聖六重奏 1.5話 Part2 |
消えた透明人間
翌日の放課後。
僕はまた、些希さんと一緒に尖塔へと向かった。
「こんにちは」
生徒会室に入る。
「おーぅ!河ちゃんに些希たん。今日ももえたんと冰たんは風紀委員会だぜ。何か良い感じの情報が集まりゃ良いんだがねぇ」
部屋に居たのは杪さんだけで、会長や副会長、冰さん達は居ない。
副会長は単純にまだ来ていないだけか。
「そうですか。それじゃあ、僕達はまた、件の公園に居たって人を探しに……」
「ああ、その事だけどさ。昨日の夜、ちょちょいと公園の通力も探ってみたんだ。もう大分時間が経過してるから、かなり曖昧になってたけど……あたしにはどうも、その写真部の子以外に力のある人間が居なかった風に感じられるんだ」
「……え!?」
声を上げて驚いたのは些希さん。僕も同様に驚きを隠せない。
それじゃあ、まるで……。
「自分に容疑を向けない様に、その子が嘘の証言をした……なんて穿った見方も出来る。だけど、それじゃあ彼女が投書を寄せた理由がわからなくなる。何も言わずにスルーしてりゃ、まずばれないってのに」
僕の考えを、杪さんの的確な推理が否定する。
自分を犯人候補から外す為に自分で嘘を吐くなんて、ヤブヘビも良い所だ。
これは、そんな単純な話じゃない。
「勿論、あたしが辿った通力は古くなったものだし、あたし自身の体調も万全じゃなかったから、信憑性は薄めなんだけどね、これも。あたしが三代目ホームズになるのは、ちょっと無理か」
「……三代目?」
何の気なしに言った、杪さんの軽口みたいだけど、何だか気になった。
「ああ、初代シャーロック・ホームズ、んで三毛猫ホームズが二代目、そして三代目があたしーってやりたかったんだけどね」
杪さんはそう言って苦笑するけど、残念ながら僕の引き出しの中に「三毛猫ホームズ」なるものは居ない。緋色の弾っぽい四世ならわかるんだけどね。
「三毛猫ホームズは、日本の推理小説よ。ホームズっていう猫が、人間にそれとなく事件の真相を示唆する、というものなの」
「へぇ……」
些希さんは小説の知識もあるらしい。
確かに、物憂げな顔で読書をしている姿がよく似合いそうだ。
「比良栄さん!居ますか!?」
大声と一緒に、乱暴に扉が開かれる。
副会長だ。
「ああ、居るぜー。そんなに慌てて、何だい」
「は、はいっ!その……」
勢いよく飛び込んで来たのに、何故か副会長は歯切れが悪い。
どういう事だろう?この人らしくもない。
「っ!……お、おいおい。冗談きついぜ、これは」
何故か、さっきまで余裕の表情だった杪さんまでもが青褪める。
……どういう事だ?
「どういう事ですか?」
今回も僕より早く口を開いた些希さん。
「冰の通力が……消えた……?」
「はぁ!?」
もし、副会長が慌てて飛び込んで来たなかったなら、僕は杪さんに「ブリー○ネタですか?」なんて冷静にツッコめただろう。
だけど、冰さんと相愛の副会長が、こんなに慌てているという事は……。
「みたいな事はないけど、この乱れた気の流れは、戦闘中って事か。まさか悪霊じゃないよな?あたしは何もしてなくても、この学園内の悪霊の出現には気付けるんだ」
「二年のあいつを快く思わない連中が、急にあいつを襲ったんです!それを、塔の目の前まで来た時、あいつの式が知らせたんです。だから、それを伝えに……」
副会長は、泣きそうな顔だ。
でも、それも当然だと思う。好きな人が、いきなり同じ学校の生徒に襲われたんだ。
「わかった。あたしはとりあえずこっから術を発動させるけど、森谷達は直接加勢しに行ってくれ。半殺しぐらいにはしてくれて構わない」
その言葉で、僕達は半ば転がり落ちる様に塔を駆け降りた。
思い出されるのは、入学の日の食堂での出来事。
という事は、僕にも責任は確実にある――!
塔を降り切ると、冰さんの式神だという小さなネズミが待っていた。
その案内に従い、戦いの現場に向かう。
「冰ッ!!」
副会長が吠える。
いつの間にかに顕現させていた弓に、既に矢はつがえられている。
「……一刻。もう大丈夫、でも来てくれてありがとう」
先日、悪霊退治を行った森の入口辺り。
弓道部が練習をしているという所に、冰さんは立っていた。
傷一つなく、顔色も良い。乱暴な事をされた訳ではなさそうだけど……。
「お、おい。お前……」
副会長の顔からは血の気が失せている。
何故……と思いかけたところで、その理由がわかった。
――寒い。
春だというのに、背筋が凍り付く様に寒く、体はぶるぶると震え出す。
冷凍室の中に裸で入れられたら、こんな感じなのだろう。
まるで自分の体が氷塊になってしまいそうな心地すらしてしまう。
「『一片乃冰』……ただの日本刀の姿をしているこの退魔器は、私の術によりその刃を氷に変換する事が出来る。そしてその瞬間、周囲には強烈な冷気が吹き荒れる。大丈夫、彼女達は死んではいない。しばらくは意識を取り戻す事がないだろうけど」
淡々と説明する冰さんの顔には、感情というものが感じられなかった。
いや、感情がないんじゃない。
冷酷な表情なんだ。
「冰……陰陽の術が使えるお前なら、俺達が着くまで時間を稼ぐ事も出来ただろ?」
冰さんの言葉が終わった瞬間、彼女が持つ刀の刀身にヒビが入った。
氷の刀身が砕け、中から鉄の刀身が顔を覗かせる。
そして、冷気の渦は消え去った。
「……うん。私も、そうしようと思った。明らかに、やり過ぎた。だけど、私は私を止められなかったの」
「何があった。お前の心は、なんで凍ったんだ……」
冰さんは副会長の胸に縋って、涙を流した。
副会長も、同じく男泣きに濡れる。
それを見て、何となく理解した。
刀の氷が砕けると同時に、あの冷たい顔をした冰さんもまた、消えた事を。
「一刻、あなたを、馬鹿にした……萌さんも、杪さんも……。私が悪態を吐かれるのは良い。だけど、あなた達が侮辱されるのを、私は我慢出来なかった」
冰さんは、涙を零し、何度も鼻をすすりながら言った。
それを見ていて、僕も……涙を禁じえなかった。
「聡志君。行きましょ?」
目を潤ませた些希さんが、僕の手を引いた。
「今は、私達は居ない方が良いから……」
「……うん」
僕達は、来た道を引き返した。
「全く、こんな時に……全員まとめて休学処分です。ただ、現在は非常時という事なので、冰の処分は保留とします。それで良いですね?」
約一時間後、生徒会室。
会長が冰さん、そして数名の女子生徒に与えた処分は、一ヶ月の休学だった。
理由は勿論、生徒同士の私闘。これは校則違反だ。
冰さんは被害者側だし、本来なら処分を受ける筈がなかったのだが、相手の意識をしばらくの間奪う、というのは過剰防衛である、として同等の処分となってしまった。
「それでは、あなた達は早く寮に帰りなさい。冰も、今日は休んでいるべきでしょう」
「いえ、私は……」
「あれをしたのなら、相当疲弊している筈です。無理は罪滅ぼしになるどころか、余計に迷惑をかけるだけ。それが理解出来ないあなたではないでしょう?」
会長の口調は強かった。
冰さんはそれ以上の反論を止め、素直に生徒会室を出て行った。
「――さて。次は皆さんにお伝えする事が」
「風紀委員会で、また何か話が上がったんですか?」
副会長が訊く。
冰さんの事があったけど、副会長は直ぐに気持ちを切り替える事が出来た様だ。
「はい。一人、生徒が消えたと」
「消えた?」
「全くの音信不通。寮の部屋の鍵を開けてみても、もぬけの殻。失踪、といえるものです」
生徒が失踪――。
驚愕の知らせに、僕も副会長も、些希さんも色を失くす。
「もえたん。その生徒の私物はちゃんと持って来た?」
「勿論。鞄は持って失踪したみたいですが、枕と使用していたクッションを持って来ました。これなら、通力を探れますね?」
「十分じゃ。わっちの通力嗅覚なら一分で辿ってみせんす」
微妙に変な言い回しだけど、何のキャラがしたかったかはわかる。
しかし、杪さんの力は本当に犬か狼並のものなのか。
一歩もこの塔から出ないで、生徒一人を探す事が出来るなんて。
「……居ないな。校外に行ったとか、そんなレベルじゃなさそうだ。おいおい、ガチ失踪みたいだぜ?」
目を瞑り、失踪生徒の通力を探っていた杪さんが呟く様に言う。
声音は低く、いつもよりもずっと重く響くその声が、事態の深刻さを物語っているみたいだった。
「決して、質の悪い通力じゃないから、絶対目立つ筈……傷付いたりして、余程通力を消耗しているか、結界の類に閉じ込められてる、って感じかな。いずれにせよ、自分から消えた訳ではなさそう」
人が関わってるのか、霊が関わってるのか。
多分、前者だと思う。写真部のフィルムと同じ様に。
鞄を持っていたという事は、放課後。下校途中に何かがあったのだろう。
僕や副会長は聞き込み、会長と冰さんは風紀委員会、その後は校外に出てしまった。
杪さん以外は、常に何かしらの用事をこなしていた事になる。
それに、杪さんも悪霊の通力を探っていた。術に集中していたのであれば、生徒一人の通力が消えた事になんて、気付かないだろう。
正確な時間は割り出せそうにない。
「とりあえず、明日のHRで担任にこの話をしてもらい、目撃情報を集めましょう。今日は、これで解散とします」
会長が立ち上がり、今日の活動も終わる。
冰さんの事もあり、大した事をしていないのに、酷く疲れた気がする。
「森谷さん。これからは、私達で校内の見回りをする事にしましょう。放課後と、生徒会の活動が終わった後にも、念の為にしておけば万全でしょう」
「は、はい」
突然声をかけられて、副会長は声が上吊っている。
「何か、副会長の方が僕より主人公してませんか?」
そんなエロゲ主人公気質な副会長に、嫌味を言って差し上げる。
ちくしょう。お幸せにっ。
「う、うるせぇ!」
吠えつつ、顔は赤い。
男の赤面なんて、見ていて何も面白くない。僕はさっさと塔を後にした。
その横には、些希さんが付いて来てくれている。
まだ知り合って数日なのに、それが当たり前の事の様になっていて、それがすごく嬉しい。
改めて、些希さんを横目で見る。
やっぱり、すごく綺麗だ。
冰さんはすごく可愛くて、杪さんはすごい美人で、会長は二人を足して、割った様なパラメーターの高さを誇っている。
だけど、今すぐ傍に居る同級生は、どんなタイプにも当てはまっていない気がした。
それは、悪く言えば、地味だからなのかもしれない。
「……どうしたの?」
「う、ううん」
いや、地味な訳がない。
透明感のある落ち着いた声は、ずっと聞いていたい程に僕のツボで……。
ああ、そうか。これが些希さんの特殊な理由なのか。
「ねぇ、聡志君」
「な、何?」
急に話しかけられてしまったので、思わず動揺してしまう。
顔もちょっと赤くなってしまっているかもしれない。
「私、何となく見えた気がする」
ここで「何が?」と返していては、格好が付かない。
ちょっと落ち着いて、頭を回転させれば些希さんの言いたい事はわかった。
「お聞かせ願いましょうか。コーデリア殿」
探偵グレイは、猫の様な印象を与える女性だったらしい。
些希さんのイメージとはちょっと違うけど、咄嗟に女性の探偵で、しかも若い人の名前を持って来れたのは評価されて良いと思う。
ここでマープルお婆さんを登場させていたら、流石の些希さんでも怒ってしまっていただろう。
「果たして、『透明』であるのは私だけの特徴なのかしら、という疑問が湧いただけ。推理でも何でもないけど、この見方はそう間違ってはいないんじゃないかしら」
「その心は?」
「第一に、公園になかった犯人の痕跡。第二に、突然姿を消した生徒。ここに、杪さんが相手の通力を感じられなかった事を含めても良い。共通して、犯人、及び被害者の通力は消えてしまっている」
そして、その共通項は些希さんの特異体質を連想させる。
自分の事だから、些希さんはそれにいち早く気付いたのだろう。
「自分や、他人の気配を完全に消してしまう。そんな隠遁の術は、決して珍しいものではない。だけど、杪さんがそれを看破出来ない、というのも考えにくい。だから、私みたいにもっと根本的な所で存在感のない人間なら……」
「十メートル、ってところかな」
不意に後ろから聞こえて来た声に、二人して振り返ると、そこに居たのは杪さんだった。
何となく二人で帰ってしまっていたけど、杪さんももう生徒会室に残る必要もない訳だし、悪い事をしてしまった。
「?何が、ですか」
「あたしが些希たんを感じられる距離。それだけ近付かないと、どれだけ頑張っても気配を探れない。これは何かの参考になるんじゃない?」
杪さんに僕達の話は聞こえていなかっただろうに、素晴らしいタイミングで入って来た情報だ。
「意識しなくても、私がわかる距離も教えてもらえませんか?」
「それはもう、視認するしかないね。それに、本当些希たんには悪いけど、五メートルぐらいの距離まで来ないと、存在感薄過ぎて気付かない、かな」
いつの間にか取り出していたメモに、些希さんは熱心に文字を書き付けていた。
一メートルも距離がないのに、その行動の気配がわからない、これが些希さんの本当にすごい所だと思う。
「聡志君も、そう?」
「う、うん。あんまり離れると、わからなかったりする、かな」
「そう……。私、今まで意識した事がなかったけど、この体質って本当にすごいものなのね。その気になれば、本人は堂々と動いているのに、目撃者ゼロの完全犯罪、なんてものも出来てしまうかもしれない」
そして、この一連の事件の犯人はそれをしようとしている人間?
――僕達は子供の頃「透明人間になった何をしたい?」という質問に、どう答えただろうか。
悪戯をするだとか、立ち入り禁止区域に入るだとか……そんな、可愛い回答ばかりして来たに違いない。
高校生となった今なら、男子はそのほとんどが「女子風呂覗く!」とか言い出しそうで、それは事実犯罪な訳だけど……これは、訳が違う。
現に杪さんは大怪我を負っている。物も盗まれた。そして、生徒の一人が失踪した。
「成る程ねぇ。些希たん達は、些希たんみたいな特殊な体質、もしくはそんな特性を付加出来る力を持った人物がやった、と推理している訳だ。もしそれが当たっていたりしたら、相当不味い事になるね。悔しいが、見付けられる気がまるでしない」
本当に些希さんみたいな人だったら、まだ良い。恐ろしく地道な作業になるけど、同じ様に存在感が希薄な人を探せば良いんだから。
だけど、多分犯人は後者なのだろう。任意でその「透明人間」になれるし、他人をそうする事も出来る人。
そんなのが相手だと、本当に厄介だ。人前でだけ普通の人間を演じて、いざ何かを実行する時だけ透明人間になってしまえるのだから。
「……とりあえず、今日のところは帰りましょうか。私も、色々と調べてみる事にします」
「何か心当たりがあるの?」
「昔、私に似た子に出会った記憶があるの。本当に小さい頃の事だけど、当時の私は自分の体質を呪ってたから、似た子の事はよく覚えてる。あれは本当にただ、地味なだけだったのかもしれないけど、学生名簿で名前を探してみるわ」
些希さんは寂しく微笑んで、寮に足を向けた。
胸が痛くなってしまう笑みが、彼女とその子の関係を容易に想像させてしまう。
幼少時の友達を疑う事になるなんて、相当に辛い筈だ。
だけど、だからといって、これだけ学校を騒がせた相手を許すつもりはない。些希さんも、強い人だ。
――僕独りが、弱いのかもしれない。
翌日、些希さんは学校を休んだ。
そこに彼女が座っているより、一つの空席がある方が存在感があるなんて、皮肉過ぎる。だから、朝のHRで直ぐに気付いた。
もしかすると、些希さんは今日一日を調べ物に費やすつもりなのかもしれない。そんな気もした。
調べるべきは、名前だけではなく、寮の部屋や、最近の行動なんかもそうだろう。
親しい相手だったのなら、否定する材料を必死に探し求めるんだと思う。それが、犯人である事を確固たる事実にして行く作業であったとしても。
結局、些希さんの事を考えていると、授業が手に付かず、流れる様に放課後が来てしまった。
今日は独りで、塔に向かう。
途中、何故かエンカウントする事の多い副会長と、今日も出会ってしまえばまだ救われたのに、結局最後まで独り。
螺旋階段を上る間も、ひたすらに独り。
改めて、孤独はこんなにも人を不安にさせるものなのだと気付いた。
「こんにちは」
扉は開いていた。それが無性に嬉しかった。
「やっ、代打バース」
杪さんの明るい声が、嬉しい。
いつもと勝手が違う事による、不安感を吹き飛ばしてくれる。
「そういえば、杪さんはいっつも真っ先に生徒会室に来てますよね」
「ま、あたしは部活も幽霊部長だし、他の諸君みたいに真面目じゃあないからね。高いトコって好きだし、授業が終わったら即行来てる訳」
当然の様に会長の席に座りながら、杪さんは上機嫌だ。
その姿を見ていると、完全に僕の暗い気持ちも晴れてしまった。
「紅茶でも淹れましょうか?」
「おっ、今日の河ちゃんは気が利くねぇ。お茶の場所はわかる?」
「はい。ここですよね」
いつも、紅茶は会長か冰さんが淹れてくれている。
杪さんは前に聞いた通り、料理がまるで駄目なのでお茶を淹れる事すら不安なのだろう。
「しかし、今日は些希たんと一緒じゃないんだね?なーんか最近、良い感じだったみたいだけど」
「なっ、何言ってるんですか」
声が上吊りまくってしまう。
ああ、危ない危ない。お湯使ってるのに。
「ひゃひゃひゃ、そろそろ本命を絞る頃合じゃあないかい?些希たんルート、もえたんルート、冰たんルート、そしてあたしルート。冰たんルートはきついかもしれないけど、他は案外空いてそうなもんだぜ?」
「まだ入学したてなのに、本命も何もありませんよ。ゲームでも最初の一週間でルートは決まらないものでしょう?」
「二週間で決めると申したか」
「申してませんっ!」
また、けらけら笑う杪さん。
駄目だ。完全に遊ばれてる。
なんかすごく悔しい。でも、反応しちゃうっ。
「ま、あたしはいつでもフリーとだけは言わせて頂こうっ。近寄って来る有象無象は絶えないが、ただのイケメン、優男にゃあ興味ねぇからね」
「じゃあ、杪さんのタイプってどんな人なんですか?」
紅茶の良い匂いが漂って来た。
この部屋のお茶は、ダージリンらしい。
強い香りが、鼻をくすぐる。
「一言で言えば、河ちゃんかな」
「ぶっ!」
紅茶を含んでなくて、本当に良かった。
急に何を言い出すんだ、この人はっ!
「まず、顔は格好良い系じゃなくて、可愛い系なのが絶対条件。身長も、あたしより低い子の方が良いかな。で、一人称は僕。後はまあ、どうでもいいや」
「めっちゃ適当じゃありません!?それ、ほとんど外見だけじゃないですかっ。もっと内面を見て下さいよ!」
「えー……じゃあ、条件追加。紅茶を淹れてくれる子」
「誰でも淹れられますよ、それぐらい」
「あたしに対する当て付けかー!前にやろうと思ったら、火傷したんだぞっ。こう、このあたしの珠のお肌が赤く、痛々しく火傷しちまって、だな……」
「そりゃあ、ご愁傷様でした」
そこまで酷いのか、杪さんは……。
僕もそこまで家事が出来る訳じゃないのに、一緒になったら大変だろうな。
「って、何考えてるんだっ」
「お?スタンドでも見えたのかい?一人で騒いで」
「あ、いえ。何でも無いです。ええ、何でも」
不味い。
今一瞬、普通に僕と杪さんが一緒に生活している図を思い浮かべてしまった。
下手ながら、料理を作ろうとする杪さん。そして、そんな杪さんを止めようとするも、結局押し切られて二人で料理をする僕。
出来上がった微妙な味の料理を涙目になりながら食べて、その後はお風呂も二人で……。
「あかーん!」
「なんで関西弁!?」
あかんあかんあかん。これじゃあ、僕がむっつりみたいじゃないか。
確かに、杪さんの裸は今一番、興味がある話題かもしれないけど、それを妄想する事だけはしちゃいけない気がする。
しかも、そのシチュエーションが同棲中か、新婚だなんてっ。
「河ちゃんが何と戦っているのか、あたしにゃいまいちわからないが……エロスはほどほどにするんだぜ?」
「バレテーラー!!」
いやらしく、にたにた笑う杪さん。
思いっきり顔に出ていたんだと思う。僕にはポーカーフェイスなんてとても無理だ。
心理戦もめちゃくちゃ弱いと思うし。
「んー。今日は集まり悪いなぁ。確か、委員会とかは何にもない筈だぜ?まだ部活も本格的には始まってないし」
「そうですね……。あ、そういえば言いそびれてましたけど、些希さんは今日休みですよ。理由はわからないみたいですが」
「おっ。そうだったのか。こいつぁきっと、サボりの類だな?些希たん悪い子だー」
心にもない事を言って、ふっ、と笑う。
こういう何気ない、ちょっとした時に見せる杪さんの笑顔が一番破壊力が高い気がした。
いつもの明るい笑顔も、ちょっと作った色っぽい笑い方も、勿論素敵だけども。
「ところで、ちょっとマジな話なんだけど」
「はい?」
あっという間に笑みは消えて、真面目な杪さんの声。
それが聞こえるだけで、部屋の空気は一変した。
「些希たん、大丈夫かな」
その時の僕の顔は、どんなだっただろう。
「色を失くす」という表現がぴったりと当てはまったに違いない。
写真部のフィルムが消えた。
生徒が一人、消えた。
それは何故か?事件と関わっていたから?
些希さんはどうしていた?何を調べていた?
走馬燈の様にそれ等が頭を巡って、僕は気付いたら、螺旋階段を下り始めていた。
「些希の部屋は女子寮の三階。311号室だ。同級生の女一人守ってあげられない様じゃ、格好悪いぜ?」
前半部は硬く、後半部はいつも通りの口調の杪さんの声が後ろで聞こえた。
そうだ。僕は、ただ成績が良いだけのやつで終わるつもりはない。
誰かを。友達を助ける事が出来る様な退魔士に――。
杪さんの真似じゃないけど、適当な高さまで下りて来たところで、僕は手摺を跨ぎ、意を決して飛び下りた。
運動神経は決して悪くない。この距離なら、着地に失敗する事はない。
無事に下りると、前のめりになりながら走り出す。入学式の日は、副会長に捕まった女子寮の前。
今なら、生徒会の一員として、そして、些希さんの為に、堂々と入る事が出来る。
「河原さんっ」
玄関に足を踏み入れようとしたところで、後ろから声が聞こえた。
危うく無視して先に進みそうになったけど、それが聞き覚えのあるものだと気付き、振り向く。
「会長、どうしたんですか?」
小柄な会長は、いつもは美しくセットされている金髪をぐしゃぐしゃにして、肩で息をしていた。
走り回っていた事が、一目でわかる。
「はっ……ご、ごめんなさい。少し、息が上がって……」
胸に手を当て、深く、深く呼吸をして息を整える。
ここまで取り乱している会長を見たのは、間違いなく初めてだ。顔が真っ赤なのは、恥ずかしいのではなく、体温の上昇によるもの。
なんで、こんなに会長は慌てているんだ?
彼女を見捨てて、寮に入りたくなる衝動を堪えながら、僕は必死で会長の様子から何かを汲み取ろうとしていた。
一分弱して、その「何か」は判明する。
「はぁっ……。河原さん。今から言うことは、全てが事実です。落ち着いて、聞いて下さい」
背筋に悪寒が走った。
駄目だ。僕はこの話を聞かないといけないけど、聞いちゃいけない。
だって、その先にあるのは滅びだから。
きっと、会長が持って来たのは吉報なんかじゃない。
僕に、確実な絶望を与える報せなのだから。
「311号室に、誰も居ない事は確認済みです。そして、第三倉庫……校舎の三階の、目立たない所にある倉庫なのですが、そこで二つのものが見つかりました」
僕は、何も言えない。
そして、僕はこのタイミングで杪さんの事を呪ってしまった。
彼女が、些希さんの部屋の番号を教えてくれなければ、絶望の刻を数秒だけ、先延ばしにする事が出来たのに――!
「数本のパールピンク色をした髪と、この名札です」
――筒ヶ内。
その特徴的な苗字の人物が、そう多く居るとは思えない。
それに、新入生といっても、几帳面に名札を付けている学生なんてほんの一握りだ。
僕と、そして――些希さんは、そうだったけど。
「一応、警察は昨日から動き始めています。ですが、どこまであてになるか」
ただの人間である警察なんて、何の役に立つだろうか。
この学校で起きる事件は、この学校の人間が解決しなければならない。この学校の人間でないと、解決出来ない。
僕達がやらないと。
「河原さん。私は、これをこう解釈します。私達に対する、犯人からの警告。『これ以上嗅ぎ回るのはやめろ』という、メッセージであると」
「そうですね。ですけど、僕は当然手を引くつもりなんてありませんよ?皆がやめても、僕は――」
「待って下さい。今のあなたは冷静さを欠き過ぎています。誰もやめるだなんて言っていませんし、これ以上の被害者を出す気も毛頭ありません」
「それなら、直ぐに……」
「河原さんっ!!」
ぴしゃり。
水を打った様に静かになったこの場面を表現するのは、そんな擬音が相応しい。
初めて聞いた会長の叫びは、小さな動物なら気絶してしまいそうなぐらいの強さと、切なさがあった。
「……あなたがここまで興奮するとは、予想していませんでした。確かに筒ヶ内さんはあなたの同級生で、親しい間柄でしたが、出会ってほんの数日。そこまで感情移入をしてしまっているとは」
反転。静かに、諭す様に会長は続ける。
大声を出すのには慣れていないのか、喉を苦しそうに押さえていた。
「河原さん。お願いですから、独断専行だけはしないで下さい。実質、動かせる戦力は生徒会役員だけなのです。一人でも欠けてしまうと、相当の痛手になります」
生徒会役員は、僕の知らない人を含めても、二十人に満たない少数だ。その多くが二、三年生の実力者で構成されている訳だけど、十分な数とはお世辞にもいえない。
「わかりました。ごめんなさい」
「言葉で謝るのに時間を割くぐらいなら、しっかりと働いて下さい。恐らく、筒ヶ内さんが髪の毛と名札を残したのは故意の行動です。髪の毛があれば、筒ヶ内さんを逆探知出来る。彼女の特性上、困難な事ですが……それでも、する価値はあります。協力してくれますね?」
「はいっ」
断る理由なんて、存在していなかった。
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