不可視猛毒のバタフライ (3/3) |
0.571018
8月13日。
一昨日と昨日、同じような夢を見た。
私が名前を呼ぶと、私の言葉が、私の好きな人を吹き飛ばしてしまう。
あまりに夢見が悪過ぎて今日は岡部とはあまり話さないでおこうと思っていた。正直、話すのが怖い。間違うのが怖い。
私の言葉で傷つけてしまうのが怖い。
この「ラボ」もどきを作った厨二病患者。酷い誇大妄想と虚言癖持ちで行きあたりばったりで見栄っ張りでいい加減で適当でヘタレ。けれど、岡部倫太郎の言動は何も変わらないはずなのに私の心は毎日彼へと傾いていく。どんなくだらないことを話していても、助手とかクリスティーナと呼ばれても、私の眼と心は自然と彼に引き寄せられていく。
今日の昼食中、急に岡部はカップめんをすする手を止めた。ほんの30秒、動かず固まっていて、行動ががらりと変わったのはその直後からだった。未来から記憶だけタイムリープしてきたという岡部は、作って以来動かしていないタイムリープマシンの所在を確認し、真剣にまゆりの命を心配し、まゆりが出かけていることを知ると一度ラボから離れた。
しばらくして岡部がラボに連れてきたのは、桐生さんという見知らぬ女性だった。ひどくやつれた様子の彼女にできれば食事を取らせてほしいと私に頼んで、岡部自身は何かの運ばれる先を見届けなければいけないからと、今度は駅の方向へ飛び出していく。不格好に走って行く彼の横顔や白衣の背中を見て、私はなぜ自分が彼を追っていたのかを理解する。
私は、鳳凰院の剥がれた彼が好きで仕方がなかったのだ。
「……彼女?」「違います」
携帯を手にぼんやりと私を見る桐生さんの言葉をきっぱりと否定したら、ごめんなさいと彼女は呟きうつむいた。綺麗な人なのに真っ赤に腫れた目元とやつれた頬がもったいない。岡部の頼みを思い出して冷蔵庫からとりあえずドクペを出して渡すと、桐生さんはのろのろと左手で受け取った。右手には携帯をしっかりと握りしめたまま、口をつけるどころか開けようともしない。
「ここ暑いですし、少しでもいいですから、飲んでください」
このままの状態にしておいたら脱水症状を起こしかねない。少し強く言うと、ラボのソファに座っている桐生さんは携帯を膝の上に大切そうに置いて震える指でペットボトルの封を切る。最初口をつけたときは少しせき込みながら、けれどあっという間に飲みほしてしまったから、私はもう1本冷蔵庫から出して手渡した。
「……あなたは信頼のおける人だって言っていたから」
岡部に炎天下を引っ張られてきた彼女は、ドクペの水分で一気に汗を吹き出しながらささやいた。だから私のことを彼女だと思ったってことなんだろう。桐生さんと私が顔を合わせるのはこれがはじめてのはずなのだけれど、なんとなく、彼女の指先に見覚えがある気がした。
薄暗いラボの中で、ほとんど面識のない人と2人きりで黙っているのはつらい。
「……しんじてたひとに、すてられて」
唐突な彼女の言葉が重すぎてさらにつらくなったけれど、このすっかり生気を失ってしまった人の話を聞いてあげなければ、そのまま彼女の命が消えてしまいそうな気もする。
「……凄く好きだった、から、捨てられた、なんて、信じられ、なくて。」
私より年上のお姉さんが、隣で大粒の涙を浮かべてうつむいているのがとても痛々しかった。岡部も、こんな彼女をそのまま放っておくことがどうしてもできなくて、ラボまで連れてきたのだろう。ハンカチを渡すと桐生さんは顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣きだし、私は隣に座って桐生さんの肩に少しもたれかかる。こんなときは誰かの体温が必要だから。
聞こえないほど小さな言葉とともに涙を流し続けている彼女の横で思う。
好きって気持ちは、こわいものよね。
もし私だったら、どうなるのかな。
好きな人に、捨てられてしまったら。
0.570998
8月18日。
岡部が未来からタイムリープしてきてから7日目に、まゆりが死んだ。
まゆりと岡部は飛行機で一度アメリカに向かい、戻りに日付変更線を越えることで彼女の死の時間を越えるはずだった。けれど彼女は日本時間の8月17日に心臓発作で息をひきとった。亡骸とともに戻ってきた岡部は、悲嘆に暮れるまゆりの両親に冷たくなってしまった彼女を託してラボに戻ってきた。
この数日ほとんど寝ていない隈のひどい目、絶望に染まった瞳、淡々とした態度。たぶん一度の失敗でこんな風にはならない。何度も挑戦して失敗し、内心諦めかけているのだろうと思う。このままでは運命は必ずまゆりを殺す。そしてそのことに、岡部は絶望し続ける。
「……次はどうすればいい」
外はもう暗い。蛍光灯の頼りない明かりの下、ソファーに座った岡部が私を見上げながら呟いた。彼はまだ諦めていない。もう一度タイムリープしてまゆりを救うつもりなのだ。このまま何度繰り返してもその結果は空しく終わることが決まっているのに。
「ねえ岡部、もう、諦めよう?」
私が言うと、岡部の落ちくぼんだ目が更なる絶望に染まった。私は、まゆりが死んだと連絡を受けてからずっと言おうと考えていた言葉を続ける。「まゆりの死を避ける手段がないことくらい、岡部自身が気づいているんでしょ? 未来のことなんかどうでもいい。私はもう、岡部に無理をしてほしくない」
「……紅莉栖、お前がそれを言うのか!?」
即座に立ちあがった岡部は、私を睨んだ。目が赤い。涙がにじんでいる。唇を噛みしめて、強く握りしめられた拳が震えている。納得できないと彼の全身が叫んでいた。岡部はそこまでまゆりのことが大切なのだ。
私は、岡部がまゆりをあきらめてくれないことに絶望してしまう。
「まゆりを救う手段なんかこの世界線にはないのよ……これ以上無理したら、岡部が壊れてしまう!」
「俺なんか壊れたってかまわない! 俺は!……どうしても、救いたいんだ!!」
だから協力してくれ紅莉栖、と、すがるように岡部は言う。
彼の目も言葉も行動も、全てがもう死んだまゆりのためのもの。それを思い知らされた私の絶望はさらに深まる。この人に私の言葉は絶対に届かない。まゆりがいる限り私は彼の一番になれない。こんなに好きなのに! 彼はタイムリープで私のところから離れてまゆりのところへ行こうとしている。私をこの世界線に置き去りにして。
私のものにならないのなら、いっそ。
岡部がタイムリープしてきた夜から繰り返し見る悪夢は、きっと別の世界線での出来事なのだと思う。私が彼の名前を呼ぶと、なぜか大きなアクシデントが起きて岡部は行動不能になり、私の手でタイムリープせざるを得ない状況に陥る……恐らくは強い情動によって、不完全だけれど世界線を越えて、夢というかたちで記憶が継続している。
行動不能になる。タイムリープさせる……もし、私がタイムリープさせなかったら?
岡部を動けなくして、タイムリープマシンを壊してしまえば、彼はもう過去へは戻れないだろう。
未来のディストピアなんかどうでもいい。岡部がここにいてくれさえすれば。
思いに浸っているうちに岡部の姿は部屋から消えていた。勝手に作った合鍵を使って今日の営業を終了したブラウン管工房の42インチの電源を入れに行ったのだろう。私に残された時間はもうわずかしかない……わかっていてもためらってしまう。私の中の良心が言う。本当にそれでいいの? 私はそれで幸せになれるの?
「好きなんだから、仕方ないじゃない」
口に出して自分に言い聞かせた。私は岡部を誰にも渡したくない。今はもういないまゆりにだって。
静かに足音が部屋へと戻ってくる。目を赤くした岡部は私の方を見ることなくラボの奥へと向かう。私がこれまで何度も見送ってきたはずの白衣の背中。この世界から去ろうとする彼に、私は、聞こえないように、小さく呪いの言葉を投げる。
「愛してる、倫太郎」
彼は私の声に振り向いて、そのまま胸を押さえて崩れ落ちた。床に転がってもがく様を静かに見おろす。これで彼は私のもの。もうどこにも行かせない。力なく痙攣する大好きな人をそっと抱きしめると、かすかなささやきが耳元で聞こえた。
「……ごめん……ごめんな……紅莉栖……」
なぜか彼は私にひたすら謝っている。まゆりじゃないの? 意味がわからない。まゆりのためにここまで頑張ってきたんでしょ? なんで私に謝るの。私は、今、自分のわがままであなたを苦しめただけじゃない。
「……俺は……紅莉栖を……助けたいのに……」
そう呟いて涙声が消え言葉は途切れた。意識を失った彼の目は既に閉じられていた。抱きしめていたから、鼓動がどんどん弱まっていくのがわかる。
私は混乱する。
「……私を助けるってどういうこと。まゆりでしょう? あんたがここまで無茶してきたのは、まゆりのためなんでしょう!? なのにどうして私のことが出てくるのかな。ねえ……待ってよ、私そんな話聞いてない!! ねえ!」
岡部からもう言葉は戻って来ない。
私は悲鳴を上げた。
私は間違ったのだ! 呼んではいけなかった! 透明の蝶に気づいてはいけなかった!
倒れた岡部の頭にヘッドセットをかぶせてタイムリープを仕掛ける。まゆりのためでなく私のために心をすり減らしていた岡部を過去へと戻すためにマシンをスタート。ごめんなさい。私はそのままラボから飛び出し靴も履かないままで屋上へと駆け上がる。岡部を吹き飛ばす蝶の夢を消すために。強い情動が他の世界線へ繋がって蝶を広げるならば、今この蝶を脳ごと封印するしかない。屋上。世界はまだ変わらない。もしかしたら岡部がタイムリープしてもこの世界は続くのかもしれない。けれど私の記憶をそのままにしてはおけない。他の世界線の自分に同じことをさせたくない。時間があれば自分の海馬に電極を差し込んで記憶を飛ばせばよかったけれどこの世界はもうすぐ終わる。時間がない。この愚かな自分にできることは、別の世界線の私が決して名を呼ばないように、蝶の夢を痛みで塗りつぶし悪夢に変えることだけ。
私は柵を乗り越えて宙へと飛び込む。そのまま頭から遥か下の地面へと落ちていく。
ごめんなさい岡部。次の私はきっとあなたを救うから……!
一瞬のさかさまの世界。私の脳に急激に近づくアスファルトの路面に、ひらひらと飛ぶ小さな蝶が見えた気がした。
0.571028
8月16日。
2人でずっと、最後のキスをした。
岡部は私のことを何度も何度も呼んで、私も呼び返そうとしたけれどどうしても声が出せなかったから、名前のかわりに唇を返した。
私のためにここまで苦しんでくれたこの人を早く解放してあげたいと、私は心から願っていた。
エピローグ
12月28日。
クリスマスには間に合わなかったけれど、久しぶりに秋葉原に戻ってきた。昨夜の帰国祝いのパーティは、久しぶりに見るみんなが元気そうで、他愛もない会話がすごく楽しくて、本当にうれしかった。
今日はまゆりとダルは明日のコミマに向けて準備があるらしく、私と岡部、2人だけが午前中からラボに来ている。そろそろ何か食いに出ないかと岡部に誘われて、一緒にカレーを食べに行くことになった。
コートを着て、ラボを出て、裏道から中央通りに出て、なかなか変わらない信号を待ってから渡る。冬の風の冷たさで街路樹の銀杏がきれいな黄色に染まっている下を、岡部と2人で、手をつないで歩く。秋葉原の中央通りでリア充っぷりを周囲に見せつけるのは……ここにダルがいたら即座に復唱を要求されるくらい、恥ずかしいけど気持ちがよかった。
「ねえ、岡部」「なんだ、紅莉栖」
「……この世界線は、もう大きな分岐を起こさないと思う?」
「どうだろうな。夏以来世界線の変化は観測していないし、今のところは安定していると思うんだが」
「分岐点でなければ、私たちの行動は世界線に影響しにくくなるわよね」
「シュタインズ・ゲートは何が起こるかわからないらしいから、断言はできないだろうが……もし本当に何かがあるのなら、その前にまずバイト戦士か、未来からのメールが来そうだな」
今のところは大丈夫だろう、と、岡部は苦笑いする。
「……あのね? 岡部」「どうした? 紅莉栖」
勇気を振り絞って、もう一度。
「バランスが悪いと思うの。均等でないのは、美しくない」
「何の話だ?」
「だって、紅莉栖は名前でしょ? でも、岡部は名字だし」
不思議そうな顔の岡部が、少し考えて、口の端を持ち上げて例の邪悪な笑い顔を作る。
「ならば凶真様とでも呼べばいいではないか助手よ」「いやそれは無理」
私に一言で拒否られてぐぬぬとうめく岡部。こんな馬鹿げたやり取りも彼なりの照れ隠しだと知った今は、愛しくて仕方がない。
大きな交差点でUDX方向に曲がる。繋いだ岡部の手に少し力が入った。
「お前も、まゆりやダルのように、呼べばいい……お前に呼ばれるなら、否定はしない」
それは岡部倫太郎としての最大限の妥協なのだろうけれど、
「嫌。まだ均等じゃない」
自分の必死ぶりが正直はずかしすぎても、妥協したくない。いつかはそう呼び合って、幸せになりたいって言ったのは誰だっけ?
「しかし……しかしだな! 俺は自分の名前が正直昔から好きではないのだ……その、鳳凰院のことは抜きにしてもどこか間が抜けているし」
「岡部が間が抜けてるのなんか本当のことじゃない! だから私は呼びたいの。あなたの名前を」
そして彼の名を呼ぶ途中で、急に心が痛くなる。
真実の名前がその人の命を縛るって言ったのは誰? その名で彼を傷つけたのは誰?
朧げな夏の記憶と激しい痛みが蘇り、私の口を途中で縛る。
彼は明神坂ガードの底で立ち止まって、途中で急に口ごもった私をしばらくじっと見て、困った顔で笑った。
「……そうだな。“太郎”がつかないなら、許してやろう」
戻ってきた返事に、私の方が呆然としてしまう。
私は名前を途中まで言いかけた。“太郎”までは言えなかった。彼はそれを聞いて、私がそう呼びたいのだと解釈した。
「ただし! 2人きりでいるときだけだ!! 皆の前では鳳凰院凶真としての面子がだな!……」
いかに自分の名前が昔から嫌いなのかを必死で主張する彼の姿から不意に脳裏に描かれる仮説。ひらめき。
このシュタインズゲートは、岡部倫太郎の存在がなければ成立しなかった世界線だ。まゆりを救い父から私を守ってここに到達するために、過去と未来の岡部倫太郎は壮絶な回数の世界線を繰り返したと聞いた。その結果形成されたであろう莫大な量の並行世界には、それぞれに岡部倫太郎が存在していることになる。
あの夏の終わり、私やまゆリは他世界線での記憶をおぼろげながら保持していた。ごく普通の私たちですらわずかながらも他の世界線の自分に記憶や感情を投射することができるというなら、岡部倫太郎の思念もまた他の世界線へと届くに違いない。記憶を保持したままで世界線を越えることのできる彼の思念は、わずかな情報しか伝達できない私たちと出力の桁が違うのだろうと私は推測していた。受信性能が高い可能性もあったけれど、その結果としての混信を彼が観測した経験がなかったし、思念が強いと考える方がよりシンプルな考え方だったからだ。
世界線を越えるほど強い思念を持った無数の存在が、莫大な世界線の中で、同じようなことを伝達し互いに受信する。
アトラクタフィールドを横断して、意識の有無を問わず、彼自身のこうありたいという無数の願いが届き、貫かれる。
その願いの中に、私に名前で呼ばれたくない、というものが共通して含まれていたとしたら。
タイムリープとは無関係に、それぞれの世界の岡部倫太郎が無意識に強く電波を飛ばし、その電波が世界線の方向を微妙に曲げて、透明な蝶に変わったのだとしたら。
想像してみてほしい。
神様の無意識の願いを叶えるために、敵味方偶然必然を問わず、NGワードが出た瞬間に神様自身をフルボッコにする世界を。
想像した私は思わず吹きだした。
「何考えてるのこの神様……いくら呼ばれたくないからってそこまでやるなんて馬鹿なの死ぬの……いや実際死にかけてた気もするし神様の間抜けぶりに震える!」
「は? 神様?」
彼は、意味がわからない、という顔で肩を震わせて笑っている私を見ている。私は意地悪く、
「あんたがどれだけ名前で呼ばれたくないか、今、すごーくよくわかった気がするわよ、倫太郎!」
彼は私の最後の一言に目を見開き、逃げるように後ずさり……なぜかそのまま湿った路面に足を滑らせて後ろにひっくり返ったから、思い切り爆笑するしかない。
これも透明の蝶の影響なのかもしれない。大分岐から半年離れてしまえば、本来はこの程度のネガティブな偶然に過ぎなかったのかも。名前を呼んだ瞬間に胸の奥に堰を切ったように沸き上がる苦い傷みと感情を吐き出すように私は笑い続けた……涙が出てくる。こんな小さな蝶にたぶん翻弄されていた過去の自分が情けない!
それから、動揺し呆然としながらもよろよろと立ち上がった彼の腕に抱きついてみる。爆笑直後の唐突な行動にものすごく緊張しているみたいだけど、私のために苦しんで、私を救ってくれた人の腕を絶対に離さない。このまま坂を上がって交差点を渡る間だって離さない。
だって私はずっと、どうしようもなくこの神様が大好きで、今はもうその感情を止める必要がないんだから。
「それじゃ早くカレー食べに行きましょ」
そして、頼りない神様が許してくれた、2人だけの新しい真名を呼んだ。
(終)
説明 | ||
シュタインズ・ゲート2次創作。真ENDまでネタバレしていますので、ゲーム全クリア後かアニメ全話視聴後にお読みください。 http://www.tinami.com/view/307783 (1/3) http://www.tinami.com/view/309902 (2/3) の続きです。 支援をありがとうございました! 世界線ごとにちょっとずつ違う牧瀬紅莉栖から見た、岡部倫太郎を繰り返し襲う理不尽な不幸……の終わり。 最後まで読めばほのぼのとしますが、夜明けの前は一番暗い。 |
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