少女の航跡 第3章「ルナシメント」 17節「遠雷」 |
《シレーナ・フォート》の地上で民の鎮圧に赴いた、フレアー・コパフィールドはその足で、ピュリアーナ女王の元へと戻っていた。
彼女は王族達のいる、王宮下の避難施設へと案内されていく。そこは、シレーナ・フォート王宮の中でも最も安全とされている施設で、硬い鉄扉と、石壁、更には敵を寄せ付けぬ魔法によって封じられた場所だった。
魔法の力は、大きな陣として、床に描かれていた。その奇妙な紋章はそれ自体はただの模様でしかないが、魔法の力を込める事によって、壁を発生させる事ができる。それは目には見えないが確かに存在する壁であり、敵襲から内部の者を守る事ができるものだ。
フレアーは、その避難施設に入った時から、その魔法の力を確かに感じていた。
その地下の施設は、一種の檻だ。それも、ピュリアーナ女王という翼あるシレーナという鳥を閉じ込めている檻である。
だがその檻は、ピュリアーナ女王を外へと出さないためにあるのではなく、彼女自身を守るためにある檻なのだ。
フレアーは、ピュリアーナ女王の側近のシレーナに連れられ、彼女の元へとやってきた。
「フレアー・コパフィールド殿。申し訳なかったな。あなたがした事は、本来ならば、この私がする事だったというのに…」
フレアーが、一時的なピュリアーナ女王の居室に通された時、真っ先に彼女から発せられた言葉は謝罪だった。
「い、いえいえ、そんな事はありません。私がした事は、ただ、一種の魔法による洗脳と言うか、意識を逸らさせただけのようなもので…」
フレアーは思わずピュリアーナ女王にそう言った。普段、威厳もたっぷりに、部下達に命令を下すピュリアーナ女王とは思えない言葉だったからだろう。
ピュリアーナ女王は、狭い部屋の中で、従者達に守られながら、その真っ白な翼をまたたかせている。
彼女がいる部屋は今までいた、女王の部屋に比べれば幾分も狭い。前は日が燦々と照りつけるような部屋にいたのだが、ここは窓が一つも無い。石壁に覆われ、蝋燭の灯りだけが灯っている暗い部屋だ。
それでも、民が避難しているような地下水道を少し改良しただけの場所とは異なり、ピュリアーナ女王の避難場所は、絨毯も敷かれ、彼女の玉座もある。女王の避難場所として備えられていた。
「こうして、このような安全な檻の中にいると、まるで、私も戦いに赴かねばならぬような気がするのだよ。どうかな?」
と、ピュリアーナ女王はフレアーに言って見せた。
フレアーはピュリアーナ女王をじっと見て答える。
「いけません。女王陛下はこの国の命も同然。あなたが戦いに赴く事は、お命を危険にさらすという事です。それに、きっと、彼女達が何とかしてくれます。私達は、こうしてできる限りのことをしているだけで良いんです」
フレアーはそのようにピュリアーナ女王に言った。ピュリアーナ女王は彼女の言葉をどう受け止めたのか、表情を変えなかったので分からない。
「まあ良い。あなたの魔法の力もあって、このしばらく使われていなかった魔方陣も、幾分も強化する事ができたようだからな、感謝している。
あなたの国、『セルティオン』からの援軍も、あなた自身についても」
「はい。我が国の国王陛下に再会した時、そのように伝えておきます」
フレアーはにっこりとした表情を見せて答えた。そんな彼女の姿は、まるで童女のようでさえある。
彼女は歳こそ40を超えるほどだと言っているが、その容姿はどのように見ても子供でしかない。
そんな姿でも、彼女は暴徒と化しつつあった民を静め、ピュリアーナ女王に感謝すらされている。
だが、私は。こんな中、私ができる事など無いのだろうか?
私も、そこにいた。ちょうど、ロベルト達を収監するのを見届け、私がその事を直接ピュリアーナ女王に報告しに来た所だったのだ。
しかし、私にする事ができるのは、ピュリアーナ女王に報告する事、ただそれだけのことしかできないのだろうか。
フレアーでさえ、ピュリアーナ女王の役に立ったと言うのに。そして、カテリーナやルージェラ達は、最前線で戦おうとしている。
私はこのまま何もできないまま、戦いの中へと呑み込まれていくだけなのだろうか。
私が、ピュリアーナ女王の避難場所でそう思っていた時の事だった。突然、入口の重々しい鉄扉が、フレアーに続いて再び開かれ、そこに物々しい武装をした兵士が現れた。
彼は突然やってきて、突然、ピュリアーナ女王に向かって声を上げた。
「大変です。ピュリアーナ女王陛下!国家反逆罪で捕らえていました、ロベルトと、カイロスなる男二人が、牢獄から脱走しました!更に、あのディオクレアヌも!」
私は部屋の中に響き渡ったその言葉を初め、理解することができなかった。
ロベルトとカイロスという言葉だけが、鎚のように私の頭を叩いた。ただそれだけのようにしか聞こえなかった。
「何だと!見張りは何をやっていた?」
私よりも頭の回転が数倍速かったのか、ピュリアーナ女王は言い放つ。私も、彼女に続いて、部屋に入って来た兵士の言った言葉を理解した。
ロベルトとカイロスは牢獄に入れられ、私はそれを見届け、たった今、女王に報告しに来たばかりなのだ。
彼らは収監されたばかりなのに、ついさっき、牢獄の中に入れられたばかりだというのに、もう脱獄してしまったと言うのか。更にディオクレアヌまで脱獄したという。あの、1年前までは堂々とこの国に宣戦布告していたあの男だ。
「それが、牢獄にはしっかりと錠が下りていたのに、忽然と姿を消してしまったのです」
忽然と姿を消した。その言葉が私の頭を再び刺激した。そして、1年ほど前に起こった光景が思い浮かぶ。
ロベルトは、私の見ている目の前で、カテリーナを連れ去った。その時も、ロベルトは黒い煙に包まれるかのようにして、忽然と姿を消してしまった。
もしかしたらあの時と同じようにして、ロベルトも、カイロスも、更にはディオクレアヌも脱獄してしまったのではないだろうか?
一体、何の為に。彼らは今、この《シレーナ・フォート》に何が起こっているか、そして何が迫っているかを知っているはずだ。
もしかしたら、何かをするために脱獄したのではないだろうか。
私が頭の中で考えを巡らせる中、ピュリアーナ女王は、早くも報告しに来た兵士に命令を下していた。
「よもや、奴らは、何かをしでかそうと、脱獄したのではあるまいな?ディオクレアヌなど、この国の最大の反逆者の一人だぞ!すぐに捜索させろ。避難民の中。下水道の中、そして、空家の中まで全てだ。くまなく探せ!」
「はっ!」
まるで落雷に撃たれたかのように、部屋に入って来た兵士は命令に突き動かされる。彼はそそくさとその場を出て行った。
そんな兵士の後姿を見て、私は思いを口にした。ピュリアーナ女王の前に跪き、自分の精一杯の存在を見せて言った。
「その命令。この私にも協力させて下さい!」
私は声を上げて言っていた。
ピュリアーナ女王だけでは無い、フレアーも、この部屋の中にいる兵士達皆が、私達の方に向かって目線を向けてくる。
果たして彼女らはどのように私を見たのか。年端も行かぬ小娘が何を言っているのだろうかと、思ったのだろうか。
「ブラダマンテ・オーランド殿。あなたもご存知だろう…。この私達の頭上にある都市は、ものの数時間後には戦場と化すかも知れぬ…。奴らはそこへ逃げたのかもしれない。あなたは、そんな危険な場所に自ら赴くのか?」
ピュリアーナ女王の言葉はどことなく冷たい響きを持っている。まるでその響きはこの私を試しているかのようだ。
その試しとは一体何なのだろうか。この私の覚悟を試しているかのようだ。私がただ、勢いと感情だけで言葉を発したのではない。そんな事を試しているかのようだ。
だが、もちろんそんな事は無い。勢い、感情、そんなもので私は突き動かされているのではない。
「私は、ロベルトさんを良く知っています。彼がどこに行くのかも、分かるかもしれません。ですから…」
それは本当の事だ。そして、私だけが知り、ピュリアーナ女王や皆の為に役立てる事なのだ。
「良い。ならば、遠き『ハイデベルグ』からの客人であるあなたに、お願いをするとしよう。だが脱獄した者達を、探しに行く、行かないはあなたの勝手だ。止めはしないし、命令もしない」
ピュリアーナ女王はそのように言う。確かに女王の言う通り、私がこれからしようとしている事は、私自身の意志なのだ。
「はい、承知しました」
私がピュリアーナ女王に向かって言ったその言葉は、私自身に対しての答えでもあった。
ロベルトとカイロスは、まんまと《シレーナ・フォート王宮》の地下牢から脱獄すると、迷路のような《シレーナ・フォート》の街の中に身を隠していた。
彼らは長年の経験から、町中に配備された兵士達を交わす手段を心得ていた。それはどんな者達よりも洗練されており、彼らはあたかも影、それ以上の姿さえも消え去ってしまった存在であるかのようだ。
しかも彼らは2人では無かった。もう一人の男がそこにいた。
人気の無い無人の時計塔の中を、彼らは階段を登っていっていた。カビ臭く、埃の漂う空気の中で、3人はゆっくりと時計塔の上を登っていく。
時計塔は延々と続いて行く、非常に長い階段のようだったが、彼らは焦らず、確実に木でできた階段を登っていた。木が軋み、音を立て、それは大きな音となって時計塔の中に響き渡る。
「あんたが助けてくれるとは、よほどの事が起ころうとしているんだな?」
最も後方を歩くカイロスが口を開いた。
「お前達を助けたのは他でも無い。仲間だからな。あのまま地下牢の中に閉じ込められていたら、お前達は死ぬ。この街にいては危険なのだ」
そう言ったのはもっとも先頭を歩くハデスだった。ハデスは、ゆっくりと木の階段を踏みしめ、登って行く。
「我々は、一度お前達を裏切った身だぞ。私達を助けると言う事は、即ち、あの方をも裏切る事になるんだぞ」
真中を歩くロベルトが言った。
「勘違いするな。私は、カテリーナ・フォルトゥーナを連れ戻しに来た。お前達を助けたのは、ついでだ。お前達裏切り者を、ただの巻き添えなどで死なすわけにはいかんのでな。あの方も喜ばん」
ハデスは何の感情も篭っていないかのような声で言った。その言葉は冷たく、そして鋭く光っている。
「あの方は、やはり、もう扉を開くつもりでいるのか?」
と、ロベルトが尋ねる。
「その通り。あの方は、すでに扉を開こうとしている。すでにこの地を中心に全てが歪み始め、時や空間は暗礁に乗り上げようとしている。全てが崩れ落ちようとしているのだ。
それを、この地にいる者達は理解していない。我々と違って感覚が無いから理解することができないのだ。もし、知る事ができるのならば、それはカテリーナ・フォルトゥーナぐらいだろう」
ハデスが更に階段を登りながら口を開いた。彼はまるで幽霊のように木の階段の上でも、音を立てずに歩いていた。
「彼女は、何が起こるか分かっているのに、街の外に行っちまったのか?」
カイロスが背後から尋ねた。
「ああ、その通りだ。それがあの方のやり方だ。この街を無に帰す。カテリーナも手に入れる。その二つを手に入れるやり方だ」
そのようにハデスは言うと、やがて時計塔の最上部にまでやって来た。
時計塔の最上部は、そのまま木の階段が塔の屋上にまで繋がっていて、屋上に出る事ができるようになっていた。
屋上では強い風が吹いていた。それはさながら嵐のようであり、雨は降ってきていなかったが、すでに空は暗くなってきており、いつ雨が降ってきてもおかしくないような状態にあった。
風は音を立てて、ハデス、ロベルト、そしてカイロスの間を吹き抜けていく。時計塔の頂上の木の柵が音を立てていた。
時計塔の屋上からは、《シレーナ・フォート》の街並みの全てを望む事ができるようになっていた。街は重き暗い雲の中に沈み込むかのような光景を見せている。
「彼らは?」
時計塔の頂上に着くなり、ロベルトが尋ねた。時計塔の頂上には、2人の男女がいた。一人の男はずんぐりとした体型で頭は禿げあがり、煤や埃でその服装が汚れており、あたかも浮浪者のようだった。
彼は、嫌悪とも言える眼差しをロベルト達に向けており、今にも噛みついて来そうな姿だった。
もう一人は、真紅の甲冑を纏い、更に兜をかぶっている女だった。その女は、まるで浮浪者のような姿の男に付き従うかのように側に立っていた。直立不動の姿勢で、浮浪者のような男の従者であるかのようだった。
ハデスはその二人の男女をじっと見つめた後、口を開いた。
「我々の協力者だ。一度は離反したが、また協力して貰う事にする」
ハデスがそのように言った時、ずんぐりとした男の方が言い放った。
「あんたらに協力するなんて言った覚えはないぞ!」
だがハデスは、
「誰が、処刑される寸前の地下牢から貴様を助けてやったと思う?少しはその恩を返し、己の欲望では無く、人の為に動け、いいな、ディオクレアヌ」
と言い放って彼を一蹴した。その浮浪者の男はディオクレアヌだった。
かつて、一革命軍を築き上げ、西域大陸の軍隊とも渡り合える軍の革命者だった男だが、今では小さな男にしか過ぎなかった。
しかも、ハデスに利用され、今は、部下と言える部下も、側にいる赤き甲冑を纏った女だけだった。
他の者達は全てハデス達によって取り上げられてしまい、彼は自分が、傀儡にしか過ぎない存在である事を思い知らされていた。
だが、ディオクレアヌはカテリーナ達によって国家反逆者として捕らえられた後、《シレーナ・フォート》の重警備地下牢に移動させられ、その後、再び地下牢からハデスによって救出された。ロベルトやカイロスと同じく、ハデスによって救出されたのだ。
「おれは、おれの為に生きる。この国がどうなろうか、知った事じゃあない!」
ハデスに向かってディオクレアヌは言い放った。言われた方のハデスは嫌悪に満ちた眼差しをディオクレアヌへと向け、舌打ちさえした。
「どうするんだ?オレ達の方がよっぽど役に立ってみせるぜ…」
カイロスが言った。ディオクレアヌとは対照的に、その表情には余裕さえ見る事ができるようになっている。
「世界を変えるのだと言っていたな?ディオクレアヌ?
おれは、一兵卒で終わるつもりなどない。女王に使われるだけの、戦争の捨て駒になるつもりなど無い。代わりにこの世界を変える何かをしたい。そう言っていたのではないか?」
ハデスはディオクレアヌを上から見下ろすかのようなまなざしで見つめ、言い放った。ディオクレアヌは、背後からも従者の女に見つめられ、前方からは3人の男達に見つめられ、追い込まれた立場になった。
「決断しろ。ディオクレアヌ。貴様が望んでいた支配者の道とは、欲望の道では無い。幾度も、失敗もできない決断を強いられる、茨の道なのだ。支配者の道を望むのだったら、決断しろ。貴様はわたし達に協力する事によって、再び世界を変える力を手に入れる事ができるのだぞ」
「おれに、何をしろというのだ…?」
ディオクレアヌは顔を背け、追い込まれたかのように自信の無い声で言った。その姿には、かつての革命家としての威厳などどこにもない。
ただのちっぽけな男でしかなかった。
事実、ハデス達にとっては、ディオクレアヌなど革命家でも何でも無い。他の人間より利用しやすい、駒の一つでしか無かった。
何を喚き散らそうと、犬の遠吠えでしかない。
「簡単な事だ。お前は命令すればいい。それだけの事だ。そこの女は、カテリーナ・フォルトゥーナをよく知っている。一種の憎悪の対象だ」
ハデスは赤い甲冑を纏った女の方に目を向けた。女の方も、その兜の面頬を上げ赤い瞳をハデスの方へと向ける。彼女は無表情で、全く表情を変えなかった。
女の名前はナジェーニカ。ディオクレアヌに今だついている数少ない部下の一人だ。ハデスは、ディオクレアヌとナジェーニカとを交互に見るなり、ディオクレアヌに向かって感情の篭っていない声で言い放った。
「その女に時が来たら、こう命令しろ。
カテリーナをしかるべき場所に導くように、とな」
説明 | ||
《シレーナ・フォート》の一大決戦を前にして、ピュリアーナ女王達は都を守るため、、ディオクレアヌ達は、この地から逃れるために動き始めるのでした。 | ||
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