お題:信号機、食パン、地底人 |
微かに甘く香る桜並木の中、おれは食パンを口にくわえながら、学校に向かって全力で走っている。そうしなければ遅刻してしまう時間に家を出たからだ。
今日は新年度の始業式である。となれば転校生の美少女と運命的に出会い、ドタバタ系ラブコメディが始まるのはもはや確定しているようなものだ。
ここで重要なのは、それが実際にありえるか否かではなく、そう信じる心そのものだ。「信じるものは救われる」と聖書にも書いてある。ある警察官は言った。「結果」だけを求めていると人は近道したがるもので、近道したとき真実を見失うかもしれず、やる気もしだいに失せていく。大切なのは『真実に向かおうとする意思』であり、『向かおうとする意思』さえあれば、たとえ今回はフラグに逃げられたとしてもいつかは辿りつくのだと。
本来ならば美少女側の特徴である『パンを口にくわえながら登校』をおれがなぞっているのも、美少女との遭遇に対して『受身』にならず、こちらから『攻める』という、自分に対しての意思表示なのである。
諦めなければ、いつか夢は叶うのだ。おれは夢を諦めたりはしない。
桜並木を抜けたおれは、大きな道路に出た。ここの横断歩道を渡る。
本来ならば道路に沿って北に進む方が、学校へは近道だ。しかし、この道路を渡った先は、入り組んだ住宅街、つまり『曲がり角』が密集する地域なのである。これ以上の説明は不要だろう。
ここの横断歩道は押しボタン式だ。おれは通行人を避けながら信号に近づき、ボタンを押した。
――その瞬間だった。
世界が真っ白に染まるような閃光。一瞬遅れて鼓膜を揺らす轟音。その二つを引き連れて、巨大なドリルが目の前の道路から、地面を砕いて突き出した。
車のクラクションや急ブレーキ音、後続車が玉突き事故を起こす衝突音に、そして数え切れない悲鳴や怒号。様々な音が混ざり合い、そして通り過ぎていく。
おれの目前に広がる光景には、まるで現実感というものがなく、例えるならB級アクション映画のワンシーンのようだった。ドリルは依然として、瓦礫と轟音を撒き散らしながら回転している。
何台かの車はスクラップ同然になり、所々で小さな火が上がっている。ガソリンに引火しないのが奇跡に思えた。反対側の歩道では、車から逃げたドライバーや、軽い怪我をした人たちが、おれと同じようにアホのような顔で突っ立っている。幸いにして、おれの見える範囲では、死人や重症を負った人はいないようだ。いつの間にか食パンが地面に落ちていたことに気がついて、ここはスクリーンの中ではなく、紛れもない現実なのだと、やっと実感する。
しかし実感を得たからと言って、できることに変化があるわけでもなく、呆然と道路の惨状を眺めていると、ドリルの回転がゆっくりと止まった。街は一転して、死んだような静寂に包まれた。誰もが動けずにいる。それはドリルに最も近い距離にいるおれも同じだ。
そうやって、しばらく誰も彼もが手をこまねいていると、前触れもなくドリルに細かいひびが入り、表層が砂のように崩れ落ちた。錆びた鉄の臭いが辺りに充満し、おれの全身に鳥肌が立った。
その中から現れたのは、吸い込まれるような深い黒色をした、厚みのある長方形。滑らかに光を映す広い『面』には、驚くことに傷ひとつなく、荘厳なまでの威圧感を漂わせるその物体は、『2001年宇宙の旅』で観た『モノリス』そのままだった。
『驚く』ことに疲れすら感じながらも、おれはモノリスから目を離すことができなかった。
その姿を見せてから数秒も経たないうちに、モノリスの前面がシャッターのように、金属の擦れる嫌な音を響かせながら少しずつ開きだした。シャッターの奥は完全な真っ暗で、どこまでも続く終わりのないトンネルのように見え、身の毛がよだつ。
その暗闇の中で、『何か』が蠢くのを目で捉えた。おれは思わず息を呑む。
『それ』は『右足』のように見えるものを突き出して、地面を踏みしめた。ただでさえボロボロに崩れているアスファトルトに更なる亀裂が入る。
ついで『左足』、そして、長い『右手』と『左手』が陽の下に晒される。最後に『それ』は、『胴体』と『顔』をぬっと出した。
指先すら動かせずに、おれはただ立ち尽くす。あまりの出来事に脳が拒否反応を起こし、返って冷静に、事態の移り変わりを眺めることができた。
『それ』……いや、『そいつ』は、シルエットだけなら人間に酷似している。だがその体躯は二メートルを超え、肌は全身灰色の薄い毛で包まれていた。人間ならば瞳があるはずの位置は、対に小さく窪んでいるだけ。鼻はあるのかどうかすらわからない。逆に唇は厚く、小さな耳まで裂けている。首に当たる部分には金属の光沢を放つチョーカーのようなものが嵌められていた。
そいつは長い指をチョーカーの上で踊らせる。カチッ、という小さな音が、おれの耳に届いた。
「ワタシハ、『チカ』ノ、『ニンゲン』ダ。ワレワレワ、『チジョウ』ニ『センセンフコ』ヲ、シヨウト、シテイル。ワタシハ、ソレヲ、ツゲニ、キタ。『センシ』デナイモノハ、コロサナイ。ハヤク、トオクニ、キエロ」
チョーカーは一種の拡声装置だったようだ。自称地底人が放ったその言葉は、辺り一帯に響き渡った。だが、それだけだった。
何かしらの反応を予想していたのだろう、地底人は身構えるように、おれや通行人、野次馬を見下ろすが、誰も反応を返さない。
正確には返せないのだ。こんな状況で、とっさに何かできるやつなんて、いるはずがない。
それを悟ったのか、地底人は不愉快そうに喉をいからせて、モノリスの内部を弄くり出した。
――しかし、これはまずい。
突然地上に現れた地底人。そいつは地上に向かって宣戦布告をする。きっと始まるのは世界規模の大戦争だ。あらゆる都市が戦火につつまれ、どちらかが全滅するまで安息の日は訪れない。世界終末へのカウントダウンが開始されるのである。
それは困る。
そうなってしまうと、曲がり角で女の子とぶつかることができないのだ。
おれは怯える心を抑えながら、地底人に向かって叫んだ。
「お、おい! 待ってくれ!」
地底人は、道の真ん中に寝そべる犬にでも見るかのような仕草で、顔をこちらに傾ける。
「キコエナカッタノカ。キエロト、イッタ。ソレトモ、オマエハ、『センシ』カ?」
「違う……けど、待ってくれ! いきなり出てきて、戦争なんて絶対におかしい」
地底人は突然、おれの鼻のすぐ先まで顔を近づけた。その灰毛に覆われた顔の、二つの窪みの奥には青色の宝石が輝いていた。
「オマエ、ワタシガ、コワクハ、ナイノカ」
その声音には、少しだけ『不思議だ』という感情が乗っていたような気がした。おれの心のどこかが、そのとき何故だか、『こいつとなら友達になれる』と直感した。
おれは地底人の顔から目を放さずに、ゆっくりと告げる。
「怖くない。お前は話せるやつだ。おれを殺さないのが何よりの証拠だ」
何よりモンスター娘も許容範囲だ。
「『チジョウ』ノ、『ニンゲン』ハ、オナジ『チジョウ』デ、ウマレタ、モノドウシデスラ、イマダ、ワカリアエテ、イナイ。ダカラ、『チカ』ト『チジョウ』ノ、アイダニハ、タタカイシカ、ウマレナイト、オモッテイタ」
青い空に顔を向け、地底人は独白するように呟く。
「――ダガ。『センセンフコク』ハ、マダ、オコナッテ、イナイ。『センセンフコク』ニハ『ハヤスギル』トイウ、『イケン』モ、ショウスウダガ、アッタ」
視線をおれの目の高さと同じところまで降ろし、おれの瞳を見つめながら、地底人は丁寧で発音でゆっくりと言った。
「『リユウ』ヲシメセ。ワタシガ、『センセンフコク』セズニ、『チカ』ヘ、モドルト、ケツイスルニ、アタイスル、『リユウ』ヲ」
おれは、地底人から一歩後退り、二、三度深呼吸をした。
頭の中では様々な思いが渦巻いている。『なんでで余計なことを言ってしまったのか』とも『今すぐにこの場から逃げ出したい』とも思っているのも事実だ。
しかし、感情の渦の中心にあり、何にも押し潰されることのない、一個の強い思いが、おれを恐怖から守ってくれている。その思いとは、すなわち、
『穏便に切り抜けて曲がり角で女の子とぶつかりたい』だ。おれが求めているのは異種間SFではなくラブコメである。
その思いがおれに勇気をくれる。勇気はおれの意思を動かし、そして喉を震わせる。
「……生まれや育ちが違っても、皆が理解できて、皆で分かち合えるものがある」
「ソレハ、ナンダ」
地底人を見据えて、おれ力強くは宣言する。
「『そうしたい』って願うことだよ。つまり、『夢』だ」
おれの人生には、幼い頃に結婚の約束をした幼馴染も、堅物な眼鏡っ子のクラス委員長も、いたずら好きな義理の妹も、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる義理の姉も、大人の色気で誘惑してくれる女教師も、竹を割ったような性格と女らしさを併せ持った先輩も、ひたむきに慕ってくれる後輩も、神職に身を捧げる高貴な巫女さんも、おはようからおやすみまで奉仕してくれるメイドさんも、ナースさんも、バニーさんも、女騎士も、女魔法使いも、女性型宇宙人も、
一人だって存在しなかったのだ。
だから、だからこそ、転校生だけは。可能性がゼロではない、転校生ヒロインだけは、諦める訳にはいかない。
「確かに、地上の人間には、偏見に凝り固まって分かり合うことをしないやつもいる。……でも、『分かり合いたい』って願ってるやつも、少なからずいるんだ」
そして、素晴らしい夢は、誰かと分かち合えればもっと素晴らしいものになるに決まっているのだ。
「だから、お前らにも、同じ夢を持って欲しい」
何度でも言おう。諦めなければ、いつか夢は叶うのである。
おれは、夢を諦めたりはしない。
「おれたちは、きっと分かり合える」
地底人は、笑った、ような気がした。
「オマエノ、ヨウナ、ヤツガ、イルンダ。……ワレワレワ、『センセンフコク』ハ、シナイ。『チジョウ』ノ『ケンリョクシャ』ト、ハナシアウ、コトニスル」
「そ、そんなに簡単に決まっていいのか?」
「モンダイハ、ナイ。『チカ』デ、サイコウノ、『ケンリョクシャ』ハ、ワタシダ」
今日何度目か分からない呆気に取られる。きっとおれは今、死ぬほど間抜けな顔をしているはずだ。
そんなおれの様子を見た地底人は大きな肩をすくめる。
「フシギカ。ソレモ『チジョウ』ノ、リカイ、デキナイ、ブブンダ。『チカ』デハ、『キケンナシゴト』ハ『ケンリョク』ヲ、モツモノノ、ギムナノダガ」
地上の権力者たちにも見習って欲しいものだ。
例え姿形が違っても、心は通じ合える。まるで古いSFのお題目だが、それは現実に証明された。イザコザは少なからずあるだろう。しかし『夢』を理解する彼らとなら、人類はきっと、いつか仲良くやっていけるはずだ。
ところで、忘れてはならないことがある。
「なぁ、……悪いんだけどさ、おれ、今すぐにやらなきゃならないことがあるんだ」
「ソウカ。ソレハ、スマナカッタ」
地底人は身体を引く。長い指をモノリスの上で躍らせると、まるで魔法のように、ひび割れたアスファルトや、スクラップと化していた車が元通りに修復された。
ご都合主義もいいところではあるが、ご都合主義以上のハッピーエンドは存在しないので問題も何一つ存在しない。
「お前に会えて良かったよ」
心からの言葉が、自然と口から溢れ出た。
「ワタシモダ。――イノラセテクレ。オマエノ、ユメノ、タメニ」
「……ありがとう」
どこか遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
騒然としている観衆を尻目にモノリスの横を通り過ぎ、おれは道路の向こう岸に渡った。
異郷の友に振り向くことはしない。今そうせずとも、いつか当たり前のように顔を合わせ、笑い合えるようになるだろうから。
おれは鞄の中から予備の食パンを取り出し、口にくわえる。
奇妙な充実感と共に、おれは学校に――いや、夢に向け、走りだした。
普通に遅刻したし誰ともぶつからなかった。
≪了≫
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