地学と私
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1:地学と私

 綺麗だろう、とあの人は言った。

「綺麗だろう。とてもとても、綺麗だろう」

 その手には大きな青い塊。ところどころ金に輝くそれは、きっと瑠璃≪ラピスラズリ≫。

 趣味でしか絵を描かないくせに、あの人の絵はとても精密だ。目の前の石を、綺麗にそのまま、キャンパスに映す。

 正直私にはその石の美しさなど全くわからなかったのだけれど、それをはっきり言ってしまえばあの人の顔が寂しそうに歪むのが分かっていたから、私は神妙に頷いて見せた。

 そうするとあの人は(こちらなど見もせずに)にいっと笑うのだ。とてもとても綺麗に。

「鉱物≪いし≫は地球の細胞であり、地球そのものだからね。この星が美しいのだから、その一部が美しくないはずがない」

 そうとは限らないんじゃないの、と言おうとして、口をつぐむ。

 きっとあの人は、全て見透かしてしまうから。こんな心、見透かされたくはないから。

 

 人も、この星の一部でしょう。それでも、全て美しいと貴方は言うの?

 私は私が、醜いと思う。

 

 それでも、あの人はいつでも私に笑いかけてくれた。

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2:翡翠と私

 ダイヤモンドみたいになりたい、と私は言った。

「それはまた、一体何故?」

 ダイヤモンドみたいに綺麗でとても堅かったら、なーんにも悩まなくっていいのかなって思って。

「ふうむ。確かに金剛石はとても頑強だ。けれど、脆い石でもあるんだよ」

 嘘吐き。もしそうなら、ダイヤモンドは永遠の愛の証、なんて言われないよ。

「雲母、ってわかる?」

 あのうすっぺらいものでしょう。

「そうそう、いつも薄くはがされているものだよ。あれは、とても脆そうに見えるだろう」

 うん。

「ところが、実際はさほど脆くないんだ。

 けれど、へきかい、と呼ばれるものが完全に入っている所為で、あのように薄くはがれてしまう」

 だから?

「ダイヤモンドも同じなんだよ。へきかいが入っていて、ある角度から衝撃が加わると、真っ二つに割れてしまう」

 ……強いくせに弱いのね。

「ぼくは、君には翡翠のような人間になって欲しい」

 わたしが地味だって言いたいの?

「違うよ。翡翠は、細かい結晶が絡み合って固まりになっている。だからとても粘り強いんだ。

 ぼくはきみにはそういう人間になって欲しい。粘り強く、何事も耐え、己の糧に出来る人間に」

 ……そう。それだけ言って、私は、口を閉じた。

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3:瑠璃と私

 紹介したい人がいるのだけれど、とあの人は言った。

「瑠璃さん、っていう人なんだけどね、とても綺麗で、優しくて、ええとその、」

 らしくなく口ごもって、ほっぺを赤く染めて、あの人は続ける。

「とても良い人なんだ。会って、くれない?」

 そんな日がくるのだと、わかっていても辛かった。

 けれど、断れば、あの人はまた寂しそうに顔を歪めるのだろう。それを回避するためだけに、私は頷いて見せた。

 

 きっとその日まで眠れないだろう。やるせないだろう。そう悩んでいたのだけれど、その日は、案外簡単に、すぐに、訪れた。

「はじめまして」

 笑う瑠璃さんは確かに綺麗で、とても優しそうな人だった。

 対する私は仏頂面で、できるだけ悪い印象を与えよう、と努力をしていた。

 髪はとかない。服は地味なスウェット。けれどその姿の私を見ても、あの人は眉一つ動かさずにその人を部屋に入れた。

 あの人は瑠璃さんを入れてすぐに、飲み物を入れてくるね、と部屋を出た。

 私達は二人きりになった。

「あの人の話通りね」

 綺麗に綺麗に笑いながら、その人が言った。

 あの人にとっては、いつも視線を向けていた群晶≪クラスター≫と同じくらいか、もしくはそれ以上に綺麗に写るのだろうか。

 なにを言っていたんですか? と出来るだけ感情を込めずに、返した。声が震えていない自信はなかった。

「自慢の妹だ、っていつもいつも。焼ける位に」

 瞬間的に、目の前が真っ暗になった。

 自慢の妹。自慢の妹? 私が。私が?

 そんなはずはない。閉じこもったまま部屋から出れず、兄の生活の一部に寄生する妹が自慢のはずがない。

「あの人、いつも言っているの。優しくって、優し過ぎて、傷ついてしまう子なんだ、だから自分が守ってあげるんだ、って」

 瑠璃さんの微笑みは変わらず優しいままだ。嘘を言っているようには思えない。

 ならば、嘘をついているのは、兄さん?

「ひとつだけお願いがあるのだけれど」

 腰を折り、瑠璃さんが覗き込むように私を見た。

「あの人の個展に、一緒にいってくれないかしら? 一人じゃ、寂しくって」

 嘘だ。

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4:琥珀と私

 瑠璃さんが帰ると、部屋には私と兄さんだけになった。

 いびつな木の棚の上に並ぶ様々な瓶。試薬を入れる首の太い瓶に、日に弱いものを入れる褐色の瓶。

 瓶の間には、大小の水晶の群晶≪クラスター≫が置いてある。

 穏やかな兄さんの穏やかなアトリエ。

 ところどころニスのはげた、お気に入りの木の机の上に、作っている途中の青絵の具が見える。

 しみ一つない真っ白い乳鉢の中ですり潰される豊かな群青。聖母のマントにのみ許された瑠璃色≪ウルトラマリン≫。私には到底似合わない色。

「ねえ」

 兄さんはこちらも見ずに口を開いた。見れなかっただけかもしれない。

「どうだった?」

 なにを、とは言わないのが憎らしい。けれど憎めない。

 確かに瑠璃さんはとても優しい人だった。

 家から出れない私でも、兄さんの初めての個展に、妹である、家族である私が行かないわけにはいかないと考えていることを見抜いていたのだろう。

 とても優しい声だった。できるならでいいけれど、と、優しく、私に決めさせようとした。

 そんなことしないで欲しかった。

 きなさい、と、一言、強制してもらえたら、私はきっと行けたのに。

 優しい人だったよ、と私は返した。

「でしょう」

 誇らしげに兄さんは微笑む。胸が痛かった。

 兄さんも兄さんだ。一言、ここから出て行け、家に帰れ、と言ってくれたら帰れるのに。優しく私を守るからいけないんだ。

「○○大学の地学科の人でね。学校の先生を目指しているんだって」

 へえ。じゃあ美術の先生を目指してる兄さんとお似合いだね。どうやって出会ったのさ。

 できるだけ軽い口調で、返す。

「一昨年のミネラルフェスタで、たまたま同じ標本を買おうとして、譲り合いになったんだ。

 ぼくはこの石を描きたいだけだから、って言ったら、じゃあ私が買って貴方に貸します、って。

 凄い迫力だったな。その場で連絡先を交換したんだけど、まさか本当に貸してくれるとは思わなかった」

 兄さんの顔が少しだけ、照れくさそうに赤らむ。私は、おもしろいね、と返すので精一杯だった。

「早く描かなきゃーと思ってたんだけど、結構時間がかかっちゃってねえ。

 借りてから数ヶ月経って、“今あの標本はどうなっていますか”、って電話が来て。電話だよ電話。

 “今描いている途中です”って言ったら、“見せてください”、って言われちゃったんだ!」

 少し早口で話す内容は私には欠片も関係ない。

 関係ないはずだけれど、その時の兄さんの困惑が、高揚が、喜びが伝わって、胸が痛むと同時に高鳴った。

 そしてふと、思い出した。

 兄さんの、一番お気に入りの、一番美しい絵。

 “この絵のおかげで個展が開けるんだ”、と、微笑んでいた絵。

 それってもしかして、あの瑠璃≪ラピスラズリ≫の絵? 私は、聞いてしまった。

 すると兄さんは嬉しそうに目を細めて、

「そう! さすが琥珀。ぼくの自慢の妹だけあって、なんでもお見通しだね!」

 そう、返した。

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5:瑪瑙とあの人

 上手くできなくてごめんね、と、瑠璃は謝った。

「いいよ。琥珀がああなのは前からだし。すぐには変われない」

 溜息を吐きながら言うと、瑠璃は表情を変えて、ぼくに顔を近づけた。吐息がかかるほど近い。

「そんなことない。琥珀さんは、外に出たいと思っているはずよ」

「……そうかな」

「そう。でも、少しだけ勇気が足りないの」

 瑠璃の綺麗な顔が離れた。視線は既にぼくから離れ、テーブルの上に置かれた縞瑪瑙に移っていた。

 鉱物≪いし≫を愛する彼女の部屋には、鉱物≪いし≫が溢れている。

 ただ描く対象であり、描いてしまえばそのものへの熱が冷めてしまうぼくとは違い、彼女は手に入ったものを愛し続ける。

 アンティークのような風合いの仕切りつきの木箱に、色つきの綿と一緒に一つ一つ丁寧に鉱物≪いし≫は入れられ、しまわれる。日光に強いものは窓際に飾られたり、一輪挿しの脇を飾る。また、特に気に入ったものは、特別なケースにしまわれ本棚の一角に飾られたり、枕元に置かれたり、彼女の側に置かれる。

 いつも、ぼくが死んだら骨も一緒に入れてくれないかな、と思いながらそれらを眺めている。

 最近お気に入りの、綺麗な縞を描く瑪瑙を、瑠璃の滑らかな白い指が撫ぜた。優しい撫ぜ方だ。

「きっと、出なさい、って強く言えば出てくるでしょう」

「……言ってみる」

「だめ。それじゃあ意味がない」

 瑪瑙を見る瑠璃の目は、とても優しい。けれどその優しい視線は鉱物≪いし≫だけではなくぼくや、見た限りでは琥珀にも向けられるのだから、ぼくは嫉妬などしない。……嘘だ。もう少し、ぼくを見てくれればいいとは思う。

「自分で乗り越えなくちゃ行けないこともある。今、誰かが命令して無理に乗り越えさせたらきっと同じ事を繰り返してしまう。

 琥珀さんなら大丈夫。何があっても、乗り越えてくれるから」

「……どうしてそう言い切れるのさ」

 正直、とても恨みがましい声が出たと思う。自分でもびっくりした。しかし瑠璃はその声に顔色一つ変えずに、優しい目をぼくに移して、綺麗に笑って、こう言った。

「だって貴方の妹じゃない」

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6:蛍石と私

「あら、また会えたわね」

 しれっと瑠璃さんが言うから、私は、言葉をなくしてしまった。

 片手にはたきを持って、頭には三角巾、体にはエプロン、と掃除する気満々の格好で、瑠璃さんは部屋のど真ん中にいた。

 あら、だなんて言葉、ありえない。だってここは兄さんの家だ。家から出れない私がいないはずがない。

 それとも、兄さんはそれを言っていないのだろうか。いやそれはない。なら、嫌味か?

「ごめんなさい、嫌味じゃあないのよ。あの人に、この時間は起きてこないって聞いていたものだから」

 貴女はエスパーか。咄嗟にそう返しそうになって、なんとか口を閉じた。

 瑠璃さんはなんというか、人のテリトリーにずかずかと入ってくる人だ。

 この間もそうだった。引きこもりの妹をいきなり外に誘うだなんて、普通ありえない。

 恋人の妹なのだから私が助けなければ、助けられるはずだ。きっとそう考えている。傲慢な女だ。

 私はなんとかそう決め付けて、出来るだけ憮然とした表情を作った。

「暇なんですね」

 嫌みったらしく言っても、瑠璃さんは笑ったままだった。兄さんの曖昧な笑い方と違うのに、同じか、それ以上に綺麗だ。

「そうなの、暇なの。就職は決まったし、修論の締め切りはまだまだ先だし、あの人は相手をしてくれないし。

 ねえ、代わりに相手をしてくれない?」

 なんのだ、なんの。と返しそうになってやはりなんとか口を閉じる。

 瑠璃さんはにまにまと楽しそうに笑っていた。この人は間違いなく性格が悪い。

「嘘よ。それにしても、この部屋は汚いのね。前来た時から気になっちゃって気になっちゃって……。

 ほら、この蛍石≪フローライト≫を見て。こんなに見事なものに、こーんなに埃を積もらせちゃうなんて。あの人は本当にずぼらねぇ」

「……兄は、描いたら興味をなくす人ですから」

「勿体無い。こんなに綺麗なのに」

 ふ、と手に取った蛍石≪フローライト≫に息を吹きかけた。さいころの様な形をした濃紺の結晶から、白い綿埃が舞った。

 それは窓から入る日光を浴びてきらきらと輝いた。只の埃でも、輝いた。

 

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7:鉱物と私

 

「琥珀、いい名前じゃない」

「そんなことないですよ。昔から虫入りだの太古の生命だのなんだのからかわれましたから」

 ぶすくれながら話す私に、瑠璃さんは微笑を隠さない。同じような名前なのに、この人は、よく似合っている。

 世の中不公平だ、と心の中でだけ呟いた。

「その子はきっと琥珀さんのことが好きだったのね」

「なんで」

「すきでもないのに、貴女の名前が何を指しているか調べたりはしないと思うから」

「……」

「私の名前も、ほら、石からとられてるじゃない?」

 それでも、瑠璃と琥珀では全く違うではないか。

 夜空のように輝く美しい瑠璃と、中に虫が入ると価値が上がる琥珀と。

 なんというか、精神的に、違う。

「昔はちょっと重かったなあ。あんな綺麗な石にはなれない、って、ずっと思ってた」

 どうして、が、言えなかった。その気持ちは痛いほど良く知っている。ずっと、思ってた。いや、ずっと、思っている。

「でも、考えたの。美しい物そのものになる必要なんかない、って。

 父と母は私に美しい名をくれた。でもそれは、より良く育って欲しいという希望の筈なの。

 名前に負けてぺしゃんこになるなんて、それこそ、名前に失礼だわ」

 テーブルの上の瑠璃≪ラピスラズリ≫を優しい手つきで撫ぜながら、遠い目で言う瑠璃さんの視線は私の元にはない。

 きっと、遠くの、別の誰かを、見ている。優しい目で。少しだけ悲しい目で。

「そう考えたら、父と母がどんな気持ちでこの名前をつけたのか気になってね。

 瑠璃≪ラピスラズリ≫を探して、集めて、どんな鉱物≪いし≫なのか調べて……気付いたらこうしていたわ」

「……趣味が実益を兼ねる?」

「ううーん。そういうんじゃないかな」

 薄い唇。少し日に焼けた肌。兄さんとは、対照的な女性。

「きっと、呼ばれていたのよ」

 陽だまりの似合う女性。聖母を包むマントの優しさ。……ああ。

「この石に。……ふたりに」

 

説明
ちょっと前に書いたのを発見した。未完。(10/14更新)
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