レッド・メモリアル Ep#.10「暗躍」-1 |
国家安全保安局 《ボルベルブイリ》
12:22 P.M.
国家安全保安局にいるセルゲイ・ストロフは、今まさに新たな作戦を指揮しようとしていた。
彼ら、国家安全保安局に勤める捜査官が新たな任務を行う際は、必ず上司の、そして上院議会の承認を必要とする。
ストロフは間違いなく、議会の承認は通ると思っていた。何しろ、これから行おうとしている任務は、『ジュール連邦』と、東側の国々、『WNUA』との戦争になるか否かと言う重大性を秘めている。
そのためには、『チェルノ財団』へと捜査のメスを入れる事が何よりも重要だ。ストロフはすでに『チェルノ財団』の情報を片っ端から集め、更には東側諸国の情報提供者も協力させ、『タレス公国』での軍の捜査の情報も集めていた。
『ジュール連邦』内の慈善団体であるはずの『チェルノ財団』が、『WNUA』側にいる『グリーン・カバー』と手を組み、『タレス公国』を初めとする国々でテロ事件を起こしたのは明白だった。帳簿にずらりと並ぶ膨大な金額の数字がそれを物語っている。
だが『チェルノ財団』と、『ジュール連邦』のテロ事件への関与が少しでも疑われるような事があれば、『WNUA』は戦争を仕掛けてくるだろう。
静かな戦争と言われて来た“静戦”は、軍事行為により途端に世界戦争に変わる。本物の戦争の幕開けになる事ははっきりと分かっていた。
だからストロフはさっさと、『チェルノ財団』を、あくまで『ジュール連邦』が摘発し、テロ事件の関与を認めさせる事によって、事を抑えたかった。
国家安全保安局は、国の安全を保障するためにいる。その捜査官としては当然の義務だったのだ。この保安局に勤めている皆が望んでいる事だ。
だが、
「どういう事ですか?作戦の許可が下りないって!」
安全保安局の副局長のオフィスにストロフの声が響き渡った。彼が提出した作戦実行の書類を前にして、副局長は作戦実行を渋っていた。
「ヤコフ上院議員からの命令だ。『チェルノ財団』に対しての軍事的な干渉は認められない」
と、副局長はきっぱりと言ってのけた。
「そんな事を言っている場合じゃない事は、あなたも分かっているでしょう?」
ストロフが声を荒立てて言った。何しろ今起こっている事は、国際的な問題に発展しているのだ。
議員の命令など実際は無視したっていい。だが副局長はさらに言って来た
「『チェルノ財団』がこの国にどれだけ影響力を持っているかは知っているな?」
そんな事は、ストロフは百も承知だった。『チェルノ財団』の名前は捜査を始めてからはもちろんのこと、それ以前からストロフも心得ている。名前を知らない者など、政府機関にはまずいないだろう。
「ええ、国内最大の慈善団体だ。我々政府の開発計画にも積極的な参加をしている。もし摘発をするとなると、これは大きな問題になるのは間違いないでしょう」
呆れたような口調でストロフは言うが、
「ああ、そして今まで軍事的な介入は一切してこなかった。あくまで慈善団体だからな。影響力は大きいが、軍事的力など本来は皆無なんだよ」
その副局長の言葉に、ストロフは覆いかぶせるようにして反論する。
「だから、国外の『グリーン・カバー』と結託したんでしょう?目的は何も分からない。だが、実際に国外で事を起こしているのは明白です。
私は、この『チェルノ財団』の創設者にして現在の団体代表である、ベロボグ・チェルノに全ての話を聞くつもりです」
と、ストロフはファイルを副局長のデスクに差し出すなり言い放った。開かれたファイルには、大きな写真に一人の男が映っている。
スキンヘッドの長身の男で、細長い、そして威厳を持った顔をしている。年齢は58歳。『スザム共和国』方面のいかつい顔をしている。慈善団体の代表とは言われているが、その風貌は長身と顔つきも相まって、近寄りがたいもののはずだ。
「チェルノは今どこにいるか分かっているのか?」
副局長が、ベロボグ・チェルノの顔写真を持ち上げてストロフに尋ねた。
「それが、奇妙なんですよ。この男は、現在は行方不明になっている。それも1年以上前から姿をくらまし、本職である病院にも姿を現していないのだとか」
ストロフは副局長の表情を伺う。だんだんと相手の雲行きが変わってくるのが分かった。
「病院に張り込み、決定的な証拠を掴む。というのは?」
「もうやらせていますよ。奴の病院に患者として部下を送り込みました。ですがね。私はすぐに軍事行動に移るべきだと思いますよ」
「それは時期尚早だ。もう一度、議員に連絡を取る」
議員に連絡を取ると言う事が、どれだけ時間がかかる事か。ストロフは良く知っていたから、相手を皮肉るしかなかった。
「そうしている間に、『WNUA』に宣戦布告をされないようにしてくださいよ」
もう埒が明かない。そう判断したストロフは副局長の部屋を出た。
あそこまでごり押しができるのも、ストロフが高位の捜査官で、今までの実績も申し分ないためだ。確かにストロフは今まで、国家の安全のために尽くしてきて、実際に多くのテロリストを摘発したし、非能力者でありながら、あの『能力者』達をも押さえ、管理する事が出来ていた。
だから、ここまで言う事ができる。
しかし、今は事が発展しすぎていたのだ。『能力者』もテロリストも超えた範囲で何かが起こっている。
それはストロフにもはっきりと分かっていた。
だから彼には選択の余地は無かったし、いくら副局長が作戦を渋ろうとも、すべきことは決まっていたのだ。
ストロフはある人物へと電話連絡を入れた。
「ああ、どうだ病院の様子は?動きがあったらすぐに知らせろ」
と、電話を入れるストロフは、いい加減苛立っていた。日ごろは冷静に任務をこなすストロフは、何よりもその的確な判断力が売りだったが、戦争を前にした今ではとても落ち着いている事ができないでいた。
(今のところ動きはありません)
電話先から言葉が返ってくる。その言葉を聞くだけでも、ストロフは更に自分が追い詰められているような気がした。
アルタイブルグ チェルノ記念病院
(いいか、どんな些細な事でも良い。『チェルノ財団』に『能力者』がいると言う事を突き止めろ。それだけで私達は動く事ができるんだ)
電話先の言葉を聞き、ストロフの命令でとある病院にいた捜査官は、周囲を見回した。
病院の中では計器が誤作動をするため、電源をオフにしなければならない。と、注意されるだけでも医師達の注意を引いてしまう。
今は計器の誤作動などと言っていられない状況ではあったが、医師達の注意を引かないためにも、その捜査官は周囲を見回した。
とりあえず周辺には医師も、看護師もいない。患者さえも、普段は使われていない建物の裏口付近には姿を見せなかった。
「今のところ動きはありません。ただ…」
(ただ、何だ?)
まるで期待をしていないかのようなストロフの声。しかし捜査官は構わなかった。
「西側の手術室で手術が行われたようです。先ほど病院の予定に探りを入れましたが、今日、手術の予定は入っていません。急患も来ていません」
ストロフの部下は、この国ではごく限られた人間しか持つ事が出来ない、携帯端末に表示された、この病院の予定表を見て言った。
(そうか、怪しい動きがあるようだな。しっかりと探っておけよ。何かあったら、すぐに私の携帯に連絡を入れるんだ)
ストロフはそのように言い放つ。
そして通話は彼の方から切られた。
捜査官は、予定表には載っていない手術が行われたと言う手術室の方へと歩いていく。するとそこからは、移動式のベッドに乗せられた患者が2人、医師達に囲まれて運ばれていく姿があった。
これはもう少し探ってみるべきだぞと、捜査官は思い、行動に移るのだった。
手術を終えた、シャーリが父と呼び、アリエルの父親でもあると言う男と、ミッシェルは手術室のある1階から病院の3階にある個室病室へと移されていった。
父とミッシェル、アリエル、シャーリ、そしてレーシーは、白衣姿の男達にカモフラージュされ、他の病院内の患者や医師に怪しまれないように移動する。
移動している時、今更ながらと言った様子で、アリエルは思った。今、この場にいる者達は、白衣姿の男達を除いて、皆家族なのだ。
皆、血がつながっている。アリエルの父とされる人物は、シャーリの父親でもあったし、レーシーの父親でもあった。アリエルは、父親の血を介してシャーリ達と繋がっているのだ。
もちろん、にわかには信じられない事でもある。突然、目の前のベッドに寝かされた長身の男、まるで老木のような姿になってしまっている男が父親と言われても、すぐに信じることなどできない。
だが、これが本当の現実なのだろうか。アリエルにはまだ心構えができていなかった。
数日前に学校から飛び出して以来、あまりに目まぐるしく色々な事が起こり過ぎている。現実を理解し、受け入れなければならないと、自分自身に言い聞かせているものの、それを上手くする事が出来ないのだ。
シャーリのお父様、そして、彼女によればアリエルの父親は、シャーリとレーシーと共に別室に移っていった。一方、アリエルとミッシェルはシャーリと同じテロリストらしき二人に双方を囲まれ、シャーリ達とは別室に移された。
母はベッドに寝かされ、シャーリはその横で彼女を見守る。テロリスト二人に見張られてしまっていては、あまりに落ち着かない状況ではあったけれども、とりあえず母が生き残ってアリエルにとっては一安心だった。
そして、アリエルはシャーリ達の用事が済んだ以上、しなければならない事があった。今度、彼女はその計画について、頭を巡らせた。
「お父様、御無事で何よりです」
シャーリは実の父に顔を近づけ、静かに彼へと尋ねた。
老木のようになってベッドの上に横たわる彼女の父は、まだ意識が混沌としているらしく、薄眼をあけるだけだ。彼は頭に包帯を巻かれており、まだそこにはうっすらと血がにじんできている。
何しろ手術をしてから1時間ほどしか経っていない、無理も無いのだ。
シャーリは、ぐっと自分の父親の手を握り締めたままだった。お父様は自分が手を握っている事に、すでに気づかれているのだろうか?それに関しては分からなかったけれども、その手を通じてはっきりと伝わってくるものは、親子同士の絆だ。
はっきりと血が繋がり、お互いがお互いの事を想う気持ちが、手を取り合うことではっきりと分かる。
シャーリはお父様の手を握ったまま、まるで抱え込むようにした。
その手や腕さえも枯れ木のようになったお父様は、まだ目を開く事は無い。本当にミッシェルの脳の一部を移植しただけでお父様の体が完治するのだろうか?
いや、疑ってはいけない。お父様の言う言葉は正しいのだ。お父様は必ずや完治するに違いないのだ。
シャーリはお父様が目を覚ますまで、何時間でも待っているつもりだった。
背後からレーシーが近づいてくる
「ねえ。お父様の御病気は治ったの?」
相変わらず緊張感の欠如したような声だった。お父様は今、生と死の間をさまよっているかもしれないのに、レーシーは何とも緊張感が無い声を出すんだろう。
お父様の置かれている状況が分からないとでも言うのか。
「ねえ、シャーリぃ〜」
レーシーが再度言ってくる。あまりに緊張感が抜けてしまったような声は、シャーリの癪にさえ触ってくる
「ええ。治ったはずよ。お父様が言っていたんだから間違いないわ。あんたはあっちへ行っていなさい。うるさいのよ」
苛立ったような声でシャーリは言った。レーシーは血の繋がっていない妹だが、お父様の娘ではある。この緊張感が理解できないのか? 例え彼女が10歳ほどの年齢だったとしても、シャーリにとっては許せなかった。
「何でそんな事を言うのよ!シャーリは!」
レーシーも怒りを露わにしてきた。7歳も年下の義理の妹の癇癪など、本来なら大したことは無い。
だが、レーシーは違った。この娘をいざ怒らせると、とんでもない事をしでかす。彼女の『能力』を知っている以上、この場でレーシーに怒りを解放させるわけにはいかない。
「レーシー。私が悪かったわ。いいから、落ち着きなさい」
「嫌だもん!」
と言うと、レーシーは、シャーリの方に向けて手をかざした。それが何を意味するのかシャーリには分かっていた。
「レーシー!」
再度彼女の名を呼ぶ。だが、意図的に善悪の区別ができないように育てられてしまったこの娘は、義理の姉に向けて、自分の『能力』をぶつけようとしてきている。
だが、その時、
「レーシー! シャーリ! やめなさい!」
ベッドの上から声が響き渡った。しわがれた声ではあったが病室の中にはっきりと響き渡り、レーシーもシャーリもはっとする。
それはベッドの上で横になっているお父様からの声だった。
「お…、お父様…!」
シャーリは思わずつぶやき、お父様の横たわる姿、そして顔へと目を向ける。
「私は、大丈夫だ。止めなさい。姉妹同士で争うのは」
「お父様!」
お父様の言葉を遮るかのようにしてレーシーが彼の体へと飛び込んでいく。彼女がお父様の体に飛び込んでいくと、彼が横たわっているベッドは激しい音を立ててきしんだ。
レーシーは、お父様が目覚めた事に嬉しさを隠せなかった様子だったが、今、お父様がどのような状況にあるのか、分かっているのか。手術を終えて間もない彼は、今、安静にしていなければならないのに。
レーシーはそんな事など構わず、お父様の体に飛び込んでいく。彼女は子供としての体格しかもっていなかったが、お父様は、彼女に飛びかかられたことで思わず呻いた。
「嬉しいぞ、レーシー。そこまで私の事を想ってくれるとはな…」
お父様は苦しく、しかも、今のレーシーの飛びかかりはかなり苦痛にさえ感じたはずだ。だが、そんな苦しさを押し殺し、そのように呟く。
シャーリは黙って見ていられず、レーシーのジュール人形のような服の背中をひっつかむと、彼女の体をベッドから引き剥がした。
「お父様。大丈夫ですか?」
シャーリはお父様の容態を気にする。もしかしたら、今の飛びかかりで骨折でもしてやいないかとひやひやした。
だが、お父様は手を上げて見せて言った。
「私は大丈夫だ。心配するな。シャーリよ…」
お父様がとりあえず無事と知って、シャーリはほっと胸をなでおろした。今の飛びかかりで骨折でもしていたらと思うと、シャーリはいても立ってもいられない。
「お父様…、大丈夫?」
レーシーは心配して再びお父様を見上げた。しかしその前にはシャーリが立ち塞がる。
彼女は何も言わずにただレーシーの姿を見下ろしていた。その眼には、明らかな軽蔑と、憤怒の色があった。
レーシーのせいで、お父様は死にかけたのかもしれないのだ。次に同じような事をレーシーがやったら、例え義理の妹であっても容赦はしないだろう。
それは、シャーリにははっきりと分かっていた事だった。
そんなレーシーを見下ろすシャーリの腕を、お父様が掴んでくる。
「お父様、どうなさいました?」
シャーリは、今度こそレーシーに先を越されまいとお父様に顔を近づけ、彼を気遣うように静かに尋ねた。
「アリエルを…、アリエルをここに連れて来てくれ…」
お父様が発したアリエルと言う言葉。シャーリは戸惑った。自分ではないのか? 何故、アリエルを呼ぶ必要があるんだ。
あんな子を呼んでお父様は一体何をする必要があるのだろう。
シャーリは改めて、アリエルがお父様の娘であると言う事を思い出していた。だが、自分だって、お父様のかけがえの無い娘であるに違いは無いのだ。
何故、アリエルを呼ぶんだ?
一方、別の病室で横たわる義理の母を、ベッド脇の椅子に座って、アリエルはじっと見下ろしていた。
母は、脳の一部を無理に切除されてしまったという。だから、すぐにその意識が戻ってくれるとは思えない。
本人の同意もなしに無理に手術をさせられたのだ。何とも酷い話だとアリエルは思った。こうして今も母の命があるだけでもまだ良い方だ。
今、テロリストが自分達を見張っていなければ、いつでもこの病院から母を連れて脱出してやると言うのに。
力づくでも脱出してやろうか? テロリスト二人ぐらいだったら、アリエルにも倒せる自信があった。何しろ、自分は『能力者』なのだ。常人ではとてもかなわないほどの『能力』を有しているのだから、テロリスト二人くらいならどうにかなるはずだ。
この病室の中はひどい有様になるだろうが、母親のベッドに突っ伏して、眠っている振りか、泣いている振りでもして、テロリストが近づいてきた時を狙い、自分の腕から刃を引き出し倒す。
多分、それだけだったらできるだろう。だが、母はどうしたら良いのか。彼女はまだ頭に包帯を巻かれ、絶対安静の状態だ。
母を連れて脱出しなければならない。それはアリエルにとって絶対の事だった。母と一緒でなければ、脱出しても意味は無いのだ。
シャーリ達も、それを知っているからこそ、部下のテロリスト二人に任せて、自分は父親の方へと向かったのだろう。
今はどうする事も無い。テロリストたちが手出しをして来ない。そして、母親が安静にしていなければならない今のうちは、ただ、機会を狙って待っている事しかできないのだ。
アリエルがそのように思考を巡らせていると、突然、病室の扉が開かれた。
そこに立っていたのはシャーリだった。
「ねえ、アリエル。ちょっと」
と、アリエルに呼びかけてくるシャーリの声は、どことなく苛立っており、攻撃的だった。向こうの部屋で彼女を苛立たせるような事でも起きていたのだろうか?
「な、何?」
アリエルはシャーリの声に警戒心を払いながら答えた。
シャーリは、ミッシェルの横たわるベッドのすぐ脇にいるアリエルに向かって近づいてくる。そして彼女のすぐそばに立つ。
「お父様が呼んでいらっしゃるのよ。すぐに来なさい」
その口調は攻撃的で、無理矢理にでも病室から連れ出していこうという態度を持っていた。
だが、アリエルも嫌だったわけではない。シャーリの父、さらには自分の父と名乗る自分物にはもう一度会っておきたかった。
そして、本当に自分の父親なのか、もう一度確かめておきたかったのだ。
アリエルが再びその男と出会った時、彼はベッドの上で、老木のような姿となっていた。頭には包帯が巻かれており、それだけが手術前と後を区別する唯一の手掛かりだ。老木のような姿の男は、明らかに死期が迫っている事が分かる。
本当に彼は手術によって母の『力』を手に入れ、体を回復させる事なんてできるのだろうか?
「やあ、アリエル。もう一度会えてうれしく思う」
病室に入って行くなり、男はアリエルにそのように言って来た。シャーリの妹、更には自分の妹でもあるとか言う、レーシーと言う少女もそこに一緒にいた。
「あなたが、私のお父さんって…、本当なんですか…?」
アリエルは恐る恐るベッドの上にいる“父”に尋ねた。
彼は少し考える様子を見せた。言葉を選んでいるのか。どのような言葉を選べばアリエルを刺激しないか、と言葉を選んでいるのだろうか?
やがて、“父”は口を開いて言って来た。
「確かに私はお前の父だ。アリエルよ。と言っても、すぐに信じる事は出来ないだろうがね」
と、男は言って来た。その通り、アリエルはまだ彼の事を父だなんて信じる事はできないし、信じるつもりも無かった。
「もし、私の父親だと言うのならば、私を信じさせられるだけのものを見せて!」
アリエルは再度言った。
多分、この男は自分の父親なのだろう。それは薄々感づいていた。だが、シャーリ、つまり別の娘を使って母を拉致し、無理矢理自分の為に手術をしようとした男なんて、とても父親だなんて信じるわけにはいかない。
その考えがアリエルを押しとどめていた。
「なら、お前の母親に聞くと言い。お前の母親は、私の直接の妻ではなく、義理の母親と言う事になるのだが、彼女ならば私がお前の父親であるという事を知っている…」
そこで、“父”と名乗る男は顔をしかめた。本当に手術をして回復しているのだろうか? 逆に手術の後の方が悪くなっていやしないだろうか?
「信じられません!私の、義理だけれども、お母さんを無理矢理手術させた人が、私のお父さんだなんて言われても!」
アリエルは言っていた。
父親ならば、再会する事が出来て喜びを感じる事ができるのが普通だ。だが、この男からは不気味なものしか漂ってこない。この男はあくまで男であって、父親だと思う事はとてもできない。
アリエルを、決定的なものが踏みとどまらせていた。
「何故、何故なんですか?何故、そこまでしてあなたは、自分の命を?自分の為に私のお母さんを利用しただなんて。例えあなたが、私の本当の父親であったとしても、私はあなたを許せません!」
アリエルはまるで頼み込むかのような声でそのように言って来た。だが、“父”と名乗る男は突然アリエルの手を握ってきた。
老木のような腕、そしてしわがれた指は、しっかりとアリエルの手を握って来る。そんな力がどこにあるのかと思えるほど強い力だ。
「私には目的がある。それさえなければ、私も死を受け入れていただろう。だが、この目的のためには、自分の『能力』を使い、病を治す必要があったのだ」
「目的とは何ですか?それと、あなたの『能力』って?」
アリエルは動揺を隠せないままにそのように言った。目の前の男は、アリエルにとっては父親とは思えないほど不気味に映ってしまい、彼女自身、この場所からすぐに離れてしまいたい気分にあったのだ。
ベッドの上に横たわった、非常に弱弱しい姿とはいえ、安心することができない。不気味な雰囲気を醸し出している。
アリエルにとってはそれさえ恐怖だった。
ベッドの上にいる男は言ってくる。
「では、まずは一つずつ話そうか? 何故、君の母親を私の脳の移植に参加させたのか、だが…」
男はゆっくりと口を開く。彼の話す言葉の一つ一つが、アリエルの心に深く突き刺さってくる。
「それは、君の母親が、どのような病をもはねつける抗体を持っているからだよ。君の母親はそうした『能力』を有している事が分かった。彼女の軍歴には、極秘事項だが、確かにそのような『能力』を有しているとの記載があったのでね…。
君も、君の母親には悪い事をしたと思っているが、脳の一部を移植して貰った。特に『能力』に関する部分をね…」
アリエルをじっと見据え、男は言ってくる。彼と視線を合わせていると恐怖が募ってきて、とても視線を合わせ続けることができない。
アリエルは目をそむけて答えた。
「それは、シャーリから聞きました。私の母親の脳の『能力』に関する部分を移植したって。でもそれだけでは」
「納得いかんかね?それはそうだ。ただ『能力』を発揮する部分を移植したからと言って、その『能力』を使いこなせるようになるわけではないのだからね。だから、そこで私が有している『能力』が必要になってくる」
ベッドの上の父と名乗る男の口調が強くなった。
「あなたの、『能力』って?」
アリエルがそう言うと、男は目を見開き、彼女をはっきりと見据えて言って来た。
「私は、他人の『能力』を手に入れる『能力』を有している。どのような『能力』であっても、私はそれを手に入れる事ができるのだ。
方法は簡単。手で相手の頭に触れるだけでよいのだ。しかし、それがある時、突然できなくなった。私は『能力』を手に入れる事はできるが、それは私の脳に新たな部分を作ると言う事でもあったのだ。結果、次々と他人の『能力』を手に入れていった事によって、体はそれを異常と察知し、脳腫瘍が出来上がった。手で触れるだけで他人の『能力』を手に入れると言う事もできなくなってしまったのだ。
ただ、希望はあった。私は長年の研究によって、人間の脳の、どの部分で『能力』を発揮するかと言う事を突き止めた。そして、己の肉体も研究し、私が他人の『能力』をどの部分で発揮していくか、その脳の部分も解明した。
手で触れるだけで他人の『能力』を手に入れられなくなってしまった今は、君のお母さんの力は、脳の一部移植と言う形でしか手に入れられなくなってしまったのだ」
男の言葉を聞き終わって、アリエルは自分の頭の中に巡る考えを整理しようとした。上手くいかず、しばらく時間がかかってしまったが、アリエルはようやく言葉を並べる事ができた。
「それで、あなたは、私のお母さんの『力』を使って、今度は自分の体の中にある病を治していこうと、そういうのですか?」
「ああその通りだ。すまない事に、もう君のお母さんの『能力』ではなく、私の『能力』だがね」
男は何の感情も篭めないかのようにそのように言って来た。
だが、アリエルは、男が何の感情も篭めない事に、感情が高ぶって来るのを感じた。
気が付くと彼女は椅子から立ち上がり、ベッドの上で寝ている男を見下ろして言い放っていた。
「それって、どういう事か分かります?あなたは私のお母さんを傷つけて、脳を奪い取ったんですよ!そんな事が許されると思いますか?」
アリエルがそのように言い放っても、男はじっと彼女を見ているだけだ。男とアリエルを見守るシャーリは、アリエルの背後で警戒心を強めた。
だが、男は手を向け、シャーリに警戒を解くように命じる。
「他人を利用して、自分を生き長らえさせるなんて、そんなひどい事!」
アリエルは断固として男に言い放った。すると、男は更にアリエルの手を掴む力を強め、語気さえも強めて言って来る。
「命までは奪っておらん。人間の脳には、普段使っておらず、その一部を切除しても命に別条はない。だが、その部分こそ『能力』を秘めた部分なのだ。
それに君の母親には、今後手出しをせん。それに、私が自分の命を長らえさせたのは、理由があるからだ。理由が無ければ私もそのような非人道的なことなどせん!」
と言った男の顔は赤くなり、血圧が上昇した事が見て取れた。
「目的って!」
アリエルが呟く。今では、ベッドの上に横になっている男の方が圧倒的に優位に立っているようだった。
明らかに死に瀕している男だが、存在感は圧倒的なものだった。
「目的とは…、この私にしかできない事だ。この私しか、今の世界を変える事はできん…!」
と言ったところで、男は激しくせき込んだ。
本当に病気を治す事などできるのか、アリエルには分からなかった。何も変わっていないのか、逆に悪化していやしないか。
「は?あなた一体何を言っているんですか?」
アリエルには何が何だか分からない様子だった。男から突然出てきた言葉は、アリエルにとってあまりに唐突だった。
男は咳を無理矢理にこらえて、必死になって言ってくる。
「私は…、全ての財産と、今まで築き上げてきた組織を使い、この世界を変えようとした。計画は現在も、進行中だ…!」
と男が言っても、アリエルは何が何だか分からないといった様子で、思わず後ずさる。
そんなアリエルに向かって、男はベッドの中から手を出してきた。
だがアリエルはその男から後ずさりをする。男の存在があまりに恐ろしくてたまらなかった。今すぐこの場から逃げてしまいたい。
だが、アリエルはその背後をシャーリに立ちふさがられ、それ以上後ろに後ずさる事はできなかった。
「あとは、お前が必要なのだ…。アリエルよ。私の娘だからこそできる事があるのだ…」
と男は言い、ベッドから身を乗り出して、アリエルへと手を伸ばしてくる。
アリエルと男は見つめ合う。父親だと言うこの男が、今だに自分の父親であるのかはアリエルには分からなかった。アリエルは混乱の渦中にあり、自分自身でもどのような行動をしたらよいのか分からない。
この男に従うべきか、逃げるべきか、何も分からない。
アリエルが恐怖におびえ、どうしたらよいのか分からないでいると、突然、男の目が大きく見開かれた。
何が起こったのかとアリエルが思うよりも早く、男は突然、全身を痙攣させ、ベッドの上で激しくのたうちまわった。
「お父様?」
レーシーが、きょとんとした表情で言っていた。まるで目の前で起こっている事が何であるのかさっぱりと理解できないようだ。
だが、そうしている間にも男は激しくその体を痙攣させ、まるでベッドの上から転げ落ちそうな勢いである。
「お父様!」
シャーリはアリエルの体を押しのけ、床で痙攣する男の体を押さえつけようとする。アリエルはシャーリによって突き飛ばされ、病室の床に倒れこんでしまった。
「医者を!早く医者を呼んで!」
シャーリが叫んだ。即座に彼女の父親の病室には医師達が入り込んでくる。即座に医師達が今度はシャーリの体を押しのけ、処置を始めようとした。
「ショック状態だ。これを恐れていた。彼の体が、別の脳を受け付けまいと拒絶反応を示している!」
と言ったのは、床で痙攣を続けている男を手術した医師だった。
彼は別の意思と共に男をベッドの上に戻そうとする。医師達の腕の中でも激しく痙攣を続けており、戻すのは一苦労だった。
ベッドに戻された男は医師によって処置が行われようとする。シャーリも医師達の中に混じって行く。彼女は痙攣する男の手を握って言った。
「お父様!お父様!」
シャーリが声を上げ、自分の父親に向かって呼びかける。痙攣の中、彼は酸素マスクを口元に当てられた。
その直前、彼は一言、シャーリに言っていた。シャーリはその言葉をはっきりと耳にし、聞き逃さなかった。
「アリエルを、逃がすな…!我が娘を逃がすなよ…!計画には、彼女が、必要、なのだ…!」
まるで無意識の中から放たれたうわ言のような言葉。だが、シャーリはそれをはっきりとした父親の意思だと受け止めるのだった。
シャーリは背後を振り向く。床に倒れ込んだアリエルだったが、今はそこにはいない。この混乱に乗じて逃げ出したのだ。
まだ病院の中にいるはずだ。
アリエルは容赦をしなかった。
自分を呼び出した男が痙攣を始め、医師達が流れ込んでくるのと同時に、シャーリの隙をついて廊下へと飛び出していた。
養母、ミッシェルがいた病室はすぐ傍にあったから、戻ってくるのは簡単だった。しかし、そこにはシャーリの部下の護衛がいるはずだった。
アリエルは母親の病室にいるその部下達に向かって、病室に入って行くなり自分の腕の体内に仕込まれている刃で切りつけた。
一人の部下はあっという間にアリエルは倒したが、もう一人のシャーリの部下は、銃を抜き放ち、それをベッドの上に横になっているミッシェルへと向けた。
「おい、それ以上近づくんじゃあない!お前のママがどうなってもいいのか?」
と男が言った時だった。突然ベッドからミッシェルが体を起こして、男の体に掴みかかる。銃は床に転がり、ミッシェルは男の体をベッドから押しのける。
アリエルはその男の背後から腕を振り上げて、自分の腕から生えている刃を突き立てた。すると、男はうめいてそのまま床に崩れ落ちる。
「お母さん!大丈夫なの?」
突然ベッドから起き上がった母に対してアリエルは言った。彼女は脳の一部を切除されたと聞いていたから、すぐに起き上がることなどできないだろうと思っていたのだ。
「わ、わたしは大丈夫…。うっ!」
と言ったところで、ミッシェルは大きく体をのけぞらせてベッドの上に戻っていってしまった。
「お母さん!」
アリエルは叫び、母の体を気遣う。ミッシェルは頭に巻かれた包帯の部分を抑え、痛みに呻くような声を上げていた。
そう言えば、医師達は母の頭に穴を開けたと言っていた。それはごく小さな穴だそうだが、包帯に血が滲んできている事からして、その痛みに呻いてしまっているのではないだろうか?
ミッシェルはベッドの上に倒れ込んでしまったまま、動く事も出来ないようだ。アリエルはどうしたものかと周囲を見やる。
母と共にこの場から、今すぐにでも脱出するつもりだったのに。彼女がこんな様子ではそれさえもままならない。
しかも今すぐにでも扉の向こうからシャーリ達が流れ込んできそうだ。彼女に見つかったら、再びこの病室内に監禁されるか、最悪の場合は殺されさえしてしまうだろう。
「お母さん。お母さんしっかりしてよ!ここから脱出しないと!」
とアリエルは母に向かって嘆願するのだが、母は頭を抱えたままアリエルに言った。
「私の事は、どうでも良いから!あなただけでも逃げなさい!」
母の方も必死になってアリエルに言って来た。彼女としてみれば、娘さえ助かれば本望なのだろうけれども、アリエルにとってはそうではなかった。
ミッシェルと自分が揃ってこの場から脱出することで、初めて逃げたと言う事になるのだ。
もはや、母の体を抱えてでも連れ出すしかないと判断したアリエルは、周囲を見回して、何とか脱出の手助けになる物は無いかと探す。
アリエルは、病室の天井にある通気口を見つけた。
その時、ロックをかけた病室の扉の向こうから、激しく蹴ってくる音が聞こえてくる。
「おい、ここを開けろ!我々も手荒なまねはしたくない」
と言うのは、多分シャーリの部下の男の声だ。
幸いな事にシャーリがこの場にいない。さっき、彼女の父親の容態が悪化したようだから、そちらにつきっきりなのだろう。これは好都合だった。
「お母さん! 起きて!」
シャーリは母に向かって言い、彼女の体を起こした。彼女はまだ体がぐったりとしているようだったが、今はそれどころではない。
「開けろ!ここを開けるんだ!」
外ではテロリスト達が扉を激しく叩いている。多分、銃か何かでドアノブを壊そうとしている。
アリエルが外にいるテロリスト達を全員倒してやると言う方法もあった。だが、自分がどこまで持つのか、正直想像もつかない。
母もいる。もし彼女に何かの被害があったら?と思うと、アリエルはとてもこの場で抵抗することなどできなかった。
アリエルは母の体を抱え、通気口のある方向へと向かった。
それから1分もしない後に、テロリスト達はミッシェルの病室の扉を壊し、中へと突入してくるのだった。
アリエルはミッシェルの体を押し上げるようにし、病室の天井裏へと母の体を持ち上げた。それだけでも一苦労だったが、自分の背よりも高い高さを登って、自分の体も天井裏へと持ちあげなければならなかった。
天井裏に達したアリエル。そこは真っ暗で何も見えない。母、ミッシェルが寝かされていたベッドに備え付けられていた、非常用の懐中電灯を使い、ミッシェルは周囲を照らしてみる。とりあえず、人2人分が通ることができるスペースだけはあるようだ。
病室ではシャーリの部下達が激しく扉を蹴り、蹴り破ろうとしている。もう扉は持たないだろう。
彼らが、アリエル達が天井裏を移動している事を気づくよりも前に、できるだけ遠くへと逃げなければならない。
アリエルとミッシェルの体が、天井裏をある程度通過した時、ようやく病室の扉が蹴り破られ、数人の男達がミッシェル達のいた病室へと足を踏み込ませていった。
「お母さん!」
アリエルは前を進む母の事が心配になり、彼女の名を呼び掛ける。とりあえず母は無事だ。だが、天井裏を這って進む母はどことなく力が頼りなく、ゆっくりと進むことしかできていないようである。
病室へと踏み込んできたシャーリの部下達が、どのくらいで、自分とミッシェルが天井裏に逃れたか、分かってしまうのだろう?
1分。いや、もっと短いかもしれない。母のいた病室にはベランダさえ無いし、窓から外へと飛び降りる事も出来ない。逃げるとしたら天井裏しかないのだ。
だが、天井裏のような狭い場所に入りこんでしまえば、男達を十分に巻く事ができる。アリエルはそう判断していたのだ。
シャーリは、容態が急変した父親の最後の命令で、彼の病室を飛び出していた。アリエルはいつの間にか自分達の傍から逃げ出した。
お父様の容態が急変し、わたしが目を離した隙に逃げ出したのだ。シャーリはお父様の命令で何が何でも彼女を見つけなければならない。
だが、容態が急変したお父様が、もしそのまま逝かれてしまったら?
あれだけ想っているお父様の最後の時に、自分はその場にいない事になってしまう。だが、アリエルを逃がしてしまっては、お父様の計画も台無しになる。
シャーリにとってはお父様が何よりも優先する事柄だ。お父様の容態が急変したのは確かな事。だが、医師でも何でもない自分が、お父様の元にいて何ができるのだろう。せいぜい、手を握っていてやることぐらいしかできない。
お父様の事はレーシーに任せよう。彼女もお父様の血を引く者の一人だし、お父様に何かあったとしても、レーシーなら対応できる。
そう、自分はアリエルを追えば良いのだ。
シャーリはショットガンを片手に持ち、駆け足で、アリエルの母、ミッシェルがいるであろう病室の中へと向かった。
案の定、シャーリの部下達が武器を構え、ミッシェルの病室の中へと足を踏み込んでいこうとしているところだった。
「どうなってるの!」
シャーリが苛立った声で部下達に尋ねる。アリエルめ。大人しくしていれば良いものの、全く世話をかけさせる娘だ。
「2人がやられました。どうやら、天井裏から逃げたようです」
ミッシェルのいた病室の中に二人、仲間が倒れている。まるで鋭利なナイフか何かで攻撃されたかのような傷跡だ。
部下達にはアリエルもミッシェルも攻撃するなと命じてある。戦ったとしても、アリエル達は怪我をしていないはずだ。
お父様の命令で、何としてでもアリエル達は、生きたまま、しかも無傷で捕らえなければならない。シャーリは天井を見上げた。
そこは天井裏に通じるパネルが張ってある。一つでもパネルを剥がせば、そこから天井裏に行く事ができるし、天井裏からは、病院の至る所に移動することができるだろう。換気ダクトもあって、それは外へも通じている。
シャーリは舌打ちした。このまま、アリエルを逃がすわけにはいかない。
「病院を封鎖するのよ。特に換気ダクト。病院の設計図でも見取り図でも引っ張り出して来て、通じている場所を徹底的に封鎖するのよ」
シャーリは部下達に背を向けて言い放った。
「病院を、封鎖ですか?しかしそれは」
シャーリの背後で部下の一人が戸惑ったかのように言って来た。
「分かってんのよ。でもね。アリエルを逃がすくらいだったら、病院を封鎖する方がましよ!
今、病室で2人が殺された。殺人犯が病院の中にいるとか何とか言って、さっさと病院を封鎖しなさい。ただ、警察に通報するのは駄目よ。わたし達だけで、病院を封鎖するの!さっさとやんなさい!」
ショットガンの銃口を部下達の方へと向けて、シャーリは言い放った。
「りょ、了解」
部下達は戸惑いつつも行動を始めた。足早にミッシェルの病室から外へと飛び出していく。
病院を封鎖すると言う事。それがどういう事かはシャーリにも分かっている。外から見ればただの民間の病院でしかないこの建物すべてを、武装した私設部隊だけで封鎖しようと言うのだ。
病院の中には普通の入院患者もいるし、外来の患者もいる。あっという間に外部に病院の出来事が知れ渡ってしまうだろう。
だが、やるしかない。アリエルを見つけるためには病院を封鎖しなければならないのだ。
お父様の為にと思い、シャーリはショットガンを握る力を強めると、自分もアリエルを探しに行くため、行動し始めた。
「お母さん。何だか騒がしくなってきたよ」
天井裏に身をひそめるアリエル達は、天井裏を進んでいく道中、俄かに騒がしくなっていた天井裏の下の物音を耳にしていた。
アリエルはミッシェルを先に行かせ、ゆっくりと身を潜めて進んでいこうとする。
天井裏にいるという事はとっくにバレてしまっているのかもしれないけれども、天井裏のどこにいるかと言う事はバレてしまってはいけない。
アリエル達はゆっくりと進む。だが、追っ手は、必ずアリエル達のいる場所を突きとめてくるだろう。
それよりも早く病院を脱出しなければならない。アリエルは分かっていた。
だが、脳の手術をしたばかりの母は、這って進んでいく動きも、まるで亀であるかのようにゆっくりとしていてじれったい。無理をさせる事なんてとてもできなかったが、アリエルは焦っていた。
と、ミッシェルが天井裏を這って行く動きが突然止まる。何かあったのだろうか?
「お母さん。聞こえている?早く進まないと」
アリエルはミッシェルに呼びかけたが、彼女はぴくりとも動こうとしない。
もしかしたら何かがあったのかと、母を心配するアリエル。
さっき、母は脳の手術を受けたばかりだ。そして同じく脳の手術を受け、脳の一部を移植されたというシャーリの父親はその容態が急変した。
もしかしたら、母にも同じような事が起こってしまうのではないか。
「お母さん!大丈夫」
アリエルは、天井裏にも響き渡るような声を発し、母に呼びかける。だが、それは、
「しーっ!静かにしなさい」
というミッシェルの言葉によって遮られた。彼女は物陰にじっと潜むようにして警戒しているだけで、容態が急変したというわけではないようだ。
「一体、どうしたの?」
今度はアリエルが小声になって言った。母の容態が急激に変化したわけではない事を知り、ほっと一安心する。
母は、天井裏に、ほんの少しだけ開いている隙間から下を見下ろしている。どうやらそこからは天井裏下の廊下を伺うことができるようになっているようだ。
「男達がいる。2、3人。とても病院の患者や医師には見えないわね。さっきまで彼らはこの一般病棟の辺りにまではやってきていなかったけれども、今はこっちにもやってきている」
さっきとは、母は脳の手術を受けたばかりで意識も朦朧としていたはず。それなのになぜ、その事を知っているのだろう。アリエルは疑問を持つ。
「ねえ、お母さんどうして、その事を?さっきまでお母さんは意識も朦朧としていたんじゃあ?」
ミッシェルは天井裏の中で顔を上げた。顔を上げる姿が、天井裏に差し込んでくる隙間明りから見える。
「ええ、もちろん意識朦朧としていたわよ。それでも、状況確認だけはしていたの。私も軍人だったからね。その気質って奴かしら」
と言われても、アリエルは関心どころか、逆に母を心配するかのような目で見つめてしまった。アリエルがきょとんとしていると、ミッシェルはどんどん話を進めた。
「どうやら奴らは、この病院の全体にわたし達の捜索網を張ったみたいね。このまま逃げようとしても、出口で捕まるのがオチよ」
「じゃあどうするの?このままここにいても、私達はいずれ捕らえられてしまうだけだよ」
小声ながらも焦ったかのような、アリエルの声。
と、アリエルが言った時だった。突然、暗がりの中に見える母の顔が苦痛にゆがみ、彼女は天井裏の床の上に付く手を震わせてしまっていた。
「お母さん?」
アリエルはまるでそれが信じられない事であるかのように、ミッシェルの顔を見つめる。すると彼女は震える手を頭の位置まで持っていき、更にその痙攣を強めた。
声はかろうじて天井裏の中だけに収まる程度のものだったが、やがてミッシェルは、体をも震わせ、天井裏の床に突っ伏した。
「お母さん!」
たった今まで無事でいたのに、突然母も容態が急変した。アリエルは動揺する。
天井裏の狭い空間で、母の体を揺さぶり始めた。こうした時に、激しく体を動かしてしまってよいものだろうか、いけないのだろうか?アリエルには医学の知識も何も無かったからさっぱり分からない。
「お母さん、お母さん」
天井裏の狭い空間でどうする事も出来ないまま、ただアリエルは母の名前を呼び続けるしかなかった。
《アルタイブルグ》近郊
1:13 P.M.
セルゲイ・ストロフは、黒塗りのSUV車に乗り、ある場所を目指していた。《ボルベルブイリ》を出発し、山間部を抜け、内陸の街へと向かっている。
それも、大勢の部下を引き連れてだ。『ジュール連邦』でも指折りの部隊を無理矢理引っ張り出し、ストロフは今度の作戦に望んでいた。
目標は『チェルノ財団』。彼らが、『タレス公国』側へのテロ攻撃をしたと言う事はまず間違いない。それを制圧に行くのが彼らの目的だった。
『チェルノ財団』は東側の国にテロ攻撃を仕掛けることができるほどの力を有している。しかも、『グリーン・カバー』という大手企業をテロ活動に協力させるほどの影響力さえ持っているのだ。
『チェルノ財団』を一代にして創設した人物、ベロボグ・チェルノの居場所はストロフ達が突き止めた。それは《アルタイブルグ》の『チェルノ財団』が事前目的の為に設立したと言う民間病院。
事もあろうか、『チェルノ財団』は、慈善という本来の目的を利用し、病院にテロ活動の本拠地を構えているのだ。
テロリスト達がどのような悪どい手を使ってこようと、ストロフは構わない。今までにもっと悪どい手段ならばいくらでも見てきたのだから。今更病院をテロ活動の本拠地に使っていようと何であろうと、ストロフは動揺しない。
だが、一つ気にかかっている点があった。
何故、病院なのか?
潜伏することができるような施設やアジトは幾らでも立てることができるはずだ。だが、何故、『チェルノ財団』は病院をアジトに取っているのか。
ストロフは、何度も『チェルノ財団』についての情報を調べさせた。表向きの情報から裏の情報まで。所属している医師や、入院している患者まで全てを調べさせた。
だが、病院として特に不思議な点は無い。『ジュール連邦』や西側の他の国に比べて、非常に発達した医療技術を有している。と言う点は、確かに特筆すべき点だ。
『チェルノ財団』が莫大な資金を有しており、それこそが、『チェルノ財団』の地位を高め、政府からも一目を置かせていると言う事にある。
そして、ストロフは一人の男に着目し、その男についても徹底的に素性を調べさせていた。
ベロボグ・チェルノという人物。この男こそが、チェルノ財団の全てを総括し、たった一代にして全てを築き上げた人物でもある。
経歴を見る限りは特に不審な点は無いと言っていいだろう。この『ジュール連邦』ではもっとも知名度の高い、ボルベルブイリ国立大学の医学部を卒業し、市内の病院に医師として何年も勤務をして、幾つかの賞をもらっている。
特に脳医学の専門家としてその地位を高めた。35歳の時、彼は病院から独立し、自分の病院を立てた。そこから『チェルノ財団』が始まったのである。
元は、現在、ストロフ達が向かっている、《アルタイブルグ》のチェルノ記念病院が全ての始まりだ。その地から次々と系列の病院を『ジュール連邦』国内の主要都市、周辺諸国、更には、西側の国にまで展開をして、莫大な利益を上げ、『チェルノ財団』は巨大化していった。
あの『ゼロ危機』と言われた、人類史上最大の大災厄の時でも、当時発展途上だった『チェルノ財団』はその活躍を見せた。最大の被害をもたらした『NK』そして、《帝国首都》の特別行政区の被災地に数多くの医師団を派遣し、『スザム共和国』における避難民キャンプにも積極的に協力している。
その災厄から23年経った今、『ジュール連邦』国内のどの企業よりも力を付けた『チェルノ財団』が、何故、慈善活動からテロ活動へと移っていったのか。
全ては、ベロボグ・チェルノという人物の思惑なのだろうか。
ベロボグ・チェルノは現在59歳。出身は『スザム共和国』。彼が大学に入る直前に『ジュール連邦』に移住してきている。
彼は長らく独身だったようだが、40歳の時に結婚している。だが、彼が42歳の時、子供ができてすぐに妻が病死している。子供は女児で、今だ生存している。
子供はどうしているのか。生きているとすれば17歳となっている。ちょうど高校生というわけだ。
高校生となったベロボグの娘は、父親がテロ活動を行っている事を知っているのだろうか。
ベロボグの子供のデータに付いてもきちんと、国家安全保安局は抑えていた。《ボルベルブイリ市内》の高校に通っている。特に犯罪歴などは無い。
ストロフ達が調べた限りでは、ベロボグ・チェルノという人物自体には特に問題点はなさそうだった。
だが、『タレス公国』側の調べによれば、確かにこの『チェルノ財団』こそが、西側諸国で多発しているテロ事件の重要な資金ルートになっているのだ。
ベロボグという男の目的は分からない。もしかしたら、ベロボグという男自身さえも、自分の基金から金が漏れ出している事を知らないのではないのか、とも考えた。
だが、それはあり得ないだろう。何しろ、『タレス公国』の首都で町一つが建設できるほどの巨額の金だ。
そんな金が、テロ事件が起こっている今まで漏れ続けていると言う事は、間違いなく、ベロボグという男は、自分の資金が外部に漏れている事を知っている。
そして一連の事件の首謀者である事は間違いない。
ストロフ達はだからこそ、部隊を率いて、『チェルノ財団』の本拠地とされている《アルタイブルグ》の『チェルノ記念病院』へと向かっていた。
『チェルノ財団』ほどの巨大な組織に、政府が手出しをするともなれば、それは決して簡単な事では無い。
ストロフ達の部隊が動くためには、まずは上層部の下す規則に沿って動かなければならない。それに、上院議会からの出動命令が無ければ動く事も出来ない。もしそれに従わなければ、責任を問われるのはストロフであり、国家安全保安局自体の信用を落としてしまう事にもなる。あくまで、国安保局は政府の組織であり、『ジュール連邦』の政府そのものなのだ。
特に今回の事件のように、『タレス公国』にまで跨る事件であった場合は、議会の命令がなければ、ストロフ達は闇雲に動く事さえできない。
何しろ、これは戦争沙汰になるかもしれない事だからだ。
『タレス公国側』そして、『WNUA』は、ここ数カ月の間に起こってきたテロ事件を、『ジュール連邦側』が引き起こしたものだとすでに証拠を上げてきている。
あってはならない事は、その証拠自体が、『ジュール連邦』政府と、『チェルノ財団』を結びつけてしまう事だ。
『チェルノ財団』を、ストロフ達『ジュール連邦』の政府が摘発し、制圧し、テロ活動を止めさせることができれば、戦争を食い止めることができる。
上院議員達が重い腰を上げたのは、もし西側『WNUA』側と戦争になるような事になれば、まず勝つことができない事を分かっているからだろう。
ストロフもそれは理解している。現在の国の財政状態や、軍の力は、『WNUA』側に比べてみればかなり劣る。
つまり、戦争を引き起こす事は、その戦争の負けを意味し、この国自体の崩壊をも意味している。政府に身を置いている以上、ストロフにとって、それは何としても避けなければならなかった。
東側諸国に巨大な影響力を持ち、今だその支配と共産主義勢力を有しているのだと言う事を、国民や周辺国家に誇示し続けることが、『ジュール連邦』の役割だ。
それを、国内の組織一つによって覆されることなどあってはならない。
《アルタイブルグ》に入ったストロフ達。彼らは政府のSUV車に乗り込み、部隊隊員達と共に街並みの中を進んでいく。
この街の住人は、自分達の街の中にテロリスト達がいると言う事を知らない。しかもそのテロリストのアジトが病院などとなっては、一般人にとってはテロ活動の存在など、知る由もない。
《アルタイブルグ》に入り、車を進めていくストロフ達のSUV車の中で、突然、彼の携帯電話の呼び出しが鳴った。
ストロフは他の部隊員と同じようにSUV車の後部座席に詰めていたが、部下に会話を聞かれていようと構わず、呼び出しに出た。
かかってきた電話は、ストロフの上司である、国家安全保安局の副局長だった。
ストロフは音声のみの通話をするべく、携帯電話を耳に押し当てた。
「ストロフ捜査官。君は部隊を総動員して、『チェルノ財団』の摘発に乗り出そうとしているようだな?」
何の前置きも無しに副局長は言ってくる。その事に関しては彼と何度も会話をしたはずだ。今更何度も持ち返される動議はない。
「ええ、『タレス公国』他、『WNUA』側はすでに臨戦態勢です。もし、『チェルノ財団』が西側でこれ以上テロ攻撃を続けさせるならば、『WNUA』は私達を敵としてみなすでしょう。いいえ、もう見なしている!」
だからこそこうして完全武装で『チェルノ財団』に乗り込もうとしているんじゃあないかと、ストロフは言葉をつけ加えたかった。
(だがな、君が提出した作戦司令によれば、『チェルノ財団』の本拠地は民間の病院じゃあないか。もし一般に被害が出るような事があれば…)
またしても、『チェルノ財団』への捜索活動に難色を示す副局長にやれやれ、とストロフは思う。
理由は分かっている。『チェルノ財団』は、政府に対しても影響力を持つほどの組織だ。上院議会の何人かは、『チェルノ財団』を擁護しようとしているのだろう。中には金で買収されている議員もいるのかもしれない。
その議員から、副局長は圧力をかけられている。
そしてもしかしたら、副局長さえも、『チェルノ財団』から買収されているかもしれなかったのだ。
とはいえ、ストロフは副局長の命令を無視してまで、『チェルノ財団』摘発の任務を遂行するつもりは無かった。だから何としてでも彼に、今回の任務のゴーサインは出させた。
しかし内心、ストロフは彼をも疑っていた。
「一般への被害は最小限に抑えるつもりです」
とりあえずストロフは副局長の命令に答える。だが、
(君の作戦司令によれば、空爆命令を軍に出しているぞ)
副局長は信じられないというような口調で言って来る。
「ええ、空爆命令は出しましたよ。ただ、それは最後の手段です。いいですか?相手はテロリストなんです。脱税をしているとか、そう言ったレベルの話じゃあない。ヘタをしたら戦争になるかもしれない。我々はそんな状況下にいるんですよ」
(ああ、分かっているさ。だが、もし一般への被害が出たりしたら、その責任は君が取るんだぞ。分かっているな?)
その副局長の言葉にストロフは半ばあきれたかのように答えた。
「戦争が始まったら、責任何て言っていられませんよ」
と言ってストロフは自分から電話を切った。どうせ、これ以上会話をしてもロクな答えが返ってこないだろう。それに、作戦司令はすでに降りている。
撤退命令が出ていないのならば、自分達は行動するだけだ。
ストロフは電話機をしまい、SUV車車内にいる部下達を一瞥して言った。
「いいか。上司の命令に逆らえとは言わん。だが、上の連中や、議会の連中は現場と言うものを知らない。上から何と言われていようと、我々はこの任務を成功させる。それが、戦争回避に繋がるんだ」
部下達はストロフの言葉に呼応するかのように頷いた。
さすが、国家安全保安局が保持している特殊部隊だけある。軍から引き抜いた兵士もいれば、警察の特殊部隊にいた者もいる。戦闘技術は申し分ないし、上からの命令には絶対服従だ。
その彼らを指揮し、同時に議会からの命令にも従わなければならない自分は、果たしてどちら側の人間であろうな、とストロフは思う。
しかし、今自分がすべきことは決まっていた。
一連の事件の黒幕、ベロボグ・チェルノを確保することだ。できれば生かして捕らえたい。
「お母さん!お母さん!しっかりして!」
アリエルは必死になって母に呼びかけ、彼女の容態を気遣う。二人は病院の天井裏にいたままで、アリエルの目の前で、ミッシェルは全く反応が無くなってしまった。
はっとしてアリエルは天井裏の隙間から、下の病院の廊下を覗きこんだ。
ほっと安心するアリエル。今、思わず大きな声を出し過ぎてしまったのではないかと思ったからだ。
今、天井裏の下には、アリエルとミッシェルを探し出そうとしている者は誰一人もいない。シャーリの部下達の姿も見られないし、病院の医者も患者も見られない。
だから、今、思わずアリエルが出してしまった大きな声も聞きとられてはいないだろう。
だが、アリエルの心配は募った。母に呼びかけても一切反応が無い。天井裏の暗い中では、母の顔色をうかがう事もできないし、容態さえも分からない。
まさか、と思い、アリエルは天井裏で大きな音が立ってしまうのを承知で、素早く母の体を乗り越えていく。
まるで這って進んでいくように天井裏の狭い隙間を、先に進ませていたミッシェルよりも前に出たアリエルは、彼女の顔色を伺った。
暗がりで顔は良く見えない。だが、呼吸はしている。弱弱しい音ではあったが、確かにミッシェルは呼吸を続けていた。
「大丈夫、私は、大丈夫」
続いてアリエルの耳元で聞こえてきた母の声で、彼女はほっと一安心した。手術直後の体である母を動かしてしまったせいで、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思ったのだ。
「良かった。本当に、良かった」
アリエルはほっと一安心した。
だが、そんなアリエルをよそに、ミッシェルは言って来た。
「そうでも、無いみたい…。さっきよりも頭痛が酷くなってきている…。もしかしたら、もっと安静にしていなきゃあ、いけないのかもしれない…。何しろ、私は頭に何かされたみたいだから、ね…」
天井裏でひそひそと話してくるミッシェルの声は、確かに何かの痛みにこらえているかのようだった。
無理もない。ミッシェル自身は麻酔で眠っていて知らないはずだったが、アリエルは知っている。彼女は頭に、細いドリルではあったが、確かに脳に達するほどの穴を開けられ、どこかの部分を切除された。
それもその手術はほんの2、3時間前に行われたばかりなのだ。
アリエルも所詮は高校生。手術による肉体の回復がどれほどのものかなどと言う事は知らないし、母ミッシェルの脳にどれほどのダメージがあるのかも分からない。
だが、脳の手術を受けたばかりの人間が、こんなには早く体を動かして良いものではないはずだ。
少しでも早く、母を休ませてあげなければならない。できればゆっくりと休むことができる場所だ。
アリエルは再び天井裏にあった排気口から病院の廊下を覗きこむ。アリエルとミッシェルの2人がいるのはどうやら倉庫のような場所らしく、天井下には誰もいない。
ここが、シャーリ達のいないただの病院だったら良かったのに、とアリエルは思わず口を噛みしめた。
「いいのよ、アリエル。わたしの事は…。あなただけ逃げればいいの…」
アリエルのすぐ傍で、その声と共に出される呼吸の音が聞こえるくらいはっきりとした近くで、母の声が聞こえてくる。
「な、何を言っているの。お母さんを置いてなんていけないよ」
アリエルの声が大きくなる。だがそれは今、天井下の倉庫に誰もいないからできる事だ。
「いいえ、私を一緒に連れだそうとしても、きっとわたしはあなたの足手まといになってしまう。この病院からはあなただけが脱出することができればいい。わたしは、奴らに掴待って、適切な処置なりをしてもらえればいいでしょう?」
と、ミッシェルはアリエルに言ってくる。だが、それはアリエルにとって納得ができるような事では無かった。
確かにここは病院だし、もしミッシェルだけ出ていけば、彼女は医師達によって適切な治療を受けさせてもらうことができるかもしれない。
だが、それは本当に“治療”なのだろうか?この病院の医師達はミッシェルの脳に対して、何かをした。
アリエルもその光景は目の当たりにしていたから良く分かっているが、少なくともそれは“治療”などではない事は分かっている。
これ以上、あの医師達。そして、父と名乗ったあの男の前へと母を差し出せば、何を彼女にされるか分かったものでは無かった。
だから、何が何でもアリエルはミッシェルをこの病院から連れ出したかったのだ。
しかしミッシェルは言ってくる。
「わたしをこのままここから連れ出して、一体、どこに連れて行こうと言うの?アリエル?この病院を脱出することができたとしても、わたしを別の病院へと連れて行こうと考えている?それは駄目よ。この病院と…、あの男達が何者か知っているの? 彼らは、政府にも匹敵するほどの力を持ち…、私設の軍隊さえ所有している、巨大組織なのよ。おそらく、わたしが病院に連れ込まれたら…、あっという間に発見されるわね」
母の声がとぎれとぎれに聞こえてくる。おそらく、頭の痛みが増しているのだろう。話しているだけでも辛いのかもしれない。
「でも、私はお母さんをここから連れ出す。今はその事しか考えていない」
アリエルは、確固とした決意と共にそのように言うのだった。
その言葉をミッシェルはどのように思ったのだろうか?アリエルは、母が、何か鼻で笑ったかのように聞こえた。
そんなに滑稽な事を言っただろうか?アリエルは思う。
「でも、どうすれば良いのか、私には分からないよ。ここは病院だけれども、入って来た時と違って、今はまるで要塞のような警備になっているみたい。お母さんを連れてここを脱出することができるっていう自信が私には正直、無い…」
下の倉庫を覗きこむアリエル。その倉庫には今は誰もいないけれども、すぐにでも誰かがやってくるかもしれない。
それはシャーリの部下であっても、病院の医師か看護師であっても駄目だった。この病院にいる誰かに発見されてしまう事で、アリエル達の脱出は失敗する。
「医者か、看護師に変装するとか」
と、呟くアリエル。するとすぐに背後からミッシェルの言葉が帰ってくる。
「駄目ね。あなたのその真っ赤に染めた髪はあまりに目立つし、追っ手達は私達の顔を知っているんだから…」
やはり駄目かとアリエルは思い、再び口を噛みしめた。ここから脱出するにはどうしたら良いのか、さっぱり見当もつかない。
「アリエル…、そこの倉庫…、リネンは置いてある…?」
と、突然、アリエルの後ろから声が聞こえてくる。
「リネン?」
母の声を確かめるかのように、倉庫の中にリネンが置いてあるかどうかを確認するアリエル。
「袋の中に包まれているリネンじゃあなくって、洗濯かご見たいなものに入れられているリネンよ」
アリエルは天井裏の隙間から、母に言われたようなリネンを探し出そうとするが、棚の上に置かれているものは、ビニールの袋に入れられた、丸められたリネンだけだった。
「いえ、無いけれども」
アリエルは母の思惑がまだ分からないままに答えた。
「そう…。でも、リネンがあるって言う事は、近くにその回収する場所もあるはず…。それを探すわよ…」
ミッシェルはまだ頭が痛むらしく、時々、声を呻かせていたが、天井裏にいる2人は早速行動することにするのだった。
説明 | ||
アリエルは、自分の父の狂気とも取れる姿を目の当たりにし、養母ミッシェルと共に、捕らえられていた病院から脱出しようとしますが、同時に、病院を襲撃してきた制圧部隊も現れてしまい―。 | ||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
993 | 285 | 1 |
タグ | ||
オリジナル SF アクション レッド・メモリアル | ||
エックスPさんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |