聖六重奏 1.8話 |
1.8話「姫真珠」
十五年間、「透明」であったことは、私の心に大きく作用した。
いつからだろうか?「否」を「応」と言い、「応」を「否」と言い始めたのは。
いつからだろうか?必要以上に大人ぶり、冷静の仮面を被り始めたのは。
いつからだろうか?こんなにも自己犠牲心が強くなったのは。
午後から、登校するつもりだった。
だが、そんな思惑は簡単に外れてしまう。
右手を前に出す。その指一本一本に糸が巻き付く。
左手も同じ様に。
長いリーチ、透明性から奇襲に秀でた性能を持つ「糸」は、逆に言えば真正面からのぶつかり合いに弱い。
細い鉄の糸は刃物で簡単に切断されるし、繭糸は束ねなければ高い防御能力を得る事は出来ない。
蜘蛛の糸の拘束能力も、どこまで役に立つだろうか。
――ここは第三倉庫。
私は、一連の事件の犯人と向き合っていた。
「生徒会の皆は、学生が犯人だと思っていた。私もそう。だけど、あなたの事を調べている内に、それが間違いだと気付いた。私の旧友……堂島忠也は二年前に亡くなった。当時、彼はここの一年生……」
虚空に泳がせていた視線を、前に向ける。
ああ、やっぱり彼なんだ。吐き気にも似た、悲しみが駆け上がって来た。
「今でも面影、あるのね……タダちゃん」
彼とは、小学校の卒業以来、疎遠になっていた。
当時の彼は、まだあどけない顔立ちの少年だったが、今、目の前に居る霊は青年の姿をしている。
だけど、その目元は、十二歳の時の彼から一つも変わっていなかった。
「タダちゃんは二年前、死んじゃったのね。死因は高所からの不慮の落下か、飛び降り自殺。杪さんを怪我させたのは、彼女が遊びの様に高い所から飛び降りようとしていたから。そうね?」
霊は答えない。
けど、その沈黙が肯定なのだと思った。
「フィルムを盗んだのは、自分が写っていたからじゃない。あの写真部の人が、タダちゃんの好きな街並みを撮っていたから。……それを、見たかったのよね」
沈黙。
「その女生徒に乗り移ったのは、たまたまよね?ただ、近くを通りかかっただけ」
私は、霊の足元で倒れている生徒を見た。
近くの床には、沢山の写真が散らばっている。彼女の体を使い、現像させた写真達が。
『……………………』
霊はまた、沈黙を返した。
「タダちゃん。また会えて、私、本当に嬉しい。あの頃、言えなかったけど、今言うわ。私、タダちゃんのことが大好き。恋人になって、結婚したいぐらい」
沈黙。
「でもね、タダちゃん――あなたみたいな霊を、私達はこう呼ぶの」
沈黙。
「悪霊」
沈黙。
「タダちゃん。抵抗はしないで。他の誰かに祓われるんじゃない。私が祓うの。三界で、一番あなたを愛している私が。……私が、タダちゃんを送ってあげるから」
沈黙。
「うん……ありがとう。じゃあね、タダちゃん。何年後になるかわからないけど、きっと私もそっちに行くから。――それまで、さようなら」
私は右手を掲げた。
五本の糸が、ふわりと持ち上がる。
その材質が変化。鉄の糸、ピアノ線。
五本の凶器は、真っ直ぐにタダちゃんに牙を剥く。そして、槍の様に殺到した。
ただの鉄の糸であるピアノ線で突いても、殺傷力は期待出来ない。しかし、これは退魔器だ。
見た目はピアノ線でも、その一本一本による刺突は大きなダメージを生む。
――プツンッ。
糸の切れる音。
霊の右手に握られたカトラスが、全ての糸を断ち切ったのだ。
「ばかっ。馬鹿馬鹿。タダちゃんの馬鹿っ!」
左手の糸の材質を、繭糸へと変化。一瞬の内にそれで、繭の盾を織り成す。
相手の斬撃にそれを重ね、受け止める。
柔らかな糸が剣身に絡み付き、その勢いを完全に殺した。と同時に、腕を引き、二撃目が来る。
初撃を受け止めた繭糸はずたずたになっており、次の防御には使えない。
後ろには扉。締めてしまっている為、逃げ出す事は出来ない。
ヒュンッ。
剣が空を斬る。
私は、その場にしゃがみ込む事でその斬撃を回避した。
女で、それほど身長も高くない私なら、思い切り屈めばリーチの短いカトラスの攻撃を避ける事は容易だ。
三度目の斬撃が来る前に、右手の糸を手元に戻す。今度は蜘蛛の糸。
粘性の強い糸が、相手を捕獲しようと五方向から伸びる。
それを悪霊は、大きく後退する事で避けた。
(――ばか)
これで、相手は完全に勝ちの目を失ってしまったのだ。
私は、接近戦が極端に苦手だ。
高い運動能力もなければ、至近距離を素早く攻撃出来る退魔器もない。
そんな私に、距離を与えてしまった。
ピアノ線でズタズタに出来る距離を。
繭糸の防護壁を織り成すのに十分な距離を。
蜘蛛の巣のトラップを仕掛けられる距離を。
両手の糸を、ピアノ線に変化。
×を描く様に、糸を操る。
それを霊は横っ跳びで避けようとしたが、私が糸を伸ばす距離に制限はない。
左手の人差指、中指、薬指の糸が霊を引き裂いた。
霊はこちらに向かって来る。私の胸にカトラスを突き立てようと。
そこに、私は右手の糸を伸ばした。
蜘蛛の糸と化していたそれが、剣身に絡み付く。
そして、そのままそれを奪い取った。
五十センチの距離。敵は殴り倒そうとして来る。
その右腕を、左手のピアノ線が切断した。
コトリ。
生身の人間であれば、そんな音を立てて腕が落ちていただろう。
私はもう、罪悪感が我慢出来ない。それでも、糸を繰る。
左手の糸を、瞬時に蜘蛛の糸に変化。相手を捕らえる。
右手の糸を、ピアノ線に変化。五本を束ね、一本の槍にする。
「さようなら」
糸が空を貫くのと、銃弾が私を貫くのは同時だった。
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