カゼキリ風来帖(1) ~ 八霊名水の章
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 風のらせん。

 ビュウビュウと渦を巻くように風が流れる渓谷がそこにある。

 そこは今日まで、数々の人間の魂を吸い込んできたことで知られる……所謂、自殺の名所といわれる場所であった。

 

 今日もまた、そこへ一人の人間がやってきた訳だが……

 「…………あぁ」

 その人間、野崎あやかという。

 見たところ、特にさしたる特徴のない普通の少女だが、よく見てみるとその様子は何処か物憂げに見て取れる。

 「ううっ」

 と、少女の身体を風が撫でた。冷たい風が少女の身体に当たると、途端に、風が強さを増した。

 「…………」

 少女の存在が風の流れを遮る。この渓谷を流れる<風>にとって、これほど不快なものはない。

 それは川の流れに等しいものだ。川の流れを大岩でせき止めようものならば、川の水は行き場を求めて四方八方へと激しく飛び散らざるを得ない。川を流れる水にとっては本当に迷惑な話だろう。

 

 それはさておき……

 

 「…………」

 ひと思いに吹き飛ばしてしまおう、か。

 そう<風>が思い至った時であった。

 「風さん……」

 不意に少女……野崎あやかが声を発した。<風>は思わずぴたりと止まった。

 「私は、もう生きるのが嫌になりました。人というものが信じられない……そう、私は弱い」

 それを聞くや否や、風は再びざわめきたった。

 人間の戯言だ。このような戯言を吐く人間は、今まで無数にいたものだ。

 人間が弱い……というのは確かなことである。現に、今までこの渓谷へやってきた人間というのは、皆、風に煽られては力なく消えていったものだ。

 それはこの野崎あやかとて例外ではないだろう。

 <風>は低い狼のような唸り声を上げて渓谷を駆け抜けた。これは呪いの言葉である。

 この渓谷で命を落としたものが不浄のもの<浪霊>とならない為の言葉であり、吹き荒れる<風>のせめてもの情けとも言える。

 ビュウウ……

 と、地鳴りのような風音が頂点に極まったとき、野崎あやかの身体が揺れた。

 肩まである黒い髪が大きくなびき、ついにその身体が前へと傾いた。

 

 「…………」

 

 激流のような強い風が、野崎あやかの身体を前へ前へと押し流し、そしてその姿はたちまちの内に見えなくなった……。

 あっという間のことであった。

 

 

 それを見届けると、<風>は平静を取り戻し、再び、静かに流れ始めた。

 何事もなかったかのように、渓谷の時は静かに流れてゆく……。

 あの少女の姿はここにはない。

 

 

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 黒い髪が風に乗り、さらさらと流れるようになびいている。

 「……はい。今日も侵入者の人間を3人、殺してきました」

 そう声を上げたのは風切あやか、歳にして16歳ほどの少女である。

 髪に隠れてよくは見えないが、その額に巻いているはちがねが銀色にきらりと光った。

 「今日もご苦労さまです。あやか」

 風切あやかが顔を上げると、そこにはもう一人の少女がいる。

 風切あやかと比べると3,4歳ほど年上だろうか……凜とした顔つきに細身の身体をした、何処か儚げな印象を持つ少女である。

 二人の周りには人影のように木々がひしめき合っているが、本当の人影というのは、この二人をおいては他には居ない。

 

 さて……

 

 この儚げな印象を持つ少女、名前は高山はるかという。

 高山はるかと風切あやか、二人は<八霊山>を外からの脅威から守る<護山家>という組織に属しており、人間社会で言うところの部下と上司の関係に当たる。

 八霊山とは人間社会から離れた霊山である。そこには精霊をはじめ、様々な生物が生活を営んでいる。そして、<護山家>とは、その八霊山を災害や外からの脅威から守る組織である。

 

 

 「風切あやか。私は常々思っているのですが、今日はひとつ、それを聞いても宜しいでしょうか?」

 「はい。なんでしょうか」

 高山はるかは無表情のまま風切あやかを見た。その目は大きく開かれていて、その目には針のような光が浮かんでいる。

 「私はあなたを山の者へと変えた。そして今日に至るまで、護山家として侵入する脅威、その全てに対してその始末を命じてきた訳だが……」

 高山はるかが言葉を止めた。

 一度、木々の間から見える風景に目を動かし、そしてすぐに視線を風切あやかへと戻すと、

 「あなたはそれをどう思う?もとは同じ種族であった人間を殺すことに何を覚える?私はそれが聞きたい」

 高山はるかの言葉は重い。ずんとした岩のような重みがある。しかし、風切あやかはそれに動じずに、

 「私は……」

 赤い瞳を炎のようにたぎらせ、

 「私はそれに喜びを感じています。この八霊山へ来る人間は、全て、この山にあるという宝物を目当てにしています。そんな汚い……人間を殺すこと、それに私は無上の喜びを感じるのです」

 「そうか」

 風切あやかの言葉も、高山はるかのそれのように不気味な力を持っている。だが、先程の風切あやかと同じ様に、高山はるかにも驚きや戸惑いは微塵もなかった。

 

 そもそも風切あやかは人間を嫌っている……というよりも憎んでいる。

 それは風切あやか……いや、野崎あやかを拾った時に高山はるかは感じていた。

 野崎あやかを拾ったのには訳がある……

 その頃の高山はるかは護山家の中間管理職たる<まとめ役>への昇進を果たし、自由に動かせる部下を求めていた。しかし、ある理由から高山はるかの元へは部下は集まらなかった……これについては今は語ることではないが、それが為に、八霊山のはずれで倒れていた野崎あやかに転生の儀を施し、護山家へと引き入れたのだった。

 転生の儀を施し、人間としての野崎あやかを捨てさせた時、野崎あやかの身体からは、もくもくと憎悪の念が煙のように立ち上ったのを高山はるかは昨日のことのように覚えている。

 

 転生の儀を行い、山の者となった風切あやかこと野崎あやかには人間の頃の記憶はない。

 しかし、それでいて人間への憎悪の念というのは未だに風切あやかの心へ染み付いていて離れないらしい。

 一体何があったのか……それは高山はるかの知るところではないし、詮索するつもりもない。

 ただ、今日は覚悟を聞いておきたかったのだ。元同族を殺すことのである。

 

 「はい。分かりました」

 一変して高山はるかの口調が軽くなり、

 「あぁ、そうです。昼頃に 蒼水れい が来ました。あなたに会いたがっている様子でしたよ。いつもの川辺で待っている、と言っていました」

 そう言うと、高山はるかは腰元へ下げた水筒へと手を伸ばした。

 灰色の軽い石を削って作られたその水筒は、意外にも形が整っている。

 「また、れいは八霊の水を置いていったのですね」

 「はい。彼女達、水の精はしきりに水を勧めますね。まぁ、不味くはないですし、悪いものではないのですがね……どうも不思議なものですよ」

 ぽん、と水筒の蓋を取ると、高山はるかはこくこくと八霊の水を飲み始めた。

 その様子を風切あやかが伺うと、

 「それでは、私はれいの所へ行ってきます。今日、殺した人間の死体は、いつもどおり山陰奈落へと捨てておきますので」

 「……はい」

 高山はるかは水筒を口から離すと、青い青い空を見ていた。

 風切あやかはその場から疾風のごとく姿を消した。

 

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 八霊山の中腹には山水の集まる湖がある。

 その湖の水は透き通るように蒼く、そして涼しげに輝いている。

 その湖より流れる川より少し下ったところに、一人の人影を見出すことが出来た。

 水の精霊が一人、蒼水れいである。

 

 彼女はこうしていつも川縁に佇んでいる。誰が何時見ても川縁でぼんやりと佇んでいるのだ。だから、八霊山に住む誰もが彼女の事を余りよくは知らない。

 彼女のことを知る者が居るとするならば、それは彼女達、水の精の頂点に位置する水霊さまであろう。……しかし、その水霊さまこそ、その正体から全てを……知るものはいない。

 だから、水の精霊については八霊山の殆どのものが、

 「分からない……」

 のである。

 分かっているとすれば、八霊山の水を司る種族であるということのものだ。

 

 

 さて……

 

 

 その蒼水れいは風切あやかの姿を見るなり、立ち上がり、

 「おお、来たねえ、来たねえ!待っていましたよ」

 と、手を振った。

 霧のように白い肌、水色の髪、それにこの笑顔である。

 「相変わらず色が白い。少しは太陽の光にでも当たったらどうだ」

 蒼水れいの色の白さには常々目がついている風切あやかだった。今日も挨拶代わりにそれを言ってやると、

 「ははっ、川の水が汚れぬ限りは私の肌も白いままよ!もっとも、川を汚す輩は私が殺し、奈落へ放り込む。これじゃ、私の肌が焼ける筈もないね」

 青い水面に映る自分の顔を眺めながら、蒼水れいは笑った。

 何処か冷たいものがある笑顔であった。

 風切あやかはそんな彼女の笑顔に小さく恐怖を抱くことがしばしばあるのだ。それは、

 「蒼水れいの攻撃対象が自分と違って無差別であるということ」

 にある。

 風切あやかの攻撃対象は、主に山に侵入する外敵や脅威に限られている。

 その一方で蒼水れいはというと……

 「水を汚すものは水に落ちねえ」

 というのだ。

 つまり、水を汚すならば、誰であっても手にかけるということなのだ。風切あやかだとて、それは例外ではないだろう。

 蒼水れいが笑う。

 

 

 「それで今日は私に何のよう用だ。また水を勧めるつもりなのか?」

 風切あやかはすっと向かいの岩場に腰を下ろした。

 怖さはあっても、川を汚しさえしなければ何の脅威もない蒼水れいである。

 「あぁ、そうだね。今日は一体、何人の人間を殺したんだい?」

 「3人」

 「おぉ、それはそれは……さすが、働き者のあやかちゃんだぁねえ。たまには一人くらい見逃しておやりよ。そうすれば、この八霊名水の素晴らしさ、人間共にも伝わるものなのだがねえ」

 くっくっく、と例の笑顔である。

 

 ふん……

 

 風切あやかはこれを無視して川の流れに目をやり、

 「そんなことをしてみろ。汚い人間の事だ、一気に侵入して来て、山や川を徹底的に汚すぞ」

 「おぉ、怖いねえ怖いねえ」

 怖いのはどちらであろうか。

 「でもさ……そんな人間でも、八霊名水を飲めばきっと綺麗になるはずだよ。なんせ私が育てた八霊名水だ。心身ともに洗われないはずがない」

 「水にそんな力があるものか」

 さっと風切あやかは言い捨てた。そして、

 「人間はとても汚い生き物だ。それは後にも先にも同じこと。いくら、れいの水を飲んでもそれは変わらない。……分かったらさっさと行くよ?今日は未だに人間の死体を処分してないんだ」

 

 勿論、これは建前である。

 八霊名水のこととなると蒼水れいの話は長い……聞いていてうんざりするほどなのだ。

 だから、適当に話を切り上げてやるのが良い、それに、

 「人間の死体は放っておくと腐敗する」

 という事情もある。

 ただでさえ汚いのに腐敗するとなると堪ったものではない。

 今日は途中で高山はるかの呼び出しがあったので、死体の処理が済んでいないのだ。そして、蒼水れいの口実とする為にこうして処分はしていないというのもある。

 風切あやかはすっと立ち上がった。髪が風に揺れる。

 「それじゃ、私は行くぞ」

 跳躍のために足元へ力を入れたその時……

 「まっ……待ったぁ!」

 風切あやかの脚が不意にがくっと重くなった。忌々しげに足元を見やると蒼水れいが、

 「離すものか!」

 と、言わんばかりに脚にしがみついているではないか。

 

 (何だ何だ……?)

 

 風切あやかは脚に込めた力を抜き、ぶんぶんと前後に脚を振ってみた。

 「むぅ!」

 蒼水れいは離れなかった。しがみついたままの姿勢で顔を上げると、

 「それなら、その人間の死体に我が八霊名水を飲ませてみよう!いくら人間の穢れた死体であっても、きっと綺麗に浄化されるに違いない」

 「…………」

 風切あやかは厄介そうに蒼水れいを睨み、

 「はぁ……」

 一つ大きな溜息を吐くと、

 「そんな水にそんな力が……汚い人間に効く訳がないだろう」

 そういうと、蒼水れいがしがみついている脚を大きく前へと振ってやった。堪らず、蒼水れいは振り飛ばされた……がしかし、そこは流石に水の精である。雨水のごとく、地面に垂直に着地した。

 

 そして、にかりと肌と同じ真っ白な歯を見せると、

「面白い。その挑戦、受けた!」

と笑った。

 顔も白い蒼水れいが言うのだから、もっともなことであった。

 

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 人間、川岸みなもが友人二人と八霊山へ入ったのは朝の9時ごろであっただろうか。

 人間の世界では八霊山は<神の山>と呼ばれており、山に入ったものは、ことごとく神隠しに遭い髪の毛の一本ですら外へ出ない……というのが近隣の里に住む老人の脅しであった。

 

 がしかし、今年で18歳の川岸みなもとその友人2人は、その若さによる好奇心から、思わずして八霊山へ入ろうと計画したのが1年前の事であった。

 調べれば調べるほどに神秘に溢れる八霊山である。老人達の話など、所詮は八霊山へ足を踏み入れさせないための方便だと都合よく解釈し、意気揚々に今日、八霊山に足を踏み入れたものだが……

 

 「あっ……」

 

 と、前を歩く友人二人が倒れたと思いきや、

 

 「えっ……」

 

 次には自分が地に伏していた。

 

 何が起こったかは分からない。ただ、声も出せず、首元に焼けるような熱さを感じ、さあっと意識が消えていった。

 この一瞬の出来事は、護山家である風切あやかの仕業である。しかしながら、川岸みなもを含め、その3人は誰一人としてそれに気付くことはできなかったのであった。

 

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 「ほほほ、こいつらが今日、あやかちゃんが仕留めた人間達だあねぇ」

 にこにこと微笑みながら、とうに死んでいる川岸みなもとその友人2を見下ろしているのは水の精霊の蒼水れいである。

 「それにしても綺麗に殺したねぇ。首も身体もとっても綺麗だよ……はっはっは」

 「ふん。あんまり派手にやると衣が血で汚れるからな」

 蒼水れいは死体の近くにしゃがみ込み、くいっと川岸みなもの顎元を上げてやり、その死顔を堪能し始めた。

 (そんなものを見て何が楽しいものか……)

 その様子を風切あやかは冷ややかに見ていた。背は木に預けている。

 

 「じゃあ、決めた。こいつに八霊名水を飲ませてやろう」

 「ん、こいつ?他の二人はいいのか?」

 「ああ、他の二人はいらないや。私はこいつが気に入ったの」

 

 そう言うと、蒼水れいは自分の気に入った川岸みなもの死体の口を開けてやると、腰に下げていた水筒を掴み、それを川岸みなもの口へと流していった。

 (あんな死体に水を飲ませて一体何になるものか)

 風切あやかは腕を組んでそれを見ていた。顔は不機嫌そうに歪んでいる。

 その一方で、蒼水れいは楽しそうに水を死体の口に注ぎ込んでいる。

 「ら~らっらら~。るんるんらぁ♪」

 ついには鼻歌まで歌いだした。

 とんとん、と知らず知らずのうちにそれに合わせて靴を鳴らす風切あやかである。眉間にはしわが寄っている。

 

 

 そして、3分ほど経った頃だろうか……

 「おっ、おおおお!?」

 蒼水れいが驚きの声を上げた。

 (……なんだ!?)

 少し眠気に襲われ、うとうととしていた風切あやかははっと我にかえると、ばっちりと目を光らせ、

 (何事か……!?)

 と、声をあげた蒼水れいを見るや、風切あやかは声を失った。

 

 「うっ……うーん」

 

 声をあげ、身体を起こすものがあった。それが他ならぬ自分が殺した人間であったから、風切あやかは声もでないのである。

 

 「おっ、おい!これはどういうことだ!?その人間は確かに殺したはずだぞ」

 「ふっふっふ。これが八霊名水の力だあねぇ。私が育てた水の力でこの人間は生き返ったのさ」

 最初から分かっていたとばかりに、蒼水れいはにやにやと笑い、

 「もっとも……こいつはもう人間じゃないがね。汚れを浄化しちまったからさ」

 笑いながら、とぼけた顔をして目をぱちくりとさせている元人間たる川岸みなもの頭をさすってみせた。

 その様子には流石の風切あやかもぞっとするものが走った。けれども、

 「さ、これで名水の力が本物だと分かったね。八霊名水は至高の水さ。さぁ、名水を飲もうよ」

 などと、急に明るい調子で笑うものだから、それも気のせいであったかのように思えてしまう風切あやかである。

 「はぁ……」

 風切あやかは大きく溜息を吐くと、

 

 「分かった分かった。お前の水は本物だ」

 

 心の何処かで納得できない部分はあるのだが、そればかりは認めざるを得ないのだった。

 

 

 

 ところで……

 

 この人間……あぁ、元人間というべき川岸みなも。

 彼女は全てを水に流してしまったように、人間の頃の記憶を失ってしまったそうな。

 そして水に流されるがごとく、蒼水れいが彼女を仲間として引き取ってしまったというのは、この場を借りて明らかにしておくとしよう。

 

 何も知らず、何もなかったように今日も水は流れていく。

 

                                     ~ 八霊名水の章  完

説明
オリジナル小説になります。山とそこに住む者達が織り成す、様々な物語です。
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