キケンカノジョ Part1
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一章

 

佐川衛(ルビ:さがわまもる)は、落ち込んでいた。

親友の頼みで、ややこしい事をやらされようとしているからだ。

 そんなことになったのも、彼には東雲優(ルビ:しののめゆう)というひとつ年上の幼馴染がいるからだった。ドラマや漫画などではとてもよいポジションだと扱われるだろう。けど、定義としての幼馴染は文字通り幼いころからつきあいがあれば、自然の成り行きで幼なじみというのはそう珍しいものではない、向かいの家に住んでいるので、必然的にそのポジションを手に入る。現に衛と優の関係は、たいして特別なものではない。小学校の頃までは近所の子供たちと遊んでいた。お互いに男と女ということを意識しはじめた中学くらいからは、ベタベタした付き合いではなく、かといって疎遠でもない適度な距離を保ちつつ付き合っている。

 現在、衛は私立七曜高校の二年生、そして優はおなじく三年生で、あと一年ほどで優はこの学校から旅立つはずだ。

 そこに、黒田三郎(ルビ:くろださぶろう)という親友の存在が関わってくる。小学校のころからで野球一筋で、七曜高校でも野球部で活躍していた。一時期、野球部に在籍し、ピッチャーを目指していた衛は、そのときに、キャッチャーだった三郎とバッテリーを組み親しくなったのである。三郎は、自分の三年間の青春を甲子園に捧げようとしていたのだが、運命というものは皮肉なもので、正月明けのトレーニングで肩を壊して野球の道を断たれてしまった。これまで打ち込んできたものが、ぽっかりとなくなったとき、その穴を埋めたいという欲求が沸き起こったのである。そこで、たまたま目にとまったのが優という存在であった。三郎は、衛と優の関係というのは、承知していた。そこで、衛に仲介を頼むのは、ごく自然の流れと言うべきだろう。むしろ、三郎にしては、とてもうまいことを考えたというべきか。

 はじめ、話を聞いたとき、本当に衛は寒気がした。先に述べたとおり、優とは仲が悪いわけではない。むしろ、同世代の女友達よりか、よっぽど仲がいいだろう。貿易会社を経営して世界中を飛び回る優の父親が居ないときは、衛の母親が、優と優の母親を呼んで食事をしたりもする。けれど、使い古された言い方かもしれないが、恋のキューピッドというのは、どうにもいただけない。この手のことに、関わると、衛が「ケガ」をしかねない。物理的ではなく心理的な意味で。

 そこを、三郎は強引に、衛を巻き込んでしまった。

 

 衛は、ため息をつく。

「いまどき、手紙、ね」

 その手には、三郎が汚い文字で、東雲優さまへ、と書いたラブレターが握られていた。たしかに、優のメルアドを知らない三郎としては、アナログな手段に頼らざるを得ないだろう。衛は知っていたが、優に無断で三郎に教える事は出来ないし、そんな方法で連絡をとったところで、気味悪がられるだけだ。

 衛は、放課後、話があると優に伝えて、教室に残ってもらっている。

 階段を上り、三年生の階に行く。

 三年一組、三年二組、三年三組、優のクラスはここだ。

 入り口からそっと中をうかがう。

 掃除は終わり、残っているのは数人の男子生徒、そして優だった。

 優は机に座って、本を読んでいる。窓から入る夕日のオレンジが優の肩までのびている黒髪を紅く染めていた。人形のように透き通った白い肌と整った綺麗な顔は、昔から知っている衛としても、ドキリとする。三郎が惚れるのも無理はない。多分、幼馴染という余計なフィルターさえなければ、衛だって好きになっていたかもしれない。

 男子生徒の中にも、チラチラと優のことを見ているものがいた。それも無理ないことだろう。

(けど、人がいるところでは、話がしずらいな)

 とりあえず、場所を変えるほうがいいだろう。

 手紙をブレザーの内ポケットにしまうと、優のところへと向かった。

「ごめん、優姉さん。お待たせ」

「ううん、別にかまわない。……それで、話って?」

「いや、出来れば、ふたりきりで話をしたいんだ。ちょっと場所を変えてもいいかな?」

「……そう」

 優は、本に薄い金属のプレートで出来たしおりをはさむと、鞄にしまった。

「何を読んでいたの?」

「ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』。衛は読んだ事、ある?」

「ああと、何年か前にドラマにもなってたよね。本は読んだことはないな。どうも、好みではないから。知的障害の人が手術で頭が良くなったけど結局元に戻ってしまった、っていうおおまかなあらすじは知っている」

「あれは、話の大筋は、同じだけど、別物と考えたほうがいいわね。まぁ、何事にも賛否と言うものがあるから、あれを良いという人もいるのでしょうけど。私は、ちょっと受け付けられなかった」

「……そうなんだ」

「何度も読んでいるのだけれども、私はチャーリーが本当に幸せなのか、っていうことがわからないの。手に入れたものを失うというのは、元から何ももっていないことよりも不幸ではないかしら。しかも、知性だけでなく、愛すら失ってしまった。それでも、本来ならば手に入れることが出来なかったもの、見ることが出来なかったものを見ることができたと言う意味で、幸福なのかしら。衛はどう思う?」

「俺は、……幸福だと思う。だって、思い出は残るから、それは、誰にも奪うことが出来ないから。なにより、誰かを愛しあったということは、誰かに愛されたということだよ。それは、とても幸せな事だと思う」

「……。衛は、本当にいい子なのね」

 その言葉には、皮肉の棘があるように感じた。

「でも、私は、何かを失うのは怖いわ。だから、はじめから誰も……」

 そういうと、優は立ち上がった。衛には、何を言いたいのかわからなかった。

「それで、どこへ行くの?」

「ついてきて」

 一応、ふたりきりになれる場所のあてはあった。衛の後ろを優がついていく。教室の後ろに居る男子生徒たちは、その光景をじっと見ていた。まるで、獲物を取られたかのように。

(厄介だな。優姉さんの人気があるのはいいけど、それが近づく人間を傷つけかねない)

 三郎の告白が上手くいったところで、その洗礼をあびることは、想像に難くない。もちろん、三郎くらいのパワーがあれば、それも跳ね除ける事が出来るかもしれないが、無傷ではすまないだろう。

 そんな事を考えているうちに、衛の教室についた。

 ここは、出るときに誰もいなかったので、邪魔ものはいないはずだ。

 ドアを開けて中に入ると、思ったとおり誰もいない。

 教壇を挟んで、衛と優が見つめあう。

「衛、もういいでしょう。話は何?」

 衛は、胸から手紙を取り出して、優に突き出した。

「これ、渡してくれって、頼まれたんだ」

 優の眉間に皺がよった。その瞳に、不快感の炎がゆらめいていた。

(ヤバイ!)

 この表情をしたとき、優の怒りはかなり高いレベルだ。子供の頃であったならば、口よりも先に手が動いていただろう。だが、言い訳をするならば、優をからかうための、こんなことをしているわけではないのだ。手紙だって三郎が真剣に(衛としてはそう信じているのだが)書いたものなのだ。それを読む前に、怒らないで欲しい。衛は祈った。

「ねぇ、優姉さん。俺は別に無理に付き合えって言いに来たわけじゃないんだ。ただ、優姉さんの事が気になるってヤツがいて、それでこれを渡して欲しいって頼まれただけなんだ。これを読んで返事をしてくれるなら、後はもうかまわない。優姉さんが本当に嫌なら、断ればいいんだから、ね? ね?」

(三郎、スマン。俺に出来るのはこの程度だ)

 心の中で、三郎に謝る。衛としては、こうしてメッセンジャーを努めるだけでも大変なのだ。それ以上のフォローは、衛のキャパシティを越えている。

 なんとか、必死に訴えかける衛の言葉に、優はまだ表情は変わらないものの、黙って手紙を受け取った。封筒の端を手でちぎりつつ、中に入っている便箋に目を通す。

 手紙をひとまず読んでくれたことに、衛はホッと胸を撫で下ろした。これで、衛の役目は終わったと言えるだろう。あとの返事がどうなろうと、三郎には気の毒だが知った事ではない。

 だが、それが幻想である事をすぐに悟った。

 様子がおかしい。優の手がブルブルと震えている。そして、瞳が噴火寸前までにギラギラとしていた。

「衛、このバカにきちんと断っておいて!」

 というや否や、視界が何かで塞がれた。一瞬おいて、それが三郎の手紙である事に気がつく。と同時に、鳩尾にとてつもない衝撃が走った。息が出来ない。今自分が誰なのかさえわからなくなった。

「がっ、がはぁ」

 立っている事が出来ず、くの字におり曲がった。目からは涙が止め処なく溢れてくる。視界から手紙が重力にしたがって落ちても、涙で滲んで何も見えない。耳には、バタバタと優がかけていく音が聞こえた。

 呼吸をなんとかできるようになって、立ち上がる。少し、ふらつくが今はどうでもいい。

「てててっ、三郎め。一体、どんなことを書いたんだ?」

 プライバシーなど、このような実害を受けた身としては、配慮する必要も無いだろう。床に落ちた便箋を拾い上げる。だが、それには、何かがホッチキスでくっついていた。

 それがなにかを確認した瞬間、衛の中で何かが崩れ去った。

「バカにつける薬はねぇ」

 即座に破り捨てる。

 手紙にくっついていたのは、ブーメランパンツをはいた三郎が、ボディービルダーよろしくポーズを決めている写真だった。なにか、体が異様にテカっている。これはオイルを塗っているのか?

 本文を読むと、俺の大胸筋が東雲先輩を求めている、なんて、どこの世界で通用する口説き文句だよ、と突っ込みたい言葉を皮切りに、もう日本語とは思えないものが並んでいる。三郎の頭は、ある種の悟りをひらいてしまったのではないか。同好の士がいるならば、そこで仲良くやって欲しい。

 しかし、こんなことで、衛が被害を受けたと言う事は、紛れもない事実だ。この貸しは、三倍どころか、十倍でも足りないくらいだ。

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 夜、優に電話をしてみたが、いっこうにとってくれない。

 着信拒否されないだけでもましかもしれない。

 続いて三郎にかける。こちらは、数コールでつながった。

『どうだった?』

 三郎の第一声は、まるで失敗など頭からないような明るさだった。それがイラつく。

「お前の気持ち悪い写真見て、優姉さんマジギレしてたぞ! あんなもんで、女口説けると思うなよ! お前は脳みそまで、筋肉でできているのか!」

『なんだと! あれ以上に俺をアピールできるものはないだろ! 自分で言うのも何だがイイ筋肉だとおもうんだぜ。伊達に鍛えてきたわけじゃない』

「はっきり言うが、それにつられてくるのはホモだけだ。ハッテン場に行け!」

『まあ、そういう趣味の奴らも知り合いにはいるがな。どうにも、俺は受け入れられないな。正直、気持ち悪い』

「自分がやられて嫌なことを、他人にするなと、小さい頃に教わらなかったのか?」

『だって、男と女じゃあ、感じ方が違うかなって。野球やってたときには、フェンス越しに女の子が結構見かけたし。ああ、でも、お前に頼んで駄目だったら、俺はどうしたらいいんだ?』

「……知るかよ」

 もう、三郎と話すのも疲れる。

「ともかく、俺が出来るのは、これまでだ。後は、自分でやれ。――とはいっても、優姉さんがお前をみたら、ほぼ百パー逃げるだろうな。がんばれよ」

『え〜、そん』

 何か言う前に、通話を立ちきる。

「はぁ」なんで、このような面倒くさいことに、巻き込まれなければならないのだろうか。ため息をつきながら、ベッドに横たわる。胃がキリキリと痛むような気がする。

 優が怒ったのは、間違いなく三郎のせいだ。しかし、それを持ってきた衛にタイしても、おなじくらい、いやそれ以上に起こっているかも知れない。優のことをよく知っているのにもかかわらず、あんなものを持ってきたのだから。

 からかうつもりはなかった。断じてない。なんというか、衛は友情ゆえの義務感で動いただけなのだ。それが、たとえ、衛自身が乗り気でなかったとしても。

 こうなってみると、やはり、「ケガ」をするかもしれないという予感は当たっていた。この「ケガ」を治すには、一朝一夕ではできないだろう。

 ベッドから起きて、そっと窓へ近づく。二階にある衛の部屋は道路に面しており、窓からは優の家が見える。カーテンをわずかに空けて、向かいの家の様子をのぞく。

 ちょうど真正面にあるはずの優の部屋には、明かりがついていなかった。

「……いない、か」

 少し、ほっとする。

 しかし、どうしたものか。本当に困ったことになった。

(それにしても、優姉さんは、本当に綺麗になったな)

 教室で衛を待っていた優の姿が脳裏に浮かぶ。しかし、『アルジャーノンに花束を』について語ったとき、ふと見えた厭世観のようなものは、果たしてどういう意味だったのか。若い優には、全くに似合わないもののように思えた。

 ふいに、ケータイが鳴った。ディスプレイには、担任の安本蒼太(ルビ:やすもとそうた)と出ている。

「なんだろう?」まだ、新しいクラスになってから日も浅く、担任になった安本のこともあまりよく知らない。学校のことだろうか。ともかく、出てみなければ。

「もしもし」

『佐川くん、すまないが今時間あるかな?』

「大丈夫ですよ。なんです?」

『うん、頼みたいことがあるんだけど、君、細川義和(ほそかわよしかず)って子と仲がいいんだって?』

「義和は、友達ですけど?」

『それで、彼の家について何か知っていないかな?』

「……」

 心当たりはある。といっても、学校に口出しされるような領分の話ではない。ただ、義和の家族は、両親も含めて、あまり仲がよくないということだ。義和自身の口から、父親には愛人がいる、ということも聞いたことがある。

 それでも、義和は義和だし、それで、友達をやめるような気にはならない。逆に、それで、義和のことを馬鹿にするヤツがいたら、許さないだろう。

『その様子じゃあ、知っているようだね。これで、話が本当だという裏付けがとれたよ』

「何が言いたいんですか? 教師が生徒のゴシップ探しですか?」

 衛の言葉には、理不尽なことに反抗する若者らしい怒りが込められていた。

『別に、そういうつもりはない。細川くんだって、立派なうちの生徒だ。成績だって特に文句をつけるところはない。……ただね。大人の世界には、それだけでは住まないところがある。たとえば、彼が大学の推薦をとれるかどうか、というときに、家庭の問題を持ち出して、彼がふさわしくない、という人が出てくるかも知れないからね』

「……で、実際にそういう人いるわけですか?」

『ふぅ、細川くんのために怒れる君だからこそいうがね。いるんだよ。厄介なことに。そして、七曜高校の理事の中にも、その意見に同調しかねない人がいる』

「そんな!」

「噺は最後まで聞きなさい。少なくとも、校長や私は、そういうことで生徒を差別するのは好まない。だが、まだ受験というものがみえないこの時期にまで、そういった下らないことでかき回そうという人たちは、私たちの気持ちなどお構いなしに、これからも同じことをするだろう。だからこそ、こちらとしても知っておくべきことを知っておかなければ、対策もとることが出来ない。そういうことで、私は細川くんの担任に頼まれてこうして君と話をしているわけだ」

「……先生は、義和の味方なんですね? 信じていいんですね?」

「言ったろう。私は、生徒を差別するのは好まないと」

 衛は、安堵した。この話を持ち出したのは、すくなくとも、安本の、教師としての良心から、と思っていいだろう。

(それにしても、誰が)

 義和の家のことは、ある程度仲がよい人間ならば、もしくは、近所の人間ならば知っていることだろう。陰口をたたくような噂好きもいることはいたし、距離をとった人間も知っている。だが、これは単なる陰口というものを超えてるのではないか。

『……気分を悪くさせたね。この話は、これでお終いにするから。学校とかで口外しないでくれるかな?』

「いいませんよ。……でも、また誰かがそんなつまらないことを言ったら、教えてください。俺は、義和のことが心配ですから」

『そうか。彼は、いい友達をもったね。まあ、私としても、出来る限りの配慮はしよう。ただし、噂が耳に入ったという程度で、誰が言っていたというのは、言う事が出来ない。それは、君にかえって害を与える情報だからね』

 電話越しで、顔が見えなかったが笑って言っているようだった。まっすぐな衛と義和の友情を、微笑ましくとらえたのだろう。

 役目を終えた携帯電話を机に置く。

 興奮がおさまり、体の血が一気に冷えたような気分になった。今日は、いろいろなことがあったような気がする。とても疲れた。体が重くなったような気がする。何もする気がおきない。あとは、風呂にでも入って寝よう。衛は、下着と寝間着をタンスから取り出すと、部屋の電気を消して階段を下りた。

 

「それじゃあ、これを訳してくれ。今日は四月二十日か。じゃあ出席番号が二十番。千葉、頼む」

 眼鏡をかけた女生徒が、黒板の前に出て、英語の下に和訳を書いていく。

 衛は、昨日はあまり寝られなかった。衛の席は窓際の後ろから二番目という好立地なので、居眠りには最適だ。教科書をたてて、すっとまぶたをとじる。

 心理的な疲労と、暖かい日差しで、すぐに眠りへと落ちていった。

 気がつくと、英語は二限目だったが、いつのまにか四限目の古文に切り替わっていた。つまりは、途中の数学は英語の教科書をどうどうとたてていたのにもかかわらず、とがめられたなかったわけだ。

「俺って影が薄いのか?」

 ぼそりと呟いた自分の言葉に、自分でショックを受けた。

(よくあることだ。そう、よく誰だって一度は経験することなんだ)

 なんとか、自分で自分をフォローする。周りの連中も、どうして、起こしてくれなかったのか。そう思うが、まだ、なじむ前のクラスでは、それも難しいことなのかも知れない。そっと、英語の教科書をしまい、数学を取り出す。だが、今どこをやっているのか、はっきりいってわからない。

 外に目をやる。そこに、遠目からでわかる優の体操着姿があった。

 結局、昨日はなんどかけても通じなかった。メールで、一応言い訳めいたことを送ったが、返信は来なかった。そのことで、優をひどいなんて言うことは出来ないだろう。

「佐川、外を見てないで、ちゃんとノートをとらないか」

 今まで放置をされていたので、その注意にビクッと体を震わせる。前を見ると、小太りの男が衛を見ていた。数学の鈴木だ。慌てて、ノートに黒板に書かれた解説を書き写していく。だが、途中でその文字は消されてしまった。

「ああ」

「これ、見る?」

 隣の席に座っている女生徒が声をかけてきた。確か、藤田奈緒子(ルビ:ふじたなおこ)。これまで、二三度くらいしか話をした記憶がない。

 奈緒子の机からすっとノートが差し出される。それを断ることも気分を悪くしそうだ。ありがたく受け取る。

 といっても、途中までは終わっているので、残りはそう多くはない。二分ほどで、作業は終わった。

「ありがとう、助かったよ」

「いいよ、気にしないで」

 残りの授業は、きちんと集中をして聞く。鈴木は脂汗が吹き出た額を、ズボンのポケットから取り出したハンカチでぬぐいながら黒板に書いていく。それが書き終わると、教団の上に置いていた紙を配り始めた。

「これは宿題だ。次回、提出するように。日直、号令」

「きりーつ、礼、着席」

 教壇の前に座っていたスポーツ刈りの男子生徒が、大きな声で号令をかける。衛は、前から流れてきた宿題の紙を受け取りつつ、一連の動作をした。

 ちょうど終わった瞬間にチャイムが鳴る。鈴木は、いつも時間配分がぴったりで、時計を見ているのかと思うのだが、まるで見ないでもきっかりに終わると言うことで、七曜高校の七不思議とも言われている。

「佐川くん、今日はよく寝てたね」

 奈緒子が笑いながら言った。

「ちょっと、機能は色々あって疲れ気味でね。どれだけ寝ても、寝不足の気分なんだ。それに、ほら、ここってぽかぽかしてるでしょ。なんか寝ちゃうんだよね」

「ああ、わかるよ〜。その気持ち」

「あれ、藤田さんは、昼は学食じゃないの? いつも一緒にいる子たちは、もう行っちゃったよ」

「うん、いつもはね。でも、ちょっと事情があって今日のお昼は抜くんだ」

「食べないんだ。でも、どうし」

 と、いいかけて、ふと気づいた。女の子がご飯を食べない理由として、一番考えられるのは、そう、ダイエットじゃないかと。これで、下手に話を振れば、恩を仇で返すことにはなりかねない。女心の難しさというのを、昨日あれほど知ったではないか。

 話題転換をしようと、記憶の引出から、奈緒子に関する情報を取り出す。

「えっと、藤田さんって、確か美術部だったよね。どういう絵を書くの?」

「なに、絵に興味あるの?」

「まあ、見るぶんにはね。描くのはさっぱりだよ。特に人物を描かせたら、悲惨なことになるね」

「あはは、まぁ、そればっかりは、人それぞれだしね。でも、練習である程度はうまくなれるよ。画家を目指すってなると、才能とか、運とか、お金とか必要になるけどね」

「……なんだか、生々しい話だね」

「でも、どこの世界でも、そうじゃない? カラオケで歌が上手い人だって、アーティストになれるわけじゃない。運動神経がいい人だって、スポーツ選手になるわけじゃない。ごくわずかな、プロとしてやっていくためのチャンスを努力やお金で手に入れることが出来た人たちが、ゴールにたどり着くことが出来るんだから。――といっても、そこからまた次のスタートで、多くの人の期待に応え続けるという大きな責任を背負うことになるわ」

「藤田さんは、プロになりたいと思う?」

 奈緒子は首を横に振った。

「無理。あたしは先の見えないマラソンなんて出来ないもの。あたしの夢は、ごくささやかなもの」

「まさか、お嫁さん、なんてオチかな?」

「つまんなーい。なんで、わかっちゃうかな」

 最初は冗談かと思った、しかし、奈緒子が本当に、そう思っていることがわかると、思わず椅子からズレ落ちそうになった。いや、確かに最近は、専業主婦になりたいとう女性が増えているというが、まだ高校生のうちから、そんなことをいうなんて。小学生じゃあるまいし。

「でもね。楽をしたいからじゃないの」

「それじゃあ、どういう意味?」

「あたしはね。お母さんみたいになりたいの。今でも毎日お父さんと恋してるお母さんみたいに。だから、あたしと結婚する人は、浮気をするような人はダメ! あたしだけを見てくれて、あたしのことだけを考えてくれる人を探すの」

 思わず、顔がほころぶ。

「そんな風に思えるなんて、素敵なお母さんなんだね」

「でしょ。自慢のお母さんなんだから。あ、そうそう、はじめはあたしがどういう絵を描くか、だったっけ? う〜ん、あたしの絵は、実際にあるものじゃなくて、空想のものばかりなのよねぇ。ほら、童話の挿絵に出てくるような、ああいう絵なの」

「漫画とかアニメのじゃなくて?」

「うん、そういう絵を描く人たちは、確かにうちの部にもいるけど、あたしはね、佐藤さとる先生の『コロボックル』シリーズの絵を描いていた村上勉先生の絵が好きなの。読んだ事あるでしょ」

「『誰も知らない小さな国』とか、小さい頃に読んだことはあるよ。確かに、素敵な絵だとはおもうけど、ちょっぴり怖くはないかな? あの黒くて大きな目とか」

「わかってないわね。あの目も十分魅力的じゃない。可愛らしいミツバチみたいで」

 少し、奈緒子の声のトーンが大きくなったような気がする。好きなものにケチをつけられて、気分が高ぶったのだろう。衛は、しまった、と思いつつも、

「そうだね」と何度も頷いて、なんとか話を胴体着陸させようとした。

 そこで気がつく。このままでは、衛も昼抜きになりそうだ。

「藤田さん、話の途中で悪いけど、俺学食にいってくるよ」

 奈緒子は、そこで、自分が身を乗り出して演説していることに気がついた。コホンと咳払いをすると、にっこりと笑顔を浮かべる。

「うん、行ってらっしゃい」

 衛は、風のように教室を抜け出した。

(驚いた。どこに地雷があるのか、まったくわからないもんだな)

 学食についたときには、すでに熾烈な競争は終わっており、残っているのは素うどんとカピカピに乾いた五目ご飯だけとなっていた。衛は、諦めて、素うどんをすすりながら、もう、同じ失敗を繰り返さないと誓った。

(しかし、お嫁さんになりたい、というのは意外と家庭的なんだな。勉強も出来るから、そのまま進学して、どっかの会社に行きそうな印象だったけど)

 奈緒子の語る母親というのは、とても素敵だった。

 そこで、自分の母親を思い浮かべてみる。

 佐川光子、四十八歳。若い頃はやせていたと言うが、今では立派なおばさん体型。こんな母親が、毎日父親と新婚家庭みたいにふるまっていたら。

 背中に、嫌な汗が噴き出してきた。想像したくもない。やはり、何事にも、様になるものと、様にならないものがいる。佐川家は確実に後者である。

(藤田さんなら、きっと叶うだろうな。……俺は、なにかあるだろうか。夢、目標。そうなりたいとおもうことはあるけど、まだ、それに向かって行動していないな)

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 それから、一週間ほど経った放課後、帰ろうとしていた衛は奈緒子に呼び止められた。

「ねぇ、佐川くんって、部活入ってないんでしょ?」

「入ってないよ。一年のときには、野球部にはいっってたけど、ちょっと先輩と揉めちゃって、辞めたんだ」

「なら、ウチに入ってみない?」

「ウチって美術部? この前言ったように、絵の才能は全くないよ!」

 胸を張って言い切る。

「いいの、いいの。人が欲しいだけだから」

「人が? 美術部って、そんなにヤバイの?」

「ヤバイって、言葉はどうかとおもうけど。ほら、ウチで漫画とかアニメの絵だけを描いている人たちがいるって言ったでしょう。その人達が、美術部から独立して漫画研究会つくるってなってね。人が結構減っちゃったの。だから、その穴埋め。人がいないと、予算が減っちゃうんだよ」

「美術部って、そんなにお金が必要なの?」

「まぁね。画材って結構高いんだよ。あと、陶芸とかステンドグラスとかやってる人もいるし、自腹で材料とか機械をそろえるのって、限界があるんだよね」

「随分と、はっきりと言うんだね。でも、そういう事情なら、断ることもできないか。まあ、いいよ。ただし、幽霊部員でよければね」

「ありがとう! やっぱり、佐川くんって優しいんだね。先生がいったとおりだ」

「先生?」

「そう、担任の安本先生。美術部の顧問もやってるんだよ。人が足りないって困ってたら、佐川くんに声をかけてみればって」

 なんとなく、納得がいった。急に、こんな話を奈緒子が持ちかけてくるのなんて、不自然すぎるのだ。だが、義和の一件のこともあり、おそらく衛の人柄、みたいなものを知ったということを考えれば、十分に筋が通る。

 なんだか、うまく利用されたかな、と思うが、こういうのも別にいいかなとも思う。

「それじゃあ、明日、入部届もらってくるから、それに名前とか書いてくれる?」

「りょーかい。それじゃあ。俺、帰るね」

 といって、歩き出そうとすると、奈緒子が手を掴んだ。

「待って、このあと、時間ある? 入部する前に、ちょっと部活の様子を見て見ない?」

「でも、俺は、名前だけなんでしょ?」

「うん、そうなんだけどね。もし、興味が出たら、ホントにやってみるのもいいでしょ?」

 奈緒子は、短い栗色の髪を、指先でいじりながら訊ねる。言葉を紡ぐ、淡い赤色の唇に、衛の心臓が反応したが、その動揺を表に出さないように必死に頑張る。

 良くも悪くも、衛は健全な青年、ということだ。それを見透かしたかのように、奈緒子はすっと、距離を詰めてきた。上目遣いで衛を見るその瞳は、反則だと、叫びたくなった。

 息を静かに吸う。

「ごめん、機会があれば、付き合うよ。今日は、そういう気分になれないんだ」

 明確に断る理由は無かった。しかし、流された形で、ずるずると美術部に深入りするのは、なんとなく避けたかったのだ。これまで、いろいろと流されてきたからこそ、そこおで意地になっているのかもしれない。

 奈緒子は、衛の返事に、がっかりしたような表情を浮かべる。衛は、少し、罪悪感を感じるが、もう口にしたことは、取り戻す事は出来ない。

「ごめんね、佐川くんが優しいからって、いろいろと頼みごとしちゃって。でも、入部の件は、本当にいいの?」

「それは、もちろん」

「よかった」

「じゃあ、行っていい」

「うん」

 奈緒子が手を放すと、衛は「バイバイ」と言って教室をでた。

 

 衛の家は、七曜市の北西にあり、学校からは徒歩二十分という場所にあった。

途中で、コンビニにより夜食のカップ麺をふたつ、買う。そうして家に帰り着くと、なぜだか、エプロン姿の優がいた。

「優姉さん、どうして?」

「今日は、母さんたちは、芝居を見に行ったわよ。だから、夕御飯は私が頼まれたの」

「芝居って、そういえば、今日だっけ」

 壁にかけられたカレンダーを見る。赤いマジックで、四月二十八日に丸が書かれている。その脇には、タッくん(はぁと)とある。

 いま、中年女性に絶大な人気を誇る荒木卓郎という若手の俳優がおり、例にもれず衛と優の母親もはまっている。ファンクラブにもはいっているのだが、座長公演のチケットはかなりの倍率で、なかなか手に入ることが出来ない。それが今日の舞台を偶然とることができたということで、ここのところ、衛や父親も呆れるほどにハイテンションになっていた。

 優とは、あれから一度も話していない。

 こうして、食事をつくってきてくれるのなら、怒りはおさまっている、と信じてよいのだろうか?

 おそるおそる、台所で、野菜を切っている優に探りを入れた。

「……あの、この間のことなんだけど」

「もう、怒ってないわよ。あの時は、パニックになっちゃったけど。今はもう尾、大丈夫。衛は人がいいから、ただ頼まれただけなんでしょ」

「まぁ、そういうことなんだけどね」

 どうやら、最悪の状態からは、抜け出したようだ。

「でもね」優は、包丁を手に持ったまま、更に言葉を続けた。

「もし、あれの中身がわかっていて、私に渡したのなら、話は別」

 ダンッとまな板の上で横たわっていたにんじんに、きらりと光る包丁を振り下ろす。あわれ、にんじんは首と胴体(?)に切り離されて、ころころと転がり落ちた。

 衛は絶句する。

 必死に、頭をぶんぶんと横に振り、知らなかったのだというアピールをした。

「なら、いいの。さあ、いつまでも突っ立ってないで、さっさと着替えて、手伝いをして」

 その言葉に、放たれた矢のように、早く自分の部屋に戻ると、服を着替えて台所に戻ってきた。もう、言葉にできないほどの恐怖が、衛を縛り付けていた。

 それから、どうしたのかは、よくわからない。優に言われるがまま、ジャガイモの皮むきや米とぎなどをして、ハヤシライスとサラダを、それから使った野菜の皮でコンソメを完成させた。

 優の手際は、とても素晴らしかった。

 優の母親にも、負けないくらいの腕に上達している。対して、衛は手伝ったとはいえ、その手並みはお世辞にもよいとは言えず、ジャガイモなどは、まるで隕石かというくらいにゴツゴツした物体になっている。やはり、衛は器用という言葉とは、無縁なようだ。

 出来上がった料理を食卓に並べて、ふたりは席についた。

「いただきます」ふたりは、手を合わせて言った。

 食卓には、スプーンの音と、かすかに物をかむ音だけがする

 衛は、手を止めて優をみた。

「優姉さん」

「なに?」優もいったん食事を中断する。

「優姉さんは、大学、どうするつもり?」

「このままの成績でいければ、七曜の兄弟校になってる北辰学院へ推薦がとれると思うわ。たぶん、奨学生にもなれると思う」

「優姉さんなら、もっと上のランクでも行けるんじゃない?」

「かもしれない。でも、私は、推薦でも良いと思う。北辰学院だって、偏差値で言えば上位だし、施設は充実しているし」

「……優姉さんって、将来何になるか決めてるの?」

「たぶん、父さんの会社を継ぐんでしょうね。だから、学部は英文学にするつもり。北辰にはいったら、短期留学も出来るみたいだから、それで力をつけなきゃね」

 衛は、少し違和感を覚えた。

 継ぐんでしょうね、という言い方は、とても他人事のような物言いだ。けど、優の家の事情も考えれば、その道は、もうすでに敷かれたレールのようなものかもしれない。

 長年、そばにいるとはいえ、そこは、うかつに口を出すことは出来ない。

「衛は、何になるつもり? とりあえず、大学に行く、っていうのも良いけど、少しで目標みたいなものを設定しておかなきゃ、なんにもできないわよ」

「俺は……、先生になってみたい。ほら、黄道(ルビ:こうどう)中学にいた、坂井って社会の先生がいたでしょ? あの人みたいに、おもしろい授業で、生徒のことを真剣に考えてやれる先生になれたらいいなって思うんだ」

「……衛らしいわね」

 その言葉には、先日のような皮肉はなく、心底、衛のことを案じる姉のようなあたたかさがあった。この夢を、人に話したのは、優が初めてだ。これまでは、おぼろげであるが、心の片隅でそうなれたら、と考えていた。けど、改めて自分の言葉として紡ぎ、人に聞いてもらうと、やってみようという気になってくる。

 実際になれるかわからないけど、大学受験だって、まだ時間がある。それまでに、準備をしておけばいい。

 そう考えると、なんだかうれしくなってきた。

 将来の目標設定が明確になったというのは、とても楽しいことなのだと知る。

「そういえば、衛は好きな人がいるの?」

「はっ?」いきなりの話の方向転換に、おもわず間の抜けた返事をしてしまった。

「友達の世話をするくらい何だから、自分のこともきちんとしているのかと思って。それで、いるの? いないの?」

 優は、意地の悪い笑みを浮かべながら、衛を見ていた。

「い、いない。今のところは」

「それならいいわ」

(それならいい? どういう意味だ)

 だが、その真意を尋ねることは、とてもではないが出来ない。

 衛の中で、いいようのない、じれったさが渦巻きながら、夕食が終わった。

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 五月の連休を直前に控え、安本が職員室に衛を呼び出した。

「ちょっと日帰りの旅に行かないか」

「……先生、俺は男で、しかも教え子ですよ。言うべき相手を間違っていませんか?」

「おやおや、とんだ誤解だよ」

 安本は眼鏡を外すと、ポケットから取り出した眼鏡ふきでレンズと丁寧にこする。

「明後日、美術部のスケッチ旅行をするつもりなんだ。ここら車で一時間ほど山間にある玄武ダムでね。私が車を出すから、来てくれないかな」

「……俺は幽霊部員ってはずなんですが」

「そう、なんだけど。ただでさえ、少なくなった部員が、今回の旅行で、ちょっと家の事情とかで来られない部員が出て来て、参加できるのがたったの三人なんだ。だから、少しでも賑やかにならないかと、君を誘ったんだが。頼めないか」

「そもそも、聞いていなかったですが、美術部って全員で何人いるんですか?」

「七人だな。いや、四月までは二十人いたんだが、それがごっそり漫研にいっちゃったもんで、おかげで苦労するよ」

 衛は心の中で、嘆いた。

 奈緒子から聞いた話より、かなり酷い状況だ。

「ちなみに、七人の中には君も含まれているから、実質六人ということになるな」

「行きますよ」

 これを同情、というのであろうか。

「よかった。そういってもらえると、私もうれしいよ。なにせ、部活としてきちんと活動をして行かなきゃ、このまま消えてしまいかねないから」

 眼鏡を拭く手に力がこもり、フレームが悲鳴を上げていた。

「先生、手元、手元」

「ああ、スマン」

 ハンカチを仕舞うと、眼鏡をかける。

 こうしてみると、安本は、眼鏡をかけない方が、男前だと思うのだが。しかし、人それぞれの好みの問題、かもしれない。

 衛は、話は終わったと思い、退散しようとした。

「あ、それから、この前電話で話したことだけど」

 衛の眉がぴくりと上に上がる。

 安本は、声を潜めた。

「細川が今年度、ほとんど学校に来ていないんだ。家庭にいろいろ問題があっても、一年の時は休んだことはないから、教師陣としても心配しているんだ。この前言ったように、成績はいいから、早く復帰できれば進学も大丈夫だと思うんだが。君は、何か知らないか?」

 義和が学校に来ていない。

 その情報は知らなかった。メールでは、二三日に一度くらいでやりとりをしているが、違うクラスのことなので、学校の出席までは把握していなかった。

 衛は、わからない、というと、安本はそれほど期待していなかったのだろう。失望の色は見せなかった。

 義和のことは心配だ。これが一時的なことならいいのだが。

 

 二日後、一応スケッチをするためのスケッチブックと鉛筆だけを用意して、学校に行く。昼を挟むので、弁当はコンビニで買ったハンバーグ弁当だ。

 集合の十時より十五分前についた。校門で安本を待つことになっているはずだ。

 衛が来たときには、すでに他の三人は来ていた。

 奈緒子は知っているが、他の二人は部活に顔を出したことがないので、まったく知らない。

「あ、佐川くん、来てくれたんだ。こっちの背の高い人が、部長の片桐先輩、こっちの男の子は佐川くんと同じで、今年入ったばかりの、大沢くん。えっと、それで、この人が私のクラスメートで、話をしていた佐川くんです」

「佐川衛です。よろしく」

 頭を下げると、片桐と大沢のふたりもぺこりと頭を下げた。

「部長の片桐里香(ルビ:かたぎりりか)よ。聞いているとおもうけど、いろいろあるから、新しい人が来てくれるのは本当に助かるわ」

 片桐は、バレー部にスカウトされるんじゃないかというくらいに背が高かった。百七十五センチある衛も、話をするのにいくぶん、見上げなければならない。

「大沢康道(ルビ:おおさわやすみち)です。佐川先輩、よろしくお願いします」

 片桐と並んでいるからだろうか、対照的に大沢は背が低く見える。いかにも文化系という肌の白さと華奢な体つきだ。

 まだ、あったばかりだが、ふたりとも、悪いヤツではない、という印象をもった。何事も第一印象は大切だ。とはいっても、幽霊部員である衛は、この後、どれだけ仲良くなれるかわからないが。

「先生は?」

 まだ、集合時間前なので、それほど焦ることもないのだが、部員はそろっているので、いつでも出発できるぞ、という雰囲気になっていた。

「安本先生は、職員室に寄ってから、こちらに来るそうよ。部活として行くから、幾前に学校に手続きをしておかなきゃならないんですって」

 片桐が答えた。

(確かに、事故とかあったら、責任問題になってくるからなあ)

「あっ、あれ安本先生じゃない?」

 校舎の脇の駐車場から、校門に向かう黒のミニバンが見える。運転席にいるのは、紛れもなく安本だ。

 四人の目にのりつけると、ドアが開く、

「さあ、乗った。乗った」

 その声に、皆乗り込む。

「これ、先生の車なんですか?」

 運転席の真後ろにのった奈緒子が訊いた。

「いや、友達に借りたんだ。ちょっと麻雀で勝ったんでね。掛け金の代わりってところだ」

 衛は、思わず笑った。片桐は、すこし眉をひそめている。大沢は、とくに表情をかえていない。性格の差が、ちょっとしたところに現れるようだ。

「さて、つくまで一時間はある。皆、好きにしてて良いぞ。寝たいなら寝てもかまわない。どうせ、君たちは運転できないんだから、私と交代することもないしな。ナビだってカーナビさえあれば十分だ」

 衛の、美術部員としての初体験が始まろうとしていた。

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 ダムの湖畔にある玄武湖畔公園についたとき、目の前には鮮やかな桜の絨毯が、山全体に広がっていた。ダムの水面にも、遙かな青空と桜が映りとても幻想的な風景を創り出していた。

 スケッチをするには、確かに、うってつけだろう。途中、絶壁のようにきりたったコンクリートの壁も見えたが、その荘厳な様は、なんともいえない凄さを感じた。ダムの放水は、梅雨明けごろから行われるということなので、もし、その光景が一緒に見られたならば、もっと感動できただろう。

 気がつくと、もう奈緒子たちは、スケッチの準備にとりかかっていた。とはいっても、思い思いの場所に散らばったというだけだが、安本は管理小屋の横のベンチで、煙草を吹かしている。衛は、安本の元へ行った。

「先生、煙草吸うんですね」

「学校は、禁煙だから君たちには見せてないけどな。まぁ、今は、仕事中だけど、ボランティアみたいなものだから、多めに見てくれ。それで、描かないのか?」

「描きますよ。じゃなきゃ、なんでここにきたのかわからなくなっちゃいますから。……先生は、描かないんですか?」

「悪いが、疲れているんだ。休ませてくれ」

 そういった安本の顔は、確かに悪いような気がした。目にクマが出来て、頬が最後に見たときよりも、こけている。

「あまり、無理しない方がいいんじゃないですか?」

「まあね、やっぱり徹マンしたのがきいてるようだ。昔は一日や二日寝なくてもよかったのになぁ。年かな」

 衛は、渋い顔をする。話に出ていた麻雀が、まさか、昨夜の事だったとは。そんなギリギリの手で、車を調達したということに、安本のだらしなさを垣間見た。安本は、衛の様子を見て、笑った。

「ははは、いやなに、車はどうしても必要だったから。ちょっと、頑張っただけなんだ。いわば、名誉の負傷、みたいな」

「車がなかったら、普通にレンタカーでも借りればいいじゃないですか」

「それがねぇ、こちらとしても無い袖は振れぬ、というやつで。学校に行ってもお金くれないし。私は安月給だし」

「……」

「……」

「さてと、俺も描いてきます」

「おう、頑張ってくれ」不毛なやり取りをしていても、しょうがない。この場で交わされた会話はなかったように振る舞うふたり。衛は安本のイメージを少し変えた。

 少し歩いていくと、片桐が水際ぎりぎりのところに座ってスケッチをしていた。

 地べたに座ることも考えて、学校のジャージできていたのだろう。衛もジーンズだから、汚れてもそれほど問題はない。

「あれ、まだ、始めていないの」

 衛が側に来たことに気づくと、鉛筆を止めた。衛は、片桐の絵をちらりと見る。

「上手いですね」と、言ってから果たしてほめ言葉として受け取ってもらえるかどうか悩んだ。しかし片桐は、大して気にする様子もなく白い歯を見せた。

「ありがと」

「片桐先輩は、昔から絵を描いてたんですか?」

「ううん、中学までは、バレーやってたの」

(ああ、やっぱり)

「君、やっぱりと思ったでしょ」

 図星であるが、おそらく、この答えを聞いた百人が百人、同じ感想を持つだろう。それに、バレーをやっていたことは、別に悪いことではない。

 片桐は大きくため息をついた。

「私ね、中学までは背が前から数えた方が早いくらい、背が小さかったの。それで、結局レギュラーにもなれずじまい。一緒にやってた友達にはね、すごい上手な子がいて、大会とかでも注目されて、有名な高校からスカウトも来たんだよ。友達だからうれしいいんだけど、同時にすごく悔しくて。このままだったら、私ダメになると思って、すっぱりバレーを辞めたんだ。そこで、全く関係ないものをやろうと、入部したのが美術部」

「それじゃあ、背が高くなったのは、それから?」

「そう、皮肉なもんだよね。……でも、背が高くても、たぶん、あの子には敵わなかったとも思う。私とは全然ちがうんだもん」

 その子、とは、おそらくバレーの上手い友達のことなのだろう。なんとなく、衛にもわかる気がした。好きと憎いという感情は、とても近しいものだから。それに、人は、自分が何を持っているかよりも、人が何を持っているかを気にしがちだ。そのジレンマで、人は大人になっていく。

 衛も、野球をやっていたときに、そういう思いがなかったわけではない。三郎に対して、似たような感情を抱いたこともある。もっとも、そのときには、三郎自身の馬鹿さ加減に救われたといえよう。

 片桐も、まったく違う世界に飛び込んで、今は絵も上手くなって部長にまでなっている。それには、地道な努力があったことは、容易に想像できる。

 衛は、片桐の頭をなでていた。

「なぁ、何!」

 片桐は突拍子もない衛の行動に、顔を赤らめながら、後ずさった。

「あ! ごめんなさい。つい」

「ついって、どうこをどうしたら、ついで頭をなでるの!」

それは、正論だ。しかし、片桐の話を聞いていたら、なんだかそうしたくなったのだ。たとえて言うならば、頑張った子供をほめてやる親のように。もっとも、それを言ったら、本当に怒られるだろう。

「……佐川くんって、女の子とみると、見境ないタイプ?」

「は、そ、そんなことないですよ。べつにいやららしい気持ちで、なでたわけじゃなくて。ああ、上手く説明できない。とにかく、ほんの出来心なんです。ああ、これもなんか誤解される」

 慌てふためきながら、弁解する衛に、片桐は疑わしい目を向けている。

 もう、しようがないと思い、ガバッと地面に伏せた。汚れるのもかまわず、五体倒地で、何度も頭を下げる。

 確実に、片桐がドン引きしているのがわかったが、それでも続ける。

あきらめません。許してもらえるまでは、という勢いだ。

「何やってるの?」

気がつくと、そばに奈緒子と大沢が立っていた。こちらも少し、いや、かなり引いている。それはそうだろう。はたから衛のやっていることを見れば、異様というしかない。といっても、本人は、いたって真剣にやっていることなのだ。それを説明するのは、とても難しいので、理解しがたいかもしれないが。

「もういいよ。立って」

 片桐は、呆れたように言った。

 衛は、身体について土を払いながら、最後に「ごめんなさい」と謝った。

 まだ、奈緒子と大沢は事態を理解できないようだが、なにかが解決したということだけはわかった。と片桐が、急に笑い出した。衛の顔を指差す。

「あはははは、佐川くん、鼻の頭に花びらがついてる」

「ええ?」

「ほんとだ。とってあげる」

 奈緒子の指が、衛の鼻をそっと撫でた。ひらひらと、一枚の桜の花びらが落ちるのがいえた。五体倒地でついたようだ。けど、それで片桐の気分を、やわらげることができたのであれば、怪我の功名といっていい。このままだったら、単なるセクハラ男として記憶をのこしたかもしれないから。

「横で描いてもいいですか?」

 この場合には、強引にいったほうがいい、と返事を聞く前に、どかりと腰をおろした。そしてスケッチブックを広げて、目の前に広がる絶景をみた。綺麗だった。写真だったら、そのまま写すことができるのだが、スケッチならば、自分の手を動かして、この光景を写していかなければならない。

 テクニックがない事は、もうどうしようもない。今はただ、自分の思うままに、書いていくしかない。そして、出来るならば、真面目に絵を書く事で、片桐に衛の人間性、みたいなものをわかってもらいたい。

 衛が書き始めたのを見て、片桐も再び鉛筆を動かす。もう、騒ぎたててもしょうがないと思ったのだ。

 奈緒子と大沢は、互いに顔を見合わせた後、衛たちのそばで、同じようにスケッチを始めた。別に、場所はどこにでもあるのに、雨ふって地固まる。というもので、なにか、衛もいれた仲間意識が生まれたようだ。

 誰もしゃべらず、ただひたすらにスケッチをする。ストイックなまでに純粋な時間は、とても心地よかった。

 時間の感覚がなくなっていく。

「もうそろろそろ、昼飯にしないか? もう一時を回っているよ」

 安本の言葉で、全員顔を上げた。

 絵は、大雑把であるが、大体完成していた。色を塗るのであれば、また別だが、ここには、絵の具の類は持ってきていない。奈緒子たちの絵も見てみたが、おおよそ同じ程度である。もちろん、絵の上手下手は置いておいてだ。

 各々、持ってきた昼食を取り出し、囲む。

 奈緒子と片桐の女子メンバーは、手作りの弁当を持ってきていた。そして、大沢、安本は、衛同様、コンビニ飯だ。

 こうところで、男女の違いというのが現れてくるものだ。

 それでも、景色も空気もよい場所で食べる食事は、食べなれたコンビニ飯だとしても格段に美味しく感じた。それに、野球をやっていたときもそうだが、何かに一生懸命やったあとというのは、大量のエネルギーを消耗している。だから、その状態で食べると、何でも美味しく感じるのだろう。

 チラとみたが、奈緒子の弁当はコンニャクや野菜などカロリーを抑えたおかずで統一されている。やはり、ダイエットをしているのかもしれない。

 部活、というものから、しばらく遠ざかっていたので、こうして、友達ではなく何か一つの目的で集まるということに、とても懐かしさが湧いてくる。

 衛は、あらためて、来てよかったかな、と思っていた。

 食事の後は、スケッチを少しした後、みな自由に行動する事になった。とはいっても、動き回れるのは湖畔公園の中だけだ。

 休日と言う事も会って、家族連れ、定年後で時間が有り余っているお年寄りの団体が目につく。どこも、観光名所というのは、似たようなものだ。

 衛は、奈緒子と歩いていた。

「佐川くんって、面白いよね」

「面白い? どこか?」

「さっき、部長のまえで、やってたパフォーマンス」

 衛は言葉に詰まった。なんで、単なる土下座じゃなくて、あんな五体倒地をしてしまったのか、自分でもわからないが、あの時は、テンパってしまって、ああするのが一番良いと思ってしまったのだ。

 思い出すに、とても恥ずかしい。

「ところで、佐川くんって、東雲先輩と付き合ってるの?」

「ええ、なんでそうなるの」

「だって、東雲先輩と結構仲良さそうじゃない。あたしの知る限り、東雲先輩って、あまり男の人と一緒にいるのをみたことないのよね。やっぱり、美人だから佐川くんの好みなんでしょ?」

「違う、違うって。優姉さんは、小さい頃から知ってるから、本当の姉弟みたいなものなんだって。――そりゃあ、優姉さんは綺麗だけど、俺は、そういう風に考えた事はない」

 奈緒子は、立ち止まって、衛をじっと見た。

「でも、東雲先輩はどうなのかしら」

「はい?」衛には、その言葉の意味がわからなかった。

(優姉さんはどうなのか? 俺のことを男としてみているか、ってことなのか。それはありえない、と思う。……多分)

 今まで、そこに踏み込んで聞いた事はなかったから、確信は無い。しかし、優が衛に異性として意識する行動をとったことはない。だから、このカンは外れていないと思う。

「まだ、佐川くんには、わからないかな?」

「藤田さんには、なにかわかってるっていうの?」

「そりゃあね、複雑な女心は、女にしかわからないの。でも、そのほうがいいわね。だって、佐川くんが、そんなことわかったら、あたしが困るもの」

 後半の言葉は、衛に言っている、というよりも、自分自身に語りかけるように、小さい呟きであった。

 さきほどから、奈緒子の言っていることは衛には、わからないことが多すぎる。

 頭の上で、クエッションをいくつも浮かべている衛に、奈緒子はただ笑みを浮かべるだけで、説明をしてくれない。

 もやもやした気持ちのまま、衛はスケッチ旅行を終えることになった。

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 二章

 

 衛は当惑していた。

 今、どこかでみたような光景が目の前にある。

「衛、私の言いたいことはわかってるわよね」

 差し出される「佐川衛くんへ」とかかれた封筒。

 その瞬間、あの時の言葉の意味が、フラッシュバックした。

(これが、『それならいい』の意味なのか)

 ごくりと、つばを飲み込む。女の子からの告白。しかし、衛自身が三郎という爆弾を優にぶつけた前科がある。これが、もし意趣返しということだとしたら。考えるだに恐ろしい。

 恐る恐る、封筒を取り、中身を確かめた。

 だが、そこには、何も書かれていない紙が一枚入っているだけだった。

「優姉さん、これ何も書いていないんだけど。まさか、あぶり出しとか鉛筆でこすると跡が浮かび上がるとか、そういうことじゃないんだよね」

 優は、その事態を想定していたようだ。特に驚く事もなく、衛の手にある紙をとった。

 じっと何も書かれていない空白をみつめる。

 しばらく立ってから、ぽつりと呟いた。

「それが、『貴女』の答えなの?」

 優の頬を涙が一筋流れた。

(なにが、起こっているんだ!)

「優姉さん、一体誰に頼まれたの?」

「……私が書いたの」

「優姉さんが?」

 何かがおかしかった。自分が書いたという割には、まるで他人のラブレターのような口ぶり。その行動と優の態度には距離のようなものを感じる、まるで、第三者の視点で、この出来事を見ているようだ。

 それに、奈緒子にも言ったとおり、優がこれまで衛を弟のように扱ってきたが、異性として扱っていない。急に告白、しかも手紙であらたまってなんて、やはりおかしい。

「ごめん、衛。この話はなかったことにして」

 と、言うや否や、衛を置いて、優は去っていった。あの時と同じく、残された衛は、手紙の意味、そして優の涙の意味をずっと考えていた。

 

 それから数日がたった朝。

 下駄箱で靴を履き替えていると、誰かに肩を組まれた。ゴツゴツして鍛えた手。指にボールだこがあってよく見知った手だ

 視線を横に移すと、三郎の顔が飛び込んできた。

「よっ、衛。久しぶりだな」

「なんだ、お前生きていたのか」

「生きていたのかは、ひどいな。それでも友達かよ」

「優姉さんに拒否られて、てっきりショックを受けていたと思ったんだがな」

「そりゃあ、気持ち悪いっていわれて、いい気分になれやしないってーの。でも、庵が得たのさ。だったら、俺の魅力をわかってくれる女の子を捜そうって」

「……どこにいるんだ?」

「だからいったろ、捜そうって。まだ、当ては無い」

 こういうときの三郎のポジティブシンギンクさには、衛としても尊敬する。たしかに、気持ち悪いところを受け入れてくれる女の子がいれば、三郎の願いも叶うだろう。

 ただ、衛とは関係のないところで、それをやってほしい。

 ふと、にやにや笑っていた三郎の顔が、真面目になった。

「ところで、東雲先輩、どうかしたのか?」

「優姉さんが、なにか?」

「いや、さっき校門のところで見かけたんだけど、すごい顔色が悪かった。病気でもしているんじゃないか?」

 その瞬間、先日の白紙を手に涙する優の姿が脳裏に浮かんだ。

(あれが、原因? だとしたら、俺にも関係があることなのか)

 明確にはそうとはいえない。ただ三郎の気のせいって事だってありえる。そう考えても、心の中で渦巻く不安は消えなかった。

 最初は、衛の事をからかったのかと思った。

 けど、優はそういうことをするタイプじゃない。それに、あの涙は、本物だ。幼馴染としての確信があった。

(話をして見なきゃ)

 そのとき、チャイムが鳴った。

 三郎の腕を振り払う。

「早くいかなきゃ遅刻になるぞ。お前は人のことを心配する前に、自分のことをしっかりと考えろ」

 といって駆け出す。

「その言葉は、そっくり返してやるぞ」

 三郎は、反対の方向へとかけだした。衛のクラスであるニ年一組と三郎のクラスである二年七組は校舎の端と端で一番距離が離れたところにある。階段も両脇にあるので、必然的に下駄箱からは分かれるのだ。

 階段を駆け上り、教室にすべりこむ。幸い、安本はまだ来ていなかった。

「よし、セーフ」

 もう慌てる必要は無い。ゆっくりと、席についた。

「衛くん、ギリギリだったね」

 一月前のスケッチ旅行が終わってから、衛の事を下の名前で呼び始めた奈緒子。少し、ふたりの距離は近くなったような気がした。衛はというと、最初は、かわらず藤田さん、と呼んでいたのだが、奈緒子の強権発動により、ナオちゃんで落ち着く事になった。

 クラスの中には、言葉以上にふたりが親しくなった事を気がつくものもいた。密かに、ふたりの仲を疑っているらしいが、『まだ』そういうことにはなっていない。

 もちろん、未来には無限の可能性があるので、どうなるのかはわからないが。

 部活も、幽霊部員といいつつ、週に二日くらいは顔を出すようにしていた。といっても、やることは、玄武ダムのスケッチに色をつけることだけだ。絵の書き方、というものを安本はあまり指導しない。かわりに、片桐が教えてくれた。ただし、一から十まで、ということではなく、まずは守るの好きなようにやらせて、軌道修正をするところにアドバイスをするという具合だ。

 面白いのは、片桐が、衛に教えるときに、筆を持つ手を掴んだりすると、視界の端に見える奈緒子が、少しイラついている様子が見えた。衛は、その表情にちょっと怖くなっているが、明らかに嫉妬である。

 衛をとりまく全てが、最後の一線を超えるところで、バランスをとっていた。それらの事象が動き出すとき、衛はなにかを得るのだろうか。それとも失うのだろうか。

 それは、叡智を手に入れたチャーリーにもわからない。

 

夕方、学校から帰った衛が、七曜駅前の商店街で、母親に頼まれた買い物をしているときだった。途中の本屋で、よく知っている顔を見かけた。

 

 細川義和。

 

 衛にとって、優同様、幼いころからの親友である。あれから、気にかけて、義和と同じクラスに居る知り合いに探りを入れているのだが、まだ学校にはきていないという。

 衛は、買い物袋を手に、本屋に入った。

 はじめ、客としているのかと思ったが、近くに行くと、エプロンを着ているのに気がついた。義和は、ここで働いているのだ。

「義和」

 衛の呼びかけに、一瞬義和の体がビクッと痙攣した。

 そして衛をみとめると、ホッとし安堵した表情を浮かべる。

「衛か、ビックリさせるなよ」

「ビックリしたのはこっちのほうだ。お前、学校にこないで、ここで何しているんだ?」

「……見ての通り、バイトだよ。金が必要なんだ」

「金が必要って、なにかあったのか?」

「……いや、お前には関係ない」

 衛は頭に血が上った。思わず、義和の腕を掴む。

「お前の事が心配なんだよ。いけないのか?」

「……わかってるよ。お前のいいたいことは。でも、俺にだっていろいろあるんだ。放っておいてくれ」

「親御さんのことか?」

 その言葉に、義和はぷいと顔をそむけた。

 その様子で、衛の考えが正しい事は証明された。だとしたら、放ってはおけない。衛が親友として出来るだけ、力を貸してやらなければならない。そうでないと、義和は、自分ひとりで頑張ってしまうからだ。それは、振るい付き合いである衛が良く知っている。

 だが、まわりの客が、自分たちに注目している事に気がつく。ここでは、落ち着いて話はできないようだ。とはいっても、義和はバイト中ならば、別の場所に変えることはでないだろう。

「バイトが終わったら、俺の家に来てくれ。必ずだ」

「……わかった」

 衛は、買い物を済ませると、家で義和を待つことにした。帰ってから、気がつく。何時、義和のバイトが終わるのかを、聞いていなかった。とはいえ、承知をしたのだから、約束を破る事は無いだろう。それは、長い付き合いで、よくわかっている。

 夕食を終え、風呂に入っても、まだ来ない。

 ベッドに寝転がりながら、携帯ゲームで時間を潰す。しかし、頭の中は、義和のことで、あまり集中が出来なった。

 義和の状況が、衛の知っているよりも悪くなっているようだ。急いで金が必要だと言うことは、一体何を意味しているのか。

 考えられることというと、義和の父親に何かがあったということだ。これまで、あまり家に帰ってこない父親であったが、金だけは家に渡していた。一家の主として、親としての最低限のけじめだったのかもしれない。金が必要だということは、そのラインが途切れたことを、想像させる。

 けれども、衛から言わせてもらうと、崩壊した家をそのつまらない見栄でつなぎとめた事で、義和は苦しんでいる。

「衛、和くんが来ているわよ」

 階下から、母の声があがった。

(来たか)

 トントンと階段を昇る足音がする。

 ガチャリとドアを開けて、部屋に入ってきた義和の表情は疲れきった顔をしていた。

「すわれよ」と勉強机の前から椅子を運ぶ。そして、自分はどっとベッドの上であぐらを組んだ。しかし、それから沈黙を続く。どちらが、話を切り出すのか、それをうかがっているのだ。

 そして、いい加減、痺れを切らした衛がしゃべった。

「どういうことなのか。説明してくれ」

 義和は、口をへの字に曲げている。重ねて「義和」と言うと、渋々話し始めた。

「親父が事故を起こして、金が必要なんだ。もし、金が用意できなきゃ、訴えるって言われている」

 義和の父親は、確か、タクシーの運転手をしている。車を扱う職業の人間が、事故を起こしたと言うだけでも、かなりの打撃だというのに、裁判沙汰になれば、どうなるか。

 そうはいっても、常から父親のことを手厳しく罵る義和が、家族の危機に動くと言うのは、少し意外だった。

「親父さんは、今どうしているんだ?」

「……女のところだ」

「……お前に働かせてか?」

「別に、あいつに言われたから働いているわけじゃない。そうしなきゃあ、俺にも火の粉が飛んでくる。それだけだ」

「それでも、お前は逃げる事だって出来る。今の状況を、外に訴えれば、助けてくれる人だってきっといる」

「俺の家族は、もういない。それでも、俺の居場所は、あの家なんだ。だから、あの家を守るために、俺が頑張んなきゃだめなんだよ。皮肉なもんだよな。今回のことがあるまでは、少し、ほんの少しだけ、親父もお袋もまだ家族でいられる可能性があるって思ってた。でも、現実はどうだ。親父は女のところで、お袋は自分には関係ないって婆さんのところに転がり込んだ。俺だけがあの家に残されたんだ。――はははっ、ほんとっ、ふざけてやがる。腐ってるんだよ。大人は」

「……俺にできることはないか?」

「なんかできると思ってるのか! お前だって、自分ひとりじゃ、何も出来ないガキなんだよ!」

 その心からの叫びに、衛は圧倒された。

 体が震えてくる。怖いからではない。義和のいうとおり、何も出来ない。何も力が無い。無力な子供である自分に憤りを覚えたのだ。

 義和は、すぐに、衛に怒鳴ってもしかたがない、ということに気がついた。むしろ、自分を案じてくれる味方なのだ。

「すまん」というと、義和は部屋を出て行った。

 衛は、身動きができず、ただそれを見ているだけしか出来なかった。

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 衛は悩んだ。

 義和から聞いたことを、安本に話すべきなのか。安本は、自分は、いや、学校の教師たちの何人かは、義和を心配しているといっていた。

 先ほどのことでわかったように、衛の手にはあまることだ。そして、話が本当であれば、義和がバイトをすることを止める事はできない。と、同時に、なぜ、義和うがこれほどまでに苦しまなければならないのかという、やりきれない思いが渦巻いていた。

「どうすればいい?」

 自分ひとりでは、わからない。そのとき、優の事が頭に浮かんだ。

「優姉さんなら、相談に乗ってくれるかも」

 義和のことは、優も知っている。事情を知っている分、衛では考え付かない解決策を考えてくれるかもしれない。過大な期待はしてはいけないとわかっているが、それでも、衛の頼れる人なのだ。

 急いで、携帯電話を掴んで、登録された優の番号にかける。

 トゥルルルというコール音が数回、優の声が聞こえたと思った瞬間、期待は失望に変わった。

『ただいま、電話に出る事はできません。ご用のある方は、ピーと言う発信音の後に、メッセージをお残しください』

 切断ボタンを押す。

 せっかちかもしれないが、今、衛が感じている不安を取り除きたい。だから、今すぐ、話したいのだ。タイミングが大切だ。

 優はお悩み相談室ではない。そんなことは、わかっている。しかし、姉のように思っているのだ。そこには、大きな信頼感がある。

 携帯電話を開いたり、たたんだり、を何度もくりかえす。もう、どうすればいいのだ。

 窓へ行き、向かいの家を見る。

 すると、優の部屋には、明かりが点いてた。

(優姉さん、俺だとわかってて取らないのか!)

 下らない想像かもしれない。バイブに設定してるならば、鞄とかに入れておくと、気がつかないことがよくある。そういうことかもしれない。それでも、悪意を勝手に感じてしまう。

 よほど、衛の余裕がなくなっている証拠だ。

「とってくれよ」と、もう一度、優にかけなおした。

 しかし、結果は先ほどと同じ。こうなると、もはや、どうしようもない。

 なぜだか、涙が出そうになった。

 ふいに、ドアを誰かが、ノックした。

「衛、さっき、和くんと喧嘩してたみたいだけど、あんた何かやったの?」

「なんでもない」

 ドアを開けて入ろうとはしない。一応思春期の子供が居るということを考えt下のことだろう。 こういうときの、母親の配慮には、とても感謝すべきである。

「和くんはあんたなんかよりも、よっぽどいい子なんだから。あまり迷惑をかけないようにしなさいよ」

 その言葉に、笑いがこみ上げてきた。

 親と言うののは、よその子供と比べたがるのがデフォルトなのだろうか? あの子はこうした、その子はなにをした。そういって、自分の理想の子供に、仕立て上げようとする。義和のいうとおり、これを言われているうちは、自分の力でたつことが出来ない、無力な子供なのだと自覚できた。

「わかってるよ。それに、さっき言ったけど、義和にはなにもしてない。だから安心して」

「そうならいいけど」

 その声には、幾分か納得が出来ない、という気持ちが入っていた。まあ、確かに、なにもなかったというのは、嘘になる。けれども、喧嘩をしたわけでもない。

 いうならば、嘘も方便、やつだろう。

 そのとき、手に持っていた携帯電話がなった。

「ごめん、電話だ」

「……」衛が話し始めた声を聴いて、母親は、それ以上の追及を止め、また階下へと戻っていたった。はたして、誰がかけて来たのか。

「もしもし?」

 ディスプレイを見る前に、通話ボタンを押してしまったので、誰から掛かってきたのかは確認していなかった。

 優ではないかと思ったが、その予想に反して、普段クラスで聞きなれた声だった。

『こんばんは、衛くん。今大丈夫?』

「ナオちゃん。なにか用?」

 衛の言葉に、奈緒子は露骨にため息をついた。

『なーに? 衛くんには用が無きゃ、電話したいけない?』

「そういうわけじゃないよ。でも、ほら、いつもは部活の連絡とかばっかりじゃない。だから、さ。今回もてっきり、そういう話かと思って」

『……下手な言い訳をするんじゃなくて、あたしの声を聴けて嬉しい、の一言でもいえない?』

 衛は、ただでさえ、焦っていたのに、それでさらにまともな思考から、おさらばになっている。

「あ、ごめん」

 素直に謝ると、奈緒子は、怒ったように『バカ』といいつつ、ケラケラと明るい笑い声を響かせた。衛としては、駄目なところを謝っただけなのだが。

 どうにも、衛の周りには、扱いを上手く出来ない女の子が集まっているような気が下。あるいは、衛の女性を扱うスキルが以上に低いのかもしれない。

 こうしている間も、実は、頭の中でクエッションが遊覧飛行をしている。どれほど、手を伸ばそうとしても、解決の道が見えてこない。

『……衛くん、なんだか辛そうな声をしてるよ。何か悩みがあるんでしょ』

「あ、いや」

『駄目だよ、衛くんって、嘘をつきにくい、というよりも、嘘がつけない人なんだから。だって、嘘をつくとき、声のトーンがいつもより高くなるでしょ』

「えっ?」衛は思わず、喉を押さえてしまった。そんなことを言われたのは初めてだ。女のカンとでもいうべきか、なかなか侮れない。しかし、今悩んでいることは、奈緒子には関係のないことだ。ここは、なにもいえない。

「――なんでもない。心配しないで」

『ホントにバカッ! その言葉は、なんでもあるっていう風にしか聞こえない。ねぇ、あたしじゃ頼りない? 力になれない? ねぇ、答えて』

「……ナオちゃん」

『あたしだってね。いつも明るくしてるわけじゃない。ときには落ち込んだり、起こったり、悲しんだりしている。そんなときに、周りの人がいっぱい助けてくれるから、私は笑っていられるの。だからね、衛くんが困ってるなら、あたしのことを助けてくれた人たちのように、衛くんを助けたいの。――だって、あたし、衛くんのこと……』

 その次に来る言葉は、衛にも予想できた。

 そして、そこまで、心の内をぶつけてくれた奈緒子に、衛の心が揺れていた。かすかに漏れ聞こえる音から察するに、今電話の向こうで、奈緒子は泣いている。

(もう、ナオちゃんは、後戻りができない。なら、俺が前に踏み出して、ナオちゃんの手をとってやるべきじゃないのか?)

 義務とかじゃない。男の意地とかじゃない。

 今、奈緒子のことがとても愛おしく思えていた。

 そう、これは、恋なのだ。

 中学時代、淡い思い出に終わった初恋とは違い、初めて、お互いの気持ちが繋がった恋なのだ。

 奈緒子の、そして衛の想いを、決して幻想にしてはいけない。今だからこそ、手に入る奇跡なのだ。

「――全部、聞いてくれる?」

『……ありがとう』

 そのありがとうは、いうまでもない。衛が奈緒子のことを受け入れてくれたことへの感謝である。

 衛は、義和のことをポツリポツリと語りだした。

「小学校の頃、俺はいじめられてたんだ」

『衛くんが? そんなふうには見えないけど』

「別に理由としては、ちょっとしたことなんだ。トイレを我慢できなくて、漏らしちゃって。そしたら、翌日からいじめのターゲットになってた」

『……ひどい』

「子供なんて、そういうものだよ。それで、無視されたり画鋲を椅子に仕掛けられたり、毎日地獄みたいだった。そこに義和が現れて、いじめてた奴らをボッコボコにしたんだ。もちろん、義和もただじゃすまなかったけど。それ以来。俺は普通に暮らせるようになった。義和にお礼を言って、当時の宝物だった特撮ヒーローのフィギアをあげようとしたんだ。物でお礼するのは、あとから考えると失礼だと思うけど、それくらいしか、出来る事が無かったから。でもあいつ、恥ずかしそうに、『たいしたことはしてねぇ』って言って受け取らなかった。でも、友達になろうっていったら、『おう』って言ってくれてね。それ以来、俺はあいつと友達になった」

『青春ね。とてもうらやましいわね。男同士の友情って』

「そんな大層なものじゃないよ」

 衛は笑った

 それがきっかけで、衛は身体を鍛えるために野球を始めたのだ。

そして、奈緒子への話は、義和の複雑な家庭の事情、現在起こっていることに及んでいき、これから、衛がどうすることが出来るか悩んでいること、をよく考えつつ、正確に言葉にしていった。

 全部を話し終えるのに、一時間以上かかった。

 それを奈緒子は、黙って聞いていた。衛は、話していくうちに、事態を改めて整理することができた。今回のことは、今、災いの種がまかれたのではない。もうずっと昔、衛さえも知らないうちに、まかれて、今になって芽を出したのだ。

 これまでは、地面の下のことには、あえて目をつぶってきた。そのツケが出たのだろう。

 とはいえ、衛は、部外者である。

 今回のことでも、事故の処理ができるわけではない。出来ることと言えば、友として、義和の負担を減らし、今しかない貴重な青春を、つくってやることなのだ。

 奈緒子は、話が終わってから、少し考えると、いって黙り込んだ。

 衛も、邪魔をしないように黙って待っている。

 衛は、奈緒子が真剣に考えてくれていることに感動していた。

『事故っていってたよね? 弁護士って入れてる?』

「いや、そこらへんは聞いていないんだ。というよりも、事故があったということだけで、どの程度の事故なのかもわからない」

『――そうなの。ふつう、自動車事故で大変だっていうと、あたしとかは、死んじゃったとか大怪我したとか考えるけど、もしも、そうでないなら……』

「そう、だよね。でも、軽いケガなら、わざわざ義和が学校をサボってまで稼ぐ必要はないんじゃないかな? 違う?」

『そうだけど、衛くんの話を聞いていると、そのお父さんっていう人、かなりどうしようもない人に思えるんだけど。もしも、もしもの話だけど、たいしたことがないのに、それで細川くんに働かせていたら? だって、普通だったら、子供が働いて、親が何もしないってないでしょ? バイトなんかどれだけ稼いでも、大人が稼ぐ金額に比べれば全然違うんだから』

「じゃあ、嘘だっていうのかい?」

『全部が嘘じゃないでしょうね。事故があったということ、それで訴えられそうだということはホントかも。でも、ケガがひどいからじゃなくて、お父さんに誠意がないからだとしたら? こういういい方をしたら、失礼かも知れないけど、あたしには、お父さんがまともな人とは思えないのよね。だから、どうしても、細川くんの話が真実ではないようにきこえる。お父さんに騙された細川くんが、貧乏くじを引いているんじゃないかな?』

「義和が騙されている、だって? そんな……」

『あ、勘違いしないで、これは、あたしの推理。しかも、伝聞から組み立てたものだから、さらに不確実だわ。本当のこと、そして、衛くんに何が出来るかを考えるならば、もっと情報が欲しい』

「どうすればいい?」

『情報については、あたしに心当たりがある。だから、しばらく待っていて。衛くんは、細川くんの動向を、それとなく見ていて欲しいの』

「義和の? どうして?」

『人間、お金が必要だと、変なことに手を出しかねないのよね。たとえば、薬とか、風俗とか。そういうのって、一回手をつけちゃうと、抜け出すことがすんごく難しいの。だから、ね』

「ああ」

 衛うは、奈緒子の話にただ頷くしかできなかった。お嫁さんが夢だといっていた奈緒子とは、全く違い、鋭い切れ味を持つ刃物の一面を見せている。ただ、あわてふためいていただけの衛に比べて、どれだけ安定感があるだろう。

『それから、明日はお昼を買ってこなくて良いからね』

「どうして?」

『だって、彼氏のお弁当を作るっていうシチュエーションは、女の子にとって武器なのよ』

「オーケー」

 もう、なにからなにまで完敗、という気分だった。

 電話を切ったとき、まるで世界が違って見えた。こんなに楽しくて、ドキドキするものだったのか。だけれども。

(なんとなく、そういう雰囲気になったけど、告白、してないんだよなぁ。それって、いいのかな?)

 日を改めて、いうのも何かおかしい。そう考えると、先ほど、いっておくべきだと公開した。

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 屋上で、青空と流れる白い雲を眺めながめることができる。偉大な場所だ。昼休みには、ここで寝転がって、いつまでもまどろんでいたい。

「ねぇ、食べないの?」

 その声に、衛はにっこりと笑みを浮かべる。

「もちろん、ナオちゃんのつくったものを、残すはずがないじゃないか」

 あれから毎日、衛のために奈緒子は弁当を作ってきた。

 二週間。

 本当にあっという間だった。

 遠い目をして、空を見つめる。

「衛くん、口を開けて」

 奈緒子が、箸で唐揚げを取って、衛のそばに差し出した。衛は、笑顔をつくったまま、口を開ける。甘い恋人たちのひとときに、同じく屋上で昼食をとっていた女の子たちは、ヒソヒソと笑いながら観察していた。うらやましい、という声も聞こえてくる。

(否、そうではない。これは苦行なのだ!)

 お嫁さんになりたい。弁当を作るのは女の子の武器。その言葉に、てっきり奈緒子のイメージを固めてしまっていた。しかし、気がつくべきだった。衛の相談にのってくれた奈緒子が、まったく見知らぬ一面を見せたことに。

 そう、まずい。まずいのだ。

 絶望的なまでにまずい。今、この口で、くちゃくちゃとかみしめられる唐揚げは、衣はガムのように粘着質、肉はなぜか血なまぐさい。完璧に生だ。

 おそらく、低い温度の油で、しかも中途半端に揚げたためだと思われる。これなら、衛の作る男の手料理の方が、何倍も食えるものである。

 しかし、今ここで、真実を明らかにするわけにはいかない。そんなことをしてしまっては、これまでの苦労が水の泡となる。

 男は、女の手料理をまずいといってはいけない。これは男の美学であり、もし、その禁忌に触れてしまったら。奈緒子は、元彼女、となってしまうだろう。

(ああ、神様。おれが何をしたんですか。普通、可愛くて家庭的な彼女と来たら、料理上手とくるでしょう。それが、それがぁぁぁぁ)

 今、衛は心の中で泣いていた。

 それを知るよしもなく、無慈悲にも奈緒子は次の弾を装填している。

 衛は、いつまで自分の体が持つか、それを知りたかった。

 

 すべてを平らげたとき、衛は自分が偉大な存在へと昇華したような気がした。もしかしたら、本当に、悟りを開いたのかも知れない。ただし、命と引き替えに。

「よかった。毎日、衛くんが美味しそうに食べてくれるから、あたし本当にうれしい。明日も、頑張って作る方、期待して待っててね」

 衛は、頑張らないで、と心の中で思うが、口に出す勇気はない。

「そういえば、このまえのこと、細川君には、なにか変化は無い?」

「うん、昼間は本屋で店員をやってて、深夜は宅配便の仕分けをしているみたいだ。ほとんどねてないんじゃないかな?」

「大変そうだけど、おかしな事はしてないってことね。安心した。それで、あたしのほうは調査した結果がでたよ」

「調査? 義和のことを?」

「うん、お父さんにちょっと頼んで、調べてもらったんだ」

 そういって、脇に置いていたA5サイズの茶封筒を取り出した。

「聞いていなかったけど、お父さんって、なんの仕事をしてる人?」

「元刑事で、今は探偵。だから、これって、お父さんの得意分野なんだよね」

「……それで、なんていって頼んだの?」

 奈緒子は顔を赤らめた。

「彼氏が、友達のことで知りたいことがあるっって言ったの。そしたら、細川くんのことよりも、衛くんのことをくわしく知りたがってさぁ、おかしいよね」

 クスクスと笑う奈緒子に、衛は愕然とした。

(ジーザス! それは、俺のことを調べ上げて、どうにかするつもりじゃないのか! 娘に近寄る虫扱いされるのはごめんだぞ)

 元刑事という言葉に、拳銃という言葉が連想される。下手な事をしたら、タダじゃすまなそうだ。そんな衛の落ち込みようを無視して、奈緒子は話を続けた。

「そういえば、これを渡された時、衛くんに伝言があるって。これも一緒に渡されたの」

 こちらは、定型封筒だ。

 緊張しながら、それを開ける。

 中には、一枚の紙と、何かが入っている。紙を取り出した後、封筒を逆さにした。すると、中から胃薬とお守りが落ちてきた。

 紙に書かれた文章を見る。

 

『妻の料理を食べるときに、肌身離さず身につけていたお守りだ。君の番が来たようなので進呈する。気持ちさえ強く持てば、死ぬことはない。なお、同封の胃薬は私のオススメだ。これからは、毎日買っておいた方が良い』

 

(ナオちゃんのお父さん、貴方もか)

 鬼だと思ったら、天使だった。それくらいのギャップだ。今、ここに衛の同士がいる。それだけで、奈緒子の弁当という戦場を戦い抜く勇気が出てきた。

「なに、そのお守り?」

「あ、ああ。……ナオちゃんのお父さんがいつも持っていたお守りだって。俺にくれる双だよ」

「えっ、じゃあ、お父さん、衛くんのことを認めてくれたんだ。――よかった。お父さんって、厳しい人だから、てっきり別れろ、みたいなことを言うのかと思った。お父さん、危ない仕事もするから、そのお守りは、たぶん大切な者だと思う。だから、衛くんも大切にしてね」

「もちろんだよ」

 そのお守りに込められた意味は、奈緒子が思っているものとは、全然違うのだが、そのまま誤解させておく方が良い。しかし、奈緒子の料理の腕は、母親譲りだったとは。予想できたこととはいえ、こうして、奈緒子の父親という先人より貴重な品を譲ってもらったことで、その恐ろしさが高まっていく。

 藤田家の負の連鎖は、絶対に奈緒子で断ち切らねばならない。

 さて、奈緒子のことは、ひとまず置いておいて、本題へと取りかかる。

「じゃあ、そっちの封筒も見せて」

「あ、これはあたしが読むよ。お父さんの仕事を見てるから、調査書のことは、ある程度知ってるし」

 そういわれて頼まないわけにはいかない。奈緒子に任せるとしよう。

「えっと、細川くんのお父さんは、確かに、三月の中頃に事故を起こしてるね」

「相手は?」

「相手は、子供連れの主婦。それで、子供をかばってお母さんがぶつかって、腰と足の骨を折る重傷。全治三ヶ月だって」

「結構なケガだな。となると、訴えるというのは嘘じゃないってことか」

「ううん。示談が成立してる。治療費、慰謝料を含めて五百万を支払うことだって。これに関しては、細川くんのお父さんがつとめてるタクシー会社が、間に市会議員をいれて何とかおさめたみたい。……でも、主婦相手の示談になんで議員が? ああ、相手の親が大沢建設の社長なのか」

「お偉いさんの娘さんをケガさせたから、間に議員をいれたってこと? なんだが、結構な大事にみたいだ。でも、とりあえず、裁判沙汰はさけられたと?」

「これを読む限りは、そうみたい。でも、示談金を支払ったのは、細川くんのお父さんじゃない。タクシー会社の社長だって」

「……それって、この場合よくあることなの?」

「うーん、相手がいくらお金持ちの娘でも、主婦に五百万円の示談金はちょっと高いわね。会社が肩代わりをしてくれるっていうのも、社員が事件を起こしたときに、管理責任ということでありえる話だけど、タクシー運転手の給料じゃあ、それを返すのに、どれだけかかるかしら。最近の規制緩和や不況のおかげで、食べていくのがやっとという人がほとんどなのよね。実情を踏まえたら、もっと現実的な金額に落ち着くと思うのよね。もちろん、細川くんが働いて、会社への借金返済に協力しているならば、多少は返済が楽になるのだろうけど。議員が間にはいったから、こんな額で示談が成立したのかしら? ――もうひとつ気になるのが怪我ををした箇所なのよね」

「どういうこと?」

「骨折をしたのは、腰と足。たしかに交通事故では珍しくは無い。けど、思い出して、この主婦は、子供をかばっているのよ。子供を守るために、立ったままでいる? 絶対にしゃがんで、こう抱きかかえる形になるはずよ」

 といって、実際に子供を抱きかかえるポーズを取る奈緒子。

「たしかに、その状態なら、腕とか上半身も大怪我をするね。ってことはだ。もしかして、怪我をした事、いや事故があったことに疑問が出てくるってことだね」

「その可能性が否定できないってだけ。これは推理。それを裏付ける証拠は、決定的にかけているわ。まあ、少なくとも、あたしは疑いをもっている」

「それじゃあ、詳しく調べてみますか」

「あてはあるの?」

「いや、ないよ。でも、刑事ドラマでも足で調べてるのは、セオリーでしょ」

 衛は、自分が探偵小説の主人公になった気がした。もっとも、奈緒子がホームズで、衛がワトソンのような役割かもしれない。それを否定できないのは、少し情けない気が下が、今は、それを嘆いている暇はない。

 ずいぶんと肩のこる話をしていたので、体が固くなっているようだ。思いきり、伸びをして体をほぐした。途端に、腹がぐるぐるとなってきた。

(これは、マジでやばいかもしれない)

 間違いなく、さきほど食べたものが、徐々にボディブローを仕掛けて来たに違いない。ノックアウトされる前に、トイレに行かなければ。

「あれ、おなか減ってるの? まだ足りないなら、あたしの作ってきたクッキーあるけど食べる?」

 それは死刑宣告にも等しい。

(違う、そうじゃないんだ! 食べるんじゃなくて、出したいんだ!)

 いささか下品ではあるが、それが衛の偽らざる本音である。だが、それをおくびにも出さず、再び笑顔をつくり、「いや、平気だよ」と断る。

 額に、脂汗が滲んでいるのが、鏡を見なくてもわかった。

「ごめん、ちょっとお茶を飲みすぎたみたいだ。トイレ行ってくるよ」

「そう」

 奈緒子は、返事をすると、たったいま、衛に勧めたクッキーをかじった。もう猶予はならない。小走りで、しかも急いでいるようには見せずにトイレへと向かう。

 この二週間の中で、「最高」の出来の弁当だった。これが日に一度の弁当ならばいいのだが、これからずっと、そう一生つづくとなったら。

 トイレで苦しみながら、さらに寒気がしてきた。つくづく、奈緒子の父親の偉大さがわかる。そして、自分は、その状況からは、抜け出したいという一欠けらの夢を抱いた。

(料理は、俺がつくったほうがいいかもしれない)

 そうなれば、衛の命は保証されるだろう。

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 事故の真相について、調べるとしたらポイントはみっつ。

 ひとつは被害者。すなわち事故にあったと言う主婦だ。だが、その裏には実家の大沢建設があると思われる。ふたつめは加害者、つまりは義和の父親。こちらも裏にはタクシー会社がいる。そして、みっつめが仲介者である市議会議員だ。わざわざ、交通事故にまで出張ってくることに真意はあるのか?

 そのために、それぞれの経歴を調べる事にした。

 被害者は大沢晴美(ルビ:おおさわはるみ)。二十六歳。四年前に父親の会社につとめる氷川幸助(ルビ:ひかわこうすけ)と結婚。この夫は、大沢家の婿養子ということで、将来、大沢建設を継ぐのではないかと言われている。

 三年前には長男の幸晴(ルビ:ゆきはる)が誕生。事故は、この幸晴をかばったと言う事になっている。

 加害者の細川次郎(ルビ:ほそかわじろう)。五十三歳。朱雀タクシーに勤務するタクシー運転手。勤続二十五年のベテランドライバーだ。三十五歳のときに出会った妻、浩子(ルビ:ひろこ)と結婚。その後、義和をもうける。しかし、十年程前から同じ朱雀タクシーの配車係をしている緑川(ルビ:みどりかわ)ゆかりと愛人関係にある。以来、家には生活費を入れるが、帰らない生活が続いている。

 仲介者の森田裕一(ルビ:もりたゆういち)。六十二歳。国民烈党(ルビ:こくみんれっとう)所属の七曜市市議会議員。七曜市議会の重鎮で、副議長を務めている。清濁あわせもつ人物だが、霞ヶ関との太いパイプがあるので、いくつもの大型事業を七曜市にもってきた実績を持っている。十年前の七曜駅前再開発計画では先頭に立って、大型ショッピングセンター、アミューズメント施設の誘致を働きかけた。そのために、市民の間でも、信頼されている。

 被害者と加害者、仲介者個人では、まったく接点が見られなかった。しかし、大沢建設、朱雀タクシー、森田裕一を見てみると、そこにはひとつの共通点が見えてきた。

 十年前の七曜駅前再開発計画である。計画自体は、もう四十年前に構想されたものである。それが実行されるまでに三十年も掛かるというのは、政治システムの悪しき弊害が顕著に現れたといえるが、ともあれ、その結果は成功といえる。

 それまで、寂れていた七曜駅は活気付き、新たな住民も増えた事で、市全体が大きく潤った。

 七曜市に基盤を持つ大沢建設は、再開発計画の工事を受注する事が出来たし、森田も政治的、経済的影響力を拡大させた。朱雀タクシーは、その経営者である宮田秀(ルビ:みやたしゅう)が、駅前周辺の土地をもっていた地主だったということで、大金を手に入れた。

 調べていくうちに、衛がひとつ気になったのは、宮田の行動であった。駅前周辺の土地は、工事着工が決定する直前まで別の人物が所有していた。それがいざ告知された途端、宮田の名義に変わったのである。

 

 美術部の活動がおわった美術室で、衛と奈緒子は向かい合って座っていた。

奈緒子は、眉をひそめながら言った。

「これって、怪しんでくださいってアピールしてるようなものよね。宮田の裏には、絶対に再開発計画にかかわる人間がいるわね。――たとえば、森田裕一みたいな」

「それは、間違いないだろうね。けど、これまで怪しむような人はいなかったというのは、不思議だよね」

 衛は、調べ上げた書類をポンと机に放り出した。衛は、情報公開制度を利用して、役所などにある文書を閲覧したり、前述した宮田の前に土地を所有していた人物を訪ねたりして、ひとつひとつ、パズルのピースをはめていった。

「ま、それが大人の世界なんでしょ。なにかのためには、なにかに目を瞑る。この場合、宮田を告発して、再開発計画に水をさせば、何百億円ものお金が無駄になりかねないもの。――衛くん。勘違いしないほうがいいんだけど、これはあくまでも再開発に関わる闇であって、これを世間に言ったところで、細川くんは救われないわよ」

 衛は頷いた。

 これは、終わった事なのだ。たとえ、犯罪の臭いがしても、衛たちは、正義のヒーローではない。戦い抜く信念と力が無いならば、下手に手を出すべきではない。あくまでも、義和の父が起こした交通事故について調べる事が目的なのだ。

「ともかく、金が絡んでいるようだ。俺が思うに、今回も慰謝料という名目で、金を動かすのが目的だったんじゃないのか?」

「それが無難な線かな。それから、それを裏付ける、もうひとつの証拠が見つかったんだ」

「もうひとつの証拠? 初耳だけど」

「だって、今はじめて言ったんだもの」

 奈緒子は意地悪く言った。

「大沢くん、入ってきて」

 ガラリとドアが開いて、先ほど帰ったはずの大沢が入ってきた。

「何で彼が?」

「ありふれた名前だと思ってたら、彼は大沢建設の関係者だったのよね。灯台下暗しだわ。ホントに」

 大沢は、なにか気恥ずかしそうにもじもじと身をくねらせていた。

「あの、大沢のおじさんは、父さんの従兄弟なんです。それで晴美さんも、昔からよく知っていて……。晴美さん、一昨日、僕の家に来て食事をしていきました。しかも、その前にはテニスで汗を流してきた、といっていました。僕、親戚なのに事故のことを知らされていませんでしたし、そのときの様子から、絶対に晴美さんは怪我なんかしていません」

「これでわかったでしょ? 事故なんてなかったのよ。つまりは、どうどうと金銭の受渡をするための偽装だったのよ。あたしとしては、これで細川くんを助けるための方法が見えてきたと思うわ」

 衛は、大沢を見た。

「いま、君が言った事は、君のおじさんたちには、不利になるってわかってるかい?」

「わかっています。でも、先輩たちは、友達のために調べているんですよね。遊びじゃないとわかったから、僕は言いました。それに、先輩たちは、このことを公にする事はないと信じています。こういったら汚いかもしれないけど、おじさんたちのやってることが正しい事じゃなくても、それで騒ぎにならないなら、そのままにして欲しいと思ってます」

「……努力するよ」

 その答えに、大沢がひとまず安心したようだ。衛としては、確約することはできないが、義和を救うことが出来るならば、大沢の気持ちを汲んでやりたい。

 奈緒子は、ありがとう、というと、大沢を帰らせた。

 沈黙。

 なにか、ドッと疲れが襲ってきた。そして、こういうときに、奈緒子が側に居てくれる事に、安心感もあった。誰かといる、ということだけでなくて、それが自分の彼女、ということが大きく作用しているのだろう。

 たぶん、ひとりだけなら、潰されてしまう。

 突然、視界が暗闇の覆われた。目のあたりが、ぬくい。

「誰かな?」

「バカ、あたししかいないのに……」

 奈緒子の手を、そっと外した。そして振り返る。

「僕の天使のしわざか。なら、おしおきをしなきゃな」

 衛は、少しばかり芝居じみたセリフだと自覚しながら、奈緒子を引き寄せた。そのまま、ふたりの唇を重ねる。

 

 一秒

 

 二秒

 

 三秒

 

 四秒

 

 五秒

 

 心の中で、時間を数える。そして、六十秒、すなわち、一分を数えたとき、奈緒子を放した。なぜだろうか。初めてのキスだけど、恥ずかしいとかいう気持ちはなかった。かわりに、今まであった疲れは消えて、ともて満ち足りた気分になっている。今、この瞬間に感じる幸せを、忘れたくはない。

 対して、奈緒子は――しゃがみこんで泣いていた。

 それを見た途端、一気に幸せな気分が吹き飛んでしまった。思っていた反応と違う!

(俺は……、俺は、失敗したのか?)

 てっきり、いつもの様子から、奈緒子も喜んでくれるものだと思っていた。今まで、ふたりの関係は、プラトニックなものだった。でも、そろそろ、仲を深めても、決して不自然ではない。年頃なのだから。

「……ナオちゃん?」

「……てたのに」

 奈緒子が何か呟いたが、よく聞き取れなかった。

「えっ、なんていったの?」

「初めてのキスは、あたしの誕生日にって決めてたのに!」

「ええええっ!」

 あまりの衝撃に、ガラガラと場を支配していた緊迫感が崩れ去った。

 今は六月の二十五日、そして、奈緒子の誕生日は明後日。六月二十七日だ。たった二日の違いとはいえ、それは、奈緒子にとって、天と地との差に感じたのだ。

 というものの、それは「いつキスをするか」で怒ってるのであり、「衛とキスをしたこと」で怒ってるのではないことに、安堵した。

(それなら、それで言ってくれよ)

 衛のように恋愛の機微に関して鈍感な男に、察しろというテクニックは難しすぎる。呆然としている衛に、奈緒子は、涙を拭くと、立ち上がって衛の頬をはたいた。。

「衛くんのバカッ」

 言うやいやな、奈緒子は荷物を持って、美術室から出ていってしまった。

 衛は、赤く手形のついた頬をおさえながら、追いかけようとしたが、足がもつれて転んでしまった。地面にはいつくばった状態で、ただ奈緒子が走り去る足音だけが聞こえる。

 その様子を、命なき石膏の胸像が、棚の上から見下ろしていた。

衛が女心を理解するまでには、まだまだ時間が掛かりそうだった。

 胸のポケットから奈緒子の父からもらったらお守りを取りだす。

(効果がないですよ。お父さん)

 もちろん、食あたりのお守りだと言うのだから、こんな事に効果があるわけが無い。

 

翌朝、奈緒子は、衛と口をきかず、ムスッと黙り込んでいた。クラスメイトの中には、「夫婦喧嘩か?」などと茶化すものもいたが、喧嘩であったならまだどれだけましか。

唯一の救いは、弁当もなかった事だ。

学食で、久しぶりにまともな食事ありつけたことに、心が落ち着いた。誤解の内容に説明すると、奈緒子に弁当は無いのか、ということは訊ねたのだ。しかし、その問いを無視して、ひとり、屋上へといってしまった。教室には肩を落とす衛だけが残された。

食堂で、優の姿も見かけた。そういえば、このところ、奈緒子に掛かりきりで、優の事をすっかり忘れていた。

あのときの、白紙の手紙は、いったいどういう意味があったのだろうか。そして、優の涙は? 衛の解決すべき課題が、山積している。

放課後になっても、状況は変わらない。部活にいったかとおもい、美術室に顔を出したが、その姿はなかった。

片桐が、呆れたように言った。

「どうせ、セクハラしたんでしょ」

 図星だ。やけに鋭い。だが、スケッチ旅行で片桐にやってしまった事は、セクハラかもしれないが、奈緒子にしたのは、恋人とのスキンシップみたいなものだ。その両者には、越えられない壁がある、と衛は思う。

正直、衛としては、勘弁してくれと言いたくなる。たしかに、タイミングを間違えたかもしれないが、そこまで怒ることはないだろう。

それとも、これが男女の違いなのだろうか。

「……今日は、俺ひとりでやるか」

 結局は、義和が背負っているものは、嘘なのだ。それを知らせてやらねば。いや、その前に義和の父親が、狂言の事故であるのにもかかわらず、義和に金が必要だといった事だ。理屈に合わないことであるが、義和の父親が、だらしない性格だということを踏まえれば、そこに答えがあるのだろう。

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 義和の父親が、いまどこにいるのか。それを調べなくてはいけない。

 調べるとすれば、朱雀タクシーだろう。

 家に戻ると、ネットに接続しているパソコンで電話番号を調べて、かけてみた。高い女性の声で応答があった。

『はい、朱雀タクシーです』

「すみません。細川次郎さんはいますか?」

『細川は、今休みを取っています。お客様、細川をご指名ですか?』

「あ、そうです。ちょっとタクシーに載る用事があるので、以前乗せてもらった細川さんに頼もうと思ったのですが……」

『では、代わりのものを手配いたしますが』

「いえ、それには及びません。あの、細川さんはご病気ですか?」

『いいえ、私用で休んでいるんです。――これ以上は、社員のプライバシー保護のためにお答えする事は出来ません』

「そうですか。――あの、もしかして、緑川さんですか? 細川さんに配車で緑川さんという綺麗な女性がいると聞いていたのですが」

 義和の父親の愛人が、配車係をしている事は覚えていた。そして、十中八九、今話している女性がその愛人なのだろうと確信して訊ねる。

『……はい、私は緑川です。あの、本当に、細川がそのようなことを、お客様に話したのでしょうか?』

 予想通りだ。

「ええ、綺麗な声なので、きっと細川さんが話しておられた方だと思いました。すみません、いきなりこんな話をして」

『お客様、あまり細川のいうことを本気にしないで下さい。あの人は、いい加減な人ですから』

「そんな、話をしてみて、顔を見なくても細川さんのいうことは本当だってわかります。ああ、これ以上お邪魔をしては迷惑でしょうから、これで失礼します。あと、細川さんには、この電話の事は言わないで下さい。緑川さんに言い寄ったなんて思われたら、私は細川さんに申し訳ないですから」

『クスクスッ、大丈夫ですよ。でも、わかりました。あの人には内緒にしておきます』

「では」といって話を切り上げる。

 義一の父親は、仕事をしていないようだ。だが、緑川という女性は、思ったよりもまともな人のようだ。愛人をしているというのだから、もっと愛想のないものだと思っていた。

 だが、衛の話ですっかり警戒を解き、最後には義和の父親を「あの人」と呼んでいた。まるで、自分が本当の妻であるかのように。

「さて、どうしようか」

 肝心の義和の父親がどこにいるか、については、さっぱり空振りであった。緑川に食い下がっても、情報を得る事は出来なかっただろう。

 いっそのこと、義和に、父親がどこに住んでいるのかを聞き出すか。いや、それをしてしまうと、なぜ居場所を知りたいのかを訊かれるだろう。それで、今、衛が掴んでいる情報を話してしまえば、義和がかわいそうだ。

 焦りを感じてつめを噛んだ。

(こういうときに、ナオちゃんならどうするだろう?)

 すっかりワトソンが板についたために、自分ひとりで考えるのは不安だった。時計を見る。午後七時。もう、夕飯の時間だ。

 喉が渇いた。お茶か何かで、喉を潤そう。

 階段を下りて、台所へ行くと、リビングで衛の母親と一緒に、優と優の母親が座っているのが見えた。

「あら、まーくん。お邪魔してるわね」

 衛は「いらっしゃい」といいながら、冷蔵庫の中からお茶を入れたボトルを取ってグラスに注いだ。それをもって、リビングに移動する。

「おばさん、今日はどうしたんですか?」

 優の母親は、満面の笑みを浮かべつつ、脇に置いたトートバックからDVDのパッケージを取り出した。衛は、それを見た瞬間、呆れてため息を漏らす。

 パッケージには、母親連中がはまっている荒木卓郎の顔がこれでもかというくらいどデカくあった。つまりは、今夜の佐川家のリビングは、タッくんで染め上げられるわけだ。

 優も巻き添えをくったということか。ならば、衛だけでも助かるために、退避をしなければ。

「あら、まーくんも、一緒に見ないの?」

「ちょっと、俺は宿題があるから。おばさんたちはごゆっくり」

「衛、ご飯は?」

「後でいい」ここに一分一秒でも長くいるだけで、タッくんをいやというほど見させられる可能性が増えていく。腹は減っているが、背に腹は変えられない。

「衛、勉強なら私が教えてあげる」

「優姉さんが?」

 優は、すっと衛の耳元に口を近づけると、ドスのきいた声で、「いくわよ」と囁いた。

(優姉さんも逃げたいんだ! 逆らえば、優姉さんに殺される!)

 本能で、身の危険を感じる。硬直した衛を引きずりつつ、優は衛の部屋に転がり込んだ。ずんずんと、突き進むと、机の上に置いていた書類に気がつく。

「なに? 森田裕一? いつから政治に興味がわいたの?」

 といいつつ、パラパラとめくっていく。

 止める間もなかったし、止める術もなかった。

「……衛、そこに正座しなさい」

「ええっ! なんで!」

 優の目が野獣のごとく光った。

 あわれ子羊は、すごすごと正座をして、裁定を待つ。

「何をしようとしているの?」

「えっと、地域の歴史にちょっと興味があって……、なんてことじゃあ、ダメ?」

「ダメ」にべも無く却下する。

「別に、そう、対してことじゃないんだ。――義和が学校に来ないから、その原因を調べていて、それで出てきたのが、その紙に書いてある事で」

「危ない事をしてるんじゃないでしょうね」

「してない。まだね。いやいや、これからも、そんな危険なことをすることはないんだけど。まあ、場合によっては、ね」

「ひとりでやってるの?」

「いや、ナオちゃん。えっと、彼女と一緒に。でも、いまはちょっとトラブルで、俺ひとりだけでやってる」

「衛のバカッ。女の子を危険なことに巻き込んでなに考えてるの。そのまたの間にあるのは、飾り?」

 ひどい言われようだが、この件に関しては、どちらかというと奈緒子のほうが主導権を握っているのだが。奈緒子のことを良く知らない優がそう思えるのは、仕方が無い事だ。

「それで、どうするの?」

「――まだ、わからない」

「本当にバカね」

「バカ、バカッて、俺だって一生懸命やってるんだよ。優姉さんは、何も知らないで、何もしてこなくて、五月蝿い!」

 思わず大声が出てしまった。

 同時に、これは、奈緒子のこともあって、八つ当たりをしているのだ、と衛は自己嫌悪に陥った。優の目に、涙が滲んでくる。

「あっ、ああと、ごめん言い過ぎた」

「衛になにかあったら、この子がどれだけ悲しむかわからないの?」

「この子?」

 優は一体誰のことを言っているのか。

「衛には、見えないのよね。――私と同じ顔をした妹のあかり。本当なら、私と一緒にこの世に生まれるはずだったこの子」

「……そんな話、聞いたことないよ」

「当たり前よ、私だけが生きて母さんのお腹を出られたんだもの。母さんは、それを誰にも話していない。家族の中だけの秘密みたいなもの。たぶん、衛のおばさんも知らない」

 優の目が、優と衛の中間を見る。言うまでもなく、そこには『誰も』いない。

「……優姉さん、そこに、もしかして、何かいるの?」

「『何か』じゃないわ。『誰か』よ」

 優の手が、そっと何もないところに伸びる。

「今、私の手を握ってるわ。衛、見てあげて、この子、小さい頃から衛のことをずっと見てきて、衛の事が好きだっていってるわ」

 何も書かれていない手紙。

 優の涙。

「あの手紙、それって……」

 幽霊なんて、バカな、といいたかったが、優の目は真剣だった。

「そう、この子が衛に思いを伝えるために、私が協力したの。――結局、この子は勇気がなくて、なにも書かなかったけど。もし、あのとき、衛がこの子を受け入れていたら、私は、この子に、この身体をあげてたはず」

「優姉さんの身体? そんなことをしたら、優姉さんが死んじゃうんじゃないの?」

「いいわよ。別に将来なにをしたいとか、夢は無いし。私は、何かを失ってしまうくらいならば、何も手に入れない。そういったでしょ。私には、なにも失うものはない。それに衛とこの子が幸せに慣れるなら、喜んで犠牲になれる」

 冷たい目で、衛を見つめる。

 衛は、優の肩を掴んで、揺さぶった。

「俺のことをバカだっていうけど、優姉さんのほうがよっぽどバカだ! 失うものはない? 優姉さんが生きてきた十八年間は、何の意味も無かったのかよ! 違う。そんなはずはないんだ! 第一、そんなことをして、俺が喜ぶと思うのか? 見えないけどそのあかりさんだって、おばさんやおじさんだって喜ばない。誰も喜ばないような事をして、いいことをしたと思うなんて、ホントにバカだよ」

「……衛に言われるくらいなら、本当にそうかもね」

「優姉さん、今日は帰ったほうがいい。疲れてるんだよ。寝れば、落ち着くはずだ」

 そういって、優の手を握った。

 その瞬間、衛を優の間に、まさしく優と同じ顔をした女の子がいるのが見えた。よくテレビとかで特殊効果の幽霊があるが、衛の目の前にいる女の子も、その映像みたいに、輪郭ははっきりしているが、ガラスのように透き通って見えている。

「おわああ」

 悲鳴をあげて、手を放すと、その少女は霞のように消え去った。震える手で、もう一度、優の手を握る。ふたたび女の子が現れる。夢ではない。そして、優の言葉が、妄想ではない、とはっきり証明されたのだ。

「優姉さん、ここに女の子がいるのが見える」

 優の目が真ん丸に見開かれえる。

「本当?」

「嘘なんていってどうするの。優姉さんとそっくりで、白色のワンピースを着た女の子がニコニコしながら、俺のことを見てる」

 女の子は、衛に向かって何かを言おうとしている。オカルトは苦手だが、優と同じ姿のために、恐ろしさは全く感じない。けれども、姿は見えるが、声は聞こえない。なんとか、読み取ろうと、動く口の形に集中する。

(ア・リ・ガ・ト・ウ? 何かの礼を言っているのか?)

 優の顔を見る。

「今、衛が言った事は、この子もそう思うんだって。……わからないよ。だって、私よりも、この子のほうが、何倍も優しくて素敵なんだよ。優って名前も、私よりもこの子にぴったりなのに」

 ぼろぼろと涙をこぼす優の頭を、女の子はそっと撫でた。その手は、苦しむ姉を、慈愛の心で癒さんとする聖女のようであった。衛は、優の中で、こんな苦しみがあったことに、気がつかなかったことを悔いた。

 人には、みな見えない部分がある。

 友達だから、大切な人だから、すべて明かすと言うのは、間違っている。ひとの力を借りなければならない事もあるが、ひとりで立ち向かっていかなければならない事だってあるのだから。

 今、優は自分というものを見失っている。

 それでも、衛や魂だけの存在となったあかりが、優という存在を受け入れている事をきちんと理解すれば、きっと苦しみは消えるだろう。そのとき、優は大人になる。

 そっと、手を放した。

 まだ、涙が止まらぬ優。しかし、涙を流しきれば、前絵進む事ができるだろう。そして、衛の言葉を、あらためて考えてもらえればいい。

 もしも、一度で足りないならば、なんどでも言ってやる。

 それが、衛にできるせめてもの事なのだ。

 ふいに、キラリと光るものが外に見えた。窓に近づき、あたりを見回す。誰も通らない静かな道路。家々には団欒の明かりが点いている。

 そのうちのひとつが、衛の目に届いたのだろうか?

 それにしては、やけにまぶしかったような気がするが。

 首をかしげながら、バラバラになった書類をまとめて、机の上に置いた。さて、優の謎は、解決しそうだが、こちらは、まだ時間が掛かりそうだ。早くしなければ、義和がつぶれてしまう。

 地上の電飾で、星々の光が隠された空に、ひとすじの流れ星が煌いた。あっという間の事で、願い事など出来なかった。

 

 翌日、奈緒子の誕生日だった。

(機嫌を直してくれるといいんだけど)

 高校生の身分では、そう、たいしたプレゼントは出来ない。けど、貯金を崩して買ったものがある。これもあるから、気軽にキスをしたのかもしれない。結果として、奈緒子が思い描いていたことを裏切ることになってしまったが。

 教室に入ったときに、奈緒子がいることを確認する。

 一歩、また一歩と近づき、自分の席についた、そして、横を向く。

「ナオちゃん、おはよう」

「おはよう、衛くん」

 昨日の事など、まるで嘘だったように、奈緒子は笑顔で挨拶をした。

 衛は拍子抜けしつつ、安堵する。これで、幸せな誕生日を祝う事が出来る。

「昨日は、学校から帰った後、なにしてたの?」

「お父さんの手伝い。ほら、お父さんに調査してもらったでしょ。料金は払わなくても居よかったんだけど、その代わりに事務所の雑用とかでこき使われたのよ。お陰で、筋肉がついちゃった」

 と、言って力こぶを作る真似をした。

「そう、ごめんね。それって俺がナオちゃんを手伝わせたからだね」

 奈緒子は、あわてて手を振る。

「そんなことないって、お父さんったら、あたしに彼氏が出来たって寂しがってるのよ。昔から、お父さん子だったし、娘を持つ男親ってことで、よけいにね」

「……やっぱり、俺のせいじゃない?」

「そうともいう」

 ふたりは、顔を見合わせて声をあげて笑った。

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