タンポポの綿毛たちへ 其の一
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   一 蒲田先生

 

「蒲田先生探しましたよ。こちらにいらしてたんですね。」

 蒲田は夕方の散歩のときにいつも立ち寄る一面の草花の広がる土手があることを公平は知っていた。ここのからの景色は綺麗で、近くには透き通った川があり、その上には電車の行き交う年季の入った陸橋。傾斜の緩やかな斜面を下った一帯の広場には子供達がのんきに遊んでいる。その様子を蒲田は斜面を下ったすぐ際のベンチから温かい眼差しで眺めている。

「さすが公平君、よく私を見つけられたね。君にはいつも迷惑ばかりかけてしまってすまないね。」

 蒲田は笑いながらそう答えた。

「ところで先生、原稿はどのくらい書かれたんですか?」

 公平はベンチにゆっくりと腰をかけながら平然と聞いた。どうせまだ四分の一も書いていないだろうと思っていた。

「ああ、半分は書いたよ。思いのほか順調だろう。英子ちゃんの頼みとあっちゃあ書かないわけいかないよ。」

 英子は蒲田の娘のような存在である。英子は赤ん坊のとき橋の下に捨てられていたところを蒲田に拾われた。警察に両手で抱え連れて行ったのだが、引き取ってもらえるアテが見つけてもらえなかったため、蒲田が養子として引き取った。その後英子はすくすく成長して、今では、戦争の撲滅や平和、人権などを主張するフリージャーナリストとして世界を駆け回っている。蒲田もそれを誇りに思っている。そんな折英子に『命や生きがい』について物語を書いて欲しいと頼まれたのだ。それを承諾して今、執筆している最中なのである。

「英子さんは今どうしているんでしょうかね。」

 公平は言った。

「さあ……また危ないところに行って取材をしているんじゃないかな。」

 蒲田は眉を曇らした。それを見て公平は、

「心配ですね。」

 と蒲田の気持ちを察して言った。

「そうだな。でも、いつものことだ。……それはそうとここはいつ来ても綺麗だな。川も綺麗だし、子供も無邪気に遊んでいる。特に一面に広がるタンポポが綺麗だな。」

「先生はタンポポがお好きですね。」

 蒲田はタンポポが大好きで、公平は家でも蒲田がタンポポを育てていることを知っている。

「そうだよ。特に今の時期のタンポポが私は好きだよ。綿毛の飛ぶこの時期が……。ウーン、そろそろ寒くなってきたね。行こうか。」

 二人は蒲田の家に向かって歩き始めようとしていた。そのときだった。

〈ビュオオオ〉

「うわぁ。」

 公平は突風に驚いた。

「おお。」

 蒲田は言った。蒲田の見ているほうを公平も見ると、突風のせいでタンポポの綿毛が一斉に空へと飛んでいた。

「綺麗ですね。」

 公平の言うとおりそれは綺麗な光景で、まるでレースのカーテンが夕陽を目指して飛んでいるようであった。それを見て蒲田は言った。

「私もあんなふうに広大な空に向かって飛んでいってみたいよ。さて、私はこのまま家に帰るとするが、公平君はどうするかい?」

「もう少しここにいます。」

 と公平は言った。

「そうかい……私は先に帰るよ。」

 蒲田は斜面を上り、顔を綻ばせながら帰っていった。公平はそのようなことを知らず、ただただ余韻に浸った。

 

 

 

 その訃報は突然であった。英子が死んだのだ。テロに巻き込まれ死んだのだ。その一報は公平の知り合いのジャーナリストから公平の耳に朝届いた。蒲田に連絡を取ろうとした。しかし、携帯にも自宅にも通じなかった。公平はおかしいと思った。こんな朝に蒲田は散歩をしないと知っていたからだ。嫌な夢想が駆け巡った。急いで蒲田の家に向かった。いやな汗が身体からたくさん湧き出ていたが、公平は汗を拭うことも忘れていた。その日は雲行きが怪しくいつ雨が降ってもおかしくは無かった。ヘルメットを慌てて被ってバイクに跨り、蒲田の自宅に向かった。

 

 

 

 公平は蒲田の家に着いた。木造の古い家で何事も無いように静かであった。小雨が降り始めていたが、公平はその事に全く気付いていなかった。そしてバイクを降り、インターホンを鳴らした。

(ピンポーン……)

 インターホンの音は風のようにどこかへ消えてしまった。すると、公平は玄関の鍵がかかっていないことに気がついた。開けてみるとそこには蒲田が倒れていた。

「先生、しっかりしてください!」

 公平は大声で叫んだ。

「……。」

 しかし、蒲田の返答はなかった。公平は蒲田の胸に耳を当てた。心臓は動いている。息を切らせながら携帯で救急車を呼んだ。救急車は、全然来ない。その時公平はようやく雨に気付いた。空はどんよりと暗く、雨も強くなっていた。そしてしばらくして、やっと救急車が到着し、蒲田と共に救急車に乗り込んだ。

 

 

 

 蒲田は病院に到着しても意識を取り戻さなかった。そのまま治療室に運ばれた。公平は蒲田のことを気にかけながら椅子に座った。この一人だけの静かな空間がとても長く感じられた。動悸の治まる気配はない。蒲田はどうなってしまうのだろうとずっと考えていた。

 

 

 

 長い手術の末、蒲田は一命を取り留めた。持病の発作で倒れてしまったそうだ。公平は個室のベッドの上で眠っている蒲田の目をじっと見ていた。すると、蒲田は目を開けた。

「先生!大丈夫ですか?」

 公平は声を荒げた。

「……ここは?」

 蒲田は周りを見ながらそう口にした。

「病院です。先生は意識を失って自宅で倒れていたんです。」

 公平は説明をした。

「そうか……。」

 蒲田の病態は酷かった。公平は医師に呼び出されており、そこで蒲田の身体はもって一ヶ月だと伝えられていた。公平はそのことを蒲田に言おうとした。そのとき蒲田はそっと公平に手を差し出した。

「どうしたんですか?先生。」

 公平は蒲田に聞いた。

「紙とペンをくれ。」

「えっ……。」

 公平は仰天した。

「私が元気なうちに頑張ってる英子ちゃんとの約束を果たしたいんだよ。」

 まるで、自分自身の余命を知っているかのようであった。蒲田が哀れでならなかった。今は蒲田の好きにさせてあげたかった。英子のことはとてもではないが言えなかった。自分の手帳の紙を引きちぎり、蒲田に渡した。そして急いでペンを探した。公平はこの間も心の中で泣いていた。そしてペンを蒲田に差し出した。蒲田はその紙にひたすら小説を書きだした。その後公平は病院を急いで出て近くの文房具屋でたくさんの原稿用紙を買い、蒲田に託した。

 

 

 

 蒲田は来る日も来る日もひたすら原稿用紙に自分の物語を書いていった。あのことを知るまでは……。公平と小説の内容を一通り話し終わった後、蒲田は自分の病室のテレビを見るためお金を入れ、テレビを見始めた。いろいろな局の放送を見ていると、ある報道番組のニュースに蒲田は愕然とした。そこには一人のジャーナリストがテロに巻き込まれて死んだということが報道されている。それは紛れもなく英子のことである。蒲田は目を伏せ、泣いていた。そして公平にかすれた声で言った。

「知っていたのか?」

「……はい。」

 公平も下を向きながら小さな声でいった。

「独りにさせてくれないか。」

「……分かりました。」

 公平は退室した。出るとすぐに公平の涙が零れていく。今までためていた感情が一気に出た。自分のほかには誰もいない静かな廊下を公平は思いっきり叩きつけた。

 

 

 

 翌日、公平は蒲田の病室を訪ねにいった。公平の手は微かに震えていた。そして、意を決して、

〈コンコン〉

 公平は下を向き目はぎゅっとつぶり、ノックをした。

「……はい。」

 蒲田の声が聞こえたが手が震えてなかなかは入れなかった。

「公平君だね。」

 公平は腰を抜かしそうになった。

「入っていいよ。」

 それは、不思議と優しさに溢れていた。

「失礼します。」

 ためらいをやめ中に入った。二人の間に静かな時が流れた。その空気の流れを変えるように蒲田は語り始めた。

「公平君に英子のことを隠してもらったこと感謝してるよ。きっとあの時言われてたら私は絶望の淵に叩きつけられていただろう。……さあ書こう。英子の願っていた小説を書かなければいけない。あの娘がいないとしても約束は守らなければいけない。いや、英子ちゃんはいる。彼女の思いは生き続けている。私は書くよ……あの子のために。」

 公平は安堵した。責められるとばかり思っていたからだ。そして蒲田の熱意に後押しされ、

「……はい。やりましょう。」

 そう、はっきりと言った。蒲田は再び書き始めた。

 

 

 

 それから毎日蒲田は小説を再び書き進めた。そしてついに書き終えたのである。しかし、その作品に魂を使い果たしたように、蒲田は弱っていき亡くなった。倒れてから三週間の命であった……。そしてその後彼の作品は本となり、映画にもなることとなった。公平は二人の思いを見るために試写会に到着した。席に座りしばらくすると、上映が始まった。

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