聖六重奏 4話 Part1 |
4話「回想の意味」
告白
風月さんからのお礼のケーキを食べ終えた後、僕達は特に仕事もないので、そのまま少し雑談をして帰ることになった。
そこでは、楽しい話が話される筈だったけど、それを許さない人間が居た。
……僕だった。
どうして、こんなことを話そうと思ったのかわからない。
でも、今話すべきだと思った。一先ず学校が落ち着き、些希さんに買い物に誘ってもらった、このタイミングで。
それは、中学生の頃の僕の話。
僕の抱える、一番重たい過去だ。
出来ればもう、回想なんてしたくない……だけど、そう思えば思うほど、ふとした時にその思い出は甦って来てしまう。
そして、今もそうだった。
率直に言うと、これは失恋の話だ。
中学生の頃、僕には一人の彼女が居た。
一人とわざわざ言ったのは、僕が過去に二人以上の女の子を弄んだことがあるからではなく、彼女が生まれて初めての彼女で、彼女にとっての僕もそうだったから。
ついでに付け足せば、彼女以来、僕は人と愛し合ったことがない。
そう、二次元に恋愛を求め始めたのは、彼女との恋が終わってから……彼女にフラれて、いや、僕がフッて、その後からだ。
彼女……大灯寺(だいとうじ)来夜(くるや)さんとは、小学校からの付き合いだった。
まだ男女の区別が付いていない様な頃から、一緒に遊んで……高学年の時にはもう、恋人同士と言えたと思う。
すごく快活な子で、昔から気の弱かった僕は、よく来夜さんに振り回されていた。
中学になってからは、かかあ天下のカップルだって、からかわれたっけ。
――兎も角、僕は来夜さんと長らく会っていない。
彼女と別れたのは、二年の夏。三年は違うクラスに「なれた」から、それ以上関係を悪化させることもなくて良かった。
最初に喋っておくべきことは、これぐらい。さて、本題を話し始めよう。
僕達が、お互いに望んでいないのに、傷つけ合い、修復不可能なぐらい関係を壊してしまったある事件の回想を。
「聡志っ!今日も巡回行こっ!」
インターホンも鳴らさずに、いきなり玄関のドアを開けて来夜が叫んだ。
全く、この子は文明の利器を駆使することを全力で放棄して……何故か西洋かぶれのウチは、ドアにノッカーも付いているのだから、せめてそれを鳴らしてくれたら良いのに。
「はいはい。それじゃお母さん、行って来るから」
夏だから、上着は要らないか。
僕は部屋着のTシャツのまま、玄関まで小走りで行って、ほとんど無断でウチに侵入している来夜と顔を合わせた。
無遠慮で、活発な内面とは正反対に、来夜の容姿は絵の中のお嬢様の様だ。
艶のある黒髪を長く伸ばしていて、可愛らしく垂れた大きな瞳がチャームポイント。肌は透ける様に真っ白で、肉付きは薄いけど、身長が高くてすらっとしている。
これで、もうちょっと落ち着きがあれば良いんだけど……実際は完全にじゃじゃ馬なもんだから、可愛い彼女を持ちながらも、僕はよく友達に同情されている。
典型的なかかあ天下だ。結婚してないけど。
「数時間ぶり!じゃ、とっとと行こうかっ」
「うん……でも、どうせ何も居ないと思うよ?」
「いやいや。その油断がご町内の皆様に迷惑をかけるの!ぼく達しかこの辺りには退魔士が居ないんだから、ちゃんと守っていかないと」
「まあ、そうなんだけどね」
それからもう一つ、来夜の特徴的なのはこの一人称だ。
いや、今時、一人称が「ぼく」な子は珍しくないかもしれないけど、来夜の見た目は先に挙げた通り、良いトコのお嬢様って感じ。ほら、意外性あるでしょ?
そして、彼女は僕と同じ様に、霊が見える。だけど、その能力は日が落ちてから限定。代わりに、すごく遠くの霊だって見ることが出来る。「天狗眼」というらしい。
なんで天狗の名前が付いているかというと、鴉天狗は鳥目じゃないけど、その代わりに昼間あまり目が見えないからだって聞いた。
来夜がそんな体質なものだから、僕達は七時までには食事を終わらせて、町内の巡回に行くのが習慣だ。
言ってしまえば、僕と来夜は毎日デートを重ねている、ということになる訳だけど……来夜が本当、男の子みたいに話すものだから、色気の欠片もない。
「ねぇねぇ、聡志。明日の宿題って何があったっけ」
「えーと、数学の問題集ぐらいかな。43ページから、66ページまで。ちゃんとやってる?」
「……うそ。ぼく、62ページのSTEP1までだと思ってた……」
「ああ。ちゃんと先生、STEP2もやって来いって言ってたよ?確かに、いつもSTEP2は授業でやってるけど、実力テストみたいな感覚で今回は宿題にするって」
とまあ、話すことは学校のことだったり。
「そういえば聡志。今日帰ってからモンチェ(モンスターチェイサーの略。今流行ってるゲームだ)やった?なんか、アップデートがあるみたいだったけど」
「うん。高難易度クエストと、新装備がちょっと追加された感じかな。でも、新装備はほとんど見た目が良いだけで、性能はいまいちだよ」
「うーん、そっかぁ……強装備で無双したい派なぼくにはちょっと縁がないかなぁ」
ゲームのことだったり。
「カエル」
「ルシフェル」
「ルービックキューブ」
「ブリューナク」
「くるみ」
「ミカエル」
「ルーレット」
「トロイア」
「アヒル」
「ルシファー」
「アイス」
「スローネ」
しりとりだったり。ちなみに、僕はルシフェルとかミカエルとか言ってる方。
「ねね、聡志。今日は星がよく見えるね」
「そうだね。じゃあ、あの星、なんていう名前かわかる?」
「あの星ってどれ?」
「ほら、あの、夏の大三角形の下の……」
「えー、アルタイルじゃないんだよね?」
「いるか座の尾っぽのところの星だよ。デネブ・ダルフィムっていうんだ」
「へぇ……デネブって、はくちょう座だけじゃないんだね」
まあ、大体ずっとこんな調子。
ゆっくりと歩くので、狭い町内といっても、一時間ぐらいは歩く。
それを毎日続けているんだから、好い加減話すネタもなくなりそうなものだけど、昨日見たテレビとか、意外と話すことはあった。
それ等を全部話し終わっても、まだ良い雰囲気で他愛もない話が出来るのは、やっぱり僕達が愛し合ってるからだろうか。
……なんて、ちょっと恋人という関係を意識してみたり。
「え、あれ……あそこ、悪霊が居るっ」
「うそ?まだ僕には見えないけど……」
といっても、僕が来夜に霊視能力で敵う訳がない。本当なのだろう。
でも、急な話だから思わず冷静な判断が出来なかった。
「ほんとだよ!直ぐに何とかしないと……!」
言うなり、来夜は僕を置いて走り出してしまった。
僕も必死で後を追うけど、勉強は僕の方が出来ても、運動神経なら彼女の方が上。追い付くどころか、どんどん距離が離され、遂には見えなくなってしまう。
でも、ある程度近付けば僕にもその悪霊を感知することは出来る。
独特の悪意と絶望に満ちた気配が伝わって来て、嫌でもそいつを追うことが出来た。
「来夜っ!」
悪霊が居たのは、古式ゆかしい町屋敷。確か阪倉さんの家だ。
野生の犬か猫が死んで悪霊化したのか、四足の狼の様な姿をしている悪霊だ。
不法侵入な訳だけど、既に来夜の開けている扉から敷地内に飛び込むと、来夜は既に退魔器を構えていた。
彼女の武器は行灯。赤々とした炎ではなく、青白い色をした暗い鬼火を灯す「闇行灯」という退魔器だ。
「もう、聡志遅い!」
「来夜が速過ぎるだけだよ……。一人で先行してるんじゃ、二人で巡回している意味ないじゃないか。まあ、無事なら良いんだけど」
お決まりのやりとりをしながら、退魔器を顕現させる。ワルサー社の拳銃を模した「聖銃」は、音も無く手の中に収まった。
と同時に、狙いを付けて悪霊に発砲する。ダメージを与える為には、距離が離れ過ぎている。しかし、相手を拘束することに限っては、十分に有効射程だ。
「ナイスアシスト!んじゃ、ぼくもっ、と!」
行灯が来夜の手を離れ、悪霊の近くの地面へと投げ付けられる。
木と紙で出来ているそれは、簡単に崩壊。それと同時に地面には青白い炎が一気に広がった。
鬼火にまかれ、悪霊は苦しげに呻き声を漏らす。
なんとか消火しようと、地面に体を擦り付けるが、そんなことで消える訳がない。
「ごめんね。その炎、絶対に消えないんだ……って、おーい!」
獣の悪霊は、あまりの熱さに発狂した様に明後日の方向へ走り去る。
霊力の炎が家や他の人に燃え移ることはないが、手負いの相手が何をするかわかったものじゃない。放置はあまりに危険だろう。
「あの感じだと、五分もすれば燃え尽きると思うんだけどね……聡志!ぼくは真っ直ぐあの子を追うから、あっちの道から遠回りして来て!」
「わかった!」
幸いにも、二人ともある程度離れたところにも攻撃出来る退魔器を持っている。逃げる相手を追撃するのはそう難しいことじゃない。
来夜はまた手元に行灯を顕現させて、見事なフォームで走り出した。陸上部から誘いが来るほど、美しくて速い彼女の全力疾走が、僕は好きだ。
といっても、色気づいている場合じゃない。家の垣根を飛び越えると、回り道で駆け出した。
涼しい夜風が、体を撫でて行く。背中に伝う汗が、それに飛ばされて行く様な心地だ。
ある程度離れてしまうと、来夜の気配も、相手の気配もわからなくなってしまう。が、逆に再び気配がわかる様になれば、それは即ち僕の方が当たりクジを引いたということ。
引き金にかけた指も、自然と緊張して来る。相手は小物だけど、悪意を持って一般人に取り憑けば、重い病気や記憶の喪失を与えかねない。それは十分、大事件だ。
「……そこかっ!?」
炎を帯びた気配が、闇の中でもはっきりとわかった。
視覚出来ていなくても、方向と距離感さえ掴めればそれで十分。そこに銃口を向け、引き金を引く動作は反復練習を繰り返し続けて来た。
拘束と浄化の効果を持った銃弾が、杭の様に相手に突き刺さる。
それは、小さく悲鳴を上げて倒れた。
「はぁ……良かった」
早めに片が付いて。
「ば、かっ……良くないっ、後ろっ!」
「えっ……?」
途切れ途切れに聞こえて来たのは、僕のよく知る声で、それが聞こえた方向は、僕が銃口を向けた方で、慌てて振り向いたところに居たのは、さっきの手負いの悪霊だった。
スロー再生の様に、少しずつ移り変わる景色、自分の中で繋がって行く思考、牙を剥き、爪をこちらに向けて飛びかかる悪霊……いつもならここでフォローを入れてくれる彼女が、動けないのだと気付き、僕が助からないことを理解する。
反射の様に、銃口が獣に向けられる……しかし、引き金に指がかからない。――発砲することが、怖い。
いや、そんな資格がないのだと頭と心が叫んでいる。
――彼女を撃った僕が、いけしゃあしゃあと退魔業なんかして良いのか!?
意識の断絶。
死にも似た、深い眠り。
母胎の様な安息。同時に、苦痛。
僕の意識が再び覚醒したのは、明日の午後のことだった。
白い天井を、初めて見上げた。
この年で入院を経験する人は、そう居ないだろう。
目覚めて直ぐ、手を動かした。指がきちんと動くかを確認する。次に、足。
自分が意識を失っている理由なんて、夢の中で百回も見せられた。
今も脳裏に焼き付いたその映像が、消えてくれそうにない。
止め処ない後悔、幾度とない謝罪……それだけで気が変になりそうになる。
けど、それは逃避だ。勝手に裏切り、勝手に狂い……それじゃ、あまりに無責任だという意識が、僕を理性の鎖に繋ぎ留める。
それで、良かった。
「良かった。気が付いたんだ」
頭の中を巡る、嵐にも似た思考の錯綜……その中でも、彼女の声はわかった。
僕が一番好きで、一番大好きで、一番聞きたい声。……意識を失う前までは。
「学校、どうしたの」
もっと色々と言うべきことはあっただろうに、出て来たのは事務的な言葉だった。
「ぼくも十時ぐらいまで寝てたから、休み。数学の宿題、出さなくてよくなって良かったよ」
「良くないよ。家に帰ったら、ちゃんとやりなよ」
「はーい。もう、聡志はおカタイなぁ」
驚くほどに、自然な会話が続く。
僕も彼女も、こんな話をしている場合じゃないだろうに。
彼女は、僕を殴っても許されるだろうに。
僕は、彼女に捨てられても文句は言えないのに。
来夜の表情は妙に明るくて、それが僕には眩し過ぎた。きっとそうじゃないだろうに、能面の笑いにも見えた。
「ごめん」
「いいよ。完全に事故だもん。ぼくが二回も仕留め損なったのも悪かったし」
「ううん。来夜、お願いだから、目を見て話して。僕は君が好きだ。だから、曖昧なまま終わらせたくない」
来夜は、僕を正面から見てくれている。
でも、僕にはそれが表面上だけの様なものに見えてしまった。
そうじゃなかったのに。彼女がさっぱりとした性格なのは、僕が一番よく知っている筈なのに。
罪の意識が、僕の疑心暗鬼が……彼女の真心を疑ってしまっていた。
「本当にいいんだよ。だから、そんな怖い顔しないでも……」
「お願い。僕の納得のいく反応をして見せて。君の本心は、そうじゃないだろ!?」
気が付くと、彼女の手首を強く握り、引っ張り寄せていた。
相当力が入っていたのだろう、彼女の表情が苦痛にゆがむ。
「やっ、痛いっ……離して」
「来夜、僕を罵ってくれて良い。それが当然なんだから。恋人同士、本心を隠して付き合うなんてやめようよ」
「だからっ!ぼくは、もう君を許してるんだよっ!」
来夜の手が、僕の頬を張っていた。
至近距離から、力の加減もなくされたそれは、頭を揺さぶるぐらいの衝撃があった。
「……ごめん。起きたばっかりで、まだ頭が働いてないんだよね。また、来るよ」
淡々と言うと、来夜は病室を出て行った。
その背中にかける言葉もなくて……いや、見つからず、僕は黙って見送った。
ここで何か言えれば――とは、後に何度も繰り返した後悔だった。
念の為、僕はもう一晩入院するということになった。
もう日も暮れたけど、来夜はあれ以来、もう来ていない。
来夜は毎晩、夜になると必ず来てくれていた。
それが来てくれない……勝手なことだと思いながらも、やっぱり寂しいと思う。
トイレに行きたくて、立ち上がる。体に異常は何もない。元々悪霊が弱っていたのもあり、気を失うだけで済んだ様だ。
来夜も多分、似た様な感じだと思う。僕の退魔器に大した威力はない、ただ、相手を痺れさせる力を持っているだけ……けど、それ以上に僕は彼女に銃を向けたことに罪悪感を感じている。
何故、僕は自分の相棒を銃の形にしたのか……そこまで逆戻って考えたりもした。
次に僕は、退魔器を手に戦うことが出来るのだろうか……?病室を出ても、病室に戻っても、同じことを考え続ける。
――無理かもしれない。
これ以上、来夜と一緒には戦えない。それどころか、悪霊とも戦えそうにない。
三十分、一時間と同じ思考はぐるぐると回り続ける……やがてまどろみが訪れて、悩みから解放された僕は、時間の間隔を超越した世界……夢の中へと入り込んで行った。
こんな中でも見る、来夜の夢。
幼い頃の彼女、中学に入ってからの彼女、一つの布団の中で見た、彼女の裸身……。
まるで、走馬灯の様だ。――そうか、走馬灯。
僕の人生はまだ終わらないけど、今確かに、一つの思い出に終止符が打たれようとしている。
……思い出。もう、彼女と一緒の日々は思い出にまで風化してしまおうとしているのか。
そうはしたくない……けど、その流れに抗うことを、何より僕の心自身が拒んでいる……同じことを繰り返すかもしれない恐怖、来夜が笑顔の下で僕を軽蔑しているのでは、という恐怖、その他、言葉に出来ない恐怖。
それらが一斉に、僕の心を叩きのめしてしまった様だ。立ち直ることは、そう容易じゃない。少なくとも、数年の時は要するのだと自分でわかった。
「――、――」
声。
眠りを妨げられ、中途半端に覚醒する意識。
まだ虚ろな目は、夢にまで見た恋人の姿を真っ先に映した。
「来夜」
電灯が落とされ、月明かりがわずかに窓から入るだけの病室の中でもわかる、濡れた様な黒の長髪。
同じ色の大きな瞳。清潔感のある白さの中にも、活発な血潮の色を秘めた肌。
明るい表情が印象的な彼女の顔には今、確かな憂いがあった。
「聡志。ぼく」
「うん、さっきはごめん」
彼女に謝らせる訳にはいかない、そう思った。
半身を起して、頭を下げる。彼女にこんな風にちゃんと謝ったのは、何年ぶりだろう。
「ううん。ぼくも、悪かった」
「来夜は悪くないよ。……来夜と付き合う様になって、僕の後ろ向きも大分マシになって来たと思ってたけど、こんな時にはとことんネガティブになってしまうみたいだ」
「……そうだね」
否定してくれなくて良かった。でも、これでこその来夜だ。
来夜は、僕を過度に評価しない。かといって、過小評価もない。穴が空くほど、僕のことを見てくれているからこそ、順当な評価をしてくれる。
それは勿論、僕も同じ。来夜のことはよくわかっている。それこそ、お互いの心が読めるほど。
だけど、だからこそ……上手く行かない時もある。今がそうだ。
「来夜」
「聡志」
二人の言葉が、ぴったりと重なった。
もう、どっちがどっちの名前を呼んでいるのかすらわからない。
「来夜、君から」
「うん。一緒に寝て、良い?」
隠語ではない、そのままの意味なのだろう。
僕と来夜は、今までも一緒に眠ることがあった。
退魔士を目指していながら、ホラーの類に弱い来夜が、テレビに怯えてしまった夜。なんとなく、一肌恋しい夜。どうしてもお互い離れ難い夜……何度も、同じ布団で朝を迎えて来た。
といっても、病院でそんなことがあったら、どうしても怪しまれてしまうだろう。若いどころか、幼い二人なのだし。
でも、僕はそれとは別な理由で、彼女を返そうとした。
「ごめん。別々に寝よう。これからは」
予想は、出来ていたのかもしれない。だから、来夜は少し眉を落とすだけだった。
……その仕草も、僕の胸を痛ませるのには違いないけど。
「僕は多分、すごく勝手な人間だ。そして、同時にすごく弱い。……本当にごめん。だけど、もう僕は君をまともには見れないよ。君が近くに居る……居てくれている。それだけで、心が乱れてしまう」
僕が来夜なら、僕を殴っていたかもしれない。
けど、来夜は小さく笑って、僕の視線から顔を外した。その目で、窓の外を眺める。
彼女の瞳の色と同じ、暗い景色を見る来夜。
こんな時でなければ、絵になるな、なんて漏らしていたかもしれない。
「そうだね。ぼく達は、思えば近くに居過ぎたのかもね。一緒に居るのが当たり前過ぎて、お互い知り尽くしているのが普通だった。でも、それは苦痛と隣り合わせの、すっごく危ない状況だったんだよね。……もう、ぼくは君の痛みがわかる、なんて思わないよ。――同じ痛みを背負うなんて、ごめんだ!」
叫びにも似た、大声。
ただでさえ静かな病室が、更に静まり返る。
「――君も、考え続けていたと思う。でも、ぼくもまた、考えてた。これから、どうするべきなのか。ぼくは君に、どんな顔をしてもう一度会えば良いのか。――でもね、わかったんだよ。君は今、ぼくのことを求めていない。ぼくとの関係を断ち切ってしまいたい、そう考えてる。間違いないでしょ?」
「うん」
きっぱりと言い切ったその一言が、全てを決めた。
来夜はもう、無表情。ああ、終わった。あの時、亀裂の入った「日常」は今、確かに砕け散った。
壊れたガラス細工がもう戻らないのと同じ様に、今までの日常はもう戻って来ない。
再び戻りたければ、ゼロから作り直すしかないのだろう。
「聡志、別れよ。ぼくは、今までの君は好きだった。でも、今の君を愛せそうにない。君が今、ぼくに会いたくないと思っている様に。ぼくもまた、君とは会いたくない。永遠にさよならをしよう、なんて思わない。でも、しばらくは……お互いが大人になるぐらいまでは、距離を空けよう」
「うん……そうしよう。しばらく、お別れしよう。来夜」
最後に僕達は、抱き合った。
僕より華奢な、来夜の肩の感触。くしゃりと手に触れる黒髪。胸に感じる、彼女の体温、心臓の鼓動。
再会する時まで、今感じた全てを忘れないで居よう……そう、僕は決意した。来夜もまた、同じ決意をしてくれていたら、嬉しいと思う。
けど、彼女の心は、今の僕にはわかりそうにない。
「じゃあ……」
僕が口を開いた時、もう彼女は居なかった。
僕は、彼女がこの世から消え失せてしまったのでは、と、そう思った。
現在。
生徒会室には、沈黙が流れていた。
あの時の病室を思わず想起してしまう。それぐらい、あの夜の出来事の印象は強烈だった……思い出であり、トラウマ。いや、あれが心の傷だなんて言ったら、来夜さんに悪い。
がたっ、と音を立てて、椅子が引かれる。
僕の隣、些希さんのものだった。
彼女は声もなく、僕に手を差し伸べた。鞄を肩に背負い、退出するつもりらしい。
僕は、今までどんな女性にも、来夜さんの影を重ねたことはない。些希さんにもまた、そんなことはない。
でも、その手を取り、立ち上がった時の僕の顔は……彼女に見せたものと同じだったと思う。
「帰ろっか。些希さん」
「ええ。一度寮に戻ったら、先輩へのお返しを買いに行くのも忘れないでね」
僕の本命は、未だに多分、来夜さんだ。
だけど、僕と彼女が再会して、昔の様な関係をやり直すのは、まだまだ先の未来の話。
そう思っていた。
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