隣を歩く小柄な老紳士は、軽やかな笑い声をあげた。
「それは、なんとも痛快なお話ですね」
今回の訪日や、これまでの遊説先でサーミャが自分を釣りに使っている顛末を、自ら語ってみせた反応である。
すっと背筋の伸びた立ち姿や張りのある声音からは、還暦をとうに過ぎているとは思えない。老紳士は、柔らかい笑みを浮かべながら続ける。
「私は羨ましく思います。その部下の方は、貴女の価値を正しく理解しているから、そういうことが出来るのだと思います。これはお互いの理解が深くなくては出来ないことですよ」
対するマリナは同じ笑顔でも苦笑を浮かべている。
「そうなのでしょうか。わたくしは……、何もしていません」
「とんでもない。貴女はわずか半年足らずで母国を復興なさったではありませんか」
謙遜と受け取った老紳士は、素直にフォローするのだが。
「そのようになってしまうのでしょうね。でも、それこそ皆が尽力した結果です。わたくしはただ、周囲に流されているようですら……」
出会ってからさほど時間も経っていないが、マリナは老夫婦と過ごす時間に居心地の良さを感じていた。
それはやはり、社会的役割が自分と似ている、ある種の親近感がわいての事かもしれない。
伝統と格式と歴史、時代の潮流と折り合いをつけた一つの結果としての、支配者の末裔たち。
英国でもそうだったが、年齢はマリナより一回りも二回りも年上の人ばかりで、彼女にとって『良き先輩』であった。
あるいは、今は亡きマスード・ラフマディーの面影を見たのか、内心甘えていることに気づいて自重しようとも思うのだが、つい愚痴なんかを、口にしてしまう。
「そういえば、先日も――」
昨夜のことである。
アザディスタン王国は、つい最近まで政情不安であったことや、慢性的な財政難が続いていた事で、国交のある諸外国においても領事館などを維持できない状態にあった。
そのため今回の訪日でも都内の民間の宿泊施設を利用せざるえなかった。
「わあっ! す、スミマセン、殿下っ」
当旅館の名物である大浴場に入ったルイス・ハレヴィ准尉は、マリナ・イスマイール皇女殿下の姿を見かけて反射的に謝った。
腰まで伸びた黒髪をタオルで纏め上げた以外は、一糸纏わぬ姿であったから余計に恐縮してしまう。
「ああ、気にしないでください。わたくしが長湯だっただけですから」
と、ニコニコ笑顔で返すマリナを見て、ルイスは冷静さを取り戻した。
「ていうか、なぜ殿下がこんな市井の場所に」
旅館内とはいえ、公衆浴場であるから二人以外にも利用客の姿はあった。
セキュリティ面では全くのザル状態。
しかし、このような公共施設においてマリナの皇族としてのオーラはほとんど発揮されず、誰も気づかない。いまどき外人が温泉につかる光景など、珍しくもなんともないのだ。
それらを総合的に判断した結果、ルイスは大きく騒ぐことを控え、マリナの傍らに立って、気取られない程度の周辺警護に入る。
「せっかくニホンに来たのですからオンセンがどういうものか経験しておきたくて。ほら、個室のお風呂は味気ないでしょう?」
更衣室へ移動するマリナと、自然と付き従う形になってしまうルイス。
「それにシーリンが手配してくれたのですから」
厳密にはマリナの認識は間違いである。
都内屈指の隠れ家的温泉宿で、どこのガイドにも掲載されず、真の和風旅館愛好家たちだけが知るこの宿をシーリン・バフティヤールが手配したのは、アロウズの二人のためだった。
もちろん、マリナの護衛に就っきりの二人の労をねぎらうのが目的である。
ルイスはそれを承知しているが、いまさら指摘する気もない。それよりもアザディスタン本国で会ったときのシーリンの印象から、このような気配りのできる人物であったとは予想外だった。
おそらくマリナと対等に会話できるのは彼女だけだろう。いや、対等というよりシーリンが格上ですらある。それに仕事にも厳しい。今はニューヨークで貿易コンサルティング会社のCEOを勤めているというが、まったく彼女にお似合いであるとも思う。
いわゆる、自分に厳しく他人にも厳しい人物。そんな印象である。
それがまさか、このような気遣いができる一面があろうとは。と、そこでとある人物が思い浮かんで苦笑する。
(少尉のタイプだよなー)
とか、内心で冷静につぶやくルイスであったし、事実、隣の男湯ではアンドレイ少尉が感謝に感極まって、憧憬の念すら抱いていたりしたが、もちろん彼の心情は重要でもなんでもないので割愛する。
そこへビデオフォンの着信。
「ち、ちょっっ」
脱衣棚からビデオフォンを取り出し、躊躇無く接続するマリナに大変焦るルイスであったが、「大丈夫、この方はいつも音声接続だけなのですよ」と言われ、たしかに映像が切られていることに安堵する。
急な呼び出しになんら動揺もなく、風呂上りであるにもかかわらず化粧台の前に座り込んで話し始めるマリナ。
化粧台に置かれたビデオフォンは外部スピーカーに切り替えられていた。
「通貨統合ですか」
『そのとおり、貴国を旗印として中東地域の統合を我々自身の手で成し遂げるのです。わずか半年たらずで貴国の経済状態を回復された貴女の外交手腕を、ぜひとも存分に振るってほしい』
相手が評議会であると知ったルイスは注意することもできず結果、両手にしたタオルでマリナの肢体を身づくろいすることにする。
「永きにわたる混迷の歴史に、誰もが疲れているのは事実です。中東地域の統合は、この地に住まう者であれば誰しも思うことでしょう」
背中を拭きあげ、肩口から腕にタオルを添える。
風呂上りで少し桜色に上気した、マリナのすべらかな白い肌にすこし見惚れてしまう。だがしかし、自然と視線は肩口から胸元に降りて、自身の胸元と見比べたルイスは内心で小さくガッツポーズを決める。
「しかし、統合が成されたとき、誰もが幸せになれるのでしょうか?」
『幸せとは柔らかい物言いをされる。それこそ問いにするべきでもありますまい。今まで何度も試みられ、叶わなかった宿願といってもいい』
「存じています。でもそれは、中東という限られた地域に言及されることです。ともすれば前世紀の石油経済の図式を踏襲するだけになる。偏重した市場は、我々にも有益な結果を生まない。我が国が、官民合同出資でコンサルティング企業を経営しているのも、石油流通を占有しない開かれた市場を目指すべき、という主旨によるのです」
二人の会話に、あえて聞き入らないのは護衛という任務に忠実な彼女なりの配慮である。
まるで侍女のごとく淡々と身づくろいするルイスであるが、ひととおり拭きおわると次は髪の手入れにはいる。
ひとまず無言でマリナに目配せで確認して、頭に巻かれたタオルを緩めれば、艶やかな黒髪が広がるように滑り落ちた。
風呂上りで、まとめた髪を下ろす風景は日常的な所作であったのに、ルイスは一瞬息を呑んだ。
いつもは滑らかにまとめられた黒髪が、このときは束ねられていたせいか、ざっくりと乱れて肩口に広がり、瞳に影を落とす。
「アズディニー殿。わたくしは、皆が時間をかけて納得ゆくまで対話することで、争いのない世界を目指すことができると信じています。しかし、いくら言葉を重ねても相手の心根を知ることはできない。だからお互いを理解するには、相手と同じ立場に立つことも必要なのではないかと、ときおり思うのです」
化粧台の鏡面に見えるのは、茨のごとき鋭角を纏ったマリナ・イスマイールの姿だった。
「同じ立場とは、言葉そのままを意味するのであって、決して相手の立場を慮るなどではありません。そういった覚悟が必要であると思うのです」
アズディニーは不可解な沈黙。
マリナの言うことが理解できないのだ。ルイスもそれは分かった。
ただ、この場に居るからこそ分かるマリナが纏う空気。アズディニーは通話のみでやりとりしているから伝わらないのだ。だから取り繕うように言葉を吐き出す。
『もちろん我々も憂慮すべき事柄と考えていますが、まずそれよりも――』
内容を伴わない言葉は、たやすく遮られる。
「アズディニー殿の立場は理解しているつもりです。中東諸国が選択できる一つの道筋を、アザディスタンは指し示しました。この地域には資源がある。活力もある。それ以上何を望まれるのでしょうか?」
再度マリナは「アズディニー殿」と、問いかけなおす。
「評議会が目指すのは、復興なのでしょうか、復権なのでしょうか?」
ビデオフォンからの音声が止まった。
まるで通信障害で回線が切断されたかのような長い沈黙。
『皇女殿下は思った以上に聡明な方でらっしゃるようだ』
ようやく聞こえたのは、台詞とはうらはらな緊張を伴った声だった。
「わたくしの下す決断は、決断ではありません。実際のところ選択肢はないのです。それらは既に決まっていて、わたくしはただ、それを宣言するだけ」
それが彼女のポジションなのだ。指針を明確にすることで人々はそれに向けて動き出す。だが、それは役割であって、あえて言うならマリナ個人である必要すらどこにもないのだ。
「私も同じように思うことがあります」
思わぬ同意の返答にマリナは意外そうな表情を老紳士に向ける。
それでも老紳士は笑顔を崩すことなく続ける。
「しかしながら、ええ、そうですね……皇女殿下は国土を襲撃されたとき、現地に赴かれたと聞きます」
立ち止まり、空を見上げる。
「私たちの国でも、何度か、大きな災害の被害を受けたことがあります。居ても立ってもいられず被災地へお見舞いに伺うのですが、いざ現場の方々とお話をしてみて驚くのです。そして自身の役割を省みるのです」
当時を思い返すように、目を細める。
「わざわざ来てくださって恐縮です、と。これからもがんばっていけます、と」
再び歩き出す。少し遅れたマリナは早足で追いつく。
「社交辞令だと思われもするでしょう。しかし、本当の被災地ではそのような建て前は何も意味を成しません。みんな生きることに精一杯なのです」
老紳士の淡々とした語りは続き、その間も半歩後ろに控える老婦人は見守るような笑みを浮かべている。
「皇女殿下がおっしゃるように、私たち個人で、何が出来るわけでもないのです。しかし、国の象徴である私には彼らを支えることが出来るのだと気づかされるのです」
そこで老紳士は彼らしからぬ苦笑を浮かべる。
「noblesse oblige、などと言える時代でもありませんね。ましてや私たちは、もはや象徴でしか役立てない。けれど私や皇女殿下でなければ出来ない事というものは、そのようにあるのです」
まもなく対談の時間が終わり、マリナたちを見送った老夫婦は、再び吹上御苑の御用邸に居る。
老紳士が静かに「どう思われましたか?」と問えば、半歩後ろにたたずむ老婦人は長い沈黙を破った。
「王の素養がぜんぜんなっとらんな」
その声音は、年老いた婦人とは思えないものだった。
それどころか性別すら判別できないような、子供のような声音だった。
「ボランティア精神ゆーたら聞こえはエエけど、過剰な献身は王としての責任感が薄いからや。それにあれは――」
さらに奇妙な現象が老婦人に起こる。
彼女の額に奇妙な文様が浮かぶ。それが、あろうことか青白く光りだす。それでも老婦人の語りは淀みない。
「1979年のストックホルムで会ぅたアグネス・ゴンジャ・ボヤジュとよー似とる」
極東の小国・日本。国土は狭く、資源にも乏しい国が過去、さまざまな局面で海外列強と対等に外交を進めてこれた一端がここにあった。
今世紀に入って科学的に解明されつつある皇室最奥の秘術。
老婦人の脳内の記憶野には、今まで謁見した政治家、著名人、その他もろもろの議事録が会話記録として銘記されている。ここで言う"今まで"とは歴代の皇族の全ての会話記録を指す。
血族として連綿と受け継がれる不可思議な能力は、彼ら彼女らの数奇な運命と共にあった。
老紳士は「ほう」と関心する。なおも老婦人は続ける。
「せやけど、マリナ・イスマイールの非暴力とか宥和的な発想はガキのそれや。あの子が先生目指した理由はその辺にあるんやろうけど、どっちにしろ発想に幼稚なところがあるわ」
そして老婦人は再び口を閉ざす。
一陣の風が木々の葉を鳴らす。
大きく一度深呼吸した老紳士は、スッと笑顔を消した。
「そう遠くない時期に、本当の意味で彼女が、自ら決断するときがくるかもしれませんね」
この頃の日本は、ユニオンの加盟国として安定した地盤を築いている。突出することもなく、かといって過剰に評価を下げる事もない、常にナンバー2を定位置とするのは、彼らのしたたかな外交手法である。
「皇女殿下のみならず、状況を俯瞰できる状態ではないようですね。我々の立場で分かる事が彼女らには見えていない。アザディスタン王国が今や台風の目の一つになりつつあることに気づいていない」
だから彼らは、この後起こる、中東を中心とした世界規模の動乱を予測できていたにもかかわらず、直接関与することを良しとしなかった。そのほとんどを水面下で取り成し、常に距離を置いて事態をやりすごした彼らはこれ以降、直接アザディスタン王国と関わる事は無い。
警報。
狭いアラートハンガーに一度だけ鳴り響く。待機中の4名のパイロットたちが無言で通路を出る。
区画ごとの通常放送と異なり、緊急出動警報は艦内全域で放送される。
『スクランブル、イワノヴナ分隊は第一デッキ、第二デッキには――』
必要事項だけが簡潔に告げられる。
パイロットたちは壁面を軽くキックして廊下へ滑り出す。無重力下における慣性を利用した移動だ。
4名ともリフトグリップを使わない。アラートハンガーはその緊急性から、モビルスーツデッキまで最短距離に設置されている。そしてまた通路上には、アラート任務に就いているパイロット以外が姿を見せることもない。だからリフトグリップによる緊急停止の必要はほとんど無いし、なにより慣性移動のほうが明らかに速い。
すでにヘルメットも装着し機密処理を完了した4名は突き当たりの通路で二手に分かれる。
軽く手を挙げてみせたりもする。
ほどなく狭い通路から、広大なモビルスーツデッキにはき出される。
正面に2機のモビルスーツが見える。形式番号GNX-609T、機体名称ジンクスV。機体色が赤にペイントされているのはアロウズ専用機である事を示す。
整備用のアンカーから解放され、出撃体勢を整えた愛機がパイロットの搭乗を待っている。
ヘルメット内のインカムを通じてすでにブリーフィングが始まっていた。
『広域索敵中の分隊が5分前――1523、産廃投棄区域にて、所属不明艦艇を発見』
聞きながら、パイロットの一人は慣れた動作で直接、愛機のコクピットまで浮遊していく。
僚機となるもう一人のパイロットは、整備用のキャットウォークを伝っていく。もちろんこちらが一般的な移動経路であるのだが、熟練度を垣間見るようではある。
いち早くコクピットハッチにたどり着いたパイロットはバイザーを上げた。出迎える整備士と、機体の調整状態を確認する。
「チェックリストは全部クリア、炉の調子も問題ありませんが、左手のマニュピレータに若干違和感を感じるかもしれません」
整備士がこのように捕捉するときは、部品調達が間に合わなかった場合が大抵で、パイロットはそれを非難する立場にない。提供される現状で最善の仕事をこなすのがパイロットの仕事だ。
だから"彼女"は快諾するし、あえておどけた口調で応じてみせる。
「了解、おそらく問題はありません。どのみち廃棄艦艇かオービタルリングの残骸だと思いますから」
女性パイロットの思惑を汲み取って整備士もかるく笑ってみせる。
『目視情報から現在、詳細予測の演算中である』
緊急出動そのものは珍しい事ではない。
通常の哨戒任務と異なり、ソレスタルビーイング専従となってからの慎重さは尋常ではなく、緊急出動の発生回数は跳ね上がった。
もちろん、その全てが誤認である。
改めて表情を引き締めると、整備士は敬礼を送る。
「ご武運を。イワン曹長」
女性パイロットも返礼する。
インニャイェルド・イワノヴナ・トルスタヤ、が彼女の本名であるが、知人にはイワンの愛称で呼ばれ、彼女自身も特に気にしていない。
再びバイザーを降ろしたイワン曹長は、機体から離れるように手振りを見せる。
コクピットシートに収まると同時にハッチが閉じる。
密閉された空間が、一瞬、静寂に包まれてインカムの声がひときわはっきりと聞こえた。
『光学分析の結果が出た。当該艦艇はソレスタルビーイングのモビルスーツ輸送艦と補給船であると断定』
イワン曹長の動きが止まる。
その間もブリーフィングは進行しているが彼女の耳に入ってこない。しばし呆然として、小さくつぶやいた。
「……まさか」
4年前。
私設武装組織・ソレスタルビーイングによる武力介入は、世界規模で軍事力を削ぎ落とした。
それは物理的な意味もあれば、人的な意味もある。モビルスーツとは高度にシステム化された兵器であり、それを扱うパイロットにしても専門技術や知識が必要となる。
そういった人材は一朝一夕に育成できるものではない。
ソレスタルビーイングの武力介入とは、それらを根こそぎ刈り取る行為であった。
現在、世界的経済不況がささやかれる中、国防産業においては長期的な人材不足が課題とされ、モビルスーツパイロットの育成が急務となっていた。
それほどにソレスタルビーイングは世界中を席巻していたし、誇張ではなく現役パイロットのほとんどが、ガンダムとの戦闘を経験している。そして彼らのほとんどが、部隊の仲間や同僚を失っていた。
前線に身を置く彼らが持ち合わせる、ソレスタルビーイングへの感情は尋常ではない。
そして彼女も4年前は人類革新連盟に軍籍を置くモビルスーツパイロットであった。
彼女は「ガンダム鹵獲作戦」で上官を失っている。
当時の戦力差は圧倒的であった。
太陽炉、GN粒子といったテクノロジーは、その頃の技術水準の50年先を行く技術だったと言われている。
しかし、今や技術格差は埋め合わされたといえるだろう。レプリカとはいえ、擬似太陽炉も小型化、安定化が図られている。
一説によればジンクスやアヘッドに搭載される擬似太陽炉の技術はソレスタルビーイングから漏洩したものであると噂されるが、ともかく4年前の機体に遅れをとるはずがない。
操縦桿を握る手にも力が入る
「このときを待ちわびた。まさかこんな機会がくるとは……見ていてください、ミン中尉!」
ソレスタルビーイング発見の報告はすぐさま伝播した。
サブモニターに流れるレポートを見ながら、アンドレイ・スミルノフ少尉はつぶやく。
「大佐の読みが当たったか」
『少尉!』
半ば予想していたルイスの逼迫した声に応じる。
「待ちたまえ、正式な指令が下ってもいない。我々に課せられた任務をまっとうするんだ」
言いながら右舷に首をめぐらす。
コクピットの全天モニター越しに見えるのはアザディスタン王国の政府専用機。高度1万メートル、羽田空港から日本を出国し、次の訪問国である北米へ向かっている。
スマートなシルエットのガルフストリームの向こう側に、ルイスが搭乗するアヘッドが見える。
護衛任務のため並走しているのだが、頭部の傾きが政府専用機を見つめているように見えた。
『そうですね、すみませんでした』
素直な反応にすこし驚くアンドレイ。
自動ドアが開いて、室内に入ったミスター・ブシドーの目の前には、たおやかな曲線が美しい人影があった。
「ぎゃあっ! 痴漢、変態! エロ仮面!」
ヒリング・ケアが露わになった背中を向けてヒステリックに叫ぶ。
しかし、非難の矛先であるミスター・ブシドーは怯む素振りすら見せない。
「キサマこそ何をしている、ここは男子更衣室だ」
それどころか、彼にしては珍しく苛立ちを隠さずに言い返す。
「立ち返ってみれば、キサマはどちらでもないだろう。それに今、私は忙しいのだ」
明らかに仕込みであったし、それを指摘もされず、ましてや冷静に返されて若干落ち込んだヒリングであったが、途端、表情が変化した。
まるでスイッチが切り替わったような変化で、利発な彼女らしからぬシニカルな笑みを浮かべて言った。
「ソレスタルビーイングが、宇宙に現れたらしいね」
柔らかい口調でありながら、常に相手を見下した物言い。
「待ち焦がれた恋人の登場というところかな?」
ヒリングの変化の理由を察したミスター・ブシドーは、だがそれでも変わらぬ不機嫌さで返答する。
「なんとでも言うがいい。私はガンダムと再び相まみえるためにキサマたちに協力しているだけだ」
取り繕いようもないそっけなさであるがしかし、ヒリングの予想外な次の言葉に、彼は少し驚く。
「それよりも、アザディスタンの姫君にご執心だったそうじゃないか。キミが他者に関心を持つなんて珍しいよね」
驚いて、なおかつ「ほう」とミスター・ブシドーは興味を示した。
「アザディスタン王国が、これほど早く復興を成し遂げた事や、いまやエネルギー事業を通じて世界経済を推進する一翼を担う状況も、連邦政府はおろかアロウズも予想しえなかった」
ヒリングの"向こう側にいる彼"の意図は分からない。だが。
「なるほど面白い。いいだろう、話を聞いてやろうか」
シニカルな笑みを浮かべるヒリングと、不敵に笑うミスター・ブシドーが対峙する。
沈黙のなかで互いの思惑が錯綜している男子更衣室に、まったく不意に一般兵士が入室してきた。
やにわ「失礼いたしました!」などと叫んで退室する。
「おっと。これはまずかったかな」
悪戯っぽい笑みでヒリングが言うものの、「なにがだ?」と平然と応じる仮面男に、一瞬不安がよぎるヒリングの向こう側の"彼"であった。
真っ白なブラウスに袖を通す。ネクタイを結んで、グリーンのジャケットを片手にひっかけて、シーリンは更衣室を出る。
「クラウスの情報どおりだけど、思ったより早い」
耳に装着したインカムに答えながら、シーリンは少し傾いた廊下を通りぬけて、小さなオフィスに入る。
ダダダダーッとキーボードを叩きはじめたシーリンは、現在進行している事態への対策メールを何通も送信する。
目の前のホロスクリーンに写る表やグラフには数字が乱舞し、同時に複数からの報告のメールが着信する。
デスクの向こうから顔をだした秘書の表情も不安げだ。片手に保留モードにした携帯端末を持っている。
気づいたシーリンは、無言で肯いてみせ、秘書の端末とインカムを接続する。
「おつかれさまです。事情はこちらも把握しています、落ち着いて対処すれば問題ありません。台湾の主要銀行へは、さきほどメールを送りましたので先方からの指示に従ってください、よろしく」
さらに一言二言やりとりを済ませ、インカムの通話を切る。
その間にもメールを5通ほど送りまくり、さらにインカムに着信が入る。
「わかりました、コートジボワールで凍結していた資金を投入してください。粗利は全てチューリッヒを経由させて、各信託銀行へ分散させてください」
即座に指示を出すが、先方の応答に表情が渋くなる。
「なっ!?」
絶句して、力なく応じる。
「だったら売却するしかないわ。被害が及ぶ前に手を引いてください」
通話を切ったシーリンは、ぐったりとシートに背中を預ける。
眉間を指でほぐす。
市場が急変したのが一週間前。以降、このようなやり取りが続いている。この短期間でマジリフ・インベストメント傘下のいくつもの企業がHTOBで解体されていった。
そこへ、軽やかな警告音が室内に響いた。続いて男性の声が聞こえる。
『本機はまもなくナショナル空港に到着します。安全のためシートにご着席ください、ミス・バフティヤール』
ナショナル空港の愛称で親しまれる、ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港。アメリカ合衆国の東海岸に面した国際空港の一つで、ワシントンD.Cへの玄関口だ。
ラガーディア空港を発ったマジリフ・インベストメントの社用機は、定刻どおりにナショナル空港に到着した。北格納庫とCターミナルの間にあるプライベートターミナルに接続する。
デッキとの接続通路から外を見れば、先に到着しているアザディスタン王国の政府専用機が見える。
「ボリビアの半導体工場は諦めて、デンツーとWPPを押さえて! すぐに!」
到着ロビーに入ってもシーリンは指示を出しまくっている。
一般利用客とは別の、特殊な顧客や要人向けのロビーであるから人の往来はほとんどない。
「全部売って! 10分以内に全部売るのよ!」
そんな彼女を出迎えるただ一人の女性が落ち着いたトーンで応じた。
「いつになくカオスな登場ですね」
声をかけられて、ようやく存在に気づいたシーリンは、怪訝そうな目で相手を見つめる。若干焦点があっていない。
その相手とはサーミャなのだが、どうやら認識できていない風であった。
彼女が珍しくスーツ姿であるとか、いつもすっぴん同然なのに、基礎化粧はもとより、うっすらルージュなど引いていたりするからではない。主な原因はシーリンにあった。なにしろここ一週間の睡眠時間はトータルで5時間を切っている。
ぼやけた思考から今日のスケジュールを呼び起こす。
「……ああ、そうね。即位式の準備よね。なんで貴女がDCにいるのかと思ったわ」
「大丈夫ですか?」
このときのサーミャは本気で心配している。
「大丈夫じゃないわ。自分でも整理が出来てないし」
と答えたシーリンは、それでも幾分、声に張りが戻っていた。
「場所も業種も全く違うけど、こうもあからさまに足並みそろえてくるとなれば、疑わないわけにはいかないわ」
静まり返った到着ロビーをシーリンは歩を進める。
「いわゆる同時多発買収よ」
「想定できる敵は?」
並んで歩くサーミャが問いかける。シーリンは即答する。
「いないわけないでしょ? いまや我が社はエネルギー事業にとどまらず、国際物流の分野ではトップクラス。自由競争経済において誰もが業界No1を目指すのよ。ライバルがいないわけがない」
「日本で皇女殿下が狙われた件は?」
二人揃って歩を進める先の到着ゲートでは、すでに米国のSPが数名張り付いていて、警備箇所のチェックに余念がない。
「原発推進派は、あの一件で影響力を無くしてるわ。むしろクリーンエネルギー研究分野で競合しそうな投資会社がある……いえ、新たに参入する予定の医療事業からの外圧かも」
SPが二人の姿を認めると、ゲート正面の通路を二人に譲る。
サーミャが黙って応じて、シーリンが続ける。
「ただ、どの企業も体力が無い。いいえ、コングロマリットとして充分大企業なのだけど、ここまで幅広く資金繰りできないということよ。そういう意味では何処も容疑者にならないわ」
「分かりました。先日もらったリストからは何も出ていませんが、情報精査の密度を上げてみます。で――」
二人の歩みが止まる。
正面の閉ざされたゲートを見据えたまま、サーミャが問う。
「タイムリミットは?」
シーリンも正面を向いたまま渋い表情をうかべて答えた。
「10日も持たないわ。第三者割り当て増資は継続させるとして、体力のある企業には逆買収も進めてみる。これだって付け焼刃だけど」
開いたゲートから、まず現れたのは軍服姿のアンドレイ・スミルノフ少尉だ。
シーリンとサーミャに目礼すると出迎えのSPと段取りの確認をはじめる。
その後ろからマリナ・イスマイールが白い2ピースのドレススーツ姿で現れる。付き従うのはルイス・ハレヴィ准尉である。こちらは少尉同様、アロウズの制服姿だ。
「……でもこんな普段着のような格好でいいのかしら?」
若干戸惑うマリナに、ハレヴィ家頭首としての外交経験からルイスが応じる。
「大丈夫です。ステッグマイヤー大統領は、外交面においてカジュアルでフレンドリーなキャラ立てです。なので逆にもっとラフでもいいと指摘されるかもしれません」
すっかりマリナの護衛が板についたアロウズの二人。
しかし、マリナ・イスマイールがアロウズの軍服二人を従える光景に、シーリンは複雑な心境にならざるえない。
すぐに二人に気づいたマリナが足早に歩み寄って、まずはサーミャに右手を差し出す。
「わざわざありがとうございます、サーミャさん。それにシーリン、会社のほうが忙しいと聞いています。身体は大丈夫?」
二人と握手を交わしながら気遣ってみせるマリナに、シーリンは静かに微笑んで返す。
「それより皇女殿下。ニホンはいかがでしたか? ゴボウセイの描かれた手袋とか装着していませんでしたか?」
「さぁ、そのような方は見かけなかったような」
「もう居ないのよ、シンジュクは特にダメよ。半世紀前の都条例でレイヤーは全滅したわ」
「二人が何を言っているのかさっぱり分からないわ?」
ひとしきり挨拶を済ませると、現在のアザディスタン王国におけるキーマンである三人は移動をはじめる。
彼女らの先頭を行くアンドレイ少尉が露払いに、後詰をルイスが、その周囲を米国のSPが固める。
「まずは殿下、こちらをご確認いただけますか」
移動ながらにサーミャが、A4サイズていどのホロディスプレイを取り出す。
ホログラフィックで投影されたのは、装飾もきらびやかなティアラであった。
「まぁ、即位式で戴冠する王冠ですね」
弾んだ声でマリナが言えば、シーリンも「ほう」と感嘆の声をあげた。
「はい。地元の職人の手による一品です。造型については専門家をかきあつめて歴史考察を行い、創世記の頃、実際に用いられた品を忠実に再現しています」
精緻なグラフィックと同時に、外装される宝石などを説明するテキストデータも表示されている。
「もちろん、今回の新調に際して、見た目だけでなく実用性も考慮しました」
サーミャの操作でティアラのグラフィックが透過イメージに切り替わる。
外見のアナクロさから想像できない複雑な配線と精密機器の配置された内部構造が表示される。
「脳量子波で用いられたセンシングテクノロジィを転用し、思考の変化にともなう体表電気の微弱な変化を探知する情報端末としての機能も有しています。また逆に、外部の情報を視覚的なイメージとして――」
最初は嬉しげに説明を聞いていたマリナの表情が少し翳る。
「でもなんだか派手じゃないかしら?」
指摘されてサーミャの説明が止まる。
改めてティアラをまじまじと見つめる。どういうわけかシーリンも同じように真剣な表情で見ている。
「ルイスちゃんくらいの年齢なら似合うのじゃないかしら? でも、わたしたちは、もういい年なんですから」
その一言で、サーミャとシーリンの歩みが凍りついたように止まる。
表情に暗い影が落ちたようにも見えた。
すぐさま我に返ったシーリンは足早にマリナに追いつくと、引き攣った笑みを浮かべながら言う。
「そ、そんなことないんじゃないかしら?」
「た、たとえば、ど、どういった感じでしょうかかか?」
などとサーミャに問われ、しばし考えるマリナであったが、
「そうですね……、ギリシャ神話のアテナイのような蔦を編み込んだ花冠なんてどうでしょう?」
などと言い出したので二人は顔を見合わせる。
「アテナ……」
つぶやいて、充分な時間をかけて想像を膨らませたあげく、「ぷっ」と噴きだした。
「真逆ですね」
サーミャが真顔で突っ込めば、シーリンは笑みを交えて言う。
「海神と覇権を争えとは言わないけれど、その気概の10分の1でもあればね」
戦略・戦いの女神のイメージをもつ二人と、芸術や工芸を司る女神と捉えたマリナのギャップは華麗にスルーされて会話は続く。
「殿下も充分に、気丈でいらっしゃいますよ。なにしろ評議会のアズディニー殿を怒らせたのですからね」
マリナはハッとしてサーミャに向き直ると、申し訳なく頭を下げた。
「そうでした、サーミャさんにご迷惑おかけしてしまいました」
「いえ、状況は把握しています。けれど我々も一枚岩ではないのです。評議会は、あのような殿下の反応を予想すらしていなかったようですよ。大変動揺しているようですが、我々は当面静観します」
「なに? 何の話をしているの二人とも?」
遊説中に交わされたアズディニーとのやり取りと、それに関連した7姉妹評議会との微妙な不協和音をマリナは手短に説明した。
「なるほどね。いづれこういう局面がくるとは思っていたけれど」
納得して肯くシーリンは続ける。
「7姉妹評議会が中東地域の復権を目論んでいたのは明らかよね。でなければイスラエルと手を組んでまでやったことが、アザディスタンの復興だけなんて、ありえない話だわ。政治家経験の浅いマリナを祭り上げたのも、傀儡政権として御しやすいと考えたのだろうけど、そもそも連邦のアイデアに乗っかっといて、自分の思い通りにしてやろうだなんて虫が良すぎるわ」
苦笑ながらに応じるのはサーミャだ。
「耳が痛い話ですね。だとすれば、今回の買収劇を仕組んだのは評議会である可能性はありませんか?」
「利害関係から考えるとそれはありえないわ。アザディスタンの勢いが削がれるのは、評議会にとっても損にしかならない。方向性は違っても一蓮托生なのよ、評議会は。それにタイミングが遅い。マリナが評議会ともめる前から、彼らは準備していたのよ」
言いながら、シーリンは頭をぽりぽりかく。
「でも早すぎるなー。外的要因の影響が見積もり以上だったのかしら」
いつになく真剣な表情で切り出したのはマリナだった。
「何か分かったのですか?」
それに答えるシーリンは、目の下の隈は変わらないが表情はいくぶんか晴れやかになっていた。
「国家に真の友人はいない、よ」
振り返って、ルイス・ハレヴィを見やる。
シーリンの不敵な笑みに、きょとんとするしかないルイスであった。
射出された4機のジンクスVは、すぐさまシュヴァルムの基本編隊を形成する。
2機編成のロッテが2組でシュヴァルム、これが小隊である。
レーダーには他の艦艇から出撃している6小隊が、すでに展開表示されていた。
ソレスタルビーイングは、単艦運用が主体であるため小回りが利く。哨戒部隊の指揮系統はソレスタルビーイングの反撃よりも逃がしてしまうことを恐れた。
各宙域に展開していた哨戒部隊が急行させたにしては、上出来な戦力だった。
いわゆる包囲作戦による足止めだ。本隊もこちらに向かっている。
イワン曹長は、並んで飛行する僚機を見やる。
いついかなるときも、僚機を視界に入れて作戦を遂行すれば、必ず二人とも無事に帰還できる。
僚機のパイロットはまだ経験が浅く、彼女は熟練パイロットの自覚をもってリードしてきた。
しかし今回は違った。むしろ僚機が足枷にならなければいいが、とも思っている。
もう4年前とは違うのだ。いまやガンダムに負けるとも劣らない性能をもったモビルスーツに乗っているのだ。仲間の復讐は容易いだろう。
だが、それは自分だけではない。
彼女と同じく仲間をガンダムに殺されたパイロットはいくらでもいるのだ。
だからイワン曹長は今回の出撃を幸運に思わずにいられない。千載一遇のこの機会を逃したくなかった。
「やってやる。必ずこの手で仕留めてやる。羽付き、オマエだけは必ず……」
全天スクリーンにアラートが表示され、レーダーに味方機以外のマークが表示された。
一瞬ノイズが走って、レーダー表示が乱される。
不可解な現象、すぐさま原因を推測しようとする、そんな思考すら許さない、それはまさに一瞬の出来事だった。
最大級のアラートが鳴り響く。彼女は反射的に機体を回避軌道させる。
改めてレーダーを見れば、前方で展開していた味方の2個小隊が消滅していた。
ぞわり。
背筋、いや背骨に直接伝うような悪寒。
4年間を経て、久しく忘れていた感覚を思い出す。
突然の出来事に全天スクリーンは膨大な情報を羅列し、インカムの通信は混乱で錯綜する。それでも彼女は直感していた。
これは"デカブツ"の攻撃だ。
戦慄に思考が凍りつく。それでもパイロットとしての本能は身体を動かし、機体に回避行動を取らせ続ける。
『曹長! どうしたんですか?!』
僚機の若い声で我に返ってイワン曹長は通信を開いた。
今のが"デカブツ"のビーム兵器による一掃であれば……、そうだ、"デカブツ"の射程距離であれば、それはスナイパータイプの機体にとって必殺の間合いである。
だから僚機にも回避行動を指示しなくては。
しかし次の瞬間、全天スクリーンの半分が光に包まれる。僚機のジンクスVが爆散したのだ。
イワン曹長は呆然とする。それでも身体はモビルスーツに回避行動を続けさせ、目はスクリーンの情報を追い、脳はレーダーの状況を解析している。
さきほどの2個小隊に続いて1個小隊が消えていた。
この数瞬のうちに10機以上のモビルスーツが撃破されていた。
人革連から連邦軍へ、そしてアロウズ。彼我の戦力はガンダムを凌駕していると思っていた。だが、実際に対峙してみて肌で感じるのは、4年前と同じ感覚だった。
絶望的で圧倒的な暴力。10機以上のモビルスーツが一瞬で破壊されるなど常識的にありえないのだ。
イワン曹長は、部隊の指揮系統に後退を進言しようとする。相手を足止めする目的で先行した部隊であるから、このような先制攻撃で編成が乱されているようでは、任務はすでに失敗している。
あげく混乱で浮き足立った部隊など、いい標的にしかならない。無駄に消耗していくだけだ。
彼女の思考は熟練パイロットにふさわしい冷静さだった。
だが、このとき彼女は目撃する。
すでに前線との距離が近くなっていて、ビーム光や炸裂する閃きが見える。戦端がひらかれているのだ。
その渦中で、イワン曹長は"羽付き"を見つけた。機体形状は違っているかもしれない。だが、オレンジと白のふざけたツートンカラーは見間違えるはずもない。
セルゲイ・スミルノフ中佐やソーマ・ピーリス少尉を助けるべく、ミン中尉は"羽付き"に撃破された。聞けば凄絶な最期だったという
一瞬でイワン曹長の思考は沸点に達する。
気づけばイワン曹長のジンクスVは、"羽付き"、ソレスタルビーイングではアリオスと称されるガンダムに肉迫していた。
巡航形態のアリオスに追従できてしまうのは、彼女のパイロット経験による極力無駄を省いた軌道が成せる技である。
たとえ彼我の戦力差が絶望的であったとしても、この機会を逃すわけにはいかない。
スミルノフ中佐は去り、ピーリス少尉はすでに居ない。もう仇討ちできるのは自分しかいないのだ。その執念が驚異的な軌道を実践させたのだ。
もちろん精神論だけではない。"羽付き"の軌道は、鹵獲しそこねたキュリオスから収拾したデータや過去の戦闘分析から予測した軌道と合致する。
彼女は内心で勝機を感じ取る。激しい軌道からともなうGに内臓を攪拌されながらも凄絶な形相で笑みを浮かべる。
「いける!」
戦闘分析によれば、距離をつめられた"羽付き"は高い確率で変形する。
予測どおり、人型に変形したアリオスは進行方向を瞬時に逆転するという、常軌を逸した軌道で追撃していたイワン曹長のジンクスVに急接近する。
交差するビームサーベル。
イワン曹長は完全に読みきったと確信した。
「死ねよ、羽付きぃ!」
銃を捨て、もう一方のビームサーベルを抜く。状況は近接戦闘の間合い。アリオスは高機動の特性ゆえに小回りが利かない。背後に肉薄するジンクスVに有利な状況である。
そのとき、接触回線を通して男の下卑た笑い声が聞こえた。
『アニュー、つったか?! てめぇ仕事しろや!』
『は、はい!』
視界の隅をよぎったのは、いるはずのないもう一機のモビルスーツだった。
転進軌道中にアリオスから分離したGNアーチャーである。
「ニコイチ……だと!?」
状況を分析する間もなく、イワン曹長のジンクスVの両腕が吹き飛ばされる。
戦線で突出してしまったイワン曹長は、一転してアリオスとアーチャーの2機を相手にしなくてはならなくなった。
"羽付き"に執心するあまり周囲の戦況を省みなかった彼女の失態である。
驚愕と絶望の中、彼女は死を覚悟する。
ミッドタウンの北端。
コロンバスサークルを望む一等地のビルに、そのオフィスはある。
セントラルパークも望める最上階の1フロア分すべてを占有し、中では人がひしめいている。
そのほとんどが、バンカーやトレーダー、ディーラーたちで占められ、彼らを取り巻くように液晶モニターやホロスクリーンが配置され、主要銘柄やダウ平均、株価チャートといった各市況の最新情報がめまぐるしく表示されては流れていく。
それらデータの推移を眺めつつ取り交わされる彼らの小さなつぶやきは、ともすれば一企業の命運を左右したり、どこかの国家予算の1年分相当の金額が流動していたりする。
小さな「取引」が幾重にも重なって、うねるようなざわめきとなる。さながら取引という脈動が金融市場という生き物を息づかせているかのようだ。
特に、ここ数日におよぶ好調ぶりは、長らく続いた暗澹とした市況を払拭するものだった。
広範囲にわたる適切な資金注入を主体とした経済の立て直し。外貨の安定供給、健全な市況活動の安定化を実現したのは、先日赴任した特別顧問の尽力によるところが大きい。
長らく懸念されていた世界的経済不況が、事実上回避されたのだ。ただし影響範囲は、連邦加盟国地域に言及されるのであるが。
ともあれ、日頃ポーカーフェースを常とするディーラーたちも今日に限ってはどこか穏やかで、そんな彼らが時折、階上の一角を見上げる。
送られる視線には敬意と賞賛の気持ちが込められている。
もし彼らが兵士であれば敬礼で表していただろう。
そこには、彼らを見渡すように設営されたガラス張りの特等席があって、豪奢にしつらえられたデスクには、北米の大手投資銀行JPM特別客員顧問、カティ・マネキンの姿があった。
「攻城戦と同じですよ。ひとたび内側を切り崩してしまえば、あとは脆い。いづれにしろ市場の版図は変わる。あとは好きにすればいいでしょう」
先日顔合わせした連邦準備銀行の委員会の面々に報告を済ませ、ビデオフォンの通話を切った。
シートに背中を預けなおすと、デスク上のモニターを眺める。
アザディスタン王国の第三セクター、マジリフ・インベストメント配下の企業の株価がみるみる下落していく。
反してマネキンが所属する投資信託会社JPMと関連企業はリアルタイムで最高値を更新している。業務種別ごとに企業占有率が塗り変わっていくのは、さながら経済戦争の世界である。
マネキンは片肘をついてモニターを凝視する。
階下で働くディーラーたちは彼女を賞賛する。しかし、当の本人はけっして明るい表情ではない。
「戦争」などと、大げさといわれるかもしれない。
しかし、マネキンは誇張ではないと考える。いやむしろ戦争より悪質だとも思っている。
たとえば、太陽光紛争より数年前、石油燃料によって膨大な資産を生み出していた産業が、突然ゴミになった。産業が死ねば、それに関わる企業が死ぬ。それは帳簿上の概念的な死だけではない。
経済不況時に自殺者が急増する因果関係は明白であるし、今も社会問題となっている。
経済が人を殺す。それはやはり戦争と変わらないのだ。
そこへ、ドタドタと忙しない足音が聞こえ、コーラサワー少尉が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「大佐ぁ! インドのIT企業に逆買収がかけられています!」
「バカモノ! ここでは特別客員顧問だといっているだろう!」
即座に一喝するのだが、入り口に立つコーラサワーは、あっはっはっと笑うだけだ。
すでにお約束と化したやりとりなので深く追求しない。
指揮官としてのゆるぎない表情でマネキンは続ける。
「応戦だ、弾幕(現金)を厚く押し通せ。向こうは最期の抵抗だ。そう持ちはしまい」
全く条件反射のように背筋を正し「ハッ!」と敬礼するコーラサワーは、しかしすぐに相好を崩す。
「いやぁしかし、今回の大佐はイケイケですねぇー」
などといいつつ後ろ頭をボリボリ掻く。
マネキンはシートを回してコーラサワーを正面から見据える。
「少尉、戦術とは複雑な手練手管を駆使すれば良いというわけではない。肝心なのはいかに被害を最小限に止め、効率よく戦果を上げるか、なのだ。たしかに今回実施した方法は単純だ。巨額の資金投資で正面からけしかけただけの、至極一般的な敵対的買収だからな。ただし、規模だけは桁違いだ。一気に畳み掛ける短期決戦は、早い段階で優劣がはっきりすれば敵に手を引かせる口実にもなるし、やり方次第で戦力の消耗を最低限に抑えることができる」
一息おいて彼女は続ける。
「味方はもちろん、敵もだ」
この一言でコーラサワーの表情が和む。
作戦指揮官として優秀なだけでなく、敵への配慮も欠かさないのは、戦いの様々な側面を知っているからであるし、彼女の優しさでもあった。
未熟な生徒にひととおりの講義を終えたマネキンは、デスクに向き直る。
途端、怪訝な声をあげる。
「待て、これはどういうことだ?」
― 続 ―
説明 | ||
順調に復興が進むアザディスタン王国。しかし世界との軋轢が露呈しはじめる。シーリン・バフティヤールが新たな戦場に赴く。マネー・ゲームという名の戦場に。シリアス路線。5話構成。 | ||
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